人が使うか、人間が使うか

建築でできることは何があるのかと考えながら設計する。当たり前のことだけど、特に何も考えなくてもプランはできる。そして、その違いはわかる。

そこに人がいると感じられるか、人間がいると感じるか。ある特定の人でも、不特定多数の人でも、人が使うと考えているのか、人を社会の中で定量的に扱ったのが人間ならば、人間が使うと考えているのか。

人が使うと考えた時、ムダやブレ、揺らぎなどが生じる、決して完璧ではない、だから、偶発的な面白さを演出するような設計になる。

人間が使うと考えた時、ムダやブレ、揺らぎは無く、全てが計画通りに進み、その場合の効果が期待できるような設計になる。

48A875C5-9049-478A-96E8-B4945C4B5E63.jpeg

どちらかが良いという訳ではないが、偶発的な面白さが生きることや生活することには必要だと考えるならば、人を感じられる設計をすることなるだろう、実際それしかしたことがないが。

リンク

三角屋根をさらに傾斜させる

天井の高さに変化を付けたく、それも居る場所によって全て高さが違うようにしたくて、ただ、天井だけを装飾として扱い、高さを変化させることもできるが、それでは構造を持った建築でわざわざ行う必要が無く、構造を持たない内装設計でいくらでも見ることはできるので、構造と一体となった、その天井の高さの変化がそのまま外観のフォルムになるように考えている。

どうも木造で小さな建築となると三角屋根を最初にイメージしてしまい、そのフォルムは単純でアイコンとして「ホーム」をイメージさせるが、ただ、それだけにそのフォルムでは引っ掛かりも無く、印象に残りにくい。

三角屋根の屋根裏の形状は天井を設けなければ、屋根なりの形がそのまま室内に露出するので、天井の高さは変化する、しかし、居る場所によって全て高さが違うようにはならない。

ならば、三角屋根自体を傾斜させようと考えた。そうすれば、居る場所によって全ての天井高さが違うようになる。

4592835F-01C9-4E24-A195-EB2E624E2C47.jpeg

そして、そのフォルムは、三角屋根という昔からあるアイテムでの安心感が、室内での天井の高さの変化が居る場所によって全て違うという慣れない状況を上手く緩和してくれて、ことをうまく馴染ませてくれるだろう。

リンク

ピクチャーウインドウより風が納涼を生む

風景を切り取る窓のことをピクチャーウインドウというが、それは逆に考えれば、外から見たら室内の風景をも切り取る。

壁一枚隔てただけで、外と内という全く違う世界がそこに展開されているが、その壁の性能が低かった頃は、壁の性能とは断熱性や遮音性などであるが、外と内の差はほとんどなくて、外も内も大して違いがなかったのではないかと思う。

それは温熱環境や音環境だけのことではなくても、内にいても雨風を凌げるだけで外と変わらないような状況であり、結果的に外と内の違いが曖昧だった。

ところが、壁の性能が高まると外と内はキッチリと分かれ、全く違う世界が誕生することなった。温熱環境や音環境だけのことを考えた場合でも、それは内だけが静かで、夏涼しく、冬暖かい場となり、外とは全く関連性の無い内が存在し、曖昧さが無い。

この曖昧さが無い様、この外と内のキッチリと分かれた関係性には違和感を覚える。それは中から見ればピクチャーウインドウだが、それは同時に外からも中を切り取る関係性に似て、外と内が一対であるにもかかわらず、外と内が断絶している。

61B0127F-5FC3-4992-BBB9-9E491EFCCBF2.jpeg

理想は壁の性能が高く、そのおかげで温熱環境や音環境が良く、それでいて外と内の関係性が曖昧である状況なのだが、壁だけでなく屋根も含めて外皮の性能を高めていくと、普通に考えれば、どうしてもピクチャーウインドウ的な窓ばかりになるが、ちょっと視点を変えて、風も利用してみる、その風のことを卓越風というが、地域特有の風向きを持つもので、それを利用すれば、そもそも外と内が曖昧にならざるを得ない。

外皮の性能を高めて魔法瓶のような住宅をつくっても夏が暑くなり、冷房効率が悪くなるだけだから、風を利用するのが良いだろう。

リンク

四半世紀前の思いつき

カウンターはステンレス鏡面仕上げで、それが折れ曲がり椅子になり、床になり、壁になり周りの風景を写し出す。

そのまま天井になり、空間を包み、同時に屋根になり、建物の構造を兼ねる。

すき間があれば、設備も断熱も施せるから、入れ子状に空間を包みこもうと考えると、カウンターの形状から変わってくる、などと確か学生の時に思いついた案を今計画中の建築に合わせて取り入れてみる。

四半世紀経ってもふと考えることは同じだったりして、ただ違うのはどうやって実現すればいいかがすぐに見当がつくこと。

DD11EAC2-D062-451C-98FA-8BE3BF0F7381.jpeg

リンク

プロトタイプから言葉から数値へと

まずプロトタイプをつくり、その物から考えるようにしてみる。とりあえず、手を動かして、思いつくままに、こうかな、ああかなとやってみる。そして、出来上がった物を解説してみる、無理矢理、突然プレゼンをしなくてはならない体で、あるいは、文章にしてみる。そうすると、大概、意味不明で、辻褄が合わない、矛盾したり、支離滅裂になる、きっと人がパッと思いつくことなど、その程度のことなのだろうか。

ただ、そこに辿り着きたい部分の種があったりするような気がするし、そうあって欲しいと思う。

D3D2DE39-6DC5-4196-AC3A-B4F2454F6C27.jpeg

そこで、今計画中の10坪平屋の飲食店兼料理教室をそうしてみた。そうしたら、案外、言葉は自由だなと思って、あれこれ書いていたら、途中から言葉が追いつかず、そうすると、そろそろ数値で表そうかなと思いはじめた。

リンク

距離感を考えてみたら

距離を取るには折りたたむしかない。10坪の中に納めるためには丁寧に折りたたんで、角を取って丸くして、周長をできるだけ長くしてより席数を稼ぎ、それで複雑な席配置にし、様々な方向に顔が向き、相対する事なく、距離感を調整でき、天井高さの変化がより席同士の違いを生み出し、ひとつとして同じ条件の席は存在しない。

そのことは、席の領域の決め方で、そこで起こる状況を決めることができ、コントロールすることができるので、ソーシャルディスタンスの有無に左右されずに済むと考えている。

18A74629-FBBA-4BE8-BDE3-37A990610CA7.jpeg

この状況化に対応することで、今まで手を付けなかったことに目を向けて、新たな何かが芽生える可能性だけでも感じることができたら、後から振り返った時に肯定的に思えるかもしれない。

リンク

距離を取ることと空間を形成すること

直線的に近づいたり離れたりしていると閉じないから絵にはならないけれど、それが回転していたり、湾曲していたりして、最初と終わりが合い閉じれば、何かしらの形を成し、ソーシャルディスタンスが絵になるような何か、カウンターか何かをイメージして一日中スケッチをしているが、どうもしっくりとこない。

距離を取ることと空間を形成することは相性がいいはずで、間を空けることは距離を取ることだから、ソーシャルディスタンスを空間形成の発露にするのは妥当性があると思うのですが、どうもうまくまとまらない。

やはり、ソーシャルディスタンスという言葉自体がネガティブな響きになっているからか、たがら、いいイメージにつながらないのか。

素直に距離をデザインすると考えれば、もっと様々なバリエーションが存在するはずだから、少しは方向性が見えてくるかもしれない。

780B6CEC-48EC-4E5C-B1C3-7B311EA562C3.jpeg

リンク

天井の高さが関係性をつくり出す

わざと天井を低くくすることもある。どうも天井は高い方が良いと思われているようで、世間一般的には、天井が低いことは狭くて、よくマンションは天井が低いから、という会話を聴いたことがある。確かに、マンションは少しでも階高を低くして、それで少しでも多く戸数が稼ごうとするが、天井が低いということは悪いことではない。

空間の大きさの決め方には違いがあり、物を置く空間などはその物の大きさによって、その物が収納できる大きさで決まるが、人がいる空間は人の大きさが基準になる。例えば、物を置く空間としては美術館や博物館などがあり、展示する美術品の大きさにより展示室の大きさが決まる。人がいる空間の住宅やマンションなどでは、人の大きさが基準になるので、人の大きさに近ければ、それはヒューマンスケールと呼ばれ、人にとって親和性があり、適切な大きさということになる。

だから、天井の低さもヒューマンスケールと捉えれば、人にとって心地よい高さとなるかもしれないし、吹き抜けのような天井の高い空間はヒューマンスケールを逸脱しているので、人によっては落ち着きのない、居心地が悪い空間となるかもしれない。

76354CFE-A612-44D2-B1BF-0F52EC960EB2.jpeg

このように、天井の高さの違いより、人に与える影響にも違いが出るので、天井の高さをデザイン要素として扱うことで、人と建築の関係性をつくり出すことができる。
リンク

つながりを形にする

人と人とが近づいたり離れたりする軌跡を回転させて、それを上から眺めたら「花」の形に見えるはずだと、いつもイメージしていた。

だから、その花形のカウンターをつくれば、人と人との距離感を適切に選択しつつ、カウンターが媒介となり、人と人を繋げてくれると思う。そして、何かをはじめる位置によって、人と人の距離感も変わり、その場所固有の領域がその都度出現するだろう。

物から誘発されるつながりや関係性をつくることは、建築が目指すべきひとつの方向性だといつも考えており、それをデザインして形にするという面白さが常にある。

AE0C32BD-7648-4B34-A8EE-A4801DC71CA9.jpeg

リンク

距離感をデザインで保つことが課題

人が距離感を保ちながら繋がるにはどうしたらいいのだろうかと考えることが、このウィズコロナの中で計画案を考える時に、その建築のパブリック性が増せば増すほど、必要なことになってきた。

簡単に言えば、住宅のパブリック性は0で、プライベート性が100%だから、住宅ではその必要性は無いが、飲食店や店舗、次いで、学校や病院、美術館、博物館などの順にパブリック性が増していくと、何らかの対応が必要になり、既存の美術館などは事前予約制にし、入館日時を指定してチケットを購入することで入館人数や密度をコントロールしている。

また、既存の飲食店は人と人の距離感を取るために、客席を1つ飛ばしにしたり、テーブルの数を減らしたりして、やはり人数と密度をコントロールしている。既存の施設で、人数や密度をコントロールするにはその方法しかないのかもしれないが、それは売上にも影響する。

だから、それがわかっていて、これから計画する飲食店や店舗で今までと同じようなことはできないと考えている。ならばどうするか、人と人が適切な距離感が保ちながらも、人と人が繋がることを建築の課題としてあげ、それをデザインで解決していくことが求められている。

A25D4CB9-10C5-4A90-900E-923906B9BD96.jpeg

リンク

とある計画

予算からすると10坪が限界のようだ。どのようなお店でも10坪以上あれば何とかなるだろう、10坪未満のお店だってたくさんある。飲食店兼料理教室で10坪平屋の建築、家ならば10坪は狭いが、お店ならば、ただ厨房の割合が大きくなる。

10坪の中で厨房とホールをキッチリと分けたら、例え、オープンキッチンでもどうだろうか、せせこましくなるのではないだろうか。それに中途半端な、厨房も、ホールも、広さになりそう。ホールも狭かったり、席数がとれなけば、カウンターだけにするが、ラーメン屋さんのように、何かもったいない、せっかくの10坪をテナントとして入るのではなくて、平屋で建てるのだから、他にやりようがある気がした。

例えば、10坪全てが厨房というのはどうだろうか。お店として考えたら10坪は中途半端な広さ、特色もないように思えるが、厨房として考えたら10坪は広い、料理教室も兼ねるならば、厨房は広い方がいい。

厨房の中にお客さんがいて、厨房の中で料理教室をして、全てがシェフズテーブルになる。

ただ、保健所で問題になりそうな気がするが、厨房とホールは明確に分かれていないといけないから、小まめに分けて、何とか方法はありそうな気がするが、手洗いだらけになったり、このご時世それでも構わない気もする。

そして、厨房の中には大きなひとつながりのカウンターをつくり、その中に厨房機器、設備を仕込む。カウンター上で料理がつくられ、お客さんに供され、料理教室が開かれる。

屋根はそのカウンターを雨露からしのぐためにつくられる。

その大きなカウンターが人と人、人と料理、料理と料理をつなぐ。

気分でどこで食べてもいい、どこで料理をしてもいい、そのカウンターは外まではみ出してつながっていて、外の人や街の風景もつなぐ、鉄道高架の立ち退きによってできた変形地、これから街が変わる、風景が変わる、その時に何かつなぐ役目が飲食店のカウンターというのも悪くないし、結構、食べ物につられて、だから、カウンターは変形している、変形していれば周長が長くなり、人がより集えるし、直線だらけの風景に味が出る。

こういう計画もまたよしだと思った。

36F47C0B-61C1-4BA1-878C-B7B635B620D5.jpeg

リンク

知覚されない単なる物体の建築

考えてもみたら自然界の中で人間が知覚できることは結構限られていて、光にしても全てが見えている訳ではないし、音にしても全てが聴こえている訳ではないし、見えない色もあるし、目にはそのように見えないが、写真ならば見える象もある。

人間が知覚できる範囲が基準で表現をしているから、それが一部だということに気がつかない。そして、それが全てで、それは良いことだと思い込まされているかもしれない。

建築はどんなにデジタル化されても、つくり方はある意味ローテクで、人間が知覚できる範囲しか扱うことができないから、知覚できないことが存在していようと関係がないかもしれないが、それは人間主体で建築を考えた場合で、あくまでも人間の知覚を基準にしているからで、例えば、単なる物体が先にあって、その単なる物体から触発されて人間が使いはじめ、その物体が人間を内包できたならば、そこに空間が存在し、それは建築であり、ただ、最初は建築には見えない単なる物体だから、人間が建築として知覚していることをその単なる物体は持っていないことになる、なのに建築である。

010FE950-9D35-4A08-BDFA-92E52955D4EF.jpeg

そのような建築として知覚されない単なる物体の建築をつくりたいとふと思った。

リンク

住む住まないにより違う

人の住む場所と人の住まない場所で、建築として何が違ってくるのだろうかと考えてみた。

困った時は事務所として申請すれば良いと聞いたことがあるが、人が住まない場所としてまず思い浮かぶのが事務所であり、設備のことをいえば、便所と簡単な流し以外は無い、例えば、浴室があると事務所としては用途上認められないだろう。

ただそれは、人が住む住まないを機能的なハード面から見ただけであり、ここで取り上げたいのは、人との関係においての違いであり、人と建築との関係において住む住まないができあがる建築にどのような影響を与えるかということ。

95ECA837-AA61-4A28-8ACC-D2BFA0D48FB0.jpeg

人が住む場所であれば、人と建築との関係は1対1の対応になり、より人に合わせた濃密な関係性になるだろうし、人が住まない場所であれば、人と建築との関係はより希薄になるというか、建築はむしろ環境や外部空間といった人を包み込む部分との関係性がより強くなると思う。

そうすると明らかに、人が住む住まないによって、求められる建築が違ってきて、そこでできることもかなり違ってくる。

リンク

窮屈ではないものに

感情や気分をそのまま受け止めるような建築を考えようとしている。やはり、建築は人を包み込むようにできているもので、もしそうでなければ、工作物、土木構築物だから、それでは建築ではないから、ならば、人と建築の関わりの中で考えると、主体は人になり、それに合わせて建築が変化する方が自然のような気がする。

そうすると、人は日々の生活の中で何に一番左右されるのか、良くも悪くも感情や気分だと思う。少なくとも、感情や気分の変化無しに1日を過ごすことはないだろう。

だから、建築を計画する上で、人の感情や気分を扱うことには妥当性がある。程度の差こそあれ、感情や気分に左右される人を包み込む建築はどうあるべきかは重要な問いだと思う。

93DAB5A4-3F24-4A89-9E36-668F2855D41E.jpeg

一方で、そのような言葉による問いから導き出された建築は本当に妥当性があるのだろうかとも考えてしまう。ちょっと窮屈な思いもある。

何もしなくても湧き上がってくる感情や気分があり、それが意図せずとも見方に影響を与え、その影響が何も介することなしに建築化されたようなものにしたく、それは何か固定化されたイメージの建築ではないことだけは確かなので、つくりながら、後追いでできあがったものに言葉をつけてみようと思う。それが例え的外れだとしても、できあがったものにはその時の感情や気分がダイレクトに反映されるだろうし、少なくとも窮屈な思いはない。

リンク

変わる気分で選択すれば

感情や気分が何かをきっかけに湧き上がり、それがさまざまな見方に影響を与え、その都度違う状況をつくり出す。その状況は言葉で表現するには複雑でまどろっこしく、イメージで表現するには単純すぎてつまらない。

何かを表現するというプロセスを介すると、そこで表現手段に合わせて変換しなくてはならないから、必ず抜け落ちる部分があり、それを踏まえて伝えなければならないのだが、伝えるという動作をひとつ入れないでわかるようになれば、できあがるものも違ってくるだろうと思う。

よくあるように記号化してしまえば、伝える動作を入れないで、表現というプロセスを介さないで、瞬時にわかってもらえるが、それで感情や気分によって変わる見方までわかるのだろうか、それこそ、もっとわからなくなるような気がする。

たくさんの記号が散りばめられていて、その中から選ぶようにすれば、その選ぶ基準が感情や気分であればいいのかもしれない。建築が記号の集合体になればいいのかもしれない。

A35447F9-E4EE-490E-A977-62CF16A94725.jpeg

と考えたところで、すでによくある「木の家」は記号化された建築だと思い、だから、「温もり」や「優しさ」などという固定された良いイメージがある一方で、感情や気分の入り込む余地がないくらい変わらないイメージになっており、それに息苦しさを感じる。

どこかでコロコロ変わる感情や気分を受け止める部分がないと人を包み込む建築で日常を送るのは辛いかもしれない。

リンク

見ている違いからの影響

ものの見方を改めて考えています。見方というより、存在の仕方の方がいいかもしれません。

きっかけは本当に小さな木造平屋の飲食兼料理教室の建築計画です。本当に小さいからひと目で全体を見ることができ把握できてしまう。

その時に、そこに現に存在している建築と、私が見ている建築と、他人が見ている建築が、その建築を見ている時の感情や気分も含めて、同じではないだろうと、まずそこに興味があり、違うならば、それが建築デザインにどのような影響を与えるのだろうかと考えています。

そして、その影響から建築デザインのはじまりを導き出すことはあるのだろうかと、あるならば、何をどうするのかと考えています。

7116236F-A49F-4400-A6D5-B7899731AA1B.jpeg

リンク

上手く調整するより

何かをつくろうとした時に、つくろうと想定されているものがあり、自分が考えているものがあり、他人が考えているものがあり、それらが一致して同じということはほとんどない。

ということは、ひとつのものに対して、同じものなのに、さまざまなものがあるということ。

普通はこれを上手く調整して、誰もが納得するひとつのものにするのだろうけれど、せっかくだから、このさまざまなものをそのままに合体して仕上げてみるとどうなるのだろうか。納得するひとつのものと、さまざまなものをそのままに合体したものと何が違ってくるのだろうか。

さまざまなものをそのままに合体しても全ての考えや想定は盛り込まれているのだから、納得されるはずだから、上手く調整するよりも面白いものになりそうな気がするのです。

A218FC9E-7DC2-471F-A7E6-B5D07691115C.jpeg

リンク

厚みがあるなし

何でもかんでも平面的に捉えてしまう。昔、村上隆がスーパーフラットということをいっていたけれど、東山魁夷の絵が好きで、一番最初に絵を見て感化されたのはウォーホールのキャンベルスープなので、陰影がなく、空気遠近法でもなく、画面という二次元に三次元を描くためになるべく平面的にしようという、変化球を投げようとしたら、結局直球になり、ただ、その直球が何ともいえないシンプルな味があるような、ややこしい捻くれ者の表現が心にささる。

だから、建築という三次元の代表のような存在を表現する時にも、平面的に、フラットに、イメージでは陰影がなく、その場面場面は建築をスライスした断面という二次元を見ているような感じです。

3926F129-7736-4356-AA13-5621E502C6B5.jpeg

だから、そこにいる人も厚みがなくペラペラでひらひらした存在、人間とはそういうもので、人間は社会の中で存在する人なので、その社会の在り方によって人はどのようにも人間として変わるし、変われる、人間には厚みは必要ではないかもしれない。

そのような見方だから、柔軟に人間としてウィズコロナに合わせ、ひらひらと変わればいいし、後で振り返ったら、今のこのややこしい時があったから、人として厚みが増したと思いたい。

リンク

物中心より人間中心

設計とは、何でもありな多様性に枠をはめて限定的な多様性にする行為だとしたが、その枠のはめ方を人間中心に考えたいと思います。

人間中心以外では、素材や形といった物中心に考えたり、暑い寒いなどの温熱環境から派生して、また別の物中心の考えがあったりなどしますが、人間が使い、人間との関係性があるから建築として成立しているのであり、人間とは関係が無いところで成立していれば、それは単なる工作物であり、建築とは明確に違います。

5FC2047C-25C9-493E-89E4-E74A18AD8753.jpeg

だから、設計として建築を取り扱う以上、人間中心に考えるのが自然であり、そうすると、予算も物中心の範疇に入りますので、物の良し悪しとは関係が無いところで、建築の良し悪しを考えることができるようになります。

リンク

何でもありに枠をはめる

全体としてのひとつの意味づけではなくて、たくさんの意味づけが存在しており、そのどこを取り入れるかは人によって違い、その取り入れ方によってその都度意味が変わり、見え方も変わる、そのような建築をつくりたいといつも思う。

ひとつの意味で成り立つものはどこかで無理矢理その意味に合わせていて、そうすることにより存在意義を見出しているのかもしれないが、それは何とも不自然であり、別の見方や別の人が見れば、いろいろな意味がつけられる。それを簡単に言えば、多様性があるということだけれど、単なる多様性では何でもありであり、それは何でもありの建築になり、何でもありならば、あえて設計者はいらなくなる。

F9373B86-2D4D-4103-83E0-8FDAC251798B.jpeg

設計とは、何でもありな多様性に枠をはめて限定的な多様性にする行為であり、その枠のはめ方がデザインであり、デザイナーの姿勢が表れるところだろう。

リンク

小さいから第一印象で決まる

本当に小さい商業施設に対して、その大きさに対する認識を建築デザインと結びつけて考えることは有効だとしたが、その大きさ故に、小さいから全てを一望でき、そうすると、本来ならば、ひとつひとつ、それは無意識に、これは何、これは何と意味を確認しながら、その存在を段々と認識していくところを、瞬時に確認と認識のズレもほとんど無く、意味づけをしてしまうことになる。

この意味づけを印象とか、イメージという言葉で置き換えるならば、その大きさ故に、第一印象を瞬時に決められてしまう。

D2D8486B-FA8A-4E9C-9532-B14E9FD0A426.jpeg

人も同じだが、第一印象で8割ぐらいは成否は決まるかもしれないので、商業施設で、しかも小さい建築ならば、尚更、その大きさをデザイン要素として活かしコントロールしなければならないだろう。

リンク

計画案の問いとしての大きさ

いま、本当に小さい商業施設の計画案を考えている。一般的な家より小さく、屋台や移動販売車や露店よりは大きいくらいのスケールです。

普段、建築を用途で振り分けているところがあり、ここは家、ここは飲食店、ここはスーパー、ここはコンビニ、ここは病院、ここは、などのように、そして、勝手に大きさもこのくらいだと決めつけていて、だから、あの家は大きい、この飲食店は広い、このコンビニは狭い、などと思ったりする。

用途と大きさは結びついていて、違和感なく人に認識され伝わるための用途に対する大きさがあるような気がします。そうすると、明らかに、今計画中の商業施設はその違和感なく人に認識され伝わる大きさから外れている。

その大きさの認識に対してどうするか、それを建築のデザインとしてどのように考えるか、どのような建築のデザインに結びつけるかは、十二分にこの計画案の主題として成り立つ問いだろう。

8DE1D86E-603A-47D4-8771-9C131043EBBA.jpeg

リンク

変わらないアナログさ

3年に1度の一級建築士の定期講習の日、新型コロナで3回延期になり、今年度中に受講すればいいのですが、またいつ第2波の新型コロナで受講できなくなるかもしれないから、早めに、できるうちに、朝から5コマのビデオ講義と効果測定のための修了考査と1日がかりでした。

一応、修了考査に合格しないと、また定期講習を受講し直しで、今年度中に定期講習を修了しないと、修了するまで設計できなくなるのですが、たぶん修了考査で不合格になるような人はいないくらいの問題の難易度であり、ビデオ講義で使用するテキストを見て解答してもよいので、全く何も問題なく合格でき、それは全然大したことでは無いのですが、ただ、いつも思うのは、いつまでマークシート方式で解答するのだろうかということ。

AB201277-4619-4728-912F-4B473829BACE.jpeg

マークシート方式の○✖️問題を解くのも3年に一度、この定期講習の時だけで、3年ぶりに○か✖️かを考える問題をやり、それは単なる間違い探しをしているだけで、そして、出た○か✖️かの解答をマークシートに塗り絵していく。

こういう定期講習の場合、間違い探しをする問題になるのは仕方が無いとしても、このマークシートの塗り絵をしている時にいつも思います、この時間が勿体ないな、塗り絵をしている時間で他の問題がいくつも解答できるし、学生の時にはマークシート方式がありましたから、いつまで経っても進歩しないというか、パソコンもスマホも無い時代からあるマークシート方式を今だに採用しているのは不思議だし、なんかとてもアナログだなと、アナログ好きには貴重な時間でしたが、塗り絵はなんとか別の、デジタルな方式に、その方が受ける方も管理する方も楽で時間の無駄もなく良いと思うのですが、何かマークシート方式で行う理由があるのでしょう。

リンク

際の敷地に慣れ以上の何かがあるか

線路際の敷地での設計や工事の経験は何度もあります。一番最初は前に在籍していた設計事務所ではじめて担当した集合住宅の設計で、敷地が東海道新幹線を見下ろす場所だったので、事前協議の書類を提出するためにJR東海の大井車両基地へ何度か行って、止まっているたくさんの新幹線車両を間近で見たりもしました。

他の鉄道会社でも、設計段階で事前協議をし、別にそれは大変なことではないですが、一番気を使うのは施工段階の実際に工事をする時であり、設計事務所にいた時はゼネコン任せでよかったですが、自社で設計施工をするようになると、もし万が一何か事故があれば大変なことになるかもしれないという心配がいつもありました。

ただ、実際に工事がはじまれば、心配は最初の方だけで、きちんと安全対策を取るのだから問題は無いので、段々と慣れてきて気にもならなくなり、むしろ間近で電車が見られることを楽しんだりもしていました。

E33DC0C2-1575-46FB-AA36-5AB6BE270941.jpeg

そうやって余裕ができると、いつもふと思うことがあります。すごく近くを電車が通り、時には車両の中の乗客と目が合ったりして、実際の距離がとても近くても、お互いのいる場所は全く違う空間であり、その空間同士は断絶しているから、お互いに近かろうが、目が合おうが、全く気にならない、この関係性をうまく同一の建築の中におさめることができたならば、高い公共性やプライバシーが要求される建築での有効な空間構成が発見できるのではないだろうか。

実際にずーっと線路際の土地に住んでいる人にとっては、近くを電車が通っていても、気にしないどころか、無いも同然なので、それはただ単に慣れ以上の何かがあるとして考えてみるのがいいかもしれない。

リンク

意識してしまう建築、それは精度

毎日毎日、建築ばかり見ている、それは誰でも同じで、街を歩けば誰でも建築を見ます、どこにでも、そこらじゅうに建築は建っているから、でも後で振り返った時に、例えば、1日を振り返ってみて、覚えている建築はいくつあるだろうか、いや、いくつどころじゃなくて、ほとんど覚えていないだろう。建築をやっている私でさえ、ほとんど覚えていない、覚えているのは利用した建築ぐらいで、見てはいるけれど覚えていない。

ほとんどの人が目の前を通り過ぎる建築を覚えていない、見ていない、それはそこに建築が存在していないのと同じです。その証拠に、今まであった建築がある日突然取り壊されて無くなってはじめて、そこに今まであった建築のことを気にするが、ほとんどの場合、そこにどのような建築が建っていたかを思い出すことができない。それは意識の上でそこに建築が存在していなかったからです。

だけど、いちいち見た建築を全部覚えていたら、頭の記憶容量がパンクしてしまうから、そのくらいでいいのだろうけど、それでも覚えている建築もある訳だから、その差はどこにあるのだろうか、気になるところです。

電車の車内から窓越しに外を見ていると、流れるように風景が通り過ぎていきますが、その中でも、特に意識せずにいても、パッと目に止まる建築があります。他とは何かが違うから目に止まる訳ですが、大概そういう時は建築家の作品である場合が多いです。

95BA9BE9-D9F8-458A-9C60-7585128729A6.jpeg

それは私がそういう建築を求めているからというのも当然ありますが、ずーっと同じトーンで流れているのが突然乱れるような、ノイズのような、別の言い方をすれば、引っ掛かりがあり、そのせいで突然意識上に現れてくるようです。

その引っ掛かりが何か、私がいつも考えるのは「精度」であり、明らかに他より精度が高い、それはデザインの精度であり、そして、つくりの精度です。逆に言うと、他が粗く、雑に見えてしまうのです。

だから、建築を意識させるために必要なことのひとつとして「精度」は必ず入ってくると考えています。

リンク

変形地は宝探し

変形地の建築計画を考えるのは何故だかわからないですが、宝探しをしているような楽しさがあります。

高架の用地買収の結果できた細長い変形地は、まさに切り取った後に残った余白のような土地であり、また、違う見方をすれば、元の状態の断片であるともいえる。

きっとそのような余白であり、断片である土地があちらこちらに出現しているだろう。今は空き地だが、それが段々と埋まり、何かが立ち現れた時に、これらの余白で断片な土地はどのように扱われているのだろうか。

細長い変形地であるから、利用の仕方は限られるかもしれない。実際に今計画中の土地も、前は駐車場とする計画だった。いやむしろ、駐車場として利用できるような土地の残し方をしたのかもしれない。

このような事例はきっとよくあることだろう、それ故に、これから建つかもしれない建築が何かのヒントになったり、何かを誘導するような役割に、その何かは景色の中でその建築がそこに存在することで獲得できるたくさんの人にとって良いこと、それがお宝であり、それを探り当てることが目標であり、それをこの建築計画における環境面の課題として考えています。

2319D94B-AAAE-48E1-B8CA-6CC530D471A1.jpeg

リンク

斜めを入れてみると

斜めが気になりながら、どうしてだろうと頭の片隅に残しながら、はじめて能楽を鑑賞してました。

いつもお世話になっている先生が能のシテを演じる機会にお声を掛けていただき、シテとは主役のことだとはじめて知りましたが、このようなキッカケでもなければ能楽を鑑賞することなど無いかもしれないと思い、予備知識もそこそこに宝生能楽堂へ。

ED6BE8D1-0936-41D8-A361-1CABE9708DEC.jpeg

非対称の客席にどこに座ろうかと迷いながら、能舞台正面に対して左斜め45度の後ろの方の席に、そこが客席も含めて全体を見渡せるかと思い、とにかくはじめてなので、舞台上だけでなく、お客の反応も見られるところが良いだろうと思いながら、その後は2回客席を移動して、舞台正面、舞台側面と座ってみました。

演者出入口と能舞台をつなぐ導入路を「橋掛り(はしかがり)」というそうで、能楽堂によりその長さは違っていても能舞台に対しては斜めに取り付いていて、何故か、どうしても建築的に見てしまうのか、それがどうして斜めなのかが気になった。

後で先生にお伺いしたら、遠近感がわかるためだと教えていただき、それが日本的、東洋的で面白く、斜めを入れることにより遠近感を出そうとするのが、西洋絵画に比べて平面的な日本画や水墨画、襖絵、屏風絵、浮世絵などの特徴と同じだと思い、それらは決して西洋絵画のように写実的ではないけれど、絵画を幾何学的に扱い、斜めの線で遠近感を実際より誇張し、写実的な西洋絵画より、より絵画的で、むしろデザインされた図案のような印象を与えてくれる。

さらに能楽はそこに実際の人の動きが加味されるので、隠れた斜めの線もあり、より幾何学な動く図案として立ち現れるような気がして、ただ、それは後から気がついたので、また機会があれば、今度はそこを意識して見てみたいと思います。

それにしても、つい建築と関連づけて考えてしまいますが、もしかしたら「斜め」を入れることを、それは過去の建築を思い返してもたくさんあるのですが、今後はまた違った見方で考えることになるような気がします。

リンク

そこで存在する形にする

これから景色が変わる土地にできた細長い小さな変形地、三面が道路に接する、線路際、これから高架になる、たぶん、全く雰囲気が変わるだろう。

そこに予想される建築は本当に小さい、小さな飲食兼料理教室で平屋、それだけに建築全体の形がわかりやすい。周辺の環境が変化していく中で、この小さな建築は変化に流されず、その変化を利用して、存在感を出さなくてはならない。住宅ならば、その変化に対応して住環境を整える必要があるが、飲食店ならば、まずここにお店らしきものがある形をしていないと、誰の関心も引かない。

7665B902-90BB-4872-82E3-A4E254D1C34E.jpeg

派手で目立つのではなく、周りは住宅だから、住宅のスケール感は去就しつつ、飲食店としての外しやズレを挿入しようと考えている。

リンク


建築の塩梅

外観が基壇、中段、頂部の構成の場合、古典的なイメージになり、モダニズム建築は頂部を無くすことにより、新しい建築の見え方をつくろとした。それはモダニズムの考え方を伝えようとする時の手段として、建築の見え方を選択したのであり、新しさや考えを理解してもらうためには視覚に訴える、見え方を変えることがわかりやすい。

そして、その変え方も極端ではかえってわからなくなる。モダニズムの場合も、外観の構成を扱うということは同じであり、その中で変える、ちょっと変えることにより、変わったことがわかる、この変わったことがわかることが重要で、「あの建築は何か違う」と思わせないと。

8D059407-0EA2-4AD3-818C-A32DAA742112.jpeg

わかりやすくもあり、同時にちょっと変わったわかりにくい部分がちょっぴり存在するような建築がいい、それが建築をつくる時の塩梅としてちょうどいい。

リンク

外観の構成によるイメージの違い

基壇、中段、頂部という分け方をする。建築を外から見た時に、基壇と呼ばれる基礎部分があり、頂部と呼ばれる屋根や飾りがあり、その基壇と頂部の間を中段とする。洋の東西を問わず、日本の寺院建築、ギリシャの神殿もこの基壇、中段、頂部の構成になっていて、建築の外観の構成の基本として古来よりあります。

だから、外観が基壇、中段、頂部の構成になっているのがハッキリとわかる場合、その建築は古典的なイメージを纏うことになります。

なので、モダニズム建築は前時代からのこの基本の外観の構成を去就せず、頂部を無くか、より目立たなくして、基壇と中段だけの構成を取ることによって、古典的なイメージから脱却し、新しい建築の見え方をつくろとし、それは今でも引き継がれています。

E0A07DDE-012F-48A7-8ACA-BCF9CC738FBF.jpeg

建築を外観の構成で見ていくと、基壇、中段、頂部の構成になっているか、頂部があるのか無いのかと、外観のイメージとの相関関係が面白いです。

リンク

服を着こなすように、らしさを形にする

らしさを形にする、その時の外すズラし方の指南は「人に受け入れやすくするために行う」とした。きっとそれは着こなしのようなことかと思います。

どんなに素晴らしい服でも、自分のサイズに合っていなければ、その服は似合わないし、おかしい。さらに、サイズが合っていたとしても、その服をただ着るだけならば、皆同じになってしまう。その服をどう着るのか、どうアレンジするのか、それがその服を着る人固有のものになり、そこに独創性が生まれる。

26D8B880-C22C-4A4F-B10E-83210858CDC8.jpeg

だから、まず精度高く、素晴らしい服を用意し、それを着こなす時に、外しズラし、らしさを独創的に発揮する。それがらしさを形にすることです。

リンク