シンボルの配置

シンボルツリーという言葉があり、象徴的なものとして外構の目立つところに木を配置し、それを中心的にまつりあげて展開するやり方がある。意外とどこでも見かける。ここでいつも面白いと思うのは、シンボルツリーの存在というより、そのシンボルツリーがどこからどのように見えるか、ということ。シンボルであるのは見られるからであり、ならば、どこからどのように見えるかに関心をもつとシンボルツリーがまた違って見える。

どこから見えるか、どのように見えるかがシンボルツリーそのものの存在に何か影響を与えるだろうか。先にどこから見えるか、どのように見えるかを決めてしまってからシンボルツリーを配置しようとしたら、先にシンボルツリーがある場合と比べて何かが変わるだろうか。関心は広がる。

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使い方を変える

新しい道具は新しい着想を生むだろうか。日常的に使う道具を新しくしてみた。正確にいうと、前に使ってはいたが、訳あって使うのをやめたもののバージョンアップ版に変えてみた。だから、完全に新しいわけではないが、今まで使っていたものとは操作感が全くちがう。

昔慣れ親しんだものを、バージョンアップ版とはいえ、また手にすると感覚がよみがえる。だから、変な違和感がなく、すんなりと移行できた。ただ、これは良いことなのだろうか。もしかしたら、新しいものに対する違和感のような変な感覚が新しいものを生みだす原動力になるのではないだろうか。

だから、今度は以前とは使い方を変えようと考えている。使い方を変えることで、全く新しい道具を使いだす時と同じような違和感をつくりだし、新しい着想の手助けになればとおもう。

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越境したい

内から見て連続する空間が別の帰属へと連結されていくと、それだけでまた別の場を生みだす。空間の帰属はプランに表れる。とくにいくつかの異なる空間が寄せ集まって成り立つ建築では帰属が境界になる。

どこかでプランニングのときに境界を越えたいという欲求が生まれる。現実的に越えられないから境界になるのだが、せめて意識の上でだけでも越えたいといつも考えてしまう。

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蓄熱体の土間

昔ながらの旧家にはいると、薄暗いけれど、この暑い時期などは冷んやりしていて気持ちよかったりする。薄暗さは時に不安をあおるが、状況が変われば快適にもなる。

旧家の床下はだいたい土間である。夏の冷んやりさは土間だからという理由もあるし、軒が深いことにより日射を遮り陰をつくることも影響が大きい。土間はそもそも土であり、土はある程度の厚みがあると熱容量が大きいので、外気に直接触れることがなければ外気温の影響をあまり受けないので、冬は暖かく夏は涼しい、とされている。

さらに、熱容量が大きれば蓄熱体として利用できる。昼間に蓄熱体に日射を直接あてて熱をためれば、夜には蓄熱体から熱が放出される。現代の住宅に土の土間をつくることは現実的ではないような気がするので、土のかわりにコンクリートをつかうことが多い。ただ、コンクリートを蓄熱体として利用している例はまだまだ少ないので、その点でいろいろと可能性があるような気がする。

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土間の可能性

人が意識する内外と、建築における内外はちがう。そのズレがつくりだす微妙なちがいが建築空間に影響を与える。そこがおもしろい。

では、どうやってズレをつくりだすか。一番簡単なやり方は、外で使われているアイテムを内に持ち込むこと。例えば、土間。例えば、木。ここ何年かよく見られるのが室内に木を植えること。そこで人の意識と建築との間でズレをつくる。

いまのところ木を植えるつもりはないが、土間を取り入れようかと考えている。土間はすでに内においても一般的なアイテムだが、木を植えるより、まだまだ可能性があると考えている。

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状況をつくりだす

実体より尾ひれにあたる部分に惑わされてしまう。実際は尾ひれがつくりだす状況をみて判断している。正確には実体はどうでもよく、状況が支配している。状況をコントロールすることですべての印象が決まる。

実体には大差がない。なのに実体に目を向けようとばかりしてしまうし、状況によって実体までもより良くみえる。実体に大差がなく、状況ですべての印象が決まるのならば、状況をつくりだすことだけに専念すればいい。

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必要な物

言葉をつくして物について語っても物そのものには届かない。言葉は飾りもので、言葉を使う側がもっている物の輪郭には迫れるかもしれないが、それは物そのものとはちがう。きっと物そのものはまた別にそれだけ存在しているのかもしれない。

そうすると希望がある。大概の人が惑わされるのは、物そのものではなくて、物について語っている言葉だからだ。言葉が物そのものだと勘違いをしている。

物のそのものが別に存在しているならば、いまからでもそれにアクセスすればいい。きっと物について語っている言葉がばかばかしくおもえて、必要な物がわかるだろう。

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意識の外まで

すべてを人の意識のおよぶ範囲だけで考えていたら、観念的にしか物をみることができない。意識のおよばないところにも物は存在していると考えることができたら、物に対する表現の可能性が広がるとおもう。

人の意識のおよぶ範囲だけで考えるのか、意識の外までおよぶのか、どちらが正しいのかの判断はとりあえず保留しても、意識の外までを範囲にした方がいろいろ考えられて楽しいことだけは確かだから、意識の外まで考えてみようとおもう。

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両義的な全体

大きな物を分割して全体を構成するのか、小さな物を連続させて全体を構成するのか、要するにトップダウンかボトムアップかによって構成される全体はちがってくる。

建築の場合、トップダウン、すなわち、全体から細部へ向かう全体性が問われてきた。ただ、細部に注目する流れもある。その中間はないのだろうか。トップダウンでもあり、ボトムアップでもあるような、両義的な全体性は存在しないのだろうか、いまの関心事である。

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物それ自体に固執するとき

オブジェクト指向で物を考えると、物同士の関係性が全体をつくるが、あくまでも焦点は物にあたっているので、物がどうであるかが大事で、物を起点に全体を考えることができるので、重箱の隅をつつくような、物それ自体に固執するような行為が許されて面白い。

結局は物づくりをしているので、理屈を超えた一見どうでもいいようなことに、それがまわりから理解されなくても、そこに突き進むような行為がしたくて仕方がない衝動がおきる。変な話だが、それがある程度許されるような理屈がほしいときに重宝する。

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空間をつむぐ

空間をつむぐように連ねてみると、空間が流動的になるかもしれない。壁で仕切られ連続していく空間だと、壁が接着面であると同時に切断面でもあり、壁があることにより空間が流動的にはならない。

空間をつむぐようにとは、壁で仕切りながら連続していくのではなく、空間を空間で仕切りながら連続させていくことで、特に仕切るための空間を用意するわけではなく、全ての空間が仕切る役目にもなるということで、そこが流動性につながる。

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思いつきの連続

ルールははじめから決められていると窮屈なときもある。たぶんそれは現状とあっていないから違和感を感じているのだろう。ただ、ルール自体はほしい。ないと困る。厄介である。もしかしたら、ルールの内容が問題なのではなく、ルールを決めるタイミングが悪いのかもしれない。

はじめに決めるとモレもでるだろう。モレが違和感の原因かもしれない。想定外のことも起きるだろう。普段ならば想定外のことがあっても、それはそれでおもしろいがルール上は困る。ならば、あとからルール自体を修正や編集ができるようにすればいいのだが、修正や編集ができないこともあるかもしれない。

あとからルールを決めてみる。最初にはルールがない。思いつきの連続である。はじめから、辻褄があわない、おかしい、きちんとしないかもしれない。ただ、ルールがないから、辻褄があわないのか、おかしいのか、きちんとしていないのかがわからない。あとで、最後にすべてを包括するようにルールを決めてやれば、辻褄があっていて、おかしくなく、きちんとしていたことになる。それに、はじめの思いつきの連続がたのしそう。

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あとからルールつくる

並べていくと、最初にルールを決めるのか、あとから並んだところを見てルールを決めるのとでは全然ちがう。

最初にルールを決めることは、全体を俯瞰し細部にわたってルールを徹底できるかもしれない。しかし、上手くいくものだろうか。全体を俯瞰してのルールづくりは上手くいくことが前提である。それに比べて、あとから見て決める方は結果にルールを見つけるので、そのルールの再現性は高く、破綻することなく、現実的である。

どちらがいいということはないと思うが、こうなったことに対して、受け入れつつ、そこで修正でき、展開できることは多くの場面で役に立ちそうな気がする。

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ズレを利用

外にいるのか内にいるのかを迷うのは意識の中でズレがあるからで、建築の見え方が意識とズレている証拠である。本来は意識のズレを修正するべきなのだろうが、そのズレをマイナスととらえずに、そのズレをプラスに利用してみようとおもう。

外か内かの意識のズレはふつうにおこることである。たとえば、大きな建築のなかで連続して空間移動しているときなど、知らないうちに外へ出ていたり、内なのにあまりにも天井が高くて外だと感じたりして、意識にズレが生じる。

そのズレは意識の混乱を招くかもしれないが、同時に意識に引っかかりをつくることにもなる。建築を構想する側はこの引っかかりこそ一番求めていることである。それは言葉が先に思い浮かぶ建築ではムリなことかもしれない。

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2つの内

外から帰ってきてとホッとするのは自分の家だから。この当たりまえのことの中に「内」のおもしろさがあるとおもう。建築の外か内かのちがいに人の意識が対応している。たぶん、人の意識の中では、外と内の建築にちがいを感じている。ただし、その建築のちがいは、建築自体のちがいでは無いとおもう。たとえ、建築自体が外も内も全く同じ仕上げで同じように見えたとしても、人の意識は外と内を区別し、建築にちがいを感じるだろう。

この場合、外よりも「内」に可能性を感じる。内に対する人の意識が2つ同時に存在し、そこに暮らしが重なる。現代建築が苦手とする生活感が人の2つの意識を通して建築と絡む。2つの意識は建築でありきで存在するからデザインで影響を与えることもできるだろう。生活感とのちょうどいい距離がとれそうな気がする。

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感覚は有効

そこに何を置くかは何によって決まるか。理屈、真理、理論か、それとも感覚か。感覚だとしてみよう。感覚だけが唯一すべての人がもっている。理屈、真理、理論はもっていない人の方が多い。だから、理屈、真理、理論で置いても共感できる人がそもそも少ない。

では、感覚はどうだろうか。同じ感覚でないと共感できないだろうか。同じでなくても共鳴をさせることはできるだろう。たぶん、感覚の方がさまざまな解釈が入りこむ余地が生まれるからレンジが広い。感覚という曖昧さが、かえって何かを決めるときには有効なのかもしれない。

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境界線に言葉

図面を上から俯瞰して手を入れたくなるのは境界線であり、その境界線の内と外でのちがいを言葉で入れてみる。言葉はひとり歩きしやすいから、そこから今までとはちがった展開を期待してしまう。

境界線と言葉を入れながら、同時にかんがえているのは人への影響である。人のこころに響くだろうか、何を想うだろうか。建築によって何かがかわると思わないが、ゆさぶることはしてみたい。言葉は直接届けられないが、境界線は目にすることができるので、境界線上で何が表現できるか。

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タネが生みだすちがい

遠くから見たときに、どう見えるか、を考えている。遠くから見るためには、遠くから見えなくてはならない。なるべく遠くから見えるように配置してみる。遠くから見えるためには、なるべく高い方がいいかもしれない。なるべく高くしてみる。遠くから見えるためには、まわりと区別できるようにした方がいいかもしれない。なるべく目立つようにしてみる。

配置する、高くする、目立つ、それぞれは別の要素だが、目的はひとつ。アプローチはいろいろある。アプローチを組み替える、強弱をつける、などして少し変えれば、できあがるものも変わるだろう。何でもないことが今までと違ったものをつくりだすタネになるかもしれない。

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光の形に省エネ

建築は光に形を与えることができる。最近、光の形をつくるような建築を見ない。きっと、そのようなことが求めらていないからだろう。

しかし、近年、省エネのために太陽の光は注目されている。ただ、そこでは光の形など関係ない。もう少し、光の捉え方を変えてみたらどうだろうか。光に形を与えることにより省エネにならないだろうか。

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光のフォルムとマテリアル

窓はひとを感動させる。正確にいうと、窓から入る光がひとの感情をゆさぶる。もし、空間に光が差し込まなかったら、建築で感情をゆさぶる要素は装飾だけかもしれない。だから、光は感情をゆさぶる装飾ともいえる。

建築でひとの感情をゆさぶりたい。だから、光は重要な要素であり、光の扱いが重要なデザインである。光をそのまま導くのか、それとも、何かを媒介させるのか。きっと何かを媒介させることで、光にフォルムやマテリアルを与えることができる。光でひとの感情をゆさぶるには、媒介による装飾としてのフォルムやマテリアルが必要だとかんがえている。

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土間という場所

土間って不思議な魅力がある。こどもの頃住んでいた家には土間があった。そこには井戸があり、風呂を薪で焚きつけるための窯もあった。外でもなく、内でもない場所、土間という場所。

まわりと関連づけることもできるけど、独立してそこだけに存在している場所。中間領域だが、絶対的な領域でもある。まさしく土間という言葉でしか形容できない。そのような空間をつくりたいといつもおもう。

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両極端の間

間に存在するものは両端の特性を持つ可能性がある。空間という言葉にも「間」が入る。それは空間も両極端な何かと何かの特性を同時に持つことができる可能性を秘めている。ではそれはどのような特性だろうか。

もっとも簡単にすぐに思いつくものは、内部と外部という両極端な特性だろう。空間という捉え方をしたら同じだが、内部空間と外部空間に分けて捉えたら特性の差が生まれる。その差に焦点を当てれば、半屋内空間と半屋外空間が生まれる。

では、さらに半屋内空間と半屋外空間の差に注目したらどうなるだろうか。もっとちがった空間の捉え方や展開ができるかもしれない。

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バラバラでもなく固まりでもなく

バラバラと配置するよりも固まりの方が中にさまざまなものを包括できる。バラバラだとそこに関係性が生まれ、その関係性がまたひとつのフォルムを生むかもしれないが、バラバラであることで単体の価値の総和でしかない。固まりであれば、さまざまなものの価値の総和に加え、掛け合わせてひとつにもできる。

ただ、バラバラか固まりかのどちらでも無い状態がつくれたら、両方の良さを合わせ持つこともできるかもしれない。さまざまなものの価値の総和、掛け合わせと関係性による新たな価値やフォルムがちがった見え方を醸しだすかもしれない。

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役割を外していく

担っている役割をひとつずつ外して、そのものが持っている特徴だけに焦点を当てると、意外と別のイメージができたりしないかと考えてみた。

役割を担わせるためにつくられたものもあるけれど、後から役割を担ったものもある。案外、大事でもないのに外すことができない、と思い込んでいるものもありそうな気がする。

建築の部位にも、そのようなものがたくさんありそうであり、窓はそれの最たるものかもしれない。

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窓を解放する

なんとかの窓、というように、しばしば窓はつなぎ役の最前線の役目をする。ただ窓は建築に属する部位だから、つなぎ役以外の役目も担っている。窓の空け方も位置も大きさも、なにかしらの要望や制約による。窓自体が単独で自律することは普通は無い。

だから、窓を自律的に単体で考えてみようとおもう。逆に、全てのことを窓に合わせてもらう。そうすることで、窓がつなぎ役やその他の役目から解放される。解放された窓はきっとそれだけで存在感をだすだろう。

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狭窄した窓とみどり

開口部がないところに木や緑を配しても意味がない。開口部でセットでかんがえてみると、その関係性だけで建築が成り立つかもしれないとおもった。

自律性を高めて建築だけ単体で考える。または、環境に呼応して他律的に建築を考える。いずれも建築を全体的に捉えようとする。もう少し狭窄させて、開口部、すなわち、窓と木や緑の関係性だけで、そこから外へ内へと派生するように建築と環境がじょじょに形づくられていくのも、遊び心があって面白いような気がした。とりあえずためしてみる。

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都市部のみどり

緑がほしい、できれば木を植えたいとおもうと、まず場所を確保するだろう。その場所は緑や木の生育にとっていい場所で、人目に触れる場所を選ぶ。ただ、緑や木が単独で自律的に存在するよりは、人と関わる、建築と関わるようにしたい。

都市部で建築する場合、広い空地を確保することがむずかしく、緑や木と建築や人との距離が近くなる。どうしても緑や木は自然の中にあるものだから、広い空地に緑や木を配したいとおもうし、狭い場所では窮屈だと勝手におもってしまう。

都市部には都市部なりの緑や木の配し方があるのだろう。建築に寄生させるのもおもしろいが、もっと別の方法をかんがえよう。

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窓から進める

建築をみるとき、最初に開口部に目がいく。いわゆる窓があるから建築だとおもう。だから、窓にはその建築の意味や状況などがあらわれる。その建築が何なのか、住宅か、事務所か、マンションか、商業ビルかがわかる。だから、窓から先にかんがえてみたらどうなるか。

窓の位置や大きさが先にあり、その窓の状態に合わせて建築の側や中身がつくられていく。いつもとは逆の進め方になる。でも案外、理にかなっているかもしれない、窓ひとつ開けるにも苦労する都市部では。

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環境をリビルド

環境はもともとそこにあり、その環境に合わせて何かをつくる。ものをつくる場合の順序ははじめに環境がある。自律した何かをつくる場合でも、自律したものをつくることができる環境が必要である。この場合、環境には2通りの意味があり、建築では外部の環境と状況の環境である。

外部には合わせてつくるが、状況は創造できる余地がある。自律は状況の中でつくることができる。外部としての環境に新たな状況としての環境を重ね合わせれば、外部の環境を書き換えることもできるかもしれない。すなわち、環境から導き出されたことをもとにして、また再度環境にたち返り、環境をリビルドしてしまうのである。

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