窓から環境をつくる

窓は建築の中につくるフレームで、建築は環境の中につくるフレームだと考えると、窓も環境の中につくるフレームだとすることもできる。窓が無い建築は基本的に人がいる場所とは考えられないので、建築には窓が必要である。

環境によって窓の位置や仕様、性格が決まるといってもいい。では逆に、窓から建築、さらには環境が決まることはあるだろうか。何となく、窓が先にあり、それに合わせて建築をつくることは想像できそうである。窓のフレームが建築のフレームをつくる。

では環境はどうだろうか。窓のフレームが環境に何か影響を及ぼすだろうか。それは窓のフレームが何を意味するのかにも関係するかもしれない。もし窓のフレームがアクティビティを意味するのだとしたら、そのアクティビティが及ぼす影響から環境をつくることもできそうな気がする。

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窓の配置

方位によって建築の配置は変わる。住宅では、日差しをたくさん得るために、建築を南に向け、大きな窓を設けようとする。シンプルにこの一点のみで、住宅は計画されていると言っても過言では無い。

とくに、窓に関しては方位と密接に関係している。窓の役割としては他に眺望や通風もあるが、それも方位による。

ちょっと窓に注目してみて、他に窓の配置を決定づける要因はないかと考えてみる。外観や内観上のデザインから導き出すこともある。あと他には何かないだろうか。

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3つの必然

偶然性を否定する必然性には3つあるらしい。普遍的な判断の中ではその範疇に入るものは全て必然であり、ある仮説を立てた場合にその仮説にあてはまるものだけが必然であり、複数に分けることができた場合その内のどれかを必然にすることができる。

建築は偶然性の産物というよりは全てが必然だから、これら3つの必然を建築に例えるとおもしろい。普遍的な判断や仮説はよく建築でもある手法である。ただ、分ける場合はなかなか無いかもしれない。

分ける側にいて全体を俯瞰できる場合、余分なものをそぎ落とし、必然的につなげてしまうことができる。全体性を持ちえるときの可能性は、このつながりを築けることにある。

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内向き

こころを揺さぶるものは常に自分へ迫ってくる。外へ向かっていくものを捕まえにいくような場合はこころには届かない。

建築は外へ向かおうとする意志が強いときがある。それは、都市へいかに開いていくかが重要で、建築の内側に向くことは自閉すぎて良くないという傾向の表れである。

あと、外向きということであれば、建築のエンジニアの部分に焦点があたっている場合も同様である。建築の物としてのパフォーマンスの良し悪しは重要だが、そこへの偏重がこころに響くことはない。

やはり建築も内向きに、何かが迫ってくるような感覚が必要で、それは常に建築が人との間に何かを築くものであることの表れだとおもう。

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こころに響くもの

人のこころに響くには、などと考えていると、自分がどういうときにこころが揺さぶられるか、などと考えてしまう。直接言葉を使わず、情景をイメージできて、その情景は今見ているものがきっかけで広がる世界で、ありそうで今までなかったものや、きっとこうだったらなどと思っていたものが目の前に現れたときに起こる。

だから、もしかしら、人のこころに響くには、新しさよりも、どこかで過去とのつながりがあるもので、何かこころを埋めてくれるものであったりするのでは、と思ってしまった。

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即興としつこさ

ほんの小さな違いを生む種のようなものを探して埋めていくような作業の繰り返しが初期の計画案づくりかもしれない。

その種は人のこころに響くものを基準に探す。たぶん1回では探しつくせないし、繰り返すことでしか探せないものもある。だから、そもそも1回では終わらない。

そう考えると、計画案づくりは型にはめるのではなくて、その場での即興と、粘着的なしつこさが必要だろう。

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積み重ねながら

小片を積み重なるがごとく集めて、ひとつのものをつくりあげるように考えるのが面白い、と最近思う。はじめに何をつくるかを決めて、そこに向かって集めていくやり方もあり、たぶん世の中の大多数のプロジェクトはそのやり方だろう。ただ、はじめに決めてしまうことで、すでにさまざまな可能性を潰すことになりはしないか、と思う。

とりあえず、少しずつ集めていきながら、それらを積み重ねながら、何にするかを考えても許されると思うし、その方がその都度可能性の見極めができる。やはり、可能性に焦点をあてながら積み重ねた方が面白い。

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琴線に触れるもの

琴線に触れないものをつくっていても意味がないとおもう。なんでもそうだが、惹かれるものがある。ときにそれは素晴らしいとおもっているだけかもしれない。おもっているだけとは、そのようにおもわされているだけなのかもしれない。まるで記号に反応するように、まわりの声や評判、評価、教えなどに左右される。

ただ、琴線に触れるものはそこからは生まれないような気がする。結局、琴線に触れるものは本当に求めていたものなんだなとおもう。琴線に触れなければこころは動かない。

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感動のきっかけ

気分が変わるときは、なんらかのきっかけが必ずある。気分だけがひとり歩きすることがあるかもしれないが、それでも必ず気分が切り替わるときはきて、そのときには何かのきっかけがある。

きっかけは何でもいいが、建築がそのきっかけになることは、つくる側としては嬉しいことである。願わくば、いい方に変わってほしい。そのためにつくりたいと思う。

気分の変化がいい方に極端だと、感動や崇高を抱くのだろう。できれば感動や崇高まで気分が変わるきっかけを建築が担えれば最高である。

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すべてはフレームワーク

あるフレームの中でかんがえればいいのは楽だ。だいたい、習慣というのはフレームワークで、いったん、フレームができてしまえば、中身を入れ替えるだけで何でも習慣にできる。建築も同じで、フレームさえできてしまえば、中身を入れ替えるだけで何でも建築にできる。だから、建築も習慣だとかんがえてもいい。

ならば、フレームをつくるところで汗をかけばいいのか。いや、フレームをつくるときにも、もっと大きな前提的なフレームが作用している。結局はすべてフレームワークなのだ。だから、フレームの外へにも行こうとおもえば行ける。

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過去と現在のズレ

過去の時の流れに現在の時の流れを重ね合わせてみると、当然、ズレがあらわれるはずである。そのズレだけを表現すれば、全てを見せるまでもなく、過去と現在の時の重ね合わせがわかり、時間をデザインに取り入れることができる。

建築でいえば一番わかりやすい場合は、リノベーションの場だろう。過去からの時の流れに現在これから必要とされる時の流れを重ね合わせる作業がリノベーションとも言える。だから、過去の部分と現在の部分をどのように見せるか、またはどこを見せないか、がまず第一に重要になる。

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過去と現在の同居

時間は重なり合うことができるのか、とかんがえてしまう。過去と現在とは時間でつながっているけれど、建築では分断されることが多い。リノベーションなどにより、全てが解体されない場合も増えたけれども、またまだスクラップアンドビルドが多い。

過去の時間を記憶に変換し、新しい建築にいかすことはよくみられる。端的にいえば、記憶をモノにうつし、そのモノをデザインのパーツにしてしまう。それは視覚的にわかりやすく、時間を途切れさすことなくつなげようとする意図もよくわかり、過去と現在が重なり合い同居できる。

ただ、時間という目に見えないモノを見えるようにすることで、様々な解釈ができる多様性をもひとつだけに具体化してしまっているようにもおもえる。もう少し解釈の余地を残した時間の重なり合いを目指したい。

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視覚以外の重なり合い

重なり合うことは見た目だけでない。見た目で重なり合えば、オーバーラップしていることは一目瞭然である。他の部分とのちがいも明確である。視覚情報は優位だが、他の感覚によって重なり合いがわかることもある。

重なり合いは、常に自分たちの生活に影響を与えてくる。スマホひとつとっても、そこにたくさんの情報の重なり合いがあり、それは見ればわかる。スマホというデバイスを通した重なり合いだが、デバイスが無くても情報の重なり合いはわかるだろうか。

きっとそれは炙りだされるように、他の部分での他の感覚がデバイスが示す重なり合いの無さを表現してしまう。あるモノの存在の有無は、他のモノが認識されることにより実感されることもある。

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人と空間の影響し合い

空間という言葉は20世紀の産物であり、それまで空間という概念自体が無かった。今ではかんがえられないが、言葉が無い以上、空間を認識していなかったのだろう。

空間は床壁天井でかこわれた領域を指すとしたならば、ハイデガー的には、人がいてはじめて空間は認識される、となるのだろう。どうしても人間主義に傾いてしまうが、人をかんがえずに空間や建築をイメージできない。

人は何世紀にも渡って生活様式や日常の習慣を変えながら生きてきた。建築もいろいろな様式をとりながら変わってきたが、空間が床壁天井でかこわれた領域であることは変わりがない。

人と空間の関係性はそのような表面的な時代性や建築様式には影響されないもっと違ったところで影響し合っているのだろう。それがどういうことなのかをかんがえるのがまた楽しい。

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視覚を意識

感情がたかぶるのは、何か外からの刺激があるときで、内から湧きあがる場合もきっかけは外からの刺激だろう。感情のたかぶりは、ときに求めたくなる。建築はその求めに応じるもののひとつとみることもできる。

建築が感情をたかぶらせる場面は、たとえば、荘厳な空間が目の前に現れたときや、建築自体が美しいときなどで、視覚をとおして感情が揺さぶられる。やはり、建築において視覚は意識せざるを得ない感覚なのだろう。

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可能性を再考

カン違いにより、勝手に外に追いやっていたことに、もしかしたら、そこに可能性があるかもしれないと気づく。

ちょっと、突然すぎたのか、あまりしないことなのか、評価がイマイチだったので、もう一度再考していたが、結局は元の方向性に戻ってきてしまう。

だから、別角度から元の方向性の可能性を探ってみた。不評だった部分を取り除けば、そこに可能性があるかもしれない。いま一度、元の方向性の発展形をかんがえてみる。

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枠をあぶり出す

つながりに目を向けると、枠がみえてくる。つながりは枠で縁とられたもの同士をくっつける。だから、つながりは枠の存在をはっきりとさせる。意識したいのはつながりよりも枠の存在であり、枠がどこに存在し、何を分けているのかをみたい。ただ、枠の中に入ってしまったら、枠の存在はわからない。だから、枠の外からつながりを頼りに枠の存在をあぶり出す。

枠がどこにあり、何を分けているのがわかれば、枠自体を変えることで、みえる世界を変えることができるのではないかとおもう。枠を建築と読み替えることで、建築が担う領域をズラすこともできる。ほんの少しズラすだけで、かなりみえる世界が変わるとおもう。

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つながるおもわせ

つながりをつくる時、つながり自体をつくるのか、それとも、つながるイメージをつくるのか、でその後の展開が違ってくるとおもう。

つながり自体をつくるとしたら、直接的につながるのか、間接的につながるのか、どちらにしてもそれで全てのつながり自体を網羅できる。

つながるイメージは、実際につながりが無くても良いので、つながりをつくる時により自由である。つながりができるだろう、というおもわせでも良い。このおもわせは多分に建築的処理ができそうである。おもわせという仕掛けはストーリーを構築する建築ではよくあることである。

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人をつなぐ緑

緑は人をつなぐ役目をするとかんがえてみた。緑は本来、相対するもの、眺めるもので、鑑賞物である。だがもし、人と何かをつなぐ物、媒介する物だとしたら、今までの緑の配され方とはちがってくるだろう。

緑を鑑賞することが目的ではなくなるのだから、建築でいえば、緑は構成要素のひとつになる。今まで外回りの要素のひとつとして眺めてきた。しかし、建築と何かをつなぐためにある存在、すなわち、建築がそこにある必要性を緑が担保してくれる。この流れから室内に植栽を配するという発想も生まれたのだろう。ただ、ちょっと虫嫌いにはつらい。

緑がつなぐ物はどこかで、人であって欲しい、とおもってしまう。だから、人と緑が並列に存在し、そのスペースを緑が構成する、そのような建築を構想してみたい。

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つながりを表現

つながりを表現できたら、つながりとそれ以外、という分け方ができる。建築でも何でも、ものをデザインすることは、つながりとそれ以外の部分とを明確にすること、と仮定できるのではないかとおもった。

そして、つながり部分をことさら強調、あるいは誇張してみせることで、つながりがもつ作用や意味が表現できる。つながりは関係性だが、それ自体が表現になれば自律する。

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つながりは自律的

つながりが見えづらくなっている状況は不安を抱くかもしれない。どこでどのように何がつながるのかがわかることによって、自分自身の立ち位置もわかるから安心できる。だから、ものづくりには、つながりをわかるようにすることも、必要だとおもう。

つながりは至るところに存在し、むしろ、全てはつながりの結果で存在しているともおもう。それを他律的というのかもしれないが、それはつながりの関係性に焦点を当てるからで、つながり自体に焦点を当てれば、それは自律的なこととして浮かび上がる。

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複数の自律

ひとつの自律したものをつくりたいという欲求は、ものをつくる人ならば誰でも根源的に持っているだろう。それは建築やデザイナーといった作品をつくる人たちだけでなく、民芸品のような日常に必要な道具をつくる人たちも同じだろう。

ただ同時に、単なる自律したものではもの足りない、ともおもってしまう。単に自律したものは、まわりとの断絶をおこし、孤立する。孤立からくる、その場だけ良い、ようなことはしたくない。だが、孤立を起こさないようにつながりを求めると、自律の良さのひとつである強度が失われていくような気がする。

だから、複数の自律したものを考えてみることにした。複数あれば孤立を避けることができ、かつ自律の強度も担保されるかもしれない。さらに、複数あれば、ひとつの自律が持っている象徴性が分散され和らぎ、複数での象徴性は新たな場面を生むかもしれない。

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勘違い

なかなか進まないときは、何かを勘違いしているのかもしれない、とおもうようにしている。勘違いからの思い込みで、余計なことをしている場合、進みが悪くなるが、大概は勘違いをしていることに気がつかない。そうすると、さらに進まなくなる。

勘違いは根本からちがう方向へ行ってしまうので、修正するにもすぐにはできないが、でも修正しない訳にはいかないので厄介だ。そうやって勘違いを修正しながら進むのは、なんか寄り道をしながら行くようで、考えようによっては楽しい。

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目的は何か

振り返ると、つくることが目的だった。つくったものを並べて改めて見直してみて、もし、つくることを手段としたら、では目的は何だったのだろうか、と考えてみた。

正直、すぐには思いつかない。目的、すなわち、つくることによって何をしたかったのか。ひとつひとつには、その時々の条件や要望といった固有のコンテクストがあり、それに応えてきた。だから、何か共通の目的を意識はしていなかった。もちろん、デザインに関しての通底する考えはあるが、その実現が目的かというと、ちょっとちがう気がした。

いま一度、目的をちょっとだけ深く考えてみようと思う。そうすることで、この先のものづくりに対してよりクリアな態度でのぞめるような気がする。

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具体的に

とかく抽象的になりがちである。何にしても抽象的に捉える方が楽なので、それは細部まで決めなくてよく、それでいて方向性は捉えることができるから。ただ、人に伝えるときは、具体的でないと、イメージできず伝わらない。それに、具体的にすることで今から先の状況がみえる。

思いつきは抽象的に、伝えるときは具体的にすることで、過程での抽象的から具体的への変化がさまざまな効用をもたらす。たぶんその中でアイデアも整理され洗練されていくのだろう。

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未来からながめる

できるならば、一度未来にいき、そこから今をながめてみたい。きっとおかしく見えるかもしれない。あんなことやこんなことをしてる、などと笑うかもしれない。初期の携帯電話を知ってる人は、今、その当時を見れば、あまりにも滑稽で、肩から担いでるよ、などとその大きさに呆れるだろう。

ただ、今、一所懸命に未来を描こうと考えることは、例えば、肩から携帯電話を担ぎながら、この電話をもっと小さく軽く、と考えることではない。それは大きいけれど、この電話を使って何ができるか、だとおもう。なのに、ほとんどの人が、もっと小さく軽く、と考える。

一度未来へ行った気になってみる。もしかしたらスマホは無いだろうから、コミュニケーション用のデバイスがあればいいが、無い場合どうするのだろうかと考えてみる。その時できるのは、今考えることができる手段の範疇でしかないから、それは未来ではなくて、今に役立つことになるかもしれない。

結局、未来は現在の延長でしか考えられないので、描く未来像は今である。だから、そこから脱してみたいので、一度未来にいき、そこから今をながめてみたい。

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矛盾づくり

矛盾は避けたいもので、矛盾は人から指摘される欠点だが、上手く使えば武器になる。真逆のことが存在してるから矛盾だが、矛盾状態をつくることができている時点で有利である。それを利用すればいい。

もし矛盾を一気に解消できるところを見つけることができれば、誰にも真似できないものをつくることができる。だから、最初に矛盾づくりをするのも、ものづくりの第一歩かもしれない。

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妄想がかわる

言い換えることで見方をかえることができる。必要とされていることは、妄想から逃れること。妄想は現実を伴わないから妄想なのであり、言い換えることで現実的な見方にかえれば、妄想が実現可能な未来にかわる。

妄想などしていない、いつも現実的だとおもうときほど、その現実的だとしていることが妄想に取り憑かれる。妄想では何もつくられない。

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