たいせつなズレ

ズレにたいして、いつも戸惑いや嫌悪感、違和感をかんじる。別に、そのようなことは、当たり前のこととか、よくあることとか、気にすることではない、などとして、偽ったり、誤魔化したり、無いことにすることはできる。普通は、ズレがあると不安だから、なおさらだろう。

案外、ズレはヒントかもしれない、とおもった。ズレには教えてもらえることがある、とおもえれば、そこから何かが発見できそうだ。

ズレの中をのぞけば、いいもの、が見つかるかもしれない。でも、のぞくのはこわい。寝た子をおこすことになるかもしれないから。

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おもいつきは妄想

最初におもいつくアイデアはいつも妄想ではないか、とおもってみた。だいたい、好き勝手なことをおもい巡らす。それは、いつも、現実的ではないかもしれない。その時間はとても楽しいが、それではまとまらないから、現実に合わせる。その合わせ方に焦点をあててみる。

妄想ともおもえる初期のアイデアを分解してみる。複数の要素にわかれるだろう。その要素ごとに独立してかんがえ、現実に合わせるために、要素を入れかえたり、変化させたりする。各要素ひとつだけで全体を表すことはないが、すべての要素があつまれば、全体がみえてくる。

だから、各要素ごとに変えたり、変えなかったり、どのように変えるかで全体をコントロールしていく。そうすることで、妄想のおもしろは残しつつ、実際に立ちあがる建築が生まれる。

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ひとつより複数がいい

強い考えがあって、それにそって、何かを決めていく。きっと、そうしたい、と思い、全てをひとつの強い考えで満たしたい、と思う。それは、芯があって、理想的なことかもしれない。別の言い方をすれば、それは、型、かもしれない。

強い型をもつことは、何にでも有効だろう。それにそうだけでいいから。ただ、そもそも型とは、決まったひとつのことに対応するためのものだから、強くなればなるほど、ちょっとの変化にも対応できなくなる。

最近思うのは、強い型では対応できないことが多いのではないか、ということ。型にはまればいいが、そんな、ひとつのことで済む、ような場面はなかなか無い。

だから、ひとつに対応するための型よりは、強くなくてもいいから、複数に柔軟に対応できる方がいい。それはもはや、型、と言えるような全体性は有しないかもしれない。もっと、個別の、その中では完結しているけれど、決してそれは全体を表すことでは無いような、そして、それが複数あることによってはじめて、全体がわるような、そのようなものがあれば、その方がいいような気がする。

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妄想から現実へ

ひとつの世界観で表現できるような、きらびやかな世界がユートピアであり、それは憧れであり、よく見聞きした建築は、みな、そのようなユートピアだった。だから、ユートピア的な建築をつくりたい、とおもう気持ちはいつもどこかにある。しかし、それは妄想だろう、という気持ちもいつもどこかにある。

ひとつの世界観でスパッときれるほど、この世界は単純ではない。やはり妄想でしかない建築のイメージをどうしたら現実の世界にフィットさせることができるのか。

フィットさせるためには、どこかで妄想を切り離し、別のものとつなげる必要がある。その別のものはひとつではなく、複数かもしれない。複数のものがそれぞれ別の世界観をもち、かつ同時に共存するような状況が、妄想ではなくなる瞬間かもしれない。

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第三の目

見慣れた風景だと、あたまの中には自然とイメージがうかぶが、そのイメージは、見慣れたものであるがゆえに、他の要素が入りこむ余地がない。だから、他の視点で見直すことがむずかしい。

いまおこなっているプロジェクトは、まさにそうで、だから、はじめから第三者の視点が持てるように、意見をその都度きける人をお願いしている。

そうすると、やはり、見ている視点が微妙にちがう。ただ、それは言われないと気づかないことかもしれない。慣れていることほど、第三の目は必要かもしれない。

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見通しのなかのおもしろさ

いつものことで、こうすればいい、と見通しがたっていても、それではつまらない、とおもうと、なかなか、行動できない。つまらない、とおもうならば、おもしろくなる、ようにすればいいのだが、見通しの良さ、に引っ張られる。

ならば、その見通しの良さはそのままに、おもしろくなる要素をつけ加えれば良いのだが、何か後づけのような気がして、すすまない。

いま一度、最初にもどって、何がしたかったか、をかんがえる。そうすると、その見通しのなかに、おもしろくなる可能性をみい出せるかな。

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壊すより利用

スクラップ、アンド、ビルトにより成り立つ建設業界なので、街を歩けば、結構な頻度で、建物を解体をしているところに出会う。そのたびに、建築はモノだな、壊すのは簡単だな、とかおもい、解体しているときにしか見ることができない建築の姿をながめる。

伊勢神宮の式年遷宮のように、解体しても、またその部材を他で再利用するならば、解体することに対する罪悪感みたいなものは生まれないのかもしれないが、解体は、それまでの記憶や、積み重ねた時間や、見慣れた風景を切断して、膨大な廃棄物に変えるだけである。

ただ、見ようによっては、解体される建築には、さまざまな記憶や時間、風景がつまっていることになるので、それは貴重な財産である。活かしかたがわかれば、解体するより利用することを皆えらぶだろう。

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空間の捉えかた

空間、とひとくちにいっても、ひとことでは済まない。さまざまな角度から捉えることができるものである。

概念的に説明するもの、経験することによりわかるもの、客観的に距離や大きさなどの数値であらわすもの、身体をとおしてわかるもの、心的で人の内面にうかぶもの、など。

空間をどのように捉えるか、によって表現されるものがまったくちがってくる。だから、表現することよりも、どのように捉えるか、のほうが重要である。

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体験が切断とつながりをつくる

体験によってすべてをとらえようとするのは、経験主義かもしれないが、あらゆる要素を、体験をとおすことで、ひとつの土俵の上にのせることができる、のは面白いかもしれない。

体験でわかることは、けっこう、たくさんある。例えば、赤い花、があれば、「花」という物も、「赤い」という色も、また、赤い花を見ている「自分」も、体験という土俵の上にのせることができる。

あとは、その土俵をどうするのか。はじめから、どういう土俵かを設定するのか、あとから設定するのか、そもそも「土俵」自体を物としてみて、「花」や「赤い」や「自分」と同じようにあつかうのか。

体験をとおすことで、あらゆる物のつながりを切断することができ、さらに、新たなつながりをつくることができる。そこも面白いところかもしれない。

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妄想はいかすもの

なにかプランをつくるときに、さいしょ、いろいろと妄想をしてしまうが、それを現実に当てはめようとすると、とうぜん、うまくはいかない。

だから、現実に当てはめて、実現できるように、アジャストする。アジャストするときに、どこを変えるのか。もっというと、どこの部分を、どのように、変えると、まえとのつながりを保ちつつ、まったく別のものがあらわれてくるのか、とかんがえてみる。

たんに実現できるだけのアジャストが多いなか、それでは、さいしょ、の妄想がなんの意味をもたなくなる。妄想にこそ、作品性があらわれる。妄想があるから、新しいものに出会える。

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自然の中にいきたいを解く

都市部に暮らしていると、たまに自然の中にいきたくなる。都市の中にも自然はあるから、そこへいけば、気がすむかといえば、そうでもない。自然の中にいくことと、自然があることは、一緒のようで、ちがうということかもしれない。

建築をつくっていると、自然がある、という物質的なことをかんがえる。どこに木を植えるのか、どこに緑をもってくるのか、建築と自然をどのように融合させるのか、親和的にするのか、などをかんがえる。そこをかんがえれば、とりあえず、緑を取り入れ、建築と自然をとりまく諸問題を解決できた、となる。

ただ、さきほどの、自然の中にいきたくなることを、直接解決することになるのだろうか。やはり、自然があることとは別のこととして、かんがえるべきなのだろう。

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心的で物質的な空間

空間があっても、その空間は自分にまとわりついているもので、はじめからそこにあり、意識することがない。しかし、空間をつくろうとすると、囲うことをかんがえ、そこではじめて空間を塊として量で意識する。

塊として量で意識しないと、建築化できないから、囲うための壁や床、天井をかんがえる。ここで、空間をつくることと建築化は、同じことのようにおもえるが、ちがう。

空間をつくることは、空間を認識としてとらえることであり、それは空間という無色透明な水みたいな存在を、何か入れものにいれて、わかるようにすることである。また、建築化とは、壁や床、天井といったエレメントを先に構築し、囲われることにより、空間の形を出現させることである。

どちらも結果的に空間があらわれるが、空間をつくることは内向きで心的なことであり、建築化は物質的である。どちらかというと、心的な空間のとらえ方に共感をおぼえるが、心的なとらえ方をしたあとに、物質的な表現に焦点があうので、建築としての空間には両方の要素が必要で、そこのバランスのとり方やズラしかたが主題になるのだろう、とおもった。

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全体性は妄想

多種多様な情報がいきかうなかで、全体性を描くのは、すでに妄想のような気がする。全体性とはすべてを均等にみたすようなイメージであり、ひとつの方向にもっていって整列させるのは無理がある。

もし全体性を描こうとするのならば、どこかであらかじめ切断でき、またあらたな全体性を描くことができる余地が必要だろう。

そもそも反動的にかんがえて、全体性を描かない、という選択もあるが、それよりは全体性を描くことは固定にして、全体性の中身の構成にたいし、部分的に反動的なものを含めていくほうが、いままでみたことがない全体性を生むことができる可能性があり、おもしろいかもしれない。

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優柔不断で中途半端な表現

ひとつひとつが切断し独立しているわけでもなく、かといって、ひとつひとつがつながっているわけでもなく、その中庸的な在りかたはないだろうか、とかんがえてみる。

独立して自律的に建つだけでなく、つながりながら他律的に建つだけでもなく、自律しつつも、他律的につながるところもある。それは、いっけん、どっちつかずで優柔不断で中途半端、なようにもおもえる。

しかし、自律している部分と他律的につながってところとのちがい、を主題にすれば、その優柔不断で中途半端なさま、それを中庸といってもいいかもしれないが、それが表現になる。

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ただ反動的ではなく

新しさやちがいを、反動的に表現しようとするのは、あんがい、かんたんに思いつく。いわゆる「逆に」というやつである。ただ、たんに反動的では、新しくもなく、ちがいもない。ただ反動的であることは、もとのものの範疇であり、亜流でしかない、とおもう。

もうすこし、分解してかんがえ、一部分は変えないで固定し、その他の部分を誇張して反転させる、などしてみる。そうすれば、ただ反動的であるより、たくさんの異なったパターンが生まれる。その中から、予想もできなかった新しさやちがいが生まれるだろう。

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ちがいを生む不自然さ

こうしたい、ああしたいと、こうする必要がある、こうしなければいけないを、まとめてすべて満たした物が最終の成果物になるのが一般的であるが、それでは、だれがやっても、大体、にたような物にしかならない。

だから、すべて満たした物の先にある、別の物をつくり、あたかも、はじめから目指していた物はこれですよね、と示し、満たすべき物もそもそもこれですよね、と逆に定義しなおすのが、現代建築ではよくあることである。ただ、満たすべき物を変えることができる場合はいいが、もしかしたら、それは珍しいことかもしれない。

別のやり方として、満たすべき物をすべて満たした建築に、さらに手をくわえる。それは、満たすべき物を強調するためであり、それによって、手を加える前と後とでは、満たすべき物がより浮かび上がる。より浮かび上がった状態は、もしかしたら不自然かもしれない。その不自然さが、にたようは物にはならずにさせ、ちがいを生む。ただ、そのちがいの素は、満たすべき物であるから、そのちがいは受けいれやすいだろう。

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細くて強い妄想が必要

これがいい、という確かさをえるには、これでいい、という一般的な了解が必要になるけれど、そもそも、その一般的な了解などが妄想、だということをよくきく。だから、その一般的な了解など存在しないから、それを根拠にして、何かをつくったり、かんがえたりすること自体がおかしいと。

その妄想を、たとえば「ブランディング」というべつの言葉にしたら、わかりやすいかもしれない。ブランディングは、新たにつくる一般的な了解であり、そもそもはじめには何もない、まさに妄想である。ただ、そのブランディングによって、これでいい、という一般的な了解が植えつけられ、これがいい、となる。

具体的に何かが生まれるときには、この一般的な了解は、その生まれたものを受けとる側には必要だろう。ただあまりにも、その一般的な了解が前面にでてくると、その生まれたものがまったくのウソにみえる。

ただ、ウソにみえてもいいもの、みえた方がいいものもある。逆に、ウソはダメなものもある。そのちがいは、一般的な了解のだし方で調整することだろう。受けとる側がいて成立するものならば、調整することが、つくることの一部になる。

建築には、細くて目立たないがしなやかで強い、一般的な了解が必要だとかんがえている。弱いと、建築自体がさまざまなつながりの中で消滅してしまい、ただ強いだけど、建築の存在がウソになる。

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侵食しあう

日常か非日常か、という二項対立では割り切れないところに面白さがあり、もっと日常か非日常かを細分化してながめてみると、観念的で詩的な非日常、現実的な日常とにわかれる、とおもった。きっと割り切れなさは、お互い侵食しあっていて、すっきりとわけられないからだろう。そこに面白さを感じる。

侵食しあえば、観念的で詩的な日常、現実的な非日常とにわかれる。現実的な非日常も、妄想から抜けだした展開がありそうだが、観念的で詩的な日常の方がよりリアルに日常の中に新たな展開がつくれそうな気がした。

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日常的な妄想の世界

かんがえたり、イメージしたりするなかで、妄想はよくしてしまうし、妄想がなにかのヒントになることはよくあるが、妄想の世界をつくり出すことには、まったく面白さを感じない。

妄想の世界は、極端にいえば、何でもありである。この何でもありが、妄想の世界の良し悪しでもあるが、何でもありだから、自由にしていい、何をつくっても、それは妄想だから許される、となってしまうことがつまらない。ようするに、現実的な裏付けがない妄想の世界には興味がわかない、のである。

妄想を別のことばにしたら、非日常的、詩的、観念的などになるかもしれない。非日常的で、詩的で、観念的で、それだけのものならば、興味はわからない。ただ、もし詩的で、観念的でも、日常的であれば、それは現実的な裏付けがある妄想の世界になり、グーッと興味がわいてくる。

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部分の寄せ集めがいい

ここでしか成り立たないこと、にはあまり意味がなく、もう少し引いて、全体を俯瞰して、何か抽象的な全体像や仕組み、イメージをもち、それへ向かって整列するように、ものごとを決めていくことが大事だとおもっていた。

ただちょっと振りかえると、そのような全体像や仕組みやイメージは、妄想にすぎないのではないか、観念的に、詩的に、そういう全体像などをつくり出して、それに酔っているだけではないか、とおもうようになった。

俯瞰せずに、地に足をつけて、平行目線で、間近なものを、周辺をボカシながら、中心にくるものだけをしっかり捉えてみる。そうすると、あまりにも限定的な部分しか相手にできないが、それらは妄想ではなく、それらが複数集まれば、相当の規模にはなるし、ただ、限定的な部分の寄せ集めなので、決して完璧な全体像は表現できないが、それが現実的でいい、とおもった。

部分の寄せ集めと、全体像はちがう。部分の寄せ集めによってできる全体は、俯瞰してわかる全体ともちがう。どちらかというと、部分の寄せ集めによってできる全体は、ここでしかできないことに近いかもしれない。ここでしかできないこと、の方に、ちょっと可能性がみえてきた。

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メインは秘密の暗部

白くて明るい空間がすきだが、一番すきな空間は、人目につかない暗い場所になる。白いのは壁や天井であり、明るさは大きな開口部が満たしてくれる。この白い空間は全てのものに光があたるから、影などなく、全てが見わたせる。この清いくらいの白さと明るさが、生活の中には必要である。

ただ、同じくらいか、それ以上に、人目につかない暗い場所も必要になる。全てが見わたせる白くて明るい空間では、こぼれ落ちてしまうもの、のために人目につかない暗い場所がいる。

いままで、メインは白さと明るさであり、サブとして秘密の暗部で人目につかなさがあった。この関係性を逆転するのもいいかもしれない。秘密の暗部をメインにするのは、あまりにも外の世界が開かれすぎていると感じるからで、逆にそれを感じられなくなるのがこわいので、自分が日ごろ引きこもる場所は、秘密の暗部がいいとおもってしまう。

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四角い丸

つながりはつくりたい、けど、個としていたい、という、いっけん矛盾したこと、は言葉ではいえても、形にはできない、とかんがえてしまう。形にはすぐにむすびつかないけれど、いえてしまうのが言葉のおもしろさ、だとおもう、四角い丸、のような。

ただ、じっさい、四角い丸、をつくれるかもしれない。円柱を横からみればよい。きっと、そのようなことは、誰でもおもいつくが、最初に、言葉があるから、かんがえはじめる。どうでもいいことでも、いっけん有りそうもないこと、をかんがえてみることには価値があり、その時の言葉にも価値がある。

だから、「つながりはつくりたい、けど、個としていたい」も、たとえば、「つながり」がまわりを切断して「個」をつくり出す状況にすればよい。これも言葉だからいえることかもしれないが、少しは形になりそうな雰囲気にはなってきた。

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愛着をすくいとる

建築は時間がたつと、劣化していくし、25年したら価値がゼロになる。かんせいした瞬間からものとしての価値がさがることになる。ただ、時間がたつことで使用者にとっての価値は上づみされていく。それを愛着といっていいかもしれない。いまのシステムでは、この愛着をすくいとることができない。愛着には価値がないとされる。愛着に価値を見いだすには、愛着に価値があるとかんがえる人がひつようになる。

愛着に価値をみいだし、ただ、それをそのまま表現したのでは誰にもつたわらない。誰にでもわかる形に愛着を変換するか、変換した愛着とのつながり方を調整するひつようがある。

愛着というと、なかなか、実体がないものだから、形にしづらいが、愛着をなにかしらのエレメントに変換するか、あるいは、変換したエレメント同士のつながり方で表現するのが、ひとつの方法だとおもう。

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贅沢な古いもの

古いものをのこすことは、贅沢かもしれない。のこすことに価値があるものは、そもそも贅沢なものである。のこすことに、別だん価値はないが、おもい入れのあるものは、のこしたい、とおもう。ただ、のこすにも、場所がひつようであったり、のこすためのメンテナンスがひつようであったりと、つみ上げていくと贅沢なものになる。だから、スクラップアンドビルドで安価にすまそう、となるのだろう。

しかし、古いものをのこして、そのままではなく、その時のやり方で手をくわえれば、古いものでしかつくれない価値が生まれるだろう。それが贅沢である。かけたコストにも、み合うものになるばずだ。

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蓋だけですが

ボディが壊れて、赤絵の蓋だけ、がのこりました。きれいな蓋、では、また、似せて、ボディだけをつくりますか。いや、全く別のボディをあわせちまいしょう。

なんて、そういうやりとりかどうかは知らないが、鉄の燗鍋に赤絵の蓋がついている、のをみた。燗鍋は懐石でもちいる酒つぎのこと。もとは、燗鍋に、共材の鉄の蓋、がついていたのを、赤絵の蓋、にすえ替えたか、赤絵の蓋だけが先にあり、それにあわせて制作されたのか。どちらにしても、茶人のあそび心はおもしろい。

とくに、赤絵の蓋にあわせて、別のボディをつくるのはおもしろい。使用じょうは、蓋の役目さえすればいいから、燗鍋いがいでも、なんでもいいし、元の赤絵の蓋のボディとは、全くちがうもの、にして、落差があって、元のボディが想像できないくらいのほうが、余計におもしろい。

建築でも、ふるい建物の一部分をのこして、新たにつけくわえ、全く別の用途にかえる、ことはよくある。ただ、ここまで、変化のはば、が大きいものはない、ような気がする。どこまでいっても、空間の範疇、建築の範疇から、ぬけ出ることはできないから。ふるい建物の一部分をのこして、空間以外、建築以外、にするのならば、この燗鍋と同じくらい、におもしろいけれど。

そういえば、むかし『北の国から』というドラマで、自動車のスクラップ部品や、古い電話ボックスなど、をつかって、家をつくっていたシーンがあったけれど、あれなどは、この燗鍋と同じ、ようなつくられ方かもしれない。

もちいられるエレメント同士のつながり方や、そこから生まれる全体としてのオブジェクトが、元のエレメントが属していたオブジェクトやつながり方と、全くちがうことでしか表現できない世界があるな、とおもった。

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第3の場所

サードプレイス、という言葉がある。家でもなく、職場でもない場所。そのサードプレイスの重要性や必要性をよくきいた。たしかに、場所の量でいえば、圧倒的に、家や職場よりも多いし、無限に存在するといっていいかもしれない。しかし、その場所にいる時間は、ふつうに生活していたら、家や職場より、圧倒的に少なくなる。サードプレイスが無い人も多いだろう。

サードプレイスが必要で重要な理由は、有限な時間を、より有意義にするため、ときいた。家や職場での時間だけでは、なにかが損なわれてしまうと、感じるからだろう。サードプレイスがあることで、有意義、を担保している。ただそれでは、なにかが損なわれること自体が、かわることはないともおもう。なにも損なわれず、有意義でいること、はできないか。

サードプレイスをつくるにしても、家や職場と並ぶような、別々の扱いもいいけれど、サードプレイスの特色はそのままにして、家や職場とからめてみたらどうだろうか。そうすると、場所の量は、限定的になり、有限になるが、そこにいる時間の量が圧倒的に増える可能性がある。サードプレイスのつくり方によっては、なにも損なわれなくなる可能性すらあるかもしれない。

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メインは外したもの

ふつうに、反動的に、逆張りをするのはおもしろいけれど、ちょっと、たんじゅんすぎて、それでは何もうまれない、とおもった。

なにか、つくろうとしたときに、できれば、よく見るものとか、よくあるもの以外のものを、つくりたいとおもう。そのとき、たんなる逆張りをすると、まったくちがったもの、に見えるけれど、それはたんに裏表の関係にすぎず、けっきょくは亜流でしかない。

いちど切断するひつようがある。よく見るもの、よくあるものが外してしまっていることを見つけ、それをメインにすえる。それは、一見、逆張りのようにおもえるが、同じようなことで近くにあっても、外していることもあり、結果的に、すごくわすがな差にしか見えが、よくあるものではなくなる場合もある。

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特殊から普通へ

まわりからめいかくに区分けされている状況は、それだけが特殊であるが、それが、特殊ではなく普通で通常である、ということがありえるのか、とかんがえてみた。

かんがえるきっかけは、まわりとの違いがめいかくにあらわれている建築を、普通で通常なものとして、つくりたいからである。特殊なものをつくることは、あんがい簡単、なのであり、それはのぞまれないことが多い。

きっとありえるとしたら、一見普通のかっこうをして、まわりとはいっさい関係をもたない、ようにすればよい。一見普通、というのは、よくみれば普通ではないときがあり、つねに普通ではない、普通でいる時間が限られていることで、普通ではないときには、まわりとの関係が切断している。断続的に関係の切断がおこるならば、めいかくにまわりから区分けされる。

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つながりで切断

ただの線だとおもっていたものに、太さをかんじると、それはただの線ではなくなり、太さの中に、さらに別のものをみることができる。

壁をえがいた単線に、太さをかんじると、もっと太く、もっと幅をひろげて、その中になにか入れたくなる。そうすると、線は複数になり、そこに間ができる。そしてまた、線に太さをかんじると、そのくり返しで、間ができていく。そうしてうまれた、いくつかの間は、分割してできた間とちがい、もとは単線だから、つらなり、である。

そのつらなりは同時に、もとは単線だから、なにかを分割することにもなる。それは、つながりが切断した状態をつくりだす、ことである。なんとも、みりょく的なこと、だとおもった。

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境をこえる

境をこえることは、建築ではなかなかできない。いろいろな境があるけれど、土地の境も、隣りとの境としての壁、床、天井も、あたり前だけど、こえられない。ただ、それでおわり、ではなくて、なにかないか、なにか方法はないか、とかんがえてみる。

かんたんにいえば、建築は決められた境の中でしかつくれない。しかも、境は条件として、はじめに与えられるものだから、選べないし、あとから変えられない。もし、境をこえることができれば、なにかちがう表現が可能になるはずだ。

現実的には、境をこえることはできないが、境をこえたような意識や気分、にはさせることができるかもしれない、とおもった。それをかんがえるきっかけになった、因州中井窯のお皿からアナロジーをえよう、とずっとながめていた。

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記号をつかって

お約束ごとがわかると、いちいち説明がなくても、理解できたり、行動できたりする。そのお約束ごとのひとつが記号かもしれない。記号はそれだけでシンプルな意味をまとうから、つかう方も受けとる方も、よけいな物事をはぶくことができ、わかりやすくなる。もしかしたら、記号だけで、かなりのことが表現できるかもしれない。

先日、お能の舞台をみていて、音で展開がなんとなくわかった。この音がした時はこうなる、こうなる前にはこの音がする、など音が記号の役割をして、展開が約束されていた。

建築でもデザイン手法として記号があつかわれていた時期があった。意味をまとう記号をデザインの主題にしていた。ただその後、記号をあつかうことがすたれたのは、記号がまとう意味のつたえ方まで意識されておらず、意味にともなう行動までをデザインの範疇にできていなかったから、と記憶している。お能をみていて、そのことをおもい出した。

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省いて、はぶいて

できるだけ省き、最小限の動き、音、言葉で、意味をつたえるのが、お能、だという。毎回、お能を鑑賞するたびに、気づくことがあり、ちょっとずつ、うすくだけど、かさね塗りするように、自分なりに、お能の理解がすすむ。

省くことで意味をつたえる、というのがおもしろい、とおもう。建築からの視点でかんがえると、モダニズム建築も省くことをおこなった。ただし、それは、それまでの建築が装飾をまとうことで、意味をつたえていたから、建築は意味をつたえるものではない、として装飾を省いた。だから、省くことで意味をつたえるお能はおもしろいと、とくに欧米のひとは、そうおもうかもしれない。

ただ、日本人にとっては、省くことで意味をつたえることは、なんとく感じでも、理解しやすいかもしれない。茶道にしても、花道にしても、道がつく世界では、省いて最小限にして表現することは良い、とされているようにおもうから。

ただ、いつから、省いて最小限にして表現することは良い、となったのだろうか。少なくとも、縄文式土器をみると、装飾することで意味をつたえていた、ようにおもう。その反動からか、弥生式土器には装飾がなくなったが、最小限の良さ、を表現しているのだろうか。たしか、岡本太郎や磯崎新が、縄文式土器と伊勢神宮、弥生式土器と桂離宮を関連づけていた。帰ってからしらべてみよう、っと。

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でるくい

ひとつより二つ、二つより三つ、と増えることの良さは、たんに数や量が増えるだけでなく、ひとまとまりで増えるより、ひとつひとつの間に関係性が生まれること、だとおもう。

この関係性には、ひとつひとつ、が独立して単独であることがひつようであり、まわりと切断しているほうがいい。切断しているから、なににもとらわれずに関係性をきずける。切断は、でるくい、だからできることで、でるくい同士、で関係性をつくれば良い。

それによってできた関係性は、またひとつの、でるくい、になるかもしれない。そうしたら、でるくいだらけで、そんなことはどうでもよくなるだろう。

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無形の財産

それぞれが中心になれるような人たちが、たくさん寄せあつまると、うまくいくのだろうか。ふつうにかんがえると、それぞれが自己主張をして、バラバラ、になり、うまくいかないようにおもってしまう。だから、バラバラにならないようにするか、そもそも、中心になれるような人だけでなく、脇役や、うまくまとめるような人もまぜる。

ただもし、バラバラでも、うまくいく方法があるとしたら、なんだろうか。バラバラにも利点がある、とおもう。ひとりひとりが中心になれるくらいの能力があるのならば、まとまったひとつの集団より、バラバラであるがゆえに、迅速に細かくうごけるから、より広範囲に、よりふかく、ものごとに対処できる、のではないだろうか。

そして、それによってできる、バラバラな人たち同士の関係性が、無形の財産、として価値があるものになるような気がする。きっと、これは、建築でも同じで、そこに関係性に価値がある所以があるのだろう。

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つながりの連鎖

見通しがわるい、ところは不安だから、見通しよくしようとしても、そもそも、どこを見ればいいのか、わからない時って、あるような気がする。見通しをたてる前に、見る方向をさだめたい。

あんがい、見る方向をさだめるほうがむずかしい、とおもう。勘ちがいしたり、まちがったりしてしまう。見通しがわるいのは、見る方向がまちがっている、からかもしれない。

見る方向をさだめるには、さいきんは、つながりを意識している。見る方向をさだめることは、他と切断することになるが、切断したあとは、ちがうつながりができていく。このちがうつながりが、連鎖して生まれるかどうか、が手がかりになる、とおもう。

住宅も同じ、新しく建てることは切断を生む。しかしそのあと、ちがうつながりが連鎖して生まれる、ようにすることで、住宅として成り立つ。そんな連鎖をたくさん起こしたくてはじまったプロジェクトは、切断のあとのつながりが、いたについてきた。

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つきるから

いつも期待は無限にあるように感じてしまう。どこまでもつづくとか、かならずあるとか、ずっととおくまでを範囲に感じる。でも、あたり前だが、無限などありえず、なんでも有限である。

無限だと感じるからできること、を有限だと切りかえたら、でもそこで、今まで、そこまで意識していなかったことに、気づくかもしれない。

なんでも有限、限りがある、としたら、かならず、つきる時がくる。今まで、つきること、を意識してなかったから、そのものの成り立ちなど、どうでもよかったが、つきてしまう、限りがある、有限だとわかったら、とたんに、そのもの自体のこと、が気になりだす。

けっこう、なんでも、有限だとおもうと、なにもしなくても、自然と、いろいろなことに気づいたり、そのものに集中できたり、するのかもしれない。

建築のようなオブジェクトも、有限だとわかっていながら、無限にあるもの、だとおもってしまう。有限をもっと意識したら、関係性などのような、どこまでも無限につづく幻想が、気にならなくなるかもしれない。そもそも、人がつくることができるオブジェクト、は有限だから。

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他のばしょ

日頃から、ひとつのことだけで無く、他のばしょを持つこと、が面白さにつながる、とおもっている。ひとつのことだけをコツコツやる、ことは大事だが、それが2つ以上、たくさんあれば、それ同士の相乗効果も生まれ、ひとつだけでは出せいこと、に遭遇できる。

ひとつひとつには、そのままでは、その内側に、見ることができない部分、があるとおもう。その見ることができない部分は、その内側にいるから、見ることができないのであり、外側に出れば、見ることができる。

だから、他のばしょ、が必要なのであり、その見ることができない部分が、ほんとうは、じぶんがいちばん必要なこと、だったりする。ただ、その場合、他のばしょ、にも同じくらいの比重が必要で、きっと他中心的になるのだろう。

この住宅には、たくさんの、他のばしょ、をつくり、中心をたくさんつくれる、ようにしてみた。そうしたら、暮らしがアクティブになった、とよろこんでる。

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どちらを先にするか

ただ、ただ、形をいじりながら、形のみが、うまくいくように、うまくおさまる、ように置いてみる。その時点で、形は安定して、そこにある。こんどは、そこから、それが置かれるまでに、何をしたか、をかんがえてみる。これを何回かくり返すと、共通のプロセスがうかぶ。

まったくの思いつきで、プロセスをはじめにきめてみる。置かれるものは、同じプロセスならば、まったく同じ形、なるばずである。もし、ちがう形、になるならば、プロセスを調整する。

この2つ、前者は、実践から理論をつくるこころみで、後者は、理論から実践をつくるこころみである。どちらも創造にはなるが、どちらが良いかはなく、創造されるものが実践か理論のちがいである。

今までをかんがえると、実践が先にくるから、創造されるものは、実践してつくられたもの、になるだろう。やはり、実践が先のほうがしっくるくるし、後からの理論づくりは、自分にたいする、気づきにもなる。

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突出したもの

まったく周りから切り離された、そこだけにしかない、建築、はあるだろうか、とかんがえてみた。まわりの環境、となじむことが、良し、とされるから、なかなか、周りから切り離された建築、をイメージできないし、見あたらない。

ただ、森のなかにぽつんとある建築とか、周りが自然だと、あり得るかもしれない。周りが建築と相対するものであれば、可能性はある。

あとは、建築自体が、周りから突出して存在している場合、もかんがえられる。その場合は、都市部のなかでもありえるが、シンボリックで単体、の建築がすぐにイメージできる。

面白そうなのは、都市部のなかで、シンボリックではなく、なおかつ、単体ではなく、周りから切り離されて突出している建築であり、単体ではないとしたら、それは多中心的なものか。いずれにしろ、ちょっと、横にスライドして、かんがえてみる。

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ありがたいひと

前から気になっていたこと、は他のひとからみたら、簡単に、わかるものらしい。ながい間、気にはしていたけど、なにも手をつけなかったこと、をズバリといわれる。やっぱりな、とおもう反面、気にしたこと、はせいかい、だったとわかる。あとは、そこに、手をつければいい。

こういうときは、大概、うまくいくとき、のまえぶれの場合がおおい。気にしてるところは細部で、指摘するほうも、それがわかっている。大枠はいい方向にすすんでいるから、細部をいう。だから、素直にきける。

そのような、ありがたい関係性の人、はだいじであり、いつもこころ強い。じふんもクライアントに対して、そうありたい、とおもう。

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勝手きまま

時間がつながっている、ことと、空間が途ぎれていること、この2つが重要だとおもう。

建築では、とくに、建替えでは、過去そこにあったもの、とは断絶したものができあがり、ただ、そのときの周辺環境、とはつながっている。だから、前とはまったくちがった風景がとつぜん出現する。前そこに、何があったかが思いだせない。

ずっと同じではこまるが、定期的にまったくちがった風景がとつぜん出現するのもこまる。それに、これをくりかえしていくと、どこをみても同じ、というような風景に収束していく。

だから、時間的なつながりは残し、さらに空間が周辺環境とは関係ないところできまるならば、時間は過去現在未来とつながりながら、多様な風景がくりかえし生成されていく。

たのしい街は、あんがい、勝手きままな建築、だらけだ。

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調和は幻想

目のまえにある木と、そこに何かをつくろうとしている人が、関係することで、何かが生まれる、とすると、生まれたものは、木と人の関係性の産物だが、生まれたもの自体は、それはそれで、その関係性とは別のところにいる。

ちがう言い方をすれば、つくるプロセスでは、木と人の関係が必要だが、できて出現してしまえば、関係性が無くても、そこにいることができる。

これが建築の場合、エコロジーの観点からすると、問題になる。できてしまえば、木という自然が無視できるから、建築が調和をくずす要因になりえる。

ただ、そこでおもうのは、そもそもそこに調和があるのか、ということと、建築がそこで関係性を無視してあった方が良いのではないか、ということ。

木と人の関係性は反映されているわけだから、木と人以外の別のものが出現することで、何か新しいものを捉える可能性が生まれるし、それには、調和の無さ、あるいは、緩さが必要だから、そもそも調和など幻想だったのではないか。

もう少し、建築を関係性ではなく、建築自体が持つ新しいものを捉える可能性というポテンシャルの面をみると、よりエコフレンドリーになるのでは、とおもう。

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境界をこえる建築

1本の木がありました。その木をどこから見るのか、を問題にしてみた、その木をどこに置く、ではなくて。とうぜん、見る位置によって、ちがう印象、があらわれる。見る位置がかわれば、印象だけでいえば、ちがう木、となる。

見る位置をかえることは、境界をこえるか、境界自体が無くなる、ことにもつながる。見る位置をかえることを建築化すれば、それは、境界をこえる建築、になるかもしれない。

見ることと境界を関連づけることで、建築にあらたな、つながり、がうまれる。しかもそれは、プランにはんえいできる。

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境界をこえるか

となりが気になる、ことをそのまま、素直、にみてみる。なんか気になる、ことを、うまく取りいれると、境界をこえられる、ような気がした。

なにかを所有していると、そこに境界がうまれる。となりが気になるのも、所有しているものかどうか、でかんがえれば、境界がどうしてうまれるのか、がちょっとわかる。

となりに、ちょっと気になるものを置く。それは、となりにあっても、自分にしか見えない、としたら、どうだろうか。これで、境界をこえてないだろうか。

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そばの自然

常にかわるかもしれない、とおもうと、おちおち安心もしてられない。できれば、かわらない方がいい、とおもう人も、多いかもしれない。ただ、自然をみてると、かわらないもの、などない。常に一定の均衡状況を保つことなど無い、ようにおもう。かわることが日常、のようにみえる。たがら、自然をとり入れたい、とおもうことの、本音は、かわりたい、かもしれない。

人も自然のいちぶ、という話には、はんぶん賛成、はんぶん反対。自然のなかに人をくみ入れることで、自然は守るべきもの、になるが、自然と人をおなじようにあつかうと、自然は人によってどうにでもできるもの、にもつながる。

自然のかわりようをみながら、人は人でかわるのがいいのでは。自然はとり入れるもの、ではなくて、そばにあって、いろいろなかわり方、をみせてくれるものでいい。

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時がたつのがおそい場所

時がたつのがはやい、あっという間、というけれど、おもいかえすと、はやい時と、おそい時が、あるようにおもう。

はやい時は、なにをしていたか、ぜんぜん、おもい出せない。ただ、その当時、どんな状況だったかと、俯瞰して、かんがえると、なにも自分からすすんでしてなかった、ようにおもう。やらされていた訳ではないが、かといって、自分がほんとうに望んでいたこと、ともちがう状況だった、ような気がする。

おそい時は、逆に、したことを、たくさん、おもい出せる。あれもやった、これもやった、と。上手くいかないことも、よくやったことも、両方あるけれど、とにかく、たくさん、おもい出せる。こうおもい出しているだけでも、時間がかかり、おそく感じる。ちがいは、自分から状況をつくっていたからか。

そうだとしかたら、時間の量はみな同じ、でも、時間の感じかたはみな違う。だから、感じかた、ようするに、状況を自分からつくり出せば、時間をコントロールできる。でも、なかなか難しい。ただ、自分の家の中ならば、だれでもできる。だから、家づくりはおもしろい。

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切断をおこしてもらう

つながり、は大事だと、知らず知らずのうちに、すりこまれている。たしかに、大事だとおもう。ただ、どこかで、切断、もおこさないと、つながり、がにごる、とおもう。

切断、には勇気がいるけど、切断したい願望、はきっと、せんざい的にはある。切断、によって、いまのなにかを変化させたい、という気持ちだろうか。

ただ、じふんでは、切断、をおこすのは難しい。だから、だれか他の人に、切断、をしてほしい、と願ってしまうのは、しごくとうぜんかもしれない。

切断、をテーマに、この住宅をみると、切断面がいたるところに現れる。切断したおかげで、このクライアントは、新たな生活を手に入れた。それは、今までの日常の延長でも、切断という行為で、前の住宅と今の住宅のちがいを、感じとりながら、ちがう気持ちで暮らしてる。

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自律とつながり

外にながれでるように、外へむかって、つながり、をつくろうとしたら、自身はどんどん、希薄なもの、になりやしないか。自身というものが、つねに、外とのつながりで、決まるから、自身単体では、成立、しない。その成立のしなさは、あいまいなものへ、そして、希薄なものへ、かえていく、とおもう。

外へながれでる、のを止めて、その場で自律、してみるのはどうだろうか。その自律する部分が複数あったら、その自律する部分同士で、ながれでるような、つながりをつくれば、自律したまま、外へのつながりも、つくれないだろうか。

これは、人にも当てはまるし、建築にも当てはまる、とおもう。複数の自律、きっとこれは、今進行中のプロジェクトに当てはめて、かんがるとおもしろいかもしれない、とおもった。

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コスパのかわりにゆるさを

なにか、ムダ、をつくりたくて、きっと、じかには役には立たないけれど、そのおかげで、豊かなきもち、になれるような状況をつくりだしたい。余分なもの、というか、余計なもの、といか、とかく、コスパや効率、ばかりが聞こえてくるので、豊かなきもちになれない。コスパや効率とは、対峙するもの、でも、それがあるおかげで、豊かさが成立するようなものをつくりたい。

きっとそのムダは、感覚的で、わかりづらい。だから、コスパや効率のそとにある。しかし、感覚的で、わかりづらいから、とくに、なにかを、はっきりとさせる必要もなく、あいまいで、ゆるい。この、ゆるさ、が今ひつようだと感じる。

そんな、ゆるさ、を肯定できるには、何があればいいのか、どうなればいいのか。かんがえるに値することだとおもう。

この住宅がきっかけで、ゆるさ、を意識しはじめた。クライアントの人柄が、そうさせたのかもしれない。

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直感にしたがう

意味がある、とか、意味がない、とか、とかく意味という言葉は、価値あるもの、のたとえになる。だけれども、何ごとにも、意味を見いだしていたら、つかれて、しょうがない。意味がつきまとうときは、直感をはたらかせる、ことができない。

建築に意味を見いだしたら、キリがない、ようにおもえる。かんがえてみれば、建築は、意味のかたまり、にもみえる。建築に意味をもとめることが、それこそ、意味がないときもあったし、建築に意味をもとめようとして、おかしな建築ばかり、がでてきたときもあった。意味のかたまり、とは建築を部材に、還元していけば、それぞれの部材は、なにかしらの意味をもち、設計する側は、その意味から、部材の集積をかんがえる。

でも、あんがい、さいごの部分は、直感だったりするから、意味が不明確だったり、それがおもしろい。この建築も直感にしたがった。

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未知のもの

時はながれる、あたりまえだけど、10年前をおもうと、この10年で30年分は生きたような気がする。いろいろとみつかるものだ。たぶん、10年前には想像もしてなかったことを、たくさんみつけた。この10年で、みつけ方もたくさん試したので、またまだ、これから、未知のものが、たくさん、みつかるだろう。

日々のなかで、暮らしと直結するもののひとつが、建築、だとおもっている。だから、どうしても、どう考えても、人をとおして建築を考えてしまう。建築が人に与える影響から考えてしまう。これからもそうだろう。

これらの住宅も、発端はすべて、人にどのような影響を与えるか、だった。この、どのような、の部分がこれからさらに、掘りさげていくところで、またまだ、未知のものが、たくさん、ありそうな気がしている。

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ボーダーラインをこえる

いかにして、ボーダーラインをこえるか、をつねにかんがえているような気がする。建築の場合は、つねに、なにかしらのボーダーライン、がつきまとう。それが、目にみえる、場合もあるし、目にみえない、場合もある。予算や、敷地境界線や、絶対にこえられないもの、もある。

なかには、ボーダーラインをこえあう関係性、もあるかもしれない。片方がこえても、もう片方もこえれば、バランスがとれて、問題にはならない、ような。そのようなボーダーラインは、意識すること、でみえてくる場合もある。その場合、ボーダーラインをこえてること、に気づかないこともある。

なにかで、ボーダーラインをこえてる、ことを気づかせることができたら、お互いにボーダーラインをこえあうこと、に抵抗もなくなるだろう。きっと気づかせるきっけに建築は役立つとおもう。この住宅は、そんなボーダーラインに気づかせてくれる。

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好きなようにやるための何か

スクラップブックのように、いろいろと貼りつけて、そこには、ルールもなく、好きなようにできる空間、ってあるとしたら、どんなだろう、とそうぞうしてみた。

そのときに、その空間をつくる側か、みる側か、でちがうかもしれない。つくる側は、どうやってつくるか、をかんがえるし、みる側は、どうやってみるか、をかんがえる。ひとによって、ちがうだろうが、じぶんは、つくる側でかんがえてしまう。

現実的に、スクラップブックのような空間みたいな、ありえそうもないことを、簡単にできるようにかんがえる。そうすることで、いろいろなひとを、巻きこみやすいし、みる側のひとたちも、現実感をもちやすくなる。みる側のひとたちは、クライアントだ。

この住宅は、好きなように部屋の範囲をかえることができる。ルールはない。あるとしたら、スクラップブックで紙の大きさがきまってる、ように広さに制限があること。

あんがい、スクラップブックのように、はじめにルールはなく、あとから自分しだいで、好きなようにやるための何かを持ちこみたい、と他でもおもう。それが、つくる側のおもしろさ、であり、みる側ではできないこと。好きなようにやるための何か、はみる側をもハッピーにする。

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たいせつな、みえない体験

ちょっとでも、日常とはちがう体験、が日常の中にあれば、そこから、さまざまな連鎖がおこる、とおもう。たとえば、その連鎖は、ふだん行かないような所、に行こうとか、なかなか会えない人、に会おうとか、またちがう体験をよぶ。体験すること、でしか、人はまんぞくできない、とどこかでおもってるから、日常の中のちがう体験はたいせつにしたい。

その、日常とはちがう体験、は非日常なことではない。たぶん、日常的にしている体験のみえない部分、だろう。それは、あえてみようとしないと、みえない部分だとおもう。そのためには、ちょっとした技術、も必要かもしれない。

きっと建築はその、日常とはちがう体験、をつくり出せるもの、だとおもう。そのためには、やはり、ちょっとした技術、が必要だろう。ただ、建築で、それをやる価値は、またちがう体験をよぶ、のならば十二分にある、とおもう。

この住宅では、密集地という立地から、空にちかづくこと、で地上の生活に、変化をつけた。人は、地面ではなく、空とむきあう。地面に接地していては、みえない部分、がそこにはあった。

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引っかかりをつくる

ズレていると、気になるし、引っかかりができてしまう。これは、ぶつり的なものにでもおこるし、言葉のような、目にみえないもの、に対してもおこる。この引っかかりが、良いものならば、引っかかったら、たのしいし、悪いものならば、気になるだけで、やっかいだ。

ものをつくることを、別のみかた、をすると、この引っかかりをつくること、といえるかもしれない。引っかかりは、意図して、つくることができ、先にふれたように、人の意識に作用し、たのしい気分にさせることもできる。

たのしい気分になって、といわれても、なかなか、たのしい気分にもなれるものでもないし、そこには、なり方はひとまかせ、のような感じもする。それよりは、たのしい引っかかりを、たくさんつくってあげることで、いわなくても、自然とたのしくなる。それが理想だと、いつも、おもう。

この住宅は、そんなことをかんがえながら、そうしたら、こどもも、おとなも、いろいろなところに引っかかりながら、たのしそうだったし、いろいろと、どのように引っかかるのか、発見があった。

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次を召喚するチカラ

つながりや、関係性でかんがえる建築が、いちじ、はやったような気がしてた。たぶん、いまは、それは、当たり前のこと、になり、そして、関心は、モノじたい、にうつって、久しいのだろう。

こう、モノのねだん、が上がると、おもうように、使いたいモノ、がつかえない。だからか、はがしたまま、あらわしのまま、なんて、途中のすがた、が仕上りになってるのを、多くみる。

ただ、いまはいいけど、それを良しとして、放置しておくと、つくり手のイメージに、あらたな本質的なモノを召喚するチカラ、がなくなっていくような気がする。

その時代のかたまりつつある状況から、一歩ふみこむ、ことが、次をつくりだす。途中でよしが通用するのは、最初だけ、だとおもう。

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少しだけの関係

なにがいいのだろう、なにが正解なの、手さぐりのときの気持ち。きっと、これって、そうそうこれこれ、とおもいたいし、どこかで、損したくない、得したいと、無意識にでも、おもってる。あんがい、たくさん、あって選べない。こんなとき、どうするかな、と最近、かんがえることが多い。

ネットには、たくさん、ある。ただ、たくさん、ありすぎるのも、こまる。だから、これが、いいじゃないの、などと、交通整理、してくれる人が、あらわれる。その人もまた、ネットには、たくさん、いる。もう、よけい、わからなくなる。さいごは、直感、にでもたよるしかないのかな。

けっきょくは、なにかに、だれかに、決めることになるのだが、それで納得してしまう理由、をさがしてる。なかなか、その理由を、うまく、しめせてる人は少ない、ような気がする。納得する理由って、あんがい、理屈じゃなくて、ささいなこと、たとえば、それ前からしってたとか、いちどは試そうとしたとか、なんか、じぶんと少しだけの関係があること。この、少しだけがミソ、かなと最近、おもってる。この住宅のクライアントも、そんなワタシとの少しだけの関係を、たぐりよせた、らしい。少しだけだから、気楽だった、と。

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建築は中間にいる

何か意味がありそうなもの、が目のまえにあったら、何だろう、とおもうだろう。そのとき、触れられるならば、触れたいし、あつかえるならば、あつかいたい。ようは、何かつながり、をつくりたい。

それは、その場が、どうであれ、いつも可能なこと、だろうか、いや、それを、いつも可能なことにする、場が必要だろう、とかんがえた。その場のひとつが、建築、になり得る。

いわば、建築が、媒介するもの、となる。媒介するものは、いつでも、中間にある。中間にあるから、何にでもつながる、ことができる。だから、媒介するものが、実際にあれば、あとは、そこに、つながりをきずきたいもの、を放りこめばよいだけである。

そのときの、媒介するものは、たしかな、存在、をそこで得ることができる。建築としては、いい、あり方のような気がした。この住宅も、はじまりは、そのような、中間にいる建築をめざした。

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感じる自然

めのまえに、木はあるが、それが自分のしらないところで、変化をしていく、自然の感じ、をとても簡単にいえば、そうなるとおもった。そうすると、めのまえで、その時間に、自分のしらないことは、全て自然のできごと、といえるかもしれない。かんがえてみれば、自然という言葉を、木や緑などの自然と、自分が関知しないことの、2通りのつかいかた、をするが、もとをたどれば、同じなのかもしれない。

自然を感じたい、とおもうと、森や海に、いこうとする。つねに、まわりに、森や海があればいいが、都市部だと、そうもいかない。海はムリだとしても、都市部で、少ない木で、森を感じるには、どうしたらいいのか、をかんがえている。

まずはきっと、先にした、木はあるが、それが自分のしらないところで、変化をしていく、ような状況をつくりだせばよい、とおもった。その状況を、今度は、建築が媒介となり、そこにいる人につたえる。つたわった人は、そこに自然をみる、だろう。こんなことをかんがえた。

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建築=メディア

デザイン、には注意がむけられるが、そのデザインを伝えること、には注意がむけられていない、とかんじた。大事なことは、伝えること、である。伝えることは、コミニケーションの際の伝達手段であり、それ自体がデザインの核心である、とかんがえた。

伝達手段は、コミニケーションの両端のつなぎ、の部分になる。つなぎ方によって、デザインの意味も、役割もかわる。だから、伝達手段も含めてデザインである、と同時に、伝達手段がデザインの核心になる。

建築には伝達手段も含まれる。いや、もしかしたら、建築とは伝達手段そのもので、伝達手段がカタチになったもの、かもしれない。そうすると、建築=メディア、ともいえる。

この住宅では、たくさんの意味をつめこんだ。その意味をつかみやすくするために、建築がそんざいしている、とかんがえた。

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たくさんできるコト

そんなもの、存在しないよ、とどこかで、おもいながらも、期待していること、って意外とありませんか。それは、だいだいが、カタチがないものであったり、目にみえないものであったりする。ちょっと、べつ角度から、カタチがあって、目にみえてるものが、全てかという、てつがく的なことにもつながるかな。ただ、そんなむすがしいことではなくて、何か、期待をもちたい、だけだとおもう。それが、全てのはじまり、全てのきっかけ、のような気がする。

建築の設計って、目にみえるモノをあつかいながら、目にみえないコトをかんがえる、ことかもしれない。だから、いつも、期待すること、でいっぱいになる、どこかで、そんなもの、存在しないよ、とおもいながら。ただ、設計者しだいで、存在させること、ができるコトはふえる。

この住宅には、居場所をみつけて、と想いをこめた。ただのイエでなく、特別な場所、としてのイエ。べつの言い方で、イエらしいイエ。イエがじぶんたちのものならば、それをもっとふかいところで、想ってほしかった。そのためのコトは、設計者しだいで、たくさんできる。

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閉じるの、開くの

こもる、ことに対して、建築は、とかく、ひはん的なような気がする。うちにこもる、すなわち、閉じた箱的な建築、はこのまれない。都市部では、眺望などに、きたいできないから、閉じて、こもり、必要な光をとりいれるだけ、とかんがえることは、ひとつの方法として、あってもよいはずである。

問題は、こもることで、社会とのつながり、がおろそかになる、のではという、建築だでなく、人にも当てはまること。ただ、オープンであればいいのか、閉じたなかでの、社会とのつながり、を建築として、つくり出すことに、可能性をみいだせば、よいだけだと、それはむずかしいことだが、おもう。ちょっと、それは、建築として、いま的なこととして、かんがえる価値はある。もしかしたら、閉じると開くの中間あたり、に落ちつくことも、ありえる。

これら2棟の住宅は、2つでひとつ、とかんがえ、互いにたいしては開き、外に対しては閉じた。きっと、このように、開くと閉じるが同時に存在し、その割合のちがいが、建築の存在のちがい、になることも、ありえる。

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実利と犯罪

実利、なんて言葉を、ことさらかんがえる。コスパとか、損得とか、にたような言葉があり、コスパより損得には、なんか、ちょっと、計算たかさ、がつきまとう感じがする。コスパも、損得も、その言葉じたい、きらいな人もいるだろうし、べつに、ビジネスや生活の中では、当たり前のこと、だよねとうけとめる人もいるだろう。私は、コスパも、損得も、どちらにも、かんしんがない。

ただ、実利はかんがえる。コスパも、損得も、比較するときにつかう言葉だから、比較にはきょうみがないので、かんしんがない。実利は、比較ではなく、利そのものだから、何がえられるのか、とか、何がかわるのか、とかには、かんしんがある。

だから、実利から、デザインをかんがえる、こともある。ちょうど、いまよんでる本に、1世紀まえの建築家ロースの、空間構成をかんがえるきっかけが実利だった、との記載があった。実利からデザインをかんがえることが、犯罪ではない、としり、ちょっとよかった、この住宅は実利だらけだから。

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クライアント登場

かんがえを、まとめようとして、手がとまる。クライアントからヒアリングしたこと、にはいつもヒントが、かくされている。かくされているとは、直接語っていないからで、語った言葉のうらの、その言葉を語らせる何かに、気がつこうとする。たいがいは、何かは、言葉でつかみとるが、最初は、イメージや場面で、でてくる。

そのイメージや場面には、人が登場するばあいと、人が登場しないばあいがある。手がとまるときは、人が登場しない。だから、人が登場するまで、待つ。人もクライアントのばあいだけでなく、だれだが特定できないばあいや、クライアント以外の特定の人のばあいもある。これも、クライアントが登場するまで、待つ。

この住宅は、いちばん最初から、イメージや場面に、クライアントが登場した。そのようなことは珍しい。とうぜんのように、ファーストプランで、はなしはきまった。

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きゅうくつな自由

きまった形式、から自由になりたいとしたら、また新たな自由になれる形式、をつくるのだろうか。それとも、形式から離れること、で自由になるのだろうか。

こうして、言葉にしてみると、形式から離れない、と自由になれないような気がするが、あんがい、自由になれる新たな形式、をつくろうというかんがえに、いたることが、おおいような気がする。

きっとその方が、都合の良い自由、がつくれると無意識に、おもっているのだろう。自由といっても、無秩序ではこまる。自由でいながら、ある程度の秩序、大外しはしないルール、はあってほしい、とおもうのだろう。でもそれは、形式をつくること、だろうか。かえって、きゅうくつな自由、になりそう。それは、自由とはいえない、気がする。

そんなことを、ずっと、かんがえながら、この住宅をつくったこと、おもい出した。

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しつこく、へんか

まとまりの良さが、みた目で、パッと、すぐわかることは、いいことなのか。ふかんして、プランをみてると、まとまりが良くなる、しゅんかんがある。それまで、あまり、しっくりと、こなかったモノが、急に、何かをきっかけに、へんかする。

まとまり良く、へんかしたのだから、それで良し、終了で、とりあえず、いいだろう。一旦、ここでまとめる。でも、こころうちでは、どうじに、もっと他のことがないか、とさぐっている。

そうやって、しつこく、やるのが、おもしろいし、すきだ。この住宅は、そんなことのくり返しで、だんたんと、へんかしていった。

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垂直てんかい

ふしぎと、今まで、当たり前にしてきたこと、にたいして、違和感があるようになった。階ごとで、かんがえること。もちろん、半階ずらすなどは、よくある。しかしそれも、階ごとでかんがえる、範疇になる。

そもそも、建築の構造が、階ごとで、かんがえるのが基本。だから、おのずと、計画だんかいから、階ごと、になる。階ごとは、水平しこう、である。もうすこし、水平しこうではなくて、垂直しこうへ、もっていきたい。

高さのちがいが、連続するような場所を、自然のなかで、想像してみる。その場合、高さがちがう、合わないことにたいして、不自然さは無く、段差をつくるという意識にはならない、気がする。

階段が、階段として、みえてしまうと、たんに、段差があるだけの場所、になるだけかもしれない。階段としては存在せずに、垂直方向に展開するような場所、がりそうとして、ありえる。

この住宅では、階段が、階段として、みえる。この階段がなくなれば、いいのかもしれない。

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モノは気分しだい

なにかを感じるとき、そのモノの、審美てきなぶぶん、にアプローチができている。そして、そのときの、感じるきっかけは、気分による感情、に左右される。気分がよければ、よくみえ、気分がわるければ、わるくみえる。モノと気分は直接、関係しながら、モノはある。

そうなると、モノ自体がどうか、はあまり関係がなくなる。そしてそれは、気分がかわれば、モノの審美てきなぶぶん、にたいするアプローチ、もかわることもいみする。モノの美しさは気分しだい、たんてきにはそうなり、モノ自体を、はっきりと、なにかこうである、とつかめない。

建築で、かんがえれば、気分によって、みえ方がかわる、ということでもある。ならば、気分にうったえるようなもの、をたくさんはいすると、みえ方をコントロール、できるかもしれない。さらには、そうすることで、モノ自体がどうか、というところに、たちかえること、ができる。

この住宅では、動きと連動する建築のぶぶん、に気分による感情を、ゆさぶるデザインを、ちりばめた。気分のよしあしが、建築のみえ方だけでなく、動き、にもえいきょうする。気分が身体を感じる、きっかけになる、こともあわせた。

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ひっかかり、からイメージ

ひっかかるもの、があると、きっと、印象にのこる。よく建築をみてまわっていたころは、さいしょに、ひっかかるもの、をさがした。作者の意図、と合う合わない、は関係なしに、そのひっかかるものが、最初のいとぐちで、なぜひっかかるのか、をかんがえる、ところから、スタートした。もし、ひっかかるもの、が無ければ、その場でしゅうりょう。

たいがいは、ひっかかるもの、があるので、そこから先は、建築とのたいわの時間。つくる方と、しようする方を、いったり、きたりしてから、いっぽひいて、みる。いっぽひくのは、建築を、もの自体、として、世界のがわからみるため。

この建築では、意図して、ひっかかるもの、をたくさん、ちりばめた。ひっかかるものが、たくさんあることによって、かえって気をちらし、べつのもの、をイメージさせたかった。それは、いぜんにみた建築、からの学びだった。

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そんなこと、しますか

じふんから、出てきたものは、いとおしい、とおもう。きっと、じぶんの分身、とかと、無意識のうちに、おもっているのだろう。

使用するひとに、そうおもって、ほしい。建築をつくるほうが、できるのは、途中まで。すべて、ではない。願わくば、建築に、触発されて、じぶんらしいアウトプット、をしてほしい。また、そのアウトプットを、あとからみるのが、楽しみ、でしょうがない。

この住宅は、そんなことを、意識した。あとのアウトプットは、撮影できないが、そういうことしますか、とのけぞった。おもいもよらない、アウトプット、こそが、そのひとなりの暮らし、だとおもうし、住空間をもとめる意義、だと、あらためて、おもった。

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感じかたをちりばめる

ものから、感じることは、人によって、ちがう。それが、当たり前だと、おもうけれど、案外、おなじだと、みんな、かんがえている。だから、感じたうえでの、最終的な、ものや、かたちを、提示してくるし、つくろうとする。

ちょっと、その前で、とどめてみようかな、とおもう。最終的な、もののかたちや、イメージを、感じる人に、ゆだねる。いろいろな、感じかたができるもの、があり、その時々で、そのなかから、感じる人の、つごうにあわせて、感じとる。感じとりかた、がちがえば、最終的に、見えるもののかたちも、イメージも、ちがうはずだ。

その当時は、そこまではかんがえていなかったが、この住宅では、いろいろな、感じかた、ができるもの、をちりばめた。どこを、感じるかによって、ちがうものが、現れただろう。

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つくり出すのがキモ

せつだんと、せつぞくの繰り返し。集合住宅にたいして、ちがう見方をしたら、そうなるかと、おもった。各住戸が壁で、せつだんされながら、せつぞくされている。さらに、各住戸が、外にたいしても、内にたいしても、せつだんされながら、せつぞくされ、つながる。

集合住宅のれきしは、このせつだんと、せつぞくのれきし、だとおもう。どのように、せつだん、すなわち、分割し、どのように、せつぞく、すなわち、つなげるか。

分割は、はじめから、部分があるのではなく、全体計画のなかから、ちがい、をつくり出すことで、わかれていく。そのわかれた部分が、また、つながることで、全体が形成される。しかし、全体は、部分の、総和には、ならない。その差を、どのように、つくり出すかが、集合住宅のデザインのキモ、だとおもった。

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中断、OK

れんぞく的に、流れるように、すすめたいが、なかなか、おもうようには、いかないことが多い。ときどき、よそ見、をしたくなり、立ちどまる、気になるから。気になることは、わるいことではない。だから、立ちどまる前後が、うまくつながれば、いいとおもう。

かんがえてみると、案外、すなおには、ながれていかないものだと。これは、空間のはなし。あちこちに、注意をひくもの、がたくさんあるから。それらを、全部、なくすわけにも、いかないし、なくせない。だから、注意をひかれてもいいもの、ばかりにすれば、立ちどまってもいい、ことになり、立ちどまる前後に、いい影響しかあたえない。

注意をひかれてもいいもの、ばかりにするには、それらを、きちんと、おさめる場所がひつよう。この住宅では、通路をかねるスペースに、注意をひかれてもいいものを、おけるようにし、そこで、じゅうぶんに、ひたって、もらう。ここはワーク&スタディスペース。

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インテリアとしてのがわ

がわと、中身を、ぶんりして、かんがえると、中身のあり方、がいつもと、違って、おもえる。建築のがわは外壁で、中身はインテリア。中身だけで、成立させることができるので、外壁がうけもつことから、解放されて、インテリアを、かんがえることができる。さらには、インテリアとして、がわ、もあつかうこと、ができる。

この場合、いわゆる、入れ子、のじょうたいに、にているが、入れ子の場合は、相似の関係、であるから、入れ子、ではない。

もしかしたら、ふつうの、階層のつみかさね、にならされている、のではないか、とおもった。層があることに、もっと、かのう性をみいだしたい。そのために、がわと中身をぶんりをした。

以前につくった住宅でも、がわと中身のぶんり、のいしきはあった。ただ、今回は、より中身で、かんけつする、ようにかんがえている。

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つながりのちがいだけ

何かを、かんじることで、建築が、うかび上がる。そのことは、とても、大切だと、おもっている。そのことが、今度は、まわりと、どのようにつがるのか。そこで、つながりが無ければ、単なる、ひとりよがりの建築、でおわる。

まず、建築とかかわる人が、かんじることで、建築として、形になり、うかび上がる。形になるとは、もともと、そこに建築は、あるけれど、何もかんじ無ければ、無いのと、同じだから。形となり、うかび上がった建築が、今度は、まわりとのつながり、を持ちはじめる。

このように、しゅつげんした、建築が、どんどん、まわりと、つながるイメージ、をしていた。ただ、さいきん、これは逆では、とおもいはじめている。

たしかに、何かを、かんじることで、建築が、うかび上がるのは、それはそうだとおもう。だが、はじめにあるのは、まわりとのつながり、の方であり、まわりとのつながり方、のちがいが、生みだされることで、個々の建築を、かんじること、ができるようになるのではないか。建築のちがいは、単に、まわりとの、つながりのちがいだけ、ではないか。

この住宅は、まわりとのつながり方を、かえてみた。建物の四周に、ウッドデッキをしいた。たった、それだけのことで、たしかに、建築が、うかび上がった。

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存在感も、ひつようでしょう

ひかくてき、安定してるモノを、いつも見るから、そこにある、とおもう。これが、ときどきにしか、見なかったら、無いも同じかもしれない。存在感のはなしで、内容もだいじだが、頻度がだいじ、だとしたら、どうなるか。

存在感は、なんにでも、つきまとうが、建築での存在感は、よりじゅうような気がする。建築は、いつも、安定して、そこにあり、いつも、見るから、存在感があるはずである。しかし、存在感がない、建築もおおい、ような気がする。そのちがいは、どこから、くるのだろうか。

同じ、だからではないだろうか、差異、がない。いつも、そこにあるのに、存在感がないのは、ひかくするものと、同じ、だから。この場合、ひかくするものは、まわりの風景、まわりの建築。まわりと、ひかくして、同じならば、存在感がない、のも当たり前。この場合、存在感をだすには、まわりとの差異、がひつよう。この住宅は、外観のみで差異をつくり、存在感をだした。

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感じるから、モノがわかる

じっくりと、モノをみることを、最近、してない、とおもった。スマホやタブレット、パソコン、本もモノだが、これらは、モノというより、情報を、みてるだけ。だから、モノを、対象として、じっくりと、みることがほとんどない。ただたんに、モノを、感じてるだけ、のほうがおおい、かもしれない。あんがい、みんなそうではないか。

もちろん、しごとで、モノをじっくりと、みることはある。だが、それは、しごとをしてるだけ。自ら、すすんで、すきで、モノをみてるわけではない。だから、話はべつ。

モノって、みるより、感じてる、ほうがおおい、かもしれない。そのことを、もうちょっと、意識してみよかな、とおもった。感じることで、モノがどういうものか、浮かびあがってくる。そうだとしたら、モノのつくりかたもかわる。

この住宅は、そもそも、ほぼ同素材で、空間をつくることにより、どこか、特定の部分に、焦点があたらないようにした。そのことで、じっくりとみるより、全体的に、ふかん的に、空間を感じてほしい。感じるから、モノがわかる。

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感性がつなぐ回路をつくる

いい天気だな、あおぞら、は気持ちいい。このかんじを、いつも、持ちこみたい。くもりぞら、が多いちいきには、住めない、だから、気持ちいい、ものにしたい、となれば、このあおぞらを持ちこむ、つまり、みえるようにすればいい。

ただ、あおぞらが、単に、みえるだけでは、気持ちよくは、ならないとおもう。あおぞらなんて、みようとおもえば、どこからでも、みえるから、あおぞらと自分をつなぐ、回路のようなものを、つくるひつようがある。

その回路が感性だと、かんがえるが、ただの感性ではなく、汎用性がたかい感性。それは、たとえば、あおぞら、のぶるーを、いろいろなものと、むすびつけてしまう。きっと、その汎用性のたかさは、あおぞらの、みせ方によるのだろう。

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感性があつまって、わかる

空間は、けいそくするから、おおきさを意識してしまうが、そもそも、空間を、どのようにとらえるかは、あくまでも、感性てきなこと、だとおもう。ひろさも感性であり、あかるさも、心地よさも、天井のたかさも、感性である。感性てきなことが、あつまって、そこに、そのような空間があることが、わかる。なにも、感性てきなことが、なければ、そこには、なにもない。

このように、かんがえれば、モノに左右されない。モノがいいかわるいか、たかいか安いか、は関係なくなる。そうすれば、そこに、たくさんデザインできるよちが生まれ、感性てきなことを、生むために、よりデザインが、じゅうようになる。

この住宅は、せまいけれど、そのせまさをかんじさせないように、感性てきなことを生む、デザインをちりばめた。あつさ、さむさも、空間をとらえるための、感性である。だから、モノだけでは、解決しない。

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分けたら、たのしい、よかん

あれはこれ、これはあれ、と何かと、分けたがるひとがいる。分けるには、ちしき、が必要。だから、分けることによって、ちしきをみせているのだろう。ただ、分けることと、それをりかいすることは、違う、とおもう。分けることなど、実際には、りかいする上では、どうでもよいこと。むしろ、分けがたいことが、たくさん、浮かぶくらいでないと、りかいしている、とは言えない、とおもう。

さいきん、気になるのは、部分に分けたものを、たんじゅんに、ぜんぶ足しても、もとの全体には、ならないだろう、ということ。どちらかというと、いったん、分けたものを、またぜんぶ足すと、もとより増えるか、大きくなる、とおもう。

それは、分けることで、何かよけいなものを、纏うからだろう。そういういみでいうと、りかいを、わざと、困難にするために、分ける、というのはありで、おもしろいかもしれない。

なかなか、素直にはわからない、ちょっと違ったかんじがする、ような空間を、つくりたければ、さまざまな分けかた、をするのもいい。分けかたは、デザインだから、さまざまなデザインができる。ちょっと素直にはわからない空間って、日常には必要かもしれない、とおもう。そのほうが、たのしい毎日になる、よかんがする。

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寄せあつめが、おもしろい

としが明けた、てんきもいい、はれやかな気分、ぼんやりした時間がつづく。ぼーっと積読ほんをながめる。なんで、そのほんを買ったかは、いまはもう、おぼえてない。かさなったタイトルで、れんそうゲームなどしてみる。そういえばと、他のほんを、さがしにいく。読みたいときに、かぎって、そのほんだけない。ふだんの、不せいりのたまものを、正月そうそう、なげいても仕方ない。とにかく、一冊のほんに手をのばす。

そのうち、そういえばと、また他のほんを、さがす。そしてまた、そういえば、となり、そしてまた、そういえば、となる。まるで、グラスホッパーか、はしご酒か。けっきょく、読みちらかした、残がいをながめて、おわったいち日。

その寄せあつめの、残がいを、よく日もながめる。あたまの中には、何ものこってない。ただ、タイトルれいそうゲームには、ちょうどいい。そうか、なるほど、などと、思いつくこともある。なかには『無根拠からの〜』など、というタイトルのほんもある。寄せあつめからおもうことと、それぞれのほんのタイトルからおもうことは、ちがう。

見つからなかった、ほんのおかげで、寄せあつめの山ができた。でも、それは、そのときどきの、読みたい気分、を足したもの、とはちがう山になった。どちらかというと、この、無根拠な、寄せあつめの、山のほうが、すきだ。無根拠でも、あつまれば、根拠ができる。それには、偶然のおもしろさ、がある。そういえば、いつも、このような、つくり方を、してきたかもしれない、住宅にたいして。

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時間をかけないから、なくなる

飾りが、ぎらぎらとあっても、こころが晴れたりはしないだろう。そのぎゃくに、何もかも、ムダだとして、さいしょう限にしても、たのしくもない。やはり、ものがある良さ、というのがある。

ちょうど良いものがない。最近、おもうのは、ものにあわせる、しかないこと。ほんとうは、こうあればとか、ほんとうは、こうあって欲しい、などとおもいながら、手にすることが多い。どうして、ちょうど良いものがないのだろうか。いっそのこと、自分でつくるしか、ないのか、などともおもう。

きっと、決まりきった型が、はんらん、してるからだろう。ちょうど良いものはあるが、それを探しだすのに、苦労する。ひにくなもので、ネットで、何でもアクセスできるけど、ちょうど良いものに、たどりつくのに、時間がかかる。そのぶん、時間をかければいいのだが、時間がかかるものには、価値がないとされ、ゆえに、よけいに、ちょうど良いものの需要がなくなり、ひとしれず、きえていき、決まりきった型だけが、いきのこる。

もっと、時間をかけることに、価値がある、となれば、型などはんらんしない。時間をかけることがムダ、だとしてるから、ちょうど良いものが、なくなっていく。

この住宅は、時間をかけることが、ゆるされた。決まりきった型は、はじめから、もとめられなかった。もとめられたのは、住宅というもの、によって、ぎらぎらな飾りではない、実際のじぶんたちの生活にそった形、としての空間だった。

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自分のカラダが、いとおしい

じぶんの身体を、とおして、はあくできることが、建築、とりわけ、住宅には、だいじだと、何がきっかけか、わかいころから、おもっていた。ただ、ただ、身体をとおして、かんじること、でしか、建築というもの、をはあくすることは、できないと。

身体をとおして、かんじるとは、見ることからはじまり、手足でふれ、移動することで、身体に、建築を、記憶として、きざむこと、かもしれない。

きっと、痛いおもいをしたほうが、建築をマジマジと、見て、ここはこうなってるのか、などと、こまかいところまで、はあくするはず。

そのときに、たよりになるのは、じぶんの身体だから、住宅はこうあるべきとか、建築はこうあるべきとか、カタチは、などと、じぶんのはいごで、いわれても、関係ない。

よしあしは、身体にきいてくれ、とばかりに、むしろ、身体でかんじるほうが、そのときに見える、住宅にたいして、すなおだとおもうし、それが、じふんの世界としての住宅をつくる、ことになるとおもう。

そんなことをかんがえながら、この住宅は、ちょっと上り、ちょっと下る、そして、また移動するようにしてみた。きっと、ここでの生活では、記憶のなかに、身体のかんじが、きざまれ、それによって、記憶がよりふかく、よりせんめいになるだろう。それって、ここで、生活してるじふんが、いとおしくなることだと、きっと。

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みえるものが、すべて

場あたりてきに、ということばは、何か、いんしょうがわるい。

何か、カタチをかんがえたり、ものづくりをしようとしたとき、まったく、何もないところから、かんがえたり、つくったりはできず、はいごに、これはこういうもの、というかんがえ、みたいなものが、存在すると、いしき的にも、むいしき的にも、かんがえるのではないか。

きっと、何か、ぜったい的なものにした、そのはいごにあるものにそって、つくろうとする。ただ、もっと、目のまえのものに、しょうてんを当てることもでき、そんなはいごのもの、など無いといえる、場あたりてきな、つくり方もあり、だとおもうし、その方が、あますところなく、何か、表現できるような、気がする。

この住宅では、ただ、きびしい敷地じょうけん、と向きあうことで、ここでしかできない、空間をつくろう、とした。そのとき、敷地にたいして、目にみえるもの、以外のものは、無いもの、とした。

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おもうことが、そのものになる

さいきん、南部鉄瓶を手にいれた。もくてきは、鉄分ほきゅう。まいあさ、コーヒーをいれるので、そのお湯をわかすのに、南部鉄瓶をつかえば、いっしょに、鉄分ほきゅうもできる、とかんがえた。

どうせなら、気に入ったものをとおもい、北欧のデザイナーもの、南部鉄瓶なのに、にほんには、なかなかないカタチ、すきなカタチ、のものにした。

もともともっていた、南部鉄瓶のイメージとはちがう、鉄瓶というより、ケトルということばで、表現したほうがいい、カタチをしてる。鉄分ほきゅうが目的だから、南部鉄瓶らしくなくてもよい。

さいしょは、南部鉄瓶がほしい、とおもったから、もっていた南部鉄瓶のイメージ、とのズレがうまれた。だから、手にいれたものに、そのイメージのズレ、が上乗せされた。そのズレも、カタチからくる印象のひとつになり、カタチをつくる要素のひとつになった。

もしかしたら、何かものがあるとき、そのものが実際にどうかより、そのものがどういうものか、とあぶり出すようなこと、でしか、そのものを捉えることができないのでは、とおもった。

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目のまえに、記憶がある

目のまえにある木を、みている時は、きっと、過去にみた木と、むいしきのうちに、比べているのではないか、とおもった。

木は、いたるところにあるけれど、いしきしてみるときは、特別なとき、である。たとえば、自然のなかにいったときとか、木におもいいれがあるときとか。いずれにしても、木との、特別なかかわりあいが、すでにあるから、比べてみることになるのだろう。その特別なかかわりあいを、記憶というのかもしれない。

もしかしたら、記憶なしに、目のまえのものをみることは、できないのかもしれない。ならば、そのときに、記憶をひきだしてくるものは、目のまえのものの、なんだろうか。

この住宅では、たとえばそれは、空をみたときの、あおさ、だったり、くものしろさ、だったり、太陽のまぶしさ、などの、ひとの感性にうったえてくるもの、だとおもい、空をとりこみ、記憶をかっせいか化し、暮らしと空を、つなげた。

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とくべつ感ある、そんざいにする

ひとはつごう良く、ものを見わける。見わけることを、知覚、というのかもしれない。知覚は、もの、にたいしてだけ、おこるらしく、もの、をじふんのつごうで、かいしゃくして、次に、そのかいしゃくを、ものに、当てはめる。だから、じふんの中には、知覚は、のこらず、すべて、もの、に知覚がつくらしい。

ものは、そのような、連続したひとの知覚、の集合でできている。だから、もののじったいは、ひとによってかわり、つねに、一定ではないだろう。流行るものもあれば、すたるものもある、のもうなずける。

ただ、ひとの知覚が、ものをつくる、ことにはかわりがない。だとすれば、ひとの知覚に、はたらきかける建築を、構想することは、ありえる。

この住宅は、壁とのキョリが、知覚にえいきょうを、あたえることをかんがえた。遠くからみたばあいと、近くからみたばあいで、みえ方がちがう。画像は、遠くからみたばあいだが、近くではみえるものが、この画像では、みることができない。このみえ方の差が、知覚のズレをうみ、壁に、ちがった意味をあたえ、ここだけの壁のそんざい、につながる。それは、この住宅に、とくべつ感をあたえる。

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壁はなくすより、つかう

あたりまえのように、仕切りがある、ことに、いわかんを覚えたので、ペンを手にしながら、フリーズしてしまった。いつものように、スケッチを、くりかえしたところで、いきつく先が、あるていど、想像できてしまうので、この想像できてしまうこと、も重要で、だから時間とお金が、よめるのだけれど、いわかんの元が、気になった。

時間とお金が大事、ならば、フリーズしている場合、ではないが、いわかんを、とりのぞく方が、もっと、価値あるもの、を手にいれる、ことができそうだとおもった。

いわかん、の正体は、いぜんにも、かんじたことで、何もギモンをもたずに、壁をつくることで、そのときは、壁をなくしたり、床を半階ズラす、などして、仕切るのではなく、領域をめいかくにした。

ただ同じことはしたくないので、いま、これからかんがえることは、ばくぜんとしてるけど、空間の流用、かなとおもう。

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階段って、あたえるよね

よこにひろがっていく、水平しせんと、たてにひろがっていく、垂直しせんがあり、水平しせんは、広さを、垂直しせんは、高さをかんじる。斜めのしせんは、広さと高さの両方をかんじる。

さらに、広さは、つながりへ、高さは、ふかさへ、となるとおもう。つながりも、ふかさも、両方とも、だいじだから、斜めのしせん、斜めのうごき、が必要になる。だから、建築の部位で、階段は重要だとおもう。

この建築では、階段をしょうちょう的にみせた。階段はいつも、わきやく、ただの通過する場所だけど、斜めのしせん、うごき、とすれば、それはとても、重要な場所であり、人のうごきは、人のしこうと、直接つながるから、階段がどうあるかは、人にかなりの影響を、あたえるでしょう。

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とにかく、あかるく、しました

これはこうだと、知らないうちに、きめつけたりしてしまう。あんがい、それが、あたっている、とおもいたいけど、本当は、きめつけない方がよかった、と後でこうかい、しないですか?わたしは、こうかい、します。

もし、きめつけないで、ありのまま、受けとめたら、きっと、ちがう世界が、ひらけた、かもしれない。

でもね、いま、見方をかえれば、大丈夫、とおもうのですよ。建築は見方のかたまり。いま、そこにいる住宅の見方を、かえれば、暮らしが、かわる。

この住宅は、暮らしをかえたい建主のために、見方をかえてもらいたい、とねがいました。そのために、まわりを囲まれているのに、とにかく、明るい空間をつくりました。

どこまでも、あかるく、そして、あかるく。どこでも、あかるいから、それりゃ、いままでと、ちがうから、かわりますよね、それも、あかるくだから、良いほうに。不思議と、わらい顔が、かわるんですよね。

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どうにでもなるから、それがいい

すべてが、まる見えだと、こまるけれど、かと言って、壁にかこまれるのも、きゅうくつになる。何か、じふんがおよぶ範囲を、きめたくなるから、壁がひつようになる。そうやって、いまの居場所を、たしかめている。きっと、あんしん、したいのだろう。

ならば、あんしん、できれば、壁はいらなくなる。どうすれば、あんしん、できるのか。見えなければ、あんしん、できるのであれば、壁のかわり、をつくればよい。

柔軟性を、かくとくするために、かんがえる、ひつようがあった。柔軟性は、固定しないこと、どうにでもなるさま、それが、部屋の仕切りに、ひつようだった、この住宅では。

だから、壁を技術的に、開閉できる、ようにした。ここでは、開閉できることが、あんしん、だった。ときに、じぶんがおよぶ範囲を、きめる方法が、きちんと、固定すること、ではなく、どうにでもなることが、じふんのせかい、をつくると、この建主からまなんだ。

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あふれるものが、いとおしい

目のまえにあるものを、どんどん、否定していく、それはいらない、それはなくてもいい、それはあっても役にたたない、それはむだ、などとやっていくと、じぶんのカラダすら、無くてもよくなり、最終的には、そうやって、否定してる、じぶんのこと、しかのこらなくなる、これがデカルトの『われおもう、ゆえに、われあり』らしい。

これって、断捨離のまつろかな、ミニマリストのまつろかな、みんな、デカルトに、なりたかったんだ、カラダもいらないんだ、そうか、捨てるじぶん、なくすじぶん、だけのこればいいのか、なんか、たいじなものまで、なくしそう。

ものがあふれてる、ものに囲まれてる、状態はよくないのかな、整理というか、どこに何があるか、わかれば、それでいいのでは。好奇心おうせいならば、ものでも、なんでも、あふれるよ。好奇心のほうが、まさるとおもう、なくすより、捨てるより、デカルトより。だって、そのほうが、単純に、おもしろい。

この住宅は、ものがあふれる、といいように、つくってみた。そのほうが、生活感がでる。生活感だけが、ゆういつの、じぶんの、せかいを、しる方法だし、いまを、いきてる感じがする。

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ぼんやりだって、するでしょ、脳が

この木をみてるとき、きっと、あの木のことを、かんがえている。だれでも、よくあるとおもう、目のまえのものではなくて、他のもののことをかんがえていること。こころ、ここにあらず、状態のまま、ただ、ぼんやりと、目のまえのものを、みてる。

それは、集中力がない、などといわれそうだけど、きっと、脳が、こうそくで、目のまえのものと、ほかの何かを、むすびつけようと、しているにちがいない。それは、脳の暴走かもしれないが、しばし、その暴走に、つきあって、ぼんやりと、するのもわるくない。

だから、ぼんやりとできる場所、がひつよう。ただ、どこでも、いいわけではない。脳だって、ひとならぬ、場をみる。脳がぼんやりするいえ、っていいな。ひとではなく、脳がぼんやり。この住宅は、そんな、脳がぼんやりして、まったりしてくれたら、とおもう。

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ながれてる時間の感覚だった

森のなかに、自然のなかに、すみたい、とつねひごろから、おもってるので、いま、都市にすんでる身としては、かんたんに、かいけつするならば、田舎へ、いけばいいのだが、あるいは、二拠点、多拠点とふやして、都市と田舎の、りょうほうにすめばいい、いっぱん的には、そうなるのだろうけれど、なにか、しっくりとこない。

田舎へ、拠点をふやしたところで、かいけつしないだろうと、おもってしまうのは、自然のなかで暮らす、多拠点で暮らす、ぎじ体験は、いくらでも、できるので、なんどか、トライしてみたけれど、ただたんに、自然の中に、拠点をかえればいい、というものでもなかった。

たぶん、もとめていたのは、ながれる時間への感覚、だったのかもしれない。なにをしていてもいい、寝ていても、食べていても、さんぽしていても、ボーっとしていても、たとえ、しごとをしていてもいい、ながれている時間が、自分ではどうしようもない、自分とはかんけいないところで勝手にながれてる、そんな感覚、じぶんでは操作できない、もうそれでいいじゃないか、とおもえる感覚。

どうしても、時間を管理できる、とおもってしまう。ただ、自然にたいしては、すなおに、自分では、どうしようもできない、そんな、どうしようもできないものに、囲まれれば、きっと、じぶんの時間感覚も、かわるだろう、という期待から。

こう書きながら、しっくりこなかったことが、整理されてくる。ならば、いまでも、ここでも、できるような気にもなる。

この部屋は、そんな、あたまを、整理する時間と場所を、ご主人のために、住宅内離れ、としてつくった。

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ちがいがわかる住宅

キッチンのまえの窓をあけると、おとなりの木がみえる。さいきんは、さむいのでしないが、毎朝、窓をぜんかいにして、空気のいれかえをしながら、ながめていた。ただ、窓をあけなくても、窓ごしにはみえるから、葉っぱのいろの変化はかんじることができる、さいきんは赤茶いろ。

他の窓ごしには、うちのオリーブの木がみえる。いつもあおあおとしていて、葉っぱのいろに変化はないけど、成長がはやいな、といつもおもう。

両方とも、室内から木をみる、ということはおなじ、でも、かんじ方、いみがちがう。キッチンからみる木は、おとなりの木、だから、おとなりさんも毎日みてるだろうし、こちらも、みてる、かんじ。うちのオリーブの木も、また、ちがうおとなりさんが、毎日みてるだろうし、こちらは、みられてる、かんじ。

あたりまえだけど、あきらかに、ちがう。でも、この、あたりまえだけど、あきらかに、ちがうかんじを、つくるのが、空間づくり、だとおもう。この住宅は、たくさんの、あたりまえのちがい、をしこんでみた。

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身のまわりに、何をおきますか

さいきん、南部鉄器の鉄瓶をかった。南部鉄瓶のカタチは、まるっこい、火鉢のうえで、にあうカタチがほとんど、ただそれでは、いまのいえの、キッチンには、にあわないから、もっと、らしくないカタチのもの、をさがした。

もくてきは、鉄分ほきゅうだから、素材が鉄ならば、カタチはなんでも、いいだろう、という声が、きこえてきそうだが、そうはいかない。目にみえるものすべてが、じぶんの世界をつくる、とおもえば、まいにち、つかうものはだいじ。

そう、じふんの世界は、日常という、はてしない地平のうえで、うごめくものたちによって、つくられると、かんがえている。だから、身のまわりにおくもの、こそ、いちばん、だいじ。

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パラパラな自然でも、ゆたか

自然をかんじる、っていつも、ふしぎだとおもう。山や海にいけば、自然しかないから、自然をかんじるが、きっとそこに住めば、自然があるのが、あたりまえになり、だんだんと、自然をかんじなくなる。

都市部にいると、せっきょくてきに、緑をとりいれること、条例などもあり、パラパラと緑をみかける。パラパラの緑では、自然をかんじるまではいかないが、自然をせっきょくてきに、かんじよう、とする姿勢にはなる。

けっか、自然にかこまれて、住むより、都市部のパラパラの緑のなかで、くらしたほうが、自然を日々かんじるのでないかな。そんなことをかんがえて、パラパラの緑でも、パラパラの緑なりに、くふうをすると、どこでも、自然ゆたかにくらせるよね。

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たしかなものは、あいまいだ

たまたま、偶然、そうなっただけ、べつの可能性は、あったし、いつまた、変化するか、わからない、としたら、たしかなもの、ってないな、と。

ものをつくるって、たしかなもの、をつくろうとする。ものをつくる仕事に、忠実になろうとすれば、あるいは、いいものをつくろうとすれば、たしかなものを、目指すことになる。それがないとなると。

逆に、たしかなものって、あるのか、とかんがえると、何がたしかなものなの、となる。

いずれも、仮に、かんがえているだけ、だけど、たしかなものって、何か、あいまいだな、とおもう。

きっと、そんなことが、根底に、あったのかもしれない。この住宅では、部屋の仕切りが、あいまいで、それが、要望だった。そう、ここでは、あいまいなことが、たしかなものだった。

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翻訳がやくめ

けはいを感じるように、ひとは、何かのこんせきを、感じるのうりょくがある。これって、いつもおもうけれど、すばらしい、こと。もとあったもの、なくなっていくもの、ちっていくもの、に何かを感じることができる。たとえば、ちりゆく紅葉に、たとえば、しずみゆく太陽に、たとえば、かわりゆく季節に。きっと、そのとき、ひとは、じぶんのえんちょうとして、じぶんの一部として、あるいは分身として、そのものを感じている。

だから、きっと、逆もある。あたらしく、うまれゆくものにも、けはいをかんじる、ことができるはず。そんな、無意識とも、よべるようなもの、へのけはい、それをきたい、と言うのかもしれない。それもまた、ひとにとって、じぶんのえんちょうや、一部や、分身で、それを、カタチにしたい、といつもおもう。

この住宅では、でてくる言葉とは、まったく、かんけいがないところで、カタチが、きまっていった。それは、なにをきたいしているのか、ひとは、じぶんでは、わからないもので、それをカタチに、翻訳するやくめ、をしたけっか、そうなった。

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それだけで、価値がうまれた

なにかを感じるから、そこにいるのがわかる。そこにいないと、わからないことを、感じるから、そこにいる価値がある。価値があるとおもえるばしょは、そこだけでしか、感じることができないものがある。いずれも、感じるひとがひつようで、ひととばしょを、感じることがつなぎ、価値をつくる

建築のばあい、感じることは、ものをかいする。ものがどうあるかで、感じることがかわり、価値もかわる。すべてを、感じることに、かんげんさせることで、価値をみちびきだすことができる。

この住宅では、明るさを感じることが、価値になった。1階でも、陽のひかりがさしこみ、明るくくらせる、そんなふつうなことを、価値にした。それは、そんなふつうなことを、えられる環境、ではなかったから。

1階から空がみえるようにした。やったことは、それだけ。ものとして、2階のゆかと、やねをガラスにしただけ。1階のダイニングテーブルにすわり、空を感じることが、できるようにしただけで、この住宅に価値がうまれた。

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自然のなかのかんじ

見ながら、見られる、そんなかんじが、自然のなかにいるかんじ、とちかいのでは、とおもった。

もし、見るだけだと、たとえば、木をみているだけだとしたら、自分と木が1対1で、あいたいするかんけい、でしかない。そこに、見られる、がくわわると、自分と木いがいに、また、なにかがあることになり、より、自分では、コントロールできない、かんけいになる。

この、自分では、コントロールできない、かんけいの度合いが、あるレベルをこえると、自然のなかにいるかんじ、がうまれる、のでは、とおもう。

それを、いま、すくない木で、じつげんしようと、している。

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階段のかち

階段はふしぎなそんざいだ。上下をつなぐやくめだが、それだけかな、ほかにも、こちらから、といかければ、ちがった面をみせてくれる、ような気がする。かってに、つなぎのやくめ、としてみてるだけで、階段じたいが、どくりつでなりたつ、建築のようにもおもえる。

間をうめてくれる、というか、よけいなこと、めんどうくさいことを、引きうけてくれるそんざい、かもしれない。

いま計画しているのは、1階と2階と階段、というくみあわせ。1階と2階と同等のかち。建築のなかに建築がそんざいしているかんじ。

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おなじがイヤだったときづく

あぁ、あとから、きづくことって、じぶんでは、なぜだか、理解できていなかったけど、ほかのことをしてるときに、たとえば、つぎのプロジェクト、たとえば、本をよんでいるとき、ふと、うかぶ。いったん、あたまからだして、それをカタチにして、ながめてみたから、きっと、きづくことになった。もし、カタチにしてなかったら、えいえんに、きづかない。

はじめから、そうしようと、してなかった。時間差があったから、ひとつつくって、また、つぎどうするか、だった。だから、この2棟の住宅に、共通点はない。しいていえば、外壁をおなじにしたくらい。ただ、ゆいいつ、玄関だけはむかいあわせ、にすることだけは、決めて、あいだに、通路をそうていした。あとは、まったく、共通点はいらないと。

そうしないと、おなじような住宅がならぶ、ふしぎな風景をつくってしまう。けっきょく、そのときは、きづかなかったけど、あとからおもう、おなじようなものにしたくない、ことをしたかったと。

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かさなるから、うまれた

つながり方には、4種類、せっするか、かさなるか、はなれてるか、ズレているか、がある。つながる、ということだから、最低、2つのものがある。4種類のうち、ただひとつだけ、かさなるだけが、同時に、あらたなものを生成する可能性がある。かさなった部分が、あらたなものになる可能性。ぎゃくに、かさなりからみれば、そこから2つのものが、生成される、ともいえる。

だから、2つのものの、つながり方をかんがえるより、かさなる部分をさきに、かんがえることで、2つのもの、さらには、ぜんたいの構成がみえてくる、とおもった。

それを、いまのプロジェクトにいかしながら、同時に、かこのプロジェクトを再解釈してみる。そうすると、じぶんのなかで、たくさんの、かさなる部分が、うまれた。

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時間にカラダココロをつかう

カラダとココロが、ばらばらに、気分はいいけど、カラダがつかれてるな、そのぎゃくも、ただ、つい、カラダとココロをべつに、してしまうが、行動に、ちゅうもくすると、カラダもココロもひとつ、行動してるか、してないか、じぶんからうごくか、いわれてうごくか、だけのような気がする。

きっと、行動してるとき、ふぐざつなバランスのなかで、けっか的に、うまくいくように、するだろう。だから、じぶんからうごこうとすれば、けっか的に、そのとき、いちばんいいものになる。ならば、時間をみかたにして、じぶんからうごくことに、たくさんの時間を、かけることができるじょうきょうを、つくりたいものだ。

そんなことをかんがえながら、手をうごしていると、ふくざつなからみあいが、解けて、視界がクリアになった。やっと、まとまりそうだ。おいしいものでもたべて、またあした。

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偶然そうなっただけ、だから

いま、みているものは、きっと、1年後には、ない。いま、みているものは、いま、このときにあわせて、偶然そうなっただけ、かりに、1年前に、いま、みているものを、予測できても、いま、このときにあわせて、用意はできないだろうから、1年後にも、ないだろう。あたり前のことだけど、この偶然そうなっただけ、ということが大事だと、おもった。

偶然そうなっただけ、ならば、たまたま、そうなっただけで、ちがうものになる、可能性もあった。ならば、いま、みているものが、いつまでも同じ、でいる保障もなく、ちがうものに、いつかまた変化するかもしれない。

そう、だから、なにをつくっても、同じでいつづけることは、ないだろうから、絶対なものはないはず。すべては、変化する、ということになるが、そうすると、なにをつくっても、同じ、いみが無い、となりそうだが、なにをつくっても、変化する、という運動に、ちゃくもくすると、ものをつくることって、この運動を、かそくさせることで、そのときの燃料は、言葉、すなわち、いま、みているものが、偶然だと、絶対ではないと、わからせること、だとおもった。

だから、いまつくっているものは、時間の流れが、運動として、仕込まれていて、燃料となる言葉は、プランとかたちに変換して、はいちしている。

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放りこまれた言葉がつくるもの

うまくできそうだと、おもうのは、カンだけど、そのカンは、いままでの経験から、くるのかな。ただ、経験では、たどりつかない、ようなことが、おこるほうが、おもしろい、ともおもう。だから、経験はあてにはならない、とおもうほうが、おもしろいかもしれない。

経験が、あてにはならない、としたら、どうするか。てきとうに、言葉を、放りこむしかない。それは、思いつくかぎりの、言葉をだし、ならべ、かたっぱしから、ためす。ためした結果は、経験をこえるだろう、とおもえた。

さらにいえば、思いつくかぎりの、言葉をだしたときに、すでに、経験からくるカンは、ふ必要で、むいみになる。その言葉におうじたことが、現実に、てんかいされる、のだから、カンをあてにして、うまくいくかいかないか、をかんがえる、必要がない。

この住宅では、そもそも、経験したことがない、ことばかりした。だから、それをするためには、思いつくかぎりの、必要な言葉をだし、ならべ、ためす、ための素をつくった。素は、ときには図面、ときには素材、ときには職人、ときには感情だった。

けっか、経験したことがないから、うまくやる、こともできなかったが、言葉からつくった素、がおもしろさと、完成度を、たんぽしてくれた。

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ヨコヤリしてみた

みたいように、みているから、好きなようにみえる、こうみたいと、話しかけているように。でも、そこに、誰かが、こうだよ、これはどう、これがいいんじゃない、とか、ヨコヤリをいれる。ヨコヤリは、みたことがない、そうはみえなかった世界だった。そのとたん、いままで、みてみたい、とおもっていたものが、かわる、そっちのほうが、よかったと。

きっと、これが、りそうかな、とおもう、なにかをつくるときは。じぶんがヨコヤリのそんざいでいたい。

この住宅は、ヨコヤリをしてみた。リビングのまんなかに、まるみえの階段、その階段が、リビングを、3つのゾーンにわけて、空間はつながりながら、回遊でき、みんなすき勝手に、すごしている。それが2階からも、わかる。この空間のおかげで、なにかと、かおをあわせる、ようもないのに、話したくなる。空間が、なにをしたらいいのか、おしえてくれた。

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サボって、はかどった

サボり、っていけないこと、だけど、サボるときは、だいだい、大事なことを、しているときだから、ぎゃくに、大事なことがわかる。べつに、大したことをしてないときは、サボりにならないし。

大事なことは、変化につながること、だから、ひとは、変化がきらい、だから、サボる。ならば、サボるときにすることを、べつの大事なこと、にすれば、べつの大事なことは、おおいにはかどった。

そんなちょうしで、この住宅では、サボれる場所を、たくさん、つくって、あちこちで、サボれるようにした。

サボって、大事なことをする、って、うしろめたさ、とヤッた感が、ダブルでくるから、甘塩っぱいものを、食べてる感、けっこう、クセになるかも、おいしいかも。

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どこまで決めないで、いられるか

なにかと、あいまいにしたい、のだが、建築の境界の話、なかなか、それがゆるされないから、なやむことも多い。いろいろな境界が、建築には、あるけれど、壁もそのひとつ。境界として、外壁をみれば、いくらでも、あいまいにはできるけれど、たとえば、うごくようにするとか、壁を厚くして、外でも内でもない場所をつくるとか、ただしかし、きちっと、境界はきめなくては、いけない。それによって、法令順守と事業担保がはかられる。それはあたり前に大事なこと。

そのうえで、境界をあいまいにしたいのは、ものごとは、揺れうごくでしょ、そんなに、キチッとしてないでしょ、それは建築もおなじ、バッファーゾーンのようなものがあり、そのあいだだったら、揺れうごいてもいい、とすると、建築の決めかたも、できあがる建築も、かわるだろう。あたり前である、前提がかわるのだから、などと妄想してみて、バッファーゾーンがあると、いいなとおもう。

なにかと決まっていることがおおいので、なるべく、決まっていることはせず、そうすると、決まっていることがあいまいになり、そのまま、あいまいなまま、決まらないかな、そんなことはないのに。でも、この住宅は、クライアントに理解があって、あいまいのまま、けっこうギリギリまで、すすめて、アドリブもおおかった。それがよいか、わるいか、は別にして、決めるということを、見直す、キッカケにはなった。

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レンチンものづくり

行きつけの呑み屋、をつくったり、いつも同じものを、かったりたべたり、かならず通る場所とか、べつに、それでなくてもいいはずなのに、変えずに、同じをくりかえす。それで、あんしん感はあるし、よけいなことを、かんがえなくても、すむからいいのかもしれないが、ほんとうに、そのままで、いいのか、とギモンにおもわない、のだろうか。

たぶん、おもっても、変えられない、のだろう。変えるすべを、しらない。そんなときは、人まかせにすればいいのに。あいては、まかされて、喜ぶ、とおもうし。

けっか、おもいつけば、いいけれど、そんなこと、自分では、おもいもつかない。さいきん、はじめた、パンづくり、むずかしくて、時間がかかると、おもっていたけれど、レンチンで、15分あれば、できる。そのやり方を、ぐうぜん、SNSでしった。しろうとは、レンチンでパン、なんてできるんだ、と新鮮だったけど、プロにしたら、かんたんなこと、なんだろうな。

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なかった時間がながれはじめた

たったひとつ、大事なものがあれば、それだけで、なっとくしてもらえるのでは、といつも、かんがえ、プレゼンする。いつも、そうやって、そのときどきで、ちがうけれど、決め手は、いつも、ようぼうの奥にあった。

たったひとつの部屋を、よぶんにつくったり、まったく、常識とは、ぎゃくのことをしたり、いちどは誰でも、おもいつくがやらないことを、やったりした。

ここでは、たったひとりになれる居場所を、いつでも、つながることができるところに、つくった。空間とのかんけいは、使用者とながめる人にわかれるが、使用者とながめる人とのかんけい性がなかったので、トビラをあけることで、つなげてみた。このことで、おこったことは、いままでの暮らしにはなかった、かぞくの時間が、ながれはじめたこと。

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決めてみる、をしたい

はっきりと、こうしよう、と決まるのは、だいたい、動きだしたあとだが、動きだすまえに、なんとなく、こうならないかな、とか、こうならないとイヤだな、とかは、決めてみる。けっこう、いつも、この決めてみる、でどうするかな、となる。

せけんでは、はやい方がよく、こうりつよく、が良いとされ、とりあえず、あいまいでも、はやく動け、となる。ひじょうに、自分みたいなタイプはこまる。はやく動くのは、いくらでもできるが、そのまえに、決めてみる、をしたい。それがないと、いくら早くても、まちがった方向にいきそうになる。

それを言うと、まちがったら、引きかえして、またやり直せばいい、その方がはやいと。ちがう、ちがう、またやり直しても、たぶん、またまちがうか、さいあく、まちがいを無いものにしてしまうかもしれない、早くやるために。けっきょく、最初に、決めてみる、をした方が、けっか、早いし、良いとおもうのだが。

などと書いたのは、いま、そういうじょうきょうだからで、もうちょっと、じかんを下さい、とだれかにつたえたい、気持ちのあらわれでした。

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うまくいかないから、つづきがある

だいたい、あんぜんな方へ、かわらない方へ、いこうとする、本能だろうか。でも、かえるのが、スキだから、何ごとも、いまに定着しない、ようにする。けっきょく、いまいいのは、すぐに、あきるか、だめになる。何かをすこし、かえるぐらいで、ちょうどいい、といつも、おもう。

かといって、何年もおなじことを、し続けている。ふしぎだ。続けていることは、なかなか、うまくいかないこと。続けるコツは、うまくやらないこと、だったりして。

建築も、なかなか、うまくできない、もっと何とか、とおもうから、続いているのだろう。きっと、それがなかったら、うまれないことばかり。この画像の住宅は、いちだん、ギアチェンジしてみた。こまかいことの、精度をあげた。とたんに、うまくできないことばかり、になったけど、その次は、この精度がスタンダード、になって、また、ギアチェンジした。

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さかいは、いりますか?

境界について、きになることが、よくあるなとおもった。きっと、さかいとか、別々とか、はなれているとか、違いがはっきりしている、ことになにか、ていこう、があるのかもしれない。できるだけ、さかいをつくらずに、別々にならずに、はなれずに、できないものか、とかんがえる傾向があるかもしれない。

なに事にも、さかいはある。建築にもある。ただ、そのさかいは、たまたま偶然、そうなっただけとか、はじめからあったとか、便宜上そうなっただけとか、一時的とか、かならずしも、それである必要がなかったり、それだと決めつけなくても、なんとかなることもありそうな気がする。

そうおもうと、さかいを曖昧にしたい、となる。建築で、いちばん影響をうけるさかいは、敷地のさかい、だろう。このさかいだけは、なにがあっても、越えることができないし、曖昧にもできない。

ただ、さかいに、あらがいたい、それが、もしかしたら、設計するうえで、いちばんむすがしく、かつ、いろいろなことに、よい影響を、あたえること、かもしれないと、いまかんがえている。

前に、画像のように、建物の四周と塀とのあいだに、デッキを敷いた。デッキにより、室内空間が、敷地いっぱいまで広がり、その広がりは、敷地の外まで、拡張する意識、をつくりだす、とかんがえた。ただ、デッキによって、敷地のさかい、をよけい強調するけっか、にもなった。

いまは、さかいを別のしゅほうで、曖昧にすることを、かんがえている。

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たどると、いきあたるもの

なんとなく、気になる建築や空間を、おもいうかべながら、あれって、かたちだけ残して、あとはぜんぶ替えてみたら、どうなるのかな、とか、平面のプランはおなじだけど、かべの高さをかえてみると、とか、いちぶだけ、大きさをかえてみたら、どうなるかなど、あれこれ、妄想してみる。

そうすると、やっぱり、もとがいい、とか、あれっ、もしかして、なんてことを、また連想する。それで、じっさいに、かたちにしたら、オマージュとか、リスペクトとか、になるのだろうか。

ただ、そうかんがえると、無意識に、なにかしらに、影響をうけているから、もとネタはわからないが、いままでつくったものは、もしかしたら、すべてが、オマージュとか、リスペクトとか、になるのかもしれない。

それは、たくさんの建築にかんすることを、みききしてきたからで、いまこうして着想していることが、なにとつながるか、たどってみると、あんがい、面白いはっけんがあった。あした、その本をさがして、よんでみよう。

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いま、なにをみますか

カタがあると、それをだれかがくずし、またカタができる、そして、また、だれかがくずす。この一連のながれのなかで、どこに、いちばん、興味があるだろうか、とおもった。

はじめのカタがあること、そのくずし方、くずした後のカタのつくり方、また同じくずし方をするのか、など、ちゃくもくする点は、いろいろと、かんがえることができる。

きっと、自分は、また同じくずし方をするのか、に興味がある。カタなど、なにか主流のものがあれば、それとは真逆のものが、うまれる。そのときの、うまれ方、すなわち、カタのくずし方は、カタを相対化する方法をとる。

歴史はくりかえす、という。相対化する方法も、歴史をみればわかる。だから、また同じくずし方をするだろうことも予想はできる。しかし、それが、いつはじまり、だれがはじめて、どこではじまる、のかは、後になって、歴史になって、わかることで、同時代的には、なかなか、わからないこと、だとおもう。

ということは、また同じくずし方をするのか、に興味をもち、観察することは、いまをいきる、ことにつながる、とおもうし、そうすれば、いまがたいせつ、になる。いちばんは、いまかな、とおもう、きょうこのごろ。

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なにをつくりますか

見なれない、だから、すぐに理解できない、ふしぎなものと、見なれてはいるけれど、なにかが違う、とかんじるもの、どちらにも興味があり、じっさいに、りょうほうとも、この目で見てみたくなる。

では、じっさいに、自分がつくるとき、どちらのものをつくりたい、とおもうか。

見なれてはいるけれど、なにかが違うものは、いままであったものを、進化、あるいは、より洗練させた、ものだろう。見なれない、すぐに理解できないものは、いままでと、アプローチがちがう、あるいは、そもそも出発点がちがう、ものだろう。

いつもおもう、いままでに見たことがないもの、をつくりたい、と。だから、見なれない、すぐに理解できないもの、をつくることにひかれる。きっと、そういものは、画像では、すぐに、理解はできないけれど、じっさいに見れば、すぐに、なっとくするものだろう。

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まほうのことば、がふらせる

どんな形にしようかな、と最初は、かんがえていたのに、いつのまにか、どうやって形にしようかな、とかんがえている。

条件や要望を、形にしていくときに、ばくぜんと、かんがえているあいだは、手がかりがおおすぎて、まよい、形をむげんの海から、引っ張ってくるかんじ。そのうち、どうやって形にしようかな、と自然にかんがえているときには、あるていど、方向性がしぼれているしょうこ。

どうやって、って、まほうのことば、だとおもう。そうかんがえた瞬間に、形にむかって、すすみだし、形になる。

この階段は、ひかりが差しこむ、ところにある。だから、ひかりをさえぎりたくない。かといって、ガラスの階段では、ひかりが差しこむところに、あるいみがない。この階段があることで、ひかりの粒がみえればいい、これで、形のどうやって、のぶぶんができた。

あんがい、どうやってのぶぶんは、そのものとは、直接かんけいない、ところからふってくる。

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ひとが、そこに、いるだけ

まいにち、つづけて、それでいて、変化していくようなこと、きっと、暮らしはそういうものだ。

暮らしがおさまる器として、と住宅をかんがえるひとも、いるだろう。それで、いいとおもう。暮らし、という日常的につかわれる言葉で、住宅を表現することは、ひとつ、大切なこと、だとおもう。

ちがう言いかたをすれば、暮らし、という誰にでも、わかる言葉で、住宅をかたることの大切さ、住宅をかたることができるひとの大切さがある。

いっぽうで、ひとがいれば、自然と暮らしはおこる。大切なのは、そこに、ひとがどのようにいるか。暮らしは、たまたまそうなっただけ、として、住宅は、たんに、ひとがいる場所、にすぎない。

これは、もともと、暮らしは、その場所にあったのであり、たまたま、そこにきたひとと、むすびついただけ。暮らしは、つくりだすものではなく、環境にさゆうされる、都市の暮らし、山の暮らし、といったぐあいに。だから、ひとが歳をとるように、ひととむすびついた暮らしも、まいにち、変化していく。

このように、住宅と暮らし、を切り離してみると、もっと、根っこの、いま、そこに、ひとがいることを、形にする必要がある。それが、住宅のほんらいの姿、だとおもう。

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つながるキョリ、って

つながる、ってキョリの遠近とは、関係ないな、と電車にのりながら、いつも、おもう。となりの席のひとのこと、ではなくて、となりの電車のひとのこと。並走する電車のひとは、ちかいけど、まったく、つながることがないひと。たぶん、二度とあうこともない、かもしれない、あたりまえだけど。どんなに、キョリがちかくても、ふれることもできない、レールがまじわることがないから。

この関係性に、ひとてま、加えたら、たとえば、まじわることができれば、けっこう、りそう的な関係、になるかもしれない、とおもった。

ここでは、住宅が2棟、親族どうしで、ならんでいる。あいだに、きょうつうの、通路をもうけた。電車でいえば、同じレールをつかっている。それ以外は、まったくべつのもの、まったくべつの電車。ただ、ときどき、ぐうぜん、であうだけ、ふれることもできる、かわすこともできる。それが、お互いにとって、ここでは、ほどよいキョリかな、とおもった。

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偶然、かわるの、すき

建築みたいに、おおきくて、うごかないもの、に偶然性をおこすのは、むずかしい、と書こうとして、そんなこともないか、とおもいなおした。

建築ないぶに、偶然なにかが、おこるようにすることは、いくらでも、かんがえることはできる。が、建築じたいに偶然性を、まとうことが、できるだろうか。

すぐに、うごかないし、おおきいし、偶然性をまとうのは、むりかな、とおもった。偶然性をまとうとは、変化すること、例えば、太陽のひかりで、みえ方がかわるとか、になるのかな、それならば、とおもい、偶然もありうるか、とおもいなおした。

ただ、形がかわるようなことは、ないよな、やっぱり、うごかないものだし、ここでの偶然性は、形にかんして、言いたかった。可変って、建築にとって、やっかいかなこと。可変する機構をもりこむと、建築ではなく、機械になり、機械というメタファーをもちだしてくるのは、ふるくさい。

などと、ダラダラとかんがえながら、可変する、可動間仕切りを、よくつかっているな、すきなんだな、とおもった。

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すきじゃないと、いしきして

斜めがすきじゃない、まっすぐで、垂直で、四角がすき、だといつもスケッチしながら、おもう。だからか、坂道もすきじゃない、水平線がすき、地平線がすき。スロープよりも、階段がすき。円も、丸も、すきじゃない。べつに、こじんのすききらいなど、どうでもいいけれど、やっぱり、いままで、つくったものには、振り返ると、えいきょうがあるようだ。

だから、斜めや円、丸などは、いしきして、つかうようにしている。いしきするとは、なにか、意味をもたせたり、アクセントにしたり、そこをみて、というポイントにしたり。

ただ、いきなり、斜めや円、丸などをつかっても、こうかがないから、まっすぐや垂直、四角と対比させてつかう。この対比がうむこうかを、かんがえるのが、デザインのひとつかな、とおもう。

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余計なことしたい

べつに、そこまでする必要は、ないんだけど、とおもうときって、余計なことを、してると、かんがえているんだな、きっと。だけど、その余計なことが、ほんらい、じぶんがやりたかったこと、といまになって、気づく。

たいがい、余計なことは、オーダーには、ないこと。勝手におもいつき、勝手にやること。そのことで、1円ももらえない。これって、いつもおもう、経営者として、しっかくだな、と。

この住宅では、内装仕上げに、よくある下地材をつかった。どうやって、みせるか、がもんだい。ただ、つかうだけでは、芸がない。色をぬって、ごまかしたくもない、その予算もない。

板をつなぐ、ことにした。そのつなぎ方を、デザインする。そうすることで、つかう板が、なにかは、関係なくなる。

どちらにせよ、板をはることは同じ、つなぐことがおこるのも同じ、だから、つなぎ方のデザインは、余計なことになるかもしれないが、つなぎ方をデザインすることで、つかう板、つかう素材、素材の良し悪しが、どうでもよくなる、素材にいぞんしなくなる。これが、やりたかったこと、だった。

じつは、このことで、もっと余計なことをしてる。のちに、大工さんから、ゆめにうなされた、といわれた。画像には、うつらない、実物をみれば、すぐわかること、いままで、じふんも、ほかではみたことがないこと、ほんとうは、これの方が、やりたかったこと、かもしれない。

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チラみのかんけい

あちこち、みてしまうのは、集中力がないしょうこ、おちつきがない、とよくいわれたものだった。ものは、注意をひくために、できている、これをアフォーダンス、という。そもそも、興味をひかないものは、そこにないのと同じ、だから、アフォーダンスは、けっして、わるいことではなく、だから、おちつきがない、こともわるくない、とおもう。

この家では、みんな、行動がバラバラ、おもいおもいに、すごしていた。だから、いる場所がちがっても、お互いどこかで、つながってる感がほしかった。

なにげない日常の中で、なれ親しんでも、つながり続けるためには、興味をひきつけあう位置かんけいがひつようだ。チラッとみえる、かんけいは、お互いをじゃましない。

画像は、キッチンでの、奥さん目線。2階のひと、奥のひと、庭のひと、この家のひとの行動がチラみできる。きっと、チラみだから、なんか気になる、なんか興味がわく、そんなかんけいだらけの家が、いいとおもう。

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こうりつより勝るあいまい

どうでもいい、どっちつかず、あいまい、はネガティブなことで、なるべく、さけたいとおもうかもしれない。こうりつとか、はやくとか、を求めるときは、はいじょされる。

ただ、さいきん、このあいまいとか、どっちつかずの領域も、ひとつのかたち、になるとおもっている。

この住宅では、可動の間仕切りで、領域をつくるだけ。その領域が、そのときの必要におうじて、ついたり、わかれたりして、領域の大きさがかわる。

領域がきまっていないことは、こうりつの観点からいえば、非こうりつに、つながる。あらかじめ、きめられた、限定した領域の中で、うごくほうが、こうりつを追求しやすいから。

ただ、この住宅では、あいまいな領域があるから、いろいろな暮らしの可能性、それは、この住宅をじゅうぶんにいかしきる、という点で、こうりつより勝る、とかんがえた。

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色つき、色なし

色がついているものと、ついていないもの、をくらべると、色がついている分だけ、ひとつ特長がふえて、いいようにおもう反面、色がついていない、透明だから、さまざまなものを、そのまま鮮明に、映しだすことができるよさが、あるともおもう、ガラスのはなし。

ガラスを、色つきか、透明か、さいきんのなやみ、大したことがないなやみだけど、けっこうな時間をかんがえている。色つきだと、とうぜん、その色がガラスごしにつくので、鮮明にはみえないが、ガラスの微細な凹凸を、色が増長してくれる。ぎゃくに、透明だと、色による作用がないから、鮮明にみえ、ガラス特有の映り込みが、よりはっきりみえる。

この住宅では、透明にしてみた。日々の暮らしで、そのつどかわる色を、映すことで、さまざまな、暮らしの重なりが、壁の模様になる。それは、この住宅特有の、色になる。

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きょうかいは越えるためにある

きょうかい線、って、いろいろなものにあるけれど、さいきん、おもうのは、ちょっとでもはみ出したら、許されない感じが、つよい。建築のきょうかい線は、敷地のまわりにあり、たしかに、ぜったいに越えてはならないが、枝や葉が、空中を越えているのは、よく目にする。

それでいいとは、いわないが、うちもおとなりに越えているので、敷地のきょうかいが厳密なぶん、それぐらいのゆるさがあっても、いいような気もする、おとなりのかた、すみません。

いかに、きょうかいを厳密にまもりつつも、空中のような、いつでも、引きかえすことができるかたちで、越えていくか、って、実際にやるかどうかは、べつにして、一度はかんがえてみたほうが、いいことだとおもう、意識だけでも。

あんがい、なぜ、きょかいをまもるのか、の意味がわかり、そうすると、いままでと違った、きょうかいのまもり方ができるかもしれない。この住宅のように、おとなりの人と、かくしんはん的につながろうと、するかもしれない。

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やらせ?ぎわく

ちょっとでも多く、という心理、なるほど、よくわかるから、ロフトなるものをかんがえてみる。そもそも、あまりの空間をどうりようしようか、という発想のたまもの、だから、そこは、すなおに、あまりの空間さがしをしてみる。

ゆかした、やねうら、階段のおどりば、あとは、たかいところ、人がいきたがらない、ような、あまりはたくさんある。いっぱん的には、そのあたりが、ロフトや収納になる。

あまりの空間だから、いとてきに、空間をつくるのはNGらしい。あくまでも、空間のゆうこうりよう、ということらしい。だから、空間さがし、宝さがしみたいだ。

ふとおもう、宝さがしする空間は、はじめから存在していたのか?いや、つくったはずだ。ならば、ロフトを、さきにつくってから、空間のなかにうめこんでしまい、宝あったどぉ、なんて、やらせ?をしてもいいだろうか??

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壁なしでもいい気がする

こどものころは、外からかえると、勝手口からあがり、そこには台所があり、そこでなにかをしてる母親に、ただいま、とこえをかけた。むかしは、なんでも、手づくりだったから、つくるところを、みているのが、おもしろかった。

いまのほうが、家事は、だいぶ楽にはなっただろう。せんたくものは、干さなくてもいいし、レンチンで、おいしいものはたべれるし、ロボットが、そうじしてくれる。

もはやキッチンも、作業するところではなく、コミニケーションするところ、にかわった。家族といっしょにすごしながら、家事をする。もしかしたら、ゆっくりと、家族がすごせる場所がキッチン、ってのもわるくない。

家の外で、家族といっしょにすごすこと以外のことは、全部、みたすことができる。だから、家の中にいる目的は、家族といっしょにすごすことだけ。

この家には、コミニケーションするために、壁が、ひつようとされなかった。風呂とトイレ以外、壁がなくても、暮らせるんだ、とわかると、おもしろいことに、家の外と中のさかいの壁も、パブリックとプライベートのさかいも、なしにできそうな気になる。

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あつーいスープがとどく雰囲気

建築が複数あれば、関係がうまれる。関係がうまれれば、にぎわいができる可能性がある。だから、建築によって関係がうまれると、にぎあいをつくるためには、どうすれば、いいのか、をかんがえるようにしている。

よくあるのは、人のアクティビティを、建築同士の関係性に、からめること。複数ではなくても、例えば、建築によってつくられた、アトリウムなどの、大空間でもおなじだが、場所があり、人がいれば、かならず勝手に、あるいは、そこになにか、イベントのようなものをたすことで、にぎわいはできるだろう、というようなかんがえ。りくつで、人のことをかんがえ、あとは任せっぱなし、のじょうたい。

それでは、にぎわいはできないだろう。それで、にぎわうのであれば、せまい、路地の、呑み屋に人はあつまらない。

きっと、雰囲気だと、おもう。人がにぎわう雰囲気。それって、新規の建築計画が、いちばん苦手、とするところ、だとおもう。そこに、模範解答はなく、正解はなく、読めない。人のことを読めない、のとおなじ。

だから、ここでは、人のアクティビティを、建築同士の関係性にからめているが、建築が先ではなくて、人のアクティビティ、すなわち、人のからまり方を先にきめてから、建築をきめた。

人がからまり、にぎわうためには、その敷地の、どの場所に、どれくらいの形と広さが、あればいいのか。けつろんは、スープの冷めない距離感だった。それは、内部の部屋の構成にも、影響をあたえた。

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光のつぶが、みえますか

光のつぶ、というけれど、光がつぶで、みえるはずがない、とおもうが。

こんな話をきいたことがある、むかしは、雨つぶの存在が、みえなかった。むかしの西洋絵画には、雨がえがかれていない、地面はぬれているのに、というのだ。すなわち、それは当時のヒトには、雨つぶが、みえなかった。しかし、広重が線で、雨を表現したことで、雨つぶの存在にきづき、みえるようになった、というのだ。

真偽はわからないが、いままで、表現できなかったものが、表現できるようになると、それまで、きづかなかったものに、きづくようにはなるだろう。だから、もしかしたら、まだ、光のつぶを、表現できていないから、光のつぶが、みえないのかもしれない。

ここでは、階段をりようして、光をつぶで、とらえようとした。階段の段板と踊り場の床に、無数の穴をあけた。その穴をとおして、ふりそそぐ光は、無数の穴の輪郭を鮮明にし、つぶ状になる、とかんがえた。

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いっていのものよりまだ見ぬもの

じぶんが10年以上まえに、やったことを、いまだれかがやっていると、それはつかい古されたものか、それが当たり前になったのか、それとも、けっしてそのようなことは、ないとはおもうが、じぶんが早かったのか、などとかんがえる。

いずれにせよ、いま他のだれかがやっているのだから、それをいま、またじぶんが、やってもいいだろう、というおもいと、一度やり、いま他のヒトがやっているのだから、もうやる必要がない、ヒトとおなじことはしない、というおもいの、2つがうかぶ。

楽なのは、またやってもいいだろうだ。まえにやっているから、かんたんにできるし、失敗がない、それでいて、いっていの評価はもらえる。ただ、それだと、じぶんが満足できないだろう。いや、しごとだからと、割り切って、失敗がない、のがせいかいかもしれない。

10年以上まえのときも、ヒトとおなじことはしない、としてやったけっか、失敗しなかった。はじめてだから、しんちょうにもなり、いまだにきれいにのこっている。

さっきまで、あたまのなかを、グルグルとめぐっていたけれど、こうして書きながら、せいりされた。やっぱり、ヒトとおなじことはしない。そうしないと、このさき10年ごにこうかいしそうだ。

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あんしんのかたち

おおきなものに、包まれる感じは、あんしんする。包まれるものにもよるけど、おおきなものは、ときにはヒトかもしれない。あんしんしていられるヒトは、包むのがうまい。

包まれるあんしん感は、あんぜん地帯にもなる。ヒトにとって、あんぜん地帯はひつようで、その場所は日常のなかにあったほうがいい。

家って、あんぜん地帯になりえるもの。へやにいると、その包まれ感があんしんする。だから、この家では、その包まれ感をみた目で感じてもらうために、家のかたちのなかに、家のかたちをつくった。

いまいる空間を、見た目で感じてもらうことで、いまいる空間がわかる。あんしん感のみなもとは、きっと、このわかる感覚、ヒトもわかりやすいほうがあんしんするでしょ。

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大事ならちゃんとしまって

大事なものは、捨てられない。だから、いっぱいものが、たまるのかもしれない。みてると、たまるものは、行き先ふめいのものだ。ものがかえっていく所が、きまっていれば、たまらない。たまるというのは、目にみえて、あふれているからで、おさまっていれば、たまっているようには、みえない。

おさめ方がいいと、大事なものは、またちがった価値をうむ。大事なものは、ただあるだけよりは、自分とつながったもの、でいてほしい。

その木は、クライアントのお父さんが、なくなったときに、自然と道路ぎわに、生えてきたらしい。だから、のこしたい、それが最初の希望だった。そのまま道路ぎわより、きちんとおさまる場所をつくり、どこからでも、みえるようにした。

おさまる場所を、つくることじたいが、大事なものとつながることだから、あふれていてもいいものは、もしかしたら、なくてもいいものかもしれない。

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昼かお夜かお、くらべ

昼のかおと、夜のかおがあると、なんとなく、どちらがほんと、なんか疑わしい、などとなるかもしれない。どちらもほんとで、どちらがいいか、わるいかはなく、二面性があっていい、とおもうが、ハッキリしないものには、無意識に、しろくろをハッキリさせたい、となるから、じぶんにとって、都合のいいほうをしんじるようになる。

二面性は、いつも意識する。ふたつの間をいったりきたりしながら、片方をみると、よーくみえるものがあるから、それがなにかのヒントになる。

建築にも、昼のかおと、夜のかおがある。昼ははくじつのもと、すべてをさらけ出す。夜はそうさできる。夜は都合のいいところだけを、みせることができる。だから、昼のかおと、夜のかおをくらべて、変化しているところが、かくしたいところ、すなわち、その建築にとって、いちばんみせたくないところか、もしかしたら、いちばん重要なところ、かもしれない。

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へやをつくらず、へやにする

それができても、できなくても、たいしてかわりがないのに、やろうとすることは、気がつかないうちに起こりそう。たいがい、そういうときは、やること自体がいい、とされてきたことだから、そのことにギモンを持たないし、持てない。

へやはヒトがたまるところだけど、けっして滞在するところではないこともある。ヒトが通っていくところに、ひっかかるモノがあり、そこにヒトがたまる。しかし、それは一時的であり、またヒトはうごいていく。

そのくり返しでへやが成り立つならば、ヒトは滞在せずに、たまりながら、また次へ、うごいていく。このばあい、へやは廊下のようであり、ならば、廊下をめぐらせてから、その廊下をへやにすることを考えてみた。

はじめから、へやをつくることが当たり前だから、それにたいして、ギモンを持たないし、持てない。しかし、へやイコール建築ではないので、へや以外のところをプランニングすることで、へやをつくりだす試みをしてみた。

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単なるものでなくなる

こわいもの見たさ、高いところがこわいのに、高いところにいきたくなる。不思議なもので、高いところから、上を見あげたくなる。きっと、好奇心が、こわさにかつのだろう。

四層吹き抜けの、らせん階段をつくったら、ぐるぐると上を見上げながら、のぼるかな、と想像して、計画してみた。らせん階段は、いちばんコンパクトな階段、だから、省スペースのためにもいい。

すける段板は、最上階からのひかりを、拡散させながら、1階までとどかせるため、あと、上を見上げたときに、先まで見せるため。らせん階段は、ふつうの階段より、視線が上にいきやすく、上へのいしきがつよくなる。だから、好奇心をそそるしかけとしても、すける段板はいい。

階段をのぼることに、なにか他のことをたすことで、ひとの動きに、変化をもたらす。その変化は、空間の感じ方に、影響をあたえ、好奇心を刺激する。階段が、単なるのぼり下りのそうち、ではなくなる。

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としとっても新鮮ですか?

かわってしまうことに、抵抗があるのは、としのせいかな。ただ、むかしから、そうだったような気もする。ものはなんでも、最初はあたらしくて、だんだん古くなっていく。できれば、古くなってほしくないとおもってしまう。だんだんあたらしくなることがあれば、それがいいけれど。だから、なんとか、古くならないようにしようとする。でも、どうしても、古くなるから、古くてもいい、もっというと、古くなるほどに新鮮、という矛盾するようなことが、できないかなとおもってしまう。

古くなるほどに新鮮なさまは、年月をへてもかわらないのではなくて、年月をへてかわることによって、最初とはちがうものになり、それがあたしいみえ方になる、のだろうと考えた。

そこで、年月をへてかわる材料として、木をえらんだ。木を素地のままで、室内につかうと、くちはてることなく、焼けたり、変色して、のこりやすくなる。木の素地のままだから、焼けや変色がめだつが、それがかわったあたらしいみえ方、になるというストーリーをえがいてみた。

何十年後、生きているかわからないが、かわったところをみてみたい、いまが新鮮か、と。

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なにをみたいかな

その場所にたったとたんに、なんかスイッチがはいったように、急になにかをしだしたり、考えたり、おもったり、することはないだろうか。それがいいことでも、わるいことでも、なんでだろうとおもう。

美術館には、ひとの評判より、たんにおもしろそうだな、という理由だけでいく。たいがい、ウイークデイで、すいていて、人もあまりいなさそうな時間にいく。しずかにみたいのと、逆走するので。いちばん最初に出口までいき、全体をパッとみて、みたいところだけに、時間をかける。そうしないと、途中であきてしまう。人がいないと、逆走しやすくていい。そんなことするの美術館だけ、美術館だけのうごき。

きっと、うごきって、場所できまる、とおもった。広いところへいけば、のびのび、自由にするだろうし、狭いところへいけば、うごきが自然と制限される。ならば、細長いところへいけば、どうなるか。

細長い通路をとおって、家につく、そういう土地のかたち。この細長い通路をとおるとき、どうするか、自然と、視線は家にむきそう。きっと、この家で、いちばん最初にみえる部分が、いちばん時間をかけて、みるところになる。なにをみるか、夜ならば灯りかな。

窓の灯りが、この家のかたちになる。細長い通路と窓だけが対峙する。そのとき、昼の家のかたちはない。窓の灯りに、なにをみるか、なにがみえるか、なにをみたいか、それがこの家のかちになる、とおもった。

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やわらかい困難

やわらかくて、かたいもの、そんなものはあるはずがないのに、言葉ではいえてしまう。壁もそうかもしれない。かたくて動かないから、壁を困難や問題にたとえたりする。でも、困難や問題も、ずっと変化しないわけではないから、壁もどこかで、やわらかくて、動くもの、とひそかにおもっていたりする。

じっさいに、壁が動いたらたのしいな、忍者やしきじゃないけれど、壁が反転したら、べつのへやがあって、そこには金銀ざいほうとか、なんかあったりして、ぬけ道があったりして、そう動く壁って、いまの暮らしにないものがでてくるにちがいない、とおもえる。

だから、将来がわからないとき、壁は固定しないで、動かしてしまおうと考える。壁があつくなれば、ものがはいる家具になる。家具ならば、自由に動かしてもいい。ときにふさげば壁になる。動く壁は、空間も将来も、なにも固定しない。なにも固定しないから、やわらかい壁なのである。

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いっぱいの空をみたら

あたり前のことのようにみえても、しらないところで、いろいろ工夫しているのがプロかな、とおもう。たとえば、おすしのにぎり方にも、しらないところで、とうぜん工夫があるだろうし、なにげない動作にすべていみがあり、目のまえにでてきたおすしは、同じようにみえてもみなちがうし、そのちがいが味にでるとおもう。

窓をつければ、よほどとなりがすぐ建物でなければ、陽ははいってくる。ただ窓って、なんのために必要かな、っておもう。べつになくてもいいか、と考えると、いや必要だとおもう。では、陽がはいれば、それでいいか、と。

さいきんは、窓があったら、空がみたいとおもう。きっと、空がみえると、室内が気持ちよく感じるのではないかな。なぜ?きっと、空と室内をくらべるから。もちろん、空のほうがキレイだけど、空とくらべることで、室内のちょっとよいところをさがしたり、あるいは、ちょっと片づけしてよくしたり、なんてことがおこるような気がする。気持ちいいものをみると、自分もなんかしたくなるものだとおもう。

晴れだけでなく、くもり、ゆきでも、またちがった空にであえば、こちらの気分もかわるし、室内もかわる。これは窓だけができる暮らしのなかのはなし。そのために、となりの屋根のうえに、窓いっぱいの空をつかまえた。

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少なくしようなんていらない

少ないことはいいことだ、少ないことは退屈だ、きっと両方ともあるのだとおもう。よく、少なくすることはいいことだと、ミニマリストにあこがれる人もおおいけれど、できやしない、好きなものがたくさんあるからしかたない。それに、少なくするのは余分なもので、大切なものは少なくしてはいけないし、むしろ、ふやしたい。だから、バランスなんだと、少なくできない自分をいつもなぐさめている。

できるだけ部材は少なくしたい、できれば壁から板だけがでているような階段にしたい、と最初はおもった。ただ、それだと、いくら鉄をつかってもできなかった。ならば最低限、ほそい丸棒で上下の板をつなけば、そこで計算して丸棒の本数をだした。

ほんとは、たての丸棒と丸棒をつなぐように、間にななめの丸棒が必要とされたけど、つくって、いざ現場に設置してから、なくても大丈夫、ない方がきれい、だとおもいとった。

計算してふやし、現物をみて少なくした。いいことと退屈の差は、ほんとうは紙一重で、そこのせまい巾での判断に、少ないはもはや関係がないこと。少ないかおおいかなんて、けっきょく、どうでもいいことなんだとおもった。

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なんでもつくればいい

ないものは、自分でつくりたくなるもので、あるとき味噌がきれて、これってつくれないかな、とおもった。ただ、おもっただけで、まあそんなことを言っても、とおもいながら、いつもたべている味噌をそのときはまた買った。

ところがしばらくして、知人が自分で味噌をつくっているときいた。せっかくだから、体験してみたい、でもいつもの味噌になれ親しんでるからどうしよう、大概こういうとき、つくることにしてる。コーヒー豆もそう、自分で焙煎してみた、コーヒー好きとしては体験してみたい。

つくりたいのと、あと既製品はいやだ、というおもいがあり、つくれるのならば自分の手で、身の回りのものは、なんでもつくたい。漆のお椀も自分でデザインしてつくった。

ここにあう換気扇がなかった。せっかくの特注キッチンだから、換気扇もあわせたい。ただ、換気扇にはスポットライトを仕込みたいし、仕上げもゼブラ調の木目、形も、などとやってると、もう自分でデザインして、つくるしかない。それから、換気扇は自分でデザインしてつくることがスタンダードになった、味噌も。

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夜にうかぶ表情

帰ってきたとき、自分の家がどうみえるかが気になる、けっこう毎回。なんでだろうと考えても、よくわらがないが、帰巣本能が人にはあるときくから、きっと、自分の巣は大丈夫だったかな、と無意識にかくにんしているのだろう。

そんな思いもあるから、毎回、夜のみえ方を気にする。よくみせるとか、明るくするとか、それもあるけれど、どちらかというと、昼とはちがったみえ方になるようにしたいとおもう。

夜帰ってきた人だけがみることができる表情、それがより帰巣本能をたかめるような気がするから。夜の暗闇がよけいなものを消してくれて、より家じたいが浮かびあがるからこそ、それをみせたい。

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壁はあったり、なかったり

リバーシブルとが、一粒で二度おいしいとか、反転できるとか、そういったものによわく、すき。効率がいいからとか、お得だからだけではなくて、ひとつのことに対して、二面性があることが面白いとおもう。

何でもひとつではないと普段からおもっている。答えはひとつではないとおもえば、いろいろなことができる楽しさがあるはず、そこが面白いとおもう。

コンパンクに暮らしたいとおもうときがある。十分な広さがとれないとき、でも暮らしは充実させたい。あと、とうぜん広さには限界があるけれど、人は欲ばりだったりして、あれもこれもとなる。

そんなとき、よくやることは壁を固定しないこと。壁を固定してしまうと、そこでひとつに限定されてしまう。壁をなくすこともできるが、最低限の壁が必要なときもある。壁を固定しないで可動させる。たったそれだけのことで、同じ場所でいろいろなことができるようになる。

壁を固定しないことで、とじこもっていた人の動きが流れでる。そのとき、流れでた先でいろいろな科学反応がおこればいいなとおもうし、それがその家だけでおこるイベントになるはず。きっとそれはその家の人にとって、よかったな、とおもうことにぜったいになる。

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ここはどこ、2階か

好きな形ってだれにでもあるでしょう。こどものころ、らくがき帳にずっと渦まき模様をかいていた記憶がある。なぜかいていたかは覚えていないけれども、大人になった今ではかきたいとも思わないから、きっとテレビかなにかでみて、それをマネしていたのかもしれない。

大人になったら、こんどは三角形をよくかく、屋根の形として。屋根の形はなんでもよくて、半円でも、フラットでもいいのに、三角形にしたくなる。木造の屋根としては、三角形が一番おさまりがいいから、それはそれでいいのだが、別に三角形でなくてもいいのだから、ちょっとそれにこだわる理由をかんがえるときもある。でも、自分のことながら、よくわからない。

ただ、2階の天井だけは意識して三角形にする。屋根の三角形の形を天井にも表して、いまいる場所は屋根に近い、すなわち、空に近いですよ、と思わせたい。

いまいる場所はどういうところなのかを形で表すことは大切で、とくに家はこころの安全地帯なようなものだから、自分がいたい場所といまいる場所を意識しないでも合わせることができるのが重要、安心感が生まれる。そのための形、そのための三角形ということです。

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バラバラだよ、何とかしよう

なるべく手ぶらで歩くのが好きで、携帯だけあればいい。どうしても携帯以外で必要なものがあるとき、秋から春にかけてはジャケットやコートがカバンがわりになる。

とにかくバラバラと何かを持ち歩くのが嫌い、なるべくまとめて少なくするか、目立たないようにして存在を消すか、別のものに置き換えて全く別の何かに見せたい。

空間の中でいつも心がけているのは、天井をスッキリさせること。天井には何も設けないか、最低限の小さな照明だけと決めている。頭の上にごちゃごちゃあると落ち着かないし、空間が煩雑にみえる。その分、壁にものが移動してくるが、壁には元々いろいろなもの、たとえば、家具などがくるから、うまく処理すれば目立たず、むしろ特徴にすることもできる。

壁に取り付ける予定だったものは、スピーカー、エアコンの吹き出し口、給気口、照明器具だった。それぞれバラバラの形や色をしている。そのまま取り付けては機能的かもしれないが、煩雑な壁がただ出現するだけ、何かできないか。

共通なのはすべて「穴」だということ。穴があればそこに仕込めばいい。穴がたくさんあっても、要素は壁面と穴だけになり、煩雑さを避けることができ、うまくみせれば、特徴的な壁になる。天井はスッキリ、壁には穴があるだけ、空間に手ぶらの良さが生まれる。

そもそも暮らしは煩雑さとのせめぎ合い、人間が煩雑な存在なのだから仕方がない。だから、その煩雑さをうまく使って、暮らし自体を面白くしたいといつも思う。

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どうして広くしたいの

せまいより広い方がいいに決まってる。すべてを広くできれば一番いい。ただ、広さには限界がある。だから、どこを広くして、どこをせまくするかもデザインのうち。広いリビングがほしいとの話はよくあり、できるだけ、それにこたえるようにしている。広いという表現は曖昧だから、それをどうあつかうか。

領地の奪い合いではないけれど、極端に差がつけば広いと感じるのではないかと思った。広さには限界があり感覚的だから、数値で置き換えても意味がなく、比較の中で広さを感じてもらうのが一番わかりやすい。

リビングの横に広さを比較できる小さいものをつくった。それは本来は大きくしたいが、小さくても事足りるものがいいと思い、小さい浴室にした。浴室が小さい分、となりのリビングが広くなっているということが視覚的にも、また頭でも理解できれば「うちのリビングは広い」と感覚的に思う。

本来、広さは何かをするときに必要な分だけあればいい。その分だけ確保できれば、あとは感覚的な広さをつくり出す。そのときにもデザインが力になる。

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括弧つながり

2つの言葉「バラバラ」「つながりがない」はどちらかと言うと否定的な言葉、あまりいい意味では使われないし、言わない。それでも案外使ったり思ったりする機会は多いような気がする。

ただ、バラバラだけど、つながりがあれば、それはいいような気がする。しかし、まとまりがあっても、つながりがないと、それはダメなような気がする。

そうすると、「つながり」のありなしが大事ということになるし、もっと言えば「つながり」があれば、何らかのものにはなるかもしれない。何らかのものとはいいもの。

ならば、何とつながりをつくるか、と考えるだろう、普通は。それにはなぜか違和感がある。「つながり」自体はそこらじゅうにあるし、いくらでもつくることはできるから、意図的にやろうとする、ただそれは不自然な「つながり」になるような気がする、「つながり」があれば何でもいいという訳ではない。

そうではなくて、「つながり」自体が括弧になっているようなものをつくることが大事かなと思った。括弧になっているとは、「つながり」自体はすでに含まれていて、「つながり」自体を考える必要がない状態になっていること。むずかしいけれど、括弧つながりでないと本当の「つながり」はつくれないと思った。

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家が出会う場

出会うってたのしいなと思う。男女の話だけでなく、出会う人はどんな人でも、自分の知らないことを連れてきてくれると思っている。旧知の人でも、たとえば、街中でとつぜん出会ったりすると、その人のいままで知らなかった一面をみることになる。もちろん、良いことばかりとは限らないけれど、いつも同じ人、同じことのくり返しよりは、なんか可能性を感じることができて、いいなと思う。

だから、出会いをつくり出すことが場づくりの基本だと考えている、それは住宅も同じ。家族や同居人とも出会うような感じがあれば日々の暮らしにもメリハリや、よりたのしむ感じが生まれるでしょ。

それぞれの居場所はきちんとつくる、落ち着く場所を。その上で移動したとき、たとえば、階段の上り下りによって、お互いの姿がみえ隠れするような、オープンとクローズドのバランスのとり方をデザインしてみた。完全にひとりではなく、かといって、いつも一緒でもなく、その中間をたくさん用意し、ひとつの住宅のなかに毎日出会いがある。

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キョリ感なくしたら

そろそろもう必要がないかな、と思う間にあるアクリル板、あるのが普通だとない方が不自然な感じにもなる。アクリル板をなくすかわりに、なんかちがったことで、アクリル板があった方がよい、となることはないかな、と考えるときもある。

壁なんかない方がいいと思うとき、私は床もと思う。壁は人のこころのキョリ感をはかる言葉してつかわれるけれど、床も同じように考えれば、床はこころの上下か階層のキョリ感か。

昔、斜面地で斜めの床を計画しボツにはなったけれど、斜めの床で上下階がつながり階層なくなるなら、それは斜面地という場所を最大限にいかすことになり、また階層がある当たり前の計画に対するちがった提案にもなるから、それはそれでいいのではと思ったことがある。

ささやかな上下の階層をなくすこころみとして、2階の廊下の床の一部を透明ガラスにした。そこを通らないと2階の各部屋には入れないようにして、そのガラスの床は1階のダイニングテーブルの真上にある。

あきらかに上にはあるけれど、下からも丸見え、上下の関係性が微妙にゆがむことで、暮らしにちょっとだけ他にはない体験をはさむことができ、外より家の方が面白いとなれば、をつくってみた。

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集まれここに

ものはこうして欲しいとうったえる。だから、何も知らなくても、押してしまうし、触ってしまうし、にぎってしまう。その形が何を意味するか、自然にわかる。TVリモコンがあれば、赤いボタンをとりあえず押す、それが電源のonoffたがら、まじまじと見なくてもそう思う。それをアフォーダンスという。ものが誘惑する、そうしてと。

小さな窓ひとつ、あとドアがあるだけの外壁面、色違いのラインがランダムに入る。そこに、うすい1m弱の出っ張りが端から端まである。

何か出っ張りがあれば、雨露しのげて、日差しをさえぎることができるから、まわりに何もなければ自然とその下にいく。大きな木の下へいくのと同じような感じかもしれない。

外壁の素材はよくある金属板、だから安い。そのままふつうに使えば、よくある住宅で馴染みがあるかもしれないが、そのような住宅があふれる中では金属板である意味がない。金属板でできる表現のうちで、もっとも住宅らしくない使い方をして、まわりの住宅とのちがいを出し、しかし、住宅とは人が集まるところとするならば、他の要素を重ね合わせて人を自然に集める。

見た目の住宅感を装飾してつくりだすのではなくて、人が自然と集まる場所としての住宅感をだしたかった。そうすることで、人と住宅のつながり、人ともののつながりが自然にでき、それが愛着にならないかな。

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壁あるな、ないな

いつもいっしょでなくても、あそこにいるというのがわかれば、とくべつ意識しなくても、安心した気持ちでいられる。つながったり、離れたり、何ごとにも関係性はできる。人にたいしてだけでなく、でも人かな一番は。さっき宅急便が指定時間よりおくれてきた。大事な荷物だったから、でも今どこかにあるのかわからなかったので、来なかったらどうしよう、などと思ってしまった。

小さい家でも、いや小さい家だから工夫しないと、それぞれ自分だけの場所をつくって閉じこもるような気がした。だから、少しでいいからお互いに今いることがわかるような工夫をしてみた。

階段を上り下りするときにチラッとみえたり、室内の窓から顔がみえたり、半階ズラして同じ場所にいても自分の場所ができるように。

いつも、まったく壁がないときと壁だらけのときの間のどのあたりがちょうどよいのかをさぐってみる。それは、いろいろなつながりが壁の量にあらわれるからで、壁の量が暮らしをつくりだすと思えば、暮らしや空間を壁ではかることができる。壁のあるなしが気になるのは人でも空間でも同じだなぁ

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となりもこちら

となりは何気にみえてしまうから気になり、「隣の芝生は青い」ことになるのはよくあるでしょう。となりは良くみえるものと、わかっていてもなんか落ち着かない。ならば、一緒に何かをしてしまえば、「なんだあ」と相手をよく知ることができて、落ち着いたりする。

前に、兄妹クライアントの住宅を別々につくった。そのときはひとつの敷地を半分にして、となり同士に建てる計画、要望はまったくちがったが、全くつながりがない住宅を並列に建てるのは、なんかよくないと思った。そもそもつながりがある同士だから、住宅にも何かつながりをつくりたい。

ただ、もともとつながりがある同士だからゆえに、離れていることも大切、だとは思っていた。そこで、玄関にいたるアプローチだけを共有にした。となりの敷地までお互いにつかうことで、倍のはばの通路がとれ、そこはお互いの家族の遊び場にもなる。

要望がまったくちがったので、住宅の大きさも外形もちがうが、外壁の仕上げだけは同じにして、つながりがあるもの同士だと表現し、アプローチに面する窓もお互いにズラしながらも、窓越しにコミュニケーションできるようにした。

アプローチだけを一緒にすることで、別々だけどまったく別ではなく、かと言って、よくある建売住宅の並びのような同じさにはならない。このバランスならば、「隣の芝生は青い」ことにもならないでしょ。

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ここからみる屋根はどう

遠くからみえる屋根が郷愁をさそうことは、たとえ実際に体験したことがなくても、なっとくしてしまう人がいると思う。むかし、合掌造りの集落を訪れたとき、だんだんとみえてきた三角屋根は、はじめてみるものでしたが、どこか前から知っているように感じた。なぜだかわからないけど、子供に家の絵を描かせると三角屋根になる。屋根にはそれだけイメージや感情とむすびついた何かがある。別の言い方をしたら、アイコンのようなもので、屋根は人の意識の一部に常にあるのかもしれない。

屋根の形にはいつも悩んでしまう。意識の一部にある屋根は誰でもイメージしやすいものとして常にスタンバイしているから、形はわかりやすく、イメージしやすいものがいい。ただ、それではアイコンとしては弱い。数あるアイコンとしての屋根がならぶ風景の中で自分のアイコンだとわからなくてはいけない、自分の家だから。

前につくった住宅は三方向から遠景としてみることができた。だから、三方向の全てでみえる屋根の形を変えた。屋根の形を考えるとき、まわりの屋根と比べることがある。それは高さや形がアイコンとしてふさわしいかどうかをみる場合、まわりのアイコンとちがいを出したいから。ただ、このときは比べる相手を三方向の屋根の形同士にした。

みる方向によって屋根の形がちがうことで、無意識に家と自分の位置関係を感じる。それは屋根の形を、単なるアイコンではなく、家と自分をもっと深く強くむすびつけるものにし、より愛着がわくようになる、家に、そして自分に。

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まじめに緩くして

たくさんの器、昔のものも今のものも、古染付や古九谷、民藝など1日でたくさんみることができた。器にくわしくはないけれど、器は大すき。ふだんの暮らしの中で何をつかうのか、どの器に盛ろうかな、どの器で飲もうかな、と迷うのがすき。

いろいろみて思ったのがつくる側とつかう側、みる側と言ってもいいかもしれないけれど、お互いにちがうところが気になる。つくる側にはつくる側の動機があり、つかう側にはつかう側の流儀がある。みる側はその両方を合わせ持つのかもしれない。

ときに、そのつくる側とつかう側のズレがおもしろい。つくる側の精緻さの具合いによって、生まれるものの良し悪しは決まるが、つかう側はその精緻さの具合いまで含めて迷う。

ふだんの暮らしにはその人の趣味趣向がでる。趣味趣向はその人の考えや想いのあらわれ。ただ、人は気分にも左右される。かっちりしたいときは精密なものを、おおらかにしたいときは緩いものを、というように精緻さの具合いまで趣味趣向の範疇になる。

そうすると、つかう側からみて、緩いもの意識してまじめにつくってほしくなる。そうなると余計おもしろい。今度はその緩さの具合いに良し悪しがあらわれてくる。ただ、つくる側は大変、緩さを精緻につくろうとするのだから。

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そちらに向けばいいのに

どちらを向くかってけっこう大事だなと思いながら、ついよそ見をするクセが。よそ見はいつでも向けるからという余裕かもしれないけれど。

東西を電車と道に挟まれた場所ではどちらを向いても空いているが、どちらを向いても視線が気になる。元の家は暗くて寒い。ただ、南と北は建物が接近している。一般的には南に開くのがよくあるパターンだけれども、空いている方に開く方が将来的に周辺環境に左右されない。電車にちょっとだけ開く、道にちょっとだけ開く、あと空にちょっとだけ開く。

開くはそちらの方へ向くことだが、ちょっとだけ開きながら背を向けることもできる。そうすると案外、外から見てもわからない。ちょっとだけ開き背を向けるとは中から見て視界の半分までの窓をつくること。経験上、半分までは窓にしても中外どちらからも気にならない。よそ見もいいいけれど、きちんと向いた方が今までのことを一旦保留にできて、新しい機会が増えるような気がする。

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ミニがいいだろうという顔

ほとんど車に乗らないのに持ってはいるので、たまにバッテリーが上がらないように用もなく走り回る。2台とも小さい、軽トラと古いミニクーパー。やはりないと困るときがあるので、あと愛着。もともとあまり車に興味がなく、必要に応じて軽トラと、あのときなんかほしかったミニクーパー、すでに27年がたつ。小さくても全く乗り心地がちがう2台、ミニから軽トラに乗り換えると、軽トラが広くただ走りは鈍く感じる。やはり自分はミニの小ささと軽快な走りが大好きなんだと毎回気づく。

前は狭小住宅の依頼がけっこうあったので、小さいなりの工夫をしていた。小さいなりの工夫とは、効率よく機能的にして省スペース化を実現する、ことではなくて「小さい」から「大きい」にはできないことをして「大きい」よりも「小さい」方がいいだろうという顔をするということ。

小さいが故に実現できることを探し出せば、大小のちがいをいったん保留にできる。そうした上でクライアントの暮らしに合わせていけば、まだ見ぬ空間ができあがるかもしれない。

前につくった住宅はあまりに小さくて必要な広さの空間がとれない。どうしてもひとつの空間に複数の行為が重なる、例えば、朝に顔を洗う横で目玉焼きをつくり洗濯をしているとか。一見それは乱雑な空間のように感じるが、それがクライアントの朝の習慣で、細長い空間の中で順番にできたら、クライアントにとっては快適で、さらにその空間がまだ誰も見たことがない景色になる可能性を小さいが故に実現したことになる。

「小さい」ということは制約だが、それは「大きい」も同じで別の制約がある。大小はひとつの条件にすぎず、可能性に差はないとミニに乗るたびに思う。

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見るは見られるだよ

着ている服が変わっただけで、たとえば安もののスーツでも、ふだん着ていない人が着るとよく見えたり、別人に見えたりする。中身が変わったわけではないけれど、中身まで別人のようで、案外本人も知らないうちにふるまいが変わる。そう自分もはじめて着物を着たときにそれを感じた、それは別の自分の発見にもなった。だから、たまにいつもとはちがうことを、それも他人から言われた方がいいかもしれない、自分の思いつきだとまた同じになるから。

ある時、前につくった住宅の屋根にあがるときがあった。たしかクライアントから何かを見てほしいとたのまれてのことだった。その住宅にはトップライトがあり、2階の床がガラス張りだから1階まで屋根から見える。トップライトの真下はダイニングテーブル、テーブルの上にはいろいろなものが置かれ、人が座ったり立ったり動いているのが見えた。いつもとはちがう見え方、日常では見ることができない風景、四角いトップライトが切り取るある家族の日常を記録映像風に見ているようだった。

設計しているときにはこのイメージはなく、むしろダイニングテーブルから見上げる空のイメージしかなかった。他からトップライト越しに室内を覗かれることはないので、見ることだけで見られることは考えていなかった。

ただ、この風景を見てからトップライト越しに見上げる空が身近に感じるようになった。うまくは言えないけど、一方通行の関係が双方向になったような。どんな風景でもこちらも見られていると思うと見せ方は変わるだろう。ならば見られることを身近に親近感を持って感じた方がいい。そうして生まれた別視点が新たなもの、例えば新たな自分、新たな暮らし、新たな空間を生みだすかもしれない。

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ものは試しに、飽きたらそれで

昔のツァイスレンズをデジタルで使いたくてカメラを手に入れた。ものは久しぶり、最近は形がないものに、と思ったら最近マグカップが増えた、毎朝のコーヒーのために。ツァイスレンズは15年くらい前に手に入れたもの、ずっと防湿庫に閉じこもっていたけれど、最近写したいものができたので防湿庫の鍵を開けることにした。せっかくカメラを手に入れても飽きたらどうしようとも思ったが、それならば飽きたという経験ができるからいいかなと。

時々、自分ではやらないが面白そうなオーダーを受ける。前につくった住宅ではすべり台がほしいという。ずっとマンション暮らしだったから、2階建ての住宅に住んだことがなく、階段の上り下りが面倒くさい、だからすべり台とのこと。

そもそも広い住宅ではないから、すべり台のスペースがもったいないし、たぶんまちがいなく飽きると思ったので、クライアントに正直にやめた方がいいと言って思った、見方をかえれば、下りの時は1階と2階の区別はなくなり1階と2階はつながる。

結果この住宅は、そもそも2階にある個室に壁がなく戸で仕切るだけ、1階はワンルームのキッチン、ダイニング、リビングだったので、2階からみれば全てがつながって感じられ、逆に1階からみれば階段があることでちがいが出て壁がない2階のプライベート感が増し、個室に壁がないことがよりよくなる。

試しにやってみて飽きたらその時考えればいいかな、いくらでもやりようはある。飽きたらすべり台に下から本を並べれば、階段が図書室に、積読にはもってこい、読みたいところに座ればいい。

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甘い誘惑にみたされて

空気を感じる、というと何か人間関係や場の雰囲気など目に見えないものをわかることを指すけれど、それを建築に当てはめてみることもできそうな。

建物があると人がいて、その建物と人との間には空気が充満している。空気は見えないけれど、もし空気に色をつけるならば、建物の外の空気と中の空気はちがう気がする。

その中の空気のことをボリュームといえば、ちょっとふわふわなやわらかい透明なマシュマロを思わず想像してしまう。人のまわりにある透明なふわふわマシュマロをどのようにあつかえばいいか。壁を建てないと流れ出てしまうが、壁の建て方によってはふわふわマシュマロでもみたされない場所ができそうな、きっとそういう所は人がいなくてもいい場所か、ひとりになれる場所になるのかな。

空気とすると冷たい空気、温かい空気などそれはそれでなんか良し悪しがあって窮屈だが、マシュマロだと思えばなんか笑えてくる、甘そうで、甘いものに弱いから誘惑されそう。日曜だからとぼんやり妄想してみたら、案外ヒントになったりして。

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キョリを感じるとき

キョリという言葉をすぐとなりの人にも、実際にはすぐとなりだから離れていないのに「心の距離がある」などとつかう。キョリというものは実際に目に見えること以上に多様な使われ方をする。

建築においてキョリは図面上の表現になる。その表現にさまざまな意図をのせるが、その意図はキョリと密接に関係しながら、読み取らないとすぐにはわからないときも多い。

例えば、壁を間に建てればお互いに遮断しているとわかるが、壁を建てたくないときは、間を離してキョリを取る。壁があれば目で見て遮断はわかるが、キョリを取ったときは他のものとのつながりも同時に見ないと遮断してるのか、つながりは保とうしているのか、どちらなのかがすぐにはわからない。表現がより複雑になる。

前につくった住宅で個室の壁を無くした。そのかわりに引戸で仕切り、個室状の空間を数珠つなぎにつなげた。各個室状の空間は大きさが微妙にちがう。誰がどの空間を使うかは大きさとお互いの離れ、すなわちキョリで決める。別に固定する必要もない。家族の成長に合わせてキョリも調整すれば良い。キョリの多様な使われ方を利用してみた。

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となりに緑がほしい

緑に包まれたい、ただ見るだけでなく緑に抱かれるような感じで過ごしたい。緑の多い場所、山や森や林に行きたい時はきっとそう思うのでは、私はそう思う。ただ見るだけならば、ちょっと緑の多い場所、都市のちょっと大きな公園などでも、それではもの足りないから自分のとなりに緑があるくらいの近さがほしい。そうすると、自分と緑との間にどのくらいの空間があるといいのかなどと思ってしまう。

自分は建築の中にいるとしたら、建築と緑との間にどのくらいの空間があるのがいいのか。建築の中に緑があったとしても自分との間に空間はできる。ようするに緑との接近度、親密度を間にある空間の大きさ具合ではかろうということ。

緑は自然、建築は人工、自然と人工の対立は昔からある話で、くっきり分けるのではなく自然と人工を混ぜたような状態も考えられるが、いずれにせよそこには人がいて、人は本来自然の方のはずだが、人と自然という対立になる。そうするとややこしくなるので、間にある空間を扱って人と自然をどのようにつなげるかをめぐらしてみると、案外単純な話にならないかな。

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じゃまなら合わせるのは

家を建てると皆んな緑を置きたくなる。プランターを外に置く人、家の中に置く人、大小いろいろだけど何かしら緑を増やす。それを勝手に自然の中で暮らしていた名残りではないだろうかと思ってる。

人間は大昔自然の中にいて最小限の自分を囲う小屋や巣のような場所で暮らしていた。それは身を守るため、ほかの大部分は自然だった。それがいまでは逆転し大部分が自然ではない人工のものになった。それで大昔のような危険はなくなり身を守る必要はなくなったが、今度はあまりにも自然がなくなりすぎて、それでは身が休まらないと本能的に感じているのかもしれない。人工のもの、すなわち建築がわるいという訳ではないが、人間という生物が生きて行くには自然と人工のバランスがあり、都市部ではバランスがわるいということだろう。

敷地の中に10本の木を植えようと計画している。なぜ10本かは10家族が暮らす予定だから、ひと家族1本、それによって暮らしにいつも木をまとわせる。だから、建築もはじめから木をまとうので、木のまとわせ方が建築を決めていく。それは木の方から建築をみることになるので、建築がじゃまならば建築が木に合わせることになる。

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ひとりになれたね

なんか大変そうだな、はじめての打合せで感じたことを貴重なヒントだと思って気にとめてみた。これから建物をつくろう、住宅を建てようとする人はどこかいつも勇ましくみえる。新しいことをするとき、思い切るとき、ちがったことをするとき不安をかき消すためにちょっと背伸びしたくなる、そのぶん見栄えがよくなるのかな。

ときに住宅だと家族のつながり具合がプランに影響を与えるときがある。余程ちがいを感じないかぎりはそのようなことはしないが、できれば感じたことをうまく建築的な要素として取り込み、ちょっと他にはないものを提案したい。

先ほどの「なんか大変そうだな」は以前につくった住宅のご主人、こちらまで息がつまりそうな気になった。プレッシャーを抱え込む感じ、それだけ家族を大事にしようと。初回の提案からひとつの住宅の中に離れをつくった。簡単に言えば外部であるバルコニーを通ってしか行けない部屋。ただし、その部屋は内向きに窓があり開けるとリビングからもお互いの存在がわかる。ご主人がひとりになれて好きなときに家族とつながることができる、ご主人しだいのご主人だけの場所。

昔から部屋の並びには序列があり、一番奥の部屋ほどプライベートで閉鎖的につくられていて重要な場所だとされてきた。その序列はときに有効だが、ときに住宅の規模くらいの建築だと序列を誘導し助長してしまう。ワンルームにして序列を全くなくしてしまうこともできるが、奥の場所と手前の場所につながりをつくり出すことができれば、部屋の並びは残しつつ序列は排除できる。この方がより建築としては望ましい方へ行けるだろう。

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たまたま屋上だった

高所恐怖症なのに高いところが好き、高層ビルでも屋内ならどれだけ高くても平気、むしろ行きたくなるのに、生身の身体がさらされているところは2階くらいの高さでも怖いから足場の上にはできるだけ行きたくないのに。ただ不思議なことにいまはないWTCの屋上は外に出れたが怖くなかった。あそこまで高いと地上から離れすぎているからかな。

2階くらいの高さでも屋上は貴重な外とつながる場所だと思い計画することがある。建設中何度も見に行くので慣れれば怖くない、むしろ地上とはちがう楽しみを発見する。見渡すと案外上空をうまく使っていない家ばかりなので、地上の庭よりプライバシーが守られて広大な空に近いから解放感があり快適な場所になる。

ただ、だんだんと使わなくなるときく。たぶんそれは屋上というスペースをとってあるだけだから、とくに使わなくてもいいから。強制的に使わせようとしてもダメだが、ないと困るというか、あるから良いとなるような工夫が必要。

前につくった家では屋上で遊ぶ姿が直下のリビングから見えるようにした。人が集まることができる場所、戯れる場所を分散することで家中いたるところがリビングのようになる。たまたま屋上が外のリビングになればいい。きっとこの「たまたま」な感覚が大事で強制はされないがあれば楽しめる場所になる。

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上を見上げてごらん

曇り空がきらい、雨の日は雨音が癒やしてくれるのでまだいいけれど、朝起きて晴れているだけで一日中気分がよく、特にいまの季節の秋晴れは気候もいいので窓を開け放して過ごしたくなってしまう。

いま住んでいる家は築50年、10年前くらいにある住宅メーカーが建てた家を購入し手を入れた。道路から奥まりまわりは建物に囲まれて1階にあったキッチンとリビングは日当たりが悪かったので、1階と2階の部屋を逆転して、キッチンとリビングを2階にした。おかげで晴れの日は一日中陽が適度にあたるのでずっと快適に過ごしていられる。

まわりを建物に囲まれることは住宅地以外でも、例えば商店街などは道路側以外はとなりの建物が接近している。そういう場合でも上階にはオーナーが住む場合があり、時には住宅地よりも日当たりが悪い。

日当たりが悪いことを別の言い方で「眺望が悪い」「閉鎖的」とも言えると思う。南側に窓がなくても他の方位に窓があればあまり日当たりが悪いとは思わないだろう。だから一番避けたいことは眺望がなく閉鎖的であること。

空は地上の事情とは関係なしに平等な存在。そんな空とつなげることが眺望を得て開放的になれ、そして、いまいる地上の状況を相対的に良くしてくれる。上を見上げれば良こともある。

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小さいから魅力的

小さいものが時に魅力的で、その魅力はどこからくるのだろうか。1995年に新車で購入したミニクーパーにまだ乗っている。その小ささが特徴的ではじめて生産された時の技術は素晴らしいものだったらしい。

今でも変わらず新鮮なままの体験が運転している時の感覚で、この感覚が実に楽しい。きっとそれは小ささに由来しているのではないか。小さい車体にエンジンやギアボックスなどを収めるために様々な工夫をし無駄な物を排除しているから、実に運転感覚がシンプルでアナログ。なかなかアナログな道具が減ってきている時に私にとっては貴重なストレス解消アイテムだ。

小さい住宅はいくつかつくった。あまり大小にこだわりはないが、小さい住宅の方が工夫しがいがあるから結果的に楽しい設計になる。室内では何かの存在自体を根本から見直ししないと入り切らないから、新しいことを考えるきっかけにもなる。

それは屋外でも同じで、小さい住宅というのはそもそも敷地も小さいので、余すところなく土地を使い切りたい。以前つくった住宅では敷地境界線までの距離を少し余計にとり、建物の周り四周に敷地境界線までウッドデッキを敷いた。普通に建てると敷地境界線と建物との間に普段使われることがない場所ができてしまう。その場所を室内と連続させることにより、小さい住宅の室内を少しでも広く感じさせることができた。

結果的に小さい住宅の方が敷地全体を余すところなく使い切ることになった。それは小ささに由来している。小さいということを積極的に捉えると大きいものでは獲得できない魅力に出会える。

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木が木に見えないよ

木は土の地面から生えている、だから何も見ないで木の絵を描いたら普通に地面には土を描くだろう。地面が土ではなかったらとは誰もイメージしない。だから、木と土の地面はセットであり、土の地面がないと木もないと思う。

突然木が目の前に現れた感じがした。そこは地面が砂利敷き、駐車場から続いた場所だった。砂利から木の幹だけが生えている、もっと言うと、どこかで伐採した丸太を持って来て、そこに立てて並べているようにしか見えなかった。

地面に土ではなく砂利を敷いたことで、地面と木がつながらなくなった、まるで別のもの同士、全く関係ないもの同士の組み合わせに見え、そうすると、木自体も木に見えなくなった。

今までの木とはこういうものという既成概念から抜け出た。そこで改めて木について考えると、例えば枝同士に渡して屋根をつくれば木は柱にしか見えなくなるなど、木が多様に変化しはじめるような気がした。

木が木に見えない、ならば木がある場が必ずしも屋外である必要がなくなる、あるいは、木がある場を屋内的な使い方をしても違和感がなくなる。既成概念を抜け出せれば、思いのままに木がある場を新たな空間にできる。

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庭があることで

先日の何もしない庭をつくった話のつづき、今は何かする庭をつくろうとしている。そこには1本の木を植えたい。むしろ木を植えたいから庭をつくろうとしている、と書いてふと思った、室内に木を植えたらどうなるだろうか、いややめよう、それも面白いが今は収拾がつかなくなる。

ただ1本の木を植えるだけでは庭にならない。その木があるからどうなの、ないとどうなの、庭の形は、庭のとなりに何がくるのなど、木を植える庭があると暮らしの中で何が変わるの?

以前に1本の木を植えた庭つきの住宅をつくった。その木はクライアントのお父さんが亡くなった頃から自然に敷地内に生えてきたらしく、残したいということで移設して庭の真ん中に持ってきた。その木はキッチンからもリビングからも眺めることができる、それが要望だった。

木が見えるということが家族のつながりを無意識に象徴することになった。庭は木のためだけにあるようなものだが、その庭がないとプランは完結しない。何もしない庭も同じだが、庭はあることでつながりをつくり出す、つながりがなければ庭はいらない。

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集まれその木に

たくさんの小鳥が木にとまり茂った葉の中で鳴いているのを何度か見た。ちょっと怖い風景でもあり、どうしてその木にと思う。小鳥に好かれている木は他と何がちがうのかと観察してみてもよくわからない。たまたまその木だったのか?

人にも好かれる木と好かれない木があるのだろうか。都市部にいると木が少ないからそもそも木の好き嫌いを思うことがなく、樹種にかかわらず大括弧で木としか思わない。でも、たくさんの木がある場所に行ったら自然と人が集まってくる木はありそうな気がする。

たくさんある木のうち、ちょっと根元に腰掛けやすそうだな、寄りかかりやすそうだな、張り出した枝の下は木陰になっていて涼しそうだなとか、人とのつながり方がイメージできそうだと自然と集まりそう。そうすると、小鳥には小鳥なりの人間にはわからないつながり方をしているということか。

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ここは空に近いよ

悩ましいのはいつも屋根のかたち、意外と屋根は目立つ。近くで見上げるとあまり見えないが、ちょっと離れると屋根がよく見える。なぜ目立つのか、たぶんそれは一番空に近いから、屋根の形がそのまま反転して空のかたちになるから。

2階の部屋は屋根のすぐ下にあるから、空に一番近い部屋となる。だから、それを表すために天井は屋根の裏の形をそのまま見せることが多い。無意識にここは空に一番近い場所だと、地面からは離れた場所だとわかってもらうために。

時たま天井をフラットにして空を意識させないようにする。そういう場合は2階にいながら地面を意識させたい時でだいたい広い庭か中庭がある。だから、狭小住宅の場合は必ずと言っていいほど2階の天井は屋根の裏を見せて、上へ空へ意識が抜けて少しでも広さを感じるようにする。

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階段ラバー

階段が好き、そう言うと階段に好き嫌いがあるのかと思われるかもしれないが、過去に1人だけ出会った階段好きに。妙に話が合い、その人はローマのスイペン階段が一番すきだと言っていた。私より若く学生だった彼の口から「スペイン階段」という言葉が出てきたのがちょっと意外で、でも納得してしまった。

よく階段に座りたくなる。2段分にかけて腰掛けるとちょうど椅子の高さと同じくらいになるから、階段を見ると休憩場所だと思うクセがある。スペイン階段もまさに腰掛けだ。

階段はいろいろなバリエーションをつくってきた。階段好きもあるが、階段はひとつの見せ場だといつも思う。階段を上がることは舞台に上がるようなもので、別の世界に運んでくれる。だから、上がった先には何かを用意したいし、上がっている途中も何かを感じさせたい。

別の場所へ行くために、時には休み、時には何かを感じ考え、時には下り、時には上がる。階段はいろいろと例えることができる。それはまるで何かのようでもあり、だから好きなのかな。

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壁なくてもいいよ

まず外と内というような分け方をします、家の話なのですが、案外他のことにも当てはまるかもです。領域というかテリトリーというか、自分たちの安全地帯をつくるように壁を建てて室内をつくります。

その室内に一緒にいる人たちは家族や仲間だから安心、でもお互いに隠したいことはあるからまた壁を建てて囲います。そうやって家はできます、古来より簡単なんです、家づくりは。

ただ、壁のバリエーションはいろいろです。それは人とのつながり方と同じです。何度も会い本当に親しい人から一度きりの人までいて、人によって会った時の感じがちがうようにです。

前に建てた住宅で壁が必要ありませんでした。1階は家族が集まるスペース、2階は各自のスペース、その2階に壁がありません。正確に言うと、引戸があるだけ、必要に応じて仕切るだけ、でもそれは壁ではないです。ご夫婦とお嬢さん2人のご家族、壁がなくてもいい暮らしができることをうらやましく思いながら設計してたな。

壁が必要だと、壁で囲うのが当たり前だと思うことで人のつながり方まで決めつけていたようです、壁はなくなった方が面白い空間ができるのに。

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何もしない庭つき一戸建て

庭つき一戸建て、なんて言葉があるようには庭と家はセットだった、一昔前までは。今ではマンション暮らしの人も多いし、一戸建てを建てる人も庭などはじめからない場合も多い。マンションだから、敷地が狭いからと理由はあるだろうが、そもそも庭が必要ないのだろう。

前に建てた住宅は1階のリビングと同じ大きさの庭をつくった。その庭にはウッドデッキを全面に敷いて室内のリビングの床と同じ高さにした、リビングの延長として広く見せるためとリビングに光を取り入れるために。だから、はじめから庭に出ることは考えていなかった。それで十分で、それで豊かな生活になるだろうと思った。

その庭はリビングが十分に広くて日当たりが良ければなくてもよく、ただリビングとつながって見えるようにするためにウッドデッキを敷いた。そうしないとその空間が生きないから、生かすためにリビングの暮らしと関連づけて何もしない空間をつくった。

10年後その住宅に訪れるとウッドデッキは多少古びたが完成当時と変わらずに何もしない空間があった、まるでそこの空間だけ時間が止まっているように。きっとそう見えたのも何もしない空間だから、でもそれがよかったのである。何もしなくても庭はあった方が日々の生活が豊かになると、室内を見渡して、ご家族を見て思った。

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空を使う

空って当たり前のようにいつもあるけど、うまく使えていない。窓越しに空は見えるけど景色の一部、天気を気にするくらい。使うという表現がいいかどうかわからないが、空だけがみんなに平等に与えられた自然のような気がするから、うまくいかさないともったいないとつい思ってしまった。

自然には他にも緑、木や水辺の川、海、地形として山や谷などがあるけれど、場所によっては身近にはない。だけど空だけは見上げれば誰の上にもある。

建築で空をいかそうと天井をガラス張りにした家を見たことがある。誰でも一度は考えることだ。ただそうすると、夏は暑過ぎて、冬は凍るように寒く、人が住める場所ではない。

空を使うって案外むずかしい。それに空を使わなくても建築はできてしまう。だから誰も真剣には考えないのだろう。ちょっとは空を使ってみてはどうなの、と秋空が教えてくれたような気がする。

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建築にマヨネーズ

コールスローをつくろうとしたら冷蔵庫にマヨネーズがなかった。普段マヨネーズを使うのはあと玉子サンドをつくる時くらいで、それもあまりつくる訳てはないから大体使い切らずに消費期限を過ぎてしまう。キャベツの千切りを別の食べ方にしようかとも考えたが、

ふとマヨネーズをつくろうかと思った。

ネットで調べたら、材料は全て家にあった。卵、酢、オリーブオイル、塩を混ぜればいい。卵は平飼いのもの、取り入れる油はオーガニックエキストラバージンオリーブオイルかグラスフェッド無塩バターだけと決めている。少し高いが他のものは使わないのでかえって安上がりだ。

10分後、オリーブオイルを使うからちょっと苦めのゆるい出来立てのマヨネーズはそれだけで贅沢なソースに変身した。あと茹でた野菜やパンがあれば、ヨーロッパでは平日の立派なディナーだろう。

結局、もうマヨネーズは買わない。

その分、冷蔵庫のスペースは空くし、余計な出費もなくなり、贅沢な気分にもなる。ちょっとしたことである。

ないから足すのではなくても、自作しても、ものを減らしてミニマリストにしても、あるいは、余分なものを削ぎ落としてレスイズモアなミニマムデザインな建築にしても時につまらないことがある。きっとその原因は結果的に新しい価値を獲得していないからである。マヨネーズで言えば、自作するが市販のマヨネーズの代替品でしかない時である。

そうそう関係ないが一昨日見たリヒターの作品は当たり前のように巨匠の域であったが、

マヨネーズ工場のようにも見えた。

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現代と和風を比べる

現代建築と和風建築を続けて見る機会があり、見た目は全く違う建築だが、繊細さやクオリティの面では共にハイレベルなので、建築について考えるきっかけとなりとても面白ろく、両方共に内部と外部をつなげるような空間構成だが、共に線が目立つ建築だった。

現代建築の方は築20年近く経ち、完成当初から何度か見に行ったが、今回は端部や継ぎ目の線が気になった。劣化もあるだろうが、今つくろうとするとシームレスにでできることが当時の技術的限界でできなかったのだろうと感じた。

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和風建築の方はそもそも線材を多用し、線材によって領域を分割していく。故に線が目立つのだが、現代建築と比べることで線材が結界になっている感じがした。

"Compare modern and Japanese style"

I have the opportunity to see contemporary architecture and Japanese-style architecture in succession, and although they look completely different, they are both high-level in terms of delicacy and quality, so it is very interesting as an opportunity to think about architecture, and both are spaces that connect the inside and the outside. Although it was composed, both were buildings with conspicuous lines.

The modern architecture is almost 20 years old, and I went to see it several times from the beginning, but this time I was worried about the edges and seams. There may be some deterioration, but I felt that what I could do seamlessly when I tried to make it now was not possible due to the technical limitations of that time.

Japanese-style architecture uses a lot of wire rods in the first place, and the area is divided by the wire rods. Therefore, the lines stand out, but I felt that the wires were a barrier compared to modern architecture.

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記憶を重ねる

建替えの歴史を重ねてみた。増改築を繰り返した今ある建築を一度全て壊して新たに建替える。その増改築の記録と新たなに建築する場合の標準的なプランを重ね合わせてみた。標準的なプランは建築士の設計製図試験の模範解答のようなものであり、それで一般解としての担保とした。

重ねてみることで、重なりの密度が濃い所と薄い所ができる。単に壁量の違いにも見えるが、それが人々のアクティビティの痕跡にも見える。

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アクティビティの痕跡だとしたら、アクティビティを入れ替えて重なりの密度の違いに全く違った意味を持たせることができるのではないかと思い、それは新たなプランに記憶の継承という影響を与えると考えた。

"Accumulating memories"

I tried to repeat the history of rebuilding. All the existing buildings that have been repeatedly expanded and renovated will be destroyed and rebuilt. I tried to superimpose the record of the extension and renovation and the standard plan for new construction. The standard plan was like a model answer for an architect's blueprint test, so it was collateralized as a general solution.

By stacking them, you can create a place where the overlap density is high and a place where the overlap density is low. It looks like a difference in the amount of walls, but it also looks like a trace of people's activities.

If it is a trace of activity, I thought that it would be possible to replace the activities and give a completely different meaning to the difference in the density of overlap, and I thought that it would affect the new plan by inheriting memory.

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利便性を手放す

都市の一部分としての建築という見方をしてしまうと、都市が持っている利便性や効率性を担うものになってしまう。利便性や効率性は都市にとって最大の利点であるから否定をする必要はないが、あまり行き過ぎると息が詰まるので、適度な利便性や効率性に調整をしたく、そのためには都市の一部分としての建築から脱したいと考えている。

都市の利便性や効率性を担っているものはむしろ建築以外のものが多く、それらに任せて建築は利便性や効率性を担うのを止めるのは乱暴過ぎるだろうか。

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建築は都市の中でも圧倒的に多いものなので、その影響力は計り知れないが、だから利便性や効率性を手放したいと考えてしまう。

"Let's give up convenience"

If you look at architecture as a part of a city, it will bear the convenience and efficiency of the city. Convenience and efficiency are the biggest advantages for the city, so there is no need to deny it, but if you go too far, you will be choked, so you want to adjust to moderate convenience and efficiency, so as a part of the city. I want to get out of the architecture of.

There are many things other than architecture that are responsible for the convenience and efficiency of the city, and is it too violent to leave it to them and stop the architecture from being responsible for the convenience and efficiency?

Architecture is by far the most abundant in the city, so its influence is immeasurable, but it makes us want to let go of convenience and efficiency.

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創作する

自由に創作するためにわざと制約を設ける。全くの自由では次にすることは制約を求めることだから創作に向かわなくなる。制約から自由になるために創作に意識が向く。創作のコツは制約を設定することであり、制約を別の言い方をすれば、常識、慣習、課題かもしれない。要するに全くの自由な創作というのはそもそも成り得ないということであり、それを逆の状況から言えば、常に創作の種となる制約は身近にある訳だから、捉え方しだいで創作がいつでもできるということである。

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"Create"

Constraints are intentionally set to create freely. With total freedom, the next thing to do is to seek constraints, so you will not be able to create. Being conscious of creation to be free from restrictions. The knack of creation is to set constraints, which in other words may be common sense, customs, or challenges. In short, completely free creation is impossible in the first place, and from the opposite situation, there are always restrictions that are the seeds of creation, so you can always create depending on how you think about it. That is.

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内面の発露

人の内面が現れるような場をつくりたいと常に思っており、それが内部空間ならば、人の内面の発露を誘発するようなものをデザインしたいと考える。

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それは外部空間でも同じだが、外部空間の場合は周辺環境への影響、周辺環境からの影響を考慮する必要もあるので、人の内面の発露を誘発するより、周辺環境に働きかけ、周辺環境が人の内面の発露を誘発するようにしたい。

"Inner dew"

I always want to create a place where the inside of a person appears, and if it is an interior space, I want to design something that induces the exposure of the inside of a person.

The same is true for the external space, but in the case of the external space, it is necessary to consider the influence on the surrounding environment and the influence from the surrounding environment. I want to induce the dew on the inside of the.

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はじめの見え方

きっかけがある訳でもないのに、遠くに見えている、ぼんやりだけれども、何かそこにある、段々と近づくにつれてハッキリと輪郭が立ってくる。はじめからそこにあると意識していたようにピンポイントで見つけたような、まわりはボヤけてピントが合っていないけれど、そこにあるのは遠くからピントが合ってわかっていた。

きっとこれらは自分の何かが対象物と結びついた結果で起こる現象だろう。もともと関心があること、探していたもの、興味があったものであれば、結びつきはわかりやすい。その結びつきを予測して、そこにそっと置くだけで良い。ただ、そうすると、もともとの関心や興味などが無ければ何も起こらない。

何も無いところに何かが起こることもあると仮定してみると、そこに置くものはどのようなものが良いのだろうか。目立つものか、奇抜なものか、これらは一瞬は意識するかもしれないが、見慣れたらただ普通に風景に溶け込み、結果何も起こらないような気がする。

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もしかしたら、はじめの見え方としては引っ掛かりも無く、意識することも無く、ただそこにある位からはじまるのが良いのかもしれない。

"How to see at the beginning"

It's not a trigger, but it's visible in the distance, it's vague, but something is there, and as it gets closer and closer, the outline becomes clearer. I found it pinpoint as if I was aware that it was there from the beginning, but the surroundings were out of focus, but I knew that it was in focus from a distance.

I'm sure these are phenomena that occur as a result of something of your own being associated with an object. If you're originally interested in, what you're looking for, or what you're interested in, the connection is easy to understand. All you have to do is predict the connection and gently place it there. However, if you do so, nothing will happen if you do not have the original interests and interests.

Assuming that something can happen where there is nothing, what is the best thing to put there? Whether it's conspicuous or wacky, you may be conscious of these for a moment, but once you get used to it, it just blends into the landscape normally, and as a result, nothing happens.

Perhaps the first appearance is that there is no catch, no consciousness, and it is better to just start from there.

一番難しいこと

何者かになりたいことと、何者でもないことのギャップに苦しむ人が多いと最近思った。

意外と誰でも何者かになりたいと思うのだろう、FacebookなどのSNSを見ているとよくわかる、何者かになりたいと思う時点で残念なのだが、何者にもなれない。

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この瞬間に、手を動かして、誰かの、自分の、隣の人を喜ばせればいいのに、それをしない。それが一番難しいことで、誰も簡単にできない。

"The most difficult thing"

I recently thought that many people suffer from the gap between wanting to be someone and being nothing.

Surprisingly everyone wants to be someone, you can see well by looking at SNS such as Facebook, unfortunately when you want to be someone, but you can not be anyone.

At this moment, you can move your hand to please someone, your own, or your neighbor, but you don't. That's the most difficult thing, and no one can easily do it.

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捨てる捨てない

モノだらけは断捨離とは真逆で捨てられずに貯めるだけ貯めて整理もできていない状況で何かと弊害があるように思うが、先人が何を大事にしていたかがよくわかる。

捨てられないとはいえ、その人にとって不要なモノは捨ててはいるはずだから、残っているモノはその人なりに偏る。

古い地図と古い名簿がたくさん残されていた。地図好きは知っていたが、伊能忠敬に興味を持っていたから、今は用をなさない名簿にはいろいろな繋がりを感じる。

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断捨離をするとしたら、真っ先に捨てられるモノばかりである。ただ、捨てて捨てて最小限の暮らしと、偏った不要なモノに囲まれた暮らしと、どちらが、いやどちらかを選択する話ではないと思った。

"Throw away, don't throw away"

It's the opposite of decluttering, and it seems that there is something wrong with the situation where you can't just store and organize things without throwing them away, but you can see what the ancestors valued.

Although it cannot be thrown away, things that are unnecessary for that person should have been thrown away, so the remaining things are biased toward that person.

A lot of old maps and old rosters were left behind. I knew that I liked maps, but I was interested in Ino Tadataka, so I feel various connections to the now useless list.

If you want to cut it off, it's all the things that are thrown away first. However, I thought that it was not a matter of choosing between a minimal life that was thrown away and thrown away, and a life that was surrounded by unbalanced and unnecessary things.

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退去の時

時は様々なものを蓄積させる。記憶としての思い出の蓄積だけでなく、もの自体も勝手に蓄積する。

30年使用した事務所を退去し移転することになった。普段は見えない所に過去の仕事の痕跡がたくさんあり、自分も含めて誰も整理をしてこなかったので、ここ2、3ヶ月は30年分の仕事の痕跡を取捨選択し、何を残すのか、何を捨てるのかがずっと頭の片隅にあった。

結局、過去の仕事は自分が生み出した分身のようなものだと思い、すでに自分の手からは離れているが、生み出すまでの過程が記された線一本までが愛おしく、ほとんど捨てることができなかった。自分が生きている間は伴にするものだと覚悟してパッケージした。

今までものに溢れていた事務所が空になった。事務所の空間自体には特に思い入れはなく、郷愁に駆られることはないが、ものが溢れていた状態から空になった状態への変化が全てを表しているような気がしてスマホで写真を撮った。

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自分好みに制作した建具越しに2部屋を撮影した。この事務所の空間に自分が手を加えたのはこの建具だけであり、この建具で自分が実現したい見え方をつくり出した。

"When moving out"

Time accumulates various things. Not only the accumulation of memories as memories, but also the things themselves are accumulated without permission.

It was decided to move out of the office that had been used for 30 years. There are many traces of past work in places that are not normally visible, and no one, including myself, has organized them, so for the past few months, I have selected the traces of work for 30 years and left what to leave. I was always in the corner of my head about what to throw away.

After all, I think his past work is like an alter ego that he created, and although he is already out of his hands, he loves even one line that describes the process of creating it, and almost throws it away. I couldn't. She was prepared to accompany her for the rest of her life and packaged it.

The office, which was full of things, has been emptied. I don't have any particular feelings about the office space itself, and I'm not driven by nostalgia, but I feel that the change from an overflowing state to an empty state represents everything on my smartphone. I took a picture.

She photographed two rooms through the fittings she made to her liking. This fitting was the only one I modified in the space of this office, and I created the look I wanted to achieve with this fitting.

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コンテクストを書き換える

外壁と内壁の違いは周りの環境のコンテクストを表しているので、見た目にも外壁と内壁には違いが出る。時には外壁と内壁の違いが今いる場所の手掛かりになる。

ならば、擬似的に外壁と内壁の区別を変化させることにより、周りの環境のコンテクストを書き換えてみる。書き換えるための指針は自らをコンテクストにすることで、それは自律的建築へとつながる。

最初に周りの環境のコンテクスト通りに外壁と内壁をプランニングし、次の段階で自らのコンテクストによって外壁と内壁の区別を変化させ、周りの環境のコンテクストを書き換える。

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これにより、周りの環境の中に新たな環境を入れ子状に築くことになり、それは周りの環境のコンテクストに影響を受けるという他律的な状況から自律的な建築を生み出すことができ、周りの環境の中で、都市の中で、違和感がなく自律的建築が納まることになる。

"Rewrite the context"

Since the difference between the outer wall and the inner wall represents the context of the surrounding environment, there is a difference in appearance between the outer wall and the inner wall. Sometimes the difference between the outer and inner walls is a clue as to where you are.

Then, try rewriting the context of the surrounding environment by changing the distinction between the outer wall and the inner wall in a pseudo manner. The guideline for rewriting is to make oneself a context, which leads to autonomous architecture.

First, plan the outer wall and inner wall according to the context of the surrounding environment, and in the next stage, change the distinction between the outer wall and inner wall according to your own context, and rewrite the context of the surrounding environment.

This creates a new environment nested within the surrounding environment, which can create autonomous architecture from the heteronomous situation of being influenced by the context of the surrounding environment. In the environment, in the city, autonomous architecture will be settled without any discomfort.

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不確実かどうか

対立するものがうまく溶け合うような解決策を探している。設計をしていると終始解決策を探しているようだ。

頭に浮かぶイメージには必ず実現困難なことが纏っている。最初から何もかも無理が無くすんなりと実現するようなことは無い。そもそも焼き回しのようなことはしないから、その都度新しい要素を加える分、不確実なことも増える。

不確実であるから、わからないから、興味も湧き、様々な事に関心を持つようになる。

実は空間の不確実性は必要かどうかを考えていた。何もかもが手に取るようにわかる空間は果たして魅力的かどうか。優等生的には確実性の産物が建築なのだろうが、建築を使う人が建築の全てを把握することはないので、確実性に富んだ建築にしたところで意味が無い。

では魅力的な建築や空間ではどうだろうか、「魅力的」という言葉も曖昧で不確実だが、少なくとも設計する側は不確実性を無くそうとする。それが設計だと言わんばかりに曖昧さを無くそうとする。だから、解決策を考える。ただ、ふと不確実な様には惹かれ心動かされてしまう。その惹かれる心と魅力的な空間に魅了される心は同じような気もする、根が同じような。

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結果的には不確実だった、確実性を高めた結果の産物が、そうでなければ、ただいい加減な建築が増えるだけである。意図して不確実な建築をつくる、それが良さそうだと考えた。

"Uncertainty"

I'm looking for a solution that blends well with the conflict. It seems that he is always looking for a solution when he is designing.

The image that comes to mind always has something that is difficult to realize. From the beginning, everything is not unreasonable and can be realized smoothly. In the first place, we don't do things like burning, so adding new elements each time increases uncertainties.

Because it is uncertain, I don't know, so I get interested and become interested in various things.

Actually, I was wondering if spatial uncertainty was necessary. Is the space where you can grasp everything in your hands really attractive? As an honor student, the product of certainty is probably architecture, but since the person who uses the architecture does not know everything about the architecture, it is meaningless to make it a highly reliable architecture.

What about attractive architecture and spaces? The word "attractive" is vague and uncertain, but at least the designers try to eliminate the uncertainty. It tries to disambiguate as if it were a design. So think of a solution. However, I am attracted and moved by the uncertainties. The fascinated heart and the fascinated heart of the attractive space feel the same, the roots are the same.

The result is uncertain, the result of increased certainty, otherwise there will only be more sloppy architecture. I thought it would be good to intentionally create an uncertain architecture.

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2020→2021

2020年は今見ている風景が全てではないと思い知らされ、2021年は今見ている風景がさらにもっと全てではないと思うかもしれない。

いろいろな価値観が変わったが、自分が移動することで直に見ていたものを、移動せずに目の前で、しかしデバイスを通して見るようになった。きっと直に見ることで無意識に感じとっていたことが、デバイス越しにはカットされ無意識には届いていないだろうと思いながら、そうせざるを得ない状況に可能性を見出すならば、直が大事なことなど案外少ないとわかったことかもしれない。

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今この時を少しでもポジティブに考えるならば、2021年はより大事なことだけが明確になるだろう。その時どうするか、他を捨てる心構えをしておく。

"2020 → 2021"

You may realize that 2020 isn't everything you're looking at, and 2021 isn't all that you're looking at.

Many values have changed, but now I can see what I was seeing directly as I moved, in front of me, but through the device, without moving. If you think that what you felt unconsciously by looking directly at it will be cut through the device and not reach you unconsciously, but you find the possibility in a situation where you have to do so, then Nao is important. You may have found that there are few things unexpectedly.

If you think about this time a little positively, 2021 will only clarify what is more important. At that time, be prepared to throw away the others.

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感情を選ぶ

「選択する」というアクティビティが人と建築をつなぐ。その時に選択するものは何か、それは「感情」を選択することにしようと考えている。

人の感情は目に見えるものではないので、それを目で見える形に置き換えてやる必要がある。その置き換えを建築的に考えると、感情によって居場所を選ぶことにする。

はじめは居場所を選ぶというアクティビティが人と建築をつなぐ。居場所を選ぶ時の基準が感情であり、それを繰り返していくと居場所に感情が紐づけられて、居場所を選ぶことが感情を選ぶことに変化する。

例えば、「嬉しい」気分になりたいからあそこへ行こうなど、感情を引き出したり、コントロールしたりするようになり、それによって居場所が決まるから建築の見え方もそれによって変化する。

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「感情的になる」という言葉があるように、感情によって左右されることは良くないように思われるかもしれないが、人は理性で行動しているようで、実はその理性が感情に支配されていることが多く、社会を見渡しても個人の感情を現実の中で受け止めるような受け皿がない。その受け皿に建築がなるのは「衣食住」という言葉があるように人の基本的な拠り所に建築がなるので必然的だと考えている。

"Choose emotions"

The activity of "selecting" connects people and architecture. What to choose at that time, I'm thinking of choosing "emotion".

Human emotions are not visible, so we need to replace them with visible ones. Architecturally considering the replacement, I decide to choose a place based on emotions.

At first, the activity of choosing a place connects people and architecture. Emotions are the standard when choosing a place of residence, and by repeating this, emotions are linked to the place of residence, and choosing a place of residence changes to choosing emotions.

For example, if you want to feel "happy" and want to go there, you will be able to elicit and control your emotions, which will determine your whereabouts and thus change the way you look at architecture.

It may seem that it is not good to be influenced by emotions, as the word "become emotional" is, but it seems that people are acting with reason, and that reason is actually dominated by emotions. Even if you look around the society, there is no saucer that can accept individual feelings in reality. I think that it is inevitable that architecture will be built on the saucer because it will be built on the basic basis of people as the word "clothing, food and housing" is used.

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できる方法を

今日はずっと滞っていた案件が少し動いた。まだまだだけど、やっと面倒くさいことを精度高くやってくれそうな人たちに巡り会った感じで、そのことに少し確信めいたものを確認できた。

やはり、実際にお会いして、こちらのやりたいことを目の前で顔を突き合わせながら、アクリル板越しでも、自分の声で伝えないと、いくらメールでPDFの図面をやり取りしても、相手との間合いとか、表情とか、仕草とかを感じ取りながら創造しないと、難易度が上がれば上がるほど、精度を高めることができない。

できないことはできないとしながらも、それでも何とかできる方法を考えようとする姿勢だから時間はかかるが、まさにそれを、それが普通だとは思うのだが、望んでいたので打合せをしていて楽しく、また、この機会に詰められることは可能な限り詰めておきたかったので、次の予定の時間にくい込んでしまった。

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いずれにしても、これからの仕事では開口部の精度を高めることができる。そのことが非常に嬉しいし、創造の及ぶ範囲も広がった。

"How to do it"

The matter that had been delayed for a long time moved a little today. It's still a long way to go, but I finally met people who seemed to do the troublesome things with high accuracy, and I was able to confirm what I was a little convinced of.

After all, if you do not actually meet and tell what you want to do with your face in front of you, even through the acrylic board, with your own voice, no matter how much you exchange PDF drawings by e-mail, with the other party If you do not create while feeling the time, facial expressions, gestures, etc., the higher the difficulty level, the more accurate you cannot improve.

Although I can't do what I can't do, it takes time because I'm trying to figure out how to do it, but I think it's normal, but I wanted it, so it's fun to have a meeting again. , I wanted to pack as much as possible on this occasion, so I was busy with the next scheduled time.

In any case, the accuracy of the opening can be improved in the future work. I'm very happy about that, and the range of creativity has expanded.

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素材と形と内容

建築の内容が気になり、どうしても建築は素材があって形になると考えてしまうが、形は空間の輪郭で、その空間にある「内容」に興味がある。

内容となると物から離れていくように感じるが、建築は物そのものの代表的な存在だから、それだけ物としては強度があるから、内容に焦点を合わせても物としての建築の部分は必ず残る。

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この場合、内容とは建築を使う人が織りなすことで、人の感情や気分などが建築に作用することであり、素材と形という対概念において、両方を上手くとりなし、人の感情や気分がその都度、空間をつくるものである。

"Material, shape and content"

I'm curious about the contents of architecture, and I think that architecture has materials and forms, but the shape is the outline of the space, and I'm interested in the "contents" in that space.

When it comes to content, it feels like it's moving away from things, but since architecture is a representative of the thing itself, it's strong as a thing, so even if you focus on the content, the part of architecture as a thing always remains.

In this case, the content is weaved by the person who uses the architecture, and the emotions and moods of the person act on the architecture. In the opposite concept of material and shape, both are well handled, and the emotions and moods of the person It creates a space each time.

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素案という現実ではない情報

先日のプレゼンは建主がとても喜んでくれて実現に向けて動き出しそうでちょっと安堵した。なかなか直接お会いできなかったので、A3シート1枚に計画案をまとめ、それに自筆の言葉を添えて、あと3Dプリンターの模型も一緒にお届けした。

今ここで、この環境で何を実現したらいいのか、設計する側の考えや想いをきちんと込めて、それを簡潔に伝えようとしたが、それがどのような反応になって返ってくるのか、その反応でしか評価できないから安堵した。

ここのところ、いくつかの計画案の素案をSNSにあげてみている。その中で反応をみて、自分でも気に入っているものをA3シート1枚にまとめて提出した。

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SNSの反応が全てでは無いし、むしろSNSの役割は情報伝達でそれ以上でもそれ以下でも無く、現実を超えようとするべきでは無く、超えようと考えると現実が壊れていくと考えていて、だから、実現する前のそれも素案に近い計画案という現実では無い情報をさらすにはちょうどいいと思っている。別にそれがダメでもまた考えればいいし、ただアウトプットにはなるから、頭のモヤモヤは整理される。それを見せられる方は迷惑な時もあるかもしれないが、それがSNSの情報の作法だと心得ていれば気にもならないだろうし、気になってもすておける。

"Information that is not the reality of drafts"

The other day's presentation was a little relieved because the owner was very pleased and seemed to move toward realization. I couldn't meet him directly, so I put together a plan on one A3 sheet, added my own words, and delivered a 3D printer model together.

Now, I tried to convey what I should achieve in this environment, the thoughts and feelings of the designer properly, and briefly convey it, but what kind of reaction will it return? I was relieved because I could only evaluate the reaction.

I've been posting some draft plans for SNS recently. After seeing the reaction, I submitted the ones I liked as a single A3 sheet.

The reaction of SNS is not all, and rather the role of SNS is not more than or less than information transmission, and we should not try to exceed the reality, and thinking that it will break the reality, Therefore, I think that it is just right to expose unrealistic information such as a plan that is close to the draft before it is realized. Even if it's useless, it's good to think about it, and it's just an output, so the stuffy mind is organized. It may be annoying for those who can show it, but if you know that it is the manner of information on SNS, it will not bother you, and you can save it.

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原風景合成装置

たまっていく風景が重なり合って、前後左右、時系列がごちゃごちゃになって合成され、記憶も微妙に都合よく書き換えられたり、心に浮かぶ風景はいつも何かと紐づいている。

それを心象風景とか、原風景とかいうのだろうか。

よく原風景が建築に与える影響を聴く。原風景というと、子供の頃の記憶であることも多いだろうが、原風景というと、その時点で答えの範囲が決まっているように思う。

きっとその答えの範囲はその時代その時代で違うだろうが、大概は郷愁を誘うものが期待されるので、その時代に合わせて無意識に書き換えられているのだろう。

だから、もしかしたら原風景など存在せず、あるのはその時代に合わせたフィルターか合成装置かもしれない。

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とある計画

予算からすると10坪が限界のようだ。どのようなお店でも10坪以上あれば何とかなるだろう、10坪未満のお店だってたくさんある。飲食店兼料理教室で10坪平屋の建築、家ならば10坪は狭いが、お店ならば、ただ厨房の割合が大きくなる。

10坪の中で厨房とホールをキッチリと分けたら、例え、オープンキッチンでもどうだろうか、せせこましくなるのではないだろうか。それに中途半端な、厨房も、ホールも、広さになりそう。ホールも狭かったり、席数がとれなけば、カウンターだけにするが、ラーメン屋さんのように、何かもったいない、せっかくの10坪をテナントとして入るのではなくて、平屋で建てるのだから、他にやりようがある気がした。

例えば、10坪全てが厨房というのはどうだろうか。お店として考えたら10坪は中途半端な広さ、特色もないように思えるが、厨房として考えたら10坪は広い、料理教室も兼ねるならば、厨房は広い方がいい。

厨房の中にお客さんがいて、厨房の中で料理教室をして、全てがシェフズテーブルになる。

ただ、保健所で問題になりそうな気がするが、厨房とホールは明確に分かれていないといけないから、小まめに分けて、何とか方法はありそうな気がするが、手洗いだらけになったり、このご時世それでも構わない気もする。

そして、厨房の中には大きなひとつながりのカウンターをつくり、その中に厨房機器、設備を仕込む。カウンター上で料理がつくられ、お客さんに供され、料理教室が開かれる。

屋根はそのカウンターを雨露からしのぐためにつくられる。

その大きなカウンターが人と人、人と料理、料理と料理をつなぐ。

気分でどこで食べてもいい、どこで料理をしてもいい、そのカウンターは外まではみ出してつながっていて、外の人や街の風景もつなぐ、鉄道高架の立ち退きによってできた変形地、これから街が変わる、風景が変わる、その時に何かつなぐ役目が飲食店のカウンターというのも悪くないし、結構、食べ物につられて、だから、カウンターは変形している、変形していれば周長が長くなり、人がより集えるし、直線だらけの風景に味が出る。

こういう計画もまたよしだと思った。

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窮屈ではないものに

感情や気分をそのまま受け止めるような建築を考えようとしている。やはり、建築は人を包み込むようにできているもので、もしそうでなければ、工作物、土木構築物だから、それでは建築ではないから、ならば、人と建築の関わりの中で考えると、主体は人になり、それに合わせて建築が変化する方が自然のような気がする。

そうすると、人は日々の生活の中で何に一番左右されるのか、良くも悪くも感情や気分だと思う。少なくとも、感情や気分の変化無しに1日を過ごすことはないだろう。

だから、建築を計画する上で、人の感情や気分を扱うことには妥当性がある。程度の差こそあれ、感情や気分に左右される人を包み込む建築はどうあるべきかは重要な問いだと思う。

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一方で、そのような言葉による問いから導き出された建築は本当に妥当性があるのだろうかとも考えてしまう。ちょっと窮屈な思いもある。

何もしなくても湧き上がってくる感情や気分があり、それが意図せずとも見方に影響を与え、その影響が何も介することなしに建築化されたようなものにしたく、それは何か固定化されたイメージの建築ではないことだけは確かなので、つくりながら、後追いでできあがったものに言葉をつけてみようと思う。それが例え的外れだとしても、できあがったものにはその時の感情や気分がダイレクトに反映されるだろうし、少なくとも窮屈な思いはない。

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らしさを形にすることは独創

らしさを形にする時、どこにでもあるような、特徴のない形になってしまうことは避けたい。たぶん、らしさを形にする時、そこが一番抵抗を感じるところだと思います。誰も見たことが無いものをつくりたい、新しいものをつくりたいと考える。その考え自体は良いと思います、そうでないと新しいものは生まれないから。

ただしかし、新しいかどうか、誰も見たことが無いかどうかは誰が判断して、誰のためになるのでしょうか。新しくて、誰も見たことが無いものをつくるのは案外簡単なのです。人に受け入れられることを考えなくても良ければ、誰でもできる。

らしさを形にする最大の目的は、人に受け入れられやすくするためです。独創とは、人の上に成り立ち、尚且つ、滅私したところに存在すると思うのです。滅私、すなわち、それはらしさを纏うこと、その上で、誰にもできないものをつくり出す、精度を高めて、外しズラして。

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だから、外すズラし方の指南は「人に受け入れやすくするために行う」です。それだけでイメージが湧いてくるはず、難解に見せる、面白く見せるためでは無くて、外しズラした方がより人が良いと思い受け入れる、そして、それが独創になる。この場合の人は、特定の個人、クライアントでもいいですし、不特定多数の人、社会に生きる全ての人でもいい、用途により、それは違うでしょう。

らしさを形にすることが、実は独創につながる、これを理解できている人は案外少ないかもしれないです。

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らしさを形にする時は注意

らしさを形で出そうと考えています。素材もあると思いますが、瞬時の印象で一番残るのは形だろうと思います。

本当に小さな建築になる、だから、外形を一目で把握できてしまう。その形に好き嫌いの感情が伴うこともあるでしょう。全く好き嫌いの感情を外して成り立つことは考えにくいので、好き嫌いを超えた形をつくりたいと考えています。

好き嫌いを超越するには、やはり「らしさ」が必要になるのではないでしょうか。誰もが連想できる形、それが「らしさ」だとしたら、「らしさ」があれば、好き嫌いの感情がそもそも起きにくいのではないかと思います。

「らしさ」を別の言い方をすれば「馴染みやすさ」になるかもしれません。それが安心感を呼び、その安心感がその形を受け入れやすくする。ただそうなると、案外、どこにでもあるような、特徴のない形になってしまう可能性もあります。それが「らしさ」を形にする時に注意をしなくてはいけないところでしょう。

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だから、「らしさ」を形にしながら、それが特徴にもなることを同時に考えなくてはなりません。

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拾い集めるだけても

あとここが良くなればいいのに、あとここがこうなっていれば手に入れようと思うのに、ということがよくある。そういう時は大抵、自分の中でははっきりとはしていないが、なんとなくこういう物が欲しいことはわかっていて、でも具体的なイメージをまだ考えていない。

違和感を感じている状態ともいえるが、そこからよく考えると、あとここがという部分になかなか答えが見つからない、それはわかっていないからか、知識がないからか、技術がないから。

それと、その違和感は同時に、普通すぎて、よく見かけるし、ありきたりで、つまらないから、何とかした方がもっと良くなるという想いも伴う。

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だから、あとここが良くなればいいのに、あとここがこうなっていれば、という想いをたくさん拾い集めるだけでも、コロナで家にいてはできない体験だなと思っていた。

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精度が上がること

窓は面白い存在だなといつも思う。建築の仕事の場では窓とはいわずに「開口部」という。窓を開口部というとプロっぽい。「開口部」だから、開いている部分ということになり、建築の設計においては窓の機能以上のことを負わせる。

光を入れる、風の出し入れは窓の機能ですぐに思い付くことで、それ以外にも熱の交換、光も入れるだけでなく、光の演出も、これは結構重要だと思っており、設計を志したキッカケでもあり、その他にも開口部をどのようにつくるかによって、窓とは感じさせない、壁の一部として取り扱うこともできるし、その開口部の納まりも枠なしに、ガラスだけとか、そうすると、ガラスが無いように見せることができたり、開口部を見るとその設計者の技量がわかる。

今、窓は、開口部は、専門的にいうと、都内だと防火設備の規定があり、防火設備とは隣家に近いと火に強くしないといくけないという法律で決まっており、鉄製だと自作ができるが、アルミ製だと簡単にいうと自作ができない、でも世の中、アルミ製がほとんどであり、それはメーカーが既製品として安価につくりやすいから、ただ、設計者として設計と共につくりたい開口部があるのに、アルミ製では少数ロットではつくれないし、防火設備として認定するのは難しいし、鉄製のサッシでは高価だし。

建築を実務ではじめた頃、不思議だった、建築基準法ではアルミは鉄ではない、世の中の窓はほとんどがアルミ製なのに、無理矢理、建築基準法に合わせるためにアルミ製のために許認可を求めている、ならば、いっそのことアルミを鉄と同等に扱えばいいのに、利権が絡むのだろう。

そのようなことはどうでも良いが、設計者としては窓の、開口部の、創作を自由にしたい、設計者に全責任を負わせてもいいから、開口部を自由に自作したい。

ここにきて、面白いもので、鉄製で自由にサッシを自作できる機会を得ている。もし上手くいけば、今後つくる建築の精度が上がる、今一番ワクワクすることは、つくることの精度が上がること。

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空間を感じる時

空間を感じる瞬間というのがあると思うのです。それは壁や天井で囲まれていればいいという訳ではなくて、それでは単に室内にいるという感じだから、空間を感じさせる何かに出会うといった方がわかりやすいかもしれない。

空間を感じさせる何か、それはいろいろあるかもしれない、もしかしたら、人によっても違うかもしれない。

そこに人がいれば、あるいは、椅子のような物が置いてあれば、その比較によって空間を感じるかもしれない。ただ、それは空間の大きさを感じるのであって、空間そのものを感じている訳ではない。

そう考えていくと、私が今思いつくのは光しかない。

光は太陽からの自然光と照明による人工光に分けられるが、どちらの光でも、光が当たっているから空間を認識して、空間そのものを感じることができる。真っ暗ならば空間を感じるだろうか。

ただ、ふと思った、真っ暗でも、もしかしたら空間を感じるかもしれない。そうすると、空間を感じることには2通りあるかもしれない。

実際の空間を感じることと、人の意識の中にある空間、それは過去にどこかで経験している記憶の中の空間ともいえるが、真っ暗になった時に人の意識の中にある空間を感じるようになるかもしれない。

ということは、普段、空間を感じている時、人は実際の空間と意識の中にある空間の2つを同時に重ね合わせているのかもしれないと思った。

そして、それは建築を建て替える時に、その時、その場所、その人特有の空間の感じ方をつくることができると思えた。

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家をつくること

真っ新な土地にして、まず基礎工事からはじめるのが実際の住宅の工事手順ですが、その前にどのような家にするのか、どのような家にしたいのかを工事ができるように具体的なものにするのが設計です。

その設計をまず最初から家の性能や指標や数値で考えていくやり方があります。例えば、高気密高断熱の家などのように、年間を通して快適な室内温度を保つことを目的に、具体的な計算式を使い、間取りから材料の選定や設備機器までを決めていく。

他に材料にこだわり、家づくりを進めていくやり方もあります。例えば、木の家であることを強調し、無垢の木を室内にたくさん使うことを大事にするなど。

最初にどのような家にしたいかのイメージが無い場合やどのような家にしたいかがわからない場合は、性能や指標や数値で考えたり、材料にこだわりを持つところから家づくりに入る方がわかりやすいかもしれませんが、流行りすたりがあります。

材料や設備などはどんどん進化しますが、家は一度建てたら、簡単に材料や設備を更新できません。だから、材料や設備などは年月が経ても価値が変わらない定番をおさえれば良いと考えています。

家の性能や指標や数値は計算式を知っていれば、誰でも年間を通して快適な室内温度を保つ設計はできます。

ただ、本来どのような家が良いかは住人によって一人一人ちがいます。材料や設備だけでは決まりません。その一人一人のちがいを考え、イメージし、合わせていき、家として具体的な形にして、工事ができるようにするのが本来の設計で、一人一人がイメージしやすいように手助けするのが設計者だと思います。

設計も工事も実際の家が完成するためのプロセスですが、工事は設計したものを実際の家にすることですから、その前の設計段階でどのような家かが決まります。

その設計を何度も経験する住人はいないでしょう。ならば、わからないことが多いけれど、その設計というプロセスを楽しみながら、今一度、一生に一度かもしれませんが、自分はどういう家に住みたいのかを想ってみるのもいいかもしれません。設計というプロセスは楽しいですよ。

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窓明かりが見えた

東京アラートが発令されて、都庁とレインボーブリッジのライトアップが赤色に変化しましたが、色や照明で何かを抽象的に伝えるという手法は、言葉で直接わかるように伝えようと試みるより、深く印象的に伝わるように思います。

言葉だと字義通りの解釈しかできず、言葉使いや言い方、表現の仕方によっても、受け手の印象が変わり、場合によっては拒否反応が起こる可能性がありますが、色や照明のような抽象的な表現だと、それを見る人が自分の都合のいいように読み取り解釈することになるので、拒否反応が起こりにくく、読み取った解釈がより深く意識に入り込むのだと思います。

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よく、窓明かりがもれるように、それが道路から見えるようにします。外灯ではなく、窓の明かりだと、その家の住人ならば、直感的に誰かいる、もっというと、誰がいるかまでわかるはずです。

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それは夜帰ってきた時の喜びや嬉しさや安心感につながるような、それは人それぞれ解釈の仕方は違うかもしれませんが、少なくともわるくはない、ちょっとホッとするようなことかなと思いまして。

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外観の特徴は新たな人のため

外観に色を散りばめることをよくやります。それを外観の特徴としたいから、なぜ特徴にしたいか、それは建主自身がその家で自分に合った新しい生活をはじめるから、その家は建主にしか住みこなせない家だから。

完成するまで家と人は別々で接点がありません。そして、住みはじめることによって接点ができ、そこで家と人の関係性ができて、新たな人が誕生すると考えています。

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そして、その新たな人がさらに新たな家をつくり上げていく。その様を外観に特徴として表現する。その特徴はきっと今までに建主が目にしたことが無いものにすることによって、そこに新たな自分を感じ取って欲しいから。

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三角屋根の家の形

子供に家の形を描かせたら、たぶん、三角屋根を最初に描くだろう。それは大人も同じで、家=三角屋根が一般的な家のイメージ、アイコンのように、そういえば、サイトのホームへ戻るボタン、トップページへ戻るボタンも三角屋根の家のアイコンだったりする。

仕事場からいつも車で帰ってくるクライアントに、何か我が家に帰って来た感をプレゼントしたくて、それを外観で表現して、窓を設けずに、三角屋根の家の形を宙に浮かせて見せた。

宙に浮かせたのは車で帰って来た時に遠くからでも見えるにようにと、三角屋根の家の形が強く印象的に出るようにと、それが誰にでもわかる特徴となるようにと思って。

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家の中に家でもない場所をつくる

会社でもない、家でもない場所、別に会社にいたくない訳ではなくて、別に家に帰りたくない訳でもなくて、ただ、会社か家かという2つに1つ、二者択一的な生活はずっと続くとちょっとぐらいの変化を求めたくなるかもしれない。

それは決して悪いことではないけれど、こうするべき的な思いにとりつかれると、まっすぐ家に帰ろう、寄り道なんてせず、となると日々の生活が不自由なものに感じられるようになってくるかもしれない。

要領のいい人は行きつけの飲食店などを見つけて、顔馴染みになり、会社の人でもない、家族でもない、友達でもない、そんな人のつながりをつくり、上手に気持ちを受け流し整理して、家路につくのだろうが、なかなかそれもできない人が多そうな気がする。

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だから、ちょっと家の中に、家でもないような場所をつくり、ひとりになれる時間をつくってあげることができたら、少しは違うのかなという想いから、離れをつくったり、部屋ではないが廊下にしては広いような場所をつくり、そこが街の中の広場や通りのような雰囲気をかもし出せば、家の中で気分も切り替り、家族との時間もより楽しめるのではと思ったりして設計した。

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細長いお風呂場でリビングとつながる

そういうこともありますよね、それもありですよね、ポイントを押さえれば案外いろいろな考え方ができそうで、ただ、ポイントを外すと単なるデタラメになってしまう。

足を伸ばして湯船に浸かりたい、普通にそう思いますよね、そうなると体を洗う洗い場も欲しい、当たり前ですよね、ただ、できる限り広いリビングやダイニングも欲しくて、そこで家族と一緒に過ごしたい、大体、住宅全体の広さは敷地の大きさで決まるので、はじめに数値でわかる。

だから、広さとか狭さを数値でいっても意味がなくて、敷地が急に広がらない限り変わらないので、数値ではなくて、広く感じるのか、狭く感じるのかの感覚で考えていく。ただ、感覚的なことは人による違いが大きいので、自分の感覚を押し付けるようなことはせずに、当たり前だが自分の感覚で設計はせずに、そこに理屈があり、あとはクライアントの感覚に合わせていく。

最大限リビングやダイニングの広さを確保するために、お風呂場をコンパクトに、それもただコンパクトにするだけでなく、お風呂場の形状もリビングやダイニングの広さを確保するために細長くし、それで足を伸ばして湯船に浸かり、体を洗うのにも支障がなく、クライアントは狭く感じない。

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ちなみに、横に細長い窓の先はリビング、湯船に浸かりながらも、リビングともつながるように。

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暮らしの中で欲しいが空間になる

よくその人だけの居場所をつくったりする。そういう場合は大抵クライアントからの直接的な要望ではなくて、お会いしていろいろとお話を伺う中で頭の中に急に浮かんできたりする。家と人をつなげたいというか、そういう居場所があってはじめて自分の家だと思うような気がしているから。

お子さんがまだ赤ちゃんの時から将来この子に勉強を教えるのが楽しみですと雑談の中で語っていた。たぶんその時はダイニングテーブルで子供が学校の宿題や勉強をしている横で、自分は本でも読みながら、子供の勉強を見るようなイメージだったと思う。

クライアントも本を読むのが好きで、ただ書斎をつくる程のスペースは取れなかった。そこで各個室に行く廊下を少し広げ、そこに本棚と長机を造り付けにしスタディスペースとして、書斎とお子さんもそこで一緒に勉強をする場所とした。

そもそも機能上は廊下だから家族みんなが通る。だから、そこで本を読んだり勉強をしていても、部屋に籠るのとは違って、家族がお互いに何をしているのがわかり、それでいて自分の居場所でもある。

クライアントとの雑談の中で、形として明確ではないけれど、これからの暮らしの中で欲しいのはこのようなスタディスペースではないだろうかと思い、提案し実現した。

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敷地いっぱいが住環境スペースになるように

隣の家とのすき間はなんとかならないか、中途半端に空いていて、敷地が広ければいいが、狭い敷地だったら勿体ないし利用したいとずっと思っていた。

ちなみに、民法上は境界線から50cmは空けなければならない、だから、必ずすき間ができる。

もちろん、そのすき間が無ければ、作業スペースが取れないから家自体を建てることができない。ただ、そのすき間がもっと狭くても、50cm未満でも建てようとすればできなくもない。

旗竿状の敷地というのがある。敷地の形状を上から見たら竿にたなびく旗のように見えるからそう呼ばれる。敷地というのは建築基準法上、道路に2m以上は接していなければならないと決められている。だから、道路に2m以上接していない敷地には法律上、家を建てることができない。

旗竿状の敷地は竿の部分の巾が2mで、そのままの巾で道路に接していることが多く、これは大きさな敷地を道路に対して手前と奥で分割する際に、奥の敷地に法律上、家を建てることができるようにするための苦肉の策である。そして、その竿の部分には巾が狭すぎるため建物を建てることはほとんどしない、大体、車や自転車の置き場所になり、建物を建てるのは敷地の旗の部分になる。

その竿の部分が20m以上ある旗竿状の敷地が住宅の計画地になった。敷地面積には当然、竿の部分の面積も含まれるから、竿の部分が長くなればなるほど、建物を建てる旗の部分の敷地面積が狭くなり、竿の部分が20m以上もあれば、旗の部分は狭小地と呼べるくらいに狭い。

クライアントの要望はただ1つ「家の周りにメンテナンス用のスペースを取って欲しい」だった。建て替えだったが前の家では家の周りのスペースが狭すぎてメンテナンスに苦労したようだ。

敷地の旗の部分がただでさえ狭いのに、メンテナンス用のスペースを取ったら、余計に狭くなり、家自体も狭くなる。だから、家の周りのメンテナンス用のスペースをなるべく小さく狭くして、家自体の広さを確保することを考える、これが常套集団だろう。

ただ、それではメンテナンスという、家が建っている間に何回も必要にはならないことのためにスペースを空けておくのは勿体ないし、もっと積極的にクライアントの要望に応えたかった。

だから、家の周り四周に、民法上必要なスペースの倍の巾のスペースを取り、それはクライアントの要望のメンテナンス用のスペースとしては余りあるぐらいの広さであり、そして、その家の周り四周にウッドデッキを敷き、その高さは1階の室内の床の高さと同じにして、1階にあるリビングダイニングスペースが敷地いっぱいまで広がっているような感覚をつくり出し、敷地の狭さ、家の狭さを視覚的にも和らげようとし、尚且つ、積極的に敷地いっぱいを住環境スペースとして利用することを試みた。

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建築に思って欲しいこと

建築をどうやって認識するかなんて考えたことが無い人がほとんどだろう、どうやって利用するかは考えるだろうけれども。

建築をつくる側にいると、この建築はどのように見えるのだろうか、どのように感じるのだろうか、この空間に入った時、光の見え方はどうだろうか、視線がどのように抜けていくだろうか、歩きながら目線が連続的に変化していく中で、何を感じ、何を見て、どのように思うだろうか、時には歩き、時には座り、時には立ち止まる、そうやって、設計時から抱いていたイメージと現実を擦り合わせし、住宅ならば、ここでこれから暮らしをはじめるクライアントに想いを馳せ、修正した方がいいと思えば、その場で変更を加えたりもする。

まず最初に建築をどうやって認識するかから入る。それは建築を学びはじめた時から当たり前のように行ってきたことだが、クライアント側に立てば、決してそれは当たり前のことでは無くて、広さや大きさや使い勝手などが一番最初に大事なことになり、それは建築そのものの建築的な価値を見るというよりは、不動産としての建築の価値を見るようである。

建築には事業という側面もあるのだから、不動産としての価値が大事なのも当たり前ではあり、それを第一に持ってくるのは仕方が無い場合もあるが、それでは立つ場所や予算や広さ、大きさで優劣が決まってしまうかもしれない、それは惜しい。

建築をどうやって利用するかは少し抑えめにして、建築そのものをどうやって感じて、どのように認識するのがいいのだろうか、暮らしのためには、という考え方もあるかもしれないと思って欲しい。

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"What you want the architecture to think about"

Most people haven't thought about how to recognize architecture, though they will wonder how to use it.

If you are on the side of building architecture, what does this building look like, how do you feel it, how does the light look when you enter this space, how do you gaze? What do you feel, what you see and what do you think, while your eyes are changing continuously while walking, sometimes walking, sometimes sitting, sometimes stopping, so from the time of designing If you think it is better to revise the image you were embracing and the reality, to think about the housing you are living in here, and make corrections, you can make changes on the spot.

First of all, we start by how to recognize architecture. It's been a matter of course since I started to learn architecture, but on the client side, it's not a matter of course, but the size, size, and usability are the most important things. It seems to see the value of architecture as real estate, rather than the architectural value of architecture itself.

Since there is also a business aspect to construction, it is natural that the value as real estate is important, and it may be unavoidable to bring it first, but then, where it stands, budget and area, It might be decided that the size is superior or inferior, which is a shame.

I think that there may be a way of thinking about how to use architecture, how it should be felt and how it should be perceived, while limiting how it is used.

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想像できるくらい先のことでいい

人はどこの辺りで認識をするのが一番心地よく感じるのだろうかと考えていた。

今現在の日常より良くなると認識できれば、当然心地よく感じるだろうが、今現在の日常より悪くなると認識したならば不快になるだろうし、今現在の日常と変わらず同じでも不快では無いかもしれないが、ただ心地よいとも思わないだろう。

では、今現在の日常より良くなるとして、今現在の状況からは想像できないくらいに良くなるとしたら、それはどうだろうか、想像できないくらいに良くなるのだから、凄く心地よくなるのだろうか。

もしかしたら、それはそれで不快かもしれない。自分が想像できないくらいのことは、例え凄く良くなることがわかっていても、想像できないことで不安や心配が湧き上がってきて、それは自己防衛本能が働くからか、素直に心地よくはなれないかもしれない。

結局、人は自分が想像できる範囲で良くなることが一番心地よく、それは今現在の位置より自分の手が届く所くらいまでの前進で良いのかもしれない。

これはあくまでも建築やデザインやものづくりのはじめの目標設定の話だが、今現在の状況に照らし合わせても、それは完全にコロナが終息する状況が早く訪れることが一番良いのだが、それに対して誰も明確な答えを出すことができないのならば、人が想像しやすい時間の単位毎に、例えば1週間毎に、今現在までの状況分析からのリスク説明を伴う出口戦略を示してもらえれば、ただStay Homeしているよりもこの時間を使って、今現在も行ってはいるが、より少しでも良くなる手段を自分たちでも考え創意工夫できて、精神衛生上もより良くなるし、今現在より少しは心地よくなれると思うのだが、いかがなものでしょうか。

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"It's okay to think ahead"

I was wondering where people would feel most comfortable to recognize.

If you recognize that it will be better than your present day, you will naturally feel comfortable, but if you recognize that it will be worse than your present day, it will be uncomfortable, and even if it is the same as your present day, it may not be unpleasant. I don't think it's just comfortable.

So, if it's better than today's daily life, and it's better than you can imagine now, what's that, and it's better than you can imagine, so it's really comfortable.

Maybe it's offensive. Even if you know that things that you can not imagine can be greatly improved, anxiety and anxiety will rise because you can not imagine, maybe because your self-defense instinct works, you may not be comfortable comfortably .

After all, it is most comfortable for a person to be as good as they can imagine, and maybe it's better to move from where he is now to where he can reach.

This is only about setting goals for the beginning of architecture, design, and manufacturing, but in light of the current situation, it is best that the situation where the corona will completely end soon will come, but to whom If you can not give a clear answer, if you can show the exit strategy with risk explanation from the situation analysis up to now, for each unit of time that people can easily imagine, for example, every week, However, I am spending this time rather than staying home, and I am still doing it now, but I can think and devise ways to improve even a little, I am better in mental health, and now I am I think it will be a little more comfortable, but how is it?

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しょがねぇあ

ふと思い出していた「しょがねぇあ」という口癖を。私の両親は千葉東部の出で、今でも父親の実家は残っており、その口癖は伯母がよく言っていた。

いつも優しい伯母はよく会話の最後に「しょがねぇあ」とつけ加えて吐き捨てるように言う。普通に会話をしていて、自分ではどうしようも無いことや、ちょっとでもできないことや、無理なことになるとその口癖で終わる。

言葉だけを字にして見ると、諦めてしまうネガティブな印象を受けるが、実際にその言葉を声として聴くと、なぜか心地よく、癒される。

自分ではどうしようもできないことは無理をせずに「しょがねぇあ」と言って手放し、できることだけをやる。そんな無理のない生活を田舎でずっとしてきて、何事も乗り越えてきた人にしか出せない声のトーンが耳についていて、ときどき無意識に自分でも「しょがねぇあ」と言ってしまう。

ただ、その一言で切り替わり乗り越える強さを、都会に住む人では到底身に付かないしなやかな強さを感じるからこそ、真似して「しょがねぇあ」と唱えたくなる。

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"Shogane"

I suddenly remembered the habit of "shoganaea". My parents were from eastern Chiba, and my father's parents' home is still there, and my aunt often said that.

A gentle aunt always adds "Shoganeea" at the end of a conversation and tells her to throw it away. When I have a normal conversation, I end up with that habit when I can't help myself, what I can't do at all, or when it becomes impossible.

Looking at only the words in a word gives the negative impression of giving up, but when I actually hear the words as a voice, it feels comfortable and healed for some reason.

Don't overdo things you can't do without saying anything, let go, let go, and just do what you can. I have lived such a comfortable life in the country all the time, and I hear the tone of voice that only people who have overcome anything can hear, and sometimes I unconsciously say "I don't know."

However, it is tempting to imitate the strength of switching over with just one word, because it feels supple enough that people living in the city can't get it.

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後のこと

建築や建築家が日常や暮らしと結びついた存在ならば、今この状況の中で対処療法的に不自由さと向き合いつつ、アフターコロナの日常や暮らしを考えて、そこに焦点を合わせているだろう。

日常や暮らしと結びついていない建築や建築家の方々もたくさんいるだろうし、過ぎ去れば何も変わらない日々がまた訪れるから、今は巣篭もりしていればいいと割り切れる人たちもたくさんいて、それとは対照的に巣篭もりしたくてもできない人たちもたくさんいる。

どの社会的立場、別の言い方をすれば、どの階層から見るかによって、アフターコロナが違う。

別にわざわざ変える必要性も無いと思うかもしれないし、周りが変われば変わらざるを得ないと思っているかもしれないし、積極的に、あるいは生き残るために変えていこうと考えるかもしれない。

今までも何度か、この後の世界は変わるだろうと言われたが、何も変わらなかった。それ程、過去から未来への時間軸の流れは強固であり、人の営みはそんなに柔ではないし、建築は自身では変える能力を持たず、哲学的や社会的な変容を必要とするので、リニアには変わらない。

しかし、今回はどうだろうか。人の営みは生まれて最後は死ぬという絶対真理と時間軸の流れの掛け合わせで決まるが、その最後の死を今、毎日見せつけられて、毎日考えさせられるこの状況で、変わらずにいられるのだろうか、それとも風化して何事も無かったように戻るのだろうか、などとちょっと考えてみたくなった。

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"After"

If architecture and architects are connected to daily life and daily life, they will be facing the inconvenience of coping therapy in this situation, thinking about everyday life and life of after-corona and focusing on it. .

There may be many architecture and architects who are not connected with everyday life and life, and when they pass by, the days when nothing changes will come again, so now there are many people who can divide that it should be a nest, and that. In contrast, there are many people who want to keep their nest but cannot do it.

The after-corona differs depending on which social position, or in other words, from which level you are looking.

You may not think there is a need to change it, you may be forced to change if your surroundings change, and you may think positively or change to survive.

I was told several times that the world after this would change, but nothing changed. To that extent, the flow of time from the past to the future is strong, human activities are not so soft, and architecture does not have the ability to change by itself, and it requires philosophical and social transformation, so it is linear. Does not change.

But what about this time? People's activities are decided by the combination of the absolute truth of being born and finally dying and the flow of time, but in this situation where the last death is shown every day and made me think everyday, I can remain unchanged I wondered if it would be weathered or would it return as if nothing had happened.

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素晴らしい普通が待っている

良くもなく、悪くもなく、普通というと、何となくそれは悪い部類に含まれるような気がして、少なくとも良い部類では無いように思う。たまに、普通が一番、という言葉を耳にするが、それも当たり障りが無いから、飽きることが無いなど、決して良い訳では無いが、かと言って極端に悪い訳でも無い、ちょっと良いか、ちょっと悪いかが許容範囲くらいのことで、それはそれくらいで収めるのが丁度良いということなのだろう。

ただ、その普通の内容がいつも同じであるということは無く、その時代、その時々で変わる。例えば今ならば、制限の多い暮らしを送っているので、普通にできることも制限されるから、コロナ以前の普通がとても良いもの、素晴らしいことに感じる、その時はそれが普通だったのに、そう思うとストレスになる。

アフターコロナでは普通が変わる。今が普通で、コロナ以前の普通が飛び切り素晴らしいことに格上げされるから、アフターコロナではコロナ以前に戻るだけでも、普通の日常が、暮らしがより豊かに感じるようになるのではないか、同じなのに。

普通に注目して、以前と今、今と以後を比べてみたら、こうして家に篭っている状況が、アフターコロナの飛び切り素晴らしい普通の日常や暮らしを楽しむためには必要なこと、その準備のためとは思えないだろうか。

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"A wonderful normal is waiting"

It's good, it's good, it's normal, and it feels like it's part of the bad category, at least not the good category. Occasionally, I hear the word "ordinary is the best", but it's also not disturbing, so I'm not tired of it, but it's not a good reason, but it's not an extremely bad thing, a little good or a little What is bad is about the acceptable range, and it means that it is just good to put in that amount.

However, the usual contents are not always the same, and they change from time to time. For example, now that I am living a limited life, I am also limited in what I can do, so I feel that the normal before Corona is very good, it feels great, I think it was normal at that time, I think Becomes stressful.

Ordinary changes in after corona. It's normal now, and the pre-Corona normal is jumped up to a wonderful level, so even after returning to the pre-Corona after-corona, it seems that normal everyday life will make your life richer. .

If you pay attention to normal, and compare before and now, and after that, the situation of staying in the house like this is necessary for enjoying the wonderful ordinary everyday life and life of after corona, the preparation of it. Don't you think it is worthwhile?

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ソーシャルディスタンスで信頼関係を保つ

距離を取る、ソーシャルディスタンスなんて聞き慣れない言葉が普通になった。こんな単純なことがウイルスに対して本当に効果的だったのかは後になってわかるだろうが、とにかく得体の知れないものには近づかない方が良いだろうと、場当たり的な対応でも、しておいた方が安全第一でいいと思うのだが、こんな単純な、距離を取る、という対処方法が全てを一変させてしまった。

人と一切会わないでできることはほとんど無いとわかり、距離を取るにしても、手が届く範囲でないとどうしようもなく、それではソーシャルディスタンスが保てず、声が届く範囲で良ければ、わざわざ会う必要もない。

イヤらしい位に心理をもてあそび、アクティビティを封じるウイルスに対して、どうしたものか、リモートやデリバリーで済むならばまだ良いが、直接人と会わないとどうしようもないことも当然ある。

ヒアリングができない。ヒアリングの目的は、相手の話を聴くことでは無い、相手の状況を把握することでは無い、相手の情報を共有することでは無い、それらは全てインタビューであり、直接会わなくても、リモートでも、文書でもできる。

ヒアリングの真の目的は、相手と信頼関係を築くことである。そのためには、飛沫がかかる距離、パーソナルディスタンスに入り込む必要も出てくる。

ウイルスが人の命を奪うこと、これが一番怖くて問題であり、どうしても避けたところだが、それと同じ位に怖くて問題なのが、人との信頼関係が築けずに縁が途切れること、むしろこちらの方が対処が難しいかもしれない、ソーシャルディスタンスを保つ状況では。そして、それが社会の様々な場面でボディブローのように効いてくるだろう。だから、どのような状況になっても信頼関係だけは失わないように気をつけるしかない。

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"Keeping trust with social distance"

Unfamiliar words such as social distance and distance have become commonplace. I'll see later if such a simple thing was really effective against viruses, but I also made an ad hoc response that it would be better not to come close to something strange. I think it's better to put safety first, but such a simple way to deal with distance has changed everything.

It turns out that there is almost nothing you can do without meeting people, and even if you take a distance, you can't do it unless you can reach it. Nor.

It would be good if I could remote or deliver it to the virus that blocks the activity and play with the psychology to the extent that it seems to be unpleasant, but of course there is no way I can do without meeting people directly.

I can't hear. The purpose of the hearing is not to listen to the other person's story, not to understand the other person's situation, not to share the other person's information, they are all interviews, even if you do not meet directly or remotely. You can do it with documents.

The true purpose of hearings is to build trust with the other person. For that purpose, it will be necessary to enter the distance where the droplets are splashed and the personal distance.

It is the most scary and problematic thing that a virus takes a person's life, and I avoided it by all means, but the same fear and problem is that the relationship is broken without building a trust relationship with a person, rather here May be more difficult to deal with, in situations where you maintain a social distance. And it will act like a body blow in various scenes of society. Therefore, no matter what kind of situation, you have to be careful not to lose trust.

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必要だから気づく

たくさんの物が目の前にある。お目当ての物はすぐ手の届くところにある、そこにしかない。その前に気になる物もある。ちょっと前に存在を知った。できれば両方手に入れたい。

ただ、両手を目一杯伸ばしても、両方を同時に手にすることはできない、となると、どちらかを先に、どちらかを後に、そこにはたくさんの人がいる、誰かが同じ物を欲しがるかもしれない、先に手にしないと、どちらがより欲しいか、それはお目当ての物だが、その前に気になる物の方が近くにある。

全ての物を360度俯瞰して把握する。全ての物を1つ1つ詳細にじっくりと理解する時間は無いから、その中から気になる物に焦点を当てる。気になるのは、瞬間的に引っ掛かりがあるからで、その引っ掛かりの正体は焦点を当ててからわかる。

近づく、引っ掛かりの正体に惹かれるか、惹かれ度合いのレベルが高いか、とにかく引っ掛かりの正体が何だかわからないが、とにかく惹かれてしまうのか、その時は考えるまでもない、素直に手におさまる。

きっとそれは自分に必要な物だから、気になり、惹かれるのだと、そもそも気がつかない物は、どんなに素晴らしい物でも、見えないのと同じ、存在しないのと同じ、だから、自分が気づいて、手におさめた物はずっと大切にしたい。

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"I notice because I need it"

There are many things in front of you. The item you are looking for is within easy reach. There are also things to worry about before that. I knew that there was a while ago. I want to get both if possible.

However, even if both hands are stretched out, you cannot have both at the same time. Then, there is a lot of people there, one after the other, someone wants the same thing. Maybe, if you don't get it first, which one you want is the one you want, but there is something closer to you before that.

Get a 360-degree overview of everything. I don't have time to understand all the details in detail one by one, so I will focus on the ones I care about. I'm worried because there is a momentary catch, and I can tell the identity of the catch after focusing.

I am attracted to the nature of the approach, the degree of attraction, or the level of the degree of attraction is high, or I do not know what the identity of the catch is anyway, but I do not have to think about whether it is attracted anyway.

Surely it's something that you need, and you're bothered and attracted. What you don't notice is the same as you can't see, it's the same as it doesn't exist. I want to cherish the things I put in.

キッチン暮らし

料理を自分でつくって食べることは自分の家でしかできない、この際の自分の家は別荘、別宅を含み、キャンプは入れない。

だから、料理をつくり、それを食べることは、自分の家での主要な生活活動になる。よく考えてみると、その他の生活活動は、別に自分の家でなくても、寝ること、お風呂に入ること、家族と一緒に過ごすことでさえも、できる。

では、自分で料理をつくらない人は、自分の家はいらないのかというと、別になくても、それこそ、余計にお金はかかるかもしれないが、ホテル暮らしをしている方が良いかもしれない。ただ、それで安全地帯にいるような安心感が得られるかどうかは別の話だが。

お腹が空くのは生理現象だから、そのために何か食べ物を用意しなければならないことは誰でも同じ、ならば、極端なことを言えば、自分でつくる人にとって、自分の家=キッチン、と言っても差し支えないだろう。

私は家で仕事をしているが、寝る時以外は、ダイニングにずっといる。仕事部屋はあるのだが、今や資料や本の置き場で、ダイニングテーブルで仕事をする。

大した料理をする訳ではないが、このスタイルになったのは、豆を煮るようになってから、途中経過が気になって仕方がなかったのと、豆を煮ている時の匂いが大好きだったので、近くで仕事をするようになり、今ではキッチンの真横が定位置、冷蔵庫も近いし、コーヒーも豆から挽いていれるから、都合がよくて。

だから、1日の家での居場所の分布図をつくったら、とても狭い範囲におさまるだろう。ならば、規模を小さくして、キッチンで暮らせば良いと思っていて、その分空いた所は庭か何かにして、隣家との距離をより多く取り、窓からより多く陽の光を取り入れたいと考える。

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"Kitchen life"

You can only cook and eat your own food at your own home. Your home includes villas and homes, and you cannot enter camp.

So cooking and eating is a major activity at home. If you think about it, you can do other life activities, even if you are not in your own home, sleeping, taking a bath, or even spending time with your family.

So if you don't cook yourself, you don't need your own house, even if you don't need it, it might cost more, but you might want to live in a hotel . However, it is a different story whether it will give you a sense of security as if you were in a safe zone.

Hungry is a physiological phenomenon, so everyone has to prepare food for that, so if you say the extreme, for those who make it, your home = kitchen It would be safe.

I work from home but stay in the dining room except when I sleep. Although there is a work room, I now work at a dining table in the storage of documents and books.

I didn't cook a lot, but this style was because I started cooking boiled beans, and I couldn't help thinking about the progress, and the smell of cooking beans I loved it, so I started working nearby, and now it is convenient because the kitchen is in place, the refrigerator is close, and coffee can be ground from beans.

So, if you make a map of whereabouts at home in a day, it will fit in a very narrow area. If so, I thought it would be nice to make it smaller and live in the kitchen, and make that space a garden or something, take more distance from the neighbor and take in more sunlight from the windows I want to.

考え直す

「さてと、何をつくればいいのか?」と考えてみる。

何かポーンっと、お題を与えられれば、案外自動的に、ポーンっと出てくるのだが、そればかりではつまらないから、その自動的な中身をよくよく見つめ直してみようと試みる。

そこで、2つの分かれ道に出会う。

1つは行き先を決めないで、その時、その時を積み上げていく道と、もう1つは行き先を決め、ただひたすら、そこに向かって進む道と。

どちらかの道が正解で、どちらかの道が不正確、ということは無く、ただ、道によって、辿り着く場所は違う。

ちょっと、行き先を決めて進むやり方はずっとしてきたし、仕事ならば尚更で、行き先を決めないと何も計画通りには進まないので、ただ、何ができれば満足するのだろうかと考えてみると、まず行き先を決めてしまうと、重い道のりになり、それは、できあがるものに良い影響を与えないだろうから、行き先を決めるのは止めて、進む道中のことを、如何にしたら、道中が楽しみになるかな、そのためには、どうするかなと考えてみる。

つくりたいものの理想は持ちつつ、毎日、何をつくろうかな、どうやってつくろかな、と考えること自体から楽しい状況がいい。

そうすると、つくり方が楽しいものでないと、ただ、つくり方ほど、決まっているものは無い。その都度、つくり方が変わっていたら、広まらないし、効率が悪いから、ただ、楽しむためには。

ということで、つくり方から考え直す試みをはじめていて、久しぶりに夜のKinko'sに来たのでした。

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"Rethink"

Think about "What should we make?"

If you are given a pawn and a title, it will come out automatically, but it will not be enough, so I will try to take a good look at its automatic contents.

So we meet two forks.

One is to decide where to go, and then to build up that time, and the other is to decide where you want to go and just go to that.

Neither road is correct or one is incorrect, but the place to reach depends on the road.

I've been doing a lot of ways to decide where to go, and if it's a job, it's much more so if I don't decide where to go, nothing will go according to plan. First of all, if you decide where to go, it will be a heavy road, and it won't have a positive effect on what you'll get, so stop deciding where you want to go, and how you look forward Kana, think about what to do for that.

Having the ideal of what you want to make, it's a fun situation to think about what to make and how to make it every day.

Then, if the method of making is not fun, there is nothing as fixed as the method of making. If the way of making changes each time, it won't spread and it's inefficient, so just enjoy it.

So, I started an attempt to reconsider how to make it and came to Kinko's at night after a long time.

光の移り変わり具合をずっと眺めたことがあるだろうか。影でも同じ、ひとつの所に留まって、じっと何時間も光や影を眺めたことがあるだろうか。

やろうと思えばできなくはない。簡単にやるならば、自分の家でできる。窓から差し込む光の軌跡を追えばよい。ただ、ボーッとして眺めているだけでいい。

でもやる人はいないだろう。そこまで暇な人がいないし、そもそも飽きてしまって見ていられない。

名建築といわれる所に泊まることができても、朝日を浴びるくらいしかできない。1日中いることはできない。

ただ、設計する側はその光の移り変わり具合を計算していたりする。どこに開口部を取るかを考える時に想像している光を。

はじめて見学した建築家の作品は安藤忠雄「光の教会」である。建築の俗名にもあるように、光の十字架が特徴的な建築で、コンクリート打放しの壁に十字状にスリットが入っている。その時に、その十字架の光の移り変わり具合を午前中から夕方、暗くなるまで眺めていた。打放しの壁に十字状にスリットが入っているだけのシンプルな建築なのに、その光の移り変わり具合の豊かさに感動し、それが設計をはじめるキッカケだった。

光は誰にでも平等に手に入る。その光に十字架の形を与えてしまうのは建築家の力量だと、その時素直に思い、こういう仕事がしたいと思った。そして、その時にいつも目にしている光の可能性に気づき、それ以降も光を意識するようになった。

今まで意識していなかったことを意識付けされ、しかもそれに感動したから、建築というものが強く印象付けられてしまった。

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"light"

Have you ever watched the transition of light? Have you ever stayed in the same place with shadows and looked at light and shadows for hours?

If you want to do it, you can't do it. If you do it easily, you can do it in your own home. What is necessary is just to follow the trace of the light which injects from a window. You just have to watch it.

But no one will do it. There aren't many people out there, and I'm tired in the first place.

Even if you can stay in a place that is said to be a famous building, you can only take the sun. I can't stay all day.

However, the designing side calculates the degree of change of the light. The light you are imagining when you think about where to take openings.

The first architect to visit is Tadao Ando's "Church of Light". As is known in the name of architecture, it is a structure with a cross of light, and there are slits in the shape of a cross on the concrete wall. At that time, I watched the light transition of the cross from morning till evening until it became dark. Even though it was a simple structure with slits on the wall, it was impressed by the richness of the light transition, and that was the beginning of the design.

Light is available to everyone equally. I thought that it was the architect's ability to give the light a cross shape, and at that time I wanted to do this kind of work. At that time, I realized the possibility of the light that I was always seeing, and after that I became aware of the light.

I was impressed with what I hadn't been aware of before, and I was impressed with it, so I was impressed with architecture.

一瞬の錯覚

軽井沢にある篠原一男のTanikawa Houseでのお茶会後、名残惜しく、その地を離れる前に、もう一度、建物の周りを巡って、斜面を登り、南側から見た時だった、今までの様相とは違う表情が見え、ハッとし、思わず「いい」と呟いてしまった。

その時すぐに写真に納めたが、それをお見せできないのは残念だが、それまで強い建築の形式故に、その形式の強さが先導して、この建築はこう理解するのがよろしいという指示の元、確かにそれが素晴らしく、感動してはいたので、満足していたが、その瞬間、形式を超え、建築が周りの空気と同化したような、一瞬建築が消えたような、周りの自然と同化したような、考えてみれば、自然ほどそのルールに則った形式の強いものは無く、その自然の形式に建築の形式が同化した、いや、そのものになったような錯覚が起こった。

そのような感覚を覚えたのはじめだった。この感覚を味わっただけでもここに来て良かったと思ったが、それも一瞬だった。

建築の形式が強いことが時には権威的と批判されることもあり、いかに弱めるかがデザインの暗黙の了解である時もあるが、いや、もしかしたら、形式の強さには別の可能性があるのかもしれない、何故なら、やはり形式の強さには惹かれてしまうから。

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"Illusion of the moment"

After the tea party at Tanikawa House by Shinohara Kazuo in Karuizawa, before leaving the place, once again around the building, climbing the slope and looking from the south side, the situation until now I saw a different expression, and was relieved and unintentionally screamed "good".

I immediately put it in the photograph at that time, but I am sorry that I can't show it, but because of the strong form of architecture until then, the strength of that form leads, and I am instructed to understand this architecture like this Sure, it was wonderful and impressed, so I was satisfied, but at that moment, beyond the form, the architecture was assimilated with the surrounding air, the architecture disappeared for a moment, the surrounding nature and If you think of it assimilated, there are no strong forms that follow the rules of nature, and there is an illusion that the form of architecture has become assimilated into that natural form.

It was the beginning of learning such a feeling. I thought it would be good to come here just by tasting this feeling, but it was also an instant.

The strong form of architecture is sometimes criticized as authoritative, and how to weaken it is sometimes an implicit understanding of the design, but maybe there is another possibility for the strength of the form It may be because it is attracted by the strength of the form.

Tanikawa House 秋茶会

その建築は森の中で凛々しく光り輝いていた。

軽井沢にある篠原一男のTanikawa Houseでのお茶会に参加した。個人の邸宅ということもあり、長らく未公開の建築で、一般公開されたのは竣工以来今回がはじめてらしく、あまり使われていない時期もあり、竣工当時のそのままの姿で現存しているという。

説明によると、Tanikawa Houseとは、1974年、谷川俊太郎氏が一編の詩を建築家篠原一男氏に託して建てられた北軽井沢の別宅、とのこと。

この住宅の特徴は、斜面地に建築され、その斜面がそのまま住宅内に連続して現れたような傾斜した土間を持っていること。その土間は、南北に9mの幅で、1.2mの落差を持ち、火山灰が一面敷き詰められている。この土間で谷川俊太郎は様々なイベントを行うことを想定していたらしい。

さらに、その土間には、45度の方杖が付いた太い柱が、存在を強調するように配されていた。

また、屋根が地面から1m位の高さから45度の角度ではじまるので、斜面に屋根だけが載っている印象になり、外観の印象は全てが屋根で、その屋根の材質がシルバーに着色された亜鉛鉄板なので、森の中で光り輝き、その輝きは鈍く、時として、落ち葉なのか、錆なのか、わからない経年劣化が周りの木立と絶妙な調和をはかっていた。

全体の印象としては、斜面地にシルバーの屋根が架り、それを太い柱が支え、壁が外部と内部を仕切り、斜面がそのまま室内の土間に露出して、これらの建築の架構要素が強調されることによって、建築の形式が強く打ち出され、建築が初源的な姿で、凛々しく自然の中に鎮座していた。

ところが不思議なもので、その強い建築の形式が自然の中で存在感を出しながら、うまく自然と馴染んでいた。

何故だかわからないが、その強い建築形式にとても惹かれた。

(その場での写真撮影は可でしたが、SNS等での建築写真の投稿は不可でした)

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"Tanikawa House Autumn Tea Party"

The architecture shone brilliantly in the forest.

I participated in a tea party at Tanikawa House by Kazuo Shinohara in Karuizawa. It may be a private mansion, and it has been unpublished for a long time, and it has been open to the public since it was first completed, and there are times when it has not been used so much.

According to the explanation, Tanikawa House is a separate house in Kita Karuizawa, built in 1974 by Shuntaro Tanikawa entrusting a single poem to architect Kazuo Shinohara.

The feature of this house is that it is built on a sloping ground and has a sloping soil where the slope appears continuously in the house. The soil is 9m wide from north to south, has a drop of 1.2m, and is covered with volcanic ash. It seems that Shuntaro Tanikawa was supposed to hold various events in the space.

In addition, a thick pillar with a 45-degree cane was placed between them to emphasize its existence.

Also, since the roof starts at an angle of 45 degrees from a height of about 1 m from the ground, it becomes the impression that only the roof is on the slope, all the appearance impression is the roof, the material of the roof is colored silver Because it was a galvanized iron plate, it shone in the woods, and its brightness was slow.

The overall impression is that a silver roof is built on the slope, a thick pillar supports it, the wall partitions the exterior and interior, and the slope is exposed as it is between the indoor soils, emphasizing the structural elements of these buildings As a result, the form of the architecture was strongly launched, and the architecture was in its original form and was majestically settled in nature.

However, it was mysterious, and its strong architectural form made a presence in nature, and it was well adapted to nature.

I don't know why, but I was very attracted to its strong architectural style.

(Photographing on the spot was allowed, but posting of architectural photos on SNS etc. was not possible)

らしく

「〜らしい」とか、「〜らしく」とか、「〜風」は結局、「〜」では無いということなのに、それは当たり前だけれども、「〜」だと勘違いをついしてしまう。

例えば、「建築家らしい」振る舞いとか、「建築家らしく」行動するとか、何の職業や肩書きでも良いが、その人はその職業や肩書きでは無いから、あるいは、無いと思うから、そう考えるのだろう。

例えば、「和風」料理は、和食風味の料理ということであり、和食では無いし、「欧風」料理も、かなりアバウトだが、フランス料理っぽいとか、イタリア料理っぽいもので、フランス料理でも、イタリア料理でも無い。

「自分らしい」とか「自分らしく」も同じ、そう言っている時点で、自分では無い。

そもそも「〜らしい」「〜らしく」「〜風」などとなると、曖昧になり、その曖昧さを求めているならば良いのだが、案外言っている本人はその曖昧さを求めてはおらず、しっかりカッチリしたものをイメージしていて、ただ、そのものズバリを言い当てる言葉を持ち合わせていないか、頭の中がクリアでは無いのか、自信が無いのかもしれない。

それに「〜らしい」「〜らしく」「〜風」などは全て、外からの決めつけみたいなもの、慣習であったり、常識と言われて範囲のことであったりして、社会的な識別には役に立つかもしれないが、その人であったり、そのもの自体は、それとは別に存在していて、それとは別に成り立ちがあるのだから、何か中身のなる人なりものなりにしたければ、どうでも良いようなことだと思う。

なんて、当たり前のことだろう、なのに自分に対して「〜らしい」とか、「〜らしく」とか、普通に思ってしまうから、それを取り除いた先をイメージしてみようと。

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"Like"

Although it seems to be "~", "~ like", or "~ wind" is not "~", it is natural, but it is misunderstood.

For example, you may behave as an "architect" or "behave as an architect", any occupation or title, but because that person is not or does not have that occupation or title, think so. Let 's go.

For example, "Japanese-style" cuisine is a Japanese-flavored dish, not Japanese, and "European-style" dishes are quite about, but they look like French or Italian food. It's not cooking.

The same is true of "Like me" or "Like me".

In the first place, when it becomes "~", "~" or "~", it becomes ambiguous and it is good if you are seeking the ambiguity, but the person who says unexpectedly does not seek that ambiguity, firmly You may be imagining something that is cluttered, but you may not be confident that you don't have words to tell you exactly, or that your head is not clear.

In addition, "~", "~" and "~ wind" are all things that seem to be determined from the outside, such as customary or common sense, and range. It may be useful, but the person itself, or itself, exists separately from it, and it has a separate origin, so if you want to be something inside you don't care I think that's true.

I don't think it's normal, but I usually think of myself as "~" or "~", so I'd like to imagine where it was removed.

にもかかわらず

最近出会って、ハッとした文章から、

『考えてみれば、とくに自己表現なんかしなくたって人は普通に、当たり前に生きていけます。しかし、にもかかわらず、あなたは何かを表現したいと願う。そういう「にもかかわらず」という自然な文脈の中で、僕らは意外に自分の本来の姿を目にするかもしれません。』

ある人から、だいぶ前に、村上春樹の『職業としての小説家』は面白いから、文章だけでは無く、何かをつくる人は読んだ方が良いから、と言われた。前に『走ることについて語るときに僕が語ること』は読んだことがあり、ただ実は、村上春樹の小説を読んだことが無く、興味も無かったので、人から言われてもすぐには読まなかった。

そうしたら、また最近、ちがう人から、同じことを言われたので、それならばと読みはじめ、冒頭の文章に出会った。

普通につくれば、人はそれだけで喜んでくれるし、感謝もしてくれる、それで生活もできる訳だから、こんな良いことはないとは思うし、それで当たり前に生きていけるけれど、つくっている本人は、出来上がったものに物足りなさを感じる、出来上がったものがつまらないと感じる、「にもかかわらず」そう思うから、だから、何かをしたくなる、何かを変えたくなる。

そう思うことの中身を抽出して、そう思わないようにしてやれば良い。とてもシンプルで単純な話だ。

ところが、そこをあれこれやり過ぎて、結局は不自然な方向へ行き、不自然なことをしはじめる。今度は、そのとてもシンプルで単純なことをやることに物足りなさを感じるから、何か自分なりの表現を意図して持たないといけないと考えてしまうから、それが作家性であり、作品性につながると考えてしまうから。

「にもかかわらず」という問いかけは、自己表現することが、とてもシンプルで単純な話であることを思い出させてくれた。

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"in spite of"

Recently met, from a surprised sentence,

"If you think about it, people can live normally, especially if they don't do self-expression. But nevertheless you want to express something. In such a natural context of "in spite of that", we may be surprised to see our original appearance. ]

A long time ago, Haruki Murakami's "Novel as a profession" was interesting, so it was better to read not only the text but also the person who made something. I've read "What I say when I talk about running" before, but in fact, I've never read a novel by Haruki Murakami and I wasn't interested in it. I didn't read it.

Then, recently, another person told me the same thing, so I started reading and met the first sentence.

If you make it normally, people will be pleased with it alone, thank you, and you can live with it, so I think that there is no such good thing, so you can live naturally, but the person who is making it, I feel unsatisfactory with what I'm finished with, I feel like it's boring, I think "even though", so I want to do something, I want to change something.

You can extract the contents of what you think so that you do not think so. It's a very simple and simple story.

However, if you do too much, you will eventually go in an unnatural direction and begin to do unnatural things. This time, I feel unsatisfactory in doing that very simple and simple thing, and I think that I have to have something of my own expression. Because it thinks that it is connected.

The question "Despite" reminded me that expressing myself was a very simple and simple story.

現実感

台風が去った後、翌朝の澄んだ青空を気持ち良く迎えることができ、雨戸を開け、家の周りを点検し、本当に幸いにも何も被害が無く、また普段の生活に戻ることができたが、被害に遭われた方々のことを思うと胸が痛く、Facebook上では、ラグビーの歓喜と、被害の状況が、交互に映り出されて、そうなると、自分からそれらの事実がどんどん遠ざかるような気がして、どちらも現実で、どちらも大変なことだが、あまりにも両極端な出来事過ぎて、現実感が追いついていかない。

その現実感が追いついていかない様は、あの強烈な台風の最中にも感じていて、あまりにも雨風が酷くて、でも何もできない、ただじっと耐えるしかない状況で、ことさら不安にならないようにするためには、これは現実では無く、フィクションで、映画のセットの中に迷い込んでしまった位に思わないと、対応できない位だった。

だから、それが翌朝の青空でリセットされ、喉元過ぎれば熱さ忘れる、になるかと思ったが、そうは簡単には行かずに、続きがあり、あまりにも自分の状況とは違う被害状況に戸惑い、それは同じ台風に自分も晒されたからで、なぜか落ち着かない、ソワソワ感が止まらない。

ただ、それでも、明日はどうしようかな、何をしなくてはいけないのかなと考えるのだから、それは今日と明日を違うものにしようという意欲ととらえれば、きっと、その、落ち着きの無さやソワソワ感は、現実を脳か身体か心が消化しようとしているサインかもしれないと受け止めることにした。

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"Reality"

After the typhoon left, I was able to greet the clear blue sky comfortably the next morning, opened the shutters, inspected the house, and fortunately there was no damage and I was able to return to my normal life. When I think about the victims, my heart hurts, and on Facebook, the joy of rugby and the situation of the damage are reflected alternately, and then I feel that those facts are moving away from me. However, both are real and both are tough, but both extreme events are too much to keep up with reality.

I don't want to be overwhelmed by the fact that the strong typhoon feels that the reality is not catching up, the rain and wind are too severe, but I can't do anything, I just have to endure it. For this reason, this was not a reality, it was a fiction that could only be dealt with if you didn't think you got lost in the movie set.

So, I thought that it would be reset in the blue sky the next morning and forget about the heat if it is too close to my throat, but it will not go so easily, there is a continuation, and I am confused by the damage situation that is different from my situation, That was because I was also exposed to the same typhoon, so I couldn't calm down.

However, I still think what I should do tomorrow and what I have to do, so if I think that it is a willingness to make today and tomorrow different, I'm sure the calmness and feeling of sorrow I decided to take reality as a sign that my brain, body, or mind is trying to digest it.

自然の力

先の台風でもそうでしたが、被害に遭われた方々のことを想うと胸が痛みます。例え、対策をし尽くしたとしても、それを上回る自然の力の前にはなす術がない。きっと大昔の人は、特に日本人は、抗うより、受け入れることで、こういう状況を乗り越えてきたのでしょう。だから、昔よりは、それでも治水に関しては良くなったと、子供の頃はよく神田川が氾濫していたのが無くなったり、賛否があってもダムが今回の台風による被害を軽減させたらしい。

水と食料が当たり前にあるから、それが無くなることを想像できない、できても想像力が及ぶ範囲が狭い。今回、自分がいる地域は断水も停電もしなかったが、それはたまたまで、あの強烈な雨風の中、家にいて、いつ停電しても、いつ断水しても、おかしくない状況だと思っていた。

対策はしていて、バッテリー、ソーラーパネル、カセットコンロ、食料、水は貯められるだけ貯めて、ただ、実際に停電や断水になった場合、これで何日持つか、何日持たせれば復旧するかもわからないのに、対策をするのは難しかった。

当たり前の物だから、余計に実感が湧かない、無くなることを、それは豊かの代償かもしれないが、対策をして電源、食料、水が十分にあったとしても、いざ停電や断水になったら不安は消えないだろう。

強烈な雨風の中で一番思っていたのは、普段通りに生活を、時間を、送ること。特別に対策をし過ぎると、かえって不安が消えないし、疲れてしまう。

だから、今、停電や断水を経験している方々には、電源、食料、水がもちろん大事だが、早く普段通りの生活や時間の送り方ができるようになって欲しい。ライフラインや住む所の復旧には時間がかかるかもしれないが、それでも、生活や時間のリズムが普段通りに戻すことができれば、精神的にはだいぶ落ち着き、疲れなくなるだろうし、そのためには自然の力は受け入れて対応するしかできない。

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"Power of nature"

As with the previous typhoon, my chest hurts when I think of the people who have suffered the damage. Even if you take all the measures, there is no way to do it before the power of nature that exceeds it. Surely people in the past, especially Japanese, have overcome this situation by accepting rather than resisting. Therefore, it seems that the flood control has improved from the past, and it seems that the Kanda River was often flooded when I was a child, and even if there were pros and cons, the dam reduced the damage caused by this typhoon.

Since water and food are commonplace, we cannot imagine that it will be lost, but if possible, the range of imagination is narrow. This time, the area I was in had no water outages or power outages, but it just happened that I was at home in the intense rain and wind, and I thought it would be a strange situation even if there was a power outage or a water outage. .

Measures are taken, batteries, solar panels, cassette stoves, food and water are stored as much as they can be stored, but if there is actually a power outage or water outage, how many days will it last, and how many days it will recover I didn't know, but it was difficult to take measures.

Because it is a natural thing, it may be a price for richness that it will not feel real or disappear, but it may be a price for richness, but even if there is enough power, food, water, it will be uneasy if it becomes a power outage or water cut Will not disappear.

What I thought most about the intense wind and rain was to spend my life and time as usual. If you take too many special measures, your anxiety will not disappear and you will get tired.

So, for people who are experiencing power outages and water outages, it is important to have power, food, and water, but I want them to be able to live and live as usual as soon as possible. It may take some time to restore your lifeline and place of residence, but if you can restore your life and time rhythms to normal, you will be much more calm and tired. Power can only accept and respond.

心のシェルター

家はつくづく、シェルター、だと思う。

台風の対策を、ここまでしたのははじめて、全部の雨戸を、閉めたのもはじめて、3日前から、対策したのもはじめて。

今回は事前から、恐いくらいに、台風の影響を気にして、はじめて、停電した、断水した、その後どうするとして準備した。

今までは、何とかなる、だった。仮に、停電しても、断水しても、何とかる、何とかしてくれる、だった。

千葉の人たちが、大変な思いを、されているのもあるし、それを自分に、置き換えて、水と食料、いつも食べているものを、蓄えた。

で、最後は、家である。いくら、水と食料があっても、家が持たないと、何の意味も無い。

しかし、対策は限られる。簡単に言えば、窓をどうするかだけ、その他は、そもそもの家の、ポテンシャルの問題。

だから、頑丈に、つくりましょう、と言いたいのではなくて、この台風の機会に、余裕がない機会に、家は、シェルター、それも、心のシェルター、だとつくづく思う。

家のつくり、がどうのこうのでは無くて、家という囲われた安全地帯のありがたさ、中では、外とは、全く関係なしに、過ごせるありがたさ、それがある安心感、家がもし必要だとしたら、それが一番だと。

乱暴に言えば、家で行う機能は、全て、外で賄える。食べることも、寝ることも、その他のことも、全て、賄えないのが、安心感。安全地帯という、心の持ちよう。

それを、心底経験すると、家に対する想い、が変わる。

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"Shelter of the heart"

I think the house is a shelter.

This is the first time I have taken countermeasures against a typhoon, the first time that all shutters have been closed, and the first three days before that.

This time, I was prepared for the first time because I was worried about the effects of the typhoon, and after a power outage, water cut off, and then what to do.

Until now, it was going to be somehow. Even if there was a power outage or water outage, it managed to manage it.

Some people in Chiba had a great feeling, replaced it with themselves, and stored water and food, what they always eat.

And the last is a house. No matter how much water and food you have, if you don't have a house, it has no meaning.

However, measures are limited. Simply put, what to do with the windows, the other is the potential problem of the house.

So, I don't want to say that I should make it sturdy, but I think that the house is a shelter, a heart shelter.

It's not like how a house is built, but the appreciation of the enclosed safety zone of the house, inside, thank you for being able to spend it without having anything to do with the outside, if there is a sense of security, if the house needs it, Is the best.

Roughly speaking, everything you do at home can be done outside. I can't afford to eat, sleep, or anything else. Let's have a safety zone.

If you experience it, your feelings for the house will change.

出会った造形本

前に何度か行った本屋の前をたまたま通りかかり、目的地に行く途中、後で時間があったらと思いながら、前に行った時はどうだったかと思い返し、デザインや建築の書籍専門で、何だったか前に購入したようなと思いつつ、思い出せない。

そこは1年1度くらいしかいかない通り、近くに役所があるからそこら辺にはよく行くけれど、なかなか雰囲気のある通りで、地元の商店ばかり、肉屋、魚屋、八百屋があり、スーパーがない、夕方には惣菜目当ての買い物客が溢れはしないが適度にいて、触れ合いもありつつ、若い人が好きなようにお店をしている、飲食だけでなく、雑貨屋なども、ちょっと裏通りに入ったら、前によく見たドラマの舞台になったお店も発見、表の通りのお店のバリエーションがおしゃれから下町風まで、車もあまり通らないし、住みたい街、その通り沿いにある本屋へ用事の帰りに寄った。

本が綺麗に飾ってあり、雰囲気からしてデザイン本を扱っているのがわかる。規模は小さいので、たくさんは無いがチョイスに特徴がある本が並ぶ。

ただ、自分の趣味とは合わなかったし、建築に関する本もあまり無かった。ひと回り、適当に手に取り、パラパラと、またパラパラと、だけど、この時間は結構楽しい、大型書店とはまた別の、人の趣味をのぞき見しているような、それでいて、そう共感できるものがあると、妙に親近感がわく。

赤い函に入った大冊2冊組が目に止まる。パウル・クレーの『造形の思考』、上下巻あり、クレーのことはあまり知らず、バウハウスで教鞭を取っていたことぐらいで、もちろん、作品もその本のことも知らなかった。

手に取ったのはタイトルに惹かれたから、「造形」しかも「思考」と来たら何が書いてあるのかな、けど、そこまで期待せず、赤い函に黒いタイトル文字が何となくカッコよかったし、それまで、パラパラと流しながら本を眺めていたので、ちょっとじっくりと目を通してみようかなと。

クレーのこと、この『造形の思考』のことは、人からも聴いたことが無かったし、私の周りで話題にのぼることも無かった、それがどうしてと不思議に思うくらい、パッと適当に広げたページから引き込まれた。

造形に関することが言葉と図解で論理的に展開されている、その一つ一つを見て行くと、造形の初源的なことの成り立ちを解説していて、これほど造形に関することをわかりやすく、それも的確に教えているテキストに初めて出会った。

そこに出るくるワードが普段自分が設計する時に念頭に置く言葉であったり、ただ、そこまでストレートに図解に組み込み説明しているテキストには今まで出会わなかった。もう当然気になるし、もっとじっくり読みたくなる。Amazonばかりだけど、本屋へ行くのはこれがあるから、もう当然手に、となるのは必然でした。

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"The book I met"

I happened to pass in front of a bookstore that I had visited several times before, and I thought that there was time later on my way to my destination, but I thought back how I was before, specializing in design and architecture books, I can't remember what I thought it was before.

There is a government office nearby because it only goes about once a year, but it is a street with a lot of atmosphere, there are only local shops, butchers, fish shops, greengrocers, there is no supermarket, In the evening, shoppers for sugar beets are not overflowing, but they are moderate, there is also a touch, and shops are opened as young people like. Then, I found a shop that was the stage of the drama I saw before, the variations of the shop as shown in the table, from fashionable to downtown style, not much cars, and the city where you want to live, to the bookstore along that street I stopped by the errand.

The book is beautifully decorated, and you can see that it handles the design book from the atmosphere. Since the scale is small, there aren't many books, but there are many books that are unique to choice.

However, it did not match my hobby and there were not many books on architecture. I picked up and picked it up a little, and it was a lot of fun, but this time was quite fun, something different from a large bookstore, like looking at people's hobbies, yet something that I can sympathize with There is strangely a sense of affinity.

Two large books in a red box catch your eyes. Paul Klee's "Thinking of modeling" has upper and lower volumes, and I didn't know much about Clay, I was teaching at Bauhaus, and of course I didn't know the work or the book.

I was attracted to the title because I was attracted by the title, so what was written if it came to `` modeling '' and `` thinking '', but I did not expect so much, the black title letter was somewhat cool in the red box, Until then, I was watching the book while playing with it, so I would like to take a closer look.

I didn't even hear about Clay and this "Thinking of Thinking", and I did n't get to talk about anything around me. I was drawn from the page that I expanded.

When you look at each of the things that are logically developed in terms of words and illustrations, it explains the origins of modeling, and it's so easy to understand It was the first time I met a text that taught me exactly.

The words that come out there are words that I usually keep in mind when I design, but I have never met texts that are straightforwardly embedded in illustrations. Naturally, I'm curious and I want to read more carefully. Although it is only Amazon, there is this to go to the bookstore, so it was inevitable that it was already in hand.

哲学する

今読んでいる本に、日々の生活の中でそれまで当たり前だと思っていたささいなことに気を止めてみて、それを問い直し、自分なりの言葉にしてみる、それが正しいか間違いかはどうでもよくて、そのプロセス自体を無償で愛することが「哲学する」ことだと書いてある。

自分が当たり前だと思って、特に気にも止めていなかったことが、ある日突然、たまたま目にした、耳にした、言葉や映像などによって、気になり出すと同時に、そのことについてもっと深く知りたくて仕方がなくなり、いつしかその当たり前の意識だったものが大きく変わってしまう、そのようなことを起こす言葉や映像などを投げかけることができたら、それが建築でできたら面白いと常々思っている。

日々の生活の中にはまだ気づいていない宝物がたくさんあると思っていて、ただ、それを自分の力だけで気づくのは難しく、自分以外からの手助けも必要で、設計はその手助けをすることだと昔から考えており、それを「宝物探し」に例え、自分はトレジャーハンターだと、探し出したお宝を、それを見せることによって、それまで気づかなかった、当たり前だと思っていた意識が変わってくれれば、動き出したらいいなと、昔ある人にそのことを言ったら失笑されたけれど、今でも同じように考えていて、では宝物とは何だと、その本には

「本当の宝物は、誰でも見えるところに落ちているから、むしろ見つけにくい。そして誰にでも手に入れられるから、自分だけの所有にすることはできない。」(堀畑裕之『言葉の服』より)

とあり、宝物だと思うと、特別なもの、見えないところにあるもの、自分だけのものと思っていたが、自分の目で見ているものと、そのもの自体の性質は違う時があるから、なるほどと宝物に対する意識が変わった。

自分なりの言葉にしようと、宝物とは何だと、一所懸命に考えたのに、この本の言葉に出会って、すーっと腑に落ちた、そして、自分が建築でやっていることを逆の立場から経験した。

「哲学する」その無償に愛するプロセスに浸りながら、自分以外からの手助けも受け、また「哲学する」、この入れ子状のプロセスが心地よく、この入れ子がたくさんできればできるほど、日常が豊かに、自分なりの日常を獲得できるような気がした。

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"Philosophy"

In the book you are reading now, stop thinking about the trivial thoughts you have taken for granted in your daily life, re-question it, and try your own words. It doesn't matter, and it is written to love the process itself for free.

What I thought was taken for granted and that I didn't care about suddenly one day suddenly happened to happen, I heard it, heard it, words and images, etc. If you can throw a word or video that causes such things to change, something that is the natural consciousness will change greatly, I always think that it will be interesting if it can be done in architecture .

I think that there are a lot of treasures that I haven't noticed in my daily life, but it is difficult to notice it with my own power, and I need help from other than myself, and design helps I have thought of it for a long time, and compared it to "treasure hunting", and if I was a treasure hunter, showing the treasure that I found out changed my consciousness that I had never noticed before. If you tell me that I should start moving, I was laughed if I told a person in the past, but I still think the same way, so what is a treasure,

"The real treasure is so easy to find that anyone can see it, and it's hard to find it, and anyone can get it, so you can't make it your own." (From Hiroyuki Horibata's "Language Clothes" )

When I thought it was a treasure, I thought it was a special thing, something that was invisible, or something that was unique to me, but there were times when the nature of the thing itself was different from what I was seeing with my own eyes. I see, my awareness of treasure has changed.

I thought hard about what the treasure was, whether it was my own words, but I met the words in this book and fell into a trap quickly, and I reversed what I was doing in architecture Experienced from the standpoint of.

"Philosophy" Soak yourself in the process of loving yourself and receive help from other than yourself. Also, "Philosophy", this nesting process is comfortable, the more you can make this nesting, the more everyday you will be I felt like I could acquire everyday life.

抽斗

そーっと、仕舞い込んでおくことにして、大事かどうだかはわからないけれど、いつか役に立つかもしれないし、何より面白い話だったから。

頭の片隅にその時感じたこと、その時考えたことと一緒に、そう村上春樹が言うところの頭の中の抽斗に仕舞っておこう。

久しぶりに楽しくて、興味深い話だった。普段から見て、いろいろと考えたり、感じたりしていることを科学的検知と歴史的認識と設計的思考で、いろいろな角度から論じた話は、今までにない思考を生んで、頭の中に新たな回路ができたような感じだった。

はじめから人に教えてもらう方が楽だし、自分自身が考えることはすでにわかっていることの先からで良いとするならば、本を読み、人にきき、ネットなどで調べて、それから考えはじめれば良いけれど、それではつまらない、もしかしたら、はじめから人とは違うことが思い付いたりして、そうしたら絶対にその方が良いし、その方が楽しい。

だから、今日のことは頭の中の抽斗に仕舞っておいて、結論を出さずに仕舞っておいて、いつか必要な場面が来たら抽斗を開けて、また考えることにしよう。その時には今とは違う自分がいるから、また違った展開が待っているかもしれないし、それを楽しみにして。

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"drawer"

Softly, I don't know if it's important or not, but it might be useful someday and it was an interesting story.

Along with what you felt at that time in the corner of your head and what you thought of at that time, let's finish the drawing in the head that Haruki Murakami says.

It was a fun and interesting story after a long time. Talking from a variety of perspectives, using scientific detection, historical recognition, and design thinking to think about and feel various things from a normal perspective, gives rise to unprecedented thoughts, It felt like a new circuit was created inside.

If it's easier to get people to teach from the beginning, and if you want to think beyond what you already know, you can read a book, ask people, search on the net, and then start thinking It's good, but it's boring, or maybe you've come up with something different from a person from the beginning, and that's definitely better and it's more fun.

So, for today, let's finish the drawer in my head, finish it without making any conclusions, open the drawer when someday comes, and think again. At that time, I have a different myself, so I may be waiting for a different development, and look forward to it.

作品性

形が歪んだ、緑の彩色が施された器を見ると織部焼か、織部焼を真似た作品だとわかるくらい特徴的な器、作者の古田織部は最期、切腹させれた。そうすると、罪人の作品は一斉に無くなる、消えて無かったことになるらしい。

それまで端正で大振りだった茶碗が歪みはじめた。歪みや丸味を排し、黒々とした、無骨で武士が好みそうな姿をしていた茶碗から、丸味を帯び、歪み、彩色を施されたものが生まれた。

黒くて無骨で大振りな、きっと武士にふさわしい茶碗が大勢を占めると、それは権威と同等の価値が与えられるようになったのだろう。

そうなると、創造性豊かな人物ほど、その権威的なものを壊したくなる、それまで捨てられて相手にされなかったものの価値に気づき、注目する。

丸味や歪みの中に、端正で無骨以上の茶碗としての価値、茶の湯の道に沿い、より際立たせる姿を見出したのだろう。

その道程を計り知ることは難しいが、今現在も見ることができるその時代の織部焼は、ただ単に形が歪んで面白いとは違い、その形や彩色の中に見え隠れする端正で無骨なものから生まれた強さを感じるし、温和で柔らかいな印象の中にも黒くて大振りなものをも飲み込んでしまう海のような深さ、怖くもあるが、をも感じる。

器ひとつで人が亡くなる時代から残っていた物の凄み、それを今見て、そこに美とは何たるか、作品性とは、と振り返ることによって、今の人の意識を揺さぶることが素晴らしい。

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"Workability"

The distorted shape of the vessel with a green color, and the distinctive vessel that can be seen as a work imitating Oribe Yaki or Oribe Yaki, the author's Furuta Oribe, was finally cut off. Then, it seems that sinner's works disappeared all at once, and disappeared.

Bowl it was up to a neat roundhouse began distortion. From a bowl that is black, rugged, and samurai-like, with distortion and roundness removed, it was born rounded, distorted and colored.

Black rustic, a roundhouse, when surely accounts for the many bowl worthy of the samurai, it probably came to be given the equivalent of the value and authority.

Sonaruto, as the rich person creativity, and want to break the authoritarian ones, aware of the value of those not in discarded opponent until then, attention.

In the rounded or distortion, value of as rugged more bowl neat, along the way of the tea ceremony, probably it found a more accentuate appearance.

It is difficult to measure and know the path, but the Oribe ware of that era, which can still be seen today, is not just distorted and interesting, but from the neat and rugged thing that appears and hides in its shape and color. I feel the strength that I was born in, and the depth and depth of the ocean that swallows black and big things in a mild and soft impression.

It is wonderful to shake the consciousness of the present person by looking at the amazing things left from the time when people died in one vessel, looking at it now, what is beauty there, and what is workability.

知らなくてもよい

知りたいことを調べるのはほんと簡単で、スマホですぐに手に入る。だからか、知っていることが当たり前というか、知っていて当然というか、知らないと恥ずかしいと思う人が多いような気がする。

スマホで手に入る情報が本当に価値があるかはどうかは別として、それが知識なのかは別にして、例えば、財布を忘れるより、スマホを忘れた方が困るくらい、スマホは今や肌身離さずに持っているのが当たり前になった。

だから逆に思うのは、スマホで調べられる情報は、必要な時に必要なだけすぐに調べてわかることができるから、スマホで調べられる情報は、知らなくてもよいと、知らない方がよいと。

かなりのことがスマホで調べようと思えばできるはずで、そうすると、かなりのことを知らなくてもよい。

スマホではわからない、それでいて自分にとってはとても大事な知識だけ、それだけに集中して日常を送ることができる環境が今あると考えることができる。スマホやインターネットが無かった時代には考えられないくらい、自分にとって大事で、重要で、好きなことだけに集中できる環境が今ある。

今だに知っていることに価値を見出している人は、もしかしたら、情報の内容には関心が無くて、ただカタログを集めて遠くから眺めていることが好きな人なのかもしれない。それはそれで楽しいが、スマホでは手に入らない情報に直に触れようとした方が、日常がより豊かになると思うのだが。

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"You don't have to know"

Finding what you want to know is really easy and you can get it right on your smartphone. That's why there are many people who know that it is natural to know, that it is natural to know, or that it is embarrassing if they do not know.

Regardless of whether the information you get on your smartphone is really worth it or not, whether it's knowledge, for example, it's harder to forget your smartphone than to forget your wallet. It has become natural to have.

So, conversely, the information that can be checked with a smartphone can be understood as soon as necessary when you need it, so if you do not need to know the information that you can check with a smartphone .

You should be able to do a lot of things on your smartphone, and then you don't have to know a lot.

It can be thought that there is now an environment that you can't understand on your smartphone, and that you can concentrate on your daily life with only knowledge that is very important to you. There is now an environment where you can concentrate only on what you like, important and important to you as you wouldn't have thought before in the days when there was no smartphone or internet.

People who still find value in what they know may be those who are not interested in the content of the information and just like collecting catalogs and looking at them from a distance. That's fun, but I think it would be richer to try to touch information that isn't available on a smartphone.

多様な状態

複雑なことを複雑なままにしておけるということは、同時に存在することが許されていること、それを別の言い方をすると、多様性が認められていること。

多様な状態は、一歩引いて俯瞰して見ると、違いだけが、差異だけが乱立している状態で、その差異に特徴があり、その差異に価値があり、その差異を表現しても良い状況ができている。

だから、多様な状態では、その差異で優劣が決まるから、元々の出自は関係が無くなる。実際には、出自が土台としてあって差異が生まれるから、出自は重要だが、多様な状態では差異に焦点が当たり、出自が見えなくなるから関係が無くなる。

単純な状態はその逆で、差異はむしろ余計なもので、出自で優劣が決まり、差異は関係が無い。そもそも、単純な状態は全てが可視化できていないと単純とはみなされないから、差異に焦点が当たると、複雑になり過ぎて全てが可視化できなくなるから、差異には焦点を当てずに、出自でグルーピングして優劣を判断する、その方が簡単でわかりやすく、管理がしやすいから。

多様な状態でも、単純な状態でも、どちらでも良いのかもしれないけれど、差異に価値がある方が創造性があるというか、工夫のしがいがあるから、ものづくりをしている人は多様な状態の方に興味が湧くと思うのだが、意外とそうでも無い。

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"Diversified states"

Being able to leave a complex thing complicated means that it is allowed to exist at the same time, and in other words, diversity is recognized.

A variety of states, when viewed from a bird's-eye view, only the difference is a state where only the difference is random, the difference is characteristic, the difference is valuable, and the difference may be expressed The situation is ready.

Therefore, in various states, the difference is determined by superiority or inferiority, so the original origin disappears. Actually, the origin is important because it is based on the origin, but the origin is important, but in various situations, the difference is focused on and the relationship disappears because the origin is invisible.

The simple state is the opposite, the difference is rather superfluous, the superiority and inferiority are determined by the origin, and the difference is irrelevant. In the first place, simple states are not considered simple unless they are all visible, so when focusing on differences, they become too complex to be fully visualized. Group and judge superiority or inferiority because it is easier, easier to understand, and easier to manage.

It may be either a variety of situations or a simple situation, but people who are making things are in a variety of situations because the difference is worth the creativity or the ingenuity I think it will be interesting to you, but not surprisingly.

甘いものと味噌汁

やったらダメと言われると余計にやりたくなり、さらにダメと言われるとやってしまう。やったらダメだとわかっていても、やっても大丈夫、問題無いと思うのと両方天秤にかけて、行ったり来たりしながら、2つの相反することが個人の中で同居している。

料理研究家の土井善晴さんの記事を読んだ。朝食に赤福と味噌汁で「これでええやん」と「家の中の多様性」を大事に、急速に多様化では無く単純化していく社会を嘆いていた。

人は皆違うと頭ではわかっていても、その違いを容認できずに、自分との違いを攻撃してしまう人をFacebookでもよく見かける。他人どころか自分でさえも一貫した考え方などできずに揺れ動いて違いが生まれるのだから、むしろ、揺れ動き、定まらず、今何をしたら良いのだろうかと考えてしまうことがある自分に気がついて、それで良いと自分に理解があれば、他人との違いなど気にならないし、寛容にもなれる、それが「多様化」の第一歩かな。

そもそも今の自分に理解があり認めている人は、他人との違いをむしろ面白く興味深く見ていて、そちらの方が良ければサッサと自分の考えなんて変えてしまうのだから、何事も流転する、だから、今の自分と未来の自分は違うと考えられると思っているようで。

そうなると、多様性とは物事を流転させる原動力になり、未来を明るくするには、どのような多様性を持ち得るか、多様性の質が鍵になるということか。

やっぱり、赤福に味噌汁は、毎日食べたいとは思わないけれど、赤福をお土産に貰ったら一度は試してみたい、たぶん、合うと思うし、それが朝食でも別にいいし。

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"Sweet and miso soup"

If you say no, you will want to do more, and if you say no, you will. Even if you know that it's not good, you can do it. It's okay to do it, and you'll have no problem.

I read an article by cooking researcher Yoshiharu Doi. He was lamenting the society that rapidly simplified, not diversified, with the importance of "this is Eyan" and "diversity in the house" with Akafuku and miso soup for breakfast.

Even if you know that people are different, you can't tolerate the difference, and people often attack Facebook on Facebook. Rather than someone else, even myself can not make a consistent way of thinking and shakes to make a difference, but rather, I am aware of myself who sometimes thinks what to do now without shaking, uncertain, and that is OK If you understand yourself, you will not be concerned about the differences with others and you will be tolerant. This is the first step in "diversification".

In the first place, people who understand and acknowledge themselves now look at the differences from others rather interesting and interesting, and if they are better, Sassa and their thoughts will change, so everything will flow. It seems that I think that I am different from myself in the future.

In that case, diversity is the driving force for diverting things, and what kind of diversity can be possessed and the quality of diversity is the key to brightening the future.

After all, I don't want to eat miso soup for Akafuku every day, but if I buy Akafuku as a souvenir, I would like to try it once.

単純と複雑

単純であることと複雑であることが同時に成り立つことは矛盾しているが、単純に見えて実は複雑、複雑に見えて実は単純、となれば同時に成り立つことは可能になる。

複雑に見えて実は単純より、単純に見えて実は複雑の方に惹かれる。質素で、シンプルで、でも本質はとても豊かであり、趣深いものが良いと思ってしまう。

それは日本人だからだろうか、日本の文化、例えば、料理にしても、建築にしても、和食にしても、数寄屋建築にしても、素材を大事にして、一見、質素で、シンプルだが、でも味わうと、とても滋味深く、豊潤で、奥深さに感心してしまう。

それは海外から見た日本のイメージでもあるかもしれない。日本人のデザイナーが海外で仕事をする時に、暗黙的に求められることらしく、ただ、意識しなくても、シンプルだが奥深い、単純に見えて実は複雑なデザインに見えるらしい。

複雑に見えて実は単純の場合は、見た目はデザインされ綺麗に見えるけれど、実は中身が無く、内容が無いということもあるが、複雑なことを複雑なまま見せている、とも言える。

複雑なことを整理して、何らかの解法を与えて、単純に見せれば、それが、単純に見えて実は複雑だが、複雑なことをそのままではなくて、複雑なまま成り立つような解法を与えて、複雑に見せれば、複雑に見えて実は単純になる。

それが、複雑に見えて実は複雑、とならないのは、実は何とは差分だから、最初からどのくらい変化したかの量が少なければ単純、多ければ複雑、となる。

ただ、複雑なことを複雑なまま見せる、ということに可能性を感じる。それは、何も無いところから1から何かをつくろうとした場合は、単純に見えて実は複雑、な状態を作りやすいが、何かあらかじめすでに存在している状態があった場合、すでにその時点で複雑になっている可能性があり、それを単純にするのは難しく、むしろ、複雑なものを整理して複雑なまま表現した方がやり易く、元々の状態とも馴染みが良いはずだから。

都市計画で失敗する例はまさに、複雑なことを無理矢理単純にしてしまうから、元々の状態と馴染めず違和感が出ることが原因で、複雑なことをそのまま複雑に解ければ、失敗する確率も減るだろう。

都市計画以外にも、建築でも、複雑なことを複雑なまま見せることで、日常がより豊かになるならば、その方が汎用性があり、可能性があるのではないかと思っている。

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"Simple and complex"

There is a contradiction between being simple and complicated at the same time, but it looks simple and actually complex, and when it looks complicated and simple, it is possible to hold at the same time.

It looks more complex and actually attracts people who look simple and actually more complex than simple. It is simple, simple, but very rich in essence, and I think it is good.

I wonder if it is Japanese, or Japanese culture, such as cooking, architecture, Japanese food, sukiya architecture, cherish the material, seemingly simple, simple, but taste I am impressed by the depth and depth of the food.

It may also be a Japanese image seen from abroad. When Japanese designers work overseas, it seems that they are required implicitly. However, even if they are not conscious, they seem to be simple but profound, simple and actually look complex.

If it looks complicated and actually simple, it looks and looks beautiful, but in fact it may not have any content and may not have any content, but it can be said that it shows complex things as complex.

If you sort out complicated things, give some solution, and show it simply, it looks simple and it is actually complicated, but it does not leave the complicated things as they are, but gives a solution that can remain complex, If it looks complicated, it looks complicated and actually simple.

The reason why it looks complicated and does not become complicated is actually what is the difference, so it is simple if the amount of change from the beginning is small and complex if it is large.

However, I feel the possibility to show complicated things as they are. If you try to make something from scratch from scratch, it's easy to create a complex state that looks simple, but if something already exists, It may be complicated, and it is difficult to simplify it. Rather, it is easier to organize and express complex things as they are, and it should be familiar with the original state.

The example of failing in urban planning is simply complicating the complicated things, and because it is unfamiliar with the original state, if you solve the complicated things as they are, the probability of failure will also decrease right.

In addition to city planning, I think that in architecture, if the daily life becomes richer by showing complex things as they are, it will be more versatile and possible.

大事な時間

禅宗の修行で「夜坐」と呼ばれる夕食後に寝るまでの間で行う坐禅があると聞いたことがある。

1日を振り返る時間なのか、心を静かに落ち着ける時間なのか、いずれにせよ、日が落ちた後は行動的にならず、心身共に休める時間にするということだろう。

人は一日のうちでいつが一番活動的になるのかが遺伝で決まっているようで、朝の人、昼の人、夜、夜中とタイプがあるらしく、自分は朝から昼にかけての時間帯が一番活動的で集中力が増す。

なので、大半の仕事や大事な活動は朝から昼にかけて行い、夕方以降はおまけの時間、大事なことはしないで、静かに過ごすように、また明日、日が昇ってスイッチが入るまでの休憩時間だと思っている。

だだ、もちろん、夜に仕事をする時もあるし、人と会ったり、外食したりする時もあるが、それでも寝るまでの間をどう過ごすか、大事なことはしないが、明日のためには一番大事な時間帯で、家にいる時は、朝から昼の時間帯は特に意識しなくても良いが、寝るまでの間の時間帯は意識して、深い眠りができるような工夫をしないと、明日が気持ち良く過ごせないので、一日のうちで一番過ごし方を大事にしている時間帯になる。

だから、「夜坐」の心の有り様に興味があり、たぶん、収束するように心を落ち着かせるのだろうが、そうすると眠くならないのか、坐禅中に寝ることはできないので、どうするのか、眠たいのに寝られない状況程辛いことはないから、それが修行ということか、ならば、修行ではないから、もう寝よう。

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"An important time"

I have heard that there is a Zen zazen called "Yoza" in Zen training, which is performed after dinner until sleeping.

Whether it's time to look back on the day or calm down, it's time to rest after both the day and the day.

It seems that people are genetically determined when it becomes most active during the day, and there are types of people in the morning, noon, night, midnight, and I am the time from morning to noon The belt is the most active and the concentration is increased.

So, most of the work and important activities are done from morning to noon, and after that evening, extra time, don't do anything important, be quiet, and tomorrow, rest time until the sun rises and switches on I think.

Of course, there are times when I work at night, sometimes I meet people and eat out, but it doesn't matter how I spend my time until I go to bed, but for tomorrow Is the most important time zone. When you are at home, you do not need to be aware of the time zone from morning to noon, but you should be aware of the time zone until you go to sleep so that you can sleep deeply. If you don't, you won't be able to spend tomorrow comfortably, so it will be a time of day when you spend most of your day.

So I'm interested in the way of the night-sitting mind, maybe calming my mind to converge, but if I don't get sleepy then I can't sleep during zazen, so I want to sleep It 's not as painful as a situation where you ca n't sleep, so it 's training.

実家は蛇口をひねると井戸水が出る。子供の頃は家の中に手押しのポンプもあり、そういえば、五右衛門風呂だった。端切れの木がたくさんあったから、そういえば、毎朝、作業場に行くと、大工さんが小型の斧で薪をつくっていた、風呂焚きの薪にするため、その薪を風呂焚きに使うと、風呂釜の中で木炭になる、その木炭を今度は火鉢に移して、夕餉の煮炊きに使う、冬はお餅を焼いたり、釜炊きのご飯も、それは台所から続く土間で行い、もちろん、外に持ち出して、これからの時期だと秋刀魚を焼いたりしていた。

土間に風呂焚きの薪を投入するところ、SLの薪を投入する口の小さいような所があった。そこに井戸も、手押しポンプもあり、そういえば、風呂炊きの煙突も、昔のお風呂屋は薪で沸かしていたから結構高い煙突があったが、そこまでではないが、風呂屋の煙突の小型版があり、そういえば、子供の頃は定期的に煙突掃除のおじさん、眼鏡をかけていて、帰る時はその眼鏡の部分だけが肌色だった、よく遊んでもらったような、風呂は板を沈めて入っていて、板無しで入ってそこに足がつくと火傷すると思い込んでおり、板があっても手で縁につかまって足を一所懸命に浮かしていたような気がする。

今は井戸水以外何も無い。

全て電気が無くても良く、時間と手間はかかるが、質素だが、無駄が無かった。今ではスイッチを押すだけ、あとは自動で済む、電気があれば。

子供の頃に戻りたいとは思わないし、家事労働が軽減されることは良いことだから、スイッチひとつで済む方が良い。ご飯だって、魚だって、子供の頃の方がスイッチひとつより美味しくできるかもしれないけれど、手間と時間の方が貴重、日常では、家庭では、スイッチひとつで十分。

ならば、井戸水だって、上水道があるし、井戸水用のポンプ、下水道料金もかかる、そういえば、ポンプを動かすのに電気も必要、でも井戸水だけは両親が残したのは、きっと、井戸水に愛着があったからだろう。

日常的に飲み、煮炊きに使い、洗濯や体を洗うのに使っていた、何があっても365日井戸水だけは確保されていた安心感、あるいは、それが浸透した生活感は何にも代え難いものだったのかもしれない。なぜそれがわかるかというと、井戸水と上水道の2つの蛇口が並んだシステムキッチンに立つと、井戸水の蛇口が正面の使いやすい位置にあり、いつでもその蛇口の水を使えるようにしてあったから。

それだけでも生活感というか、昔の人は生活することを生身で感じていたことがわかる。今とは感覚的に違う、それが災害になり、電気も無く、水も無くなったら、途端に生身で生活することを強いられる。今、その生活をしろと言われても無理だと思う、いくら備蓄して食料、飲み水があっても、山道具や、キャンプ道具があっても、遊びと生活は違うから、支障なく生活を送る術は、やはり、そう思うと、井戸水の存在は有り難い。

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"water"

When the parents turn the faucet, well water comes out. When I was a kid there was a hand pump in my house, so it was Goemon bath. There were a lot of pieces of wood, so if you go to the workplace every morning, the carpenter was making a firewood with a small ax, and using that firewood for bathing, It becomes charcoal in the wood, this time the charcoal is transferred to a brazier and used for cooking the evening sun. In the winter, the rice cake is cooked in the soil that continues from the kitchen. In the coming season, I was grilling sword fish.

There was a place with a small mouth to put a bath jar between the soil and a bath jar. There are also wells and hand pumps. Speaking of the chimneys for cooking the baths, the old bathhouses were boiled with firewood, so there were quite high chimneys. Speaking of that, when I was a kid, I was wearing a chimney sweep regularly, wearing glasses, and when I went home, only the eyeglasses were skin-colored. I thought that if I entered without a board and got a foot there, I would burn myself, and even if there was a board, I felt like I was holding the edge with my hand and floating my feet hard.

There is nothing except well water now.
 
There was no need for electricity, and it took time and effort, but it was simple, but there was no waste. Now you just have to push the switch and the rest is automatic.

I don't want to go back to my childhood, and it's good that housework is alleviated, so it's better to have a single switch. Even rice, fish, and childhood may be better than a single switch, but both time and time are more valuable. In everyday life, a single switch is sufficient.

Well water has a water supply, well water pumps, and sewerage fees. In other words, electricity is needed to operate the pumps, but the parents left only well water. Probably because there was.

I used it for daily drinking, cooking and washing, washing my body, and the feeling of security that only well water was secured 365 days a day, or the feeling of life that permeated it was replaced by anything. It may have been difficult. The reason for this is that when standing in a system kitchen with two faucets, one for well water and one for waterworks, the faucet faucet was in an easy-to-use position on the front, and the faucet water was always available.

That alone is a sense of life, and it turns out that the old people felt that they were living. When it becomes a disaster, no electricity, no water, you will be forced to live live. I think it's impossible to live that life now, no matter how much you have to stock up, food, drinking water, mountain equipment, camping equipment, etc. After all, I think that there is well water.

居場所をつくる技術

川の流れの中に関をつくれば、流れが乱れ、関によって流れの影響が多少弱まる所ができる。

人の動きを流れに例え、関を建築の壁だとしたら、壁によって人の動きに影響が出て、立ち止まらなくていけない所に椅子やテーブルを置けば、そこが居場所かもしれない。

時間の経過を流れに例え、関を予定だとしたら、予定によって時間の経過に影響が出て、時間を費やさなければならない時に向き合えば、それが経験かもしれない。

空間の移ろいを流れに例え、関を人だとしたら、人の動きによって空間の移ろいに影響が出て、空間の移ろいがゆっくりとなる所を定めれば、そこが人が集まる場所かもしれない。

空間の移ろいは、例えば、車窓の景色かもしれない。それが、ゆっくりとなる場所は、そこに留まっている時、そして、そこに時間を費やしている時、そして、そこに壁をつくれば居場所になる。

人、時間、空間が相互に関係し合いながら、自然と居場所は決まるものなのだろう。そう考えると、居場所をつくることは、流れの中にいながら、流れを乱す行為、ただし、乱し過ぎて、流れが変わってしまったら元も子もない、そのバランス加減が技術かな。

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"Technology for creating a place to stay"

If you relate to the flow of the river, the flow will be disturbed, and there will be a place where the influence of the flow will be somewhat weakened.

If you compare the movement of people to the flow, and Seki is an architectural wall, if you place a chair or table in a place where the movement of the person is affected by the wall and you have to stop, that may be your place.

If the passage of time is compared to the flow, and Seki is scheduled, it may be an experience if the schedule affects the passage of time and faces time when time must be spent.

If the movement of the space is compared to the flow, and Seki is a person, if the movement of the space is influenced by the movement of the person and the place of the movement of the space is determined slowly, that may be the place where people gather. .

The transition of the space may be, for example, the scenery of the car window. The place where it slows down becomes a place when you stay there, spend time there, and make a wall there.

People, time, and space are interrelated and nature and whereabouts are determined. When thinking so, creating a place is an act of disturbing the flow while in the flow, but if the flow changes too much, there is no original or child, and the balance adjustment is technology.

日常と建築

建築をずっとやってきているから、建築性が強い、別の言い方をすれば、作品性が強い建築に興味が湧く。

それは普通ではつまらない、街中によくあるもの、よく見るものなんて論外、何も考えていないし、綺麗に見せるだけならば誰でもできるし、もっと未知なもの、もっと既視感の無いものが見たい欲求があるからだが、建築に関わりが無い人からすれば、違和感があるというか、ちょっと理解ができない可能性もあり、それは建築をつくる側と使う側のズレ、というか、そこに断層が存在するような感じもある。

そもそも建築空間単体では成り立たないと思うが、人がいなければ成り立たないと思うが、建築空間単体で成り立つ自律性を欲してしまう、そこが作品性につながるのだが、それは人が無用という問題をはらんでいて、さらには、建築空間と認識するのは人ではないかという問題も含んでいる。

人が建築空間と認識するから、建築空間として存在しているのであって、人がいなければ、そもそも建築空間自体が存在しないことになるとハイデッカーは唱え、人自体が無用とされれば、建築は単に芸術作品としての価値のみしかなくなるが、それでも良いから、建築性が強い建築をつくりたいし、見てみたい。

ところが、そのような建築性の強い建築が日常を豊かにすると夢見ている。

日常は人がつくり出すものなのに、人自体を無用とした建築が日常を豊かにすると、本気で考えている。

この一見矛盾するつながりを解くことが今の課題であり、次への足掛かり、なぜか、それを考えるのがまた楽しい。

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"Everyday and Architecture"

Since I've been doing architecture for a long time, I am interested in architecture with strong workability.

It's usually boring, things that are common in the city, things that you see often are out of the question, anyone can do it if you don't think about it, just show it cleanly, and you want to see something that is unknown or that is less visible However, if you are a person who is not involved in architecture, you may feel uncomfortable, or you may not be able to understand it a little. There is a fault between the side that makes the architecture and the side that uses it. There is also a feeling.

In the first place I think that it does not hold in a single building space, but I do not think that it does not hold if there is no person, but I want the autonomy that stands in a building space alone, that leads to workability, but that is the problem that people are useless In addition, there is a problem that it is human beings who recognize it as an architectural space.

Since people recognize it as an architectural space, it exists as an architectural space, and if there are no people, Hydecker advocates that the architectural space itself does not exist in the first place. It's just a value as a work of art, but it's still good, so I want to make a building with a strong architecture and see it.

However, I dream that such a strong architecture will enrich my daily life.

Even though everyday life is something that people create, I am seriously thinking that architecture that makes people useless will enrich their daily life.

Solving this seemingly contradictory connection is the current challenge, and it is fun to think about it as a foothold for the next.

近くに行かないと

遠くから見ているのと、実際に近くへ行って見るのとでは、見ているものは同じでも違うはずだと頭のどこか片隅ではわかっていても、両方を見比べて、違いを理解する、感じることはなかなかしないかもしれない。

遠くから見て思い込む、それも大体自分にとって都合良く思い込む、あるいは、過去の経験から、この程度のことだろうと判断する。いちいち、これは何だろうと興味を持っていたら、頭がパンクしてしまうから、そうして見切りをつけて、本当に大事なことだけに意識が集中するように、人の脳の構造がそうなっているのだろう。

ただ、その判断がその人にとって、正しいか間違っているか、良いか悪いかは別問題のような気がする、というか、とりあえず、そこで判断を一旦下すことが重要で、近づいてみたら、実はなんて、意外なことが待っていたりして、嬉しいサプライズが起こる場合もあるし、悲しく嫌なことになったり、逆に素晴らしい体験をしたりする。

そのような、見ることで意識的な変化が起こるデザインを、仕上げを考えているけれど、遠くから見たら感じないのに、近づくと装飾があるような、それを単純シンプルな方法で実現することを。

壁の仕上げをラーチ合板にして、鍋ビスで留めていった。ビスを使ったのは、合板の反り留めになるし、ならば、リベット打ちされた鋼板の木のバージョンをイメージして、頭がリベットのように丸い鍋ビスを使い、それも、鍋ビスの大きさ、色、鍋ビスのピッチを何種類も検討し、遠景、近景の見え方の違い、遠くから見た時はラーチ合板の木目だけが感じられ、近づくと鍋ビスの存在がたくさんの点となって装飾に感じるように、ラーチ合板を鍋ビスで留める、この単純でシンプルな方法に行き着く。ただ、それを見る人は無意識に感じてくれればいい、その方が、あまり意識的に引っ掛かりがあると、うるさいというか、空間に添加物が加わるようで不自然だと考えていた。

やはり、遠くと近くとでは違う、近くに行かないとわからないことも多いはず、それはもしかしたら無意識にもどかしさを、いや、もどかしい。

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"I have to go nearby"

Whether you are looking from a distance or actually going to the near, what you are looking at should be the same or different, even if you know at some corner of your head, compare both to understand the difference , You may not feel it easily.

Thinking from a distance, thinking that it is usually convenient for me, or judging from past experience. If you're curious about what this is, your head will puncture, so you give up and give up, so that your mind's structure is so focused that it's really important. There will be.

However, for the person, whether the judgment is right or wrong, whether it is good or bad feels like another problem, or for the time being, it is important to make a judgment once there, What a surprise, sometimes a happy surprise, sometimes sad, disgusting, or a wonderful experience.

To realize such a design that changes consciously by seeing it, but I am thinking about finishing, but I can not feel it when seen from a distance, but there is a decoration when approaching, in a simple and simple way A.

The wall finish was made of larch plywood and fastened with pan screws. The screw was used to warp the plywood, and if it was an image of a wood version of a riveted steel plate, a round pan screw with a head like a rivet was used. Considering the various sizes, colors, and pan-screw pitches, the difference in how the distant and near-fields look, and when viewed from a distance, only the grain of the plywood can be felt. To make it feel like a decoration, we end up in this simple and simple way to fasten the larch plywood with a pan screw. However, the person who sees it should just feel unconscious, and if that person was caught too consciously, he thought it was noisy or seemed unnatural as an additive was added to the space.

After all, there are many things that are different between the distance and the vicinity, and there are many things that you do not know if you do not go nearby, which is probably unconsciously frustrated, noisy.

答え

答えが溢れている、何かわからないことや疑問など、もうすでに世の中には存在しないくらいに、誰かが考え、その答えを用意していてくれて、また、その答えも誰かが出したものを元にしたものだったりするから、調べればわからないことなど無いと言える。

答えは時代とともに変わり、常に更新されていき、その状況は昔と、例えば、30年前と変わらないかもしれないが、昔、30年前のネットが無い時代は、その答えになかなかアクセスできなかったので、今ほど答えが溢れている感覚は無く、もしろ、もっと答えに飢えていて、どうやったら答えに辿り着けるのか、まず調べる手段を考えるところからはじめていたような気がする。

その調べる手段の1つが本を読むだった。簡単なことでも、尋ねる人が見つからない時など、とりあえず、近くの本屋へ、Amazonも当然無いし、昔は近所に本屋がたくさんあったから、本を探すのも、どの本を見れば答えを導き出すことができるのだろうかと、その時点で答えへ至る思考がはじまっていたように思う。

だから、答えを得た時も、そこまでに徐々に思考の積み重ねがあったから、そのまますぐに受け取るよりも、すでに少しは自分色に染まった答えになっていて、自分のものとして遜色なく、すぐに使えたような気がする。

前に聞いた話で、元プロ野球選手のイチローは本を一切読まないらしい。目に悪いからという理由の他に、本には必ず答えがあるから、それが嫌だと。何か自分に問われた時、本を読んで答えを得ても、知ったような気になっているだけで、その答えは自分で切磋琢磨して出したものではないから使えないし、意味が無いと。

思考すること無く、すぐに答えを得ることができる。それは、すでに明白な答えが存在するのに、いちいちそのことについて思考するだけ時間の無駄であり、わかっていることの先にある未知なる部分に早く取り掛かった方が効率的だという考えからすれば便利なことだろう。

しかし、その明白な答えをはじめから導き出すことと、未知なる部分の答えを導き出すことは、同じ思考能力を必要とするはず、ならば、その明白かもしれない答えを導き出すところから自分で切磋琢磨して、自分なりの思考能力を身に付けることが大事で、そうしないと、未知なる部分の答えも導き出すことはできないだろう。

だから、時には遮断、ネットを遮断、本を遮断、人の考えを遮断、答え探しをやめて、バカになって、ゆっくり自分なりに考えや思いを巡らすだけでも、休みの日には楽しいかも。

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"answer"

Someone thinks and prepares the answer to the extent that the answers are overflowing, something unknown or questions no longer exist in the world, and the answer is based on something that someone gave It can be said that there is nothing that you do not understand if you examine it.

Answers change with the times and are constantly updated, and the situation may be the same as in the past, for example, 30 years ago, but in the past, when there was no internet 30 years ago, it is difficult to access the answer So, I don't feel like I'm full of answers, and I feel like I was starting to think about how to find out how to get to the answers.

One way to find out was to read a book. Even if it's simple, if you can't find the person you want to ask, for the time being, there are no Amazons in the vicinity, there is no Amazon, and there used to be a lot of bookstores in the neighborhood. I think that I could start thinking at that point in time.

So, when I got the answer, there was a gradual accumulation of thought so far, rather than receiving it as it is, it is already an answer that is a little dyed in my own color, and it is not inferior as my own, immediately I feel like I was able to use it.

As I heard before, former professional baseball player Ichiro seems not to read any books. I don't like it because it's bad for my eyes. When you ask yourself something, even if you read a book and get an answer, you just feel like you know it. Without it.

Get answers quickly without thinking. That is because there is already an obvious answer, but it is a waste of time to think about that one by one, and it is more efficient to start with the unknown part ahead of what you already know. It will be convenient.

However, deriving the obvious answer from the beginning and deriving the unknown part of the answer should require the same thinking ability. It is important to acquire your own thinking ability, otherwise you will not be able to derive answers to the unknown.

So, sometimes it's fun on a day off, just blocking, blocking the net, blocking books, blocking people's thoughts, stopping looking for answers, becoming stupid and slowly thinking and thinking.

もしよかったら

何かがちょっとだけ変わるような出来事につながればよいと思い、想い描ければ。

直接的に物と関わり合うので、建築は、どうしても物の価値だとか、物の良し悪しだとか、物の金額が最初にきて、それが中心になってしまう傾向が強いが、並列して、それまでの慣習や思い込みや生活パターンなどがちょっとだけ良い方へ動くようなことも必要ではないかと思う。

新しく建築することが、それまでのことを新しく生まれ変わらせる、刷新するようなことに思ってしまうかもしれないが、どうしても、それまでの延長線でしたか考えられないと、結局、ただ建物が新しくなるだけで終わることも多い。

変化させたくない、保守的になる気持ちはわかるし、無理して変える必要も無いし、それまでと同じでも構わないと思うが、「もしよかったら」という形で、なるべく、接した中でこうすると、ちょっとだけ日常が豊かになるようなことをクライアントへの提案の際に添えるようにしている。

そうして7年前に添えたことを今実らせて、新しい壁を挿入中、7年前に目一杯想像力を発揮して、その想像の範囲内には今のところはおさまっているが、これからは想像の範囲外、どうなるか楽しみがまた1つ増える。

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"If it's fine"

I hope it will lead to an event that changes something a little, and I want to draw my thoughts.

Because it is directly related to things, architecture is inevitably the value of things, the quality of things, the amount of goods comes first, and it tends to be the center, but in parallel , I think that it is necessary that the conventional customs, assumptions, and life patterns move slightly better.

You may think that building a new building will reinvent and renovate it, but if you can't think it was an extension of it, it will be just a new building. It often ends just as it is.

I don't want to change it, I understand the feeling of being conservative, I don't have to change it forcibly, I don't mind changing it as before, In doing so, I try to add something that makes my life a little richer when making proposals to clients.

So, now that I've added it seven years ago, while inserting a new wall, I showed my imagination to the fullest seven years ago. From now on, it's out of the imagination, and one more pleasure will happen.

ふるい

ふるいの目、ざるの目、網の目、ふるいにかける物によって目の密度が決まっているようで、そこまで詳しくないが、料理でも、建築だと左官屋さんが使っている。

必要な物を選別したり、不要な物を残したり、精製するためにふるいにかけるから、目的に応じて目の密度の違うふるいを用意するのだが、その目の違いを使い分けるのにも技があるような気がする。

別の言い方をすると、フィルターにかける。物だけでなく、事柄にも言える話で、どの目を使い選別するのか、精製するのかによって、最初は同じ状態、状況でも、ふるいにかけた後は違ってくる。

このふるいにかける作業は人によって違うはずで、このふるいのかけ方が個性であり、それによって状態、状況が各人違ってくるはず。

ただ、このふるいのかけ方に一定のルールがあるものもあるかもしれない。それは例えば、学問とか、学術的なこと、それは歴史が重なってつくられたふるいのかけ方だから、個人のふるいのかけ方を優先はできないが、そこの差異を埋めるのが研究することなのかもしれないが、その差異を把握して上手く研究に結びつけるのにも、ふるいのかけ方同様、技が必要な気がする。

どちらかというと、ふるい自体に興味があり、どのようなふるいが世の中に存在するのか、料理するより料理道具が好きで、料理道具を使いたいから料理をするようなものだが、たくさんのふるい集めをしたくなる。

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"sieve"

The density of the eyes seems to be determined by the sieving eyes, the squirrel eyes, the mesh eyes, and the objects to be sifted.

Screening for necessary items, leaving unnecessary items, and sifting for purification, we prepare sieves with different eye densities according to the purpose. I feel like there is.

In other words, it filters. It can be said not only for things but also for matters, depending on which eye is used for selection or purification, even in the same state and situation, it will differ after sieving.

The process of sieving should be different for each person, and the way of sieving is individuality, and the state and situation should be different for each person.

However, there may be some rules for how to apply this sieve. That is, for example, academic or academic, because it is a way of sieving created by overlapping history, it is not possible to prioritize personal sieving, but it may be researching to fill in the differences I don't think, but I feel that skill is necessary to grasp the difference and to connect it well to research, as well as how to sift.

If anything, I'm interested in the sieve itself, what kind of sieves exist in the world, I like cooking utensils rather than cooking, I like cooking utensils, but it is like cooking, but collecting a lot of sieves I want to

蔦、ムクムク、新芽

日々、芽が出てくる、新芽がまるで枯木に花咲くように出てくる。

自宅の塀を覆っていた蔦をだいぶ整理してリセット、一部を室内で育てはじめ、最初は枝の切れ端を水につけ、植物活力素も投入、まずは新しい気根が出て長く伸びるまでと思っていたが、白い気根が何本か見えた途端に新芽がムクムクと。

朝と夕で違いがわかるくらい、伸びるのが早い、生命力が強いのか、環境に慣れてきたのか、蔦は何か絡みつくものがあってはじめて取り付くように伸びていくそうなので、室内だと横に広がるだけらしい。

ただ、その伸びる様を見ているのが面白くて、キッチンに置いているのだが、キッチンに立つ度に見入ってしまう。成長していく様が楽しい。植物を育てる楽しみとはこういうものかと、この歳にして初めて思うなんて。

枯らすのが得意だったから小学生の頃、朝顔も何も花が咲いたことがなく、興味もなかったのに。

日々変わるものは見ていて楽しいし、飽きないな、そこは建築に似ている。工事中は当然毎日出来上がっていくから、その様を見ているのは設計者として至福の時だし、完成してから、そう設計者は一所懸命に心血注いでつくっても、自分では住めない、使うことはない、それが、きっと楽しいんだろな、いいんだろうな、なんて思いながら引き渡すのだが、その後見に行くと、住む人色、使う人色に染まって、自分の想像していた変化とは違っていたりすると、またそれが、その様を見るのが楽しい。

自分の想像では、部屋中、蔦だらけになり、蔦に埋もれて、蔦の間で寝て、蔦からひょっこりと顔を出す予定なのだが、どうなることやら。

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"Salmon, Mukumuku, Sprout"

Every day, buds come out, and new shoots come out like flowers in dead trees.

Organize and reset the cocoons that covered the cocoons at home, start growing some of them indoors, first put a piece of branch into the water, add plant vitality, first think that new air roots will come out and grow long However, as soon as some white air roots were seen, the shoots were muffled.

As you can see the difference between morning and evening, it grows fast, it is strong life force, whether you have become accustomed to the environment, it seems that it grows as if it is tangled up for the first time, so it is next to the room It just seems to spread.

However, it is interesting to see how it grows, and I put it in the kitchen, but I see it every time I stand in the kitchen. It 's fun to grow up. It 's the first time I 've ever thought that plant fun is like this.

I was good at withering, so when I was in elementary school, I had no flower in the morning glory and I was not interested.

It's fun to see things that change every day, and I'm never bored. It's like architecture. Of course, it is completed every day during the construction, so it's blissful as a designer who sees it like that, and even after it is completed, the designer can not live on his own even if he works hard and makes it I don't use it, but I'm sure it's fun, I'm glad I hand it over, but when I went to see it, I was dyed by the color of the people who lived and the people I used, I imagined If it is different from change, it is fun to see it again.

In my imagination, I'm going to be full of cocoons in my room, buried in cocoons, sleep between cocoons, and sneak out of my niece, but what happens.

毎日の風景

目に見えるものは不思議だ。視野の範囲にはたくさんのものがあっても、そのうち覚えられるのはいくつもない、意識がそこに向いていないと正確には覚えられない。

何となくぼんやりと眺めていると、何となくしか覚えていないし、何となくしか記憶に残らない。

ただたぶん、目から入る情報は脳には全て残っていて、意識を向けていようが、何となく見ていようが、そのようなことには関係がなく、情報量としては同じだけはあり、例えば、写真のようにフレームにおさまっているものは全て写るように、あとはその情報に対して、どのように扱うのか、どのようにアプローチするのか、何もしなければ、残ってはいるが、永遠に陽の目を見ることはない、もしそうならば、脳は相当な容量があることになる、一生分の情報を貯めておけるのだから。

意識して覚えようとしても記憶に残らないのに、大したことでもないのに、何となくずっと覚えていることもある。

衝撃的なことがあった時はもちろん、それを覚えているが、サプライズもそう、忘れない、忘れられないが、日常で思い出すことは、どうでもよかったりすることも多い。

どちらかというと、たまに思い出すことより、日常的に思い出すことの方が大切というか、日常を豊かにしてくるように思う。

もしかしたら、それは毎日見る風景が元の情報になっていて、そこから感情や行動が結びついて、ふと思い出すのではないか。

そう考えると、日常的に毎日見る風景がどれ程大切さかがわかる。

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"Daily scenery"

What is visible is strange. Even if there are many things in the field of vision, there aren't many that can be remembered, and it can't be remembered accurately if consciousness is not there.

If you look vaguely somehow, you will only remember and you will remember it.

However, all the information that enters from the eyes remains in the brain, whether it is conscious or whether it is seen somehow, it has nothing to do with such things, there is only the same amount of information, for example, It looks like everything in the frame like a photo, and after that, how to handle that information, how to approach it, if nothing is done, it remains, but forever You don't see the sun's eyes, if so, your brain will have a lot of capacity, because you can store information for a lifetime.

Even if you try to remember it, you don't remember it, but it's not a big deal, but you somehow remember it.

Of course, I remember that when there was a shocking thing, but I do not forget, I can't forget about surprises, but remembering in everyday life is often irrelevant.

If anything, I think that it is more important to remember on a daily basis than to remember occasionally, or to enrich the daily life.

Perhaps it seems that the scenery you see every day is the original information, and emotions and actions are linked from there, and you suddenly remember it.

When you think so, you can see how important the scenery you see every day is important.

人が先

物が場を規定してしまう、確か、ハイデッカーがそのようなことを言っていたような気がするが、その物が持つ暗黙のイメージみたいなことが、その物の見方だけでなく、その物を扱う人の印象、その物が置かれた場所の雰囲気まで決めてしまう。

前にお願いしていた輪島塗のカップ&ソーサーが届いた。同じ塗師さんの所で、フリーカップを木地から製作中だが、塗りを決めるための参考として、普段使いしようと思い、前に塗師さんの所にお伺いした時に、その場にあったカップ&ソーサーを購入、その色違いを注文していた。

塗りの色は一般的な黒と朱だが、色を反転させ、塗りにも、ぼかしや、艶を出すために油が混ぜてあったり、艶が無かったりと、1つのカップ&ソーサーにいくつもの塗りの技法が使われているので、日常の中で使いながら、フリーカップに使う塗りをどうするか、考えるつもり。

形は至ってシンプル、よくある形、だが綺麗な形、色も漆らしい色、だがきちんと工程を踏み、きちんとした材料を使った本物の塗り物、物は木地でできているから軽いが、見た目には、謂わゆる漆物、重厚なイメージになるかもしれない。

まだ、カップ&ソーサーだから、御重などに比べたら、漆物として日常使いしやすいし、受け入れやすい。

そう、漆物には受け入れにくいイメージ、それはもしかしたら高級なイメージもあり、だから、相反するイメージで受け入れにくい、扱いが難しいイメージもあるかもしれない。

もしかしたら、先のように、漆物があるだけで場が規定されてしまうかもしれない。それを上手く利用できれば良いのだが、後継者がいないらしい、後継者がいないということは、その産業が衰退していること、暗黙のイメージを上手く利用できていない証、万年筆の仕上げにしたり、箸は昔からあるが、漆物の良さを生かしきれていない。

もっと、今までとは違った、漆だから、漆物だから実現できる日常の生活の一部を、漆物は製品として万能で優秀、特に輪島塗は丈夫で普段使いにはとても良く、使えば使うほど味が出る。しかし、それは前の時代の価値観、その価値観だと他のものにとって代わられる、別に漆物でなくても良いとなる。

漆の特性、漆物の特性に特化した、それでいて技術が無いとつくれないような物をつくれば、後継者も育つのだが、その答えを形にできるのは人だから、やはり、物より人が先で、人が物や場を規定することに気がつくと、糸口が見つかるような気がする。

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"People first"

The thing defines the place. Certainly, I feel like a high decker said such a thing, but the thing that the thing has an implicit image is not only how to see the thing, but the thing The impression of the person who handles it, and the atmosphere of the place where the thing is placed.

I received the Wajima Lacquer Cup & Saucer I had requested before. A free cup is being made from the wood at the same painter's place, but as a reference for deciding the paint, I would like to use it everyday, and when I visited the painter's place before, the cup & that was there I bought a saucer and ordered a different color.

The colors of the painting are common black and vermilion, but the colors are reversed, the paint is also blurred, oil is mixed to give luster, and there is no luster, many in one cup & saucer Since the painting technique is used, I will think about what to use for the free cup while using it in my daily life.

The shape is very simple, common shape, but beautiful shape, the color is also lacquered color, but the process is neat and the real coating using the proper material, the material is made of wood, it is light, but it looks May become a so-called loose lacquer, profound image.

Because it is still a cup and saucer, it is easy to use and accept as a lacquer everyday compared to Megumi.

Yes, there are images that are difficult to accept in lacquer, and possibly high-quality images, so there may be images that are difficult to accept and difficult to handle with conflicting images.

Perhaps, as before, the place may be defined only by the presence of lacquer. It would be good if you could use it well, but it seems that there is no successor, that there is no successor, that the industry has declined, proof that the implicit image has not been used well, fountain pen finishing, chopsticks Although it has been around for a long time, it does not take full advantage of the goodness of lacquer.

In addition, unlike lacquer, lacquer is a versatile and excellent product, especially Wajima Lacquer is durable and very good for everyday use. Taste comes out. However, it is not necessary to use lacquer separately, because it replaces the values ​​of the previous period and those values.

Successor grows up if we make thing which we cannot make without technical skill that we specialized in characteristic of lacquer, characteristic of lacquer, but person can shape the answer, but after all person But first, if you notice that people define things and places, you will find clues.

純粋の虜

マチスのダンスだったり、アンディ・ウォーホールのキャンベルスープ缶だったり、リキテンシュタインの漫画チックな絵だったり、ジャクソン・ポラックのアクションペイントだったり、時代もイズムも全く違うけれども、平面的な絵が好きでそればかりを見ていて、あと、ジャスパー・ジョーンズのフラッグ、東山魁夷の絵は全部好きで、展覧会があると必ず、前は国立近代美術館で常設されていたし、唐招提寺の襖絵は圧巻だった。

作品自体が好きな場合もあるし、作家自体が好きな場合もあるけれど、総じて、大きな括りとしては「平面性」を感じる絵画に惹かれた。

初めて平面的な絵画に触れたのはMOMAで常設されていた、先にも出たウォーホールのキャンベルスープ缶で、最初の印象が「これが絵なの、作品なの」というサプライズに、人はサプライズに弱い、記憶や印象の深い所に残る、だから、虜になる。

そうなると、不思議なことに、平面性を獲得するために排除したはずの精神性が見る側に芽生えてくる。

建築と絵画はよく比較されて、現代では建築と絵画は別々で、多種多様なイズムや思想が成り立っているが、元々は現代の建築も絵画も「モダニズム」運動とも呼べるイズムが発端で、その後の動きは相同的であり、建築を通して絵画を見たり、絵画を通して建築を見たりすると、より時代やイズムや思想を把握しやすくなる。

だからではなく、たまたまだったが、最初にモダニズムに触れたのは建築よりも絵画が先で、先のキャンベルスープ缶で、だから「平面性」の虜になった者からしてみれば、順当にモダニズム建築にも惹かれることになる。

ただ、モダニズム建築は平面的というよりは幾何学的な印象ではあるけれども、装飾を排除し、装飾に伴う精神性も排除し、純粋に自律を目指した点では建築と絵画は同じであり、平面的や幾何学的な元にある、その「純粋性」に惹かれて虜になっていたのかもしれない。

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"Pure Prisoner"

It 's a Mathis dance, Andy Warhol 's Campbell soup can, Richenstein 's cartoon chic painting, Jackson Pollack 's action paint, even though it 's completely different in age and ism, but I like flat paintings I liked all of Jasper Jones's flag and Higashiyama Kaoru, and there was always a permanent exhibition at the National Museum of Modern Art. Was a masterpiece.

Sometimes I like the work itself, and sometimes I like the artist itself, but as a whole, I was attracted to paintings that feel "flatness" as a big conclusion.

The first time I touched a two-dimensional painting was a Campbell soup can from Warhol that was permanently installed at MOMA. The first impression was a surprise that "This is a picture, a work", and people are vulnerable to surprise It will remain in a place with a deep memory and impression, so you will be captivated.

Then, mysteriously, the spirituality that should have been excluded to acquire flatness will start to grow.

Architecture and paintings are often compared, and in modern times architecture and paintings are different, and a wide variety of isms and thoughts have been established. Originally, modern architecture and paintings originated from an ism that can be called the "modernism" movement, and then The movements are homologous, and if you look at paintings through architecture, or see architecture through paintings, it will be easier to understand the times, isms, and thoughts.

It wasn't, but it was still happening, but the first thing that touched modernism was the painting before the architecture, and the previous Campbell soup can, so if you were a prisoner of "flatness" Attracted to modernist architecture.

However, although modernist architecture is a geometrical impression rather than flat, architecture and painting are the same in terms of eliminating decoration, eliminating the spirituality associated with decoration, and pursuing pure autonomy. It may have been captivated by the "pureness" of the original and geometrical origin.

波紋のような存在感

雨のやんだ空のような青さが青磁の色としては素晴らしいらしい、青磁の極み、浙江省龍泉窯のものを見せていただく機会があった。

青磁の良し悪しは色で決まるらしい、色の綺麗さ、くすみがなく、澄んだ青さが良く、また、塗りもぼてっというくらいに厚い方が良いとのこと。勝手な青磁のイメージだと薄塗りで繊細なものだが、この青磁の器はそうではなくて、物として重厚な存在感があった。

日常使いされていたかどうかは定かではないが、使われていたらしい。使われていた状況を想像すると、物としての存在感が波紋のように広がっていくようで、それにより、いろいろなことが明らかになるような気がした。

この青磁の器に何を盛るのか、それによって、盛った物がどのように見えて、どのように感じるのか。

この青磁の器をどこに置くか、それによって、その置いた辺りの空間がどのように変わり、どのような雰囲気になるのか。

この青磁の器を誰が扱うのか、それによって、扱う人の心や感情や意識がどのようになるのか、どのように変化するのか。

そして、もう1つ、この青磁の器がそこから無くなったら、どのようになるのか、何が変わるのか。

物に注釈して、極みまで行き、そこから引き返してくる時には、きっと違う風景が見えていることが、物の醍醐味だと思う。

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"Ripple-like presence"

There was an opportunity to show me the extreme of celadon porcelain, the one of Longquan in Zhejiang Province.

The quality of the celadon seems to be determined by the color. The color is beautiful, there is no dullness, clear blue is good, and it is better to thicken the paint. The image of a celadon porcelain is thin and delicate, but this celadon porcelain was not so and had a profound presence as an object.

I'm not sure if it was used everyday, but it seems to have been used. Imagine the situation that was being used, and the presence as a thing seemed to spread like a ripple, and I felt that various things became clear.

What is put on this celadon porcelain, how does it appear and how does it feel?

Where will this celadon vessel be placed, how will the surrounding space change and what will it feel like?

Who will handle this celadon porcelain, and how will it change the mind, emotions and consciousness of the person who handles it?

And one more thing, what will change if this celadon vessel disappears from it?

Annotating things, going to the extreme, and returning from there, I think that the best part of things is that you can see a different landscape.

曇りだから

うーん、気分がどうも優れないなー、天気が優れないからかなー、曇っているからかなー、なんて思うと、どんどん、天気に左右される、曇りの方が涼しい時もあるから、別に構わないのだけれども、ようするに、気分なんだなと。

建築は動くことができないから外部環境に左右される、というか、外部環境によってほぼ全てが決まると言って過言ではない。

例えば、規模は、敷地の大きさと、その場所の法規、建ぺい率や容積率、高さ制限で決まる、もちろん、予算もあり、あまりにも広い敷地の場合は目一杯の規模まで建てることはないが、都市部ではそのような広い敷地はなかなかないので、大体、目一杯の規模まで利用することになる。

用途も外部環境に左右される。繁華街のど真ん中に専用住宅をつくることはほぼないし、郊外にオフィスビルをわざわざつくることもない。

また、外部環境によって室内環境も左右される。周りが建物に囲まれている、幹線道路に面している、隣が公園、閑静な住宅街など、外部環境に対して何か対策をしたり、逆に外部環境を生かして室内環境を良くしたりする。

ただ、これだけ外部環境に左右されても、建築の優劣が外部環境で決まることはない。

規模が大きければ良い訳ではないし、建築にとって用途は何が良いかはもちろんないし、室内環境は対策や生かし方しだいでどうにでもなる。

だから、天気が曇りでも雨でも晴れでも、それで気分が変わっても、別にいいなと、曇りだからできることをしようと。

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"Because it is cloudy"

Well, I do n't feel good, maybe because the weather is n't good, maybe because it 's cloudy, it 's more and more depending on the weather. However, I feel like I do.

It is not an exaggeration to say that architecture depends on the external environment because it cannot move, and that almost everything is determined by the external environment.

For example, the scale is determined by the size of the site, the regulations of the site, the building coverage ratio, floor area ratio, and height restrictions. Of course, there is also a budget, and if the site is too large, it will not be built to the full scale. In urban areas, there are not many such large sites, so they will be used to the fullest.

Applications are also affected by the external environment. There is almost no private housing in the middle of the downtown area, and there is no need to create an office building in the suburbs.

Also, the indoor environment depends on the external environment. Take measures against the outside environment, such as the surroundings surrounded by buildings, facing the main road, the park next to the park, and a quiet residential area, or conversely improve the indoor environment by taking advantage of the outside environment To do.

However, even if it depends on the external environment, the superiority or inferiority of the architecture is not determined by the external environment.

It doesn't mean that the scale is large, not to mention what the purpose is good for architecture, and the indoor environment depends on measures and how to make use of it.

So, even if the weather is cloudy, rainy or sunny, even if you change your mood, it's fine to try something you can do because it is cloudy.

落ち込むなぁ

「あるじゃん」今朝の第一声、「なんだよ」今朝の第二声、声に出した感情が今朝のはじまり、今日からまた新しいプロジェクトがはじまり、そのための段取りを1ヶ月くらい前から具体的にやりはじめた結果の今朝の声。

結構綿密に段取りして、3日前にはほぼほぼ段取りが完了し、初日の朝を迎えたはずが、人に言われて、そういえば、と思い見てみたら、在庫があり、購入する必要が無いものを一所懸命に揃え、まあ、これは新しいものを使った方が良いからと自ら慰めたのだが、さすがに数量を間違えたのには、指摘されるまで全く気付かなかったことが、指摘されたらすぐにわかるという、ここの所で記憶に無いくらいの落ち込みよう、さすがに嫌になり、ちょっと逃避行でもして気分転換するかと頭によぎったが、そうもいかず、いつも通りの行動をこなしていたら、平常には戻ったが、もうなんで間違えたかわからない。

結局、段取りが甘いということだろうが、これがまた、初日にこうことも起きるだろうというパターンに対しても、一応段取りはしており、だから、自分が落ち込んだだけで、プロジェクト自体は何も問題が無く、順調に進んだ1日だったので、そうすると、結果的には段取りの成果かなと自らに甘く、自らを慰め、これで良いだろうとした。しかし、また在庫が増えた増えた。

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"Don't get depressed"

"There is" the first voice of this morning, "What 's the second voice of this morning", the emotions in the voice started this morning, a new project started again today, and the preparations for that will be done from about a month ago This morning's voice of the results I started.

It was quite carefully set up, almost 3 days ago it was almost completed, and it should have reached the morning of the first day, but people told me that if I think so, it is in stock and it is necessary to purchase I tried hard to arrange the ones that were not there, and I comforted myself because it was better to use the new ones, but I did not notice at all until I pointed out that I mistaken the quantity as expected As soon as I was pointed out, I knew that I couldn't remember this place, so I couldn't remember it. If you did, you returned to normal, but you don't know why you made a mistake.

After all, it may be that the setup is sweet, but this is also happening for the pattern that this will happen on the first day as well, so I'm just depressed and the project itself is nothing There was no problem, and it was a smooth day. So, as a result, it was sweet to myself that it was the result of the setup, and comforted myself, and I thought it would be good. But again the stock increased.

つながり

つながりの妙みたいなものがあって、決して強いつながりではないけれど、かと言って弱くもない、そんなつながりからいろいろと生まれたりする。

これは人の話で、ただネット上の話では無くて、直に触れ合う人間関係の時のみで、ネット上のつながりだと、ほんとに弱すぎて、それでもつながっているのが不思議なくらい、ところが、それが心地良い時もあるからまた不思議で、家族のような強いつながり、ネットのようなごく弱いつながり、その中間に2つくらい強さの違うつながりがあるような気がする。

今まで仕事をしたり、仕事を紹介してくれたりした人で圧倒的に多いのは、その中間くらいの強さのつながりの人で、それは人によって違うかもしれないが、最初はごく弱いつながりがはじまり、そのまま、ごく弱いままだと何も起こらないが、それが少し強くなると、もちろん、全員ではないが、仕事の話になる場合がある。

ただ、強くなり過ぎると何も起こらない。もちろん、これも人によって違うはずで、だから、仕事の場合の人とのつながりの強さはいつも気を使うところで、強くなり過ぎてはダメだと思うが、そこは難しくて苦手なところ。

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"connection"

There is something strange about the connection, and it is not a strong connection, but it is not weak.

This is a story about people, not just a story on the internet, but only when people are in direct contact with each other. A connection on the internet is so weak that it is still strange that it is still connected. It is also strange because it is sometimes comfortable, and I feel that there is a strong connection like a family, a very weak connection like a net, and two connections with different strengths between them.

The overwhelming majority of people who have worked or introduced their work so far are those with intermediate strength, which may vary from person to person, but at first it is a very weak connection It starts and nothing happens if it remains very weak, but if it becomes a little stronger, of course, it may be a story about work, not everyone.

However, nothing happens when it gets too strong. Of course, this should be different from person to person, so the strength of the connection with people in the case of work is always a concern, and I think that it should not be too strong, but it is difficult and weak.

つながりの認知力

もっと早くそこを教えて、とか、はじめからそれがわかっていればな、なんて、誰にでもあるのかはわからないけれど、子供の頃から、全体を俯瞰して把握するのは苦手で、そもそも、わからないことをわかるようにすること自体が上手くできなくて、今ならば、手軽にネットを使えばわかってしまうが、その信憑性は置いておいても、その差は大きいというか、だから、それが自分でわかっていたから、設計事務所に入社した頃は、当時、パソコンもネット無い、今この目の前のわからないことに対して、どうやって答えを出せば、仕事として問題が無いのか、ばかりを考えていた。

入社して1年目位は、まだ入ったばかりだし、わからないこどが多くても、なんて言っていられるような状況ではなかったし、パンクしていた。

それがちょっとだけ楽になったのが、担当者として1つの仕事を初期段階の打合せから設計、工事監理、完成までを通しで行なった後から、よく1年目の新人を担当者にするものだなと思ったけれど、図面も、先輩が手伝ってくれて、とりあえず納めて、現場も先輩にききながら、なんとか納めて、1通りやると、つながりが見えてくる、そうすると、仕事の内容が変わっても応用が効くから、どのような内容の仕事にも対応ができるようになった。

このつながりが、わかる人にはすぐわかるらしい、それを認知力と言うのだろうが、このつながりがわからない。

どこと、どこが、こうつながるから、のどこは、それがどういうことかはよくわかるのだが、というか、調べれば誰でもわかると思うが、つながり、要するに、関係性を把握するのが苦手かもしれないと、最近また思うようになった。

で、昔習ったノートの取り方で、マインドマップをまた使いはじめた。昔は何か面倒くさいなと思ったのが、その階層構造のおかげで全体の関係性がわかりやすくなり、認知力がアップした感じで、昔面倒だなと思ったことが今はジャストフィットということは、と思いながら、スマホでマインドマップを描く日々。

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"Cognitive power of connection"

I don't know if anyone can know it from the beginning, or if I knew it from the beginning, but since I was a child, I'm not good at understanding the whole, and I don't know it in the first place. I couldn't do it well, so now I can easily understand it by using the Internet, but the difference is large even if I put the credibility, so that is Because I knew it myself, when I joined the design office, I was only thinking about how to give an answer to what I didn't know right before I had no personal computer at the time. It was.

In the first year after joining the company, I had just entered, and even if there were many children I didn't understand, I wasn't in a situation to say, and I was punctured.

What made it a little easier is that after a job as a person in charge, from initial meetings to design, construction supervision, and completion, the first year's newcomer is often in charge. I thought it was, but my senior helped me, and I paid it for the time being. Can be applied to any kind of work.

Those who understand this connection seem to know it right away. This is called cognitive power, but I do not understand this connection.

Everyone knows what it is and what it is because it is connected to where and where it is, but I think anyone can understand if you examine it, but it may be weak at grasping the connection, in short, the relationship I haven't had it recently.

So I started using Mind Maps again with the notes I learned a long time ago. In the past, I thought that something was troublesome, but thanks to its hierarchical structure, the overall relationship became easier to understand, the feeling of improved cognitive power, what I thought was troublesome in the past is now just fit Thinking of a day, I draw mind maps on my smartphone.

8杯のご飯

アリストテレスがね、古代の哲学者がね、物とは何ぞやと言って、自ら問いを立てて、自ら物はね、4つに分解して考えるのだよ、と言っているのですよ。

それは、物をつくるための素材と、物の形と、それをつくる人と技術、それをつくる目的だと。

物がね、どのようにしてそこにあるか、と考えたならば、素材があって、その素材を使って形をつくる、その形は、つくる目的があるから、その目的にそって、それをつくることができる技術を持った人が、それを形つくるのだけれども、古代では、なぜか、つくられた後のことはどうでもよいらしい。

古代では物は完成した時点で終わりを迎えるらしい。

それはそれで清い、物は完成した瞬間が、つくった人、この場合、つくる技術を持った人が1番満足できる状態で、1番気持ちよく、1番美しい、だから、さあ、次のことと考えられるのかもしれない。

今日行った料理屋さんで、締めに2種類のご飯と3種類のおかずの組合せ、計6種類のご飯を食べた、おかわりしたから8杯食べた。

料理も物、料理をつくる人は完成したフォトジェニックを求めているのではなく、

「いやー、そんな締めに、そんな美味しそうな物を出さないでよ、それまで散々食べたのに、呑んだのに、お腹いっぱいで入らないよ、もう」

というセリフと顔を楽しみにしているにちがいない。なんて、なんて、それにあがらい、8杯食べる、でも、まだ腹八分目。

物の終わりは消費してなくなる時、もしかしたら、消費という言葉にはあまり良いイメージはないかもしれないけれど、次の物を創作するには、今あるものを無くさないと、手放さないと、消費しないと、できないと思う、それこそ、消費より嫌いな言葉、断捨離か。

きっと古代には美味しい物が無かったのだろう、だから、アリストテレスは8杯のご飯なんて、そんなことより、「このものをこのものとしてかく有らしめているのは何か?」なんて問うて、四原因か答えはうふふ、なんて、腹の足しにもならない。

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"8 cups of rice"

Aristotle, an ancient philosopher, asks what the thing is, asks himself, says that he thinks that the thing is broken down into four.

It is the material for making things, the shape of the thing, the people and technology that make it, and the purpose of making it.

If you think about how things are there, there is a material, and you use that material to make a shape. The shape has the purpose of making it. The person who has the technology that can make it forms it, but in ancient times, it seems that it doesn't matter what it was after.

In ancient times, things seem to end when they are completed.

It is clean and the moment when the product is completed, the person who made it, in this case, the person who has the skill to make it is the most satisfied, the most comfortable and the most beautiful, so it seems that Maybe.

At the restaurant we went to today, we had a combination of 2 types of rice and 3 types of side dishes, a total of 6 types of rice.

Cooking is a thing, people who make dishes are not looking for a finished photogenic,

"No, don't bring out such a tasty food to the end of it, I've eaten up until then, but I'm confused but I'm not full."

You must be looking forward to the line and the face. How, why don't you just eat it and eat 8 cups?

When the end of a thing is no longer consumed, perhaps the word "consumption" may not have a very good image, but to create the next thing, you have to lose what you have, If you don't, you think you can't do that.

Surely there were no delicious foods in the ancient times, so Aristotle said, "What is it that makes this thing like this?" The cause or answer is Ufufu.

論理と実践

今この瞬間を生きていることをなかなか意識できないのに、明日とか、来週の予定を考える、それは明日も来週も生きていることを意識していることになるのが何ともな話。

時代は変化するし、社会も変わるから、極端な話、過去には1日で変わった事もあったから、明日も、来週も、何も保証されていないのに、何故か、全てがこのまま、良いことも悪いことも変わらないことが前提になる。

普遍的な真理など、そうは無く、太陽は東から昇って西に沈む的な絶対的に普遍な真理など、そうは無いのに、思い込みも含めて、普遍的で本質的な事柄を追い求めてしまう。

時代性や社会性と絡めて普遍的な真理を説こうとすれば、必ずボロが出るから、そのまま放っておけばよいが、時代や社会は変化する、でも、そのようなこととは別に普遍的な法則は存在する、それが科学かもしれないし、哲学かもしれないが、必ず存在するとなると厄介だ、どう考えても、時代によって科学も哲学も変化してきたと思うし、対象を分析することには変わりが無いが、分析結果は常に時代や社会を反映してしまい、変化してきたと思うが、だから、あるのはポジショニングで、どの立場を取るのかを選択するだけだと思うのだが。

もし、そうならば、論理よりも実践が大事で、その立場において、どのように実践して、どのような結果になったのかだけが重要ということになると思うのだが、そう論理は必要だが、実践の手段にすぎない。

なかなか社会や時代の枠組みが定まりにくい現代だけれども、それでもモデルを仮定して、枠組みを定めれば、社会的な問題も浮き彫りになり、その解決策がその時代の論理であり、実践の手段、ただ、モデルは常に変化するのではないか、そう考えると、この時代や社会を根底から成立させている本質的で普遍的なことなど無いことになるのだが、あるとしたら思い込みか。

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"Logic and Practice"

Even though I am not conscious of being alive at this moment, I am thinking of tomorrow or next week's schedule, and that is conscious of being alive tomorrow and next week.

Because times have changed, societies have changed, extreme talks, and in the past, things have changed in a day, so tomorrow and next week, nothing is guaranteed, but why everything is as it is The premise is that things will not change.

There is no such thing as a universal truth, but there is no such thing as an absolute universal truth that the sun rises from the east and sinks into the west, but it pursues universal and essential things, including assumptions. End up.

If you try to explain universal truths in relation to the times and societies, you will always get out of touch, so you can leave them as they are, but the times and societies will change, but apart from that, universal There is a general law, it may be science, it may be philosophy, but it will be troublesome if it always exists. I think that both science and philosophy have changed with the times, and to analyze the object Although there is no change, I think that the results of analysis have always changed, reflecting the times and society, so I think that there is only a choice of the position to be taken in positioning.

If so, I think that practice is more important than logic, and in that position, I think that it is only important how it is practiced and what kind of result is achieved, but such logic is necessary, It is only a means of practice.

Although it is difficult to determine the framework of society and the times, it is still difficult to determine the framework, and if the framework is defined, social issues will be highlighted, and the solution is the logic of that era, the means of practice, However, if the model is constantly changing, there will be no essential and universal things that have fundamentally established this era and society.

20世紀の蔦

支えがあると、それを伝わって、どんどん伸びる、どんどん成長する、どんどん太くなるのに、単独だと、ぜんぜん伸びもしないし、ぜんぜん成長もしないし、ぜんぜん大きくならないという。

うちには某建築家の「母の家」から拝借してきた蔦が地植えしてある。もう20年もので、一度転居した時も連れてきて、二度くらい、あまりにも成長したので伐採してもらい、それでも塀を覆いつくし、日々の手入れでは追いつかないので、今日また何年振りかに伐採してもらった。

完全に無くなるのは忍びがなく、その話をしたら欲しいという人もいたので、かなり伐採して、また生えてくるのか心配なくらいまで綺麗さっぱりになったが、室内で観葉植物として育ててみようということになり、少しだけ確保して水挿ししてあり、他にも、外の植木鉢に移し替えたり、よく見たら地植えしたものも葉が残っていた。

で、植木屋さんに尋ねたら、先の回答、植物には疎いので、ならば、最初から室内で観葉植物として育てればとも思いつつ、蔦は外を覆い尽くすあの感じが良いと、20世紀のモダニズムの建築家は蔦好きだからなと思いつつ、支えがあると成長するという話が面白い、確かに塀に這っている蔦はとても太いのに、観葉植物としての蔦は、ネットの画像を見たが、細い。

観葉植物の蔦には荒々しさが無く、か弱い感じ、そこが良いのかもしれないが、支えが無くても、どんどん成長して、支えが無ければ、横に這ってでも、何か掴まるものを見つけて、あの荒々しい、何にでも絡みつく感じになるのかと思っていたし、イメージは「母の家」の蔦なので、外壁にも這っていく生命力と思いきや、外壁があるから生命力を発揮できたのか、支えがある無しでこの違い。

ずっと、モダニズム建築の蔦は、場所性を捨てた建築に、場所性を取り戻す役目を負わせるために、わざと後から生えてくるように、建築家がしていたのだろうと勝手な解釈をしていたが、蔦の方も格好の餌食が如く建築を利用しており、むしろ、都合よく使われるフリをして、モダニズム建築を覆い尽くしてしまおう、場所に埋没させてしまえと野望を燃やしていたり。

やっぱり、蔦は貴重だから、大事にしよ、また塀を覆い尽くすかな。

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"Twentieth Century Trap"

If there is support, it is transmitted and it grows steadily, grows steadily, it gets thicker, but when it is alone, it does not grow at all, it does not grow at all, and it does not grow at all.

Inside, there is a cocoon planted from the "mother's house" by a cocoon architect. It's already 20 years, I brought it when I moved, and it was grown too twice, so I felled it, but it still covered the firewood and I can not catch up with daily care, so it is the first time in several years today I was cut down.

There was no shinobi that completely disappeared, and there was a person who wanted to talk about it, so it fell pretty clean and I was worried whether it would grow again, but I tried to grow it as a houseplant in the room As a result, a small amount was secured and water was inserted, and there were also leaves that were transferred to outside flower pots or planted on the ground if looked closely.

Then, when I asked the gardener, the previous answer, I am not familiar with the plant, so if I think that I should grow it as a houseplant indoors from the beginning, the feeling that the moths cover the outside is good, 20th century I think that modernist architects love cocoon, but it is interesting to hear that it grows when it is supported. I saw it but it was thin.

The foliage of the foliage plant is not rough, it feels weak, and it may be good, but even if there is no support, it grows steadily, if there is no support, you can grab something even if you crawl sideways I found something and thought that it would feel like that rough, tangled with anything, and the image is the "mother's house" trap, so I think that it is the vitality that hits the outer wall, because there is an outer wall This difference without support, whether you have been able to demonstrate the vitality.

For a long time, modernist architecture traps interpreted the architects as if they were to grow up on purpose in order to restore the place to a place where place was abandoned. However, the samurai also uses architecture like a prey, but rather, pretend to be used conveniently and cover modernism architecture, even if it is buried in the place and burns ambitions. Or

After all, moths are precious, so take care of them and cover them again.

ポリシーとは何

日常の何でもない、ごくありふれた、いつも行っていることがちょっとだけ、単純なことをしただけで、何かよくなって、そうしたら、今までとは、たったこれだけのことで、違った感情になったり、違った気分になったり、違った風景が見えたりして、日常が豊かになる、あくまでも日常の中の出来事が大事というか、非日常をつくりだすのは案外たやすいことで、ただ、その中にずっとはいられないし、非日常は楽しいかもしれないけれど、本当に満足したい場所は日常の中にあるのでは、日常の中にしかないのでは、で、これは氷山の一角であり、それを実現するための裾野は海面の下にあり、そこは日常からは見えないし、見せないが、そこには様々な技術や様々な考えがあり、それを磨きつつ、実践と論理のせめぎ合いをし、そのバランスにいつも気を使い、複雑で絡まったならば、解き、単純にわかりやすく、誰にでもすぐに理解できる論理を構築し、実践へと進むようなイメージでいつもものづくりをしている。

で結果、出来上がった物に対して相手が、この場合、相手は不特定多数の場合もあるし、個人の場合もあるが、愛着を持ってくれるのか、共感をしてくれるのかが大事で、それは物としての対外的な評価よりも上回り、相手が愛着を持ち、共感をしてくれたならば、それがつくる側から言えば、極上の喜びになる。

ポリシーについて考える機会があったので、今までと現在進行形の仕事を俯瞰して、そこから共通して言えることだけを抽出し、まとめてみたら、その時々は、その場面場面に合わせて、結構いろいろと考えているのに、普段自分が何気なく自分のためにしようとしていることだった。

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"What is a policy?"

Everything you do in everyday life, something that is common, just doing something simple, just doing something simple, something better, and then you're just feeling this different feeling It makes you feel different, feel different scenery, enrich your daily life, it's easy to create an extraordinary life, or it's unexpected. I can't stay in it for a long time, and the extraordinary life may be fun, but the place I really want to be satisfied is in the daily life, only in the daily life, so this is the tip of the iceberg, The base for realizing it is under the sea surface, which is not visible or visible from everyday life, but there are various technologies and various ideas, and while practicing it, it is a struggle between practice and logic. ,That Lance to always use care, if tangled complex, solved, simply understandable, who built a logic that can be immediately understood even in, are always making things in images, such as the process goes to practice.

As a result, the other party may be unspecified number of people or individuals, but it is important whether you have attachment or sympathy. That exceeds the external evaluation as a thing, and if the other party has attachment and sympathy, it will be the supreme pleasure from the side of the creation.

I had an opportunity to think about the policy, so I looked down on the current and ongoing work, extracted only what I could say in common, and put it together. Even though I was thinking a lot, I was casually trying to do it for myself.

我慢できない

「流れるプール」と一声かかると一斉に同じ方向に動き出す群れ、そのうち、水の流れができて、その流れが全身に纏わりつき、その流れがある間は、流れのままに流されていく、泳げなかった自分はその時だけ泳げたような気分になり、中学になり泳げるになったのも、その時の感覚を身体が覚えていたから。

よく思い出すことで、一旦流れができてしまえば、あとはそれに乗るだけ、だけど、1人では流れができないから、はて、どうしたものかと。これは他人を巻き込んだり、何かを利用したりすれば、流れができるが、自分で動き出し、継続しなければいけなかいから、この場合、流れを習慣と言い換えてみて、他の言葉でも良いけれど、それが、流れができるまでの間で、止めてしまい流れができないことがよくある。

一旦流れができてしまえば、もう何も意識して動く必要が無いから、流れができるまでの我慢と思っても、我慢と思った瞬間に続かなくなるから、それは自分だけかもしれないけれど、きちんとした大人は我慢するのだろうが、だから、我慢しないでできることだけ、我慢と思ったら止めて、我慢しないやり方を考えて、そうすると、なかなか進まない、片付かないが、一旦我慢しないでできるようになると、それが習慣になり、例え、その習慣を後に止めたり、変えたりしても、その習慣になるまでの考え方や感覚は共有できるかなと思い、流れをつくるために、本当は動くのは好きではないのだけれども、その時点で我慢だから、流れができるまではいつも我慢とのせめぎ合い。

なんて、片付かない部屋を見て、あれこれ考えて、片付け本読んで利用しようとしても、だから、最近は究極の片付けを、もう片付けない、にしようかと、その時間で他のことをするという流れをつくろうかと、あとは片付かない部屋に我慢しないで済むかどうか。

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"I can not stand it"

Swarms that start to move in the same direction when you say a `` flowing pool '', of which water flows, the flow gathers all over the body, and while it is flowing, it keeps flowing while flowing, swim I did not feel like I was able to swim only at that time, and I became junior high school so I could swim because my body remembered the feeling at that time.

Remember, once you have a flow, you can just ride it, but you can't do it alone. This can flow if you involve other people or use something, but you have to move and continue on your own, so in this case, try to rephrase the flow as a habit and use other words. Often, it stops and cannot flow until it can flow.

Once the flow has been made, there is no need to move consciously anymore, so even if it is patience until the flow is made, it will not continue to the moment when it was thought, so it may be only myself, but it is Adults will endure, but only stop what you can do without patience, stop if you think patience, think about how to endure, and then do not progress, do not clear up, but once you can do without patience , It becomes a habit, even if you stop or change the habit later, I think I can share the way of thinking and feeling until it becomes habit, and I do not really like to move to create a flow However, because I am patient at that time, I always fight with patience until I can flow.

How about looking at a room that is not cleaned up, thinking about everything, reading and using a cleanup book, so recently, the flow of doing other things at that time, whether to make the ultimate cleanup no longer cleanup Whether to make it or not to put up with a room that doesn't get cleaned up.

7年前と今

7年経つとさすがに人は変わるだろうか、7年前から今でも続いていることがもちろんあるけれど、その何倍も、7年前にはしていた、あったことが今は無い。

それが当たり前かもしれないが、逆に7年前と全てが同じだっだら、そちらの方がおかしいというか、それは進歩も退歩も無いことで、実際、肉体は変わるから、成長か老化かが、それだけで必ず変化があるはず、それに本人が気づいていない、周りは案外変わったな、なんて思っていて、老けたなんて、でも中身は変わらないな、とか。

建築は完成した段階から、成長と老化が同時にはじまる。完成した時はまだ、借り物の服を着ているような、自分たちに馴染んでいない、人に例えると、赤ん坊、それが住んでいくと、段々と自分たちの生活色に染まって、完成した当時の建築に彩りが加わる、それが成長。

ところが、建築を物としてみた場合、完成した当時が1番綺麗で、段々と劣化していく、劣化のスピードは物の材質によるが、劣化するのは止められない、これが老化。

ただ、劣化が上手くできれば味になり、完成した当時の建築に彩りと、さらに味が加わり、完成した当時の建築よりも良くなる、本来内在していたポテンシャルが解放されたような、建築として成熟した姿は実に素晴らしく、完成した当時よりも、少し年月を重ねた方が良い、というか、そうなるように設計している。

今、7年前に完成した住宅に関わっている。完成した当時赤ん坊だったお子さんが小学生になり、兄妹で使用していた部屋に間仕切壁をつくり、部屋を分ける工事、同時に劣化した部分を修復する。

人と建築の成長がシンクロし、7年経って彩りと味が加わった姿を見ているのは何とも楽しいもので、今回をきっかけに久しぶりにお会いする人もいて、見た目が変わってもあいかわらずだな、なんて内心お互い思いながら、また仕事をするようになるかもしれず、それはそれで、進歩だか退歩だか現状維持だかはわからないが、そういうこととは違う尺度でものづくりができていることが、7年前とは1番違うことかもしれない。

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"7 years ago and now"

People will change over the course of 7 years, but of course there are things that have continued since 7 years ago, but many times that has been done 7 years ago.

It may be natural, but conversely, if everything is the same as 7 years ago, it is stranger, that is, there is no progress or retreat, in fact the body changes, whether it is growth or aging, There should be a change, and the person himself / herself is unaware of it, the surroundings have changed unexpectedly, and they think they are old, but the contents are not changed.

From the stage of construction completion, growth and aging begin at the same time. When it is completed, it is still unfamiliar to them, such as wearing clothes for rent, like a baby, when it lives, it is dyed gradually to their life color and completed Color is added to the architecture at that time, and it grows.

However, when looking at architecture as an object, it was the most beautiful when it was completed, and gradually deteriorated. The speed of deterioration depends on the material of the object, but the deterioration cannot be stopped.

However, if the deterioration can be made well, it will become a taste, and it will be colored, and the taste will be added, and the taste will be added, and it will be better than the architecture at the time when it was completed. The appearance is really wonderful, and it is better to spend a little more time than when it was completed.

I am involved in a house that was completed seven years ago. The child, who was a baby at the time of completion, becomes an elementary school student, creates a partition wall in the room used by his brother and sister, works to divide the room, and simultaneously repairs the deteriorated part.

It's a lot of fun to see the growth of people and architecture synchronize, and the addition of color and taste after seven years. Some people have met for the first time in a while after this time, even if the appearance changes I think I may start working again while thinking inside my heart, and I don't know if it's progressing, stepping back, or maintaining the status quo, but it's been 7 years that we have been able to make things on a different scale. It may be the most different from the previous one.

4色

子供の頃から4色ボールペンをよく使っていて、いつからか、たぶん、中学くらいからか、使いはじめたのは、アンダーラインを引くために、色分けして、周りも結構使っていて、なぜかレポート提出で、色にもマイルールがあり、赤は重要、青は最重要、緑は余談、黒は普通としていて、人に聞くとやはりその人なりのルールがあって運用しているようだった。

前に、3色ボールペンを使った読書法の本が出版された時、パラパラと見て、同じと思い、前から本にも4色で、爪痕を残すような感じで、4色以外にも大事なページには付箋紙を貼り、その付箋紙も4色にし、ただ黒の代わりに黄で、黄の意味は青より重要な時、あとページの角を折ったり、その本を読み解くためにしていたのだが、本はノート、という教えも聞いたことがあったので、紙の本にいろいろしていた。

ただ、それは手段で、目的は本やノートの内容を頭に入れることなのに、4色を使い分けることがいつしか目的になっており、それはノートも同じで、いつしかノートを取ることが目的になっていた。

それに気づいたのは、今年になって手書きのノートを止めて、全てiPad にApple Pencilで記述するようになってから。やっていることは手書きのノートと変わらないけれど、デジタルノートには自分で制御できないルールがあり、例えば、色を変えるにも、その操作法は決められていで、手書きならば、ある程度自由に、4色ボールペンを使おうが、色鉛筆を使おうが、マーカーでも選べて、その使い方、運用の仕方も自分しだいだが、その不自由さが、それが手段ならば、そこまで感じないだろうが、目的だからとても不自由に感じた。

では止めればいい、デジタルノートを、と思うかもしれないが、同期していろいろなデバイスで見ることができ、修正も同期により反映できると、繰り返し見たりするのが便利になり、より頭に入りやすく、そのために4色を使い分けていたと、繰り返し見ないと頭に入らないと、認知の問題だけれども、それは手段だと再認識するためにデジタルノートにしたような状況に。

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"4 colors"

I have been using four-color ballpoint pens a lot since I was a kid, and I started using them sometime, perhaps from junior high school. In the submission, there are also my rules in color, red is important, blue is the most important, green is a digression, black is normal, and when you ask people, it seems that they have their own rules and they are operating .

Before, when a book on reading methods using a three-color ballpoint pen was published, I thought that it was the same as a flip book, with four colors on the book from the front, feeling like leaving a nail mark, other than four colors Place sticky notes on important pages, and make the sticky notes four colors, just yellow instead of black, and when the meaning of yellow is more important than blue, you can fold the corner of the page or read the book I had heard that the book was a notebook, so I used it as a paper book.

However, it was a means, and the purpose was to put the contents of books and notebooks in mind, but the purpose was to use the four colors differently.

I noticed that this year, I stopped writing notes and started writing everything in Apple Pencil on the iPad. What you are doing is not different from handwritten notes, but digital notes have rules that you cannot control yourself, for example, even if you change the color, the operation method is decided, and if you are handwritten, you can freely to some extent, Whether you use a 4-color ballpoint pen or a colored pencil, you can choose a marker, and how you use it, how you use it, but you can't feel that inconvenience if it is a means. I felt very inconvenient.

You may think that you should stop, but you can think of digital notes, but if you can see them on various devices in sync, and you can also reflect your corrections in sync, it will be convenient to see them repeatedly, and it will be more clever. It was easy, and if you used the four colors properly, it would be a problem of cognition if you didn't come to mind unless you look at it repeatedly.

長くゆっくり

最近、時間が長く感じる。時間があっという間に過ぎるのは、楽しいことをしていたり、自分が好きなことをしている時にそうなるか、あとは、焦っていたりする時で、長く感じるのはつまらない時や、ただ、何かに没頭している時には2通りあるような気がする。

時間が、気がついたら、いつのまにかすごく経っていた、あるいは、集中して没頭して何かをして、かなりの量をこなしたのに、大して時間が掛からなかった、の2通りで、時間が進むスピード感が早いか遅いか。

実際に、時間の進むスピードが変わることは無いので、そう感じるだけだが、できれば、時間の進むスピードが遅く、時間が長く感じられる方が良く、ただ、つまらないのは嫌だな、となると、どうやって時間を使えば、スピードが遅く、時間が長く感じられるのかと考えてみたら、自分が好きなことや、やりたいことをたくさん用意し、制限時間を決めて、たくさんこなしてみると、好きなことをしているから、時間が早く経つような気がするけれども、制限時間より多くの時間を使うことが無く、それでいて、好きことをたくさんできるので良いのでは。

結局、好きことを効率良くたくさんやれば、時間を長くゆっくり使える感じになる、というなんか当たり前のことに落ち着いた。

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"Long and slow"

Recently I feel that time is long. Time passes quickly when you are doing fun things, when you are doing what you like, or when you are impatient, and when it feels boring for a long time, just When I'm immersed in something, I feel that there are two ways.

When I noticed the time, I went through a lot of time, or I was focused and absorbed, did something, did a lot, but it didn't take much time. Is it fast or slow?

Actually, the speed of time does not change, so it just feels like that, but if possible, it is better that the speed of time is slow and it feels longer, but I don't want to be boring. If you think that if you use time, the speed is slow and you feel that time is long, prepare a lot of things you like and want to do, decide the time limit and do a lot, what you like I feel like it's going to be early, but I don't spend more time than the time limit, and I can do many things I like.

In the end, I settled on the natural idea that if I did a lot of things I liked efficiently, I felt that I could use my time slowly and slowly.

道具で時間を

道具の話ですが、道具に何を求めるか、やはり、その道具を使うことによって、自分がどうなるか、を求めてしまう。

求めるものは2つで、どちらかが満たされていれば、その道具を使います。それは、自分の気分を高揚させてくれるものか、自分の時間をつくり出してくれるもの。

気分を高揚させてくれるものは人によって違うでしょうから、ただ、なかなか無いので、この時にとりあえずは無し、見つからないからとか、面倒だからとか、この程度でいいやは無し、その程度のものしかできません、その道具では。その道具を使いながら、自分の気分が高揚したら、そんな楽しい時間はないし、きっと良い時間になるでしょ。

例えば、車を移動するための道具だとしたら、動けば何でも良いよりは、気に入ったものに、ただ移動するだけで気分が高揚したら、それだけで素晴らしい時間に。

よく聞く話で、1日24時間は誰でも一緒、同じ、だから、自分の時間をつくり出してくれる道具は有り難い。例えば、ルンバ、掃除から解放されて、他のことをする時間をつくってくれる、ただ、うちのルンバは古いのか、家具に結構強く当たる、それが、家具は収納道具なので、お気に入りの家具しか置きたくないので、それにガンガン当たるのは、最新のものはそんなことはないのでしょうか。

もう模型つくりから解放されて、何でも自分でやりたいので、ただ、模型をつくる時間があったら、その分、プロジェクトを深める時間に使いたい、3Dプリンタがフル稼動です。

最初のスタディ模型はバリエーションを多く、とにかくたくさんつくりたいので、3Dプリンタで模型をつくっている間に、前の模型を検討し、新たな模型作成用データをつくり、模型ができあがってきたら、またそのデータを3Dプリンタにかけ、できあがった模型をまた検討し、新たにまた模型作成用データをつくる、これの繰り返しができるのが心地よく、楽しい時間。

そう考えると、どちらも、つくり出すのはもちろん、高揚させるのも、道具というのは時間を扱うものだと改めて思う。

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"Time with tools"

It's a story about tools, but what you want from a tool is what you want to do by using that tool.

There are two things you want, and if either is satisfied, use that tool. It's something that raises your mood or creates your own time.

The things that make you feel uplifted will vary from person to person, so there aren't many, so at this time there is nothing for the time being, it can not be found, it is troublesome, this level is okay, there is only that level With that tool. If you feel better while using these tools, you will not have such a good time and it will be a good time.

For example, if it 's a tool for moving a car, it 's a great time if you just move and feel better than just moving.

The story I often hear is that everyone is the same 24 hours a day, so I appreciate a tool that can create my time. For example, rumba frees you from cleaning and takes time to do other things, but your rumba is old or hits the furniture quite a bit, because it is a storage tool, so you only place your favorite furniture I don't want it, so isn't the latest one that hits it?

Now that I'm free from modeling, I want to do everything myself, so if I have time to make a model, the 3D printer that I want to use to deepen my project is fully operational.

The first study model has many variations, and I want to make a lot anyway. So, while making a model with a 3D printer, consider the previous model, create new model creation data, and when the model is completed, It is a pleasant and fun time to repeat the process of applying the data to a 3D printer, examining the completed model again, and creating new model creation data.

When thinking so, I think again that both tools are not only made up, but also uplifting, tools are things that deal with time.

全体と部分

『全体と部分』

大きな視点から、その一点を見ると、相互の位置関係や様子がわかりやすく、大体、どの辺にいるのかがわかりやすいが、その一点から大きな視点を見ようとすると、そもそも全体像が把握できないから、その一点が全てであるような錯覚にとらわれることがある。

最近、知りたいことがあり、2つの講習を受けてみた。どちらの講習も、受講者同士のディスカッションの時間があったり、質問を元に講習が進めらたりと、話し手と受け手という関係性だけでは無い講習の形をとっていた。

ただ、受講者の知識にレベル差があるから、その差を埋めなかければ、ディスカッションは成り立たないし、質問も噛み合わない。そのため、片方の講習は受講前に、事前動画と称して、基礎的な知識を習得するための動画を自ら前もって見て、アウトプットをすることが要求され、そのアウトプットが参加証代わりになっていて、実際の講習では、最初から質問ではじまり、質問に答える形で講習が進む。

もう片方は講習の中で基礎的な知識を網羅して、それを受けてディスカッションし、自ら行いたいことを明確にしていく。

どちらの講習も、基礎的な知識の全体像を把握してから進むのは同じだが、片方は事前動画を別の日に自ら前もって見るから、講習当日の質問は、どうしても事前動画の内容とはあまり関係が無いというか、今その時の自分の問題にだけ収斂して、質問内容だけが独り歩きし、それが全体を表しているかのような錯覚におちいる。

もう片方はその場での基礎的な知識を網羅してから、自らの考えをまとめるので、全体の中での立ち位置が理解しやすく、より正確に何をするべきかがわかる。

どちらの講習のやり方が良いか、というのは無いとは思うし、目的によって使い分ければ良いと思うが、実際に、講習の内容が記憶に残り続け、忘れないのは、事前動画を見た方で、講習が完結するまで長い時間がかかり、それなのに、講習当日は全体性が無い質問ばかりで、事前動画を想起しながら質問や回答を理解しなければならず、それが頭に残るのだろう。

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"Whole and part"

If you look at one point from a large viewpoint, it is easy to understand the mutual positional relationship and appearance, and it is easy to understand which side you are in, but if you try to look at a large viewpoint from that one point, you cannot grasp the whole picture in the first place. You may be caught in the illusion that one point is everything.

Recently, there was something I wanted to know and I took two courses. Both courses took the form of courses that were not just about the relationship between the speaker and the receiver, such as having time for discussion between students, or proceeding with the course based on questions.

However, since there is a difference in the level of knowledge of the students, if the difference is not filled, the discussion will not be possible and the questions will not engage. Therefore, before taking the course, one class is called a pre-video, and it is required to look at the video to acquire basic knowledge in advance and output it. In the actual course, the course starts from the beginning and answers the questions.

The other covers the basic knowledge in the course, discusses it, and clarifies what you want to do.

In both classes, it is the same to proceed after grasping the whole picture of basic knowledge, but one side sees the advance video in advance on another day, so the question on the day of the course is inevitably the content of the advance video It seems that there is not much relation, or it converges only on my problem at that time, and only the content of the question walks alone, and it feels as if it represents the whole.

The other side covers basic knowledge on the spot and then summarizes its thoughts, so it is easy to understand the standing position in the whole and know what to do more accurately.

I don't think there's a better way to do the course, and I think it's better to use it properly depending on the purpose. On the other hand, it takes a long time to complete the course, but on the day of the course, there are only incomplete questions, and you have to understand the questions and answers while recalling the pre-video, which remains in mind Let's go.

それができる器は

そっと口をつけても熱くない、この季節、エアコンをつけない室内に置いてあるだけでも、何でも熱くなり、陶磁器でも、何も注いでいないのに熱い。

手で触るもの、口につけるもの、その手触り、口の感触、そこまで、どうしようかな、この触り心地、触れるだけで心地よい、など、今の季節だと、冷んやりしているとありがたい。

感触の中でも、温度には、案外気がつかないうちに敏感になる。きっと触り心地より、まず温度で判断して、不思議なもので、肌にかかったら大火傷をするような熱湯でも、口の中に、冷ましながらだが、入れることができてしまう。

だから、案外、温度に対しては、無意識に反応して、対応するから、その温度について鈍感になるというか、いちいち気に止めることがない、しかし、冷ましながら、とかしている訳だから、何らかの影響を人に与えていて、料理では、その温度や温度差が美味しさのうちというのは当たり前なのに、それを入れる器は温度に鈍感で、器に接触するものの温度をそのまま伝えるしか能がなく、温度を全く持って器自身のデザインに生かせていない。

その温度と人を媒介するのが器なのに、器はただボーっとしているだけ、そこに一工夫、そこにデザインが関与すれば、その体験がより素晴らしくなるのでは。

だから、飲み口の厚みを変えてみた、温度に器が対応するように、人の好みや気分によって飲み口の位置を変える、そうすると、器の形も変わって見える、いつでも、毎日、気分で。

温度をデザインに取り入れたかった、そのためには熱湯を注いでも、程良く、人肌くらいの温度になる器でないと、熱くて持てない器では、そもそも温度をデザインに取り入れた使いこなしができない、それでいて、まるで口づけをしているような感触が欲しかった。

それが唯一できる素材は、陶磁器ではない、硝子の器でもない、もちろん金属の器でもない、漆器だけだった。まだ漆塗のサンプルができあがってこない、木地を眺めながら、納める箱をデザインしている。

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"The vessel that can do that"

It's not hot even if you put your mouth softly. Even if it's left in a room without an air conditioner this season, everything will be hot, and even if it's ceramic, it's still hot.

I feel grateful that it is cool in this season, such as touching by hand, touching by mouth, touching by touch, touching by mouth, how to do it, this touching comfort, just touching.

Even in the touch, it becomes sensitive to the temperature without notice. Surely, it's a strange thing to touch, rather than touch, so even hot water that can cause severe burns when applied to the skin can be put into the mouth, although it cools.

So, unexpectedly, it reacts unconsciously to the temperature and responds, so it will not be insensitive about that temperature, but it will not stop at all, but because it is cooling down, it has some influence In cooking, it is natural that the temperature and temperature difference are delicious, but the vessel that puts it in is insensitive to temperature, and it can only communicate the temperature of what touches the vessel as it is, It has no temperature and is not used in the design of the vessel itself.

Even though it is a vessel that mediates the temperature and the person, the vessel is just a buzz, but if it is devised there and the design is involved there, the experience will be more wonderful.

So, when I changed the thickness of the mouth, I changed the position of the mouth according to the taste and mood of the person so that the container responded to the temperature, and then the shape of the container changed, every day, every day.

I wanted to incorporate the temperature into the design.To that end, even if I poured hot water, it was not a device that would be moderately warmer than human skin. I wanted the feeling of kissing.

The only material that could do that was lacquerware, not ceramic, glass, or of course, metal. I am designing a box to put in a lacquered sample while looking at the wood.

誤魔化すことができない

誤魔化していると、それなりに満足感が得られるから、ついつい同じことを繰り返し、それがクセになり、今度は誤魔化している自覚さえも、そもそも誤魔化していると思っていないから、それで満足感が得られるから、ドーピングをしているようなもの、結果に満足してしまうと、それが大事か誤魔化しているのか、脳はそこまで区別できないらしい、だから、自己暗示もできるし、誤魔化しも止められなくなり、何とか欲は、例えば、物欲や食欲や性欲などは、誤魔化す元をオブラートに包んでいるだけで、今が一番大事、がキーワードらしい。

一昨年、福井の永平寺で少しだけ坐禅体験をした。永平寺は曹洞宗の大本山であり、曹洞宗の坐禅は壁に向かって行うのたが、雲水と呼ばれる修行僧が行う坐禅の真似事を、そこだけ、まるで、パラシュートでいきなり中心地に降り立つような感じでやってみた。

それは、大阪から北陸へ行く用事があり、途中の福井で下車し、日本酒の黒龍を楽しんだ翌朝の出来事、前々から、永平寺で坐禅修行をしたい希望があったが、その時の季節は真冬、たまたま大雪が降った直後、とりあえず、早朝に向かったが、驚くほど移動手段が限られ、結局坐禅の時間に僧堂にいたのは私一人だけ、案内役の雲水さんとマンツーマン、座るだけのためにここまで来たかと思うと、とても貴重な時間に思えたが、坐禅をしながら、なぜここにいるのか、と考えていたことも思い出した。

別に、その時に答えが出た訳ではないが、何か一枚一枚剥ぎ取り、その時はすでに誤魔化すのが上手くなっていたから、欲が身体の外へ出ていくような感じがした。

ほんとは誤魔化さない方が良いのに誤魔化すのは、ほんとは食べてはいけないのに食べるようなもので、その方が気持ち良く、満足してしまうからだが、その満足感が虚しいと思いはじめていた時の坐禅は、静寂で誤魔化しようが無い、誤魔化すことができない張り詰めた空気を感じるための時間だったような気がする、おかさまで。

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"I can't be deceived"

If you are deceived, you will get satisfaction as it is, so you repeat the same thing, it becomes a habit, and even now, even the awareness of being deceived does not think that you are deceiving in the first place, so you get satisfaction So, if you are satisfied with the result of doping, or if you are satisfied with the result, it seems that the brain can not distinguish so much whether it is important or misleading, so you can also suggest self-implied and it will not stop Somehow, for example, greed, appetite, sexual desire, etc. are the keywords that are the most important now, just by wrapping the elements that become deceptive in oblates.

Last year, I had a little zazen experience at Eiheiji Temple in Fukui. Eiheiji Temple is the main head of the Soto sect, and the zazen of the Soto sect is directed toward the wall, but the imitation of the zazen performed by a monk called Unsui is just like a parachute and suddenly descends to the center. I tried it.

There was a business going from Osaka to Hokuriku, getting off at Fukui on the way, enjoying the sake dragon of the next morning, there was a hope to practice Zazen at Eiheiji Temple, but the season at that time was midwinter, Immediately after the heavy snowfall, I headed early in the morning, but surprisingly the means of transportation were limited, and I was the only one who was in the monastery at the time of zazen, as a guide, Unsui-san and one-on-one, just to sit It seemed like a precious time when I came here, but I also remembered why I was here while doing zazen.

Apart from that, I didn't get an answer at that time, but I felt like my greed was going out of my body because I had already peeled something off one by one and at that time I was already good at becoming a demon.

It's better not to be deceptive, but it's like eating when you really shouldn't eat it, because it makes you feel more comfortable and satisfied, but when you start thinking that the satisfaction is empty Zazen is quiet and can't be deceived, it feels like it was time to feel the tight air that can't be deceived.

大事な本

おわぁ、何、何、これ、ちょっと間があって、わかった新聞の切り抜き、Amazonで古書を購入したら挟まっていた。

昭和61年の切り抜き、この本の初版が昭和60年だから、新品で購入した前の所有者が挟み、そのまま、装丁も綺麗なので、本棚にあったか、書店にあったか、黄ばんではいるが、のり掛けしたようにピシッとした紙面、天声人語だから、朝日新聞か、そう言えば昔、毎日、天声人語を読まさられたことを、なぜか辛い思い出。

同じ本で、紙か電子かを選べるならば、必ず電子書籍を選ぶ、紙の書籍を購入する時は電子版が無いから仕方がない時で、知り合いの作家さんならば別だけれども、好んで紙の書籍を収集するような、全集を欲しがるような趣味は元々無いので、すぐに携帯で読めて、すぐに知りたい内容がわかり、どこへでも何冊でも持ち歩けて、見たい時にどこでも見られるから、いつでも読み返したい本や重要な内容の本や建築雑誌、座右の書なんてもう一冊購入して、背表紙を裁断し、自らスキャンしてでも、携帯に取り込んで持ち歩いている。

昔は本の間に新聞の切り抜き、その本が掲載されていた新聞広告を切り抜いて書店で探したりして、それを栞がわりに、昔はAmazonどころかネットすらない訳だから、もしかしたら、その当時の切り抜きがうちの書棚の本にもあるかもしれない。

この感覚、前の所有者はこの本を大事だと思っていたのかもしれない、切り抜きも几帳面に挟んである、内容ももちろん大事だが、本は単なる印刷物を超えて、本自体を大事にする感覚が昔はあった、今でもあるだろうが、紙としての実体の無い方が都合が良く、寿命の短い本が多くなってしまった。

単なるデータ、単なる文字情報の集合体が本と言えばそれまでだが、執筆途中はそれこそ今はデータだが、昔の作家の原稿が売られていたり、旧家の蔵から昔の原稿用紙が出て来たりなど聞くと、建築でも今は図面はデータだが、昔の手書きの図面が美術館の収蔵品になっているくらい、制作途中にも作家の痕跡があり、その痕跡自体が作品の一部であり、それが感じられたから、本を、紙の本を所有する喜びもあったのかもしれない。

断捨離なんて言わずに、一度大事にした本は一生持っていたいものだ、紙の本として、それが生きる喜びだと思う。

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"An important book"

Wow, what, what, this was a little bit, I found out a newspaper clipping, and I got stuck when I bought an old book on Amazon.

The cut-out of 1986, the first edition of this book was 1985, so the owner before buying it with a new one was sandwiched, and the binding was also beautiful, so it was on the bookshelf, in the bookstore, it was yellow, but it was glued Because it 's so crisp, the Asahi Shimbun, the Asahi Shimbun, or so to speak, once a day, every day, I read the Tenshin Mandoku for a long time.

If you can choose between paper and electronic for the same book, be sure to choose an electronic book. When you buy a paper book, there is no way because there is no electronic version. There are no hobbies like collecting paper books or wanting the whole collection, so you can read it right away on your mobile phone, know what you want to know, take it with you wherever you want it, and take it anywhere you want to see it. Because I can see it, I buy another book I want to read back at any time, a book with important contents, an architectural magazine, and a book on the right, cut the back cover, scan it myself, and carry it on my phone.

I used to cut out newspapers between books, cut out newspaper advertisements where the books were published, and look for them in bookstores. There may also be a cutout in my bookcase book.

This feeling, the previous owner may have thought this book is important, the clipping is sandwiched between notebooks, the content is of course important, but the book goes beyond mere printed matter and takes care of the book itself Although there was a sense in the past, it will still exist, but it is more convenient to have no physical substance as paper, and there are many books with short lives.

Speaking of books, a collection of mere data and simple text information is up to that point, but in the middle of writing it is now data, but old writers of old authors are sold, old manuscript papers come out from old storehouses When you ask, the drawings are now data even in architecture, but there are traces of the artist in the middle of the production so that old handwritten drawings are a collection of museums, and the traces themselves are part of the work Yes, it may have been a pleasure to own a book, a paper book because it was felt.

I don't say that I don't want to divide the book, but once I have cherished it, I want to have it for a lifetime. As a paper book, I think it's a pleasure to live.

点と点

こういうものが欲しいのだけれども、どこを探しても無い、そもそも見ない、全てを知っている訳では無いし、全てを探し切った訳でも無いけれど、そうなると、全く知らない世界のことなのに、つくりたくなる、それは十二分な動機で、つくりたい時には無知ゆえの無謀な過信もあり、例えば、ツテがあったり、知り合いがもしかしたら関係者かも、関係しているかもしれない、そうしたら、つくるのはもしかしたら簡単になるかもしれないけれど、それは利用しない。

今、頭の中にあるモヤモヤとした形にならない、でも形にしたいものをつくろうとした時に、それをつくっている専門家や専門の職人と直に繋がりたく、間に専門外の人を介在させたくなく、そして、その専門家や専門の職人と一期一会で、点と点のような初めの接点があり、お互いがお互いのことを全く知らず、こちらはもうそれを形にしたくて仕方がなく、この訳のわからない、どこのどいつだかわからない奴をものをつくるという一点だけで受け入れてくれて、真剣に話を聴いてくれて、真剣につくってくれる人に出会わないと、こちらも本気でものづくりができないし、本物ができないような気がしているので、いつも無防備で、何も持たずに現地へ行き、1から関係をつくり、本当にこういうのを「類は友を呼ぶ」というのだと思う、似たような考えの人と出会い、そうすると、その人が実は、ということになり、いつしかクオリティが高いことがやれている、建築の職人も似たような感じで出会う、そういう運は昔からあるようだ。

いつも点と点、それが線や面にはならないのだが、大概、皆んな、難題を喜ぶ人ばかり、喜んでいるように見える人ばかり、点の存在、類は友を呼ぶ。

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"Points and points"

I want something like this, but I can't find it anywhere, I don't see it in the first place, I don't know everything, I don't know everything, but it's a world that I don't know at all. If you want to make it, there is also a reckless overconfidence due to ignorance, for example, there may be a fool, a person you know may be related, or you may be involved, if you make it It might be easier, but don't use it.

Now, when you try to make something that you don't want to have in your head, but want to make it into a shape, you want to connect directly with the experts and craftsmen who make it. I don't want to do it, and I meet with the experts and professional craftsmen, and there is a point-to-point initial contact. They don't know each other at all, and I can't help making it anymore. If you don't know this translation, accept who you don't know where and when, just make a thing, listen seriously and meet someone who makes it seriously. I can't, and I feel like I can't do the real thing, so I'm always defenseless, go to the local area without anything, make a relationship from scratch, and really say this kind of thing is called "friends" think I met a person with a similar idea, and then, that person was actually, and I was able to do something of high quality sometime, and the craftsmen of the architecture also met with a similar feeling, such luck has long been There seems to be.

The point, the point, it doesn't always become a line or a face, but in general, all the people who are pleased with the difficult problem, the people who seem to be happy, the existence of the point, the kind calls friends.

結び

一度ほどいたら、元に戻らなくなってしまった、たぶんそうなるだろと思って、ほどく前の写真を撮っておいたのけれど、諦めた。

桐箱の紐の結び目をほどく、躊躇したのだけれど、中身が見たい衝動を抑え切れず、紐の折り目のクセを頼りに、試行錯誤、その折り目の向きだと、いや反対になる、輪にならない、何をしてるのかと、紐と戯れただけの時間だった。

目がショボショボとしてきたので、立って歩きながら、難しい本は難しいことが難しく書いてあるから、座って読んでいると、眠くなるから、動きながら、運動しながら読むことにしていて、リビングの中をグルグル、ぐるぐる、決して外では危なくて難しい本は読めない体質になってしまった。

ただ、難しい本が助かるのは、案外、論文チックに、起承転結がはっきりしているから、結論がすぐにどこに書いてあるかがわかる、だから、そこしか読まないのだが、眠くて眠くて、さすがに歩きながらは寝ないので、言葉がわからなくても、参照文献を知らなくても、どんどん読み進めると、突然、視界がひらける、パキッと目が覚める、モヤモヤした謎がほどけた瞬間、その難しい本を開いてよかったと思う。

ほどけたものは、また結ぶ必要が無いので、そのままにして、また次の本を読み進める、その喜びや面白さは格別だが、結びが難しい姿は案外美しくて、手が届かない存在として、そのままにしておくのも良かったかもしれない。

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"Knot"

Once I had unwound it, I couldn't get it back. I thought it would be so, I took a picture of it before, but I gave up.

The knot of the paulownia box was untied and hesitated, but the impulse that the contents wanted to see could not be suppressed, relying on the habit of the fold of the string, trial and error, the direction of the fold would be the opposite, It was just time I had fun playing with the strings and what I was doing.

Since my eyes have been changed, it is difficult to read difficult books while standing and walking, so when I sit and read, I get sleepy, so I decided to read while exercising while moving, in the living room The book has become a constitution that can never read books that are dangerous and difficult outside.

However, the difficult book is saved, unexpectedly, because the paper tic is clear, the settlement is clear, so you can see where the conclusion is written immediately, so you can only read there, but it is sleepy and sleepy, as expected Even if you do not sleep while walking, even if you do not understand the language, even if you do not know the reference literature, as you read more and more, suddenly the view opens, suddenly wakes up, the moment when the mysterious mystery has unraveled, it is difficult I'm glad I opened the book.

There is no need to tie the unraveled thing again, so continue reading the next book, its joy and fun are exceptional, but the figure that is difficult to tie is unexpectedly beautiful and unreachable It may have been good to leave.

無農薬の

静かにしていられない、立ち止まっていられない、動きたくて動きたくて仕方がない、カッカする、身体がアツイ、じっとしていられない。

無農薬のにんにくをいただいたのでペペロンチーノを作りつつ、にんにくのオリーブオイル漬けをつくりつつ、ひとかけら、ほんのひとかけらを口に含んで噛む、なんてことはない身体は正直だな、汗が止まらない、エアコンの風を浴びていても汗、汗、汗。

聞いた話によると、にんにくは生のままだとカビやすく、農薬の溜まりにポトンするらしい市販の物は、だから、いただいた無農薬のにんにくも乾燥をさせてあるらしいのだが、普段にんにくを食べも何ともないのに、それを使ったペペロンチーノは絶品、自分で言うのも何だけど、だから余計、汗が、汗が、汗が。

いや動きたくて動きたくて、じっとしていられないのは建築で慣れているのだけれども、普通、建築はじっとして見るものだと思われているけど、違うのですよ建築は動いて見るもの、動いて止まり、また動く、ストップアンドゴー、で、適当な所でとぐろを巻く、動かずにはいられないパワーをくれるもの、建築家は結構そういう想像をしながら設計している。さながら無農薬のにんにくですな、無農薬のにんにくをつくって食べた人をじっとしていられないようにする。

市販のにんにくは、よく見る建築は、何てことはない、じっとしていられるのですよ。

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"Pesticide-free"

I can't keep quiet, I can't stop, I want to move and I can't help it, I can't help it, I can't stay still.

I received pesticide-free garlic, so I made peperoncino, made garlic soaked in olive oil, chewed with a single piece, just a single piece in my mouth, my body is honest, sweat doesn't stop, Sweat, sweat, sweat even in the wind of an air conditioner.

According to the story I heard, garlic is easy to mold when it is raw, and it seems that the pesticide-free garlic is dried, so I usually eat garlic. Even though there is nothing, Peperoncino using it is exquisite, what you say by yourself, so extra sweat, sweat, sweat.

I'm used to architecture because I want to move and want to move, but I'm accustomed to architecture, but it is usually thought that architecture is something to see, but it's different. Architects are imagining things like things that move, stop, move, stop and go, wind up the appropriate places, and give you the power you can't move. It 's like pesticide-free garlic, so make sure you ca n't keep people who ate and eat pesticide-free garlic.

On the market garlic, the architecture you often look at is nothing but still standing still.

片付けしない

掃除するのは苦手ではないけれど、片付けるのは苦手かもしれない。掃除は回数を重ねれば、やることは同じになってくるから、大した労力も使わないように、パターン化していて、時間も読めるし、やらないとホコリが溜まるし、汚れるから、ルーティン化してやれば良いだけだが、片付けの基本は元に戻すこと、だから、元に戻すのは掃除と一緒にやるから良いのだが、そもそも元に戻しても、なんか片付いたように感じない。

設計打合せで必ずと言って良いほど、話題に上がるのは収納のこと、収納を多くして欲しいという人に限って、なぜか、部屋を広くして欲しいと矛盾したことを言う。

そもそも収納や部屋の広さが一番重要になることは無く、どういう考え方で設計したかを提案して、そこで収納や部屋の広さの話になるので、ちょっとでも多く広くという人に対しては、何をどこにどれ位収納するのか、1日の行動パターンから活動範囲がどれ位か、など事細かに聴き、大概、必要十分な量と広さを確保でき、尚かつ、そこにピタリと納まるようになる。

今住んでいる所はリノベーションした家だが、収納に関しては元からあった物を再利用して、それでは足りない場合も考えて増やした。さらに、移り住む前に使っていた収納家具と移り住んでから購入した収納家具も置けるようにして、収納が結構たくさんある。

もちろん、何をどこにどれ位収納するかを一応考えたが、確かに、そこに全て納まるのだが、そもそも、片付けるのが苦手なのに、片付けるための収納が多過ぎた。

片付けるのが苦手だから、収納を増やせば、何とかなる、隠せるし、部屋の広さを犠牲にしてでも、収納を多く取れば、その分、部屋はすっきりするだろうが間違いだった。

かえって片付ける手間が増えることになる。いくら見えないからと言って、片付けして整理整頓しておかないと、いざ使う時に探したりして時間がかかり、そうならないためには片付けをしなくてはならず、収納が多いと、片付けがさらに多くなり、それが苦手なのだから、元も子もない。

本来は片付けを一度もしないで済むのが理想なので、収納が無ければ、片付けなくて済む、ならば、収納を全部無くそう、収納が無くても生活できるようにしよう、でも、捨てる物などはじめから無い、全部大事、ならば、収納を極力使わないようにして、物を出して飾ろう、飾ってある物を掃除するのは苦手ではないから、飾れない物だけ収納して、それで片付けしない。

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"Do not clean up"

I'm not good at cleaning, but I'm not good at cleaning up. If you do a lot of cleaning, the work will be the same, so you do not use much effort, it is patterned, you can read the time, otherwise dust will accumulate and it will become dirty, so it will be a routine It's all you need to do, but the basics of tidying up is to restore it, so it's good to do it with cleaning, but even if you put it back to the original, it doesn't feel like it was tidy up.

The only thing that can be said in a design meeting is that storage is the only topic of discussion, and only people who want more storage say that they contradicted that they wanted a larger room.

In the first place, storage and the size of the room are not the most important, so we suggest what kind of idea you designed and then talk about the size of the storage and room, so for those who are a little larger Can listen to details such as what is stored where and how much, the range of activities from the daily behavior pattern, and in general, it can secure the necessary and sufficient amount and space, but it fits in there It becomes like this.

The place where I live now is a renovated house, but with regard to storage, I reused the original thing and increased it considering that it was not enough. In addition, there is quite a lot of storage so that the storage furniture used before moving and the storage furniture purchased after moving can also be placed.

Of course, I thought about where and how much to store, but it certainly fits in there, but in the first place I was not good at cleaning up, but there was too much storage for cleaning up.

It's not easy to get rid of, so if you add more storage, you can manage to hide it. Even if you sacrifice the space of the room, if you take a lot of storage, the room will be cleaner.

On the other hand, the time and effort to clear up will increase. Just because you can't see it, if you don't clean it up and keep it organized, it takes time to search for it when you use it. If you don't, you have to clean it up. Since there are more and it is not good at it, there is neither a former nor a child.

Originally, it is ideal that you do not need to clean up, so if you do not have storage, you do not need to clean up, so if you do not have all storage, you can live without storage, but things to throw away etc. If everything is important, if you don't use the storage as much as possible, let's put out and decorate things, and it's not a good idea to clean the things that are decorated, so store only the things you can't decorate and don't put away .

独り言

結構家にいると独り言を言っていて、それを自覚している、というか、誰かと想定の会話をしていて、それは側から見たらアブナイ人かも、今は亡き猫とは、まだ生きていた時も、亡くなってからも話し掛けているから、ほんとヤバイ人かも、もちろん、外では声に出して言わないが、 頭の中では常に何か会話をしているかもしれない。

昔、大学生の頃、友達と旅行をしていて、一緒に泊まった時に、シャワーを浴びて出てきたら大笑いされたことがあり、どうもずっとシャワーを浴びながら何かをしゃべっていたらしく、誰かが他にいるように、その時、確か手紙を出そうとして、その文面を考えいて、その文面を唱えていた。

今考えていることを、独りでいる時に、家や車の中では、普通に声に出してしゃべっていて、想定問答をしたり、自分で自分に向かって実況中継したり、例えば、計画中の建築のコンセプトをクライアントに伝えるという設定で、その場面を一人二役で演じて、コンセプトの良し悪しを考えたり、ダメ出ししたり、読んだ本の内容を自分で自分に向かって討論したり、自分なりの勝手な解釈で解説したり、別にもっと他のことでも、些細なことでも声に出してしゃべっている。

良く言えば、自分なりに腑に落ちやすいように、自分の言葉に変換して、それを頭だけでなく、口と耳を使って、自分のものにしようとしている、悪く言えば、いつまでも頭が切り替わらずに、ずっと頭に留めておくから、黙っていられずに、何かしゃべって外に出さないと、頭がパンクする寸前とも。

ただ、そうやって独り言を言って、口と耳と頭が連動した場合の事は結構記憶に残っていて、また、そういう状況が来て、独り言の通りにしゃべる事は結構ある。

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"Solo Word"

I'm telling myself that I'm quite at home, and I'm aware of it, or I'm talking to someone and it's an Abnai from the side, but now the dead cat is still alive I'm talking to him even when he died, so he's really a bad guy. Of course, he doesn't say aloud outside, but he might always have a conversation in his head.

When I was a college student, I used to travel with friends, stayed together, and when I came out taking a shower, I was laughed out. At that time, he was surely trying to write a letter, thinking about the text, and chanting the text.

When you are alone, when you are alone, at home or in the car, you are speaking out normally, answering assumptions, relaying yourself to yourself, for example, planning In a setting to convey the architectural concept of the client to the client, play the scene in one and two roles, think about the quality of the concept, put out a bad idea, discuss the contents of the book you read to yourself , I explain it with my own interpretation, and speak aloud other things and even minor things.

In other words, I am trying to convert it into my own words so that I can easily fall into the trap and make it my own not only with my head but also with my mouth and ears. I will keep it in my head without switching, so I can't be silent, just talk and do not go out, just before my head punctures.

However, if you speak to yourself and the mouth, ears, and head work together, you still have a lot of memories, and it is quite possible that such a situation will come and you will speak as you say.