枠の中にいる

決められた枠の中だけでかんがえていると、その枠の中がすべてだとおもってしまう。そういうときは枠自体を意識できていないので、必ず何かしらの枠の中にはいるとおもえれば、枠の外に目を向けることができる。

枠の外には、今まで実行できていないことが広がっているかもしれない。そうかんがえれば、枠を設定したら窮屈かもしれないと躊躇しなくなるだろう。

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イメージか言葉か

イメージと言葉が別々に出てくる。イメージは今まで見聞きしたものの延長でしか出てこないと思う。一方、言葉も単体では今まで見聞きしたものの延長でしか出てこないかもしれないが、いろいろ組み合わせたり、組み合わせた言葉をヒントに他の言葉をまた生み出すことができるように思う。

では、イメージも組み合わせやヒントにして、他のイメージを生み出せるのか。こうして文章にすると、生み出せそうな気がするが、実際は言葉より難しいような気がする。それだけイメージが持つ力が言葉より強いのかもしれない。やはり、最終的にはどのようなイメージを築けるかが重要になるのだろう。

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偶然とつながりの枠の外

いくつか同時にモノがあるときに、どうしてそこにあるのかを考えてみることに興味が湧く。偶然といえば、そうなので、今度は偶然性に興味が湧く。九鬼周造の『偶然性の問題』をポチッとしてみた。

あと、同時にいくつかあるということは、ひとつひとつが周りから独立している。独立していることは、別の見方をすれば、つながりが切断している、ともいえる。やはり、オブジェクト指向存在論が頭に思い浮かぶ。

偶然性と切断、この2つをつなげる何かを考えたら、面白そうな展開がありそうで、ただ、誰かがすでに考えているだろうから、もう少し枠を狭めて、限定した中で考えてみる。そうすると、その枠から外れたモノも取り込めるようなコトをしてみたくなる。

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不公平なくらいに

すべてのモノを等価に扱うことで、全体像を余すところなく浮かび上らせようとすることは、とても平等で、誰にでもわかりやすく、誰にでも受け入れやすいモノがつくれるような気がした。モノを受けとる側にもいろいろな感じ方や知性があるので、何かを重用すると、受け取れない人が出てくるかもしれない。

ただ、それとつくらたモノの良し悪しは別のような気がする。すべてのモノを等価に扱っていては、ちがいはモノの差異だけになり、扱うモノそのものを取捨選択する必要がなくなり、モノ全体のクオリティが下がるとおもう。むしろ、扱うモノは不公平なくらいに厳選し、それでもどれだけ多くの人が受け取れるかを考えた方がおもしろいそうだ。

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塊でバラバラ

ひとつの塊であり、かつ、バラバラでもある。そのようなことがあり得るとしたら、理想的な関係かもしれない。例えば、社会として全体性がありながら、個人がバラバラに存在しイキイキとしているようなことになる。

ひとつの塊は、形としての塊もあるが、関係性としての塊もある。どちらかというと、関係性としての塊が構築できれば、バラバラも同時に成り立つことは可能のような気がする。

関係性としてひとつになるには、お互いに越境しうるような部分を持ちながら、ただ、バラバラでもいられるには、絶対に交わらない部分も必要になる。バラバラであることは、この絶対に交わらない部分のつくり方しだいで決まるとおもう。

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小さな集まり方から

大きな塊を小さなものに分割することと、小さなものを集めて大きな塊にすることは、両方とも、大きな塊が存在するが、その様はきっと同じにはならないだろう。

大きな塊を分割する場合は、全体的なルールが必要になる。最初に総量が決まっているから、ちょうど良く分割できるようにルールをつくるだろう。

一方、小さなものははじめから存在しているので、ちょうど良く集めて塊にするために、小さなもの同士の集まり方にルールをつくるだろう。

前者は建築ではよくあるパターンで、後者は建築ではなかなか採用しない。建築では大きな塊から小さい物へいく流れで設計される。小さなもの同士の集まり方から設計しても面白いかもしれない。

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つながりが生む

つながり自体が新たなに生まれるには3通りある。つながり自体をつくる、つながり自体を選ぶ、そして、元々あるつながりを変える。この中で、一番容易そうなものから手をつけてみる。それは、元々あるつながりを変える、だろう。

一番容易そうなものから手をつけるのは、容易だから短時間で量をこなすことができ、量をこなせば、つながり自体をつくる、選ぶ場合の結果も必然的に含むことになるだろうから、と考えた。

元々あるつながりをその場に合わせて変えていく。その過程で新たなつながりが生まれる。生まれたつながりは新旧のハイブリッドで、他では生まれないものになる可能性は高い。

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失敗をつくる

意図的にやると、やり過ぎて失敗するときがある。そういうときは、そもそも意図的にやるのが失敗のもとだったりする。ではと、そのときに学び、意図的さを排除するためにはどうするかと次に考える、普通は。

もしかしたら、失敗することを避けること自体が失敗のもとだったりしないだろうか。禅問答のようだが、やり過ぎて失敗した様は、そこだけ見れば、もとの意図をすでに反映していない。失敗した後のものには意図的さが消え、違うものに見えていないだろうか。その違うものは最初に目指したものではないが、最初の意図の別バージョンではないだろうか。ならば、失敗は新しいものを生成する要素として、避けるのではなく、つくるものではないだろうか。

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失敗の山

自然な様はつくり出すことができるだろうか、という問いには何と答えるか。自然の様は自然そのものではないから、意図的に人工的につくり出すことはできるだろう、と言葉上はそういう回答になるかもしれない。

ただし、実際に意図的に人工的につくり出したものが自然の様に見えるかどうかはわからない。どこかでやはり意図的で人工的だと思ってしまったら、自然の様ではない。結局、自然な様も何もしないで放ったらかしにすることでしか、つくり出すことができないのかもしれない。ならば、自然そのものと同じではないか、となる。

だから、自然そのものの生成過程を真似て、その生成過程を意図的に人工的につくり出し、あとは何もしないで放ったらかしにする。そうしたら、やがて自然の様になる。

時はかかるものである。でも、時はかけれないから失敗する。そして、同じ失敗をたくさん繰り返す。その失敗の山はもしかしたら、自然の山に近い見え方を一瞬するかもしれない。

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誰も注目しないところ

同じ場所、土地でもどこに注目するかは人によるが、大体似たようなところを見ている。やはり、ハレの部分というか、設計で扱いやすい部分を自然に選んでいる。そこを扱えば大多数の人を説得しやすいし、納得させやすい。事業上、仕事にして最終の形にしたいので必然的にそうなるのだろう。

だから、可能性を求めるならば、誰も注目しないところに目を向けてみる。圧倒的にそちらの方が量は多い。たしかに、大部分はすぐには設計の中で扱えないものばかりである。しかし、そこで建築として扱えるように見出すことが、設計すること、だといえなくもない。

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未来に過去を重ねる

設計はふつう、過去のものを顧みて、現在から未来に対して考えるが、このときに過去をどのように扱うかによって、過去とのつながりができたりできなかったりする。

ちょっと順序を変えて、まずはじめに過去のものを顧みるのを止めて、ひたすら現在から未来に対してのみ考える。そのあとに、そこへ重ねるように過去のものを被せてみる。最後が過去との関わりになるので、過去とのつながりが切れることはない。

現在から未来に対しての提案に過去のものを重ねることにより、時が途切れることなく、さらには複雑性と多様性が得られるのではないかと考えた。

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アウトラインだけ

引けるだけ引いて、最小限まで引いて、もうこれ以上引くことができないところでかんがえてみると、どうなるか。最小限の引けるところは、アウトラインだけの状態かもしれない。そこからは、何かを手がかりに、足すか掛けるかしていく、とする。

そうすると、アウトラインの状態で何が可能かを見極めてみたい。単線のアウトラインは、思いのほか窮屈に感じる。単線であるがゆえに、線にバリエーションがないため、単線の純粋な軌跡でしか表現の手段がない。無数に軌跡は描けるが、意図に大差がないと、軌跡のバリエーションも収束に向かう。アウトラインだけのスタディは誤魔化しがきかない。

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意図的なニコイチ

2つあって、はじめて一人前のような関係性は、どちらも単独では弱いので、チカラを合わせましょうということかもしれないが、それで上手くいくには、チカラの合わせ方をどうするか、という問題もある。

2つの良いところがそのまま失われずに共存できればいいが、打ち消しあっては元も子もない。せめて打ち消しあうのが悪いところならば、良いところが共存できなくても、チカラを合わせる意味はある。

理想は合わさることで、良いところは相乗効果でより良く、悪いところは打ち消し合いなくなることか。ニコイチはきっとこの理想に近いことかもしれない。

もしかしたら、意図的にニコイチを形成することで、単独行為の結果を意図して超えることができるかもしれない。きっとその時には、意図しない複雑性を身につけているだろう。

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塊かバラバラか

大きなものを、塊のままにするか、バラバラにするか、結構まよう。例えば、大きな肉の塊があったら、なるべく大きなまま調理して食べたいし、どんな肉でも塊であれば、ひき肉にしてハンバーグにするのはもったいない、とおもう。

やはり、一度バラバラにしてしまったら、元にはもどせないし、バラバラにするのはいつでもできるから、まずは塊のままでどうにかかんがえたい。ただ、塊のままだと、扱いづらく、お持て余しそうだし、使い道も限定されるような気がする。だから、バラバラにしたい誘惑にかられる。

塊のよさってなんだろう。中間をとって、所々をバラす、という手もあるが、扱いづらく持て余しそうということは、それだけポテンシャルを秘めているとも解釈できる。扱いづらいのは魅力的だ。

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ニコイチ

その昔、フィルムカメラで撮影するおもしろさから、同じフィルムカメラを中古で複数買いし、人にお願いして、部品取りし一台の完動するフィルムカメラをつくったりした。それをニコイチ、サンコイチ、ヨンコイチなどと呼んでいた。だいたいは完動品にしたいカメラがあり、そのための部分取り用として動かないジャンク品の中から探してくる。そのジャンク品探しもまたおもしろい。

ニコイチ、サンコイチされたことは、カメラの外観からはわからない。ほとんどが分解しないとわからない見えない所に部品が使われる。全体として変化はないが、その部材がないと機能しない。ただし、その部材は他から来ている。

ひとつのものとして独立して存在していながら、他との強い関わりが内在されている。きっと、そこにおもしろさを感じ、ニコイチ、サンコイチして遊んでいたんだとおもう。

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何もしない

コラージュという技法が昔から好きで、ただいつもおもうのは、全体的なルールをつくってしまったらコラージュにはならない、ということで、知らず知らずのうちにおちいる。たぶんこれは、全体的なルールをつくることからはじめることに馴らされてしまったせいだろう。

全体的なルールに陥らないために、重なる部分に注目してみた。全体的なルールは整列する方向に向かう。それを避けるためには、整えない、よく見せようと意図しないなど、作為しないことだ。その作為があらわれるのが重なる部分だとおもった。ちょうどよく、綺麗に見えるように、無意識に重ねる。だから、重なりに、むしろ違和感があるくらいに、何もしない。これは、何もしない、という意図ではなくて、本当に何もしない。

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層をスタッキングさせズラす

スタッキングチェアがある。重ねることができると部屋を広く使いたいときには助かる。ただ、スタッキングできるチェアの場合、背もたれがあるので、ちょっとずつ前のめりにズレていくから、何脚もスタッキングできない場合があるし、その分場所もとる。その点、スツール は背もたれがない分、ズレずに真上にスタッキングできるから、何脚も天井につくまで重ねることができるし、省スペースにもなる。

身近にある重ねることができるものを探したら、スタッキングチェアが目についた。打合せスペースには大人数に対応できるように、スツール がスタッキングされている。スタッキングされたスツール は、高層ビルのように、真上に向かって層を成している。その層、すなわち、スツール は入れ替え可能だ、まるでメタボリズム的。

ただ、面白いのはチェアの方で、スタッキングされていくと、だんだんと偏心されて、背もたれ分前にズレていく。だから、背もたれがスタッキングの鍵をにぎる。背もたれのデザインがスタッキングチェアの生命線だとふんだ。

建築での層の重なりに背もたれ的なものは存在しない。ならばあえて、背もたれ的なものを用意し、スタッキングさせ、偏心させることをかんがえてみても面白いかもしれない。ほとんどの建築は層を成しているのだから。

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変わるからつながる

その土地には過去、現在、未来とその時々で必要なものが現れる。土地自体は不動だが、その時々で必要なものは時間的に過去、現在、未来とつながりをつくらない場合が多い。もしスタッキングチェアのごとく、過去、現在、未来とつながりを重ねつつ、その時々で必要なものがあったら、どうなるだろうか。

日本のようにスクラップアンドビルドではなく、ヨーロッパのように何百年もリフォームしながら使う石の建築でも中を変えるので過去、現在、未来のつながりは断たれる。ただ、都市的には風景は変わらないので過去、現在、未来のつながりは保たれる。そこがヨーロッパの都市の良さなのだろう。

変わらないという価値は素晴らしいが、否応なしに変える必要があったときには困る。変わらないという方法でつながりを保つのではなく、変わるからつながりが生まれる方法をかんがえてみる。

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何を選ぶか

選択の自由があったときに何を選ぶか。自由につくれることと自由に選べることは、やはりちがう。どちらかというと、選ぶ時点で多少の不自由がともなうから、自由につくれる方を選びたい。ただ、選ぶ方がつくることより容易にできるかもしれず、とりあえず選び、その先に話を進めることにより状況を変えていく方が良い、というかんがえ方もできる。

だから、もしかして一番良いのは、後で自由に手を加えることができるものを選ぶことかもしれない。そうすれば、選ぶこととつくることの両方の良いところを享受できる可能性がある。

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自動運転

成り立ちがわからないものほど、魅力的なものはない。目の前に、複雑で、何でそうなるかがわからないものがあったら、とりあえず、興味をひかれる。

ただ、それをもっと知りたくなったとき、わからないだけにのめり込む。そのときののめり込み方は盲目的になる。なぜとか、どうしてとか、をかんがえることなしに、自動運転のごとくのめり込む。

それが良いとか悪いとかは、側から見ている人の勘違いである。自動運転をしているから面白くて、さらに興味をひかれ、それが魅力的なものになる。これは都市に対しての話である。

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誰かが他で

まったく真っ新な状態ではじめることなどはあり得ず、何ごとも、そのまえには何かしらのモノなりコトなりがあったはずなのに、真っ新にして、一度リセットしてはじめようとする、建築も。

もし、まえにあったはずのコトやモノとつながる方法があれば、躊躇なく、それを選択するはずなのに。それはけっして珍しいことでもなく、あたりまえのように、つながることはあると、成功例をさがして、アナロジーすればいい。誰かしらがかんがえている、他のところで。

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答えより展開の仕方

答えからかんがえて問題をつくることはよくある。自作自演のようだが、唯一の正解を導く問題のつくり方としては正しいような気がする。あと、問題から答えへの展開に無駄がなく妥当性があるように見せることもできる。

ちょっと引いてみてみると、何事も答えに着目するというよりは、問題から答えを導きだす展開の仕方に着目するような気がする。その展開が鮮やかなほどクリエイティブにみえる。着目するところは答えではないということだ。

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秩序がないさま

ラジオから流れてきた旅の話、返還前の香港を思い出した。まだ九龍城砦があった頃、遠目でながめて、カオスという言葉の代名詞のような所というイメージがあった。

全体的に無秩序のように見えたが、よく見ると部分部分にはそこだけの秩序があり、それらの部分が全体を成す時には秩序がないように見えた。

秩序がないさまは魅力的だが、本当に無秩序はちょっと困るような気もする。部分部分には秩序があり、ただ、全体的にはとくに秩序を必要としないような計画があらかじめできたら、それが一番いいのかもしれない。

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モノの扱いのちがい

生まれ育った家は、たぶん、築70年以上だろう。増改築を何度も繰り返して、一番最初の外観はどこにもない。もちろん、一番最初の建物を見たことはないが、生前の父親から聞いて当時の平面図はおこしてあり、現在の平面図と比べることはできる。

昔の家は和室が連なったプランであり、壁が極端に少ない。襖や障子の開閉により、部屋の大きさを可変することができ、同じ部屋にいくつかの用途が、例えば、寝室とダイニングのように、重ねられており、家具や寝具も固定ではなくて、収納や移動が可能だった。

あきらかに、今と昔では、空間のあり方や秩序がちがう。それの一番の原因は、生活様式の変化だろう。座敷から椅子になり、寝室とダイニングは分離された。

だから、そこでモノの扱いも変わった。そのモノの扱いのちがいが空間のあり方や秩序に事後的に影響する。それをいまの建築の中に移植することで、前の建築からのつながりは保たれる。主題にすべきは移植の仕方だろう。

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差を見る

差分というか、どれ位ちがうか、その差がメインになる方が面白いことになるかもしれない。どうしても、いくつかモノがあると比べて、ちがいを判断材料にして、どれかを選ぶ。

どれかを選ぶより、ちがい自体に目を向けて、その差によりスポットをあて、ちがいを主題にすれば、そこにある全てのモノに差のちがいという固有性が生まれ、全てのモノが活きる。

そうすると今度は、どのような差を見てとれるか、ということに注力することになる。そこに今までとはちがう見方が必要になる。

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入れ子の秩序

入れ子構造というと、ロシアのマトリョーシカ人形を思いだす。マトリョーシカ人形は大家族を連想させる縁起物らしい。大小でつながり、同じ場所でつながり、同じようにつながる、からだろうか。たぶんに建築的である。

建築でも入れ子構造になっているプランは昔から多い。大事な空間を包むように外の空間があったり、大きな空間の中にいくつもの空間が内包されていたりなどする。そうして見ていくと、入れ子構造は空間に関する秩序的なものであり、マトリョーシカ人形も空間の外形ともいえる。だから、マトリョーシカ人形はモノと空間の両方の特徴を合わせもつ、ともいえる。

ただ、この入れ子構造という秩序には、空間の内容は関係ない。もちろん、建築として構成する場合は、空間の機能や目的といった内容によって、入れ子内の配置やつながりが決まるだろうが、入れ子構造だけでかんがえれば、空間の内容はどうでもよく、秩序だけを扱うことができる。それは面白いとおもった。

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無目的をちりばめる

完結した空間があるならば、それはひとつとして、空間がある目的のためだけにあることかもしれない。その空間の存在理由が明確で、そこで行われるアクティビティも明確で曖昧さが無く、変わることも無い。

一方、不完全な空間ならば、空間が存在する理由に目的が無く、アクティビティも定かでは無く、ただ、その空間はなくてはならないもので、何か足されると、完結した空間に変わるようなものかもしれない。

きっと、完結した空間が圧倒的に多く、不完全な空間は昔と比べて少なくなってきている感じがする。ただ、今さらすべてを不完全な空間にするのには無理があるし、その必要性も感じない。しかし、完結した空間ですべてを覆いつくすのにも息がつまる。

ミックスした状態、例えば、完結した空間にバラバラと不完全な空間が現れるようなものがいいかもしれない。ちりばめられた無目的な感じは気持ちいいとおもう。

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完結か不完全か

空間の中の家具に注目してみた。家具には造り付けのモノと置くモノがある。造り付けのモノは空間と一体化する。だから、造り付けのモノは完結した空間をつくる手助けをする。置くモノは交換が可能だから、空間の中での位置は比較的自由である。だから、空間は置くモノの位置に左右される可能性があるので、不完全な空間になりやすい。

どちらが良いわけではない。完結した空間ならば、何もかんがえる必要はないから、ただそこに居るだけでも良い。不完全な空間ならば、何かをしなければならないが、そこに自由意志が入り込む余地がある。この余地に心地良さを感じる人もいるだろう。どちらかというと、自由さが欲しく、完結さは息苦しく感じるたちである。

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人と関わりないモノ

最近気になるのは、建築の中にありながら、建築の範疇ではないモノは何か、ということ。

家具は建築で制作することもあるので外すが、家電、本、衣類、食器類、料理道具などあげていくと、人に関わるモノばかりである。当たり前といえばそうだが、中に人が入れるから建築であり、当然、中にあるものは人に関わるモノばかりになる。

ここで、もし、人とは関わりないモノを見つけることができたら、それを元に空間との関わりをかんがえてみようとおもう。

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モノと空間の秩序

この建築おもしろないな、を分解してみると、モノと空間の秩序に固有な感じがある。モノと空間の間には秩序があり、無秩序でバラバラで収拾がつかない状態ではない。モノと空間は相変わらず、そこに当たり前のように存在しているが、秩序があって、はじめて建築というまとまりになる、とかんがえることができる。

無秩序でバラバラで収拾がつかない状態は、いわば抽象的な状態であり、そこにはっきりとした枠組みをはめ、具体的にするのが秩序である。だから、秩序だけをとり出してみると、建築に固有性があれば、当然、モノと空間の秩序にも固有性があり、逆に、モノと空間の秩序に固有性があれば、建築にも固有性が生まれる。

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モノと人の反応

空間はモノの中の空洞だとしたら、その空洞に人が入ることで建築になる。人が入ることができなければ家具か。こうして、空間とモノ、人との関わり合いは不変のようにおもう。

ただ、空間という言葉ができたのは20世紀はじめである。当然、その時にはすでに建築はあった。だから、それまで建築は、モノと人の関わり合いの産物だった。

モノと人の関わり合いだけで建築をかんがえるとき、モノの中で人と反応をおこす要素は何があるだろうか、とモレなくかんがえてみる。そこで意外なものがでてきたら、それに焦点をあわせてみる。

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優劣の反転

ものには優劣がある。基本的に見える部分が優先されるし大事になる。見えない部分は見える部分のためにある。他にはつなぐものも、優先するものや大事にするもののためにある。

そのようなものの優劣を反転して表現に変えることはよくある。見えない部分を見せる、つなぐものをメインにするなど。そうした反転は新たな価値を創造するが、最初は違和感からはじまることが多い。

違和感探し、とまではいわないが、違和感を手がかりにするのは有効かもしれない。ただ、単純な反転による違和感は、単なる思いつき、独りよがりの場合も多いから注意が必要だ。

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ものが持つポテンシャル

ものづくりをするにしても、ただ新たにつくるだけでなく、減らすこと、こわすことも、ものづくりの範疇で、それを減築という。減築することで新たなライフスタイルに合わせる。ものを減らす、こわすことは、もの自体を変えることになる。もの自体を変えることが、人の暮らしに直結し、左右するという考えによるもの。

もの自体にはそれだけのチカラがある。もの自体にはそれだけのポテンシャルがある。そのもの自体が持つポテンシャルのなかには、利用されていないものもありそうな気がする。それを見つけて明示することもデザインの範疇だとおもう。

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好奇心はつくりだせない

着想とは結びつきのことかとおもった。無から何かを生みだすよりも、本来は結びつかないもの同士に、何か手をくわえることにより、結びつけること。

本来は結びつかないもの同士に、結びつきの可能性をみるところに創造性があらわれ、その可能性を探るところに好奇心が必要になるとおもう。

けっきょく、AIがどれだけ優秀になっても、好奇心はつくりだせないから、どう使うかしだいだけのように、いまはおもう。

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モレなく

漏れがないように、言葉をつかって、物事を切りきざんでいくと、意外とつなぎ目に足りないものがあることに気がつく。

きっと、当てはめた言葉で足りると思いこんでいるからだろう。つかっている言葉では、まだ荒いのだとおもう。

もっと的確に、あるいは、具体的な言葉をつかっていかないと、物事をすべて捉えることはできないと感じた。いまのチャットGPTも同じ。

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ヒントに出会う

物そのものと、物に付随するものとに分けて考えてみる。そうすれば、物に関することは全て網羅できると考えた。物自体をよくしらないと、物はつくれない。

物のそのものは、外と内に、さらに分ける。分け方はどうでもいいが、漏れなく分けたい。外は形と質感、内はソリッドとヴォイドに分ける。さらに、形は、質感は、ソリッドは、ヴォイドは、と分けていく。

そして、もうこれ以上わけることができない所を目指す。その過程でアイデアを出すためのたくさんのヒントに出会える。

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線ではなくて

プランを考える手が止まる。空間をどうしようか、と考えることが苦痛になるときがある。

20代の頃、フィンランドへアアルトの建築を見にいった。そのときのことを思いかえすと、詳細なエレメントがまず浮かぶ。壁のタイルやレンガ、開口部の形状や光、階段のディテール、手すりの感触など。空間は、そのようなエレメント越しに、意識しないと思いかえせない。すごく近視眼的な把握の仕方だけど、人が建築と対峙するとき、自分と同スケールのエレメントに、まず自然と意識がいくのだとおもう。

なのに、空間から考えている。考えてみれば、はじめからねじれているのかもしれない。アアルトは、空間ではなく、エレメントから着想し、エレメントを浮かび上がらせるために、空間を必要としたのではないかと、その当時も考えたことを思いだした。

建築において20世紀最大の発見が空間だという。空間を表現するためにエレメントは省略されてきた。プランニングを線でおこなうのも、空間を考えるときに都合が良いからだ。でも、苦痛を感じるならば、線ではなくて、他のことで、エレメントを省略せずに、建築を考えてみようとおもった。

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全体だけ、部分だけ

なにかを構成する部分は全体の一部、という関係性は普通に日常にある。このときには、全体というものに対する信頼が前提としてあり、また、全体に従う部分があるという関係性にも信頼をおいている。この場合、全体だけ、部分だけで成り立つとは考えていない。

部分だけで成り立つとは、部分同士の関係性にルールはなく、部分だけで独立していて、部分同士はルール無用である。ルールがある時点で全体が生まれてしまうから、部分そのものに信頼があるのが前提になる。

全体だけで成り立つとは、部分がどうであるかに依存せず、全体だけで独立していて、全体に絶対的な信頼があるのが前提になる。

ならば、全体だけと部分だけがあわされば、ルールの無い独立した部分同士と、部分に依存しない全体が、同時にあることなる。それは、なかなかない組合せかもしれない。それで、建築をつくることができるかもしれない。全体と部分の間にちがうなにかが生まれるかもしれない。

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うっかりミスを少なく

「うっかりミスを少なく」 2023.04.16

ときどきか、たまにか、参ったな、なんて思うときは、案外、あきらめもついて、後にはのこらないが、もしかしたら、うまくいったのにとか、思うときは、なかなか、後をひきづる。頻度は、たぶん、参ったなは少ないが、もしかしたらは、それなりにあるかもしれない。それは、うっかりミス、というやつである。

うっかりミスは大体、わかっていたけど、という言葉がさきにくる。頭のなかにはあったけれど、それがうまく表にだせなかったときで、やっぱり、それは一番くやしいし、落ちこむ。

頭のなかにあったけれど、うまくだせないことは、忘れていたことと同じらしい。だからつねに、思いだす、と意識すればいいそうな。それで、うっかりミスが少なくなるか、ためしてみよう。

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全体と部分

全体を見ずに部分的なところばかりを見ていては、うまくいかない、と考えるのは、全体と部分には整合性があるものであり、整合性がないといけないから、整合させようとするのはいいこと、だという前提があるからだろう。

ならば、前提を逆にすれば、部分的なところばかりを見ることがいい、となる。この場合、全体と部分に整合性がなくてもいいことが前提になるが、場合によってはそれも可能性としてはある。ただ、単に逆にしただけでは、あまりに単純で反動的なので、ちょっとひねりを入れる。

部分はそれぞれ独立してありながら、全体はひとつにまとまっていて、ただ全体と部分には整合性はない、としてみる。この場合も可能性としてはありえるだろう。部分的なところだけを見て、単独で成り立たせることをだけを考えても、そこに何かつながる細い糸を見つけることができれば、それでいいとなるから。

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理性がまさる

ものには何らかの意味が付着している。これが元々どうであったか。モダニズムでは、ものが持っていた意味を否定するところからはじまった。ポストモダニズムでは、その否定した意味に焦点をあて、意味を復活させようとした。ところが、復活したかにみえた意味は、また不要なものとして、より巧妙にものの奥深くにかくしてしまった。

ものに何かしらの意味を持たせたい、という感情は常に存在している、とおもう。だから、定期的に、形を変えて、ものの意味が問われる。いっそ、素直に、感情を認めて、意味自体をあつかえばいいのに、理性がそれを許さないのだろう。なぜか理性がまさる。

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うまくせまく考える

行きづまったら意図的にせまく考えてみようか、とおもった。行きづまりは、現状にうつ手がおもいつかない状態で、現状がすべてだとおもっているからおこる。だから、現状はとてもせまいことである、とおもえれば、その外側へいく意識が生まれるのではないか。

うまくせまく考えることができれば、その外側へいく意識がイノベーションになる、とおもった。けっきょく、時間をつかって考えるならば、何かしらイノベーションを生みたい、とおもう。

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つくるより選ぶ

何かを出現させようとしたとき、まず、つくることを考えるが、選んでいるだけではないか、とおもった。つくるときには、何かしらのベースがあるもので、そこから、いくつも枝わかれした予測が存在する。その予測は無意識に行っている場合もあり、その予測の中から選んでいるだけなのに、つくっていると錯覚をしてしまうかもしれない。

そこで、予測の中から選んでしまっているのならば、いま一度、つくることを意識し直すことで、よい物を出現させようとするのと、どうせ選ぶことになるのならば、選ぶことで済まして、他のことでよい物にしようとするのと、2つの方向性が考えられる。

どちらも有りだとおもうが、イノベーションを起こせるのどちらだろうか。きっと前者だという人が多いだろう。ならば、後者で考えてみる。理由はつくるより選ぶ方が早いからで、スピードがないとイノベーションは起きない、と考えるから。

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他者探し

何かをつくる方法を考えるとき、そのもの自体に関することと、そのもの以外に関することに分けてみる。そこに境界線があり、いつもは大体、そのもの自体だけにしか考えがおよばない。

ぐっと範囲を狭めつつ、範囲の外を意識してみる。そうすると、そのもの自体だけでは成り立たないことに気づく。範囲を狭めたおかげで、意識できる範囲が広がった。

きっと他者探しをしていることになるのだろう。今度は範囲の外にあったものを内側に囲い込むような言葉を探してみる。

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具体的な言葉

言葉で何かを具体的に表せば、その言葉の外側に何があるのかもはっきりとする。そうやって、言葉で境目をつくることにより、意識しないでスルーしてしまうことを防げる。

一番くやしいのは、気づく可能性があったことに対して、明確に気づけなかったときで、そうおもうのは、頭の片隅にあり、具体的に表していなかったから。

なかなか難しいことだが、未知の分野で方向性をかんがえるときには、一番大切なことかもしれない。

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フレームの外へ

フレームのなかにある範囲でかんがえてみたとき、結果がそのフレームの外までおよぼすことはない。ただ、そのことがわかるのは、フレームがあることを知っているときだけである。フレーム自体を知らなければ、結果がフレームの外までおよぶと錯覚してしまうし、そもそも結果がフレームの外までおよぶかどうかもわからない。

だから、フレームの設定をすることで、フレーム自体を意識できることは重要になる。フレームがわかれば、フレームの外にいける。けっきょくは、フレームの外へいきたい、のだとおもった。いくらたくさんフレームを設定し直したところで、フレームの外へいきたい欲求はおさまらない。

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言葉から

言葉からかんがえることで、へだだりがなく、すべてを網羅でき、いわゆる「バカの壁」をつくらない、あるいは「バカの壁」に気づくことができる、ときいた。

言葉はそれほど強く物事を限定する力がある。だから、具体的な言葉づかいをすれば、もれなく広範囲にわたって、およぶことができ、そのなかからイノベーションが生まれる可能性がたかまる。

そのためには、きっと普段からの語彙力のトレーニングが必要なのだろう。時代とともに言葉もかわるから、トレーニングにおわりは無いのかもしれない。きっとエンドレスだ。

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言葉で切りきざむ

言葉は境界をつくる、ときいた。言葉が抽象的ならば、あいまいな境界をつくり、言葉が具体的ならば、はっきりとした境界をつくる。だから、言葉によって、どのようにでも物事を切りきざめ、分離分解できる。

物事を分解するときには、論理的にかんがえる必要があるとおもうけれど、言葉によって分離分解していけばいい、とかんがえると、ちょっとハードルがさがったような気がした。

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壁の窮屈さは貴重

つねに壁にかこまれていると感じたら窮屈だろうな、とおもうのだが、どうなのだろうか。むかしの城郭都市やゲーテッドコミュニティなどは壁に囲まれた街だが、その壁の存在をふだんの暮らしの中で感じることがあるのか興味がある。あんがい、日常的なこととして、壁の存在などは何も感じないようになっているのかもしれない。

実在している物理的な壁だけでなく、意識的な存在の壁というのもあるだろう。「壁がある」などと物事に対する障害をあらわしたり、「バカの壁」というのもある。「バカの壁」の場合は、その壁の存在に気づいていないから「バカの壁」なのだろう。

壁に気づいている場合は、その壁に対処したり、その壁の向こう側に何かあると、わかっているからいい。ただ、壁に気づいていない場合は問題かもしれない。壁の内側だけなのに、それが全てだとおもってしまうことになるから、それではちとかなしい。だから、壁にかこまれている窮屈さは、貴重なサインなのかもしれない。

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残しかた

時間が蓄積された物が壊されて無くなることはよくある。その物の価値には関係無く、全く無にしない、ことを選択したならば、ただそのままでは残せない。残すためにはどうするか。

時間が蓄積されているということは、そこに何らかの意味も付着し、記憶となっている。記憶を喚起する物としてアイテム化し、部分的に残すことはよくある。ただ、それではまるで標本のようである。標本として残す価値がある物はいいが、価値が無ければ、無くなる運命をたどるのは同じである。

むしろ、記憶や意味、時間を剥ぎとり、物そのものを再構成することで、価値に関係なく、残す方法があるのではないか、とおもった。要するに、配置の仕方しだいで、どのような物にも活きる場があるだろう、としてみた。

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過程からかんがえる

できる物ばかりを想像してまうと、脈絡のない妄想ばかりがつづく。時間には制限があるから、この妄想もいったんやめて、まとめようとするのだが、案外、妄想にはバリエーションがなくて簡単にまとまる。はじめから想像できる結果は、どこかで、前に、もしかしたら、妄想したり、チラッと思い浮かんだりしたことだったり、結局は、今までかんがえていた範疇から抜けだすことができないので、妄想にバリエーションが生まれないから、簡単にまとまるのかもしれない。

ただ、この簡単にまとまる、バリエーションのなさ、がつまらなく感じる。だから、結果を生みだす過程をつくることからはじめよう、とおもった。過程をかえれば、たとえ今までかんがえていた範疇から抜けだすことができなくても、結果にバリエーションが生まれ、今までとちがった物になるかもしれないし、過程からつくることで、べつのかんがえ方が生まれるかもしれない。なにより、毎回過程からかんがえることが、面白そうだとおもった。

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近い物同士で集まる

ポツリとポツリと物を置いていく。物同士につながりはなく、だから何でもいい、脈絡はなくてもいい。ただ自然と、近い遠いのちがい、はできる。置かれている物はそれ自体で完結しているが、近くにある物とは何かをつくる。その何かはコントロールする必要はなく、自然に生まれてくる。

実際、建築は囲うことでつくっていく。そのための順序手順が決まっているし、それは建築のはじまりのひとつの説でもある。ただ、建築が物から派生したものならば、囲うことより、無作為にある物が他の物と合わさって建築になることもかんがえられる。

もし、囲うこと以外で、建築ができるならば、きっと、完結した物同士が近いところからより集まって建築の体をなす、こともあり得るだろう。

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距離感でまとめる

物が散乱している情景は、物にもよるが、なんとも様にならないようにおもえる。きっとなにも脈略もなくそこにあるから、様にならないのだろう。ブリコラージュのように、なにかにむかって収束していくのならば、ちょっとは様になるかもしれない。全体的になにかルールをもつことは、まとめるためにはよく、このまとめることが、なにか意図をもつ時には重要だが、それぞれの物がそれぞれのルールで完結してありながら、なおもバラバラにみえれば、それはそれで様になるだろう、ともかんがえた。

全体にひとつのルールでは窮屈におもえる。ひとつのルールで様なるようにしたら、なにか無理矢理におさめようとして、取りこぼすものがでてくるだろう。無理にひとつのルールでまとめようとするのではなく、個々にルールをもち完結すればよく、それでもバラバラにならないためには、近い距離感が必要なのだろう。ただ、近いというだけでまとめる、ルールではなく距離感でまとめる。距離が遠ければ他者ということである。

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空間は必要ない

目に見えないものはアテにならない、としてみる。感じ、雰囲気や気分を直接あつかわない。空間、それ自体は目に見えない。目に見えているのは、空間を囲っている物であり、その物から推測して、そこにどのような空間があるのかを察しているだけだとしてみる。

そうすると、空間を察することは直接できずに、そこには察する側の思惑が、物を通して加味される。だから、思惑が入るので、空間はこれだと、確かにいうことはできないので、空間はアテにならないし、そもそも、そこには空間がある、という一種当たり前のことですら、アテにならなくなる。

では、目に見える物だけをアテにしてみる。確かにそこには物があり、その物をあつかい、その物の中に入る自分がいて、そこで暮らして、生きている。その物に相対しているときだけ、その物から影響を受け、影響を受けることで、物がそこにあることがわかる。この関係の中には空間は必要ない。また、物同士の関係もどうあるかは必要ない。独立して物があり、そこに人がいるだけ。それで建築はできてしまう、となる。

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たいせつなズレ

ズレにたいして、いつも戸惑いや嫌悪感、違和感をかんじる。別に、そのようなことは、当たり前のこととか、よくあることとか、気にすることではない、などとして、偽ったり、誤魔化したり、無いことにすることはできる。普通は、ズレがあると不安だから、なおさらだろう。

案外、ズレはヒントかもしれない、とおもった。ズレには教えてもらえることがある、とおもえれば、そこから何かが発見できそうだ。

ズレの中をのぞけば、いいもの、が見つかるかもしれない。でも、のぞくのはこわい。寝た子をおこすことになるかもしれないから。

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おもいつきは妄想

最初におもいつくアイデアはいつも妄想ではないか、とおもってみた。だいたい、好き勝手なことをおもい巡らす。それは、いつも、現実的ではないかもしれない。その時間はとても楽しいが、それではまとまらないから、現実に合わせる。その合わせ方に焦点をあててみる。

妄想ともおもえる初期のアイデアを分解してみる。複数の要素にわかれるだろう。その要素ごとに独立してかんがえ、現実に合わせるために、要素を入れかえたり、変化させたりする。各要素ひとつだけで全体を表すことはないが、すべての要素があつまれば、全体がみえてくる。

だから、各要素ごとに変えたり、変えなかったり、どのように変えるかで全体をコントロールしていく。そうすることで、妄想のおもしろは残しつつ、実際に立ちあがる建築が生まれる。

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ひとつより複数がいい

強い考えがあって、それにそって、何かを決めていく。きっと、そうしたい、と思い、全てをひとつの強い考えで満たしたい、と思う。それは、芯があって、理想的なことかもしれない。別の言い方をすれば、それは、型、かもしれない。

強い型をもつことは、何にでも有効だろう。それにそうだけでいいから。ただ、そもそも型とは、決まったひとつのことに対応するためのものだから、強くなればなるほど、ちょっとの変化にも対応できなくなる。

最近思うのは、強い型では対応できないことが多いのではないか、ということ。型にはまればいいが、そんな、ひとつのことで済む、ような場面はなかなか無い。

だから、ひとつに対応するための型よりは、強くなくてもいいから、複数に柔軟に対応できる方がいい。それはもはや、型、と言えるような全体性は有しないかもしれない。もっと、個別の、その中では完結しているけれど、決してそれは全体を表すことでは無いような、そして、それが複数あることによってはじめて、全体がわるような、そのようなものがあれば、その方がいいような気がする。

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妄想から現実へ

ひとつの世界観で表現できるような、きらびやかな世界がユートピアであり、それは憧れであり、よく見聞きした建築は、みな、そのようなユートピアだった。だから、ユートピア的な建築をつくりたい、とおもう気持ちはいつもどこかにある。しかし、それは妄想だろう、という気持ちもいつもどこかにある。

ひとつの世界観でスパッときれるほど、この世界は単純ではない。やはり妄想でしかない建築のイメージをどうしたら現実の世界にフィットさせることができるのか。

フィットさせるためには、どこかで妄想を切り離し、別のものとつなげる必要がある。その別のものはひとつではなく、複数かもしれない。複数のものがそれぞれ別の世界観をもち、かつ同時に共存するような状況が、妄想ではなくなる瞬間かもしれない。

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第三の目

見慣れた風景だと、あたまの中には自然とイメージがうかぶが、そのイメージは、見慣れたものであるがゆえに、他の要素が入りこむ余地がない。だから、他の視点で見直すことがむずかしい。

いまおこなっているプロジェクトは、まさにそうで、だから、はじめから第三者の視点が持てるように、意見をその都度きける人をお願いしている。

そうすると、やはり、見ている視点が微妙にちがう。ただ、それは言われないと気づかないことかもしれない。慣れていることほど、第三の目は必要かもしれない。

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見通しのなかのおもしろさ

いつものことで、こうすればいい、と見通しがたっていても、それではつまらない、とおもうと、なかなか、行動できない。つまらない、とおもうならば、おもしろくなる、ようにすればいいのだが、見通しの良さ、に引っ張られる。

ならば、その見通しの良さはそのままに、おもしろくなる要素をつけ加えれば良いのだが、何か後づけのような気がして、すすまない。

いま一度、最初にもどって、何がしたかったか、をかんがえる。そうすると、その見通しのなかに、おもしろくなる可能性をみい出せるかな。

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壊すより利用

スクラップ、アンド、ビルトにより成り立つ建設業界なので、街を歩けば、結構な頻度で、建物を解体をしているところに出会う。そのたびに、建築はモノだな、壊すのは簡単だな、とかおもい、解体しているときにしか見ることができない建築の姿をながめる。

伊勢神宮の式年遷宮のように、解体しても、またその部材を他で再利用するならば、解体することに対する罪悪感みたいなものは生まれないのかもしれないが、解体は、それまでの記憶や、積み重ねた時間や、見慣れた風景を切断して、膨大な廃棄物に変えるだけである。

ただ、見ようによっては、解体される建築には、さまざまな記憶や時間、風景がつまっていることになるので、それは貴重な財産である。活かしかたがわかれば、解体するより利用することを皆えらぶだろう。

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空間の捉えかた

空間、とひとくちにいっても、ひとことでは済まない。さまざまな角度から捉えることができるものである。

概念的に説明するもの、経験することによりわかるもの、客観的に距離や大きさなどの数値であらわすもの、身体をとおしてわかるもの、心的で人の内面にうかぶもの、など。

空間をどのように捉えるか、によって表現されるものがまったくちがってくる。だから、表現することよりも、どのように捉えるか、のほうが重要である。

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体験が切断とつながりをつくる

体験によってすべてをとらえようとするのは、経験主義かもしれないが、あらゆる要素を、体験をとおすことで、ひとつの土俵の上にのせることができる、のは面白いかもしれない。

体験でわかることは、けっこう、たくさんある。例えば、赤い花、があれば、「花」という物も、「赤い」という色も、また、赤い花を見ている「自分」も、体験という土俵の上にのせることができる。

あとは、その土俵をどうするのか。はじめから、どういう土俵かを設定するのか、あとから設定するのか、そもそも「土俵」自体を物としてみて、「花」や「赤い」や「自分」と同じようにあつかうのか。

体験をとおすことで、あらゆる物のつながりを切断することができ、さらに、新たなつながりをつくることができる。そこも面白いところかもしれない。

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妄想はいかすもの

なにかプランをつくるときに、さいしょ、いろいろと妄想をしてしまうが、それを現実に当てはめようとすると、とうぜん、うまくはいかない。

だから、現実に当てはめて、実現できるように、アジャストする。アジャストするときに、どこを変えるのか。もっというと、どこの部分を、どのように、変えると、まえとのつながりを保ちつつ、まったく別のものがあらわれてくるのか、とかんがえてみる。

たんに実現できるだけのアジャストが多いなか、それでは、さいしょ、の妄想がなんの意味をもたなくなる。妄想にこそ、作品性があらわれる。妄想があるから、新しいものに出会える。

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自然の中にいきたいを解く

都市部に暮らしていると、たまに自然の中にいきたくなる。都市の中にも自然はあるから、そこへいけば、気がすむかといえば、そうでもない。自然の中にいくことと、自然があることは、一緒のようで、ちがうということかもしれない。

建築をつくっていると、自然がある、という物質的なことをかんがえる。どこに木を植えるのか、どこに緑をもってくるのか、建築と自然をどのように融合させるのか、親和的にするのか、などをかんがえる。そこをかんがえれば、とりあえず、緑を取り入れ、建築と自然をとりまく諸問題を解決できた、となる。

ただ、さきほどの、自然の中にいきたくなることを、直接解決することになるのだろうか。やはり、自然があることとは別のこととして、かんがえるべきなのだろう。

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心的で物質的な空間

空間があっても、その空間は自分にまとわりついているもので、はじめからそこにあり、意識することがない。しかし、空間をつくろうとすると、囲うことをかんがえ、そこではじめて空間を塊として量で意識する。

塊として量で意識しないと、建築化できないから、囲うための壁や床、天井をかんがえる。ここで、空間をつくることと建築化は、同じことのようにおもえるが、ちがう。

空間をつくることは、空間を認識としてとらえることであり、それは空間という無色透明な水みたいな存在を、何か入れものにいれて、わかるようにすることである。また、建築化とは、壁や床、天井といったエレメントを先に構築し、囲われることにより、空間の形を出現させることである。

どちらも結果的に空間があらわれるが、空間をつくることは内向きで心的なことであり、建築化は物質的である。どちらかというと、心的な空間のとらえ方に共感をおぼえるが、心的なとらえ方をしたあとに、物質的な表現に焦点があうので、建築としての空間には両方の要素が必要で、そこのバランスのとり方やズラしかたが主題になるのだろう、とおもった。

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全体性は妄想

多種多様な情報がいきかうなかで、全体性を描くのは、すでに妄想のような気がする。全体性とはすべてを均等にみたすようなイメージであり、ひとつの方向にもっていって整列させるのは無理がある。

もし全体性を描こうとするのならば、どこかであらかじめ切断でき、またあらたな全体性を描くことができる余地が必要だろう。

そもそも反動的にかんがえて、全体性を描かない、という選択もあるが、それよりは全体性を描くことは固定にして、全体性の中身の構成にたいし、部分的に反動的なものを含めていくほうが、いままでみたことがない全体性を生むことができる可能性があり、おもしろいかもしれない。

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優柔不断で中途半端な表現

ひとつひとつが切断し独立しているわけでもなく、かといって、ひとつひとつがつながっているわけでもなく、その中庸的な在りかたはないだろうか、とかんがえてみる。

独立して自律的に建つだけでなく、つながりながら他律的に建つだけでもなく、自律しつつも、他律的につながるところもある。それは、いっけん、どっちつかずで優柔不断で中途半端、なようにもおもえる。

しかし、自律している部分と他律的につながってところとのちがい、を主題にすれば、その優柔不断で中途半端なさま、それを中庸といってもいいかもしれないが、それが表現になる。

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ただ反動的ではなく

新しさやちがいを、反動的に表現しようとするのは、あんがい、かんたんに思いつく。いわゆる「逆に」というやつである。ただ、たんに反動的では、新しくもなく、ちがいもない。ただ反動的であることは、もとのものの範疇であり、亜流でしかない、とおもう。

もうすこし、分解してかんがえ、一部分は変えないで固定し、その他の部分を誇張して反転させる、などしてみる。そうすれば、ただ反動的であるより、たくさんの異なったパターンが生まれる。その中から、予想もできなかった新しさやちがいが生まれるだろう。

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ちがいを生む不自然さ

こうしたい、ああしたいと、こうする必要がある、こうしなければいけないを、まとめてすべて満たした物が最終の成果物になるのが一般的であるが、それでは、だれがやっても、大体、にたような物にしかならない。

だから、すべて満たした物の先にある、別の物をつくり、あたかも、はじめから目指していた物はこれですよね、と示し、満たすべき物もそもそもこれですよね、と逆に定義しなおすのが、現代建築ではよくあることである。ただ、満たすべき物を変えることができる場合はいいが、もしかしたら、それは珍しいことかもしれない。

別のやり方として、満たすべき物をすべて満たした建築に、さらに手をくわえる。それは、満たすべき物を強調するためであり、それによって、手を加える前と後とでは、満たすべき物がより浮かび上がる。より浮かび上がった状態は、もしかしたら不自然かもしれない。その不自然さが、にたようは物にはならずにさせ、ちがいを生む。ただ、そのちがいの素は、満たすべき物であるから、そのちがいは受けいれやすいだろう。

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細くて強い妄想が必要

これがいい、という確かさをえるには、これでいい、という一般的な了解が必要になるけれど、そもそも、その一般的な了解などが妄想、だということをよくきく。だから、その一般的な了解など存在しないから、それを根拠にして、何かをつくったり、かんがえたりすること自体がおかしいと。

その妄想を、たとえば「ブランディング」というべつの言葉にしたら、わかりやすいかもしれない。ブランディングは、新たにつくる一般的な了解であり、そもそもはじめには何もない、まさに妄想である。ただ、そのブランディングによって、これでいい、という一般的な了解が植えつけられ、これがいい、となる。

具体的に何かが生まれるときには、この一般的な了解は、その生まれたものを受けとる側には必要だろう。ただあまりにも、その一般的な了解が前面にでてくると、その生まれたものがまったくのウソにみえる。

ただ、ウソにみえてもいいもの、みえた方がいいものもある。逆に、ウソはダメなものもある。そのちがいは、一般的な了解のだし方で調整することだろう。受けとる側がいて成立するものならば、調整することが、つくることの一部になる。

建築には、細くて目立たないがしなやかで強い、一般的な了解が必要だとかんがえている。弱いと、建築自体がさまざまなつながりの中で消滅してしまい、ただ強いだけど、建築の存在がウソになる。

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侵食しあう

日常か非日常か、という二項対立では割り切れないところに面白さがあり、もっと日常か非日常かを細分化してながめてみると、観念的で詩的な非日常、現実的な日常とにわかれる、とおもった。きっと割り切れなさは、お互い侵食しあっていて、すっきりとわけられないからだろう。そこに面白さを感じる。

侵食しあえば、観念的で詩的な日常、現実的な非日常とにわかれる。現実的な非日常も、妄想から抜けだした展開がありそうだが、観念的で詩的な日常の方がよりリアルに日常の中に新たな展開がつくれそうな気がした。

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日常的な妄想の世界

かんがえたり、イメージしたりするなかで、妄想はよくしてしまうし、妄想がなにかのヒントになることはよくあるが、妄想の世界をつくり出すことには、まったく面白さを感じない。

妄想の世界は、極端にいえば、何でもありである。この何でもありが、妄想の世界の良し悪しでもあるが、何でもありだから、自由にしていい、何をつくっても、それは妄想だから許される、となってしまうことがつまらない。ようするに、現実的な裏付けがない妄想の世界には興味がわかない、のである。

妄想を別のことばにしたら、非日常的、詩的、観念的などになるかもしれない。非日常的で、詩的で、観念的で、それだけのものならば、興味はわからない。ただ、もし詩的で、観念的でも、日常的であれば、それは現実的な裏付けがある妄想の世界になり、グーッと興味がわいてくる。

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部分の寄せ集めがいい

ここでしか成り立たないこと、にはあまり意味がなく、もう少し引いて、全体を俯瞰して、何か抽象的な全体像や仕組み、イメージをもち、それへ向かって整列するように、ものごとを決めていくことが大事だとおもっていた。

ただちょっと振りかえると、そのような全体像や仕組みやイメージは、妄想にすぎないのではないか、観念的に、詩的に、そういう全体像などをつくり出して、それに酔っているだけではないか、とおもうようになった。

俯瞰せずに、地に足をつけて、平行目線で、間近なものを、周辺をボカシながら、中心にくるものだけをしっかり捉えてみる。そうすると、あまりにも限定的な部分しか相手にできないが、それらは妄想ではなく、それらが複数集まれば、相当の規模にはなるし、ただ、限定的な部分の寄せ集めなので、決して完璧な全体像は表現できないが、それが現実的でいい、とおもった。

部分の寄せ集めと、全体像はちがう。部分の寄せ集めによってできる全体は、俯瞰してわかる全体ともちがう。どちらかというと、部分の寄せ集めによってできる全体は、ここでしかできないことに近いかもしれない。ここでしかできないこと、の方に、ちょっと可能性がみえてきた。

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メインは秘密の暗部

白くて明るい空間がすきだが、一番すきな空間は、人目につかない暗い場所になる。白いのは壁や天井であり、明るさは大きな開口部が満たしてくれる。この白い空間は全てのものに光があたるから、影などなく、全てが見わたせる。この清いくらいの白さと明るさが、生活の中には必要である。

ただ、同じくらいか、それ以上に、人目につかない暗い場所も必要になる。全てが見わたせる白くて明るい空間では、こぼれ落ちてしまうもの、のために人目につかない暗い場所がいる。

いままで、メインは白さと明るさであり、サブとして秘密の暗部で人目につかなさがあった。この関係性を逆転するのもいいかもしれない。秘密の暗部をメインにするのは、あまりにも外の世界が開かれすぎていると感じるからで、逆にそれを感じられなくなるのがこわいので、自分が日ごろ引きこもる場所は、秘密の暗部がいいとおもってしまう。

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四角い丸

つながりはつくりたい、けど、個としていたい、という、いっけん矛盾したこと、は言葉ではいえても、形にはできない、とかんがえてしまう。形にはすぐにむすびつかないけれど、いえてしまうのが言葉のおもしろさ、だとおもう、四角い丸、のような。

ただ、じっさい、四角い丸、をつくれるかもしれない。円柱を横からみればよい。きっと、そのようなことは、誰でもおもいつくが、最初に、言葉があるから、かんがえはじめる。どうでもいいことでも、いっけん有りそうもないこと、をかんがえてみることには価値があり、その時の言葉にも価値がある。

だから、「つながりはつくりたい、けど、個としていたい」も、たとえば、「つながり」がまわりを切断して「個」をつくり出す状況にすればよい。これも言葉だからいえることかもしれないが、少しは形になりそうな雰囲気にはなってきた。

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愛着をすくいとる

建築は時間がたつと、劣化していくし、25年したら価値がゼロになる。かんせいした瞬間からものとしての価値がさがることになる。ただ、時間がたつことで使用者にとっての価値は上づみされていく。それを愛着といっていいかもしれない。いまのシステムでは、この愛着をすくいとることができない。愛着には価値がないとされる。愛着に価値を見いだすには、愛着に価値があるとかんがえる人がひつようになる。

愛着に価値をみいだし、ただ、それをそのまま表現したのでは誰にもつたわらない。誰にでもわかる形に愛着を変換するか、変換した愛着とのつながり方を調整するひつようがある。

愛着というと、なかなか、実体がないものだから、形にしづらいが、愛着をなにかしらのエレメントに変換するか、あるいは、変換したエレメント同士のつながり方で表現するのが、ひとつの方法だとおもう。

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贅沢な古いもの

古いものをのこすことは、贅沢かもしれない。のこすことに価値があるものは、そもそも贅沢なものである。のこすことに、別だん価値はないが、おもい入れのあるものは、のこしたい、とおもう。ただ、のこすにも、場所がひつようであったり、のこすためのメンテナンスがひつようであったりと、つみ上げていくと贅沢なものになる。だから、スクラップアンドビルドで安価にすまそう、となるのだろう。

しかし、古いものをのこして、そのままではなく、その時のやり方で手をくわえれば、古いものでしかつくれない価値が生まれるだろう。それが贅沢である。かけたコストにも、み合うものになるばずだ。

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蓋だけですが

ボディが壊れて、赤絵の蓋だけ、がのこりました。きれいな蓋、では、また、似せて、ボディだけをつくりますか。いや、全く別のボディをあわせちまいしょう。

なんて、そういうやりとりかどうかは知らないが、鉄の燗鍋に赤絵の蓋がついている、のをみた。燗鍋は懐石でもちいる酒つぎのこと。もとは、燗鍋に、共材の鉄の蓋、がついていたのを、赤絵の蓋、にすえ替えたか、赤絵の蓋だけが先にあり、それにあわせて制作されたのか。どちらにしても、茶人のあそび心はおもしろい。

とくに、赤絵の蓋にあわせて、別のボディをつくるのはおもしろい。使用じょうは、蓋の役目さえすればいいから、燗鍋いがいでも、なんでもいいし、元の赤絵の蓋のボディとは、全くちがうもの、にして、落差があって、元のボディが想像できないくらいのほうが、余計におもしろい。

建築でも、ふるい建物の一部分をのこして、新たにつけくわえ、全く別の用途にかえる、ことはよくある。ただ、ここまで、変化のはば、が大きいものはない、ような気がする。どこまでいっても、空間の範疇、建築の範疇から、ぬけ出ることはできないから。ふるい建物の一部分をのこして、空間以外、建築以外、にするのならば、この燗鍋と同じくらい、におもしろいけれど。

そういえば、むかし『北の国から』というドラマで、自動車のスクラップ部品や、古い電話ボックスなど、をつかって、家をつくっていたシーンがあったけれど、あれなどは、この燗鍋と同じ、ようなつくられ方かもしれない。

もちいられるエレメント同士のつながり方や、そこから生まれる全体としてのオブジェクトが、元のエレメントが属していたオブジェクトやつながり方と、全くちがうことでしか表現できない世界があるな、とおもった。

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第3の場所

サードプレイス、という言葉がある。家でもなく、職場でもない場所。そのサードプレイスの重要性や必要性をよくきいた。たしかに、場所の量でいえば、圧倒的に、家や職場よりも多いし、無限に存在するといっていいかもしれない。しかし、その場所にいる時間は、ふつうに生活していたら、家や職場より、圧倒的に少なくなる。サードプレイスが無い人も多いだろう。

サードプレイスが必要で重要な理由は、有限な時間を、より有意義にするため、ときいた。家や職場での時間だけでは、なにかが損なわれてしまうと、感じるからだろう。サードプレイスがあることで、有意義、を担保している。ただそれでは、なにかが損なわれること自体が、かわることはないともおもう。なにも損なわれず、有意義でいること、はできないか。

サードプレイスをつくるにしても、家や職場と並ぶような、別々の扱いもいいけれど、サードプレイスの特色はそのままにして、家や職場とからめてみたらどうだろうか。そうすると、場所の量は、限定的になり、有限になるが、そこにいる時間の量が圧倒的に増える可能性がある。サードプレイスのつくり方によっては、なにも損なわれなくなる可能性すらあるかもしれない。

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メインは外したもの

ふつうに、反動的に、逆張りをするのはおもしろいけれど、ちょっと、たんじゅんすぎて、それでは何もうまれない、とおもった。

なにか、つくろうとしたときに、できれば、よく見るものとか、よくあるもの以外のものを、つくりたいとおもう。そのとき、たんなる逆張りをすると、まったくちがったもの、に見えるけれど、それはたんに裏表の関係にすぎず、けっきょくは亜流でしかない。

いちど切断するひつようがある。よく見るもの、よくあるものが外してしまっていることを見つけ、それをメインにすえる。それは、一見、逆張りのようにおもえるが、同じようなことで近くにあっても、外していることもあり、結果的に、すごくわすがな差にしか見えが、よくあるものではなくなる場合もある。

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特殊から普通へ

まわりからめいかくに区分けされている状況は、それだけが特殊であるが、それが、特殊ではなく普通で通常である、ということがありえるのか、とかんがえてみた。

かんがえるきっかけは、まわりとの違いがめいかくにあらわれている建築を、普通で通常なものとして、つくりたいからである。特殊なものをつくることは、あんがい簡単、なのであり、それはのぞまれないことが多い。

きっとありえるとしたら、一見普通のかっこうをして、まわりとはいっさい関係をもたない、ようにすればよい。一見普通、というのは、よくみれば普通ではないときがあり、つねに普通ではない、普通でいる時間が限られていることで、普通ではないときには、まわりとの関係が切断している。断続的に関係の切断がおこるならば、めいかくにまわりから区分けされる。

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つながりで切断

ただの線だとおもっていたものに、太さをかんじると、それはただの線ではなくなり、太さの中に、さらに別のものをみることができる。

壁をえがいた単線に、太さをかんじると、もっと太く、もっと幅をひろげて、その中になにか入れたくなる。そうすると、線は複数になり、そこに間ができる。そしてまた、線に太さをかんじると、そのくり返しで、間ができていく。そうしてうまれた、いくつかの間は、分割してできた間とちがい、もとは単線だから、つらなり、である。

そのつらなりは同時に、もとは単線だから、なにかを分割することにもなる。それは、つながりが切断した状態をつくりだす、ことである。なんとも、みりょく的なこと、だとおもった。

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つなぐ壁

そこに境目があることで、別々であり、別のものだということがわかる。しかし、境目は便宜上ひつようで、そのようにみえてるだけで、実はつながりがあり、重なっていたとしたら、むしろ、境目はつながりを形成しているものになる。

たとえば、壁は部屋と部屋を切断して、別々なものにわける。ところが、別のみ方をすれば、部屋と部屋をつなげている存在とみることもできる。あたり前だが、壁がなければ、2つの部屋は存在しない。しかし、壁が2つの部屋をつないでいる、とみることもできる。そのつないでいるときの壁は、またちがった性質をみせはじめるような気がする。

ちょっと壁についてみ方を変えてかんがえてみる。きっと、つなぐ役目の壁は切断しておわりの壁とはちがうはずだ。

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境をこえる

境をこえることは、建築ではなかなかできない。いろいろな境があるけれど、土地の境も、隣りとの境としての壁、床、天井も、あたり前だけど、こえられない。ただ、それでおわり、ではなくて、なにかないか、なにか方法はないか、とかんがえてみる。

かんたんにいえば、建築は決められた境の中でしかつくれない。しかも、境は条件として、はじめに与えられるものだから、選べないし、あとから変えられない。もし、境をこえることができれば、なにかちがう表現が可能になるはずだ。

現実的には、境をこえることはできないが、境をこえたような意識や気分、にはさせることができるかもしれない、とおもった。それをかんがえるきっかけになった、因州中井窯のお皿からアナロジーをえよう、とずっとながめていた。

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記号をつかって

お約束ごとがわかると、いちいち説明がなくても、理解できたり、行動できたりする。そのお約束ごとのひとつが記号かもしれない。記号はそれだけでシンプルな意味をまとうから、つかう方も受けとる方も、よけいな物事をはぶくことができ、わかりやすくなる。もしかしたら、記号だけで、かなりのことが表現できるかもしれない。

先日、お能の舞台をみていて、音で展開がなんとなくわかった。この音がした時はこうなる、こうなる前にはこの音がする、など音が記号の役割をして、展開が約束されていた。

建築でもデザイン手法として記号があつかわれていた時期があった。意味をまとう記号をデザインの主題にしていた。ただその後、記号をあつかうことがすたれたのは、記号がまとう意味のつたえ方まで意識されておらず、意味にともなう行動までをデザインの範疇にできていなかったから、と記憶している。お能をみていて、そのことをおもい出した。

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省いて、はぶいて

できるだけ省き、最小限の動き、音、言葉で、意味をつたえるのが、お能、だという。毎回、お能を鑑賞するたびに、気づくことがあり、ちょっとずつ、うすくだけど、かさね塗りするように、自分なりに、お能の理解がすすむ。

省くことで意味をつたえる、というのがおもしろい、とおもう。建築からの視点でかんがえると、モダニズム建築も省くことをおこなった。ただし、それは、それまでの建築が装飾をまとうことで、意味をつたえていたから、建築は意味をつたえるものではない、として装飾を省いた。だから、省くことで意味をつたえるお能はおもしろいと、とくに欧米のひとは、そうおもうかもしれない。

ただ、日本人にとっては、省くことで意味をつたえることは、なんとく感じでも、理解しやすいかもしれない。茶道にしても、花道にしても、道がつく世界では、省いて最小限にして表現することは良い、とされているようにおもうから。

ただ、いつから、省いて最小限にして表現することは良い、となったのだろうか。少なくとも、縄文式土器をみると、装飾することで意味をつたえていた、ようにおもう。その反動からか、弥生式土器には装飾がなくなったが、最小限の良さ、を表現しているのだろうか。たしか、岡本太郎や磯崎新が、縄文式土器と伊勢神宮、弥生式土器と桂離宮を関連づけていた。帰ってからしらべてみよう、っと。

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でるくい

ひとつより二つ、二つより三つ、と増えることの良さは、たんに数や量が増えるだけでなく、ひとまとまりで増えるより、ひとつひとつの間に関係性が生まれること、だとおもう。

この関係性には、ひとつひとつ、が独立して単独であることがひつようであり、まわりと切断しているほうがいい。切断しているから、なににもとらわれずに関係性をきずける。切断は、でるくい、だからできることで、でるくい同士、で関係性をつくれば良い。

それによってできた関係性は、またひとつの、でるくい、になるかもしれない。そうしたら、でるくいだらけで、そんなことはどうでもよくなるだろう。

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無形の財産

それぞれが中心になれるような人たちが、たくさん寄せあつまると、うまくいくのだろうか。ふつうにかんがえると、それぞれが自己主張をして、バラバラ、になり、うまくいかないようにおもってしまう。だから、バラバラにならないようにするか、そもそも、中心になれるような人だけでなく、脇役や、うまくまとめるような人もまぜる。

ただもし、バラバラでも、うまくいく方法があるとしたら、なんだろうか。バラバラにも利点がある、とおもう。ひとりひとりが中心になれるくらいの能力があるのならば、まとまったひとつの集団より、バラバラであるがゆえに、迅速に細かくうごけるから、より広範囲に、よりふかく、ものごとに対処できる、のではないだろうか。

そして、それによってできる、バラバラな人たち同士の関係性が、無形の財産、として価値があるものになるような気がする。きっと、これは、建築でも同じで、そこに関係性に価値がある所以があるのだろう。

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つながりの連鎖

見通しがわるい、ところは不安だから、見通しよくしようとしても、そもそも、どこを見ればいいのか、わからない時って、あるような気がする。見通しをたてる前に、見る方向をさだめたい。

あんがい、見る方向をさだめるほうがむずかしい、とおもう。勘ちがいしたり、まちがったりしてしまう。見通しがわるいのは、見る方向がまちがっている、からかもしれない。

見る方向をさだめるには、さいきんは、つながりを意識している。見る方向をさだめることは、他と切断することになるが、切断したあとは、ちがうつながりができていく。このちがうつながりが、連鎖して生まれるかどうか、が手がかりになる、とおもう。

住宅も同じ、新しく建てることは切断を生む。しかしそのあと、ちがうつながりが連鎖して生まれる、ようにすることで、住宅として成り立つ。そんな連鎖をたくさん起こしたくてはじまったプロジェクトは、切断のあとのつながりが、いたについてきた。

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つきるから

いつも期待は無限にあるように感じてしまう。どこまでもつづくとか、かならずあるとか、ずっととおくまでを範囲に感じる。でも、あたり前だが、無限などありえず、なんでも有限である。

無限だと感じるからできること、を有限だと切りかえたら、でもそこで、今まで、そこまで意識していなかったことに、気づくかもしれない。

なんでも有限、限りがある、としたら、かならず、つきる時がくる。今まで、つきること、を意識してなかったから、そのものの成り立ちなど、どうでもよかったが、つきてしまう、限りがある、有限だとわかったら、とたんに、そのもの自体のこと、が気になりだす。

けっこう、なんでも、有限だとおもうと、なにもしなくても、自然と、いろいろなことに気づいたり、そのものに集中できたり、するのかもしれない。

建築のようなオブジェクトも、有限だとわかっていながら、無限にあるもの、だとおもってしまう。有限をもっと意識したら、関係性などのような、どこまでも無限につづく幻想が、気にならなくなるかもしれない。そもそも、人がつくることができるオブジェクト、は有限だから。

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他のばしょ

日頃から、ひとつのことだけで無く、他のばしょを持つこと、が面白さにつながる、とおもっている。ひとつのことだけをコツコツやる、ことは大事だが、それが2つ以上、たくさんあれば、それ同士の相乗効果も生まれ、ひとつだけでは出せいこと、に遭遇できる。

ひとつひとつには、そのままでは、その内側に、見ることができない部分、があるとおもう。その見ることができない部分は、その内側にいるから、見ることができないのであり、外側に出れば、見ることができる。

だから、他のばしょ、が必要なのであり、その見ることができない部分が、ほんとうは、じぶんがいちばん必要なこと、だったりする。ただ、その場合、他のばしょ、にも同じくらいの比重が必要で、きっと他中心的になるのだろう。

この住宅には、たくさんの、他のばしょ、をつくり、中心をたくさんつくれる、ようにしてみた。そうしたら、暮らしがアクティブになった、とよろこんでる。

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どちらを先にするか

ただ、ただ、形をいじりながら、形のみが、うまくいくように、うまくおさまる、ように置いてみる。その時点で、形は安定して、そこにある。こんどは、そこから、それが置かれるまでに、何をしたか、をかんがえてみる。これを何回かくり返すと、共通のプロセスがうかぶ。

まったくの思いつきで、プロセスをはじめにきめてみる。置かれるものは、同じプロセスならば、まったく同じ形、なるばずである。もし、ちがう形、になるならば、プロセスを調整する。

この2つ、前者は、実践から理論をつくるこころみで、後者は、理論から実践をつくるこころみである。どちらも創造にはなるが、どちらが良いかはなく、創造されるものが実践か理論のちがいである。

今までをかんがえると、実践が先にくるから、創造されるものは、実践してつくられたもの、になるだろう。やはり、実践が先のほうがしっくるくるし、後からの理論づくりは、自分にたいする、気づきにもなる。

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突出したもの

まったく周りから切り離された、そこだけにしかない、建築、はあるだろうか、とかんがえてみた。まわりの環境、となじむことが、良し、とされるから、なかなか、周りから切り離された建築、をイメージできないし、見あたらない。

ただ、森のなかにぽつんとある建築とか、周りが自然だと、あり得るかもしれない。周りが建築と相対するものであれば、可能性はある。

あとは、建築自体が、周りから突出して存在している場合、もかんがえられる。その場合は、都市部のなかでもありえるが、シンボリックで単体、の建築がすぐにイメージできる。

面白そうなのは、都市部のなかで、シンボリックではなく、なおかつ、単体ではなく、周りから切り離されて突出している建築であり、単体ではないとしたら、それは多中心的なものか。いずれにしろ、ちょっと、横にスライドして、かんがえてみる。

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ありがたいひと

前から気になっていたこと、は他のひとからみたら、簡単に、わかるものらしい。ながい間、気にはしていたけど、なにも手をつけなかったこと、をズバリといわれる。やっぱりな、とおもう反面、気にしたこと、はせいかい、だったとわかる。あとは、そこに、手をつければいい。

こういうときは、大概、うまくいくとき、のまえぶれの場合がおおい。気にしてるところは細部で、指摘するほうも、それがわかっている。大枠はいい方向にすすんでいるから、細部をいう。だから、素直にきける。

そのような、ありがたい関係性の人、はだいじであり、いつもこころ強い。じふんもクライアントに対して、そうありたい、とおもう。

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勝手きまま

時間がつながっている、ことと、空間が途ぎれていること、この2つが重要だとおもう。

建築では、とくに、建替えでは、過去そこにあったもの、とは断絶したものができあがり、ただ、そのときの周辺環境、とはつながっている。だから、前とはまったくちがった風景がとつぜん出現する。前そこに、何があったかが思いだせない。

ずっと同じではこまるが、定期的にまったくちがった風景がとつぜん出現するのもこまる。それに、これをくりかえしていくと、どこをみても同じ、というような風景に収束していく。

だから、時間的なつながりは残し、さらに空間が周辺環境とは関係ないところできまるならば、時間は過去現在未来とつながりながら、多様な風景がくりかえし生成されていく。

たのしい街は、あんがい、勝手きままな建築、だらけだ。

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調和は幻想

目のまえにある木と、そこに何かをつくろうとしている人が、関係することで、何かが生まれる、とすると、生まれたものは、木と人の関係性の産物だが、生まれたもの自体は、それはそれで、その関係性とは別のところにいる。

ちがう言い方をすれば、つくるプロセスでは、木と人の関係が必要だが、できて出現してしまえば、関係性が無くても、そこにいることができる。

これが建築の場合、エコロジーの観点からすると、問題になる。できてしまえば、木という自然が無視できるから、建築が調和をくずす要因になりえる。

ただ、そこでおもうのは、そもそもそこに調和があるのか、ということと、建築がそこで関係性を無視してあった方が良いのではないか、ということ。

木と人の関係性は反映されているわけだから、木と人以外の別のものが出現することで、何か新しいものを捉える可能性が生まれるし、それには、調和の無さ、あるいは、緩さが必要だから、そもそも調和など幻想だったのではないか。

もう少し、建築を関係性ではなく、建築自体が持つ新しいものを捉える可能性というポテンシャルの面をみると、よりエコフレンドリーになるのでは、とおもう。

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境界をこえる建築

1本の木がありました。その木をどこから見るのか、を問題にしてみた、その木をどこに置く、ではなくて。とうぜん、見る位置によって、ちがう印象、があらわれる。見る位置がかわれば、印象だけでいえば、ちがう木、となる。

見る位置をかえることは、境界をこえるか、境界自体が無くなる、ことにもつながる。見る位置をかえることを建築化すれば、それは、境界をこえる建築、になるかもしれない。

見ることと境界を関連づけることで、建築にあらたな、つながり、がうまれる。しかもそれは、プランにはんえいできる。

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境界をこえるか

となりが気になる、ことをそのまま、素直、にみてみる。なんか気になる、ことを、うまく取りいれると、境界をこえられる、ような気がした。

なにかを所有していると、そこに境界がうまれる。となりが気になるのも、所有しているものかどうか、でかんがえれば、境界がどうしてうまれるのか、がちょっとわかる。

となりに、ちょっと気になるものを置く。それは、となりにあっても、自分にしか見えない、としたら、どうだろうか。これで、境界をこえてないだろうか。

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そばの自然

常にかわるかもしれない、とおもうと、おちおち安心もしてられない。できれば、かわらない方がいい、とおもう人も、多いかもしれない。ただ、自然をみてると、かわらないもの、などない。常に一定の均衡状況を保つことなど無い、ようにおもう。かわることが日常、のようにみえる。たがら、自然をとり入れたい、とおもうことの、本音は、かわりたい、かもしれない。

人も自然のいちぶ、という話には、はんぶん賛成、はんぶん反対。自然のなかに人をくみ入れることで、自然は守るべきもの、になるが、自然と人をおなじようにあつかうと、自然は人によってどうにでもできるもの、にもつながる。

自然のかわりようをみながら、人は人でかわるのがいいのでは。自然はとり入れるもの、ではなくて、そばにあって、いろいろなかわり方、をみせてくれるものでいい。

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時がたつのがおそい場所

時がたつのがはやい、あっという間、というけれど、おもいかえすと、はやい時と、おそい時が、あるようにおもう。

はやい時は、なにをしていたか、ぜんぜん、おもい出せない。ただ、その当時、どんな状況だったかと、俯瞰して、かんがえると、なにも自分からすすんでしてなかった、ようにおもう。やらされていた訳ではないが、かといって、自分がほんとうに望んでいたこと、ともちがう状況だった、ような気がする。

おそい時は、逆に、したことを、たくさん、おもい出せる。あれもやった、これもやった、と。上手くいかないことも、よくやったことも、両方あるけれど、とにかく、たくさん、おもい出せる。こうおもい出しているだけでも、時間がかかり、おそく感じる。ちがいは、自分から状況をつくっていたからか。

そうだとしかたら、時間の量はみな同じ、でも、時間の感じかたはみな違う。だから、感じかた、ようするに、状況を自分からつくり出せば、時間をコントロールできる。でも、なかなか難しい。ただ、自分の家の中ならば、だれでもできる。だから、家づくりはおもしろい。

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切断をおこしてもらう

つながり、は大事だと、知らず知らずのうちに、すりこまれている。たしかに、大事だとおもう。ただ、どこかで、切断、もおこさないと、つながり、がにごる、とおもう。

切断、には勇気がいるけど、切断したい願望、はきっと、せんざい的にはある。切断、によって、いまのなにかを変化させたい、という気持ちだろうか。

ただ、じふんでは、切断、をおこすのは難しい。だから、だれか他の人に、切断、をしてほしい、と願ってしまうのは、しごくとうぜんかもしれない。

切断、をテーマに、この住宅をみると、切断面がいたるところに現れる。切断したおかげで、このクライアントは、新たな生活を手に入れた。それは、今までの日常の延長でも、切断という行為で、前の住宅と今の住宅のちがいを、感じとりながら、ちがう気持ちで暮らしてる。

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自律とつながり

外にながれでるように、外へむかって、つながり、をつくろうとしたら、自身はどんどん、希薄なもの、になりやしないか。自身というものが、つねに、外とのつながりで、決まるから、自身単体では、成立、しない。その成立のしなさは、あいまいなものへ、そして、希薄なものへ、かえていく、とおもう。

外へながれでる、のを止めて、その場で自律、してみるのはどうだろうか。その自律する部分が複数あったら、その自律する部分同士で、ながれでるような、つながりをつくれば、自律したまま、外へのつながりも、つくれないだろうか。

これは、人にも当てはまるし、建築にも当てはまる、とおもう。複数の自律、きっとこれは、今進行中のプロジェクトに当てはめて、かんがるとおもしろいかもしれない、とおもった。

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コスパのかわりにゆるさを

なにか、ムダ、をつくりたくて、きっと、じかには役には立たないけれど、そのおかげで、豊かなきもち、になれるような状況をつくりだしたい。余分なもの、というか、余計なもの、といか、とかく、コスパや効率、ばかりが聞こえてくるので、豊かなきもちになれない。コスパや効率とは、対峙するもの、でも、それがあるおかげで、豊かさが成立するようなものをつくりたい。

きっとそのムダは、感覚的で、わかりづらい。だから、コスパや効率のそとにある。しかし、感覚的で、わかりづらいから、とくに、なにかを、はっきりとさせる必要もなく、あいまいで、ゆるい。この、ゆるさ、が今ひつようだと感じる。

そんな、ゆるさ、を肯定できるには、何があればいいのか、どうなればいいのか。かんがえるに値することだとおもう。

この住宅がきっかけで、ゆるさ、を意識しはじめた。クライアントの人柄が、そうさせたのかもしれない。

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直感にしたがう

意味がある、とか、意味がない、とか、とかく意味という言葉は、価値あるもの、のたとえになる。だけれども、何ごとにも、意味を見いだしていたら、つかれて、しょうがない。意味がつきまとうときは、直感をはたらかせる、ことができない。

建築に意味を見いだしたら、キリがない、ようにおもえる。かんがえてみれば、建築は、意味のかたまり、にもみえる。建築に意味をもとめることが、それこそ、意味がないときもあったし、建築に意味をもとめようとして、おかしな建築ばかり、がでてきたときもあった。意味のかたまり、とは建築を部材に、還元していけば、それぞれの部材は、なにかしらの意味をもち、設計する側は、その意味から、部材の集積をかんがえる。

でも、あんがい、さいごの部分は、直感だったりするから、意味が不明確だったり、それがおもしろい。この建築も直感にしたがった。

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未知のもの

時はながれる、あたりまえだけど、10年前をおもうと、この10年で30年分は生きたような気がする。いろいろとみつかるものだ。たぶん、10年前には想像もしてなかったことを、たくさんみつけた。この10年で、みつけ方もたくさん試したので、またまだ、これから、未知のものが、たくさん、みつかるだろう。

日々のなかで、暮らしと直結するもののひとつが、建築、だとおもっている。だから、どうしても、どう考えても、人をとおして建築を考えてしまう。建築が人に与える影響から考えてしまう。これからもそうだろう。

これらの住宅も、発端はすべて、人にどのような影響を与えるか、だった。この、どのような、の部分がこれからさらに、掘りさげていくところで、またまだ、未知のものが、たくさん、ありそうな気がしている。

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ボーダーラインをこえる

いかにして、ボーダーラインをこえるか、をつねにかんがえているような気がする。建築の場合は、つねに、なにかしらのボーダーライン、がつきまとう。それが、目にみえる、場合もあるし、目にみえない、場合もある。予算や、敷地境界線や、絶対にこえられないもの、もある。

なかには、ボーダーラインをこえあう関係性、もあるかもしれない。片方がこえても、もう片方もこえれば、バランスがとれて、問題にはならない、ような。そのようなボーダーラインは、意識すること、でみえてくる場合もある。その場合、ボーダーラインをこえてること、に気づかないこともある。

なにかで、ボーダーラインをこえてる、ことを気づかせることができたら、お互いにボーダーラインをこえあうこと、に抵抗もなくなるだろう。きっと気づかせるきっけに建築は役立つとおもう。この住宅は、そんなボーダーラインに気づかせてくれる。

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好きなようにやるための何か

スクラップブックのように、いろいろと貼りつけて、そこには、ルールもなく、好きなようにできる空間、ってあるとしたら、どんなだろう、とそうぞうしてみた。

そのときに、その空間をつくる側か、みる側か、でちがうかもしれない。つくる側は、どうやってつくるか、をかんがえるし、みる側は、どうやってみるか、をかんがえる。ひとによって、ちがうだろうが、じぶんは、つくる側でかんがえてしまう。

現実的に、スクラップブックのような空間みたいな、ありえそうもないことを、簡単にできるようにかんがえる。そうすることで、いろいろなひとを、巻きこみやすいし、みる側のひとたちも、現実感をもちやすくなる。みる側のひとたちは、クライアントだ。

この住宅は、好きなように部屋の範囲をかえることができる。ルールはない。あるとしたら、スクラップブックで紙の大きさがきまってる、ように広さに制限があること。

あんがい、スクラップブックのように、はじめにルールはなく、あとから自分しだいで、好きなようにやるための何かを持ちこみたい、と他でもおもう。それが、つくる側のおもしろさ、であり、みる側ではできないこと。好きなようにやるための何か、はみる側をもハッピーにする。

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たいせつな、みえない体験

ちょっとでも、日常とはちがう体験、が日常の中にあれば、そこから、さまざまな連鎖がおこる、とおもう。たとえば、その連鎖は、ふだん行かないような所、に行こうとか、なかなか会えない人、に会おうとか、またちがう体験をよぶ。体験すること、でしか、人はまんぞくできない、とどこかでおもってるから、日常の中のちがう体験はたいせつにしたい。

その、日常とはちがう体験、は非日常なことではない。たぶん、日常的にしている体験のみえない部分、だろう。それは、あえてみようとしないと、みえない部分だとおもう。そのためには、ちょっとした技術、も必要かもしれない。

きっと建築はその、日常とはちがう体験、をつくり出せるもの、だとおもう。そのためには、やはり、ちょっとした技術、が必要だろう。ただ、建築で、それをやる価値は、またちがう体験をよぶ、のならば十二分にある、とおもう。

この住宅では、密集地という立地から、空にちかづくこと、で地上の生活に、変化をつけた。人は、地面ではなく、空とむきあう。地面に接地していては、みえない部分、がそこにはあった。

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引っかかりをつくる

ズレていると、気になるし、引っかかりができてしまう。これは、ぶつり的なものにでもおこるし、言葉のような、目にみえないもの、に対してもおこる。この引っかかりが、良いものならば、引っかかったら、たのしいし、悪いものならば、気になるだけで、やっかいだ。

ものをつくることを、別のみかた、をすると、この引っかかりをつくること、といえるかもしれない。引っかかりは、意図して、つくることができ、先にふれたように、人の意識に作用し、たのしい気分にさせることもできる。

たのしい気分になって、といわれても、なかなか、たのしい気分にもなれるものでもないし、そこには、なり方はひとまかせ、のような感じもする。それよりは、たのしい引っかかりを、たくさんつくってあげることで、いわなくても、自然とたのしくなる。それが理想だと、いつも、おもう。

この住宅は、そんなことをかんがえながら、そうしたら、こどもも、おとなも、いろいろなところに引っかかりながら、たのしそうだったし、いろいろと、どのように引っかかるのか、発見があった。

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次を召喚するチカラ

つながりや、関係性でかんがえる建築が、いちじ、はやったような気がしてた。たぶん、いまは、それは、当たり前のこと、になり、そして、関心は、モノじたい、にうつって、久しいのだろう。

こう、モノのねだん、が上がると、おもうように、使いたいモノ、がつかえない。だからか、はがしたまま、あらわしのまま、なんて、途中のすがた、が仕上りになってるのを、多くみる。

ただ、いまはいいけど、それを良しとして、放置しておくと、つくり手のイメージに、あらたな本質的なモノを召喚するチカラ、がなくなっていくような気がする。

その時代のかたまりつつある状況から、一歩ふみこむ、ことが、次をつくりだす。途中でよしが通用するのは、最初だけ、だとおもう。

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少しだけの関係

なにがいいのだろう、なにが正解なの、手さぐりのときの気持ち。きっと、これって、そうそうこれこれ、とおもいたいし、どこかで、損したくない、得したいと、無意識にでも、おもってる。あんがい、たくさん、あって選べない。こんなとき、どうするかな、と最近、かんがえることが多い。

ネットには、たくさん、ある。ただ、たくさん、ありすぎるのも、こまる。だから、これが、いいじゃないの、などと、交通整理、してくれる人が、あらわれる。その人もまた、ネットには、たくさん、いる。もう、よけい、わからなくなる。さいごは、直感、にでもたよるしかないのかな。

けっきょくは、なにかに、だれかに、決めることになるのだが、それで納得してしまう理由、をさがしてる。なかなか、その理由を、うまく、しめせてる人は少ない、ような気がする。納得する理由って、あんがい、理屈じゃなくて、ささいなこと、たとえば、それ前からしってたとか、いちどは試そうとしたとか、なんか、じぶんと少しだけの関係があること。この、少しだけがミソ、かなと最近、おもってる。この住宅のクライアントも、そんなワタシとの少しだけの関係を、たぐりよせた、らしい。少しだけだから、気楽だった、と。

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建築は中間にいる

何か意味がありそうなもの、が目のまえにあったら、何だろう、とおもうだろう。そのとき、触れられるならば、触れたいし、あつかえるならば、あつかいたい。ようは、何かつながり、をつくりたい。

それは、その場が、どうであれ、いつも可能なこと、だろうか、いや、それを、いつも可能なことにする、場が必要だろう、とかんがえた。その場のひとつが、建築、になり得る。

いわば、建築が、媒介するもの、となる。媒介するものは、いつでも、中間にある。中間にあるから、何にでもつながる、ことができる。だから、媒介するものが、実際にあれば、あとは、そこに、つながりをきずきたいもの、を放りこめばよいだけである。

そのときの、媒介するものは、たしかな、存在、をそこで得ることができる。建築としては、いい、あり方のような気がした。この住宅も、はじまりは、そのような、中間にいる建築をめざした。

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感じる自然

めのまえに、木はあるが、それが自分のしらないところで、変化をしていく、自然の感じ、をとても簡単にいえば、そうなるとおもった。そうすると、めのまえで、その時間に、自分のしらないことは、全て自然のできごと、といえるかもしれない。かんがえてみれば、自然という言葉を、木や緑などの自然と、自分が関知しないことの、2通りのつかいかた、をするが、もとをたどれば、同じなのかもしれない。

自然を感じたい、とおもうと、森や海に、いこうとする。つねに、まわりに、森や海があればいいが、都市部だと、そうもいかない。海はムリだとしても、都市部で、少ない木で、森を感じるには、どうしたらいいのか、をかんがえている。

まずはきっと、先にした、木はあるが、それが自分のしらないところで、変化をしていく、ような状況をつくりだせばよい、とおもった。その状況を、今度は、建築が媒介となり、そこにいる人につたえる。つたわった人は、そこに自然をみる、だろう。こんなことをかんがえた。

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建築=メディア

デザイン、には注意がむけられるが、そのデザインを伝えること、には注意がむけられていない、とかんじた。大事なことは、伝えること、である。伝えることは、コミニケーションの際の伝達手段であり、それ自体がデザインの核心である、とかんがえた。

伝達手段は、コミニケーションの両端のつなぎ、の部分になる。つなぎ方によって、デザインの意味も、役割もかわる。だから、伝達手段も含めてデザインである、と同時に、伝達手段がデザインの核心になる。

建築には伝達手段も含まれる。いや、もしかしたら、建築とは伝達手段そのもので、伝達手段がカタチになったもの、かもしれない。そうすると、建築=メディア、ともいえる。

この住宅では、たくさんの意味をつめこんだ。その意味をつかみやすくするために、建築がそんざいしている、とかんがえた。

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たくさんできるコト

そんなもの、存在しないよ、とどこかで、おもいながらも、期待していること、って意外とありませんか。それは、だいだいが、カタチがないものであったり、目にみえないものであったりする。ちょっと、べつ角度から、カタチがあって、目にみえてるものが、全てかという、てつがく的なことにもつながるかな。ただ、そんなむすがしいことではなくて、何か、期待をもちたい、だけだとおもう。それが、全てのはじまり、全てのきっかけ、のような気がする。

建築の設計って、目にみえるモノをあつかいながら、目にみえないコトをかんがえる、ことかもしれない。だから、いつも、期待すること、でいっぱいになる、どこかで、そんなもの、存在しないよ、とおもいながら。ただ、設計者しだいで、存在させること、ができるコトはふえる。

この住宅には、居場所をみつけて、と想いをこめた。ただのイエでなく、特別な場所、としてのイエ。べつの言い方で、イエらしいイエ。イエがじぶんたちのものならば、それをもっとふかいところで、想ってほしかった。そのためのコトは、設計者しだいで、たくさんできる。

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閉じるの、開くの

こもる、ことに対して、建築は、とかく、ひはん的なような気がする。うちにこもる、すなわち、閉じた箱的な建築、はこのまれない。都市部では、眺望などに、きたいできないから、閉じて、こもり、必要な光をとりいれるだけ、とかんがえることは、ひとつの方法として、あってもよいはずである。

問題は、こもることで、社会とのつながり、がおろそかになる、のではという、建築だでなく、人にも当てはまること。ただ、オープンであればいいのか、閉じたなかでの、社会とのつながり、を建築として、つくり出すことに、可能性をみいだせば、よいだけだと、それはむずかしいことだが、おもう。ちょっと、それは、建築として、いま的なこととして、かんがえる価値はある。もしかしたら、閉じると開くの中間あたり、に落ちつくことも、ありえる。

これら2棟の住宅は、2つでひとつ、とかんがえ、互いにたいしては開き、外に対しては閉じた。きっと、このように、開くと閉じるが同時に存在し、その割合のちがいが、建築の存在のちがい、になることも、ありえる。

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実利と犯罪

実利、なんて言葉を、ことさらかんがえる。コスパとか、損得とか、にたような言葉があり、コスパより損得には、なんか、ちょっと、計算たかさ、がつきまとう感じがする。コスパも、損得も、その言葉じたい、きらいな人もいるだろうし、べつに、ビジネスや生活の中では、当たり前のこと、だよねとうけとめる人もいるだろう。私は、コスパも、損得も、どちらにも、かんしんがない。

ただ、実利はかんがえる。コスパも、損得も、比較するときにつかう言葉だから、比較にはきょうみがないので、かんしんがない。実利は、比較ではなく、利そのものだから、何がえられるのか、とか、何がかわるのか、とかには、かんしんがある。

だから、実利から、デザインをかんがえる、こともある。ちょうど、いまよんでる本に、1世紀まえの建築家ロースの、空間構成をかんがえるきっかけが実利だった、との記載があった。実利からデザインをかんがえることが、犯罪ではない、としり、ちょっとよかった、この住宅は実利だらけだから。

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クライアント登場

かんがえを、まとめようとして、手がとまる。クライアントからヒアリングしたこと、にはいつもヒントが、かくされている。かくされているとは、直接語っていないからで、語った言葉のうらの、その言葉を語らせる何かに、気がつこうとする。たいがいは、何かは、言葉でつかみとるが、最初は、イメージや場面で、でてくる。

そのイメージや場面には、人が登場するばあいと、人が登場しないばあいがある。手がとまるときは、人が登場しない。だから、人が登場するまで、待つ。人もクライアントのばあいだけでなく、だれだが特定できないばあいや、クライアント以外の特定の人のばあいもある。これも、クライアントが登場するまで、待つ。

この住宅は、いちばん最初から、イメージや場面に、クライアントが登場した。そのようなことは珍しい。とうぜんのように、ファーストプランで、はなしはきまった。

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きゅうくつな自由

きまった形式、から自由になりたいとしたら、また新たな自由になれる形式、をつくるのだろうか。それとも、形式から離れること、で自由になるのだろうか。

こうして、言葉にしてみると、形式から離れない、と自由になれないような気がするが、あんがい、自由になれる新たな形式、をつくろうというかんがえに、いたることが、おおいような気がする。

きっとその方が、都合の良い自由、がつくれると無意識に、おもっているのだろう。自由といっても、無秩序ではこまる。自由でいながら、ある程度の秩序、大外しはしないルール、はあってほしい、とおもうのだろう。でもそれは、形式をつくること、だろうか。かえって、きゅうくつな自由、になりそう。それは、自由とはいえない、気がする。

そんなことを、ずっと、かんがえながら、この住宅をつくったこと、おもい出した。

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しつこく、へんか

まとまりの良さが、みた目で、パッと、すぐわかることは、いいことなのか。ふかんして、プランをみてると、まとまりが良くなる、しゅんかんがある。それまで、あまり、しっくりと、こなかったモノが、急に、何かをきっかけに、へんかする。

まとまり良く、へんかしたのだから、それで良し、終了で、とりあえず、いいだろう。一旦、ここでまとめる。でも、こころうちでは、どうじに、もっと他のことがないか、とさぐっている。

そうやって、しつこく、やるのが、おもしろいし、すきだ。この住宅は、そんなことのくり返しで、だんたんと、へんかしていった。

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垂直てんかい

ふしぎと、今まで、当たり前にしてきたこと、にたいして、違和感があるようになった。階ごとで、かんがえること。もちろん、半階ずらすなどは、よくある。しかしそれも、階ごとでかんがえる、範疇になる。

そもそも、建築の構造が、階ごとで、かんがえるのが基本。だから、おのずと、計画だんかいから、階ごと、になる。階ごとは、水平しこう、である。もうすこし、水平しこうではなくて、垂直しこうへ、もっていきたい。

高さのちがいが、連続するような場所を、自然のなかで、想像してみる。その場合、高さがちがう、合わないことにたいして、不自然さは無く、段差をつくるという意識にはならない、気がする。

階段が、階段として、みえてしまうと、たんに、段差があるだけの場所、になるだけかもしれない。階段としては存在せずに、垂直方向に展開するような場所、がりそうとして、ありえる。

この住宅では、階段が、階段として、みえる。この階段がなくなれば、いいのかもしれない。

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モノは気分しだい

なにかを感じるとき、そのモノの、審美てきなぶぶん、にアプローチができている。そして、そのときの、感じるきっかけは、気分による感情、に左右される。気分がよければ、よくみえ、気分がわるければ、わるくみえる。モノと気分は直接、関係しながら、モノはある。

そうなると、モノ自体がどうか、はあまり関係がなくなる。そしてそれは、気分がかわれば、モノの審美てきなぶぶん、にたいするアプローチ、もかわることもいみする。モノの美しさは気分しだい、たんてきにはそうなり、モノ自体を、はっきりと、なにかこうである、とつかめない。

建築で、かんがえれば、気分によって、みえ方がかわる、ということでもある。ならば、気分にうったえるようなもの、をたくさんはいすると、みえ方をコントロール、できるかもしれない。さらには、そうすることで、モノ自体がどうか、というところに、たちかえること、ができる。

この住宅では、動きと連動する建築のぶぶん、に気分による感情を、ゆさぶるデザインを、ちりばめた。気分のよしあしが、建築のみえ方だけでなく、動き、にもえいきょうする。気分が身体を感じる、きっかけになる、こともあわせた。

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ひっかかり、からイメージ

ひっかかるもの、があると、きっと、印象にのこる。よく建築をみてまわっていたころは、さいしょに、ひっかかるもの、をさがした。作者の意図、と合う合わない、は関係なしに、そのひっかかるものが、最初のいとぐちで、なぜひっかかるのか、をかんがえる、ところから、スタートした。もし、ひっかかるもの、が無ければ、その場でしゅうりょう。

たいがいは、ひっかかるもの、があるので、そこから先は、建築とのたいわの時間。つくる方と、しようする方を、いったり、きたりしてから、いっぽひいて、みる。いっぽひくのは、建築を、もの自体、として、世界のがわからみるため。

この建築では、意図して、ひっかかるもの、をたくさん、ちりばめた。ひっかかるものが、たくさんあることによって、かえって気をちらし、べつのもの、をイメージさせたかった。それは、いぜんにみた建築、からの学びだった。

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そんなこと、しますか

じふんから、出てきたものは、いとおしい、とおもう。きっと、じぶんの分身、とかと、無意識のうちに、おもっているのだろう。

使用するひとに、そうおもって、ほしい。建築をつくるほうが、できるのは、途中まで。すべて、ではない。願わくば、建築に、触発されて、じぶんらしいアウトプット、をしてほしい。また、そのアウトプットを、あとからみるのが、楽しみ、でしょうがない。

この住宅は、そんなことを、意識した。あとのアウトプットは、撮影できないが、そういうことしますか、とのけぞった。おもいもよらない、アウトプット、こそが、そのひとなりの暮らし、だとおもうし、住空間をもとめる意義、だと、あらためて、おもった。

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感じかたをちりばめる

ものから、感じることは、人によって、ちがう。それが、当たり前だと、おもうけれど、案外、おなじだと、みんな、かんがえている。だから、感じたうえでの、最終的な、ものや、かたちを、提示してくるし、つくろうとする。

ちょっと、その前で、とどめてみようかな、とおもう。最終的な、もののかたちや、イメージを、感じる人に、ゆだねる。いろいろな、感じかたができるもの、があり、その時々で、そのなかから、感じる人の、つごうにあわせて、感じとる。感じとりかた、がちがえば、最終的に、見えるもののかたちも、イメージも、ちがうはずだ。

その当時は、そこまではかんがえていなかったが、この住宅では、いろいろな、感じかた、ができるもの、をちりばめた。どこを、感じるかによって、ちがうものが、現れただろう。

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つくり出すのがキモ

せつだんと、せつぞくの繰り返し。集合住宅にたいして、ちがう見方をしたら、そうなるかと、おもった。各住戸が壁で、せつだんされながら、せつぞくされている。さらに、各住戸が、外にたいしても、内にたいしても、せつだんされながら、せつぞくされ、つながる。

集合住宅のれきしは、このせつだんと、せつぞくのれきし、だとおもう。どのように、せつだん、すなわち、分割し、どのように、せつぞく、すなわち、つなげるか。

分割は、はじめから、部分があるのではなく、全体計画のなかから、ちがい、をつくり出すことで、わかれていく。そのわかれた部分が、また、つながることで、全体が形成される。しかし、全体は、部分の、総和には、ならない。その差を、どのように、つくり出すかが、集合住宅のデザインのキモ、だとおもった。

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中断、OK

れんぞく的に、流れるように、すすめたいが、なかなか、おもうようには、いかないことが多い。ときどき、よそ見、をしたくなり、立ちどまる、気になるから。気になることは、わるいことではない。だから、立ちどまる前後が、うまくつながれば、いいとおもう。

かんがえてみると、案外、すなおには、ながれていかないものだと。これは、空間のはなし。あちこちに、注意をひくもの、がたくさんあるから。それらを、全部、なくすわけにも、いかないし、なくせない。だから、注意をひかれてもいいもの、ばかりにすれば、立ちどまってもいい、ことになり、立ちどまる前後に、いい影響しかあたえない。

注意をひかれてもいいもの、ばかりにするには、それらを、きちんと、おさめる場所がひつよう。この住宅では、通路をかねるスペースに、注意をひかれてもいいものを、おけるようにし、そこで、じゅうぶんに、ひたって、もらう。ここはワーク&スタディスペース。

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インテリアとしてのがわ

がわと、中身を、ぶんりして、かんがえると、中身のあり方、がいつもと、違って、おもえる。建築のがわは外壁で、中身はインテリア。中身だけで、成立させることができるので、外壁がうけもつことから、解放されて、インテリアを、かんがえることができる。さらには、インテリアとして、がわ、もあつかうこと、ができる。

この場合、いわゆる、入れ子、のじょうたいに、にているが、入れ子の場合は、相似の関係、であるから、入れ子、ではない。

もしかしたら、ふつうの、階層のつみかさね、にならされている、のではないか、とおもった。層があることに、もっと、かのう性をみいだしたい。そのために、がわと中身をぶんりをした。

以前につくった住宅でも、がわと中身のぶんり、のいしきはあった。ただ、今回は、より中身で、かんけつする、ようにかんがえている。

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つながりのちがいだけ

何かを、かんじることで、建築が、うかび上がる。そのことは、とても、大切だと、おもっている。そのことが、今度は、まわりと、どのようにつがるのか。そこで、つながりが無ければ、単なる、ひとりよがりの建築、でおわる。

まず、建築とかかわる人が、かんじることで、建築として、形になり、うかび上がる。形になるとは、もともと、そこに建築は、あるけれど、何もかんじ無ければ、無いのと、同じだから。形となり、うかび上がった建築が、今度は、まわりとのつながり、を持ちはじめる。

このように、しゅつげんした、建築が、どんどん、まわりと、つながるイメージ、をしていた。ただ、さいきん、これは逆では、とおもいはじめている。

たしかに、何かを、かんじることで、建築が、うかび上がるのは、それはそうだとおもう。だが、はじめにあるのは、まわりとのつながり、の方であり、まわりとのつながり方、のちがいが、生みだされることで、個々の建築を、かんじること、ができるようになるのではないか。建築のちがいは、単に、まわりとの、つながりのちがいだけ、ではないか。

この住宅は、まわりとのつながり方を、かえてみた。建物の四周に、ウッドデッキをしいた。たった、それだけのことで、たしかに、建築が、うかび上がった。

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存在感も、ひつようでしょう

ひかくてき、安定してるモノを、いつも見るから、そこにある、とおもう。これが、ときどきにしか、見なかったら、無いも同じかもしれない。存在感のはなしで、内容もだいじだが、頻度がだいじ、だとしたら、どうなるか。

存在感は、なんにでも、つきまとうが、建築での存在感は、よりじゅうような気がする。建築は、いつも、安定して、そこにあり、いつも、見るから、存在感があるはずである。しかし、存在感がない、建築もおおい、ような気がする。そのちがいは、どこから、くるのだろうか。

同じ、だからではないだろうか、差異、がない。いつも、そこにあるのに、存在感がないのは、ひかくするものと、同じ、だから。この場合、ひかくするものは、まわりの風景、まわりの建築。まわりと、ひかくして、同じならば、存在感がない、のも当たり前。この場合、存在感をだすには、まわりとの差異、がひつよう。この住宅は、外観のみで差異をつくり、存在感をだした。

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感じるから、モノがわかる

じっくりと、モノをみることを、最近、してない、とおもった。スマホやタブレット、パソコン、本もモノだが、これらは、モノというより、情報を、みてるだけ。だから、モノを、対象として、じっくりと、みることがほとんどない。ただたんに、モノを、感じてるだけ、のほうがおおい、かもしれない。あんがい、みんなそうではないか。

もちろん、しごとで、モノをじっくりと、みることはある。だが、それは、しごとをしてるだけ。自ら、すすんで、すきで、モノをみてるわけではない。だから、話はべつ。

モノって、みるより、感じてる、ほうがおおい、かもしれない。そのことを、もうちょっと、意識してみよかな、とおもった。感じることで、モノがどういうものか、浮かびあがってくる。そうだとしたら、モノのつくりかたもかわる。

この住宅は、そもそも、ほぼ同素材で、空間をつくることにより、どこか、特定の部分に、焦点があたらないようにした。そのことで、じっくりとみるより、全体的に、ふかん的に、空間を感じてほしい。感じるから、モノがわかる。

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感性がつなぐ回路をつくる

いい天気だな、あおぞら、は気持ちいい。このかんじを、いつも、持ちこみたい。くもりぞら、が多いちいきには、住めない、だから、気持ちいい、ものにしたい、となれば、このあおぞらを持ちこむ、つまり、みえるようにすればいい。

ただ、あおぞらが、単に、みえるだけでは、気持ちよくは、ならないとおもう。あおぞらなんて、みようとおもえば、どこからでも、みえるから、あおぞらと自分をつなぐ、回路のようなものを、つくるひつようがある。

その回路が感性だと、かんがえるが、ただの感性ではなく、汎用性がたかい感性。それは、たとえば、あおぞら、のぶるーを、いろいろなものと、むすびつけてしまう。きっと、その汎用性のたかさは、あおぞらの、みせ方によるのだろう。

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感性があつまって、わかる

空間は、けいそくするから、おおきさを意識してしまうが、そもそも、空間を、どのようにとらえるかは、あくまでも、感性てきなこと、だとおもう。ひろさも感性であり、あかるさも、心地よさも、天井のたかさも、感性である。感性てきなことが、あつまって、そこに、そのような空間があることが、わかる。なにも、感性てきなことが、なければ、そこには、なにもない。

このように、かんがえれば、モノに左右されない。モノがいいかわるいか、たかいか安いか、は関係なくなる。そうすれば、そこに、たくさんデザインできるよちが生まれ、感性てきなことを、生むために、よりデザインが、じゅうようになる。

この住宅は、せまいけれど、そのせまさをかんじさせないように、感性てきなことを生む、デザインをちりばめた。あつさ、さむさも、空間をとらえるための、感性である。だから、モノだけでは、解決しない。

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分けたら、たのしい、よかん

あれはこれ、これはあれ、と何かと、分けたがるひとがいる。分けるには、ちしき、が必要。だから、分けることによって、ちしきをみせているのだろう。ただ、分けることと、それをりかいすることは、違う、とおもう。分けることなど、実際には、りかいする上では、どうでもよいこと。むしろ、分けがたいことが、たくさん、浮かぶくらいでないと、りかいしている、とは言えない、とおもう。

さいきん、気になるのは、部分に分けたものを、たんじゅんに、ぜんぶ足しても、もとの全体には、ならないだろう、ということ。どちらかというと、いったん、分けたものを、またぜんぶ足すと、もとより増えるか、大きくなる、とおもう。

それは、分けることで、何かよけいなものを、纏うからだろう。そういういみでいうと、りかいを、わざと、困難にするために、分ける、というのはありで、おもしろいかもしれない。

なかなか、素直にはわからない、ちょっと違ったかんじがする、ような空間を、つくりたければ、さまざまな分けかた、をするのもいい。分けかたは、デザインだから、さまざまなデザインができる。ちょっと素直にはわからない空間って、日常には必要かもしれない、とおもう。そのほうが、たのしい毎日になる、よかんがする。

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寄せあつめが、おもしろい

としが明けた、てんきもいい、はれやかな気分、ぼんやりした時間がつづく。ぼーっと積読ほんをながめる。なんで、そのほんを買ったかは、いまはもう、おぼえてない。かさなったタイトルで、れんそうゲームなどしてみる。そういえばと、他のほんを、さがしにいく。読みたいときに、かぎって、そのほんだけない。ふだんの、不せいりのたまものを、正月そうそう、なげいても仕方ない。とにかく、一冊のほんに手をのばす。

そのうち、そういえばと、また他のほんを、さがす。そしてまた、そういえば、となり、そしてまた、そういえば、となる。まるで、グラスホッパーか、はしご酒か。けっきょく、読みちらかした、残がいをながめて、おわったいち日。

その寄せあつめの、残がいを、よく日もながめる。あたまの中には、何ものこってない。ただ、タイトルれいそうゲームには、ちょうどいい。そうか、なるほど、などと、思いつくこともある。なかには『無根拠からの〜』など、というタイトルのほんもある。寄せあつめからおもうことと、それぞれのほんのタイトルからおもうことは、ちがう。

見つからなかった、ほんのおかげで、寄せあつめの山ができた。でも、それは、そのときどきの、読みたい気分、を足したもの、とはちがう山になった。どちらかというと、この、無根拠な、寄せあつめの、山のほうが、すきだ。無根拠でも、あつまれば、根拠ができる。それには、偶然のおもしろさ、がある。そういえば、いつも、このような、つくり方を、してきたかもしれない、住宅にたいして。

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時間をかけないから、なくなる

飾りが、ぎらぎらとあっても、こころが晴れたりはしないだろう。そのぎゃくに、何もかも、ムダだとして、さいしょう限にしても、たのしくもない。やはり、ものがある良さ、というのがある。

ちょうど良いものがない。最近、おもうのは、ものにあわせる、しかないこと。ほんとうは、こうあればとか、ほんとうは、こうあって欲しい、などとおもいながら、手にすることが多い。どうして、ちょうど良いものがないのだろうか。いっそのこと、自分でつくるしか、ないのか、などともおもう。

きっと、決まりきった型が、はんらん、してるからだろう。ちょうど良いものはあるが、それを探しだすのに、苦労する。ひにくなもので、ネットで、何でもアクセスできるけど、ちょうど良いものに、たどりつくのに、時間がかかる。そのぶん、時間をかければいいのだが、時間がかかるものには、価値がないとされ、ゆえに、よけいに、ちょうど良いものの需要がなくなり、ひとしれず、きえていき、決まりきった型だけが、いきのこる。

もっと、時間をかけることに、価値がある、となれば、型などはんらんしない。時間をかけることがムダ、だとしてるから、ちょうど良いものが、なくなっていく。

この住宅は、時間をかけることが、ゆるされた。決まりきった型は、はじめから、もとめられなかった。もとめられたのは、住宅というもの、によって、ぎらぎらな飾りではない、実際のじぶんたちの生活にそった形、としての空間だった。

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自分のカラダが、いとおしい

じぶんの身体を、とおして、はあくできることが、建築、とりわけ、住宅には、だいじだと、何がきっかけか、わかいころから、おもっていた。ただ、ただ、身体をとおして、かんじること、でしか、建築というもの、をはあくすることは、できないと。

身体をとおして、かんじるとは、見ることからはじまり、手足でふれ、移動することで、身体に、建築を、記憶として、きざむこと、かもしれない。

きっと、痛いおもいをしたほうが、建築をマジマジと、見て、ここはこうなってるのか、などと、こまかいところまで、はあくするはず。

そのときに、たよりになるのは、じぶんの身体だから、住宅はこうあるべきとか、建築はこうあるべきとか、カタチは、などと、じぶんのはいごで、いわれても、関係ない。

よしあしは、身体にきいてくれ、とばかりに、むしろ、身体でかんじるほうが、そのときに見える、住宅にたいして、すなおだとおもうし、それが、じふんの世界としての住宅をつくる、ことになるとおもう。

そんなことをかんがえながら、この住宅は、ちょっと上り、ちょっと下る、そして、また移動するようにしてみた。きっと、ここでの生活では、記憶のなかに、身体のかんじが、きざまれ、それによって、記憶がよりふかく、よりせんめいになるだろう。それって、ここで、生活してるじふんが、いとおしくなることだと、きっと。

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みえるものが、すべて

場あたりてきに、ということばは、何か、いんしょうがわるい。

何か、カタチをかんがえたり、ものづくりをしようとしたとき、まったく、何もないところから、かんがえたり、つくったりはできず、はいごに、これはこういうもの、というかんがえ、みたいなものが、存在すると、いしき的にも、むいしき的にも、かんがえるのではないか。

きっと、何か、ぜったい的なものにした、そのはいごにあるものにそって、つくろうとする。ただ、もっと、目のまえのものに、しょうてんを当てることもでき、そんなはいごのもの、など無いといえる、場あたりてきな、つくり方もあり、だとおもうし、その方が、あますところなく、何か、表現できるような、気がする。

この住宅では、ただ、きびしい敷地じょうけん、と向きあうことで、ここでしかできない、空間をつくろう、とした。そのとき、敷地にたいして、目にみえるもの、以外のものは、無いもの、とした。

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おもうことが、そのものになる

さいきん、南部鉄瓶を手にいれた。もくてきは、鉄分ほきゅう。まいあさ、コーヒーをいれるので、そのお湯をわかすのに、南部鉄瓶をつかえば、いっしょに、鉄分ほきゅうもできる、とかんがえた。

どうせなら、気に入ったものをとおもい、北欧のデザイナーもの、南部鉄瓶なのに、にほんには、なかなかないカタチ、すきなカタチ、のものにした。

もともともっていた、南部鉄瓶のイメージとはちがう、鉄瓶というより、ケトルということばで、表現したほうがいい、カタチをしてる。鉄分ほきゅうが目的だから、南部鉄瓶らしくなくてもよい。

さいしょは、南部鉄瓶がほしい、とおもったから、もっていた南部鉄瓶のイメージ、とのズレがうまれた。だから、手にいれたものに、そのイメージのズレ、が上乗せされた。そのズレも、カタチからくる印象のひとつになり、カタチをつくる要素のひとつになった。

もしかしたら、何かものがあるとき、そのものが実際にどうかより、そのものがどういうものか、とあぶり出すようなこと、でしか、そのものを捉えることができないのでは、とおもった。

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目のまえに、記憶がある

目のまえにある木を、みている時は、きっと、過去にみた木と、むいしきのうちに、比べているのではないか、とおもった。

木は、いたるところにあるけれど、いしきしてみるときは、特別なとき、である。たとえば、自然のなかにいったときとか、木におもいいれがあるときとか。いずれにしても、木との、特別なかかわりあいが、すでにあるから、比べてみることになるのだろう。その特別なかかわりあいを、記憶というのかもしれない。

もしかしたら、記憶なしに、目のまえのものをみることは、できないのかもしれない。ならば、そのときに、記憶をひきだしてくるものは、目のまえのものの、なんだろうか。

この住宅では、たとえばそれは、空をみたときの、あおさ、だったり、くものしろさ、だったり、太陽のまぶしさ、などの、ひとの感性にうったえてくるもの、だとおもい、空をとりこみ、記憶をかっせいか化し、暮らしと空を、つなげた。

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とくべつ感ある、そんざいにする

ひとはつごう良く、ものを見わける。見わけることを、知覚、というのかもしれない。知覚は、もの、にたいしてだけ、おこるらしく、もの、をじふんのつごうで、かいしゃくして、次に、そのかいしゃくを、ものに、当てはめる。だから、じふんの中には、知覚は、のこらず、すべて、もの、に知覚がつくらしい。

ものは、そのような、連続したひとの知覚、の集合でできている。だから、もののじったいは、ひとによってかわり、つねに、一定ではないだろう。流行るものもあれば、すたるものもある、のもうなずける。

ただ、ひとの知覚が、ものをつくる、ことにはかわりがない。だとすれば、ひとの知覚に、はたらきかける建築を、構想することは、ありえる。

この住宅は、壁とのキョリが、知覚にえいきょうを、あたえることをかんがえた。遠くからみたばあいと、近くからみたばあいで、みえ方がちがう。画像は、遠くからみたばあいだが、近くではみえるものが、この画像では、みることができない。このみえ方の差が、知覚のズレをうみ、壁に、ちがった意味をあたえ、ここだけの壁のそんざい、につながる。それは、この住宅に、とくべつ感をあたえる。

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壁はなくすより、つかう

あたりまえのように、仕切りがある、ことに、いわかんを覚えたので、ペンを手にしながら、フリーズしてしまった。いつものように、スケッチを、くりかえしたところで、いきつく先が、あるていど、想像できてしまうので、この想像できてしまうこと、も重要で、だから時間とお金が、よめるのだけれど、いわかんの元が、気になった。

時間とお金が大事、ならば、フリーズしている場合、ではないが、いわかんを、とりのぞく方が、もっと、価値あるもの、を手にいれる、ことができそうだとおもった。

いわかん、の正体は、いぜんにも、かんじたことで、何もギモンをもたずに、壁をつくることで、そのときは、壁をなくしたり、床を半階ズラす、などして、仕切るのではなく、領域をめいかくにした。

ただ同じことはしたくないので、いま、これからかんがえることは、ばくぜんとしてるけど、空間の流用、かなとおもう。

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階段って、あたえるよね

よこにひろがっていく、水平しせんと、たてにひろがっていく、垂直しせんがあり、水平しせんは、広さを、垂直しせんは、高さをかんじる。斜めのしせんは、広さと高さの両方をかんじる。

さらに、広さは、つながりへ、高さは、ふかさへ、となるとおもう。つながりも、ふかさも、両方とも、だいじだから、斜めのしせん、斜めのうごき、が必要になる。だから、建築の部位で、階段は重要だとおもう。

この建築では、階段をしょうちょう的にみせた。階段はいつも、わきやく、ただの通過する場所だけど、斜めのしせん、うごき、とすれば、それはとても、重要な場所であり、人のうごきは、人のしこうと、直接つながるから、階段がどうあるかは、人にかなりの影響を、あたえるでしょう。

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とにかく、あかるく、しました

これはこうだと、知らないうちに、きめつけたりしてしまう。あんがい、それが、あたっている、とおもいたいけど、本当は、きめつけない方がよかった、と後でこうかい、しないですか?わたしは、こうかい、します。

もし、きめつけないで、ありのまま、受けとめたら、きっと、ちがう世界が、ひらけた、かもしれない。

でもね、いま、見方をかえれば、大丈夫、とおもうのですよ。建築は見方のかたまり。いま、そこにいる住宅の見方を、かえれば、暮らしが、かわる。

この住宅は、暮らしをかえたい建主のために、見方をかえてもらいたい、とねがいました。そのために、まわりを囲まれているのに、とにかく、明るい空間をつくりました。

どこまでも、あかるく、そして、あかるく。どこでも、あかるいから、それりゃ、いままでと、ちがうから、かわりますよね、それも、あかるくだから、良いほうに。不思議と、わらい顔が、かわるんですよね。

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大切なカタチは、つながる

カタチには、ココロで感じとるものと、カラダで感じとるものがある。ココロにうかぶカタチ、というもので、すきなカタチや、きらいなカタチも、ココロからくるものだろう。スロープのような斜めのカタチ、階段のようなギザギザなカタチは、カラダで感じとるもので、うごきをカラダで、感じとる。

そうすると、ぎゃくもありえる。カタチがココロをうごかす、カタチがカラダをうごかす。ココロをうごかすとは、カタチがなにかを、想起させる。カラダをうごかすとは、カタチがなにかを、決起させる。

よくかんがえてみると、建築は、ココロのカタチと、カラダのカタチで、できている。なにかを想起させるか、なにかを決起させるか。

この住宅では、我が家であること、じふんの居場所であることを、想起させ、その家の中を、すきに居場所を、えらんで、かえるように、決起させる、ようなカタチを、たくさん、ちりばめた。家とココロとカラダが、つながる感じが、ここでいちばん、大切にしたかった。

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どうにでもなるから、それがいい

すべてが、まる見えだと、こまるけれど、かと言って、壁にかこまれるのも、きゅうくつになる。何か、じふんがおよぶ範囲を、きめたくなるから、壁がひつようになる。そうやって、いまの居場所を、たしかめている。きっと、あんしん、したいのだろう。

ならば、あんしん、できれば、壁はいらなくなる。どうすれば、あんしん、できるのか。見えなければ、あんしん、できるのであれば、壁のかわり、をつくればよい。

柔軟性を、かくとくするために、かんがえる、ひつようがあった。柔軟性は、固定しないこと、どうにでもなるさま、それが、部屋の仕切りに、ひつようだった、この住宅では。

だから、壁を技術的に、開閉できる、ようにした。ここでは、開閉できることが、あんしん、だった。ときに、じぶんがおよぶ範囲を、きめる方法が、きちんと、固定すること、ではなく、どうにでもなることが、じふんのせかい、をつくると、この建主からまなんだ。

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あふれるものが、いとおしい

目のまえにあるものを、どんどん、否定していく、それはいらない、それはなくてもいい、それはあっても役にたたない、それはむだ、などとやっていくと、じぶんのカラダすら、無くてもよくなり、最終的には、そうやって、否定してる、じぶんのこと、しかのこらなくなる、これがデカルトの『われおもう、ゆえに、われあり』らしい。

これって、断捨離のまつろかな、ミニマリストのまつろかな、みんな、デカルトに、なりたかったんだ、カラダもいらないんだ、そうか、捨てるじぶん、なくすじぶん、だけのこればいいのか、なんか、たいじなものまで、なくしそう。

ものがあふれてる、ものに囲まれてる、状態はよくないのかな、整理というか、どこに何があるか、わかれば、それでいいのでは。好奇心おうせいならば、ものでも、なんでも、あふれるよ。好奇心のほうが、まさるとおもう、なくすより、捨てるより、デカルトより。だって、そのほうが、単純に、おもしろい。

この住宅は、ものがあふれる、といいように、つくってみた。そのほうが、生活感がでる。生活感だけが、ゆういつの、じぶんの、せかいを、しる方法だし、いまを、いきてる感じがする。

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ぼんやりだって、するでしょ、脳が

この木をみてるとき、きっと、あの木のことを、かんがえている。だれでも、よくあるとおもう、目のまえのものではなくて、他のもののことをかんがえていること。こころ、ここにあらず、状態のまま、ただ、ぼんやりと、目のまえのものを、みてる。

それは、集中力がない、などといわれそうだけど、きっと、脳が、こうそくで、目のまえのものと、ほかの何かを、むすびつけようと、しているにちがいない。それは、脳の暴走かもしれないが、しばし、その暴走に、つきあって、ぼんやりと、するのもわるくない。

だから、ぼんやりとできる場所、がひつよう。ただ、どこでも、いいわけではない。脳だって、ひとならぬ、場をみる。脳がぼんやりするいえ、っていいな。ひとではなく、脳がぼんやり。この住宅は、そんな、脳がぼんやりして、まったりしてくれたら、とおもう。

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ながれてる時間の感覚だった

森のなかに、自然のなかに、すみたい、とつねひごろから、おもってるので、いま、都市にすんでる身としては、かんたんに、かいけつするならば、田舎へ、いけばいいのだが、あるいは、二拠点、多拠点とふやして、都市と田舎の、りょうほうにすめばいい、いっぱん的には、そうなるのだろうけれど、なにか、しっくりとこない。

田舎へ、拠点をふやしたところで、かいけつしないだろうと、おもってしまうのは、自然のなかで暮らす、多拠点で暮らす、ぎじ体験は、いくらでも、できるので、なんどか、トライしてみたけれど、ただたんに、自然の中に、拠点をかえればいい、というものでもなかった。

たぶん、もとめていたのは、ながれる時間への感覚、だったのかもしれない。なにをしていてもいい、寝ていても、食べていても、さんぽしていても、ボーっとしていても、たとえ、しごとをしていてもいい、ながれている時間が、自分ではどうしようもない、自分とはかんけいないところで勝手にながれてる、そんな感覚、じぶんでは操作できない、もうそれでいいじゃないか、とおもえる感覚。

どうしても、時間を管理できる、とおもってしまう。ただ、自然にたいしては、すなおに、自分では、どうしようもできない、そんな、どうしようもできないものに、囲まれれば、きっと、じぶんの時間感覚も、かわるだろう、という期待から。

こう書きながら、しっくりこなかったことが、整理されてくる。ならば、いまでも、ここでも、できるような気にもなる。

この部屋は、そんな、あたまを、整理する時間と場所を、ご主人のために、住宅内離れ、としてつくった。

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ちがいがわかる住宅

キッチンのまえの窓をあけると、おとなりの木がみえる。さいきんは、さむいのでしないが、毎朝、窓をぜんかいにして、空気のいれかえをしながら、ながめていた。ただ、窓をあけなくても、窓ごしにはみえるから、葉っぱのいろの変化はかんじることができる、さいきんは赤茶いろ。

他の窓ごしには、うちのオリーブの木がみえる。いつもあおあおとしていて、葉っぱのいろに変化はないけど、成長がはやいな、といつもおもう。

両方とも、室内から木をみる、ということはおなじ、でも、かんじ方、いみがちがう。キッチンからみる木は、おとなりの木、だから、おとなりさんも毎日みてるだろうし、こちらも、みてる、かんじ。うちのオリーブの木も、また、ちがうおとなりさんが、毎日みてるだろうし、こちらは、みられてる、かんじ。

あたりまえだけど、あきらかに、ちがう。でも、この、あたりまえだけど、あきらかに、ちがうかんじを、つくるのが、空間づくり、だとおもう。この住宅は、たくさんの、あたりまえのちがい、をしこんでみた。

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身のまわりに、何をおきますか

さいきん、南部鉄器の鉄瓶をかった。南部鉄瓶のカタチは、まるっこい、火鉢のうえで、にあうカタチがほとんど、ただそれでは、いまのいえの、キッチンには、にあわないから、もっと、らしくないカタチのもの、をさがした。

もくてきは、鉄分ほきゅうだから、素材が鉄ならば、カタチはなんでも、いいだろう、という声が、きこえてきそうだが、そうはいかない。目にみえるものすべてが、じぶんの世界をつくる、とおもえば、まいにち、つかうものはだいじ。

そう、じふんの世界は、日常という、はてしない地平のうえで、うごめくものたちによって、つくられると、かんがえている。だから、身のまわりにおくもの、こそ、いちばん、だいじ。

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パラパラな自然でも、ゆたか

自然をかんじる、っていつも、ふしぎだとおもう。山や海にいけば、自然しかないから、自然をかんじるが、きっとそこに住めば、自然があるのが、あたりまえになり、だんだんと、自然をかんじなくなる。

都市部にいると、せっきょくてきに、緑をとりいれること、条例などもあり、パラパラと緑をみかける。パラパラの緑では、自然をかんじるまではいかないが、自然をせっきょくてきに、かんじよう、とする姿勢にはなる。

けっか、自然にかこまれて、住むより、都市部のパラパラの緑のなかで、くらしたほうが、自然を日々かんじるのでないかな。そんなことをかんがえて、パラパラの緑でも、パラパラの緑なりに、くふうをすると、どこでも、自然ゆたかにくらせるよね。

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たしかなものは、あいまいだ

たまたま、偶然、そうなっただけ、べつの可能性は、あったし、いつまた、変化するか、わからない、としたら、たしかなもの、ってないな、と。

ものをつくるって、たしかなもの、をつくろうとする。ものをつくる仕事に、忠実になろうとすれば、あるいは、いいものをつくろうとすれば、たしかなものを、目指すことになる。それがないとなると。

逆に、たしかなものって、あるのか、とかんがえると、何がたしかなものなの、となる。

いずれも、仮に、かんがえているだけ、だけど、たしかなものって、何か、あいまいだな、とおもう。

きっと、そんなことが、根底に、あったのかもしれない。この住宅では、部屋の仕切りが、あいまいで、それが、要望だった。そう、ここでは、あいまいなことが、たしかなものだった。

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翻訳がやくめ

けはいを感じるように、ひとは、何かのこんせきを、感じるのうりょくがある。これって、いつもおもうけれど、すばらしい、こと。もとあったもの、なくなっていくもの、ちっていくもの、に何かを感じることができる。たとえば、ちりゆく紅葉に、たとえば、しずみゆく太陽に、たとえば、かわりゆく季節に。きっと、そのとき、ひとは、じぶんのえんちょうとして、じぶんの一部として、あるいは分身として、そのものを感じている。

だから、きっと、逆もある。あたらしく、うまれゆくものにも、けはいをかんじる、ことができるはず。そんな、無意識とも、よべるようなもの、へのけはい、それをきたい、と言うのかもしれない。それもまた、ひとにとって、じぶんのえんちょうや、一部や、分身で、それを、カタチにしたい、といつもおもう。

この住宅では、でてくる言葉とは、まったく、かんけいがないところで、カタチが、きまっていった。それは、なにをきたいしているのか、ひとは、じぶんでは、わからないもので、それをカタチに、翻訳するやくめ、をしたけっか、そうなった。

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それだけで、価値がうまれた

なにかを感じるから、そこにいるのがわかる。そこにいないと、わからないことを、感じるから、そこにいる価値がある。価値があるとおもえるばしょは、そこだけでしか、感じることができないものがある。いずれも、感じるひとがひつようで、ひととばしょを、感じることがつなぎ、価値をつくる

建築のばあい、感じることは、ものをかいする。ものがどうあるかで、感じることがかわり、価値もかわる。すべてを、感じることに、かんげんさせることで、価値をみちびきだすことができる。

この住宅では、明るさを感じることが、価値になった。1階でも、陽のひかりがさしこみ、明るくくらせる、そんなふつうなことを、価値にした。それは、そんなふつうなことを、えられる環境、ではなかったから。

1階から空がみえるようにした。やったことは、それだけ。ものとして、2階のゆかと、やねをガラスにしただけ。1階のダイニングテーブルにすわり、空を感じることが、できるようにしただけで、この住宅に価値がうまれた。

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自然のなかのかんじ

見ながら、見られる、そんなかんじが、自然のなかにいるかんじ、とちかいのでは、とおもった。

もし、見るだけだと、たとえば、木をみているだけだとしたら、自分と木が1対1で、あいたいするかんけい、でしかない。そこに、見られる、がくわわると、自分と木いがいに、また、なにかがあることになり、より、自分では、コントロールできない、かんけいになる。

この、自分では、コントロールできない、かんけいの度合いが、あるレベルをこえると、自然のなかにいるかんじ、がうまれる、のでは、とおもう。

それを、いま、すくない木で、じつげんしようと、している。

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階段のかち

階段はふしぎなそんざいだ。上下をつなぐやくめだが、それだけかな、ほかにも、こちらから、といかければ、ちがった面をみせてくれる、ような気がする。かってに、つなぎのやくめ、としてみてるだけで、階段じたいが、どくりつでなりたつ、建築のようにもおもえる。

間をうめてくれる、というか、よけいなこと、めんどうくさいことを、引きうけてくれるそんざい、かもしれない。

いま計画しているのは、1階と2階と階段、というくみあわせ。1階と2階と同等のかち。建築のなかに建築がそんざいしているかんじ。

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おなじがイヤだったときづく

あぁ、あとから、きづくことって、じぶんでは、なぜだか、理解できていなかったけど、ほかのことをしてるときに、たとえば、つぎのプロジェクト、たとえば、本をよんでいるとき、ふと、うかぶ。いったん、あたまからだして、それをカタチにして、ながめてみたから、きっと、きづくことになった。もし、カタチにしてなかったら、えいえんに、きづかない。

はじめから、そうしようと、してなかった。時間差があったから、ひとつつくって、また、つぎどうするか、だった。だから、この2棟の住宅に、共通点はない。しいていえば、外壁をおなじにしたくらい。ただ、ゆいいつ、玄関だけはむかいあわせ、にすることだけは、決めて、あいだに、通路をそうていした。あとは、まったく、共通点はいらないと。

そうしないと、おなじような住宅がならぶ、ふしぎな風景をつくってしまう。けっきょく、そのときは、きづかなかったけど、あとからおもう、おなじようなものにしたくない、ことをしたかったと。

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かさなるから、うまれた

つながり方には、4種類、せっするか、かさなるか、はなれてるか、ズレているか、がある。つながる、ということだから、最低、2つのものがある。4種類のうち、ただひとつだけ、かさなるだけが、同時に、あらたなものを生成する可能性がある。かさなった部分が、あらたなものになる可能性。ぎゃくに、かさなりからみれば、そこから2つのものが、生成される、ともいえる。

だから、2つのものの、つながり方をかんがえるより、かさなる部分をさきに、かんがえることで、2つのもの、さらには、ぜんたいの構成がみえてくる、とおもった。

それを、いまのプロジェクトにいかしながら、同時に、かこのプロジェクトを再解釈してみる。そうすると、じぶんのなかで、たくさんの、かさなる部分が、うまれた。

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時間にカラダココロをつかう

カラダとココロが、ばらばらに、気分はいいけど、カラダがつかれてるな、そのぎゃくも、ただ、つい、カラダとココロをべつに、してしまうが、行動に、ちゅうもくすると、カラダもココロもひとつ、行動してるか、してないか、じぶんからうごくか、いわれてうごくか、だけのような気がする。

きっと、行動してるとき、ふぐざつなバランスのなかで、けっか的に、うまくいくように、するだろう。だから、じぶんからうごこうとすれば、けっか的に、そのとき、いちばんいいものになる。ならば、時間をみかたにして、じぶんからうごくことに、たくさんの時間を、かけることができるじょうきょうを、つくりたいものだ。

そんなことをかんがえながら、手をうごしていると、ふくざつなからみあいが、解けて、視界がクリアになった。やっと、まとまりそうだ。おいしいものでもたべて、またあした。

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偶然そうなっただけ、だから

いま、みているものは、きっと、1年後には、ない。いま、みているものは、いま、このときにあわせて、偶然そうなっただけ、かりに、1年前に、いま、みているものを、予測できても、いま、このときにあわせて、用意はできないだろうから、1年後にも、ないだろう。あたり前のことだけど、この偶然そうなっただけ、ということが大事だと、おもった。

偶然そうなっただけ、ならば、たまたま、そうなっただけで、ちがうものになる、可能性もあった。ならば、いま、みているものが、いつまでも同じ、でいる保障もなく、ちがうものに、いつかまた変化するかもしれない。

そう、だから、なにをつくっても、同じでいつづけることは、ないだろうから、絶対なものはないはず。すべては、変化する、ということになるが、そうすると、なにをつくっても、同じ、いみが無い、となりそうだが、なにをつくっても、変化する、という運動に、ちゃくもくすると、ものをつくることって、この運動を、かそくさせることで、そのときの燃料は、言葉、すなわち、いま、みているものが、偶然だと、絶対ではないと、わからせること、だとおもった。

だから、いまつくっているものは、時間の流れが、運動として、仕込まれていて、燃料となる言葉は、プランとかたちに変換して、はいちしている。

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放りこまれた言葉がつくるもの

うまくできそうだと、おもうのは、カンだけど、そのカンは、いままでの経験から、くるのかな。ただ、経験では、たどりつかない、ようなことが、おこるほうが、おもしろい、ともおもう。だから、経験はあてにはならない、とおもうほうが、おもしろいかもしれない。

経験が、あてにはならない、としたら、どうするか。てきとうに、言葉を、放りこむしかない。それは、思いつくかぎりの、言葉をだし、ならべ、かたっぱしから、ためす。ためした結果は、経験をこえるだろう、とおもえた。

さらにいえば、思いつくかぎりの、言葉をだしたときに、すでに、経験からくるカンは、ふ必要で、むいみになる。その言葉におうじたことが、現実に、てんかいされる、のだから、カンをあてにして、うまくいくかいかないか、をかんがえる、必要がない。

この住宅では、そもそも、経験したことがない、ことばかりした。だから、それをするためには、思いつくかぎりの、必要な言葉をだし、ならべ、ためす、ための素をつくった。素は、ときには図面、ときには素材、ときには職人、ときには感情だった。

けっか、経験したことがないから、うまくやる、こともできなかったが、言葉からつくった素、がおもしろさと、完成度を、たんぽしてくれた。

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ヨコヤリしてみた

みたいように、みているから、好きなようにみえる、こうみたいと、話しかけているように。でも、そこに、誰かが、こうだよ、これはどう、これがいいんじゃない、とか、ヨコヤリをいれる。ヨコヤリは、みたことがない、そうはみえなかった世界だった。そのとたん、いままで、みてみたい、とおもっていたものが、かわる、そっちのほうが、よかったと。

きっと、これが、りそうかな、とおもう、なにかをつくるときは。じぶんがヨコヤリのそんざいでいたい。

この住宅は、ヨコヤリをしてみた。リビングのまんなかに、まるみえの階段、その階段が、リビングを、3つのゾーンにわけて、空間はつながりながら、回遊でき、みんなすき勝手に、すごしている。それが2階からも、わかる。この空間のおかげで、なにかと、かおをあわせる、ようもないのに、話したくなる。空間が、なにをしたらいいのか、おしえてくれた。

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サボって、はかどった

サボり、っていけないこと、だけど、サボるときは、だいだい、大事なことを、しているときだから、ぎゃくに、大事なことがわかる。べつに、大したことをしてないときは、サボりにならないし。

大事なことは、変化につながること、だから、ひとは、変化がきらい、だから、サボる。ならば、サボるときにすることを、べつの大事なこと、にすれば、べつの大事なことは、おおいにはかどった。

そんなちょうしで、この住宅では、サボれる場所を、たくさん、つくって、あちこちで、サボれるようにした。

サボって、大事なことをする、って、うしろめたさ、とヤッた感が、ダブルでくるから、甘塩っぱいものを、食べてる感、けっこう、クセになるかも、おいしいかも。

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どこまで決めないで、いられるか

なにかと、あいまいにしたい、のだが、建築の境界の話、なかなか、それがゆるされないから、なやむことも多い。いろいろな境界が、建築には、あるけれど、壁もそのひとつ。境界として、外壁をみれば、いくらでも、あいまいにはできるけれど、たとえば、うごくようにするとか、壁を厚くして、外でも内でもない場所をつくるとか、ただしかし、きちっと、境界はきめなくては、いけない。それによって、法令順守と事業担保がはかられる。それはあたり前に大事なこと。

そのうえで、境界をあいまいにしたいのは、ものごとは、揺れうごくでしょ、そんなに、キチッとしてないでしょ、それは建築もおなじ、バッファーゾーンのようなものがあり、そのあいだだったら、揺れうごいてもいい、とすると、建築の決めかたも、できあがる建築も、かわるだろう。あたり前である、前提がかわるのだから、などと妄想してみて、バッファーゾーンがあると、いいなとおもう。

なにかと決まっていることがおおいので、なるべく、決まっていることはせず、そうすると、決まっていることがあいまいになり、そのまま、あいまいなまま、決まらないかな、そんなことはないのに。でも、この住宅は、クライアントに理解があって、あいまいのまま、けっこうギリギリまで、すすめて、アドリブもおおかった。それがよいか、わるいか、は別にして、決めるということを、見直す、キッカケにはなった。

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レンチンものづくり

行きつけの呑み屋、をつくったり、いつも同じものを、かったりたべたり、かならず通る場所とか、べつに、それでなくてもいいはずなのに、変えずに、同じをくりかえす。それで、あんしん感はあるし、よけいなことを、かんがえなくても、すむからいいのかもしれないが、ほんとうに、そのままで、いいのか、とギモンにおもわない、のだろうか。

たぶん、おもっても、変えられない、のだろう。変えるすべを、しらない。そんなときは、人まかせにすればいいのに。あいては、まかされて、喜ぶ、とおもうし。

けっか、おもいつけば、いいけれど、そんなこと、自分では、おもいもつかない。さいきん、はじめた、パンづくり、むずかしくて、時間がかかると、おもっていたけれど、レンチンで、15分あれば、できる。そのやり方を、ぐうぜん、SNSでしった。しろうとは、レンチンでパン、なんてできるんだ、と新鮮だったけど、プロにしたら、かんたんなこと、なんだろうな。

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なかった時間がながれはじめた

たったひとつ、大事なものがあれば、それだけで、なっとくしてもらえるのでは、といつも、かんがえ、プレゼンする。いつも、そうやって、そのときどきで、ちがうけれど、決め手は、いつも、ようぼうの奥にあった。

たったひとつの部屋を、よぶんにつくったり、まったく、常識とは、ぎゃくのことをしたり、いちどは誰でも、おもいつくがやらないことを、やったりした。

ここでは、たったひとりになれる居場所を、いつでも、つながることができるところに、つくった。空間とのかんけいは、使用者とながめる人にわかれるが、使用者とながめる人とのかんけい性がなかったので、トビラをあけることで、つなげてみた。このことで、おこったことは、いままでの暮らしにはなかった、かぞくの時間が、ながれはじめたこと。

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決めてみる、をしたい

はっきりと、こうしよう、と決まるのは、だいたい、動きだしたあとだが、動きだすまえに、なんとなく、こうならないかな、とか、こうならないとイヤだな、とかは、決めてみる。けっこう、いつも、この決めてみる、でどうするかな、となる。

せけんでは、はやい方がよく、こうりつよく、が良いとされ、とりあえず、あいまいでも、はやく動け、となる。ひじょうに、自分みたいなタイプはこまる。はやく動くのは、いくらでもできるが、そのまえに、決めてみる、をしたい。それがないと、いくら早くても、まちがった方向にいきそうになる。

それを言うと、まちがったら、引きかえして、またやり直せばいい、その方がはやいと。ちがう、ちがう、またやり直しても、たぶん、またまちがうか、さいあく、まちがいを無いものにしてしまうかもしれない、早くやるために。けっきょく、最初に、決めてみる、をした方が、けっか、早いし、良いとおもうのだが。

などと書いたのは、いま、そういうじょうきょうだからで、もうちょっと、じかんを下さい、とだれかにつたえたい、気持ちのあらわれでした。

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うまくいかないから、つづきがある

だいたい、あんぜんな方へ、かわらない方へ、いこうとする、本能だろうか。でも、かえるのが、スキだから、何ごとも、いまに定着しない、ようにする。けっきょく、いまいいのは、すぐに、あきるか、だめになる。何かをすこし、かえるぐらいで、ちょうどいい、といつも、おもう。

かといって、何年もおなじことを、し続けている。ふしぎだ。続けていることは、なかなか、うまくいかないこと。続けるコツは、うまくやらないこと、だったりして。

建築も、なかなか、うまくできない、もっと何とか、とおもうから、続いているのだろう。きっと、それがなかったら、うまれないことばかり。この画像の住宅は、いちだん、ギアチェンジしてみた。こまかいことの、精度をあげた。とたんに、うまくできないことばかり、になったけど、その次は、この精度がスタンダード、になって、また、ギアチェンジした。

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さかいは、いりますか?

境界について、きになることが、よくあるなとおもった。きっと、さかいとか、別々とか、はなれているとか、違いがはっきりしている、ことになにか、ていこう、があるのかもしれない。できるだけ、さかいをつくらずに、別々にならずに、はなれずに、できないものか、とかんがえる傾向があるかもしれない。

なに事にも、さかいはある。建築にもある。ただ、そのさかいは、たまたま偶然、そうなっただけとか、はじめからあったとか、便宜上そうなっただけとか、一時的とか、かならずしも、それである必要がなかったり、それだと決めつけなくても、なんとかなることもありそうな気がする。

そうおもうと、さかいを曖昧にしたい、となる。建築で、いちばん影響をうけるさかいは、敷地のさかい、だろう。このさかいだけは、なにがあっても、越えることができないし、曖昧にもできない。

ただ、さかいに、あらがいたい、それが、もしかしたら、設計するうえで、いちばんむすがしく、かつ、いろいろなことに、よい影響を、あたえること、かもしれないと、いまかんがえている。

前に、画像のように、建物の四周と塀とのあいだに、デッキを敷いた。デッキにより、室内空間が、敷地いっぱいまで広がり、その広がりは、敷地の外まで、拡張する意識、をつくりだす、とかんがえた。ただ、デッキによって、敷地のさかい、をよけい強調するけっか、にもなった。

いまは、さかいを別のしゅほうで、曖昧にすることを、かんがえている。

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たどると、いきあたるもの

なんとなく、気になる建築や空間を、おもいうかべながら、あれって、かたちだけ残して、あとはぜんぶ替えてみたら、どうなるのかな、とか、平面のプランはおなじだけど、かべの高さをかえてみると、とか、いちぶだけ、大きさをかえてみたら、どうなるかなど、あれこれ、妄想してみる。

そうすると、やっぱり、もとがいい、とか、あれっ、もしかして、なんてことを、また連想する。それで、じっさいに、かたちにしたら、オマージュとか、リスペクトとか、になるのだろうか。

ただ、そうかんがえると、無意識に、なにかしらに、影響をうけているから、もとネタはわからないが、いままでつくったものは、もしかしたら、すべてが、オマージュとか、リスペクトとか、になるのかもしれない。

それは、たくさんの建築にかんすることを、みききしてきたからで、いまこうして着想していることが、なにとつながるか、たどってみると、あんがい、面白いはっけんがあった。あした、その本をさがして、よんでみよう。

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いま、なにをみますか

カタがあると、それをだれかがくずし、またカタができる、そして、また、だれかがくずす。この一連のながれのなかで、どこに、いちばん、興味があるだろうか、とおもった。

はじめのカタがあること、そのくずし方、くずした後のカタのつくり方、また同じくずし方をするのか、など、ちゃくもくする点は、いろいろと、かんがえることができる。

きっと、自分は、また同じくずし方をするのか、に興味がある。カタなど、なにか主流のものがあれば、それとは真逆のものが、うまれる。そのときの、うまれ方、すなわち、カタのくずし方は、カタを相対化する方法をとる。

歴史はくりかえす、という。相対化する方法も、歴史をみればわかる。だから、また同じくずし方をするだろうことも予想はできる。しかし、それが、いつはじまり、だれがはじめて、どこではじまる、のかは、後になって、歴史になって、わかることで、同時代的には、なかなか、わからないこと、だとおもう。

ということは、また同じくずし方をするのか、に興味をもち、観察することは、いまをいきる、ことにつながる、とおもうし、そうすれば、いまがたいせつ、になる。いちばんは、いまかな、とおもう、きょうこのごろ。

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なにをつくりますか

見なれない、だから、すぐに理解できない、ふしぎなものと、見なれてはいるけれど、なにかが違う、とかんじるもの、どちらにも興味があり、じっさいに、りょうほうとも、この目で見てみたくなる。

では、じっさいに、自分がつくるとき、どちらのものをつくりたい、とおもうか。

見なれてはいるけれど、なにかが違うものは、いままであったものを、進化、あるいは、より洗練させた、ものだろう。見なれない、すぐに理解できないものは、いままでと、アプローチがちがう、あるいは、そもそも出発点がちがう、ものだろう。

いつもおもう、いままでに見たことがないもの、をつくりたい、と。だから、見なれない、すぐに理解できないもの、をつくることにひかれる。きっと、そういものは、画像では、すぐに、理解はできないけれど、じっさいに見れば、すぐに、なっとくするものだろう。

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まほうのことば、がふらせる

どんな形にしようかな、と最初は、かんがえていたのに、いつのまにか、どうやって形にしようかな、とかんがえている。

条件や要望を、形にしていくときに、ばくぜんと、かんがえているあいだは、手がかりがおおすぎて、まよい、形をむげんの海から、引っ張ってくるかんじ。そのうち、どうやって形にしようかな、と自然にかんがえているときには、あるていど、方向性がしぼれているしょうこ。

どうやって、って、まほうのことば、だとおもう。そうかんがえた瞬間に、形にむかって、すすみだし、形になる。

この階段は、ひかりが差しこむ、ところにある。だから、ひかりをさえぎりたくない。かといって、ガラスの階段では、ひかりが差しこむところに、あるいみがない。この階段があることで、ひかりの粒がみえればいい、これで、形のどうやって、のぶぶんができた。

あんがい、どうやってのぶぶんは、そのものとは、直接かんけいない、ところからふってくる。

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ひとが、そこに、いるだけ

まいにち、つづけて、それでいて、変化していくようなこと、きっと、暮らしはそういうものだ。

暮らしがおさまる器として、と住宅をかんがえるひとも、いるだろう。それで、いいとおもう。暮らし、という日常的につかわれる言葉で、住宅を表現することは、ひとつ、大切なこと、だとおもう。

ちがう言いかたをすれば、暮らし、という誰にでも、わかる言葉で、住宅をかたることの大切さ、住宅をかたることができるひとの大切さがある。

いっぽうで、ひとがいれば、自然と暮らしはおこる。大切なのは、そこに、ひとがどのようにいるか。暮らしは、たまたまそうなっただけ、として、住宅は、たんに、ひとがいる場所、にすぎない。

これは、もともと、暮らしは、その場所にあったのであり、たまたま、そこにきたひとと、むすびついただけ。暮らしは、つくりだすものではなく、環境にさゆうされる、都市の暮らし、山の暮らし、といったぐあいに。だから、ひとが歳をとるように、ひととむすびついた暮らしも、まいにち、変化していく。

このように、住宅と暮らし、を切り離してみると、もっと、根っこの、いま、そこに、ひとがいることを、形にする必要がある。それが、住宅のほんらいの姿、だとおもう。

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つながるキョリ、って

つながる、ってキョリの遠近とは、関係ないな、と電車にのりながら、いつも、おもう。となりの席のひとのこと、ではなくて、となりの電車のひとのこと。並走する電車のひとは、ちかいけど、まったく、つながることがないひと。たぶん、二度とあうこともない、かもしれない、あたりまえだけど。どんなに、キョリがちかくても、ふれることもできない、レールがまじわることがないから。

この関係性に、ひとてま、加えたら、たとえば、まじわることができれば、けっこう、りそう的な関係、になるかもしれない、とおもった。

ここでは、住宅が2棟、親族どうしで、ならんでいる。あいだに、きょうつうの、通路をもうけた。電車でいえば、同じレールをつかっている。それ以外は、まったくべつのもの、まったくべつの電車。ただ、ときどき、ぐうぜん、であうだけ、ふれることもできる、かわすこともできる。それが、お互いにとって、ここでは、ほどよいキョリかな、とおもった。

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偶然、かわるの、すき

建築みたいに、おおきくて、うごかないもの、に偶然性をおこすのは、むずかしい、と書こうとして、そんなこともないか、とおもいなおした。

建築ないぶに、偶然なにかが、おこるようにすることは、いくらでも、かんがえることはできる。が、建築じたいに偶然性を、まとうことが、できるだろうか。

すぐに、うごかないし、おおきいし、偶然性をまとうのは、むりかな、とおもった。偶然性をまとうとは、変化すること、例えば、太陽のひかりで、みえ方がかわるとか、になるのかな、それならば、とおもい、偶然もありうるか、とおもいなおした。

ただ、形がかわるようなことは、ないよな、やっぱり、うごかないものだし、ここでの偶然性は、形にかんして、言いたかった。可変って、建築にとって、やっかいかなこと。可変する機構をもりこむと、建築ではなく、機械になり、機械というメタファーをもちだしてくるのは、ふるくさい。

などと、ダラダラとかんがえながら、可変する、可動間仕切りを、よくつかっているな、すきなんだな、とおもった。

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すきじゃないと、いしきして

斜めがすきじゃない、まっすぐで、垂直で、四角がすき、だといつもスケッチしながら、おもう。だからか、坂道もすきじゃない、水平線がすき、地平線がすき。スロープよりも、階段がすき。円も、丸も、すきじゃない。べつに、こじんのすききらいなど、どうでもいいけれど、やっぱり、いままで、つくったものには、振り返ると、えいきょうがあるようだ。

だから、斜めや円、丸などは、いしきして、つかうようにしている。いしきするとは、なにか、意味をもたせたり、アクセントにしたり、そこをみて、というポイントにしたり。

ただ、いきなり、斜めや円、丸などをつかっても、こうかがないから、まっすぐや垂直、四角と対比させてつかう。この対比がうむこうかを、かんがえるのが、デザインのひとつかな、とおもう。

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まわりが決めるのもあり

かんじんなことは、いつも、後まわし、それで、他のことは、用意周到、なんてこと、よくありませんか?けっきょく、かんじんなことを、大事にとっておく、いや、面倒だから、やらない、なんてことになるかもしれない。

ただ、まわりから、決めていく、という考えも、あるかもしれない。かんじんなことは、いずれ、やらなくてはいけないことだから、先に、関係ないことをやる、のはいいとおもう。もしかしたら、まわりから、決めたことで、また、べつの展開が、みえたりして。

まわりのもの、たとえば、住宅では洗面かも。どこでもいい、訳ではないけど、かといって、そんなに。だからか、いつも、なぜか、場所を工夫することに。けっきょく、洗面のような、まわりを飾るものの場所が、反転して、かんじんな場所が、決まるような、気もする。

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余計なことしたい

べつに、そこまでする必要は、ないんだけど、とおもうときって、余計なことを、してると、かんがえているんだな、きっと。だけど、その余計なことが、ほんらい、じぶんがやりたかったこと、といまになって、気づく。

たいがい、余計なことは、オーダーには、ないこと。勝手におもいつき、勝手にやること。そのことで、1円ももらえない。これって、いつもおもう、経営者として、しっかくだな、と。

この住宅では、内装仕上げに、よくある下地材をつかった。どうやって、みせるか、がもんだい。ただ、つかうだけでは、芸がない。色をぬって、ごまかしたくもない、その予算もない。

板をつなぐ、ことにした。そのつなぎ方を、デザインする。そうすることで、つかう板が、なにかは、関係なくなる。

どちらにせよ、板をはることは同じ、つなぐことがおこるのも同じ、だから、つなぎ方のデザインは、余計なことになるかもしれないが、つなぎ方をデザインすることで、つかう板、つかう素材、素材の良し悪しが、どうでもよくなる、素材にいぞんしなくなる。これが、やりたかったこと、だった。

じつは、このことで、もっと余計なことをしてる。のちに、大工さんから、ゆめにうなされた、といわれた。画像には、うつらない、実物をみれば、すぐわかること、いままで、じふんも、ほかではみたことがないこと、ほんとうは、これの方が、やりたかったこと、かもしれない。

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チラみのかんけい

あちこち、みてしまうのは、集中力がないしょうこ、おちつきがない、とよくいわれたものだった。ものは、注意をひくために、できている、これをアフォーダンス、という。そもそも、興味をひかないものは、そこにないのと同じ、だから、アフォーダンスは、けっして、わるいことではなく、だから、おちつきがない、こともわるくない、とおもう。

この家では、みんな、行動がバラバラ、おもいおもいに、すごしていた。だから、いる場所がちがっても、お互いどこかで、つながってる感がほしかった。

なにげない日常の中で、なれ親しんでも、つながり続けるためには、興味をひきつけあう位置かんけいがひつようだ。チラッとみえる、かんけいは、お互いをじゃましない。

画像は、キッチンでの、奥さん目線。2階のひと、奥のひと、庭のひと、この家のひとの行動がチラみできる。きっと、チラみだから、なんか気になる、なんか興味がわく、そんなかんけいだらけの家が、いいとおもう。

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こうりつより勝るあいまい

どうでもいい、どっちつかず、あいまい、はネガティブなことで、なるべく、さけたいとおもうかもしれない。こうりつとか、はやくとか、を求めるときは、はいじょされる。

ただ、さいきん、このあいまいとか、どっちつかずの領域も、ひとつのかたち、になるとおもっている。

この住宅では、可動の間仕切りで、領域をつくるだけ。その領域が、そのときの必要におうじて、ついたり、わかれたりして、領域の大きさがかわる。

領域がきまっていないことは、こうりつの観点からいえば、非こうりつに、つながる。あらかじめ、きめられた、限定した領域の中で、うごくほうが、こうりつを追求しやすいから。

ただ、この住宅では、あいまいな領域があるから、いろいろな暮らしの可能性、それは、この住宅をじゅうぶんにいかしきる、という点で、こうりつより勝る、とかんがえた。

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色つき、色なし

色がついているものと、ついていないもの、をくらべると、色がついている分だけ、ひとつ特長がふえて、いいようにおもう反面、色がついていない、透明だから、さまざまなものを、そのまま鮮明に、映しだすことができるよさが、あるともおもう、ガラスのはなし。

ガラスを、色つきか、透明か、さいきんのなやみ、大したことがないなやみだけど、けっこうな時間をかんがえている。色つきだと、とうぜん、その色がガラスごしにつくので、鮮明にはみえないが、ガラスの微細な凹凸を、色が増長してくれる。ぎゃくに、透明だと、色による作用がないから、鮮明にみえ、ガラス特有の映り込みが、よりはっきりみえる。

この住宅では、透明にしてみた。日々の暮らしで、そのつどかわる色を、映すことで、さまざまな、暮らしの重なりが、壁の模様になる。それは、この住宅特有の、色になる。

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きょうかいは越えるためにある

きょうかい線、って、いろいろなものにあるけれど、さいきん、おもうのは、ちょっとでもはみ出したら、許されない感じが、つよい。建築のきょうかい線は、敷地のまわりにあり、たしかに、ぜったいに越えてはならないが、枝や葉が、空中を越えているのは、よく目にする。

それでいいとは、いわないが、うちもおとなりに越えているので、敷地のきょうかいが厳密なぶん、それぐらいのゆるさがあっても、いいような気もする、おとなりのかた、すみません。

いかに、きょうかいを厳密にまもりつつも、空中のような、いつでも、引きかえすことができるかたちで、越えていくか、って、実際にやるかどうかは、べつにして、一度はかんがえてみたほうが、いいことだとおもう、意識だけでも。

あんがい、なぜ、きょかいをまもるのか、の意味がわかり、そうすると、いままでと違った、きょうかいのまもり方ができるかもしれない。この住宅のように、おとなりの人と、かくしんはん的につながろうと、するかもしれない。

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やらせ?ぎわく

ちょっとでも多く、という心理、なるほど、よくわかるから、ロフトなるものをかんがえてみる。そもそも、あまりの空間をどうりようしようか、という発想のたまもの、だから、そこは、すなおに、あまりの空間さがしをしてみる。

ゆかした、やねうら、階段のおどりば、あとは、たかいところ、人がいきたがらない、ような、あまりはたくさんある。いっぱん的には、そのあたりが、ロフトや収納になる。

あまりの空間だから、いとてきに、空間をつくるのはNGらしい。あくまでも、空間のゆうこうりよう、ということらしい。だから、空間さがし、宝さがしみたいだ。

ふとおもう、宝さがしする空間は、はじめから存在していたのか?いや、つくったはずだ。ならば、ロフトを、さきにつくってから、空間のなかにうめこんでしまい、宝あったどぉ、なんて、やらせ?をしてもいいだろうか??

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壁なしでもいい気がする

こどものころは、外からかえると、勝手口からあがり、そこには台所があり、そこでなにかをしてる母親に、ただいま、とこえをかけた。むかしは、なんでも、手づくりだったから、つくるところを、みているのが、おもしろかった。

いまのほうが、家事は、だいぶ楽にはなっただろう。せんたくものは、干さなくてもいいし、レンチンで、おいしいものはたべれるし、ロボットが、そうじしてくれる。

もはやキッチンも、作業するところではなく、コミニケーションするところ、にかわった。家族といっしょにすごしながら、家事をする。もしかしたら、ゆっくりと、家族がすごせる場所がキッチン、ってのもわるくない。

家の外で、家族といっしょにすごすこと以外のことは、全部、みたすことができる。だから、家の中にいる目的は、家族といっしょにすごすことだけ。

この家には、コミニケーションするために、壁が、ひつようとされなかった。風呂とトイレ以外、壁がなくても、暮らせるんだ、とわかると、おもしろいことに、家の外と中のさかいの壁も、パブリックとプライベートのさかいも、なしにできそうな気になる。

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あつーいスープがとどく雰囲気

建築が複数あれば、関係がうまれる。関係がうまれれば、にぎわいができる可能性がある。だから、建築によって関係がうまれると、にぎあいをつくるためには、どうすれば、いいのか、をかんがえるようにしている。

よくあるのは、人のアクティビティを、建築同士の関係性に、からめること。複数ではなくても、例えば、建築によってつくられた、アトリウムなどの、大空間でもおなじだが、場所があり、人がいれば、かならず勝手に、あるいは、そこになにか、イベントのようなものをたすことで、にぎわいはできるだろう、というようなかんがえ。りくつで、人のことをかんがえ、あとは任せっぱなし、のじょうたい。

それでは、にぎわいはできないだろう。それで、にぎわうのであれば、せまい、路地の、呑み屋に人はあつまらない。

きっと、雰囲気だと、おもう。人がにぎわう雰囲気。それって、新規の建築計画が、いちばん苦手、とするところ、だとおもう。そこに、模範解答はなく、正解はなく、読めない。人のことを読めない、のとおなじ。

だから、ここでは、人のアクティビティを、建築同士の関係性にからめているが、建築が先ではなくて、人のアクティビティ、すなわち、人のからまり方を先にきめてから、建築をきめた。

人がからまり、にぎわうためには、その敷地の、どの場所に、どれくらいの形と広さが、あればいいのか。けつろんは、スープの冷めない距離感だった。それは、内部の部屋の構成にも、影響をあたえた。

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光のつぶが、みえますか

光のつぶ、というけれど、光がつぶで、みえるはずがない、とおもうが。

こんな話をきいたことがある、むかしは、雨つぶの存在が、みえなかった。むかしの西洋絵画には、雨がえがかれていない、地面はぬれているのに、というのだ。すなわち、それは当時のヒトには、雨つぶが、みえなかった。しかし、広重が線で、雨を表現したことで、雨つぶの存在にきづき、みえるようになった、というのだ。

真偽はわからないが、いままで、表現できなかったものが、表現できるようになると、それまで、きづかなかったものに、きづくようにはなるだろう。だから、もしかしたら、まだ、光のつぶを、表現できていないから、光のつぶが、みえないのかもしれない。

ここでは、階段をりようして、光をつぶで、とらえようとした。階段の段板と踊り場の床に、無数の穴をあけた。その穴をとおして、ふりそそぐ光は、無数の穴の輪郭を鮮明にし、つぶ状になる、とかんがえた。

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いっていのものよりまだ見ぬもの

じぶんが10年以上まえに、やったことを、いまだれかがやっていると、それはつかい古されたものか、それが当たり前になったのか、それとも、けっしてそのようなことは、ないとはおもうが、じぶんが早かったのか、などとかんがえる。

いずれにせよ、いま他のだれかがやっているのだから、それをいま、またじぶんが、やってもいいだろう、というおもいと、一度やり、いま他のヒトがやっているのだから、もうやる必要がない、ヒトとおなじことはしない、というおもいの、2つがうかぶ。

楽なのは、またやってもいいだろうだ。まえにやっているから、かんたんにできるし、失敗がない、それでいて、いっていの評価はもらえる。ただ、それだと、じぶんが満足できないだろう。いや、しごとだからと、割り切って、失敗がない、のがせいかいかもしれない。

10年以上まえのときも、ヒトとおなじことはしない、としてやったけっか、失敗しなかった。はじめてだから、しんちょうにもなり、いまだにきれいにのこっている。

さっきまで、あたまのなかを、グルグルとめぐっていたけれど、こうして書きながら、せいりされた。やっぱり、ヒトとおなじことはしない。そうしないと、このさき10年ごにこうかいしそうだ。

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あたらしい価値をうむ、いつも変わらない

いつもおなじが落ちつく、いつもおなじことには価値がある、とおもわない。いつもおなじと、いつも変わらない、はちがう。いつもおなじは、いちもおなじにしようとする。いつも変わらないは、いつもちょっとずつ変えて、変わらないようにしている。いつも変わらないほうが、あたしいことを受け入れるよちがあり、好奇心をはっきできる。好奇心は、価値のみなもと、だとおもう。

よくランダムにする。それは、そろえることが、いつもとおなじことをすることであり、ランダムにすることが、いつもと変わらないにようにすること、だとおもうから。

この建築では、かべの空調の吹き出し口やスピーカー、照明をとりつける穴をランダムにした。ランダムに変えたことで、機能は変わらないが、壁の穴にデザイン性がうまれ、ひとつあたしい価値がプラスされた。いつも変わらないには、あたらしい価値をうむ可能性がある。

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あんしんのかたち

おおきなものに、包まれる感じは、あんしんする。包まれるものにもよるけど、おおきなものは、ときにはヒトかもしれない。あんしんしていられるヒトは、包むのがうまい。

包まれるあんしん感は、あんぜん地帯にもなる。ヒトにとって、あんぜん地帯はひつようで、その場所は日常のなかにあったほうがいい。

家って、あんぜん地帯になりえるもの。へやにいると、その包まれ感があんしんする。だから、この家では、その包まれ感をみた目で感じてもらうために、家のかたちのなかに、家のかたちをつくった。

いまいる空間を、見た目で感じてもらうことで、いまいる空間がわかる。あんしん感のみなもとは、きっと、このわかる感覚、ヒトもわかりやすいほうがあんしんするでしょ。

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大事ならちゃんとしまって

大事なものは、捨てられない。だから、いっぱいものが、たまるのかもしれない。みてると、たまるものは、行き先ふめいのものだ。ものがかえっていく所が、きまっていれば、たまらない。たまるというのは、目にみえて、あふれているからで、おさまっていれば、たまっているようには、みえない。

おさめ方がいいと、大事なものは、またちがった価値をうむ。大事なものは、ただあるだけよりは、自分とつながったもの、でいてほしい。

その木は、クライアントのお父さんが、なくなったときに、自然と道路ぎわに、生えてきたらしい。だから、のこしたい、それが最初の希望だった。そのまま道路ぎわより、きちんとおさまる場所をつくり、どこからでも、みえるようにした。

おさまる場所を、つくることじたいが、大事なものとつながることだから、あふれていてもいいものは、もしかしたら、なくてもいいものかもしれない。

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昼かお夜かお、くらべ

昼のかおと、夜のかおがあると、なんとなく、どちらがほんと、なんか疑わしい、などとなるかもしれない。どちらもほんとで、どちらがいいか、わるいかはなく、二面性があっていい、とおもうが、ハッキリしないものには、無意識に、しろくろをハッキリさせたい、となるから、じぶんにとって、都合のいいほうをしんじるようになる。

二面性は、いつも意識する。ふたつの間をいったりきたりしながら、片方をみると、よーくみえるものがあるから、それがなにかのヒントになる。

建築にも、昼のかおと、夜のかおがある。昼ははくじつのもと、すべてをさらけ出す。夜はそうさできる。夜は都合のいいところだけを、みせることができる。だから、昼のかおと、夜のかおをくらべて、変化しているところが、かくしたいところ、すなわち、その建築にとって、いちばんみせたくないところか、もしかしたら、いちばん重要なところ、かもしれない。

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へやをつくらず、へやにする

それができても、できなくても、たいしてかわりがないのに、やろうとすることは、気がつかないうちに起こりそう。たいがい、そういうときは、やること自体がいい、とされてきたことだから、そのことにギモンを持たないし、持てない。

へやはヒトがたまるところだけど、けっして滞在するところではないこともある。ヒトが通っていくところに、ひっかかるモノがあり、そこにヒトがたまる。しかし、それは一時的であり、またヒトはうごいていく。

そのくり返しでへやが成り立つならば、ヒトは滞在せずに、たまりながら、また次へ、うごいていく。このばあい、へやは廊下のようであり、ならば、廊下をめぐらせてから、その廊下をへやにすることを考えてみた。

はじめから、へやをつくることが当たり前だから、それにたいして、ギモンを持たないし、持てない。しかし、へやイコール建築ではないので、へや以外のところをプランニングすることで、へやをつくりだす試みをしてみた。

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単なるものでなくなる

こわいもの見たさ、高いところがこわいのに、高いところにいきたくなる。不思議なもので、高いところから、上を見あげたくなる。きっと、好奇心が、こわさにかつのだろう。

四層吹き抜けの、らせん階段をつくったら、ぐるぐると上を見上げながら、のぼるかな、と想像して、計画してみた。らせん階段は、いちばんコンパクトな階段、だから、省スペースのためにもいい。

すける段板は、最上階からのひかりを、拡散させながら、1階までとどかせるため、あと、上を見上げたときに、先まで見せるため。らせん階段は、ふつうの階段より、視線が上にいきやすく、上へのいしきがつよくなる。だから、好奇心をそそるしかけとしても、すける段板はいい。

階段をのぼることに、なにか他のことをたすことで、ひとの動きに、変化をもたらす。その変化は、空間の感じ方に、影響をあたえ、好奇心を刺激する。階段が、単なるのぼり下りのそうち、ではなくなる。

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としとっても新鮮ですか?

かわってしまうことに、抵抗があるのは、としのせいかな。ただ、むかしから、そうだったような気もする。ものはなんでも、最初はあたらしくて、だんだん古くなっていく。できれば、古くなってほしくないとおもってしまう。だんだんあたらしくなることがあれば、それがいいけれど。だから、なんとか、古くならないようにしようとする。でも、どうしても、古くなるから、古くてもいい、もっというと、古くなるほどに新鮮、という矛盾するようなことが、できないかなとおもってしまう。

古くなるほどに新鮮なさまは、年月をへてもかわらないのではなくて、年月をへてかわることによって、最初とはちがうものになり、それがあたしいみえ方になる、のだろうと考えた。

そこで、年月をへてかわる材料として、木をえらんだ。木を素地のままで、室内につかうと、くちはてることなく、焼けたり、変色して、のこりやすくなる。木の素地のままだから、焼けや変色がめだつが、それがかわったあたらしいみえ方、になるというストーリーをえがいてみた。

何十年後、生きているかわからないが、かわったところをみてみたい、いまが新鮮か、と。

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なにをみたいかな

その場所にたったとたんに、なんかスイッチがはいったように、急になにかをしだしたり、考えたり、おもったり、することはないだろうか。それがいいことでも、わるいことでも、なんでだろうとおもう。

美術館には、ひとの評判より、たんにおもしろそうだな、という理由だけでいく。たいがい、ウイークデイで、すいていて、人もあまりいなさそうな時間にいく。しずかにみたいのと、逆走するので。いちばん最初に出口までいき、全体をパッとみて、みたいところだけに、時間をかける。そうしないと、途中であきてしまう。人がいないと、逆走しやすくていい。そんなことするの美術館だけ、美術館だけのうごき。

きっと、うごきって、場所できまる、とおもった。広いところへいけば、のびのび、自由にするだろうし、狭いところへいけば、うごきが自然と制限される。ならば、細長いところへいけば、どうなるか。

細長い通路をとおって、家につく、そういう土地のかたち。この細長い通路をとおるとき、どうするか、自然と、視線は家にむきそう。きっと、この家で、いちばん最初にみえる部分が、いちばん時間をかけて、みるところになる。なにをみるか、夜ならば灯りかな。

窓の灯りが、この家のかたちになる。細長い通路と窓だけが対峙する。そのとき、昼の家のかたちはない。窓の灯りに、なにをみるか、なにがみえるか、なにをみたいか、それがこの家のかちになる、とおもった。

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やわらかい困難

やわらかくて、かたいもの、そんなものはあるはずがないのに、言葉ではいえてしまう。壁もそうかもしれない。かたくて動かないから、壁を困難や問題にたとえたりする。でも、困難や問題も、ずっと変化しないわけではないから、壁もどこかで、やわらかくて、動くもの、とひそかにおもっていたりする。

じっさいに、壁が動いたらたのしいな、忍者やしきじゃないけれど、壁が反転したら、べつのへやがあって、そこには金銀ざいほうとか、なんかあったりして、ぬけ道があったりして、そう動く壁って、いまの暮らしにないものがでてくるにちがいない、とおもえる。

だから、将来がわからないとき、壁は固定しないで、動かしてしまおうと考える。壁があつくなれば、ものがはいる家具になる。家具ならば、自由に動かしてもいい。ときにふさげば壁になる。動く壁は、空間も将来も、なにも固定しない。なにも固定しないから、やわらかい壁なのである。

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いっぱいの空をみたら

あたり前のことのようにみえても、しらないところで、いろいろ工夫しているのがプロかな、とおもう。たとえば、おすしのにぎり方にも、しらないところで、とうぜん工夫があるだろうし、なにげない動作にすべていみがあり、目のまえにでてきたおすしは、同じようにみえてもみなちがうし、そのちがいが味にでるとおもう。

窓をつければ、よほどとなりがすぐ建物でなければ、陽ははいってくる。ただ窓って、なんのために必要かな、っておもう。べつになくてもいいか、と考えると、いや必要だとおもう。では、陽がはいれば、それでいいか、と。

さいきんは、窓があったら、空がみたいとおもう。きっと、空がみえると、室内が気持ちよく感じるのではないかな。なぜ?きっと、空と室内をくらべるから。もちろん、空のほうがキレイだけど、空とくらべることで、室内のちょっとよいところをさがしたり、あるいは、ちょっと片づけしてよくしたり、なんてことがおこるような気がする。気持ちいいものをみると、自分もなんかしたくなるものだとおもう。

晴れだけでなく、くもり、ゆきでも、またちがった空にであえば、こちらの気分もかわるし、室内もかわる。これは窓だけができる暮らしのなかのはなし。そのために、となりの屋根のうえに、窓いっぱいの空をつかまえた。

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少なくしようなんていらない

少ないことはいいことだ、少ないことは退屈だ、きっと両方ともあるのだとおもう。よく、少なくすることはいいことだと、ミニマリストにあこがれる人もおおいけれど、できやしない、好きなものがたくさんあるからしかたない。それに、少なくするのは余分なもので、大切なものは少なくしてはいけないし、むしろ、ふやしたい。だから、バランスなんだと、少なくできない自分をいつもなぐさめている。

できるだけ部材は少なくしたい、できれば壁から板だけがでているような階段にしたい、と最初はおもった。ただ、それだと、いくら鉄をつかってもできなかった。ならば最低限、ほそい丸棒で上下の板をつなけば、そこで計算して丸棒の本数をだした。

ほんとは、たての丸棒と丸棒をつなぐように、間にななめの丸棒が必要とされたけど、つくって、いざ現場に設置してから、なくても大丈夫、ない方がきれい、だとおもいとった。

計算してふやし、現物をみて少なくした。いいことと退屈の差は、ほんとうは紙一重で、そこのせまい巾での判断に、少ないはもはや関係がないこと。少ないかおおいかなんて、けっきょく、どうでもいいことなんだとおもった。

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なんでもつくればいい

ないものは、自分でつくりたくなるもので、あるとき味噌がきれて、これってつくれないかな、とおもった。ただ、おもっただけで、まあそんなことを言っても、とおもいながら、いつもたべている味噌をそのときはまた買った。

ところがしばらくして、知人が自分で味噌をつくっているときいた。せっかくだから、体験してみたい、でもいつもの味噌になれ親しんでるからどうしよう、大概こういうとき、つくることにしてる。コーヒー豆もそう、自分で焙煎してみた、コーヒー好きとしては体験してみたい。

つくりたいのと、あと既製品はいやだ、というおもいがあり、つくれるのならば自分の手で、身の回りのものは、なんでもつくたい。漆のお椀も自分でデザインしてつくった。

ここにあう換気扇がなかった。せっかくの特注キッチンだから、換気扇もあわせたい。ただ、換気扇にはスポットライトを仕込みたいし、仕上げもゼブラ調の木目、形も、などとやってると、もう自分でデザインして、つくるしかない。それから、換気扇は自分でデザインしてつくることがスタンダードになった、味噌も。

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夜にうかぶ表情

帰ってきたとき、自分の家がどうみえるかが気になる、けっこう毎回。なんでだろうと考えても、よくわらがないが、帰巣本能が人にはあるときくから、きっと、自分の巣は大丈夫だったかな、と無意識にかくにんしているのだろう。

そんな思いもあるから、毎回、夜のみえ方を気にする。よくみせるとか、明るくするとか、それもあるけれど、どちらかというと、昼とはちがったみえ方になるようにしたいとおもう。

夜帰ってきた人だけがみることができる表情、それがより帰巣本能をたかめるような気がするから。夜の暗闇がよけいなものを消してくれて、より家じたいが浮かびあがるからこそ、それをみせたい。

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壁はあったり、なかったり

リバーシブルとが、一粒で二度おいしいとか、反転できるとか、そういったものによわく、すき。効率がいいからとか、お得だからだけではなくて、ひとつのことに対して、二面性があることが面白いとおもう。

何でもひとつではないと普段からおもっている。答えはひとつではないとおもえば、いろいろなことができる楽しさがあるはず、そこが面白いとおもう。

コンパンクに暮らしたいとおもうときがある。十分な広さがとれないとき、でも暮らしは充実させたい。あと、とうぜん広さには限界があるけれど、人は欲ばりだったりして、あれもこれもとなる。

そんなとき、よくやることは壁を固定しないこと。壁を固定してしまうと、そこでひとつに限定されてしまう。壁をなくすこともできるが、最低限の壁が必要なときもある。壁を固定しないで可動させる。たったそれだけのことで、同じ場所でいろいろなことができるようになる。

壁を固定しないことで、とじこもっていた人の動きが流れでる。そのとき、流れでた先でいろいろな科学反応がおこればいいなとおもうし、それがその家だけでおこるイベントになるはず。きっとそれはその家の人にとって、よかったな、とおもうことにぜったいになる。

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ここはどこ、2階か

好きな形ってだれにでもあるでしょう。こどものころ、らくがき帳にずっと渦まき模様をかいていた記憶がある。なぜかいていたかは覚えていないけれども、大人になった今ではかきたいとも思わないから、きっとテレビかなにかでみて、それをマネしていたのかもしれない。

大人になったら、こんどは三角形をよくかく、屋根の形として。屋根の形はなんでもよくて、半円でも、フラットでもいいのに、三角形にしたくなる。木造の屋根としては、三角形が一番おさまりがいいから、それはそれでいいのだが、別に三角形でなくてもいいのだから、ちょっとそれにこだわる理由をかんがえるときもある。でも、自分のことながら、よくわからない。

ただ、2階の天井だけは意識して三角形にする。屋根の三角形の形を天井にも表して、いまいる場所は屋根に近い、すなわち、空に近いですよ、と思わせたい。

いまいる場所はどういうところなのかを形で表すことは大切で、とくに家はこころの安全地帯なようなものだから、自分がいたい場所といまいる場所を意識しないでも合わせることができるのが重要、安心感が生まれる。そのための形、そのための三角形ということです。

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バラバラだよ、何とかしよう

なるべく手ぶらで歩くのが好きで、携帯だけあればいい。どうしても携帯以外で必要なものがあるとき、秋から春にかけてはジャケットやコートがカバンがわりになる。

とにかくバラバラと何かを持ち歩くのが嫌い、なるべくまとめて少なくするか、目立たないようにして存在を消すか、別のものに置き換えて全く別の何かに見せたい。

空間の中でいつも心がけているのは、天井をスッキリさせること。天井には何も設けないか、最低限の小さな照明だけと決めている。頭の上にごちゃごちゃあると落ち着かないし、空間が煩雑にみえる。その分、壁にものが移動してくるが、壁には元々いろいろなもの、たとえば、家具などがくるから、うまく処理すれば目立たず、むしろ特徴にすることもできる。

壁に取り付ける予定だったものは、スピーカー、エアコンの吹き出し口、給気口、照明器具だった。それぞれバラバラの形や色をしている。そのまま取り付けては機能的かもしれないが、煩雑な壁がただ出現するだけ、何かできないか。

共通なのはすべて「穴」だということ。穴があればそこに仕込めばいい。穴がたくさんあっても、要素は壁面と穴だけになり、煩雑さを避けることができ、うまくみせれば、特徴的な壁になる。天井はスッキリ、壁には穴があるだけ、空間に手ぶらの良さが生まれる。

そもそも暮らしは煩雑さとのせめぎ合い、人間が煩雑な存在なのだから仕方がない。だから、その煩雑さをうまく使って、暮らし自体を面白くしたいといつも思う。

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どうして広くしたいの

せまいより広い方がいいに決まってる。すべてを広くできれば一番いい。ただ、広さには限界がある。だから、どこを広くして、どこをせまくするかもデザインのうち。広いリビングがほしいとの話はよくあり、できるだけ、それにこたえるようにしている。広いという表現は曖昧だから、それをどうあつかうか。

領地の奪い合いではないけれど、極端に差がつけば広いと感じるのではないかと思った。広さには限界があり感覚的だから、数値で置き換えても意味がなく、比較の中で広さを感じてもらうのが一番わかりやすい。

リビングの横に広さを比較できる小さいものをつくった。それは本来は大きくしたいが、小さくても事足りるものがいいと思い、小さい浴室にした。浴室が小さい分、となりのリビングが広くなっているということが視覚的にも、また頭でも理解できれば「うちのリビングは広い」と感覚的に思う。

本来、広さは何かをするときに必要な分だけあればいい。その分だけ確保できれば、あとは感覚的な広さをつくり出す。そのときにもデザインが力になる。

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括弧つながり

2つの言葉「バラバラ」「つながりがない」はどちらかと言うと否定的な言葉、あまりいい意味では使われないし、言わない。それでも案外使ったり思ったりする機会は多いような気がする。

ただ、バラバラだけど、つながりがあれば、それはいいような気がする。しかし、まとまりがあっても、つながりがないと、それはダメなような気がする。

そうすると、「つながり」のありなしが大事ということになるし、もっと言えば「つながり」があれば、何らかのものにはなるかもしれない。何らかのものとはいいもの。

ならば、何とつながりをつくるか、と考えるだろう、普通は。それにはなぜか違和感がある。「つながり」自体はそこらじゅうにあるし、いくらでもつくることはできるから、意図的にやろうとする、ただそれは不自然な「つながり」になるような気がする、「つながり」があれば何でもいいという訳ではない。

そうではなくて、「つながり」自体が括弧になっているようなものをつくることが大事かなと思った。括弧になっているとは、「つながり」自体はすでに含まれていて、「つながり」自体を考える必要がない状態になっていること。むずかしいけれど、括弧つながりでないと本当の「つながり」はつくれないと思った。

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家が出会う場

出会うってたのしいなと思う。男女の話だけでなく、出会う人はどんな人でも、自分の知らないことを連れてきてくれると思っている。旧知の人でも、たとえば、街中でとつぜん出会ったりすると、その人のいままで知らなかった一面をみることになる。もちろん、良いことばかりとは限らないけれど、いつも同じ人、同じことのくり返しよりは、なんか可能性を感じることができて、いいなと思う。

だから、出会いをつくり出すことが場づくりの基本だと考えている、それは住宅も同じ。家族や同居人とも出会うような感じがあれば日々の暮らしにもメリハリや、よりたのしむ感じが生まれるでしょ。

それぞれの居場所はきちんとつくる、落ち着く場所を。その上で移動したとき、たとえば、階段の上り下りによって、お互いの姿がみえ隠れするような、オープンとクローズドのバランスのとり方をデザインしてみた。完全にひとりではなく、かといって、いつも一緒でもなく、その中間をたくさん用意し、ひとつの住宅のなかに毎日出会いがある。

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キョリ感なくしたら

そろそろもう必要がないかな、と思う間にあるアクリル板、あるのが普通だとない方が不自然な感じにもなる。アクリル板をなくすかわりに、なんかちがったことで、アクリル板があった方がよい、となることはないかな、と考えるときもある。

壁なんかない方がいいと思うとき、私は床もと思う。壁は人のこころのキョリ感をはかる言葉してつかわれるけれど、床も同じように考えれば、床はこころの上下か階層のキョリ感か。

昔、斜面地で斜めの床を計画しボツにはなったけれど、斜めの床で上下階がつながり階層なくなるなら、それは斜面地という場所を最大限にいかすことになり、また階層がある当たり前の計画に対するちがった提案にもなるから、それはそれでいいのではと思ったことがある。

ささやかな上下の階層をなくすこころみとして、2階の廊下の床の一部を透明ガラスにした。そこを通らないと2階の各部屋には入れないようにして、そのガラスの床は1階のダイニングテーブルの真上にある。

あきらかに上にはあるけれど、下からも丸見え、上下の関係性が微妙にゆがむことで、暮らしにちょっとだけ他にはない体験をはさむことができ、外より家の方が面白いとなれば、をつくってみた。

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集まれここに

ものはこうして欲しいとうったえる。だから、何も知らなくても、押してしまうし、触ってしまうし、にぎってしまう。その形が何を意味するか、自然にわかる。TVリモコンがあれば、赤いボタンをとりあえず押す、それが電源のonoffたがら、まじまじと見なくてもそう思う。それをアフォーダンスという。ものが誘惑する、そうしてと。

小さな窓ひとつ、あとドアがあるだけの外壁面、色違いのラインがランダムに入る。そこに、うすい1m弱の出っ張りが端から端まである。

何か出っ張りがあれば、雨露しのげて、日差しをさえぎることができるから、まわりに何もなければ自然とその下にいく。大きな木の下へいくのと同じような感じかもしれない。

外壁の素材はよくある金属板、だから安い。そのままふつうに使えば、よくある住宅で馴染みがあるかもしれないが、そのような住宅があふれる中では金属板である意味がない。金属板でできる表現のうちで、もっとも住宅らしくない使い方をして、まわりの住宅とのちがいを出し、しかし、住宅とは人が集まるところとするならば、他の要素を重ね合わせて人を自然に集める。

見た目の住宅感を装飾してつくりだすのではなくて、人が自然と集まる場所としての住宅感をだしたかった。そうすることで、人と住宅のつながり、人ともののつながりが自然にでき、それが愛着にならないかな。

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壁あるな、ないな

いつもいっしょでなくても、あそこにいるというのがわかれば、とくべつ意識しなくても、安心した気持ちでいられる。つながったり、離れたり、何ごとにも関係性はできる。人にたいしてだけでなく、でも人かな一番は。さっき宅急便が指定時間よりおくれてきた。大事な荷物だったから、でも今どこかにあるのかわからなかったので、来なかったらどうしよう、などと思ってしまった。

小さい家でも、いや小さい家だから工夫しないと、それぞれ自分だけの場所をつくって閉じこもるような気がした。だから、少しでいいからお互いに今いることがわかるような工夫をしてみた。

階段を上り下りするときにチラッとみえたり、室内の窓から顔がみえたり、半階ズラして同じ場所にいても自分の場所ができるように。

いつも、まったく壁がないときと壁だらけのときの間のどのあたりがちょうどよいのかをさぐってみる。それは、いろいろなつながりが壁の量にあらわれるからで、壁の量が暮らしをつくりだすと思えば、暮らしや空間を壁ではかることができる。壁のあるなしが気になるのは人でも空間でも同じだなぁ

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となりもこちら

となりは何気にみえてしまうから気になり、「隣の芝生は青い」ことになるのはよくあるでしょう。となりは良くみえるものと、わかっていてもなんか落ち着かない。ならば、一緒に何かをしてしまえば、「なんだあ」と相手をよく知ることができて、落ち着いたりする。

前に、兄妹クライアントの住宅を別々につくった。そのときはひとつの敷地を半分にして、となり同士に建てる計画、要望はまったくちがったが、全くつながりがない住宅を並列に建てるのは、なんかよくないと思った。そもそもつながりがある同士だから、住宅にも何かつながりをつくりたい。

ただ、もともとつながりがある同士だからゆえに、離れていることも大切、だとは思っていた。そこで、玄関にいたるアプローチだけを共有にした。となりの敷地までお互いにつかうことで、倍のはばの通路がとれ、そこはお互いの家族の遊び場にもなる。

要望がまったくちがったので、住宅の大きさも外形もちがうが、外壁の仕上げだけは同じにして、つながりがあるもの同士だと表現し、アプローチに面する窓もお互いにズラしながらも、窓越しにコミュニケーションできるようにした。

アプローチだけを一緒にすることで、別々だけどまったく別ではなく、かと言って、よくある建売住宅の並びのような同じさにはならない。このバランスならば、「隣の芝生は青い」ことにもならないでしょ。

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ここからみる屋根はどう

遠くからみえる屋根が郷愁をさそうことは、たとえ実際に体験したことがなくても、なっとくしてしまう人がいると思う。むかし、合掌造りの集落を訪れたとき、だんだんとみえてきた三角屋根は、はじめてみるものでしたが、どこか前から知っているように感じた。なぜだかわからないけど、子供に家の絵を描かせると三角屋根になる。屋根にはそれだけイメージや感情とむすびついた何かがある。別の言い方をしたら、アイコンのようなもので、屋根は人の意識の一部に常にあるのかもしれない。

屋根の形にはいつも悩んでしまう。意識の一部にある屋根は誰でもイメージしやすいものとして常にスタンバイしているから、形はわかりやすく、イメージしやすいものがいい。ただ、それではアイコンとしては弱い。数あるアイコンとしての屋根がならぶ風景の中で自分のアイコンだとわからなくてはいけない、自分の家だから。

前につくった住宅は三方向から遠景としてみることができた。だから、三方向の全てでみえる屋根の形を変えた。屋根の形を考えるとき、まわりの屋根と比べることがある。それは高さや形がアイコンとしてふさわしいかどうかをみる場合、まわりのアイコンとちがいを出したいから。ただ、このときは比べる相手を三方向の屋根の形同士にした。

みる方向によって屋根の形がちがうことで、無意識に家と自分の位置関係を感じる。それは屋根の形を、単なるアイコンではなく、家と自分をもっと深く強くむすびつけるものにし、より愛着がわくようになる、家に、そして自分に。

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まじめに緩くして

たくさんの器、昔のものも今のものも、古染付や古九谷、民藝など1日でたくさんみることができた。器にくわしくはないけれど、器は大すき。ふだんの暮らしの中で何をつかうのか、どの器に盛ろうかな、どの器で飲もうかな、と迷うのがすき。

いろいろみて思ったのがつくる側とつかう側、みる側と言ってもいいかもしれないけれど、お互いにちがうところが気になる。つくる側にはつくる側の動機があり、つかう側にはつかう側の流儀がある。みる側はその両方を合わせ持つのかもしれない。

ときに、そのつくる側とつかう側のズレがおもしろい。つくる側の精緻さの具合いによって、生まれるものの良し悪しは決まるが、つかう側はその精緻さの具合いまで含めて迷う。

ふだんの暮らしにはその人の趣味趣向がでる。趣味趣向はその人の考えや想いのあらわれ。ただ、人は気分にも左右される。かっちりしたいときは精密なものを、おおらかにしたいときは緩いものを、というように精緻さの具合いまで趣味趣向の範疇になる。

そうすると、つかう側からみて、緩いもの意識してまじめにつくってほしくなる。そうなると余計おもしろい。今度はその緩さの具合いに良し悪しがあらわれてくる。ただ、つくる側は大変、緩さを精緻につくろうとするのだから。

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そちらに向けばいいのに

どちらを向くかってけっこう大事だなと思いながら、ついよそ見をするクセが。よそ見はいつでも向けるからという余裕かもしれないけれど。

東西を電車と道に挟まれた場所ではどちらを向いても空いているが、どちらを向いても視線が気になる。元の家は暗くて寒い。ただ、南と北は建物が接近している。一般的には南に開くのがよくあるパターンだけれども、空いている方に開く方が将来的に周辺環境に左右されない。電車にちょっとだけ開く、道にちょっとだけ開く、あと空にちょっとだけ開く。

開くはそちらの方へ向くことだが、ちょっとだけ開きながら背を向けることもできる。そうすると案外、外から見てもわからない。ちょっとだけ開き背を向けるとは中から見て視界の半分までの窓をつくること。経験上、半分までは窓にしても中外どちらからも気にならない。よそ見もいいいけれど、きちんと向いた方が今までのことを一旦保留にできて、新しい機会が増えるような気がする。

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ミニがいいだろうという顔

ほとんど車に乗らないのに持ってはいるので、たまにバッテリーが上がらないように用もなく走り回る。2台とも小さい、軽トラと古いミニクーパー。やはりないと困るときがあるので、あと愛着。もともとあまり車に興味がなく、必要に応じて軽トラと、あのときなんかほしかったミニクーパー、すでに27年がたつ。小さくても全く乗り心地がちがう2台、ミニから軽トラに乗り換えると、軽トラが広くただ走りは鈍く感じる。やはり自分はミニの小ささと軽快な走りが大好きなんだと毎回気づく。

前は狭小住宅の依頼がけっこうあったので、小さいなりの工夫をしていた。小さいなりの工夫とは、効率よく機能的にして省スペース化を実現する、ことではなくて「小さい」から「大きい」にはできないことをして「大きい」よりも「小さい」方がいいだろうという顔をするということ。

小さいが故に実現できることを探し出せば、大小のちがいをいったん保留にできる。そうした上でクライアントの暮らしに合わせていけば、まだ見ぬ空間ができあがるかもしれない。

前につくった住宅はあまりに小さくて必要な広さの空間がとれない。どうしてもひとつの空間に複数の行為が重なる、例えば、朝に顔を洗う横で目玉焼きをつくり洗濯をしているとか。一見それは乱雑な空間のように感じるが、それがクライアントの朝の習慣で、細長い空間の中で順番にできたら、クライアントにとっては快適で、さらにその空間がまだ誰も見たことがない景色になる可能性を小さいが故に実現したことになる。

「小さい」ということは制約だが、それは「大きい」も同じで別の制約がある。大小はひとつの条件にすぎず、可能性に差はないとミニに乗るたびに思う。

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見るは見られるだよ

着ている服が変わっただけで、たとえば安もののスーツでも、ふだん着ていない人が着るとよく見えたり、別人に見えたりする。中身が変わったわけではないけれど、中身まで別人のようで、案外本人も知らないうちにふるまいが変わる。そう自分もはじめて着物を着たときにそれを感じた、それは別の自分の発見にもなった。だから、たまにいつもとはちがうことを、それも他人から言われた方がいいかもしれない、自分の思いつきだとまた同じになるから。

ある時、前につくった住宅の屋根にあがるときがあった。たしかクライアントから何かを見てほしいとたのまれてのことだった。その住宅にはトップライトがあり、2階の床がガラス張りだから1階まで屋根から見える。トップライトの真下はダイニングテーブル、テーブルの上にはいろいろなものが置かれ、人が座ったり立ったり動いているのが見えた。いつもとはちがう見え方、日常では見ることができない風景、四角いトップライトが切り取るある家族の日常を記録映像風に見ているようだった。

設計しているときにはこのイメージはなく、むしろダイニングテーブルから見上げる空のイメージしかなかった。他からトップライト越しに室内を覗かれることはないので、見ることだけで見られることは考えていなかった。

ただ、この風景を見てからトップライト越しに見上げる空が身近に感じるようになった。うまくは言えないけど、一方通行の関係が双方向になったような。どんな風景でもこちらも見られていると思うと見せ方は変わるだろう。ならば見られることを身近に親近感を持って感じた方がいい。そうして生まれた別視点が新たなもの、例えば新たな自分、新たな暮らし、新たな空間を生みだすかもしれない。

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ものは試しに、飽きたらそれで

昔のツァイスレンズをデジタルで使いたくてカメラを手に入れた。ものは久しぶり、最近は形がないものに、と思ったら最近マグカップが増えた、毎朝のコーヒーのために。ツァイスレンズは15年くらい前に手に入れたもの、ずっと防湿庫に閉じこもっていたけれど、最近写したいものができたので防湿庫の鍵を開けることにした。せっかくカメラを手に入れても飽きたらどうしようとも思ったが、それならば飽きたという経験ができるからいいかなと。

時々、自分ではやらないが面白そうなオーダーを受ける。前につくった住宅ではすべり台がほしいという。ずっとマンション暮らしだったから、2階建ての住宅に住んだことがなく、階段の上り下りが面倒くさい、だからすべり台とのこと。

そもそも広い住宅ではないから、すべり台のスペースがもったいないし、たぶんまちがいなく飽きると思ったので、クライアントに正直にやめた方がいいと言って思った、見方をかえれば、下りの時は1階と2階の区別はなくなり1階と2階はつながる。

結果この住宅は、そもそも2階にある個室に壁がなく戸で仕切るだけ、1階はワンルームのキッチン、ダイニング、リビングだったので、2階からみれば全てがつながって感じられ、逆に1階からみれば階段があることでちがいが出て壁がない2階のプライベート感が増し、個室に壁がないことがよりよくなる。

試しにやってみて飽きたらその時考えればいいかな、いくらでもやりようはある。飽きたらすべり台に下から本を並べれば、階段が図書室に、積読にはもってこい、読みたいところに座ればいい。

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甘い誘惑にみたされて

空気を感じる、というと何か人間関係や場の雰囲気など目に見えないものをわかることを指すけれど、それを建築に当てはめてみることもできそうな。

建物があると人がいて、その建物と人との間には空気が充満している。空気は見えないけれど、もし空気に色をつけるならば、建物の外の空気と中の空気はちがう気がする。

その中の空気のことをボリュームといえば、ちょっとふわふわなやわらかい透明なマシュマロを思わず想像してしまう。人のまわりにある透明なふわふわマシュマロをどのようにあつかえばいいか。壁を建てないと流れ出てしまうが、壁の建て方によってはふわふわマシュマロでもみたされない場所ができそうな、きっとそういう所は人がいなくてもいい場所か、ひとりになれる場所になるのかな。

空気とすると冷たい空気、温かい空気などそれはそれでなんか良し悪しがあって窮屈だが、マシュマロだと思えばなんか笑えてくる、甘そうで、甘いものに弱いから誘惑されそう。日曜だからとぼんやり妄想してみたら、案外ヒントになったりして。

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キョリを感じるとき

キョリという言葉をすぐとなりの人にも、実際にはすぐとなりだから離れていないのに「心の距離がある」などとつかう。キョリというものは実際に目に見えること以上に多様な使われ方をする。

建築においてキョリは図面上の表現になる。その表現にさまざまな意図をのせるが、その意図はキョリと密接に関係しながら、読み取らないとすぐにはわからないときも多い。

例えば、壁を間に建てればお互いに遮断しているとわかるが、壁を建てたくないときは、間を離してキョリを取る。壁があれば目で見て遮断はわかるが、キョリを取ったときは他のものとのつながりも同時に見ないと遮断してるのか、つながりは保とうしているのか、どちらなのかがすぐにはわからない。表現がより複雑になる。

前につくった住宅で個室の壁を無くした。そのかわりに引戸で仕切り、個室状の空間を数珠つなぎにつなげた。各個室状の空間は大きさが微妙にちがう。誰がどの空間を使うかは大きさとお互いの離れ、すなわちキョリで決める。別に固定する必要もない。家族の成長に合わせてキョリも調整すれば良い。キョリの多様な使われ方を利用してみた。

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となりに緑がほしい

緑に包まれたい、ただ見るだけでなく緑に抱かれるような感じで過ごしたい。緑の多い場所、山や森や林に行きたい時はきっとそう思うのでは、私はそう思う。ただ見るだけならば、ちょっと緑の多い場所、都市のちょっと大きな公園などでも、それではもの足りないから自分のとなりに緑があるくらいの近さがほしい。そうすると、自分と緑との間にどのくらいの空間があるといいのかなどと思ってしまう。

自分は建築の中にいるとしたら、建築と緑との間にどのくらいの空間があるのがいいのか。建築の中に緑があったとしても自分との間に空間はできる。ようするに緑との接近度、親密度を間にある空間の大きさ具合ではかろうということ。

緑は自然、建築は人工、自然と人工の対立は昔からある話で、くっきり分けるのではなく自然と人工を混ぜたような状態も考えられるが、いずれにせよそこには人がいて、人は本来自然の方のはずだが、人と自然という対立になる。そうするとややこしくなるので、間にある空間を扱って人と自然をどのようにつなげるかをめぐらしてみると、案外単純な話にならないかな。

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じゃまなら合わせるのは

家を建てると皆んな緑を置きたくなる。プランターを外に置く人、家の中に置く人、大小いろいろだけど何かしら緑を増やす。それを勝手に自然の中で暮らしていた名残りではないだろうかと思ってる。

人間は大昔自然の中にいて最小限の自分を囲う小屋や巣のような場所で暮らしていた。それは身を守るため、ほかの大部分は自然だった。それがいまでは逆転し大部分が自然ではない人工のものになった。それで大昔のような危険はなくなり身を守る必要はなくなったが、今度はあまりにも自然がなくなりすぎて、それでは身が休まらないと本能的に感じているのかもしれない。人工のもの、すなわち建築がわるいという訳ではないが、人間という生物が生きて行くには自然と人工のバランスがあり、都市部ではバランスがわるいということだろう。

敷地の中に10本の木を植えようと計画している。なぜ10本かは10家族が暮らす予定だから、ひと家族1本、それによって暮らしにいつも木をまとわせる。だから、建築もはじめから木をまとうので、木のまとわせ方が建築を決めていく。それは木の方から建築をみることになるので、建築がじゃまならば建築が木に合わせることになる。

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ひとりになれたね

なんか大変そうだな、はじめての打合せで感じたことを貴重なヒントだと思って気にとめてみた。これから建物をつくろう、住宅を建てようとする人はどこかいつも勇ましくみえる。新しいことをするとき、思い切るとき、ちがったことをするとき不安をかき消すためにちょっと背伸びしたくなる、そのぶん見栄えがよくなるのかな。

ときに住宅だと家族のつながり具合がプランに影響を与えるときがある。余程ちがいを感じないかぎりはそのようなことはしないが、できれば感じたことをうまく建築的な要素として取り込み、ちょっと他にはないものを提案したい。

先ほどの「なんか大変そうだな」は以前につくった住宅のご主人、こちらまで息がつまりそうな気になった。プレッシャーを抱え込む感じ、それだけ家族を大事にしようと。初回の提案からひとつの住宅の中に離れをつくった。簡単に言えば外部であるバルコニーを通ってしか行けない部屋。ただし、その部屋は内向きに窓があり開けるとリビングからもお互いの存在がわかる。ご主人がひとりになれて好きなときに家族とつながることができる、ご主人しだいのご主人だけの場所。

昔から部屋の並びには序列があり、一番奥の部屋ほどプライベートで閉鎖的につくられていて重要な場所だとされてきた。その序列はときに有効だが、ときに住宅の規模くらいの建築だと序列を誘導し助長してしまう。ワンルームにして序列を全くなくしてしまうこともできるが、奥の場所と手前の場所につながりをつくり出すことができれば、部屋の並びは残しつつ序列は排除できる。この方がより建築としては望ましい方へ行けるだろう。

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たまたま屋上だった

高所恐怖症なのに高いところが好き、高層ビルでも屋内ならどれだけ高くても平気、むしろ行きたくなるのに、生身の身体がさらされているところは2階くらいの高さでも怖いから足場の上にはできるだけ行きたくないのに。ただ不思議なことにいまはないWTCの屋上は外に出れたが怖くなかった。あそこまで高いと地上から離れすぎているからかな。

2階くらいの高さでも屋上は貴重な外とつながる場所だと思い計画することがある。建設中何度も見に行くので慣れれば怖くない、むしろ地上とはちがう楽しみを発見する。見渡すと案外上空をうまく使っていない家ばかりなので、地上の庭よりプライバシーが守られて広大な空に近いから解放感があり快適な場所になる。

ただ、だんだんと使わなくなるときく。たぶんそれは屋上というスペースをとってあるだけだから、とくに使わなくてもいいから。強制的に使わせようとしてもダメだが、ないと困るというか、あるから良いとなるような工夫が必要。

前につくった家では屋上で遊ぶ姿が直下のリビングから見えるようにした。人が集まることができる場所、戯れる場所を分散することで家中いたるところがリビングのようになる。たまたま屋上が外のリビングになればいい。きっとこの「たまたま」な感覚が大事で強制はされないがあれば楽しめる場所になる。

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上を見上げてごらん

曇り空がきらい、雨の日は雨音が癒やしてくれるのでまだいいけれど、朝起きて晴れているだけで一日中気分がよく、特にいまの季節の秋晴れは気候もいいので窓を開け放して過ごしたくなってしまう。

いま住んでいる家は築50年、10年前くらいにある住宅メーカーが建てた家を購入し手を入れた。道路から奥まりまわりは建物に囲まれて1階にあったキッチンとリビングは日当たりが悪かったので、1階と2階の部屋を逆転して、キッチンとリビングを2階にした。おかげで晴れの日は一日中陽が適度にあたるのでずっと快適に過ごしていられる。

まわりを建物に囲まれることは住宅地以外でも、例えば商店街などは道路側以外はとなりの建物が接近している。そういう場合でも上階にはオーナーが住む場合があり、時には住宅地よりも日当たりが悪い。

日当たりが悪いことを別の言い方で「眺望が悪い」「閉鎖的」とも言えると思う。南側に窓がなくても他の方位に窓があればあまり日当たりが悪いとは思わないだろう。だから一番避けたいことは眺望がなく閉鎖的であること。

空は地上の事情とは関係なしに平等な存在。そんな空とつなげることが眺望を得て開放的になれ、そして、いまいる地上の状況を相対的に良くしてくれる。上を見上げれば良こともある。

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小さいから魅力的

小さいものが時に魅力的で、その魅力はどこからくるのだろうか。1995年に新車で購入したミニクーパーにまだ乗っている。その小ささが特徴的ではじめて生産された時の技術は素晴らしいものだったらしい。

今でも変わらず新鮮なままの体験が運転している時の感覚で、この感覚が実に楽しい。きっとそれは小ささに由来しているのではないか。小さい車体にエンジンやギアボックスなどを収めるために様々な工夫をし無駄な物を排除しているから、実に運転感覚がシンプルでアナログ。なかなかアナログな道具が減ってきている時に私にとっては貴重なストレス解消アイテムだ。

小さい住宅はいくつかつくった。あまり大小にこだわりはないが、小さい住宅の方が工夫しがいがあるから結果的に楽しい設計になる。室内では何かの存在自体を根本から見直ししないと入り切らないから、新しいことを考えるきっかけにもなる。

それは屋外でも同じで、小さい住宅というのはそもそも敷地も小さいので、余すところなく土地を使い切りたい。以前つくった住宅では敷地境界線までの距離を少し余計にとり、建物の周り四周に敷地境界線までウッドデッキを敷いた。普通に建てると敷地境界線と建物との間に普段使われることがない場所ができてしまう。その場所を室内と連続させることにより、小さい住宅の室内を少しでも広く感じさせることができた。

結果的に小さい住宅の方が敷地全体を余すところなく使い切ることになった。それは小ささに由来している。小さいということを積極的に捉えると大きいものでは獲得できない魅力に出会える。

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木が木に見えないよ

木は土の地面から生えている、だから何も見ないで木の絵を描いたら普通に地面には土を描くだろう。地面が土ではなかったらとは誰もイメージしない。だから、木と土の地面はセットであり、土の地面がないと木もないと思う。

突然木が目の前に現れた感じがした。そこは地面が砂利敷き、駐車場から続いた場所だった。砂利から木の幹だけが生えている、もっと言うと、どこかで伐採した丸太を持って来て、そこに立てて並べているようにしか見えなかった。

地面に土ではなく砂利を敷いたことで、地面と木がつながらなくなった、まるで別のもの同士、全く関係ないもの同士の組み合わせに見え、そうすると、木自体も木に見えなくなった。

今までの木とはこういうものという既成概念から抜け出た。そこで改めて木について考えると、例えば枝同士に渡して屋根をつくれば木は柱にしか見えなくなるなど、木が多様に変化しはじめるような気がした。

木が木に見えない、ならば木がある場が必ずしも屋外である必要がなくなる、あるいは、木がある場を屋内的な使い方をしても違和感がなくなる。既成概念を抜け出せれば、思いのままに木がある場を新たな空間にできる。

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庭があることで

先日の何もしない庭をつくった話のつづき、今は何かする庭をつくろうとしている。そこには1本の木を植えたい。むしろ木を植えたいから庭をつくろうとしている、と書いてふと思った、室内に木を植えたらどうなるだろうか、いややめよう、それも面白いが今は収拾がつかなくなる。

ただ1本の木を植えるだけでは庭にならない。その木があるからどうなの、ないとどうなの、庭の形は、庭のとなりに何がくるのなど、木を植える庭があると暮らしの中で何が変わるの?

以前に1本の木を植えた庭つきの住宅をつくった。その木はクライアントのお父さんが亡くなった頃から自然に敷地内に生えてきたらしく、残したいということで移設して庭の真ん中に持ってきた。その木はキッチンからもリビングからも眺めることができる、それが要望だった。

木が見えるということが家族のつながりを無意識に象徴することになった。庭は木のためだけにあるようなものだが、その庭がないとプランは完結しない。何もしない庭も同じだが、庭はあることでつながりをつくり出す、つながりがなければ庭はいらない。

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集まれその木に

たくさんの小鳥が木にとまり茂った葉の中で鳴いているのを何度か見た。ちょっと怖い風景でもあり、どうしてその木にと思う。小鳥に好かれている木は他と何がちがうのかと観察してみてもよくわからない。たまたまその木だったのか?

人にも好かれる木と好かれない木があるのだろうか。都市部にいると木が少ないからそもそも木の好き嫌いを思うことがなく、樹種にかかわらず大括弧で木としか思わない。でも、たくさんの木がある場所に行ったら自然と人が集まってくる木はありそうな気がする。

たくさんある木のうち、ちょっと根元に腰掛けやすそうだな、寄りかかりやすそうだな、張り出した枝の下は木陰になっていて涼しそうだなとか、人とのつながり方がイメージできそうだと自然と集まりそう。そうすると、小鳥には小鳥なりの人間にはわからないつながり方をしているということか。

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ここは空に近いよ

悩ましいのはいつも屋根のかたち、意外と屋根は目立つ。近くで見上げるとあまり見えないが、ちょっと離れると屋根がよく見える。なぜ目立つのか、たぶんそれは一番空に近いから、屋根の形がそのまま反転して空のかたちになるから。

2階の部屋は屋根のすぐ下にあるから、空に一番近い部屋となる。だから、それを表すために天井は屋根の裏の形をそのまま見せることが多い。無意識にここは空に一番近い場所だと、地面からは離れた場所だとわかってもらうために。

時たま天井をフラットにして空を意識させないようにする。そういう場合は2階にいながら地面を意識させたい時でだいたい広い庭か中庭がある。だから、狭小住宅の場合は必ずと言っていいほど2階の天井は屋根の裏を見せて、上へ空へ意識が抜けて少しでも広さを感じるようにする。

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階段ラバー

階段が好き、そう言うと階段に好き嫌いがあるのかと思われるかもしれないが、過去に1人だけ出会った階段好きに。妙に話が合い、その人はローマのスイペン階段が一番すきだと言っていた。私より若く学生だった彼の口から「スペイン階段」という言葉が出てきたのがちょっと意外で、でも納得してしまった。

よく階段に座りたくなる。2段分にかけて腰掛けるとちょうど椅子の高さと同じくらいになるから、階段を見ると休憩場所だと思うクセがある。スペイン階段もまさに腰掛けだ。

階段はいろいろなバリエーションをつくってきた。階段好きもあるが、階段はひとつの見せ場だといつも思う。階段を上がることは舞台に上がるようなもので、別の世界に運んでくれる。だから、上がった先には何かを用意したいし、上がっている途中も何かを感じさせたい。

別の場所へ行くために、時には休み、時には何かを感じ考え、時には下り、時には上がる。階段はいろいろと例えることができる。それはまるで何かのようでもあり、だから好きなのかな。

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壁なくてもいいよ

まず外と内というような分け方をします、家の話なのですが、案外他のことにも当てはまるかもです。領域というかテリトリーというか、自分たちの安全地帯をつくるように壁を建てて室内をつくります。

その室内に一緒にいる人たちは家族や仲間だから安心、でもお互いに隠したいことはあるからまた壁を建てて囲います。そうやって家はできます、古来より簡単なんです、家づくりは。

ただ、壁のバリエーションはいろいろです。それは人とのつながり方と同じです。何度も会い本当に親しい人から一度きりの人までいて、人によって会った時の感じがちがうようにです。

前に建てた住宅で壁が必要ありませんでした。1階は家族が集まるスペース、2階は各自のスペース、その2階に壁がありません。正確に言うと、引戸があるだけ、必要に応じて仕切るだけ、でもそれは壁ではないです。ご夫婦とお嬢さん2人のご家族、壁がなくてもいい暮らしができることをうらやましく思いながら設計してたな。

壁が必要だと、壁で囲うのが当たり前だと思うことで人のつながり方まで決めつけていたようです、壁はなくなった方が面白い空間ができるのに。

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何もしない庭つき一戸建て

庭つき一戸建て、なんて言葉があるようには庭と家はセットだった、一昔前までは。今ではマンション暮らしの人も多いし、一戸建てを建てる人も庭などはじめからない場合も多い。マンションだから、敷地が狭いからと理由はあるだろうが、そもそも庭が必要ないのだろう。

前に建てた住宅は1階のリビングと同じ大きさの庭をつくった。その庭にはウッドデッキを全面に敷いて室内のリビングの床と同じ高さにした、リビングの延長として広く見せるためとリビングに光を取り入れるために。だから、はじめから庭に出ることは考えていなかった。それで十分で、それで豊かな生活になるだろうと思った。

その庭はリビングが十分に広くて日当たりが良ければなくてもよく、ただリビングとつながって見えるようにするためにウッドデッキを敷いた。そうしないとその空間が生きないから、生かすためにリビングの暮らしと関連づけて何もしない空間をつくった。

10年後その住宅に訪れるとウッドデッキは多少古びたが完成当時と変わらずに何もしない空間があった、まるでそこの空間だけ時間が止まっているように。きっとそう見えたのも何もしない空間だから、でもそれがよかったのである。何もしなくても庭はあった方が日々の生活が豊かになると、室内を見渡して、ご家族を見て思った。

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空を使う

空って当たり前のようにいつもあるけど、うまく使えていない。窓越しに空は見えるけど景色の一部、天気を気にするくらい。使うという表現がいいかどうかわからないが、空だけがみんなに平等に与えられた自然のような気がするから、うまくいかさないともったいないとつい思ってしまった。

自然には他にも緑、木や水辺の川、海、地形として山や谷などがあるけれど、場所によっては身近にはない。だけど空だけは見上げれば誰の上にもある。

建築で空をいかそうと天井をガラス張りにした家を見たことがある。誰でも一度は考えることだ。ただそうすると、夏は暑過ぎて、冬は凍るように寒く、人が住める場所ではない。

空を使うって案外むずかしい。それに空を使わなくても建築はできてしまう。だから誰も真剣には考えないのだろう。ちょっとは空を使ってみてはどうなの、と秋空が教えてくれたような気がする。

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建築にマヨネーズ

コールスローをつくろうとしたら冷蔵庫にマヨネーズがなかった。普段マヨネーズを使うのはあと玉子サンドをつくる時くらいで、それもあまりつくる訳てはないから大体使い切らずに消費期限を過ぎてしまう。キャベツの千切りを別の食べ方にしようかとも考えたが、

ふとマヨネーズをつくろうかと思った。

ネットで調べたら、材料は全て家にあった。卵、酢、オリーブオイル、塩を混ぜればいい。卵は平飼いのもの、取り入れる油はオーガニックエキストラバージンオリーブオイルかグラスフェッド無塩バターだけと決めている。少し高いが他のものは使わないのでかえって安上がりだ。

10分後、オリーブオイルを使うからちょっと苦めのゆるい出来立てのマヨネーズはそれだけで贅沢なソースに変身した。あと茹でた野菜やパンがあれば、ヨーロッパでは平日の立派なディナーだろう。

結局、もうマヨネーズは買わない。

その分、冷蔵庫のスペースは空くし、余計な出費もなくなり、贅沢な気分にもなる。ちょっとしたことである。

ないから足すのではなくても、自作しても、ものを減らしてミニマリストにしても、あるいは、余分なものを削ぎ落としてレスイズモアなミニマムデザインな建築にしても時につまらないことがある。きっとその原因は結果的に新しい価値を獲得していないからである。マヨネーズで言えば、自作するが市販のマヨネーズの代替品でしかない時である。

そうそう関係ないが一昨日見たリヒターの作品は当たり前のように巨匠の域であったが、

マヨネーズ工場のようにも見えた。

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1本の木が森になるか

森の中で暮らすにはどうするかと考えながら設計をしているのだが、敷地が東京の区部でそれを実現するには広大な土地が必要になり無理だな、とぼんやり赤坂の迎賓館あたりを見下ろしながら考えていた。

森の中にいる感じを木の量で実現しようとすれば広大な土地が必要になる、当たり前である。では量でしか森を感じることはできないのか、探究のはじまりである。

1本の木で森を感じることはできないか。

普通に考えたら、というかそもそもおかしな問いの立て方である。1本の木が森になる、小学生の時に習ったはずである国語の時間に、木が2つあって「林」、木がたくさんあって「森」という漢字になると。まともな捉え方では解決しない。

ちょっと別視点から、その木は誰ものか。

自宅の玄関脇に1本のオリーブの木がある。最初は親指ほどの幹が今では私の太腿より大きい。毎年実をつけ、どんどん成長していくので自分で手入れをしている。また、2階のキッチンの窓からはお隣の木を見下ろすことができる。こちらは何の木だかはわからないが常緑で小鳥もよくやってきて鳴いているので、毎朝窓を開けてコーヒーを飲みながら眺めている。

どちらがより森にいる感じに近いか。

どちらも森にいる感じではないと言われればそうだが、強いて言えば、お隣の木を眺める方ではないかと思った。

そこで所有が鍵にならないかと考えた。

森を感じる時に自分のものであるかどうかは最初から頭にない。当たり前である、森の木と自分との間には何も関係性が無いから。関係性が無いから自分勝手に想いを抱き、そこに癒しを求めることができる。

長屋計画である。各長屋の中庭に1本の木を植える。ただし、その中庭は外部からアクセス可能であり木も共有である。長屋の数だけ木がある。10戸近く長屋があれば木もそれなりに目立つ、ただし、自分の木ではない。この感じは森に近いのではないか、そして、各長屋では木に接近した暮らしが実現できる。

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慣習以外の視点

日本では敷地の中で建築は北側に配置し、南側に庭を取るのが一般的である。その一番の理由は日当たりを確保することで、四季がある日本では季節により太陽高度が違い、その差が室内環境に大きく影響を与えるから、太陽高度の知識が無くても慣習的に建築の北側配置、南側に庭というパターンが昔から定着しているのだろう。ただ当然、人の暮らしや生活は太陽高度だけで決まる訳ではないから、このパターンとは違うことを考え比較する。その時にいつも思うのが建築は北、庭は南というパターンの説得力の強さである。それだけ人の暮らしや生活を慣習以外の視点で捉えることが難しいということである。だが同時にそこにデザインのヒントがあるとも思う。

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"A Perspective Outside of Convention"

In Japan, it is common to place the building on the north side of the site and take the garden on the south side. The main reason for this is to ensure sufficient sunlight. In Japan, which has four seasons, the altitude of the sun varies depending on the season, and this difference greatly affects the indoor environment. The pattern of arranging on the north side and the garden on the south side seems to have been established for a long time. However, of course, people's lives and lifestyles are not determined only by the sun's altitude, so I will compare things that are different from this pattern. At that time, I always think about the strength of the persuasive power of the pattern that the architecture is in the north and the garden is in the south. This means that it is difficult to understand people's lifestyles and lifestyles from a perspective other than customs. But at the same time, I think there are design hints.

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SNSを眺めながら

SNSはすべてのことを時系列で並列にしてしまう。それはSNSを見ているだけで勝手にすべての物事が時系列で相対化されることである。下から上に向かって相対化された物事が勝手に羅列されて積み上がっていく様は考えることを放棄させる。本来物事の相対化が考えることであり、SNSを見ていると何も考えていないのに考えているような錯覚に陥る。それはSNSを使って何かを仕掛ける側にとってはパラダイスなプラットフォームなのだが、享受する側にとっては頭の向きを自身で変えることができないように固定されているようなものだとSNSを眺めながら思った。

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"While looking at SNS"

SNS makes everything chronological and parallel. It is that all things are relativized in chronological order just by looking at SNS. The way things that are relativized from the bottom to the top are arbitrarily listed and piled up make me abandon thinking. Originally, thinking is to relativize things, and when you look at SNS, you fall into the illusion that you are thinking even though you are not thinking about anything. Looking at SNS, I thought that it was a paradise platform for those who used SNS to set things up, but for those who enjoyed it, it was like being fixed so that they could not change the direction of their heads. .

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奥はプライベートなスペース

住宅街の中で大きな敷地があると分割されるケースが多いが、分割せずに一塊の建築にしようとすると必ず奥の部分ができる。奥の部分とは道路から一番遠い場所である。一般的に建築の場合、道路側から順に奥へ向かってパブリックなスペースからプライベートなスペースへと変わっていく。だから、プライベートなスペースをつくりたい場合、奥にあるということだけでプライベートなスペースだと認識されてしまうので、建築としては特に何もする必要が無くなる。これは人の認識を利用する訳だが、大きな敷地の場合、それだけ建築の配置計画が重要であることを示している。

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"Private space in the back"

In many cases, when there is a large site in a residential area, it is divided, but if you try to build a single building without dividing it, there will always be a back part. The back part is the farthest part from the road. Generally speaking, in the case of architecture, from the road side to the back, the public space changes to the private space. Therefore, if you want to create a private space, it will be recognized as a private space just because it is in the back, so there is no need to do anything in terms of architecture. This is based on human recognition, but in the case of a large site, it shows that the architectural layout plan is that much more important.

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形を構成して風景をつくる

雑多な要素が日常には溢れる。それを入れる器として住宅を考えるならば、雑多な要素を物理的に見えなくしてしまうか、見えている要素を意識させなくするか、あるいは雑多な要素を美しいものに変換させるかが必要だろう。それらを端的に言うと、見えなくするには収納を多くする、意識させなくするにはより強い強度のもので雑多な要素を覆う、例えば、大屋根や高い天井で覆う、そして美しいものに変換するには雑多な要素を主役にして室内風景の一部あるいは室内風景を構成する一要素としてしまうことである。

このうち美しいものに変換することに興味があり、雑多な要素を主役にすることは外部における見え方である景観にも使える。雑多な要素を風景の一構成要素にする場合、雑多な要素の中での共通事項を取り出して構成するのが良く、その共通要素は形だと考えている。

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"Composing shapes to create landscapes"

Miscellaneous elements overflow in everyday life. If we think of a house as a container for it, we must either make the miscellaneous elements physically invisible, make the visible elements invisible, or transform the miscellaneous elements into something beautiful. . To put it simply, to make it invisible, we need more storage, to make it invisible, we cover miscellaneous elements with something stronger and stronger, for example, cover it with a large roof or high ceiling, and transform it into something beautiful. To do so, it is necessary to make miscellaneous elements the leading role and make them a part of the interior scenery or an element that composes the interior scenery.

Of these, I am interested in transforming them into something beautiful, and making the miscellaneous elements the main characters can also be used for the landscape, which is how it looks on the outside. When using miscellaneous elements as a constituent element of a landscape, it is better to take out common items among the miscellaneous elements and compose them, and I think that the common element is the shape.

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ただ空間があるだけ

中庭を持つコートハウスを設計しようとすると、自然と中庭に何か意味を持たせてしまう。特に意味を持たせないでただ空間があるだけ、誰も利用できない、ただ眺めるだけで、空白地帯のように扱ってもいいのに空間を隅々まで無駄なく使おうとしてしまう。それはもしかすると空間の可能性に気づけなくする行為かもしれない。ただ空間があるだけ、それをどう使おうかと考えることも暮らしなのではないか。それこそその方が自分にとっての暮らしとは何なのかと考えるキッカケになり、自分の暮らしの可能性を広げることにもなるのではないかと考えるクライアントでありたい。

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"There's just space"

When you try to design a courthouse with a courtyard, you naturally give the courtyard some meaning. It's just a space without any particular meaning, no one can use it, you can just look at it and treat it like a blank area, but you try to use every corner of the space without waste. It may be an act that makes us unaware of the possibilities of space. Just because there is space, isn't it part of life to think about how to use it? I would like to be a client who thinks that it will be an opportunity to think about what life is for him and that it will also expand the possibilities of his life.

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楽しい暮らしは想定しない

建築空間を生み出す時に予め楽しいだろう暮らしを想定しないことで新たな建築の価値が生まれるだろうと考えた。あらゆる種類の建築空間を実際に見聞きしてくると、空間とその空間を使うことでの楽しさがリニアにつながり、それが建築全体の枠組みと化してしまう。この建築全体での枠組みが建築を見慣れたものにしてしまう。いわゆる既視感である。既視感には安心感はあるかもしれないが、新たな建築の価値は生まない。

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"I don't expect a happy life"

I thought that a new architectural value would be created by not assuming an enjoyable life in advance when creating an architectural space. When you actually see and hear all kinds of architectural spaces, the space and the enjoyment of using that space are connected linearly, and it becomes the framework of the whole architecture. This framework of architecture as a whole makes the architecture familiar. This is the so-called déjà vu. A sense of déjà vu may provide a sense of security, but it does not create new architectural value.

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木を利用する

外の空間の話。水平方向の連続した壁があり、それは木造であったりRC造であったりして、その壁同士の間に木がある、あるいは木と木の間に壁がある。そこには何も関係性は無く、あるのは壁の連続性と木の点在である。はじめから何かそこに意味付けをしたくなく、不規則に変化する木を利用し、木が成長していけば壁との関係が、さらには建築まで含めた関係性がその都度変わり、そこに住人のアクティビティも加わり、当初の思惑とは違うことになるだろう。コントロールすることでできる関係性がつくる空間は予想に反した驚きが生まれない。また、その壁が室内にも対となり現れる。室内から外へではなく、外から室内へとつなげることにより住空間にも木を利用した予想外のことが生まれる可能性がある。それは建築の存在に木が深く関わることを意味する。

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"use wood"

Talk about the outside space. There are continuous horizontal walls, which may be wooden or reinforced concrete, with trees between them, or walls between trees. There is no relationship there, just the continuity of the walls and the scattering of trees. I didn't want to attach any meaning to it from the beginning, so I used a tree that changes irregularly. Residents' activities will also be added to this, and it will be different from the initial speculation. A space created by a relationship that can be controlled does not create unexpected surprises. The walls also appear in pairs in the room. By connecting the outside to the inside instead of the inside to the outside, there is a possibility that unexpected things will be born using wood in the living space. It means that trees are deeply involved in the existence of architecture.

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水平方向のレイヤード

外が連続して室内に至る、また逆に室内が連続して外に至る。外と室内の関係性をきっちりと分け隔てるのでななく混在させようとしたら、連続的にレイヤードさせようと考えるだろう。レイヤーというと垂直方向の層の積み重ねをイメージするが、水平方向にも適用できる。垂直方向ならば床をレイヤーとするが、水平方向ならばレイヤーは壁になる。壁が連続的に配されていく様である。水平方向のレイヤードは人をプライベート空間からパブリック空間までシームレスにかつ不連続につなげることを可能にする。さらに壁には様々な機能を組込むことが可能であり、エコや環境に配慮するために外と室内を分断することに対して外と室内の連続性を担保しつつエコや環境に配慮することができる。

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"Horizontal Layered"

The outside reaches the interior continuously, and conversely, the interior reaches the exterior continuously. If you try to mix the relationship between the outside and the inside instead of separating them, you will probably think of layering them continuously. When we think of layers, we imagine stacking layers vertically, but they can also be applied horizontally. If it is vertical, the floor is the layer, but if it is horizontal, the layer is the wall. It seems that the walls are arranged continuously. Horizontal layering makes it possible to seamlessly and discontinuously connect people from private spaces to public spaces. In addition, it is possible to incorporate various functions into the wall, and in consideration of ecology and the environment, it is possible to separate the outside and the interior, while ensuring the continuity between the exterior and the interior while considering ecology and the environment. can be done.

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外装の批評性

外装だけを抜き出して考えてしまう。外装は外部環境と内部空間の間に一皮一枚だけ存在し、建築に一枚の布を被せるようなイメージである。その布はその時々で変化する。それはまるでTPOに合わせて変える服のようである。今回はどのような服を纏わせるかと考える。その服は装飾的で目立たせる場合もあるし、周辺環境に馴染ませようとする場合もあるし、馴染ませつつ違った形で映えようとする場合もある。いずれにせよ判断基準はその場所での相対的な立ち位置をどこにするかであり、その外装の存在が周囲に対して批評性を帯び、それがクライアントの所有欲を満たすことにつながることを目指し、引いてはそれがよくある住宅への批評性を帯びると考えている。

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"Criticality of Exterior"

I pull out only the exterior and think about it. Exteriors exist as a single layer between the external environment and the internal space, giving the impression of covering a building with a single sheet of cloth. The cloth changes from time to time. It's like clothes that change according to TPO. Think about what kind of clothes to wear this time. Sometimes the clothes are decorative and stand out, sometimes they try to blend in with their surroundings, and sometimes they try to blend in and look different. In any case, the criterion for judging is where the relative standing position in the place is, and the existence of the exterior is critical of the surroundings, aiming to satisfy the client's desire to own. , and by extension I think it takes on a critique of ordinary housing.

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中庭は空白の場所

コートハウスの中庭は室内と一体的に使おうと考える場合が多いかもしれない。屋外の緑、光や風といった自然を取り込むことを目的として積極的に活用しようとする。今までもいくつかコートハウスを手がけてきた。その際にクライアントからの要望もあったがどちらかというとこちら側からの提案でコートハウスにする場合が多かった。その場合、中庭は積極的に空白、無の場所にしようとした。大概ウッドデッキを室内と同じ床高さで中庭全面に敷いた。室内と同じように続く空間として表現し、しかし、何も目的を与えなかった。何も目的を与えないことでただ室内から眺めるだけの空間になる。同じ床高さであるだけに積極的な空白、無の場所となり、室内の煩雑になりがちな暮らしの対比として中和してくれる。住宅ではそのような場所が必要だと思う。

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"The courtyard is a blank place"

In many cases, it may be thought that the courtyard of the courthouse should be used integrally with the interior. We try to actively use it for the purpose of incorporating nature such as outdoor greenery, light and wind. I have worked on several courthouses. At that time, there were requests from the client, but in many cases it was a proposal from our side to make it a court house. In that case, I actively tried to make the courtyard a blank, empty place. A wooden deck was generally laid on the entire courtyard at the same floor height as the room. It was expressed as a continuous space like the interior, but without giving it any purpose. By giving no purpose, it becomes a space that can only be viewed from inside the room. As the floor height is the same, it becomes a place of positive blankness and nothingness, and neutralizes it as a contrast to the life that tends to be complicated indoors. I think you need a place like that in your home.

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中庭は何か

コートハウスの中庭は外なのか中なのか。どちらにでもなり得る。関連付けをどうするかの問題である。では選択肢は外と中だけだろうか、と考えたくなる。

コートハウスは世界中で環境や地域を問わずに見られる形式であり、それだけコートハウスという形式には普遍性があるのだろう。しかし、皆同じという訳では無い。中庭の役割が環境や地域によって違う。中庭に何を求めるか、何を関連付けるかに依る。何を求め、何を関連付けか次第で外でも中でも無い、あるいは外でも中でもある、そのような二面性、両義性、あるいは渾然一体となった中庸な場所ができると考えてみた。

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"What is the courtyard?"

Is the Courthouse courtyard outside or inside? It can be either. The problem is how to make the association. Then I want to wonder if the only options are outside and inside.

The courthouse is a form that can be seen all over the world regardless of the environment or region, and that is why the form of the courthouse has universality. However, they are not all the same. The role of the courtyard differs depending on the environment and region. Depends on what you want and what you associate with the courtyard. Depending on what you are looking for and what you associate with it, I thought that you could create a moderate place where there is such a duality, ambiguity, or a harmonious unity between outside and inside, or outside and inside.

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抽象度高く生活空間をつくる

2階建てや平屋でも屋根直下の部屋の天井は、屋根形状なりに仕上げることが多かった。それは天井の上はすぐ屋根で空があることを表現したかったのかもしれない。あるいは、その部屋が空に近い、空と隣り合わせということを暗示したかったのかもしれない。そうすることで空間に変化をつけ暮らしに影響を与えようという意図がわかる。

別の見方をすると、天井を屋根形状なりに仕上げることでその部屋が存在するための具体的な証拠を得ようとしたのかもしれない。生活空間と考えれば具体的な何かが欲しくなる。ならば、生活空間と考えなければ具体性は必要なくなり、抽象度を高めるために天井を屋根形状とは関係なくつくることことになるかもしれない。どちらにせよ用途が住宅ならば生活空間にはなる訳だから、天井を屋根形状とは関係なくつくり、抽象度を高めた生活空間を試みる方が面白そうだ。

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"Creating a living space with a high degree of abstraction"

Even in two-story or one-story houses, the ceiling of the room directly under the roof was often finished according to the shape of the roof. It may be that he wanted to express that there is a roof right above the ceiling and there is a sky. Or maybe he wanted to imply that the room was close to the sky, next to it. By doing so, you can understand the intention to change the space and influence the living.

From another point of view, the ceiling may have been finished in the shape of a roof in an attempt to obtain concrete evidence for the existence of the room. If you think of it as a living space, you want something concrete. If so, if we don't think of it as a living space, there is no need for concreteness, and in order to raise the degree of abstraction, we may end up making the ceiling regardless of the shape of the roof. In any case, if the purpose is a residence, it will be a living space, so it seems more interesting to create a living space with a higher degree of abstraction by making the ceiling independent of the shape of the roof.

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先に木の場所を決める

建築を配置した残りの場所を緑化することはよくある。まず建築の位置を決める場合がほとんどだろう。ただそれでは自然の中に住むようにはならない。自然の中に住むことをイメージした場合、森がありその中に建築を建てることを思い浮かべる。ならば、先に木を植える場所を決めてしまおう。それもその敷地の中でどこに植えればその場所が、森とは言わずとも、緑が溢れる自然の中にいるイメージになるかと考えてみる。そうすると一番環境が良い、一番目立つ、大概は建築を配置することになる場所になる。建築はその木を避ければいいだけと考える。

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"Determine the location of the tree first"

Greening the rest of the building is common. In most cases, the location of the building will be determined first. But that doesn't make it possible to live in nature. When I imagine living in nature, I think of building a building in a forest. Then decide where to plant the tree first. Think about where you should plant them on the site to give the place an image of being in a natural environment full of greenery, not just a forest. Then, it will be the place with the best environment, the most conspicuous, and most likely where the architecture will be placed. I think architecture should just avoid that tree.

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緑の場所

敷地の中のどこに建築を置くのかを考えてみる。緑を多くして自然の中にいるようにしたい。地面に近い所で暮らせるメリットは外の自然と対峙できて取り込むことができることである。ただ、敷地の中のどこに緑を配するかで敷地の中の場所に優劣ができる可能性がある。敷地の中での場所の優劣はそこでの暮らしや生活に直結しやすいから避けたい。なぜなら建築としてそこで何かをする必要が無くなるからである。

"Green place"

Think about where to place the building on the site. I want to be in nature with a lot of greenery. The advantage of living close to the ground is that you can confront and take in the nature outside. However, there is a possibility that the place in the site can be superior or inferior depending on where the greenery is arranged in the site. I want to avoid the superiority and inferiority of the place in the site because it is directly connected to the living and living there. This is because there is no need to do anything there as architecture.

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二階建ては中途半端

二層の住宅を考えている。二階建てとは言わずに二層としているのは、一階、二階という表記には生活や暮らしや住空間に関する慣習が染み付いていて、それには良し悪しがあり、一度別視点から住宅を眺めたいからである。二層とすれば、一階は外部空間とのつながり、ニ階は屋根や空とのつながり、さらに一階とニ階のつながりなどの関係性から自由になれて、単に層の積み重ねとして見ることができる。そうして二層と考えると、なぜ二層なのか、二層の必要があるのか、何とも二層は中途半端だと思うようになった。二層にするのは単に積み重ねることができ、敷地の広さに対して要求していることが多いだけのように思える。もし要求していることを最小限にし、それでも二層が必要か、必要ならばなぜ二層かを考えることにした。

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"A two-story building is half-finished"

I am thinking of building a two storey house. The reason why I say two stories instead of two stories is that the notation of first floor and second floor is ingrained in customs related to life, living and living space, and there are good and bad in it, and I want to see the house from a different point of view. It is from. If there are two floors, the first floor is connected to the outside space, the second floor is connected to the roof and the sky, and the connection between the first floor and the second floor can be freed from the relationship, and it can be viewed simply as a stack of layers. can be done. When I thought about the two layers, I came to think that the two layers were half-baked, as to why the two layers were necessary and why they were necessary. It seems that making two layers simply means that they can be stacked on top of each other, and that there are many demands on the size of the site. If I minimized what I was asking for, I decided to think about whether I still needed two layers, and if so, why two layers.

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窓は透明な壁

窓があるから建築だとわかる。窓が無ければ単なる建造物で人の存在もない。窓は人を表す。普通は窓によって人のアクティビティが想像でき、暮らしが垣間見える。だから、窓は人を表し、尚且つ、暮らしを表す。ところがデザインをする上では窓の存在を消したい。もっと正確に言うと、窓枠の存在を消し、壁に穴を開けたような感じを消し、窓と壁の境目を無くして窓は透明な壁として扱い、窓が持つ特別感を消したい。その時建築は暮らしから自由になれるような気がする。

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"A window is a transparent wall"

You can tell it's architecture because it has windows. If there are no windows, it is just a building and there is no human existence. Windows represent people. Normally, people's activities can be imagined through windows, and people's lives can be glimpsed. Therefore, windows represent people, and they also represent lives. However, when designing, I want to eliminate the existence of windows. More precisely, I want to eliminate the presence of the window frame, eliminate the feeling of opening a hole in the wall, eliminate the border between the window and the wall, treat the window as a transparent wall, and eliminate the special feeling that the window has. At that time, I feel that architecture can be free from life.

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小さい窓は省エネではない

窓は大きく取りたいと考える。特に南側の窓はできるだけ大きく取りたい。昔の日本家屋は南側の窓が他の方位の窓に比べて極端に大きかった。昨今では環境問題からCO2排出抑制を目指した省エネ基準により断熱性能が重視され窓は小さくなるばかりである。

断熱を考える時、窓が最大のウィークポイントである。壁や屋根の断熱性能は断熱材の性能や厚みでいくらでも対応できるが、窓はガラス自体の断熱性能が元々低くく極端に上げようがない。だから、窓を小さくしようとする。

断熱性能の向上だけを考えるならば、小さい窓は有効である。しかし、住環境の快適性は断熱性能だけで決まる訳ではなく、断熱性能から紐解けば暑さ寒さの体感が重要である。冬暖かくて夏は涼しい住環境を実現するには南側の窓を大きく取るしかない。

冬の南側の窓はストーブ並の熱源であり、この熱を室内に蓄積すればエネルギーを使わずに室内を暖かくすることができ、夏は日射を遮り日影をつくる工夫をすれば良い。窓を小さくすることは省エネとは逆の発想である。

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"Small windows are not energy efficient"

I would like to make the windows bigger. In particular, I want to make the windows on the south side as large as possible. In old Japanese houses, windows on the south side were extremely large compared to windows on other directions. In recent years, due to environmental issues, energy-saving standards aimed at reducing CO2 emissions have emphasized insulation performance, and windows are becoming smaller.

When considering insulation, windows are the biggest weak point. The heat insulation performance of walls and roofs can be handled as much as you want depending on the performance and thickness of the insulation material, but the heat insulation performance of the glass itself is originally low and cannot be increased extremely. So try to make the windows smaller.

Small windows are effective if only the improvement of thermal insulation performance is considered. However, the comfort of the living environment is not determined only by the insulation performance. The only way to create a living environment that is warm in the winter and cool in the summer is to have large south-facing windows.

In winter, the windows on the south side are a heat source similar to that of a stove, and if this heat is accumulated in the room, it is possible to keep the room warm without using energy. Reducing the size of windows is the opposite of energy saving.

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距離をデザインする

周辺の建築にスケールを合わせることで街並みに上手く建築を挿入するが、建築自体の寸法の取り方を変えることで周辺の建築とは違う空間を生み出そうと考えた。寸法の取り方とは距離を変えることであり、建築において距離は機能上からも大体この位というのが暗黙の了解である。例えば、部屋の端から端まで、天井の高さなどで、一般的に押さえるべき数値の範囲があるが必ずしもそれにする必要はない。その数値の部分をデザインしてみようと考えた。

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"Design distance"

By matching the scale to the surrounding architecture, the architecture can be skillfully inserted into the townscape, but by changing the way the dimensions of the architecture itself are taken, we wanted to create a space that is different from the surrounding architecture. The way to take dimensions is to change the distance, and it is tacitly understood that the distance in architecture is about this degree from the functional point of view. For example, there is a range of numerical values that should generally be held, such as from one end of the room to the other, the height of the ceiling, etc., but it is not necessary. I decided to design the numerical part.

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街並みを改変する二面性

分節は周辺環境のスケールに合わせるためである。一塊が示すスケールは周辺にある建築のスケールと齟齬を起こす。だから、周辺の建築のスケールに合わせるように分節するのが常套手段で、その分節の仕方をデザインすることは良いとなる。ここには周辺のスケールと合わないことは駄目であり、スケールを合わせることは望ましいという前提がある。その前提を横展開してみる。スケールを合わせることは望ましいのだが、分節の仕方まで周辺の建築に合わせる必要はなく、周辺の建築ができない分節をしてみたらどうなるかをみてみる。もしかしたら、スケールを合わせることで街並みには素直に挿入されるがその場所だけの風景が生まれ、街並みに合いながら、街並みとは違う空間を持つという二面性を持ち合わせた建築が生まれ、上手く良い方向に街並みを改変できるかもしれない。

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"Duality that changes the cityscape"

The segmentation is to match the scale of the surrounding environment. The scale indicated by the mass is inconsistent with the scale of the surrounding architecture. Therefore, it is common practice to segment a building to match the scale of the surrounding architecture, and it is good to design the way of segmentation. There is a premise here that it is not good if the scale does not match the surrounding scale, and that it is desirable to match the scale. Let's expand on that premise. It is desirable to match the scale, but it is not necessary to match the way of articulation to the surrounding architecture. Perhaps, by matching the scale, it will be inserted obediently into the townscape, but it will create a landscape that is unique to that place, and it will create an architecture that has the duality of having a space that is different from the townscape while matching the townscape. You may be able to change the cityscape in the direction.

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分節した塊をつくる

分節の仕方を考えるのも面白い。大きな一塊の建築をつくる予定だったのが、10個に分節した塊になることになりそうな気配に。それはそれで分節の仕方によっては、地と図の関係のように、敷地の中に面白い形の外部空間をつくることも可能になり、また内部空間にも様々な外部空間とのつながりをつくることもできる。なかなか分節した塊をつくる経験もできないので、早速スタディしてみた。計算上は10個に分節できるが無理があるのがわかる。敷地は割合きれいな形をしていてプランニングは素直にできるから、何とか10個に分節してみたい。きっとそこが今回の計画で一番難しくて、一番面白いところだろう。

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"Creating segmented masses"

It is also interesting to think about how to segment. I was planning to create a large block of architecture, but it seems that it will be a block divided into 10 pieces. Depending on how it is segmented, it is possible to create interesting external spaces within the site, like the relationship between ground and figure, and it is also possible to create connections between internal spaces and various external spaces. can. I didn't have the experience of making a segmented mass, so I immediately tried to study it. Although it can be segmented into 10 pieces in terms of calculation, it is understood that it is unreasonable. The site has a relatively clean shape and the planning can be straightforward, so I would like to somehow divide it into 10 pieces. This is probably the most difficult and most interesting part of this project.

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スケールを周辺に合わせる

住宅街の中で建築のスケールが突出しそうな時にどうするか、広い敷地に建築を建てようとすると、住宅街ならばどうしても周辺の建築とのスケールの違いが生まれ、街並みが乱れることになる。程度の問題かもしれないが、できれば既存の街並みを良くする方向で建築を街並みの中に挿入したい。そのような時は建築のヴォリュームを分節する。1つの建築だが、建築の部分によって高さを変えたり、屋根形状を変えたりして周辺の建築のスケールに合うようにし、一塊としての建築ではないように見せる。

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"Fit scale to surroundings"

What to do when the scale of architecture is likely to protrude in a residential area, and if you try to build a building on a large site, you will inevitably create a difference in scale with the surrounding buildings in a residential area, and the cityscape will be disturbed. It may be a matter of degree, but if possible, I would like to insert architecture into the townscape in the direction of improving the existing townscape. In such a case, the architectural volume is segmented. Although it is one building, the height is changed depending on the building part, and the roof shape is changed to match the scale of the surrounding building, making it look like it is not a single building.

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objectからsubjectへ

全体を通して一貫性がある方が良いされ、全体から部分へ、subjectからobjectへという流れで計画を立てることが多い、というかそのように教えられることが多かった。それは効率的であり、ストーリーも立てやすいから説得力と信頼を築きやすい。ただいつも思っていた、一番興味があるのはobjectで、さらに言うとobjectの中身ではなくobject同士のつながりだと。だから、subjectの存在を どうでも良いとまではいわないが、objectから subjectを見て考えるだけで済むと思う。

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"from object to subject"

It is said that it is better to be consistent throughout, and we often plan from the whole to the parts, from the subject to the object, or rather, we were often taught that way. It is efficient and easy to create a story, so it is easy to build persuasiveness and trust. However, I always thought that what I was most interested in was objects, and even more so, the connections between objects, not the contents of objects. Therefore, I can't say that he doesn't care about the existence of the subject, but I think it's enough to think about the subject from the perspective of the object.

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どこにでもある、ここにしかない

「どこにでもある」のに「ここにしかない」という分裂を意図してつくり出しスタバは特別感を生んでいるという記事を見た。「どこにでもある」は安心感、信頼感を生むが、それだけでは人はいずれ興味を無くすし飽きる。「ここにしかない」は希少性を生み、もしかしたら良い意味での反社会性を帯びて大事にされるかもしれないが、そこにしかない不便さは大多数の支持を得られないだろう。「どこにでもある」安心感と「ここにしかない」希少性は本来矛盾して両立はしないはずである。それが両立している背景を考えてみる。

「どこにでもある」は店舗数の多さで実現できる。「ここにしかない」は本来ならばここでしかできない体験が必要になるだろう。それにはイメージも伴うのかもしれない。元々スタバは「サードプレイス」がコンセプトだから「ここにしかない」という希少性を演出できていないと「サードプレイス」として認識されない。だから、スタバは「安心の希少性」というものを演出してつくり出していることになる。確かに「安心の希少性」はなかなかつくり出せないから差別化にはなり、店舗数も増やすことができるという好循環が生まる。

ただ「安心の希少性」は下手をすると中途半端な甘いものになる可能性があるような気がする。それは「安心の希少性」が両極端のものの組合せで中和され角が取れて丸くなったような状態だからである。しかし、この丸くなった状態が丁度良く、たくさんの人に支持される理由にもつながるとも言えるのだろう。

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"Everywhere, only here"

I saw an article saying that Starbucks creates a sense of specialness by intentionally creating a division that "it's everywhere" but "it's only here". "Everywhere" creates a sense of security and trust, but people eventually lose interest and get bored with it. "Only here" creates a rarity, and maybe it's anti-social in a good sense, and it may be cherished, but the inconvenience that it's only there won't get the support of the majority.

"Everywhere" can be realized with a large number of stores. "Only here" would require an experience that can only be done here. Originally Starbucks is not recognized as a "third place" unless it can produce the rarity of "only here". Therefore, Starbucks is producing and creating something called "safe rarity".

However, I feel that "reliable rarity" may become a half-hearted sweetness if done poorly. This is because the "rarity of peace of mind" is neutralized by the combination of extremes, and the corners have been removed and rounded. However, it can be said that this rounded shape is just right and is also the reason why it is supported by many people.

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捉え方に活かす二面性

あるものの存在を捉えようとする時、いくつかの関係性を見つけ出し、その関係性を二面性を持つように極端化してみる。あるものの存在はそのいくつかの極端化された関係性の重なりの部分に現れる。ただし、その重なりの部分はその時たまたまそうなっただけで、たまたま仮にその形になっているだけで、いつまた変化するかわからない。だから、時間の要素を含んだ関係性を見つけ出すことにより、時間的な猶予を獲得する。ただ、いくつかの関係性の重なりでは、あるものの存在をそのままズバリ完璧に全て捉えることは難しい。どちらかというと捉え方のイメージは、完璧には捉えることができないものをいくつかの関係性の重なりによりあぶり出す感じである。

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"Duality that can be utilized in how to perceive"

When trying to grasp the existence of a certain thing, I find some relationships and try to make the relationships extreme so that they have two sides. The existence of a thing appears in the overlap of its extreme relations. However, the overlapping part just happened to be that way at that time, and it just happens to be in that shape, and you don't know when it will change again. Therefore, by finding a relationship that includes the element of time, we acquire time grace. However, due to the overlap of several relationships, it is difficult to completely capture the existence of a certain thing as it is. If anything, the image of how to capture it is a feeling of revealing something that cannot be captured perfectly by overlapping several relationships.

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二面性は受け入れられやすい

あるものの存在を捉えようとする時、これはこうで、あれはこれで、このようになっていると、仮にでもひとつのことに収束するように結論を出す。だから、建築として形になり、そして、その存在の在り方をズラしていくことで存在の捉え方自体をアップデートすることもできる。その際に矛盾しないように捉えようとするが、それをやめて矛盾をつくり出して矛盾したままで結論を出してみようと考えた。矛盾した状態は二面性であり、二面性がつくり出す建築空間の方がより社会性を帯び、人に受け入れられやすいのではないかと考えた。

"Duality is easy to accept"

When you try to grasp the existence of something, this is this, that is this, and that is this, and even if it's this way, you come to a conclusion to converge on one thing. Therefore, it takes shape as architecture, and by shifting its way of existence, it is also possible to update the way we perceive existence itself. At that time, I try to capture it so as not to contradict it, but I decided to stop doing that and create a contradiction and try to reach a conclusion while remaining contradictory. The contradictory state is duality, and I thought that the architectural space created by duality would be more social and more acceptable to people.

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二面性の捉え方

最近、二面性について考えており、二面性の捉え方は創作のヒントになるかもしれない。二面性は両極端のもの、あるいは矛盾するようなものが同時に存在している様だが、関係性として捉えてみると、関係性が極端化して1つには納まりきらない姿とも言えるかもしれない。両極端のもの、あるいは矛盾するものには各々のもの同士の関係性が存在しているが、その関係性自体はつながりがあり破綻しなければ安定して存在し、実際に現れるのはどちらか1つで済むはずである。ところが2つのものが同時に存在してしまうということは安定した関係性が破綻してしまった様、それが極端化であり、その極端化が起こった様である。

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"How to Perceive Duality"

Recently, I've been thinking about duality, and how to capture duality may be a hint for creation. Dichotomy seems to exist at the same time as extremes or contradictions, but if you look at it as a relationship, it may be said that the relationship has become extreme and can not be contained in one. . There is a relationship between each of the extremes or contradictory things, but the relationship itself is connected and stable if it does not break down, and one of them actually appears. should be enough. However, the fact that two things exist at the same time is like a stable relationship has broken down, that is extreme, and it seems that extreme has occurred.

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二面性

表と裏、明と暗、陽と陰、オンとオフなどの言葉が示すように両極端の状態があり、そのどちらに立つのか、あるいは2つの状態の間のどこに立つのか、真ん中ならば中庸だが、どららかの影響が強い状態で間に立つこともある。ただこれは両極端の状態が線状につながり音量の調整のように両極端をミックスしてどこかで1つの状態で立つということが前提の場合である。両極端のことが同時に成り立つ場合もあるだろう。二面性である。中庸と二面性は違う。中庸はミックスされた状態だが、二面性はミックスされていない。両極端、すなわち矛盾した状態が同時に成り立つ様には創作の種があるような気がする。

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"Duality"

As the words front and back, light and dark, yang and yin, on and off indicate, there are two extreme states. , may stand in between with some strong influence. However, this is based on the premise that the two extreme states are linearly connected, and that the two extremes are mixed like volume adjustment and stand in one state somewhere. Both extremes can occur at the same time. It is two-faced. There is a difference between moderation and duality. Moderation is a mixed state, but duality is not. I feel that there is a seed of creation in the way that two extremes, that is, a contradictory state, is established at the same time.

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ねじれ

建築は常にねじれていると思った。建築はスケールが大きいので目立ちやすく、単体での存在感が際立つ。しかし、同時にスケールが大きいので周りへ影響を与えるし、影響を与えられもして、周りとの関わりの中で存在することを余儀なくされる。単体で存在しながら周りとの関わりもあるので、建築を一概にこういう存在だと決めつけることは難しい。ただ、そこが建築の魅力のような気がする。建築を単体で見た時の完結的な形や空間に対して、印象はそこにいる人によって様々であり、建築の形や空間の存在だけに左右される訳ではない。この存在のねじれ加減をコントロールしてみるのも面白い。

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"distortion"

I thought architecture was always twisted. The architecture is large in scale, so it stands out easily, and the presence of a single building stands out. However, at the same time, because the scale is large, it affects the surroundings, and it is also influenced by the surroundings, and it is forced to exist in the relationship with the surroundings. It is difficult to categorically define architecture as such because it exists on its own but also has a relationship with its surroundings. However, I feel that this is the charm of architecture. In contrast to the complete form and space when looking at a single building, the impression varies depending on the person who is there, and is not only influenced by the shape of the building or the existence of the space. It is also interesting to try to control the degree of twist of this existence.

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モヤモヤに気づく

ちょうどさっき、そう言えば昔やり残したことがあったと思い出した。別に今更と思えれば賢いのだろうけど、一度頭の中に広がると何とも引っ掛かる。今からこの歳からやることも可能だが重く感じる。でも今一度やろうとしてみると、何とも方法がわからない。想いだけは重層し塊としてあることには気づいたが、できれば手間を掛けずにできないかと考えてしまう。もし誰かが代わりにお膳立てしてくれたらなどと妄想してしまう。中途半端なモヤモヤがあるが、別の見方をすればここから新たなモチベーションをつくれたら、今後も同じようなことに活かせるなとも思った。

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"Noticing Moyamoya"

Just now, speaking of which, I remembered that there was something left unfinished in the past. It's probably clever if you think it's too late, but once it spreads in your head, it's hard to get caught. It is possible to do it from this age, but it feels heavy. But when I try to do it again, I can't figure out how to do it. I noticed that my thoughts are multi-layered and lumped, but I wonder if it's possible to do it without taking much effort. I fantasize about what if someone else arranged it for me. There is a half-hearted feeling, but from a different point of view, I thought that if I could create new motivation from here, I could use it for similar things in the future.

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断絶を起こさない新しい建築をつくる

関係性には2つあると思った。周辺環境と結びつこうとする関係性と自らの内あるものとの関係性である。建築は規模が大きいため周辺環境に与える影響は大きく、また規模が大きい故に周りから受ける影響も大きい。よって必然的に周りとの関係性が生まれてしまう。また建築自体の内側にも関係性はあり、その建築が生まれる前と後のつながりである。例えば建替えならば以前の建築との関係性である。ほとんどの場合、以前の建築とは断絶し新しい建築が生まれる。建替えにはそれ相応の理由があり、大概は以前の建築が使えないから建替えるので断絶が必然的に起こる。面白いもので新しい建築が生まれる時、必然的に周りとの関係性は生まれ、必然的に以前の建築とは断絶が起きる。この必然的という言葉には積極性は無いので、関係性が生まれたところでそれを活かす訳でも無く、断絶があったところでそれを回避しようとはしない。ただ中には必然的に生まれる周りとの関係性を利用し、断絶を回避しようとする動きもある。しかし、それは新しい建築が生まれるには断絶は避けられないので、そのための償いとして周りとの関係性を利用しようと捉えることもできる。ならば一番的確なことは断絶を起こさないで新しい建築をつくることではないかと考えた。

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"Creating a new architecture that does not cause discontinuity"

I think there are two relationships. The relationship that tries to connect with the surrounding environment and the relationship with what is inside oneself. Since the scale of the building is large, it has a large impact on the surrounding environment. This inevitably creates a relationship. There is also a relationship within the architecture itself, a connection between before and after the architecture was born. For example, in the case of rebuilding, it is the relationship with the previous architecture. In most cases, new architecture is born, breaking away from the previous architecture. There is a reasonable reason for rebuilding, and in most cases it is rebuilding because the previous building cannot be used, so a discontinuity will inevitably occur. When interesting new architecture is born, it inevitably creates a relationship with the surroundings, and inevitably causes a discontinuity with the previous architecture. This word "inevitable" does not have positiveness, so even if a relationship is born, it will not be used, and if there is a discontinuity, it will not be avoided. However, there are also moves to avoid severance by taking advantage of the relationships that inevitably arise with those around them. However, since discontinuity is inevitable for the birth of new architecture, it can also be considered to use the relationship with the surroundings as compensation for that. Then, I thought that the most accurate thing would be to create a new architecture without causing a discontinuity.

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おおらかな街、建築

たまたま偶然そこにいるだけ。人は突き詰めていくと今の居場所はたまたま偶然そこであっただけである。例えば隣であっても大差はない訳で、別に今の居場所でなくでも良い訳である。今の居場所には必然性が無いとしたら、強固な他者との関係性でつくられずっと変化することが無い建築に居ることに違和感がある。建築はたまたま偶然そうなっただけの瞬間を形にしただけで今の姿に必然性は無いものであれば良い。結局、街も似たようなもので今の姿に必然的が無ければ、もう少し柔軟に必要で無いものを配して、どうでもいいような間をつくり、もっと街がおおらかになり、街を構成する建築もおおらかにできると考えてみた。

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"Generous City, Architecture"

I just happen to be there by chance. When it comes down to it, people just happened to be where they are now by chance. For example, it doesn't matter if it's next door, so it doesn't have to be where you are now. If there is no inevitability in the place where I am now, I feel a sense of incongruity in being in an architecture that has been created in a strong relationship with others and has never changed. Architecture should just be a form of a moment that happened by chance, and there is no inevitability in its current form. In the end, if the city is similar and there is no necessity in its current form, we will be a little more flexible in arranging things that are not necessary, creating spaces that do not matter, making the city more generous, and improving the city. I tried to think that the architecture that composes can also be generous.

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効率だけで決まらない

建築計画学的に考えると敷地から一番効率の良いプランは導き出せる。特に建築の用途が集合住宅やテナントビルなどのように床面積の大小が事業計画に直結するものは特にそうである。規模や戸数だけで考えれば大体似たり寄ったりのプランに収束していく。ところが実際は設計者の数だけ違ったプランが存在するはずである。すなわちそれは規模や戸数の効率だけで建築は決まる訳ではないということであり、おそらく世の中にある建築で戸建て住宅の次に多いのは集合住宅かテナントビルだと思われるので、何かそこでできることを見つけてアウトプットすることは社会的に意義あることだと感じた瞬間があった。

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"Efficiency alone is not enough"

From an architectural planning perspective, the most efficient plan can be derived from the site. This is especially the case when the size of the floor area is directly linked to the business plan, such as a collective housing or a tenant building. Considering only the scale and the number of units, it will converge to a plan that is roughly similar. However, in reality, there should be as many different plans as there are designers. In other words, it means that architecture is not determined only by the scale and efficiency of the number of units, and probably the next most common construction in the world after detached houses is collective housing or tenant buildings, so what can be done there. There was a moment when I felt that finding and outputting is socially meaningful.

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効率の枠から外れる

どこにでもあるマンションの形式はどこでも大体一緒である。そもそもマンションは効率良く人口密度を上げるための形式だから、どこでも一緒になるのが当たり前である。むしろ、効率を廃した形式ではマンションにする意味が無い。この効率の果てのマンション形式は事業側のメリットと住む側のメリットの合致点のバランスが取りやすいから当たり前のように繰り返される。ただ効率で決まるような形式は否定したい気持ちが強いからこのマンション形式をなんとかしたいと思う。その時考えられる方法はこの形式の効率性に着目し、一旦非効率にし再構成するか、効率をさらに推し進めて別の何かを引き出すことで効率の枠から外れるか。前者はよくある方法で再構成したものを見かけるが元の形式の亜種でしかない場合が多い。可能性を感じるのは後者の方で効率というものそのものを結果的に解体して再構成することなのかもしれない。

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"Out of bounds of efficiency"

The format of the condominiums that are everywhere is almost the same everywhere. In the first place, condominiums are a format for efficiently increasing population density, so it is natural for them to be together everywhere. Rather, there is no meaning in making it an apartment in a form that has lost efficiency. This condominium format, which is the end of efficiency, is repeated as a matter of course because it is easy to balance the points of coincidence between the merits of the business side and the merits of the living side. However, I have a strong desire to reject a format that is determined by efficiency, so I would like to do something about this apartment format. At that time, the method that can be considered is to focus on the efficiency of this form, and either make it inefficient and reconfigure it, or push the efficiency further and draw something else out of the framework of efficiency. The former can be seen reconstructed in a common way, but in many cases it is only a subspecies of the original format. What I feel is possible is the latter, which may result in the dismantling and reconstruction of efficiency itself.

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新しい結び目

この程度だろうという予想を越えるために、既存の関係を結びつきから解きほぐして、新たなに結び直す作業をしている。建築が建て替わる際のエネルギーは相当なものだといつも思う。0から構想するエネルギーもそうだが、現状を一旦0にするにも相当なエネルギーが必要だし、0から完成させるのにも相当なエネルギーがいる。また、元あった建築は決して単体で成り立っていた訳では無く、周辺との関係も簡単に切れないほど結びついている。だから、0にするために相当なエネルギーが必要なのだが、新たに完成後もただ新しくなっただけでは元の関係は戻らないどころかエネルギーが必要だった分、新旧でアンバランスになる。新しくするということは新しい結び目をつくることであり、それは今までの関係性の延長には無いものだと考えた。

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"New Knot"

In order to exceed the expectation that it will be at this level, we are working to untie the existing relationships and reconnect them to new ones. I always think that the energy when a building is rebuilt is considerable. It's the same with the energy to envision from 0, but it takes a lot of energy to turn the current situation into 0, and it takes a lot of energy to complete it from 0. In addition, the original architecture never stood alone, and the relationship with the surroundings was so connected that it could not be easily cut off. Therefore, a considerable amount of energy is required to bring it to 0, but even if it is newly completed, simply renewing it will not restore the original relationship, and the energy required will create an imbalance between the old and the new. To renew means to create a new knot, and I thought that it was not an extension of the existing relationship.

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緑から虐げられる存在

この季節は雑草との闘いを何度かする。最近は諦めていて邪魔にならなければいいと思っている。庭木も剪定しないと伸び放題、特にオリーブの木は成長が早いから、今年も見事な実をたくさんつけた。全部集めて搾ったらいいオリーブオイルができそうだ。草木と戯れていると案外楽しくて、面倒くさいし暑いから滅多にやらないが、やると夢中になって一日中戯れていても苦にならないし、雑草取りや剪定をやった後はマジマジと見てしまう。ほんと緑は不思議なもので、雑草が伸び放題だが目に優しいというか、緑が溢れる姿はなんとなく好きで、そんなにきちんとする必要がないというかそのままがいいと思ってしまう。だからか草木に侵食されたような建築は好きなのだが、はじめからそのような建築をデザインしたいと思わない。緑や自然はコントロールできない存在で、建築はあくまでもその緑や自然に負ける存在で、デザインすることは自然をコントロールしようとする行為だから、唯一できるのは緑や自然から邪魔な存在だと虐げられるようにするくらいである。

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"Existence oppressed by green"

This season has several battles with weeds. Lately, I've given up on it and hope it doesn't get in the way. If you don't prune the trees in your garden, they grow as much as you want, especially the olive trees, which grow very quickly, so they produced a lot of wonderful fruits this year as well. It looks like you can make good olive oil if you collect all of them and squeeze them. Playing with the plants is unexpectedly fun, but it's annoying and it's hot, so I rarely do it, but when I do, I can be absorbed in playing with it all day long, and after weeding and pruning, people stare at me seriously. . The greenery is really strange, and the weeds grow as much as you want, but it's easy on the eyes. Maybe that's why I like architecture that looks like it's been eroded by plants, but I don't want to design that kind of architecture from the beginning. Greenery and nature are entities that cannot be controlled, and architecture is an entity that is defeated by greenery and nature. Designing is an act of trying to control nature. It's about to.

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見えていないものを見るためには

普段意識していないことは見えないと考えると、その時々にはほとんどのことが見えていないと思った。目の前にあったとしても何気なくそれを見ているだけでは見えていない。見えていないものを見えるようにするには認識を変えるしかないのかもしれない。認識は自分が勝手につくり出したものであれば、自分で変えることができる。その時に人は知識が必要だと言い、本を読む必要があると言う。認識を変えるには知識を増やすしかないと言う。本を読む目的はアウトプットのためだと考えている。先にアウトプットが無く本を読んでいたら、増える知識に比例して満たされない想いだけが募るばかりであり、それで認識が変わることは無く、結局は見えないままである。

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"To See the Unseen"

When I thought that I couldn't see things that I wasn't usually conscious of, I thought that most of the things I couldn't see at that time. Even if it's right in front of you, you can't see it if you just look at it casually. Perhaps the only way to make the invisible visible is to change our perception. Perceptions can be changed by oneself if they are created by oneself. Then people say they need knowledge, they say they need to read books. He says that the only way to change perceptions is to increase knowledge. I think the purpose of reading books is for output. If you read a book without any output first, only unsatisfied feelings will arise in proportion to your increasing knowledge, and your perception will not change, and in the end you will remain invisible.

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実験するための自邸

自邸は実験の場だと学んだのはアアルトの夏の家で中庭の外壁を見た時である。様々なタイプのレンガが見本のように張られていた。もちろんただ張られているだけでなく、窓と合わせてコラージュされていた。それははじめからそのようなデザインを目指しそこに至ったように思える程印象的なものだった。でもたぶんクライアントの建築に対してはやらないだろう、やってもいいとは思うが。普段できないことをしようと考えるのはアイデアがあってもなかなか実現できないからかもしれないが、もしかしたら、そもそも普段のデザインとは違うところで考えていたのかもしれない。思いつく限りのレンガを並べて使い、一度使えば勝手知る材料になり、未知の部分に惑わされることが無くなるから、レンガ以外の素材へと意識が向くようになる。25年前、夏の家の中庭に立ち様々なタイプのレンガが張られた外壁を見ながら想っていたのは前年見たコルビュジエ のインドでの建築の荒々しい打放しの肌だった。

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"Home for experimentation"

It was when I saw the outer courtyard of Aalto's summer house that I learned that my house was a place of experimentation. Various types of bricks were stretched like samples. Of course, it wasn't just stretched, it was collaged with the windows. It was so impressive that it seemed that he had aimed for such a design from the beginning and had arrived there. But I probably wouldn't do it for a client's architecture, although I think it's okay. The reason why I try to do things that I can't usually do may be because I can't easily realize even if I have an idea, but maybe I was thinking in a different way from my usual design in the first place. As many bricks as you can think of can be used side by side, and once you use them, they become familiar materials. Twenty-five years ago, standing in the courtyard of a summer house and looking at the outer wall covered with various types of bricks, what I thought was the rough, exposed skin of Le Corbusier's architecture in India that I had seen the previous year.

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精巧で精緻で繊細で綺麗なもの

細かさを極めて繊細につくるのはいくらでもできてしまうが実際に繊細に見えるかどうかはまた別な話のような気がする。精巧に精緻に繊細に綺麗につくり込むことは技術だから熟練すればある程度のレベルのものはつくれる。ただ、そうやってつくり込んだものが実際に精巧で精緻で繊細で綺麗に見えるとは限らない。見え方は相対的な判断になるから精巧で精緻で繊細で綺麗に見えるようにするには、精巧で精緻で繊細で綺麗でない部分が必要になる。全てが精巧で精緻で繊細で綺麗なものは全てが精巧で精緻で繊細で綺麗では無い。

"Sophisticated, precise, delicate and beautiful"

It is possible to make the details extremely delicate, but I feel that whether or not it actually looks delicate is a different story. Since it is a skill to create something exquisitely, precisely, delicately and beautifully, if you are skilled, you can make something of a certain level. However, it is not always the case that things that are created in that way actually look elaborate, delicate, and beautiful. Since the appearance is a relative judgment, in order to make it look elaborate, delicate, delicate, and beautiful, it is necessary to have an elaborate, precise, delicate, and not beautiful part. Everything is elaborate, exquisite, delicate, and beautiful, but not everything is exquisite, exquisite, delicate, and beautiful.

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違和感からの逸脱

よくデザイン案を考える時は極端化をする。極端化は最大限に逸脱することだが、何を極端化するかというと、当たり前だと考えられていることの影に隠れていて日の目を見ないがもしそれが表に出てきたら最大限の違和感を感じる、あるいは表に出ることが想像できないものである。表に出てきて尚且つ主役になるように、主役にするには最大限の違和感から逸脱する極端化が必要で、その一連の極端化が成り立つ説明がつくようにすることがデザインだと考えている。

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"Departure from discomfort"

When I often think about design proposals, I go to extremes. Extremization is to deviate to the maximum extent, but what is extreme is that it is hidden in the shadow of what is taken for granted and does not see the light of day, but if it comes to the surface, it will be maximized. I can't imagine feeling uncomfortable or coming out. In order to appear on the surface and become the leading role, in order to make it the leading role, it is necessary to go to extremes that deviate from the maximum sense of incompatibility, and I believe that design is to provide an explanation that makes this series of extremes possible. ing.

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説明するための仮説

なぜそうなるのだろうか、と改めて疑問に思えるか。当たり前のことは実は見えていない。見えていないから疑問にも思わない。見えていないというのはもしかしたら知識の無さか、鈍いのか、考えたくないのか。改めて疑問に思うと、人はわからないことを埋めたくなる、理解したくなる。事実が先にあり、その事実を自分自身に説明し納得するために仮説を考える。この説明するための仮説が創造であり、創造とはこうして生まれるのではないかと今日読んだ本に書いてあった。

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"Hypothesis to explain"

Do you ever wonder why this is the case? I can't really see the obvious. I can't see it, so I don't doubt it. If you can't see it, maybe it's lack of knowledge, dullness, or you don't want to think about it. Asking questions again makes people want to fill in what they don't understand and want to understand. Facts come first, and we come up with hypotheses to explain and convince ourselves of the facts. The hypothesis to explain this is creation, and the book I read today says that creation is born in this way.

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自然の中の建築

土地が広いから緑化をする必要があり、そもそも自然の中で暮らしたいという希望だから、緑化面積を満たすために隙間を緑で埋めるのでなく、もっと積極的に緑と一体になった建築を考えてみる。が、しかし、何事にも限界はあり、木々に埋もれるような建築は現実的にはできない。今考えているのは最小限の緑で自然の中に建つような建築はできないかということである。言い換えれば、緑は少ないがその緑によって建築が決まっているように見えないか。そうすれば、自然の中に建つ建築と同等のものになり、限定的かもしれないが自然の中で暮す感じをつくることができるかもしれないと仮説を立ててみた。

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"Architecture in Nature"

Since the land is large, it is necessary to plant trees, and in the first place, people want to live in nature. View. However, there is a limit to everything, and it is not realistic to build a building that is buried under trees. What I'm thinking about now is whether it's possible to create a building that stands in the midst of nature with minimal greenery. In other words, although there is little greenery, it seems that the architecture is determined by the greenery. I hypothesized that if I did that, it would be equivalent to architecture built in nature, and I might be able to create a feeling of living in nature, albeit in a limited way.

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スケールとは関係ないデザイン

周辺環境のスケールに合わせなければならないと考えてしまう。街並みということを意識すると突出したスケールは悪だと考えてしまう。ただ東京だと至る所で突出したスケールが現れる。せめて住宅街ではスケールを周辺環境と合わせることで住環境が少しでも良くなるように貢献しようと考えてしまう。確かに、街並みのスケールから逸脱している建築は良くも悪くも目立つし、周辺環境に貢献しようと意識してデザインされた建築は少ないから、突出したスケールの建築に好印象がない。ただ、周辺環境に貢献することを意識してデザインすれば突出したスケールの建築にも好印象を抱くかもしれない。スケールとは関係無しにデザインの良し悪しがある、そこに注視したい。

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"Design without Scale"

You think you have to match the scale of the surrounding environment. If you are conscious of the cityscape, you will think that the projecting scale is evil. However, in Tokyo, a prominent scale appears everywhere. At least in the residential area, I think that I will contribute to improving the living environment by matching the scale with the surrounding environment. Certainly, buildings that deviate from the scale of the townscape stand out for better or worse, and there are few buildings that are designed with the intention of contributing to the surrounding environment, so buildings with a prominent scale do not give a good impression. However, if you are conscious of contributing to the surrounding environment when designing, you may have a good impression of the outstanding scale of the building. I would like to focus on the good and bad of design regardless of scale.

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時間を取り込む

建築は一度つくれば動かないし、大きいし、ずっと残り続けるから、たまたま偶然そうなっただけでいつまた価値が変化してしまうかわからない様では困る。だから、建築には時間という尺度を持ち込み、時間を建築の価値に加える必要がある。時間をどのように扱い建築の価値として加えるかには様々な方法が思い浮かぶが、時間と関連する記憶を建築に刻みたいと考えた。記憶は建築と人の相対的な関係性から生まれるもので、それを建築に刻むためには記憶を形の情報を持ったものに変換する必要がある。この変換の作業が建築と人の関係性の極端化につながり、関係性の曖昧な部分が排除され、時間を取り込みつつ自律的な建築を生む手助けになる。

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"Capturing Time"

Once a building is built, it does not move, is large, and will remain forever. Therefore, it is necessary to bring the measure of time into architecture and add time to the value of architecture. Various methods come to mind as to how to handle time and add value to architecture, but I wanted to engrave memories related to time into architecture. Memory is born from the relative relationship between architecture and people, and in order to engrave it in architecture, it is necessary to convert memory into something with shape information. This work of conversion leads to the extremeness of the relationship between architecture and people, eliminates the ambiguous part of the relationship, and helps to create an autonomous architecture while taking in time.

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偶然そうなっただけ

結果の全ては関係性の重なりの果て偶然そうなっただけのものであり、それ自体はすぐまた変化するかもしれない可能性があるが、結果として現れた時点ではとても強い強度を持ち自律している。建築とはそういうものだと仮定してみると、結果に執着すること無く、関係性に焦点をあて構築するというプロセスを重視したくなる。それはとても自然な流れだが、関係性をそのまま当てはめて重なりをつくったところで他律的な建築の域から脱することはできない。関係性をそのままではなく、極端化して関係性から曖昧な部分を排除することにより、他律か抱える相対性が薄れ、自律に欠かせない絶対性が増す。そうすることで他律的な関係性の重なりの向こうに自律的な建築が見える。

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"It just happened to happen"

All of the results are just a coincidence at the end of the overlapping relationships and may change again soon, but at the time they appear as a result they are very strong and autonomous. There is. Assuming that architecture is such a thing, we want to emphasize the process of building with a focus on relationships without being obsessed with the results. It's a very natural process, but you can't get out of the heteronomous architecture by applying the relationships as they are and creating overlaps. By excluding the ambiguous part from the relationship by making it extreme rather than keeping the relationship as it is, the relativeity of heteronomy is diminished, and the absoluteness that is indispensable for autonomy increases. By doing so, autonomous architecture can be seen beyond the overlap of heteronomous relationships.

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新しいもの

既存の繰り返しから新しいものが生まれるだろうか。いくら積み重ねても今までの考え方ややり方からは新しいものは生まれないような気がする。やり方を熟練させたり、効率を上げて早くできるようになり誰にもできない成果を上げることができてもそれは新しくない。新しいものははじめから新しいのだと思う。だから、新しいものは最初違和感があるし、その違和感故に消えてしまう。本当に新しいものとして実感され残るものはギリギリ受け入れることができるくらいの違和感にコントロールされたものであり、それははじめから新しくて徐々にコントロールされ、ギリギリ受け入れられて残りながら新しいと認識されていくと仮定してみた。そうなると、はじめから新しさが必要で、それは必ず既存からの逸脱になり、それも予定調和的な逸脱では新しくないので、研究者など既存のつながりから思考することが必要な場合、新しさを求めるのは困難になるかもしれない。

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"New"

Will new things be born from existing repetitions? No matter how much I accumulate, I feel that new things will not be born from the way of thinking and methods so far. It's not new if you can master the method, improve efficiency and do it faster, and achieve results that no one else can. I think new things are new from the beginning. Therefore, new things have a sense of incongruity at first, and they disappear because of the sense of incongruity. It is assumed that what is truly new and remains is controlled to a sense of discomfort that can be accepted at the last minute, and that it is new and gradually controlled from the beginning, and that it is accepted at the last minute and is recognized as new while remaining. I tried it. In that case, newness is necessary from the beginning, and it will always be a deviation from the existing, and it is not new with a planned harmonious deviation, so if it is necessary to think from the existing connection such as a researcher, seek newness. May be difficult.

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時間における関係性を加える

たくさんの他律的な関係性が重なり合うところに自律した建築は成り立つが他律的な関係性から生まれる自律は偶然の姿であり、いつまた変化するかわからないと考えた。その時、その場所でしか偶然成立せず、いつまた変化してしまうかわからない自律的建築は本来望まれないものである。たくさんの他律的な関係性を受け入れて、それによって成り立つ自律的建築は望まれるが、いつまた変化してしまうかわからないという時間を担保にできない様は建築では困る。だから、時間における関係性をつくり出し関係性の重なりの中に加えるしかない。関係性に時制は無いので、いくらでも関係性をつくり出すことはできる。

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"Adding relationships in time"

Autonomous architecture is established where many heteronomous relationships overlap, but the autonomy created by heteronomous relationships is a coincidence, and I thought that I would not know when it would change again. At that time, an autonomous architecture that happens only in that place and does not know when it will change again is not originally desired. It is desirable to have an autonomous architecture that accepts a lot of heteronomous relationships and is built on it, but it is a problem in architecture if we cannot secure the time when we do not know when it will change again. Therefore, there is no choice but to create relationships in time and add them to the overlap of relationships. There is no tense in relationships, so you can create as many relationships as you like.

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他律の中に自律が見える

たくさんの関係性が重なり合うところに自律した建築が成り立つのではないかと考えた。関係性から生まれる建築は他律的である。関係性はどこまでいっても切ることができないとするならば、他律の中に自律が存在するしかないし、他律の中でしか自律は存在できない。自律だけ存在しているように見えるのは、関係性がフラットでは無く主従があり、主にだけスポットライトを当てているからである。重なり合う他律的な関係性の全体にスポットライトを当てれば他律の中に自律が見える。そして、他律的な関係性から生まれる自律は偶然の姿であり、いつまた変化するかわからない。その時、その場所でしか成立しないのが自律的なものとなる。そう考えるとオブジェクト指向実在論のように複数の自律が同時に成り立つことが考えられだが、オブジェクト指向実在論の場合は関係性が二次的なものだから、他律の中に存在する自律的なものとは違う。だから、他律的な関係性をどのようにつくり出すかが自律的な建築のデザインになる。その時一番に考慮するべき他律的な関係性となる素材は時間だと仮定してみようと思っている。

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"Autonomy can be seen in heteronomy"

I thought that an autonomous architecture would be established where many relationships overlap. Architecture born from relationships is heteronomous. If the relationship cannot be broken no matter how far, autonomy can only exist in heteronomy, and autonomy can exist only in heteronomy. It seems that only autonomy exists because the relationship is not flat, but there is a master-slave, and only the main spotlight is on. If you shine a spotlight on the whole of overlapping heteronomous relationships, you can see autonomy in the heteronomy. And the autonomy that arises from heteronomous relationships is a coincidence, and we do not know when it will change again. At that time, it becomes autonomous that it is established only in that place. If you think so, it is conceivable that multiple autonomy can be established at the same time like the object-oriented realism, but in the case of the object-oriented realism, the relationship is secondary, so the autonomous thing that exists in other laws. Is different. Therefore, how to create heteronomous relationships becomes an autonomous architectural design. At that time, I will assume that time is the material that has the heteronomous relationship that should be considered first.

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スクラップアンドビルドの他者

リノベーションは主に内部空間について行われる手法であり、外観には関しては従前の姿をそのまま引き継ぐか、補完するデザインで終わるか、全く新しい仕上げでパッケージングし直すかである。もしリノベーションの手法を新築に応用した場合は外観は時の流れをどのように継続すれば良いのだろうか。外観はそもそも周りとの環境の中で決まる部分もある。ただ、個人的な様も都市の色になり得るので、むしろ個人的なことを時の流れにのせてつなげてみたいと考えた。建替えとなると全く新しい仕上げでパッケージングし直すことになるがそれでは断絶するだけであり、時をつなげるには建替え後の外観が従前とのつながりで決定されれば良い。つなげるために従前の建築から何を抽出するか。スクラップアンドビルドにおいて他者になるものは何だろうか。

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"Scrap and Build Others"

Renovation is a technique that is mainly performed on the interior space, and in terms of appearance, it is either to inherit the previous appearance, to end with a complementary design, or to repackage with a completely new finish. If the renovation method is applied to new construction, how should the appearance continue the passage of time? In the first place, the appearance is determined by the environment with the surroundings. However, personality can also be the color of the city, so I wanted to connect personal things with the passage of time. When it comes to rebuilding, it will be repackaged with a completely new finish, but that will only break it, and in order to connect the time, the appearance after rebuilding should be determined by the connection with the past. What to extract from traditional architecture to connect. What makes you another in scrap and build?

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時をつなげるリノベーション

建替えによるその場所での時の流れの断絶は避けたいと考えた場合、何を引き継げばいいのか。記憶は時の流れが断絶した状態のものであり、時の流れをつなげたい場合には使えないかもしれない。建替えはそれまでの建築の必要性が無くなったからなので引き継ぐものは何も無いと思ったが、もしあるとしたらならば何があるかと考えみる。元々の建築のプランは少なくとも完成時にはその場所での最適解のひとつではあったとみなしても良いのではないかとすると、プランの何かは使えるかもしれないし、元々のプランを有効活用することは効率が良い。ただし、使えるのはプランの機能に関する以外のことだろう。機能に関しては時の流れによる変化があり、現実的に今取り入れるのは難しい。よく考えたらこれはリノベーションの手法であり、リノベーションはむしろ断絶することの方が不可能に近く、強制的に時の流れのつながりができる。

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"Renovation that connects time"

What should I take over if I want to avoid the disruption of the passage of time at that location due to rebuilding? Memories are in a state where the flow of time is cut off, and may not be usable when you want to connect the flow of time. I thought that there was nothing to take over because the rebuilding was because the need for construction had disappeared, but if there was, I wondered what it would be. Given that the original architectural plan could be considered to have been one of the optimal solutions for the location, at least when it was completed, something in the plan could be used and it would be efficient to make good use of the original plan. Is good. However, you can use it for anything other than the features of the plan. As for the function, it is difficult to incorporate it now because it changes with the passage of time. If you think about it, this is a method of renovation, and it is almost impossible to break the renovation, and you can forcibly connect the passage of time.

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記憶と緑をつなげる

緑も輪郭があるようで無い、特定の輪郭を持たない。たまたま偶然にそうなっただけ、またいつ変化するかわからない。特定の輪郭を持たない様を建築として表現するには密度や濃淡の差異を利用する。特定の輪郭を持たない建築は特定の輪郭を持たない緑と親和性がある。特定の輪郭を持たない建築をつくるために記憶を利用すれば、記憶と緑がつながる。

"Connecting memory and green"

Green also doesn't seem to have a contour, it doesn't have a specific contour. It just happened to happen, and I don't know when it will change. The difference in density and shade is used to express the appearance without a specific contour as an architecture. Architecture without a specific contour has an affinity for green without a specific contour. If you use memory to create an architecture that does not have a specific contour, memory and green are connected.

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濃淡が建築をつくる

記憶にも密度があるかもしれないと思った。建築には指標によって様々な密度が存在し数値で表すことができる。実際には記憶はイメージで実体が無いから数値化はできないかもしれないが、ある特定の記憶だけが濃くてあとは薄い場合があるだろう。だから記憶を濃淡では表すことができる。濃淡も密度の一種である。逆に建築を濃淡で表すことはできるだろうか。何についての濃淡かによるが建築を平面絵画的に捉えれば可能である。平面絵画は奥行きに濃淡をつける。それは西洋絵画も日本画も同じである。建築を平面絵画的に捉えるにはヴォリュームを消す必要があり、そのためにはヴォリュームの輪郭を消去する必要があるだろう。輪郭を消去するには2通りあり、そもそも輪郭線を描かないか、特定の輪郭を持たないようにする。建築に応用するならば、実体としてオブジェクトは存在してしまうので、特定の輪郭を持たないようにすることだろう。特定の輪郭を持たないためにはオブジェクトの密度の疎密の差異を利用する。すなわちそれが濃淡でもある。だから、オブジェクトの密度の疎密をつくる出すものを元として建築を表現することができる。

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"Shadow creates architecture"

I thought there might be a density in my memory. There are various densities in architecture depending on the index, and they can be expressed numerically. In reality, memory is an image and has no substance, so it may not be possible to quantify it, but there may be cases where only a specific memory is strong and the rest is light. Therefore, the memory can be expressed in shades. Shading is also a type of density. On the contrary, is it possible to express architecture in shades? It depends on what the shade is, but it is possible if you think of the architecture as a two-dimensional painting. Planar paintings add shades to the depth. It is the same for Western paintings and Japanese paintings. In order to capture the architecture as a two-dimensional painting, it is necessary to erase the volume, and for that purpose, it will be necessary to erase the outline of the volume. There are two ways to erase the contour, either not to draw the contour line in the first place or to have no specific contour. If it is applied to architecture, the object will exist as an entity, so it would be better not to have a specific outline. In order not to have a specific contour, the difference in the density of objects is used. That is, it is also a shade. Therefore, it is possible to express architecture based on what creates the density of objects.

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記憶と想像の組み替え

記憶はつながりを示すものと考えがちだが、記憶は断絶の上に成り立つと思う。記憶を示す時はつながりが絶たれた時である。一旦つながりが絶たれた後に持ち出してくる過去のことが記憶である。だから、記憶自体には現在とのつながりが無く、時間軸としては過去だが、つながりが無い状態では過去のことでも、現在のことでも、未来のことでも皆同じであるから入れ替えが可能で、過去の記憶と未来の想像を等価に扱い自由に組み替えて考えることもできる。

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"Recombining memory and imagination"

It is easy to think that memory is a connection, but I think that memory is based on disconnection. The time to show memory is when the connection is broken. I remember the past that I brought out after the connection was broken. Therefore, the memory itself has no connection with the present, and the time axis is the past, but if there is no connection, the past, the present, and the future are all the same, so they can be replaced. It is also possible to treat the memory of the future and the imagination of the future equally and freely rearrange them.

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捉える試み

見方や捉え方の奥底、先にある建築の存在自体には手が届かないのかもしれない。ただもし手が届くと仮定しみたら何によって建築の存在自体を表現できるだろか。メイヤスーは数学でもの自体を捉えることができるとしたが、それは偶然そうなっただけであり、いつまた変化するかわからないという。一番簡単なことは建築の存在自体に踏み込まずに建築の見方や捉え方をデザインすることである。記憶をつなげるにはどうするかも捉え方のデザインである。ただその捉え方も一筋縄ではいかない。それを主題にしても考えることはたくさんある。記憶には時間の概念も含むから変化するものを捉えることが可能かもしれない。あらかじめ変化しそうなところまでを囲い込むように捉えることができればいい。認識や現象を捉えるより先のものの存在自体を捉える試みは例え無駄でもそれによって新しい認識を生むような気もする。

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"Attempt to catch"

It may be out of reach of the depth of perspective and perspective, and the existence of the architecture ahead. But if we assume that it is within reach, what can we express the existence of architecture itself? Meillasso said he could capture itself in mathematics, but that was just a coincidence and he didn't know when it would change again. The simplest thing is to design a way of looking at and understanding architecture without stepping into the existence of architecture itself. It is also a design of how to grasp how to connect memories. However, the way of thinking is not straightforward. There are many things to think about even if it is the subject. Since memory includes the concept of time, it may be possible to capture things that change. It would be nice if we could capture the areas that are likely to change in advance. Even if it is useless, it seems that an attempt to capture the existence of something before it captures the perception or phenomenon will create a new perception.

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見方があるだけ

建築の存在は実体として捉えようとしても捉えられないのかと思った。建築はこういうものだとという見方があるだけで、たくさんの見方の重なりが濃いか薄いかだけの違いに思えてきた。見方には正解は無く、間違いは有るかもしれないが、どの見方を選択するかだけの違いかもしれない。だから、創作するのは建築という実体では無くて捉え方であり見方である。ただそのなると他律的に存在する建築はイメージしやすいが自律的に存在する建築がイメージしにくい。自律的な建築は捉え方や見方という外からの指標とは無縁だと考えてしまうので、純粋な自律的建築は存在しないように思える。

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"There is only a point of view"

I wondered if the existence of architecture could not be grasped even if I tried to grasp it as an entity. There is only a view that architecture is like this, and it seems that the difference is whether the overlap of many views is strong or light. There is no correct answer in the view, and there may be mistakes, but it may only be the difference in which view you choose. Therefore, it is not the substance of architecture that is created, but the way of thinking and the way of looking at it. However, in that case, it is easy to imagine an architecture that exists heteronomously, but it is difficult to imagine an architecture that exists autonomously. It seems that there is no purely autonomous architecture, because we think that autonomous architecture has nothing to do with external indicators such as perspectives and perspectives.

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過去プラン判子

言葉以外で記憶を表現しようした時、建築において数値が端的に表現された寸法を用いる。言葉と違って数値だけが解釈によって変わらずに記憶を表現できると言ってもよい。ではその寸法はいつも同じだろうか。決してそのようなことはない。その場所で偶然そうなっただけである。だから、他の場所へ行けば当たり前だがいくらでも寸法は変化をする。ならば、寸法にその場所だけの固有性があり記憶として表現されるならば、その記憶としての寸法を引き継ぐことは建築として必然の行為ではないだろうか。

例えば、過去のプランがあり、そこに固有の寸法を見つけ出したならば、それをパターン化し判子のように転写を繰り返して新しいプラン、新しいエレベーションをつくってはどうだろうか。固有の寸法がまた違ったものになる、それも判子という効率を具現化したようなアイテムによって。

記憶という効率を考える上で排除されるようなもの、すなわち、他者性を帯びたものがパターン化し判子として転写されることでより活きるのであれば、効率の先に多様なモノがみえる。

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数値は効率のために用いるものなのに、効率によって排除された記憶を表現するものになるところが面白いと思った。

"Past plan stamp"

When trying to express memory with something other than words, we use dimensions that express numerical values ​​in architecture. It can be said that, unlike words, only numerical values ​​can express memories without change depending on the interpretation. So are the dimensions always the same? That is never the case. It just happened to happen at that place. Therefore, if you go to another place, it is natural, but the dimensions will change as much as you like. Then, if the dimension has the uniqueness of the place and is expressed as a memory, it would be an inevitable act as an architecture to inherit the dimension as the memory.

For example, if you have a plan in the past and find a unique dimension in it, why not pattern it and repeat the transfer like a stamp to create a new plan or a new elevation? The unique dimensions will be different again, depending on the item that embodies the efficiency of a stamp.

If something that is excluded when considering the efficiency of memory, that is, something that has otherness, is patterned and transcribed as a stamp, it will be more useful, then various things can be seen beyond the efficiency.

I found it interesting that the numerical values ​​are used for efficiency, but they express the memories excluded by efficiency.

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寸法は言葉以外の表現

言葉では表現できない記憶というものがある。建築における記憶もどんなに言葉を駆使しても全てを表現できない。モノとしてモチーフとして表現できる記憶は言葉でも表現できてしまう。だから、わざわざ建築として表現する必要性は無いかもしれないし、表現されたところでわざとらしくくどい。言葉以外で記憶を表現しようした時には数値を用いたらいいかもしれないとメイヤスーから着想した。数値は建築において絶対的な尺度である。数値でしか建築は表現できないと言っても過言ではない。建築において数値が端的に表現されているものは寸法であり、その寸法によって成り立っているのはプラン、セクション、エレベーション、そしてディテールである。さらに、寸法は建築の内外の関係性をも表現している。

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"Dimensions are expressions other than words"

There is a memory that cannot be expressed in words. No matter how much words I use, I can't express everything in the memory of architecture. Memories that can be expressed as motifs as things can also be expressed in words. Therefore, it may not be necessary to express it as an architecture, and it is intentionally awkward when it is expressed. Meillasso came up with the idea that when trying to express memory with something other than words, it might be better to use numerical values. Numerical values ​​are an absolute measure of architecture. It is no exaggeration to say that architecture can only be expressed numerically. In architecture, the simple representation of a number is a dimension, which is made up of plans, sections, elevations, and details. Furthermore, the dimensions also express the relationship between the inside and outside of the building.

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過去から定規をつくる

暮らしや情緒という言葉は本来建築とは無縁である。そう言うと不思議な感じを受けるかもしれない。建築によって暮らしは営まれるし、建築による趣きや感性を刺激することが情緒につながる。ただ、建築自体はモノであり、暮らしや情緒はモノに従属するもので、人がいてはじめて発揮されるコトである。だから、コトが無くてもモノとしての建築は成立するし、先に暮らしや情緒を求められると建築の話ができなくなる人も中にはいる。暮らしや情緒はコトとして後付けだから、建築自体がモノとして、モノだけで成立できる。建築のプランもモノとしてだけ見れば、単に壁のパターンだけであり、壁の位置の違いはそこでの機能によるアクティビティの違いである。よって、壁の位置が密か疎かも機能によるアクティビティの違いを意味するし、空間の中での壁の見え方は人の視覚に影響を与え、記憶として残る可能性が高い。ただ、記憶として残る場合は壁にコト、すなわち、暮らしや情緒が付着している。それは壁と暮らしや情緒が相互に関係性があるとも言え、壁の見え方が暮らしや情緒を想起させると考えることもできるだろう。だから、その建築特有の壁の見え方を過去のプランから抽出し、それはできればパターンを見つけ出し、そのパターンを定規として用いて新しいプランを考えれば、記憶として暮らしや情緒をつなぐようなモノができやしないかと考えている。

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"Making a ruler from the past"

The words life and emotion have nothing to do with architecture. That may make you feel strange. Living is carried out by architecture, and stimulating the taste and sensibility of architecture leads to emotions. However, architecture itself is a thing, and life and emotions are subordinate to things, and it is something that can only be demonstrated when there are people. Therefore, architecture as a thing can be established without things, and some people cannot talk about architecture if they are asked for their living and emotions first. Since life and emotions are retrofitted as things, architecture itself can be established as a thing, only with things. If you look at the architectural plan only as a thing, it is just the pattern of the wall, and the difference in the position of the wall is the difference in the activity depending on the function there. Therefore, whether the position of the wall is dense or sparse also means the difference in activity depending on the function, and the appearance of the wall in the space affects the human vision and is likely to remain as a memory. However, if it remains as a memory, things, that is, living and emotions, are attached to the wall. It can be said that the wall and the life and emotions are related to each other, and it can be thought that the appearance of the wall is reminiscent of the life and emotions. Therefore, if you extract the appearance of the wall peculiar to the architecture from the past plan, find a pattern if possible, and use that pattern as a ruler to think of a new plan, you can create something that connects your life and emotions as a memory. I'm thinking about it.

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都市と暮らしをつなぐ情緒

記憶は建築の外側にあるものであり、記憶から建築が導き出される。そして、プランは建築の内側にあるものであり、プランから建築は出来上がる。また、記憶の源はプランから派生した見え方である。記憶とプランと建築は相互に内外混じり合いながら関係性を持つ。過去のプランは記憶そのものであり、過去のプランから派生した見え方やそれに伴う暮らしの情緒が記憶の中身になる。見え方を通した暮らしの情緒は誰でも郷愁を誘うがそれは個人的なことであるから他人にはわからないかもしれない。しかし、そうして除外されていることで個人的な暮らしの情緒が他者性を帯び、それが建築として具現化された時には情緒を除外させたもの、たぶんそれは効率であり、効率か非効率かの脱構築として個人的な暮らしの情緒が使え、それが都市に対する関係性を築くきっかけにもなる。だから、過去のプランから個人的な暮らしの情緒につながるものを抽出して新しい建築に活かす。

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"Emotions that connect the city and life"

Memory is outside of architecture, and architecture is derived from memory. And the plan is inside the architecture, and the architecture is completed from the plan. Also, the source of memory is the appearance derived from the plan. Memories, plans, and architecture have a relationship that mixes internally and externally. The past plan is the memory itself, and the appearance derived from the past plan and the emotion of life that accompanies it become the contents of the memory. Anyone can feel nostalgia for the emotion of living through the way they see it, but since it is a personal matter, others may not understand it. However, such exclusion makes the emotions of personal life alien, and when it is embodied as architecture, it excludes emotions, perhaps it is efficiency, efficiency or inefficiency. The emotion of personal life can be used as a deconstruction, and it also becomes an opportunity to build a relationship with the city. Therefore, we will extract things that lead to the emotions of personal life from past plans and utilize them in new architecture.

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アクティビティの密度

その敷地においての過去のプランは記憶や過去との時間のつながりを形成する上で大事な素材であり、新たな建築に活かすことでできるつながりは都市の色になる。過去のプランはアクティビティを示す。過去のプランがいくつか存在するならば重ねてみることでアクティビティの密度がわかる。密度の高低により空間をデザインできる。

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"Density of activity"

The past plan on the site is an important material for forming the memory and the connection of time with the past, and the connection that can be made by utilizing it in the new architecture becomes the color of the city. Past plans show activity. If there are several past plans, you can see the density of activities by stacking them. Space can be designed by increasing or decreasing the density.

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プランは記憶の素材

記憶として残るものには様々なものがあるが、記憶をイメージと結びつける時に建築が手助けすることができるとしたら、そのひとつは視覚に派生するもの、例えば、壁や天井、床といった部位の見え方だろう。部位の見え方が記憶を呼び起こすと言っても良いかもしれない。そのような部位の見え方を引き継いでいくような建築は記憶や過去との時間のつながりを持ったものと言える。では、部位の見え方を決めるおおもとのものは何だろうか。たったひとつのことで全ての部位の見え方をコントロールしているのはプランである。プランによって見え方をコントロールし、それは記憶をもコントロールしている。だから、過去のプランは記憶や過去との時間のつながりを形成する上での大事な素材である。

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"Plan is a material of memory"

There are many things that remain in memory, but one of the things that architecture can help in connecting memory to images is something that is visually derived, such as how parts such as walls, ceilings, and floors look. right. It may be said that the appearance of the part evokes memory. It can be said that the architecture that inherits the appearance of such parts has a memory and a connection with the past. So what is the basis for determining how the parts look? It is the plan that controls the appearance of all parts with just one thing. The plan controls the appearance, which also controls the memory. Therefore, the plan of the past is an important material for forming the memory and the connection of time with the past.

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都市の色

建替えることで全く新しい建築ができる。それは一旦リセットされることである。ただ、建替える前にはそこに建築があった。そこにあった建築はただそこにあった訳ではなく、その場所で生まれた時には最適な解であった。きっと時間の経過によって建築自体の耐用年数を超えただけで建築としての最適解は今でも有効かもしれない。ならば有効な部分は引き継ぎ今に活かすことは必然であり、もっと引いて都市的視点で考えれば、建替えによる断絶より過去からのつながりが残った方が都市としては時間的な重みが増し、時間の経過による記憶が都市の色となるのではないかと考えた。

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"City color"

A completely new building can be created by rebuilding. It is to be reset once. However, there was an architecture there before it was rebuilt. The architecture that was there wasn't just there, it was the best solution when it was born there. I'm sure that the optimal solution as an architecture may still be effective just because the useful life of the architecture itself has been exceeded over time. If so, it is inevitable that the effective part will be taken over and utilized now, and if we take it further and think from an urban perspective, it will be more time-consuming for the city if the connection from the past remains rather than the disconnection due to rebuilding. I thought that the memory of the passage of time would be the color of the city.

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記憶の中から

記憶の中から何を抽出して建築デザインに活かすかを考えている。建築デザインに活かすには形になる情報を含んでいる必要がある。エコが直接的に建築デザインに結びつかないのは、エコには形の情報が無いからであり、エコを建築デザインに活かせるものに変換をしなければならない。例えば、最適な室温を保つために電力をたくさん使うのでは無く、日射や風などの自然の力を使うことを目指して、開口部の大きさや位置、庇や屋根形状などをデザインするように、建築の部位の形に直接影響を与えるように記憶の中から何かに焦点を絞る必要がある。

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"From memory"

I am thinking about what to extract from my memory and utilize it in architectural design. It is necessary to include information that can be used in architectural design. The reason why eco is not directly linked to architectural design is that eco has no information on its shape, and it is necessary to convert eco into something that can be utilized in architectural design. For example, instead of using a lot of electricity to maintain the optimum room temperature, design the size and position of the opening, eaves, roof shape, etc. with the aim of using natural forces such as solar radiation and wind. It is necessary to focus on something in the memory so that it directly affects the shape of the part of the building.

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記憶は関係性

関係性を記憶として捉え直してみると面白いと考えた。記憶は過去との関係性が現れたものとすれば、記憶と関係性が時間を媒介にしてつながることになる。過去と現在が記憶で関係性ができる。関係性のデザインだけが効率との両立が可能だと考えていて、関係性の並置と断絶が効率と都市性をつなげることができる。

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"Memory is a relationship"

I thought it would be interesting to reconsider the relationship as a memory. Assuming that the memory has a relationship with the past, the memory and the relationship are connected through time. The past and the present can be related by memory. We believe that only the design of relationships can be compatible with efficiency, and the juxtaposition and disconnection of relationships can connect efficiency and urbanity.

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関係性が重要

効率的に空間配置をすることは集合住宅では特に求められることである。効率的な空間配置を目指すと事業性が上がる経済的メリットとプランに妥当性と納得感が生まれる。通常はここまでで終わる。それ以上は考える必要がない。しかし、様々な関係性も同時に生まれるので、本来はその関係性こそがデザインをする対象として最も重要だと考えている。

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"Relationship is important"

Efficient spatial arrangement is especially required in apartment buildings. Aiming for efficient space layout will increase business feasibility. The economic merit and plan will be valid and convincing. Usually it ends here. You don't have to think any further. However, since various relationships are created at the same time, I think that these relationships are the most important objects to design.

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建築に都市を内包する

効率の良さと関係性の並置に関連性があるかどうかを考えている。集合住宅の計画において効率の良さは事業性にもつながるので大事だが、効率ばかりを追い求めていると人の住む空間ではなくなってしまう。だから程よい効率を求めたいのだが、その際に効率とのバランスを保つために関係性に注目した。

関係性には3つあり、住戸内の関係性と住戸間の関係性、そして外部環境との関係性である。どれも各々の関係性は存在しつつも、壁や床などの部位で各々の関係性には断絶が起こるので、関係性が並置された状態になり、一塊の建築の中に複数の関係性が共存している状態ができる。その状態が都市のようであり、関係性に注目すると建築に都市を内包することができる。

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そこで、効率は関係性の断絶の繰り返しだと考えれば、関係性を媒介にして効率に都市性を発見できるかもしれないと考えてみた。効率に都市性を発見できれば、やり方しだいで効率と人の住む空間を上手に結びつけることができるかもしれない。

"Including the city in architecture"

We are considering whether there is a relationship between efficiency and juxtaposition of relationships. Efficiency is important in planning an apartment building because it also leads to business feasibility, but if you pursue only efficiency, it will not be a space where people live. Therefore, I would like to seek moderate efficiency, but at that time I focused on the relationship in order to maintain a balance with efficiency.

There are three relationships: the relationship within the dwelling unit, the relationship between the dwelling units, and the relationship with the external environment. Although each relationship exists, each relationship is interrupted at parts such as walls and floors, so the relationships are juxtaposed, and there are multiple relationships in a block of architecture. Can coexist. The state is like a city, and if we focus on the relationship, we can include the city in architecture.

Therefore, if we think that efficiency is a repetition of the disconnection of relationships, we thought that we might be able to discover urbanity efficiently through relationships. If we can discover urbanity efficiently, we may be able to successfully connect efficiency with the space where people live, depending on the method.

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関係性の並置

関係性を並置してみるとまた違ったコトになると考えた。関係性から判断する時にはどうしてもヒエラルキーをつくってしまう。強引に言ってしまえば、関係性とはヒエラルキーである。大小、強弱など関係性に差異をつける。関係性を判断する時に差異を意識しないとわからないからかもしれないが、関係性の差異の塊が建築では古典的過ぎるので、差異を平すために、関係性を並置してみることにした。関係性を並置するとは関係性にヒエラルキーが生じても全体としての塊である建築には全く影響を与えない様である。関係性が有りながら、関係性自体が断絶して連続しない様とも言える。たがら、並置できる。

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"Parallelization of relationships"

I thought that if the relationships were juxtaposed, it would be different. When judging from the relationship, it inevitably creates a hierarchy. Forcibly speaking, relationships are a hierarchy. Make a difference in relationships such as size and strength. It may be because you have to be aware of the difference when judging the relationship, but since the mass of the difference in the relationship is too classic in architecture, I decided to juxtapose the relationship in order to flatten the difference. The juxtaposition of relationships does not seem to affect the architecture, which is a mass as a whole, even if a hierarchy occurs in the relationships. It can be said that although there is a relationship, the relationship itself is broken and not continuous. However, it can be juxtaposed.

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あえて保留する

全てをはっきりと、白黒とつけたくなる。全てを1mm単位で数値に落とすので曖昧さを許容できなくなる。曖昧に決めた数値だとしても、数値が一人歩きし決して曖昧とはならない。ただ、そこまで厳密に行うことがいいのかと、必要なのかと思った。それで良くなるのであればいくらでも厳密にできる。きっちりと何もかもが決まったものが果たして良いものとして受け入れられるのだろうか。よく遊びが必要だと言われるが、遊びが緩さではなく、遊びという厳密と同じ属性の行為になってしまってはつまらない。結局は厳密と曖昧のバランスを取ることが必要であり、それはあえて何も手を加えないで保留にできるかどうかではないかと考えた。

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"Dare to put it on hold"

I want to put everything clearly in black and white. Ambiguity cannot be tolerated because everything is reduced to numerical values in 1 mm increments. Even if the numerical value is decided vaguely, the numerical value walks alone and never becomes ambiguous. However, I wondered if it was necessary or necessary to do so strictly. If that makes it better, you can do it exactly as much as you want. Is it acceptable that something that has been decided exactly is really good? It is often said that play is necessary, but it is boring if play is not loose and it becomes an act with exactly the same attributes as play. In the end, it was necessary to strike a balance between strictness and ambiguity, and I wondered if it could be put on hold without any modification.

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記憶をつなぐには

記憶が断絶している建築ばかりでは都市は形成されない。記憶が個人的なものであったとしても断絶せずにつながりがあることで都市に時の流れによる積み重ねが生まれ特色が出る。だから、建築を更新する時には時の流れを断絶させずに記憶をいかに積み重ねていくかが重要だが、それが観念的な手法では単なる妄想の中の積み重ねで終わる。具体的に記憶を何らかの形あるモノで表現し、それを用いることで記憶をつなぐことができればよい。

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"To connect memories"

A city cannot be formed only by architecture whose memories are cut off. Even if the memory is personal, the connection without interruption creates the accumulation of time in the city, which gives it a distinctive character. Therefore, when renewing architecture, it is important how to accumulate memories without interrupting the passage of time, but with the ideal method, it ends up being simply accumulation in delusions. Specifically, it is only necessary to express memory in some form and use it to connect memories.

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記憶の連なりが都市

建築を都市とつなげようとした時、特別な意味づけとして時間によって蓄積された記憶が必要だとした。その記憶は決して特別なものである必要はない。むしろその場所だけの、個人的で構わない、その局所的な記憶の重なりが都市をつくり、都市に魅力を出す。その記憶を皆が理解できなくてもいい。その記憶がその場所をつくり、その連なりが都市を形成し、建築と都市をつなげることになる。

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"A series of memories is a city"

When trying to connect architecture to the city, he said that he needed a memory accumulated over time as a special meaning. The memory does not have to be special. Rather, the overlap of local memories, which can be personal and only in that place, creates a city and makes it attractive. It doesn't have to be that everyone can understand the memory. The memory creates the place, the chain forms the city, and connects the architecture and the city.

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建築と都市をつなげるには

建築を都市とつなげようとするならば、外部空間をつなげようとするよりも時間によって蓄積された記憶をつなげていく方が効果があるのではないかと考えた。外部空間をつなげる場合、敷地境界線という壁がある。公共建築の場合はその壁が管理区分でもあるから管理の仕方次第で都市とつなげることは可能で、公共建築、あるいは公共性の高い建築は外部空間を積極的につなげるべきである。しかし、外部空間のつながりは単に公共の外部空間が広がるだけに過ぎず、そこに特別な意味づけがなければ建築と都市がつながるとは言えないのではないか。それは公共空間以外であれば尚更で、観念的なつながりに過ぎない。その特別な意味づけに当たる部分が時間によって蓄積された記憶だと考えている。

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"To connect architecture and cities"

When trying to connect architecture to a city, I thought that it would be more effective to connect the memories accumulated over time than to connect the external space. When connecting external spaces, there is a wall called the site boundary line. In the case of public buildings, the walls are also management divisions, so it is possible to connect to cities depending on the management method, and public buildings or highly public buildings should actively connect external spaces. However, the connection of the external space is merely the expansion of the public external space, and if there is no special meaning there, it cannot be said that the architecture and the city are connected. It's even more so except in public spaces, it's just an ideological connection. I think that the part that corresponds to that special meaning is the memory accumulated over time.

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境界線を越えて

立体街区のようなプランが多く、集合住宅では住戸内部のプランに他との明確な差異を見つけることができないのか、建築計画上効率を優先し不特定多数に支持されるものにするにはある程度住戸内部のプランをニュートラルにせざるを得ないのか、住戸以外の廊下や階段といった動線空間をデザインしてまとめ上げる事例をよく見る。集合住宅のメリットである効率性を活かしつつデザインするには最善の方法にも見えるがちょっと無理を感じる時もある。敷地境界線を越えていく難しさとでも言うか、なかなか境界線を越えてつなげることは妄想の中でしかないケースも多い。

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"Beyond the border"

There are many plans such as three-dimensional districts, and it is not possible to find a clear difference in the plan inside the dwelling unit in the apartment house, or it is to some extent to prioritize efficiency in the architectural plan and make it supported by the general public. I often see cases where the plan inside the dwelling unit has to be neutral, and the flow line space such as corridors and stairs other than the dwelling unit is designed and put together. It may seem like the best way to design while taking advantage of the efficiency of an apartment building, but sometimes it feels a little impossible. It may be said that it is difficult to cross the boundary line of the site, but there are many cases where connecting beyond the boundary line is only a delusion.

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プロセスからデザイン

関係性が時制の中で変化することはよくあることであり、過去の関係性と現在の関係性は途中で断絶することが無ければつながるが、過去の関係性は記憶と言い換えて、記憶を何らかの形で抽出し、同じ方法で現在から抽出したものと合わせ、その差異を現在のプランに刻み込む。そうすれば、関係性が時制というフィルターを通して残り、さらにその手法は未来へと受け渡すことができる。このようにプロセスからデザインする必要をいつも感じる。

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"Design from process"

Relationships often change in tense, and past relationships and present relationships are connected if they are not interrupted in the middle, but past relationships are paraphrased as memories, and memories are remembered. Extract it in some way, combine it with the one extracted from the present in the same way, and imprint the difference in the current plan. Then the relationship remains through the tense filter, and the method can be passed on to the future. I always feel the need to design from the process like this.

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時制と効率

効率か非効率かを置き換えてシークエンスかランダムかにしてみると、建築計画上でプランニングとの関係性がわかりやすくなる。この関係性に含まれないものはひとつに時間だろう。時間という概念が無くてもシークエンスかランダムかはとりあえず考えることができる、今だけを見ればいいのだから。ただ、時間すなわち過去現在未来の時制に焦点を当ててみると、シークエンスかランダムかはプランニング上では棚上げになり大した問題ではなくなるのではないかと考えた。

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"Tense and efficiency"

By substituting efficiency or inefficiency for sequence or random, it becomes easier to understand the relationship with planning in architectural planning. One thing that is not included in this relationship is time. Even if you don't have the concept of time, you can think about sequence or random for the time being, because you only have to look at it now. However, when I focused on time, that is, the tense of the past, present, and future, I thought that sequence or random would be shelved in planning and would not be a big problem.

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物そのものに迫りたい

関係性があるから個別の存在が浮き上がるともいえる。個別の存在そのものを知覚することはできない、関係性という現象を通してのみ個別の存在がわかると、カントへの理解はその程度だが、人も含めた物には必ず他者が存在するから物そのものを知覚できないし、そもそも知覚できないということから他者が存在する。そうすると、他者を置くことは永遠に物そのものに到達できないことになる。建築を考えていると物そのものに思いをはせてしまう。だから、物の素材性や触覚性に走るのだろう、それは自分の手で確かめることができる唯一の物それ自体かもしれないから。ただ、それはある種の慰めでしかない。一度は無理を承知で物そのものに迫る建築行為をしてみたい。

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"I want to get closer to the thing itself"

It can be said that individual existence emerges because of the relationship. If we can understand the individual existence only through the phenomenon of relationship, which cannot perceive the individual existence itself, we can understand Kant to that extent, but since there are always others in things including people, we can understand the thing itself. Others exist because they cannot be perceived and cannot be perceived in the first place. Then, putting others will never reach the thing itself. When I think about architecture, I think of the thing itself. Therefore, it may be the material and tactile nature of the thing, because it may be the only thing that can be confirmed by one's own hands. But that's just some kind of comfort. I would like to do a building act that approaches the thing itself, knowing that it is impossible once.

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関係性と個別の外側

関係性は二次的で個別には存在している、まさによくある集合住宅のことだと思った。個別に存在することは二次的で関係性がまずあるのがシェアハウスか。個別に存在することよりも関係性に注目すれば、形の有無に関わらず、何かをつくる時のヒントになるのだが、それよりも関係性と個別の存在の外側に何かあるだろうかが今の関心事である。

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"Relationship and individual outside"

I thought that the relationship was a very common apartment house that was secondary and existed individually. Is it a share house that exists individually is secondary and has a relationship first? Focusing on relationships rather than being individual is a hint when creating something, with or without shape, but is there anything outside of relationships and individual beings? Is the current concern.

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効率と数値化できないものの組合せ

効率の良さを目指すことは同時に効率よく余分なものを排除することでもあり、排除する時の基準は制御できるかどうかであり、制御できないものは効率の外に置くことになる。効率の良さを測る指標は数値であり、制御できないものは数値化できない。それでは、効率の良いものと数値化できないものを組合せるとどうなるだろうか。普通に考えれば効率が悪くなると考えるだろう。だから、数値化できないものは、徹底的に数値化しようと試みるか排除しようとする。しかし、効率の良いものと数値化できないものを組合せても効率が悪くないらないどころか効率が良くなることがあるとしたら、それはどのような場合だろうかと考えてみると面白い。

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"Combination of efficiency and things that cannot be quantified"

Aiming for efficiency is also to efficiently eliminate excess, and the criterion for exclusion is whether or not it can be controlled, and what cannot be controlled is placed outside of efficiency. The index for measuring efficiency is a numerical value, and what cannot be controlled cannot be quantified. So what happens when you combine something that is efficient and something that cannot be quantified? If you think about it normally, you will think that it will be inefficient. So, if you can't quantify it, try to quantify it thoroughly or try to eliminate it. However, it is interesting to think about what kind of case it would be if the combination of efficient and non-quantifiable ones would not be inefficient but would be more efficient.

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排除されるものを考える

建築計画上効率によって排除される多様な関係性に当たるものには何があるかを考えてみた。あるいは、排除される多様な関係性を誘発するものは何か。例えば、集合住宅は建築計画上効率を追求する最たるもののひとつであり、効率によって同一的なプランの連続になる。そもそも集合住宅にするのは効率によって集積し高密度にする目的だから、同一的になることが目指すところではあるがそれによって排除されるものが気になる。集合住宅において多様な関係性、あるいはそれを誘発するものは何だろうか。たぶん、住戸内部にはない。あるとしたら住戸の外部だろうが、住戸間の関係性や住戸の外部である周辺環境との関係性以外にはないのかを考えてみたい。

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"Think about what is excluded"

I thought about what are the various relationships that are excluded by efficiency in building planning. Or what induces the diverse relationships that are excluded? For example, an apartment house is one of the most pursuing efficiency in architectural planning, and efficiency makes a series of identical plans. In the first place, the purpose of making an apartment house is to concentrate and increase the density by efficiency, so the goal is to be the same, but I am concerned about what is excluded by it. What are the various relationships or triggers in an apartment building? Probably not inside the dwelling unit. If there is, it may be outside the dwelling unit, but I would like to consider whether there is anything other than the relationship between the dwelling units and the surrounding environment outside the dwelling unit.

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効率から多様な関係性へ

建築計画上効率的なプランニングや配置とは、ある指標に対して一番無駄がなく動かしようのないものだが、それは同時に関係性の面からみたら多様性を排除している。効率を求めれば多様な関係性は築けない。効率を何か目的を達成するための手段と考えることができれば、代わりに多様な関係性が手段となり同じ目的を達成できればいい。排除された多様な関係性を主題に据える。ただ一度は効率を追い求めているので、排除された多様な関係性は効率とバランスが取れるように極端化することができ、効率と齟齬を起こさない新たな多様な関係性を築くことができる。

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"From efficiency to diverse relationships"

Efficient planning and placement in architectural planning is the least wasteful and immovable for a given indicator, but it also eliminates diversity in terms of relationships. If you seek efficiency, you cannot build diverse relationships. If efficiency can be thought of as a means to achieve some purpose, then it would be good if various relationships could be used as a means to achieve the same purpose. The subject is the diverse relationships that have been excluded. Since we are pursuing efficiency only once, the diverse relationships that have been excluded can be extremed to balance efficiency, and new diverse relationships that do not conflict with efficiency can be built.

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効率が排除すること

建築計画上効率的にプランニングや配置をされてたことにより排除されるものは何かを考えてみた。効率的なプランニングや配置は建築計画にとって重要なひとつの目指すべきことであり、それのみで建築計画を完了しても文句はないかもしれない。ただし、それと引き換えに何かが排除され、その排除されたことの方が重要な場合、効率的なプランニングや配置は存在意義を失くす。

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"Eliminating efficiency"

I thought about what would be excluded by efficient planning and placement in the building plan. Efficient planning and placement is one of the important goals of a building plan, and it may not be a complaint to complete the building plan by itself. However, if something is excluded in exchange and the exclusion is more important, efficient planning and placement loses its raison d'etre.

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関係性の時制をズラす

関係性を取り扱う時の時制は現在の今この瞬間か、少なくとも過去なり未来なりに合わせるだろう。時制がズレていては関係性を計る上で時間という余計な要素が加わる。時間は状態を変化させ、当然関係性にも影響を与えるので、関係性に時間による補正を加える必要が出てくる。だから、時制をズラすことは正解な関係性を計れなくする。しかし、関係性をデザインの発露にする場合は時制をズラすことで時間という要素をデザインに取り入れることができ、その取り入れ方次第でデザイン上の差異を生むことができる。

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"Sliding the tense of relationships"

The tense when dealing with relationships will match the present moment, or at least the past or the future. If the tense is off, an extra element of time is added to measure the relationship. Since time changes the state and naturally affects the relationship, it is necessary to correct the relationship with time. Therefore, shifting the tense makes it impossible to measure the correct relationship. However, when the relationship is exposed to the design, the element of time can be incorporated into the design by shifting the tense, and depending on how it is incorporated, a difference in design can be made.

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過去に焦点を合わせる

過去から未来へ流れる時間の中でのある点で切り取ったものが建築だと考えるならば、どこに焦点を合わせて切り取るかが問題になる。別に必ずしも現在に焦点を合わせる必要は無く、未来でも過去でもいい。未来に焦点を合わせることはよくあることだが、過去に焦点を合わせることはあまり無いかもしれない。時間の流れを考えれば必ず未来へ向かうので未来に焦点を合わせることは自然で、過去に焦点を合わせることは時間の流れに逆行するので違和感がある。ただ、現在を過去の集積と考えるならば、過去に焦点を当てて未来に向かう建築をつくることはできるような気がする。

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"Focus on the past"

If you think that architecture is cut out at a certain point in the time that flows from the past to the future, the question is where to focus and cut out. You don't necessarily have to focus on the present, it can be in the future or in the past. Focusing on the future is common, but focusing on the past may not be very common. Considering the flow of time, it is natural to focus on the future because it always goes to the future, and focusing on the past goes against the flow of time, so it feels strange. However, if we think of the present as an accumulation of the past, I feel that we can focus on the past and create architecture that faces the future.

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残るのは差異だけ

現在を過去の集積だと考えた場合の他者は偶然性である。ならば偶然性を主題にして、現在を過去の集積とは考えずに、現在は単なる偶然の産物と考えてみる。そうなると現在はたまたまそうなっただけとなる。たまたまそうなっただけの存在にはもしかしたら意味など全く無いかもしれないし、たまたまそうなっただけならば、いつかまた変化してしまうかもしれない。いつかまた変化してしまうものに価値を見出すとしたら、その瞬間の姿を焼き付けて記録し、変化したらその差異を楽しむしかないし、そもそも変化することが前提ならば、変化せずに残るのは差異だけである。

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"All that remains is the difference"

Others who think of the present as an accumulation of the past are accidental. Then, with the theme of contingency, instead of thinking of the present as an accumulation of the past, think of the present as a mere product of chance. Then it just happened to happen now. The existence that just happened to happen may have no meaning at all, and if it just happened to happen, it might change again someday. If you want to find value in something that will change again someday, you have to burn and record the appearance of that moment, and if it changes, you have to enjoy the difference, and if it is supposed to change in the first place, the difference remains unchanged. Only.

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他者の一貫性

他者を見極め徹底的に他者を全うする一貫性が素晴らしかった。東京都現代美術館で開催中の吉阪隆正展での感想である。昔からから不連続統一体に興味があり、ただ今回はあまり詳しく不連続統一体に触れる展示は無