現れない

そこにあるモノが自分と関係があるかないかを決めるのは、そこにあるモノがあることによって自分が成り立つ状況かどうかであり、そうすると自分が成り立つために必要なモノはとても限られるかもしれない。無くも自分が成り立つならば、それは無くてもいい。

そう意識すると、モノの現れ方も変わるかもしれない。そもそも関係がないモノは現れなくなる。

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揺さぶるには

目の前に現れるモノが予測とはちがうとき、当然人は感情を揺さぶられる。予測は過去の経験や知識などからくるが、それは目の前に現れるモノが必ず自分と何か関わり合いがあることが前提になっている。だから、関わり合いがはじめから何も無いと思うモノに感情は揺さぶられない。

ならば、関わり合いの有無が感情の振幅に関係があることになり、モノそのものがどうかより、そのモノとの関係が有るかどうかがまず感情を揺さぶるための第一歩になる。

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現れ方

人の感情を揺さぶるようなモノはどういうモノだろうか。モノそのものとしては案外わかりやすく存在するものかもしれない。モノそのものなら案外容易く人は感情を揺さぶられるかもしれない。ただし、その振幅は人によるかもしれないが。

もう少し別の見方をすると、モノそのものではなくて、モノの現れ方だけでも人の感情を揺さぶるだろう。モノそのものはいろいろな要件が絡んでコントロールがむずかしくなることもあるが、現れ方は相対的に取り扱うことができるから、モノそのものとは関係がないところでコントロールすることもできる。

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隠蔽ではなく

建て替えにあたって、一度解体したモノを再利用しようと考えている。ただ単に古材を使うということばかりではなく、そこに古材が持っている時間の要素をはさみ込み、新たに現れるモノが見た目ですべてを語らないようにしようと考えた。

見た目ですべてを語るようにわかりやすくつくることは大事だが、ときにもっと大事なことを隠蔽してしまうような気がする。隠蔽するのではなく、どのように現すかがデザインだとおもう。

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退隠

目の前にあるものがそのままありのままを表していないとしたら、それは何かが退隠している証拠であり、それをどうするか、そこに可能性があるのではないか、などと考えてしまう。

そもそもデザインや設計は退隠しているものを相手にするものと考えているので、むしろそこに焦点を合わせたい。

ではなぜ退隠しているのだろうか?何が退隠しているかより、なぜ退隠しているかの方が大事かもしれない。なぜがわかれば、何を退隠させて何を表に出すが自由自在にできる。まさにそれがデザインや設計だとおもう。

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根拠

ものの配置はどうやって決まるのだろう。当然そこには明確な根拠があるだろうし、欲しい。その根拠を求めて右往左往する。

根拠がないとダメなのかと稚拙なことをおもってみる。別に根拠が無くてもいくらでもできることは確認できる。ただ根拠が欲しいとはおもう。

ならば後から結果を見ながら根拠をつくればいい。それで何か不都合があるだろうか。

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熱量

熱量のあるものに惹かれることが多いような気がする。巧みで素晴らしいものには当然惹かれるけれども、何か稚拙でもものすごく熱量のあるものの良さは巧みさや素晴らしさを軽々こえてしまうような気がする。

ものの良し悪しにはさまざまな尺度はあるだろうが、そのものがヒトの心に何か作用するときに必要なことはどれだけの熱量がそこにこめられているか。熱量を感じない巧みさは惹かれても印象に残らない。

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状況がつくる

別々のものだと認識するときは、そこにつながりがないからであるが、全くのバラバラでは、そもそも別々だとすら考えないのではとおもう。

だから、別々のものとして単独で存在しているときは、単独が成り立つバラバラという状況がつくられているのではないか。要するに、ものがそもそもどうであるかはこじつけで、その前に決まっているということだろう。

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細部の存在感

上から俯瞰してかんがえると全体がよく見渡せて、細部から見ていくと全体がわからなくなるようなことを、木を見て森を見ず、などといったりするが、建築では、ディテールに神が宿る、などという言葉もある。

細部に全体を超越するようなものがある、というような解釈だと捉えているが、全体が規則正しく整えられていることも大事だが、細部の他を圧倒するような存在感はそれだけで全体の価値を上回るのかもしれない。

そうかんがえると、ひとつひとつの細部はそれだけでひとつの全体を成し別々に存在していて、その間には何もつながりがなくてもいいことになる。なんとく面白い感じがする。

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古くても新鮮

新しさの中に古さを混ぜるとどうなるだろうか。古くても新鮮、という一見矛盾するようなことが起きるのではないかと考えている。

ものの新しさや古さは価値に直結する訳ではなく、その使い方が価値を生み出すのではないかとおもうから、混ぜるという使い方に可能性をみいだす。

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楽しいイメージ

楽しいイメージは持ちたいし、それを具現化したい。たくさん建築空間を見てくると、だんだんと当たり前になってきて、ただ美しい、ただ素晴らしい、ただただ良いだけでは頭が満足しなくなる。

何でもそうかもしれないが、頭がいくら満足していても心が満たされなければ、ただただ虚しいだけ。それなのに、頭で満足しようとしてしまう。

心を満たすために頭を使うのが一番良いのに、心を先にすることを忘れてしまう。そうすると、どうでもいいことで代わりに心を満たそうして余計に虚しくなる。自戒して気をつける。

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見たい欲求

自分が見ている物がその物のすべてでは無く、自分の都合とは関係無いところで、他の物との関係の中でその物が成り立っている部分があり、そこは自分では見ることができない、とハイデガーはいう。

物をつくるとき、たしかに、すべてを見せたいと考えることは無い。むしろ核心は隠したいと考える。そうしないと、建築が使えないような気がするからで、どこか核心の部分、すなわち、その建築の存在理由のようなものが見てわかるようだといやらしい、そう使えと命令しているようで。

建築が使うためにある物で、それが唯一、建築だと見える理由だと考えているならば、使い方をこちらの思い通りにコントロールしたいところだろう。ただ逆に、想定した使い方以外を見てみたいと完成後は考えてしまう。すなわち、それがハイデガーの見ることができない部分であり、見ることができない物を見たい欲求ほど強いものは無い。

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感じることはコントロールできない

感覚だけで捉えてみるとおもしろいかもしれない。たとえば、そこは広いのか狭いのか、実際の広さは関係なく、広く感じるのか、狭く感じるのか。感覚が実際とちがっていてもいい。むしろ感覚が実際と違うようにできたらおもしろい。

考えることはコントロールできるかもしれないが、感じることはコントロールできない。勝手に考えないようにすることはできるが、勝手に感じないようにすることは不可能である。それだけ自身で感じることの全てをコントロールすることはできないから、そこにデザインで関わることができる余地がある。

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矛盾するイメージ

言葉とイメージはどちらが先かと時々考えることがある。結果的にはいつも、どちらが先でも構わない、となる。実際には曖昧だとおもう。説明するのに言葉を使うからイメージと分けてしまうが頭のなかでは区別がないだろう。だから、言葉では矛盾するようなイメージができるのだとおもう。

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宝さがし

よいイメージを連続して見ていくと残像が重なり合い、共通点だけが鮮明に浮かび上がり、その他の部分は曖昧な靄のなかに埋却していく。普通はそこで鮮明な部分だけに注目していくのだろうが、埋却していくものをすくい上げることに興味がある。

もし埋却したものの中にしか現れないものがあるとしたら、それこそ次につながる可能性の種ではないかと思う。そのようなものを見つけようとする行為は宝さがしのようでおもしろい。

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雑多のなかでイメージ

日常に埋もれたままではいいイメージはできない、などとどこかで思っていたりするかもしれない。雑多のなかでは、イメージ創出に専念できないと思うからである。

たしかにそうかもしれないが、雑多のなかでしかできないイメージもあるかもしれない。どちらがいいわけではないだろう。ある程度、気が散らないといろいろな所に意識がいかないので、イメージするときは集中するより気が散っている方がいいともいわれる。

雑多でしかできないイメージ、ってどんな感じか興味がある。

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イメージする楽しさ

たくさんのイメージの中からどれを選択するか。基本的にイメージは自分だけのものであり、コントロールできる場合もあるし、無意識に浮かびコントロールできない場合もある。

コントロールしたら恣意的になり過ぎることもあるかもしれないが、恣意的なイメージほど本人は楽しい。この楽しさを誰かに伝えたいと思うことがでデザインすることのモチベーションにもなる。

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原風景がヒント

原風景がイメージのヒントになることはよくきく。原風景はもっとも強い記憶かもしれない。他の人にとっては何でもない風景かもしれないが、そこに紐付けられたものすべてがその人にとって貴重なものになる。きっとそれがイメージのヒントになるのだろう。

では原風景はその人のものだけだろうか。人の潜在意識は深いところで繋がっているともいわれている。原風景も潜在意識に根ざしていると考えられるので、原風景にも繋がりを見いだすことができるだろう。だから、自らの原風景をイメージのヒントにしても、そのイメージに対して共感をえることができる。

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記憶か

イメージやシーンを描くとき、人は記憶を頼りにしているのだろうか。記憶を頼りにしているとした方がもっともらしいし、安心するかもしれない。記憶すなわち体験がなければイメージやシーンを描けないとした方がいいイメージやシーンを描くための学習の方法が明確になる。

しかしときに、到底体験できないようなイメージやシーンにあたることもある。だから、記憶を頼りにしているだけではないとして、ではなに、と探すこともおもしろいかもしれない。

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イメージやシーンを描く

建築はイメージやシーンの積み重ね、張り合わせ、つなぎ合わせでできていると考えている。どのイメージやシーンを積み重ね、張り合わせ、つなぎ合わせて空間をつくるか考えるのが楽しい。すきにイメージすればいいし、すきにシーンをつくればいい。そこに制限はないから、普段から妄想して遊んでみてもおもしろい。イメージやシーンに人を登場させるとよりおもしろいかもしれない。

きっとそうやってできた建築や空間は馴染みが良いような気がする。建築や空間を体験する方もイメージやシーンを描きながら体験するので、素直に建築や空間を受け入れやすくなる。

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窓はマテリアル

窓とマテリアルに関係性はあるのか。前から頭の片隅にあったのだが、窓も遠目から見たら壁のマテリアルのひとつである。窓を開口部として見るのではなく、マテリアルとして見た場合にどうなるか。

マテリアルとしての窓はつねに不確実な要素であり、自分ではすべてをコントロールできない。もしかしたら、それが窓の最大の魅力かもしれない。不確実な要素の原因のひとつに時間があるだろう。時間によって窓の景色、すなわちマテリアルが変化する。景色をマテリアルと捉えたらデザインの幅も広がるかもしれない。

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人が通る窓が大切

たとえば窓があると、陽をいれる、風をとおす、外をみる、などの窓でできることにそって行動する。窓は行動のきっかけをくれる存在である。だから、窓と何かを紐付けることで行動をコントロールできるかもしれない。建築は人の行動をコントロールするものとしたら、窓は大事なファクターである。

窓は空間を制限する。窓の大きさは空間に特性をあたえる。窓には2種類ある。人が通る窓と人が通らない窓。人が通る窓の方がコントロールできることがたくさん増えるような気がする。ひとつの住宅に人が通ることができる窓は案外少ない。だから、より人が通る窓は大切である。ただ単に出入りするだけではもったいない。そこはデザインしがいのある領域である。

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見え方が手がかり

そこからどう見えるか、ただそれだけを手がかりに空間を構築してみようとおもう。

1本の木を植える。その周り360度それぞれ違う見え方をする。その見え方を最大限いかすように空間をつくってみる。

木との関係性のバリエーションが空間のバリエーションになる。空間を選ぶときには木の見え方が手がかりになる。

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見え方の差異

ひとつのものをあらゆる方向から見てみる。見え方は四方八方に存在する。さらに、それぞれの見え方は全てちがう。それらの見え方は独立して存在し、元のものもまた存在している。

そこが面白い。普通はあるひとつの見え方だけを取り出して見ているが、その他の見え方の方がたくさん存在し、なおかつ、他に元のものも存在しているから、またそこにも見え方がある。

ひとつのものの中にあるたくさんの見え方の差異を拾いあつめるだけで、空間ができるような気がした。

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部材の時

部材には時が宿っている。よく解体された古民家の柱や梁などを持ってきて内装の部材で使ったお店などをみる。確かに部材自体は太かったりして立派だが、部材自体は元の古民家があった地域で一般的に誰でも手に入れることができるものだから、特別に良いものでもない。

そこの風土に合った生活と共に長年存在していた古民家の価値が部材には宿っており、それは長い時を経たからであり、昨日今日つくった建築には絶対にないものである。

部材に宿る時は、部材が新たに使われた場所で解き放たれる。そのような時は他の方法では得ることができない。それは現代建築にはじめから欠けているものでもある。

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部材使い

部材の使い方ってむずかしいし、ひと真似できてしまうから、考えないのかな、という場面に出会うと、もったいないな、面白いのに、と思う。

そこにはそこだけの可能性がある。建築のタイプというか、目指している方向が違えば、確かに部材の使い方はワンパターンでもいい、そこに注力する必要がないときもある。

ただ、部材の使い方に時間を閉じ込めることもできるし、人とコミュニケーションする道具にもなる。部材の使い方は奥が深いといつも思う。

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朽ちさせる

部材はもつ、といつもおもう。建築はスクラップアンドビルドが基本、最近はそうでもないが、真っさらにしてハイ次どうするか。

それについての良し悪しには興味はないが、物の行方には興味がある。生産され、加工され、形を与えられ、そして朽ちていく。スクラップアンドビルトは形を与えられて終わってしまう。形あるものいつかは朽ちるのに、朽ちることをさせない。みな、省エネもはじめの生産ばかりに注力してる。身近で誰でもできることは朽ちさせることではないかといつもおもう。

建築がスクラップになるとき、すべてが必要なくなるわけではないの真っさらにしてしまう。部材はつかえる。部材に新たなに形を与えればいい。そうしたら、また朽ちさせることができる。

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地に注力

地と図にわけて考えてみると、図は感覚的な対象としてとらえることができるが、地は埋没していてすぐにはとれえ所がないかもしれない。別のいい方をすれば、図は直接あつかうことができるが、地は直接にはあつかえない。だから、一所懸命、図についてあれこれと考えるのだが、図は地があって浮かび上がるものと考えれば、地についても同じかそれ以上の注力が必要だろう。

地の中で一般的なもののひとつに環境がある。建築の場合、環境はどうにも動かせないもの、どうにも触れられないものとして与えられることが多い。ただ、すべては無理だとしても、ある特定の状況を設定するなどすれば、限定的だが環境について触ることもできるかもしれない。その状況の設定は建築をつくる側でできる。ある特定の状況設定には良し悪しがありそうだが、そこで社会に対しても貢献できる可能性を秘めている。

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シンボルが指標

シンボルツリーの周りに空間をつくるとき、シンボルツリーの見え方のちがい、見せ方のちがいで空間にバリエーションを持たせようと考えてみた。空間を選ぶ基準にもなる。

いくつか空間があるとき、ちがいはどのようにつくられるのだろうか。少なくとも各々の場所はちがう。場所がちがえば環境も変わる。環境のちがいを表すには何か指標が必要である。

シンボルツリーに対する見え方のちがい、見せ方のちがいが環境のちがいを表すための指標になると考えてみた。

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