モノのすべて

何かモノに対して、不変的であったり、絶対的であったりして、それは触れることができないモノで、動かすこともできないモノだと無意識に思うことがある。

なぜそのようにモノを思うのか。たぶん、そのように思うことで、モノを神格化して絶対的な領域にあるものとしておくことで、モノのすべてを知らなくてもいい、としておきたいのだろう。

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関係が生まれるとき

建築でも何でもモノがそこにあれば、それは自立してそこにある。しかし、何かしらそのまわりとモノとの関係も生まれてしまう。そのときに自立することとモノ同士の関係性を対比させて考えることには少し違和感がある。

なぜならば、そのときは関係性がモノの自立があってはじめて現れてくると考えられるからで、そこに違和感があり、はじめから関係性のあるところに自立したモノが置かれるということもあり得ると考えられるから。

ただ、もしそうならば、自立は関係性という地の上に成り立つものであり、自立だけを抜き出して考えることができなくなる。さらには、関係性がモノに先立つことで、自立自体がおかしくなる。

ならば、まわりとの何かしらの関係は、モノ自体の内部から起こると考えれば、全てがうまくいくような気もする。

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内部から

モノはそこに自立してあるが、ただあるだけではないような気がする。そこにモノがあり、その隣にもモノがあれば、何かしらの相互作用は生まれる。そのときに何が何と結びつくのだろうか。自立してあるのだから、相互の関係性はそれぞれのモノがどうであるかを表していないだろう。

もしかしたら、モノ自体の内部にあるものが相互作用しているのかもしれない。もしそうならば、モノは自立もしつつ、関係とはちがう形で、影響をまわりに及ぼすことができる、ということか。

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関係以外

ついつい自分と関係があるモノを優先してしまう。それは自分との関係のなかでしかモノをみていない証拠かもしれない。関係が無くてもモノはそこにあるのだから、モノは単独で自立してそこにあるのだろう。そのときの関係以外のモノを成り立たせているモノやコトに興味がある。

もしかしたら、そのモノやコトがデザインする対象なのかもしれない。もしそうだとしたら、デザイン自体がもっと自律するかもしれない。

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自分とまわり

新しい建築ができると、前にそこに何があったかを思い出せないことがよくある。たぶん、見ているようで見ていないからだろう。でも、なぜか前にあったモノを思い出そうとする。別に関係者でなければ、前にそこに何があったかなどはどうでもいいと思うのだが。

きっと人は自分だけでなく自分のまわりの環境まで含めて自分を成り立たせているのだろう。そうするともはや、自分とまわりの環境とのつながり、などという関係性よりももっと強い何かが存在しているように思える。

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感情アクセス

モノに人がアクセスするとき、考えも感性も両方使うだろう。あとは感情も使う。感性は考えのうちかもしれないが、感情は考えのそとにあるかもしれない。むしろ感情は考えより前に生まれる。感情を説明するために考えがあるようなものかもしれない。感情でモノにアクセスする場合と考えや感性でアクセスする場合は何がちがうのだろうか。感情でしか表現できないモノには考えや感性以外の魅力がありそうだ。

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暗示

話す、話さないという選択以外にも、暗示がある。直接的に対応する話す、話さないより、間接的に対応する暗示の方が知らないうちに深く伝わることがある。デザインも同じかもしれない。直接的なフォルムをしたデザインはわかりやすいし、人目を引くかもしれないが、暗示的なデザインの方が深く人の心にしみるかもしれない。

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感性も考えのうち

最近、感性も考えのうちだとおもうようになった。感性をモノに対して働かせようとしたら、そのモノに対して何かしらのアクセスをしなければならない。アクセスにするときには感性だけでなく考えることも必要になる。むしろ、考えが先頭をいくかもしれなず、感性が考えに従属するかもしれない。

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考えることだけで

人によるアクセスとは、考えることでアクセスすることであり、モノの世界では考えることでアクセスできる部分はごく一部かもしれない。そのごく一部の中でモノに対してデザインをしているのかもしれない。きっと、モノの世界に対して考えることだけでアクセスすることに無理があるのかもしれない。

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モノの世界のうち

建築で利用可能な部分はごく一部でしかない、何が、人がアクセスできるモノとしては。経験によって得られるモノが建築の主要な部分を形成すると考えているが、それは人がアクセスできるモノであり、ただモノの世界で人がアクセスできる部分はごく一部かもしれないとも考えている。

さらには、人がアクセスできるモノのうち、建築で利用可能だと考えられているモノはまたそのごく一部で、さらには、さらには、建築で実際に利用されているモノはまたそのうちのごく一部。だから、まだまだ可能性がモノの世界にはたくさん眠っていると考えている。

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フレームが断つ

いちいち考えたりしないから気楽に楽しみたいのが本音で、空間もそこでの瞬間的な気持ちよさ、居心地のよさが大切、でもそれはつくる方も瞬間を意識するのか。

瞬間の連続が時をつくると考えると、こう見せたいやこうしたいと作者側が考え、その情景やシーンを分解するときに一緒に時も分解して瞬間にしている。そのときには、瞬間は細切れの連続で作者側の意図をくむ。だから、ひとつの瞬間と瞬間の間にはつながりがあるとしているし、それが大前提になっている。

そのつながりを疑ってみることにした。昔、たくさん写真を撮りまくっていたころのファインダー越しの情景を思い出した。フレームが瞬間のつながりを強制的に断ってくれる。そして、並べられた写真は独立した瞬間を見せていた。

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今この瞬間

今この瞬間にあらわれるモノには、今だけでなく過去も含まれており、未来は過去とのつながりであらわされ、過去も未来もモノの多義性をあらわすひとつの要素でしかなく、モノは今この瞬間にある時が全てで、モノをその他のことであらわすことはモノ自体を歪めることになり、今この瞬間のモノと次の瞬間のモノにはつながりが無く、全く別のモノである、という。

モノの捉え方により、モノの見え方は変わるが、もし今この瞬間にしかモノとしてのあり様があらわれないとすれば、捉え方を考えること自体が無意味で、瞬間的にモノをそのまま見るしかない。きっとそれが一番難しそうな気もする。

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身体必要ですか

身体感覚は必要ないのだろうか。AIやChatGTPはほんと助かる。楽に知識が手に入るし、アウトプットまでしてくれる。

ただ、唯一おもうのはフィジカルな感性が伴わない。そもそもフィジカルな感性などどうでもいいと思う人が多いのか、みんな有り難がっている。

何も無い時、ネットも、スマホも無い時、頼りはフィジカルな経験だけだった。もし、今何もかも無くなったら、頼りは生身の身体だけだと思い身体に刻む体験には意味が無いのだろうか。最近、お茶の道がたのしくてしょうがない。

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バラバラな点

流れと捉えることはよくある。流れを読むとか、時の流れとか、空気の流れとか。流体力学なんて響きもなんとなくカッコいい。流れはすなわち、つながりともいえる。つながりがあるから流れになる。バラバラであったものがつながり動きだす、そのときの航跡が流れとしてみえる。だから、流れの前提はつながりがあることである。では、つながりが無ければ、それはただのバラバラな点の集まりである。たくさんの点が同時に存在しているだけのことである。

ちょっとおもう、この現実世界は流れでもあり、バラバラな点の集まりでもあると。つながりを見だせば流れだが、つながりを解く、別のつながりを設定する、新たなつながりをつくれば、今までの流れがバラバラな点の集合でしかなくなる。

要するに、流れとはつながりを保つ行為であり、別にバラバラでもよければ簡単に消滅するし、バラバラな点の状態の方がいろいろな流れを形成する可能性を秘めており、その方が多様で面白そうだ。そんなバラバラな点の状態のようなモノをつくりたい。

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質より使い方

最近チープなデザインが多いような感じがする。理由は仕上げにお金をかけけることができないからだとおもうが、そこには触れないようだ。

どうしてモノ自体にもっと目を向けないのだろうか。チープに見えるのは仕上げ材の質ではなくて、材料の使い方が問題なのに。

使い方ならばそれほどコストには影響しないようにできるし、そこにデザインの余地がある。

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今でも昔でもない

懐かしさや郷愁にもにた感覚をもとめてしまうことがある。こどもの頃に遊んだ場所にいってみたり、子供のころ、毎夏両親の田舎に遊びいった思い出を辿ってみたり。

昔とはすでに何もかもちがうのに、今それを懐かしむことで、昔と今を融合させた何かをつくりたいのか。

ただ、いつもおもうのは、何もかもちがうけれど、今と昔の間の時間差は一瞬で埋まり、そこにはタイムラグはなく、今でも昔でもないもうひとつの時がうまれるような気がして、それは自分だけのものであり、その感覚を求めていたのだと。

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時は流れではなく

時の流れというけれども、たしかに時間はつながっており、時間に切断面は存在しないようにおもえる。

しかし、今この瞬間からみたら過去も未来も流れではなく、ひとつの止まった切断面にしかみえず、しかも、それは現在も同じで、それら3つの切断面が合わさって今この瞬間がつくられているようにおもえる。

そうすると、時は流れではなく、今この瞬間のひとつの要素として過去、現在、未来があり、それらが今この瞬間を多様にしてくれているだけで、次の瞬間にはまた別の過去、現在、未来が存在して多様にしてくれる。時間は流れではなく、今この瞬間を多様にしてくれる単なるアイテムでしかないのかもしれない。

ならば、過去のモノを今この瞬間にいかすことも、ことさら過去という時制には意味がなく、そのモノがどういうモノかということの方が重要なのかもしれない。

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今このとき

今現在から過去や未来を考えることは、実際の過去や未来とはちがう。今という時間にポーンと投げ入れられたとしたならば、そこにはすでに過去や未来はあり、ただその過去や未来は自分が都合よくつくったものであり、だからこそ、歴史は勝者によって捻じ曲がり、未来も方向づけられてしまう。

しかし、そうなると、実際の過去や未来にはいつまでたっても出会えないし、もしかしたら、実際の過去や未来など無くて、あるのは現在がより複雑で多様なだけなのかもしれない。

そう考えると、過去のものを未来に残そうとか、現在が過去から未来への流れの一地点とは思えなくなる。あるのは今この時の現在だけで、過去も未来も今この時のためのパーツでしかない。だから、今が大事ということか。

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今そこにある

ずっと興味があることは、今、見ているモノに刺激を受け感情を揺さぶられることはどうやったら起こるのだろうか、ということ。それを建築で叶えるためには何をどうするか。

最初は知覚の問題かと考えていた。要するに受容側の問題であり、受容の時のしくみをいかせばいいと考えていた。

たしかに、その要因もあるが、もっと根本的にモノ自体がどうあるべきか、モノはどこにどのように存在するのかを考えれば、そこに知覚の問題も含まれるし、建築が関係性から脱しで、今そこにあることができ、それが感情を揺さぶることになると考えた。

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引き継ぐ

建替えに際して、何とか前の建築からのつながりを残したいとの想いから、何かを引き継げないかと考えている。

モノとしての古材や、例えば、建築の配置や高さ、空地の残し方など、今ある事柄からいくつか候補はある。しかし、少しおもうのは、何を選んでも、またそれをどう使おうとも、前の建築とはつながりは生まれないのではないか、ということ。

何かを引き継いで使ったり、そこに妥当性を与えたとしても、今との関係性で構築したものだから、その時点で前の建築とのつながりは絶たれてしまう。もしかしたら、何かを引き継ぐという考えでは無理があるのかもしれない。

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捉えるには

データなどの客観的な指標でモノを判断することは科学的にはよくあることで、それを示されるとそこに妥当性があると感じ納得してしまうが、それが通用するのもそもそもそのモノとの関係性が元々あるのが前提になっているから、別にその指標は客観的でも何でもないのではないかとおもう。

もし、関係性も何もない未知なるモノだったら、共通言語にあたるような客観的だとおもわれるような指標すら存在しないのだから、その未知なるモノを捉えることはできないだろう。

むしろ、目の前にあるモノはありゆる関係性を絶ち独立した存在だとして、それでもそのモノを捉えようとしないとうまく捉えられないような気がする。

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独立

関係性から独立できるか、しているか。目の前に現れるものは自分と関係あるものしかない現れない。それもデフォルメされて誇張されて現れる。困ったものである。ほんとうの姿を見たいのに、いつまでたっても見ることができない。ちょっと自分の見方を変えてみる。大事なのは関係性が全てではないと考えることかもしれない。

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建築の真の姿

そこに建築があることは、そこにいる人に依存しているように思えるが、そこにいる人が抱いているその建築へのイメージより越えたモノ、それがその建築の真の姿、にするには、その建築がそこにいる人に依存しないで独立している必要がある。さらに言えば、建築が自律しているとはまさにこういうことである。

ただ、そこにある建築がどういう存在であるかは、そこにいる人自身の中にしかない。それはどういうことかというと、そこにある建築が自分の中に存在している人にしかその建築を見ている意識がないからである。

だから、そこにある建築はそこいる人の中にしか存在していないが、その建築自体はそこにいる人に依存しない方がいいとおもう。

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蜃気楼

建築をしていると全体を構築するので、構築された全体からどのような影響をあたえることができるのかを考えはじめてしまうが、そうした実在的な全体から影響をうけることがほんとうにあるだろうかなどとも考えてしまう。

つくる方は構築していく上で全体から細部へと考えが流れていき、それを実在的なこととして考えるのは仕方がないが、受けとる方は全体的な視点をもてるとは限らず、実在的な細部ばかりに目がいくことも多い。そして、その細部の実在的なモノに触発されて、全体を感覚的に捉えようとするのではないだろうか。

目の前の手の届くモノは、その場で見ることもできるので、ほんとうに存在しているとなるが、全体は目の前のモノの性質から類推し感じているに過ぎないのではないか。ならば、つくる方が向き合うのは全体ではなく細部の性質であり、全体は細部の彼方に見える蜃気楼でしかない。

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単なる記念品

古材を使おうとしている。理由は愛着があるからで、そこにはただ単に時間の積み重ねがあるだけでなく、何か大切なモノを象徴しているように思えるからである。そこではその古材が自分を構成する一部になって欲しいという願いの現れになっている。

ただ思うのは、その古材はそんなこととは関係なしに存在しているということ。きっとその古材を使うときにはその愛着や時間の積み重ねから自由になっていないと、古材が単なる記念品程度の安い価値しか纏わないような気がする。気をつけようとおもう。

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人もモノ

人が使うモノがそこらじゅうに散乱している。人が使うモノだから、そこには人とモノとの関係が散乱している。ただ、別の見方をすると、モノ同士の関係もそこらじゅうに散乱している。

そういう見方をすると、人もモノとしてモノ同士の関係に組み入れられてしまう。ただ人が入ると関係が複雑になるかもしれないが、それはモノ同士の関係の中での程度の差ぐらいだろう。

人もモノ、モノ同士の関係だけで建築や空間が成り立っていると考えたら、美しさや素晴らしさを感じたり、感動したりといった人の情緒的側面はどのように扱えばいいのか、とても興味がわく。

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時間軸を付加

再生や再利用にはもともと時間が付着している。

時間とは、建築にとっていつまでも変わらない尺度であり、通常の新築であれば時間軸は1つだが、再生や再利用することで、また違った時間軸を付加することができる。

この付加された時間軸をデザインにいかすのが再生や再利用の面白さであり、醍醐味である。

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再生は感じ方

見覚えあるモノがまた別の使われ方をして目の前に現れたら、きっと受けとる感じは今までとはちがってくるだろう。

感じ方はモノの使われ方や現れ方に依存するのかもしれない。そんなことをぼんやり考えていたら、再生や再利用は感じ方をあつかうことだとすることもできるのではと思った。

今まで再生や再利用という言葉には、モノに偏重しすぎて何か歪みをいだいていたが、新たな感じ方をつくると考えると、また新たな思考がまわりはじめた。

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