見るは見られるだよ

着ている服が変わっただけで、たとえば安もののスーツでも、ふだん着ていない人が着るとよく見えたり、別人に見えたりする。中身が変わったわけではないけれど、中身まで別人のようで、案外本人も知らないうちにふるまいが変わる。そう自分もはじめて着物を着たときにそれを感じた、それは別の自分の発見にもなった。だから、たまにいつもとはちがうことを、それも他人から言われた方がいいかもしれない、自分の思いつきだとまた同じになるから。

ある時、前につくった住宅の屋根にあがるときがあった。たしかクライアントから何かを見てほしいとたのまれてのことだった。その住宅にはトップライトがあり、2階の床がガラス張りだから1階まで屋根から見える。トップライトの真下はダイニングテーブル、テーブルの上にはいろいろなものが置かれ、人が座ったり立ったり動いているのが見えた。いつもとはちがう見え方、日常では見ることができない風景、四角いトップライトが切り取るある家族の日常を記録映像風に見ているようだった。

設計しているときにはこのイメージはなく、むしろダイニングテーブルから見上げる空のイメージしかなかった。他からトップライト越しに室内を覗かれることはないので、見ることだけで見られることは考えていなかった。

ただ、この風景を見てからトップライト越しに見上げる空が身近に感じるようになった。うまくは言えないけど、一方通行の関係が双方向になったような。どんな風景でもこちらも見られていると思うと見せ方は変わるだろう。ならば見られることを身近に親近感を持って感じた方がいい。そうして生まれた別視点が新たなもの、例えば新たな自分、新たな暮らし、新たな空間を生みだすかもしれない。

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ものは試しに、飽きたらそれで

昔のツァイスレンズをデジタルで使いたくてカメラを手に入れた。ものは久しぶり、最近は形がないものに、と思ったら最近マグカップが増えた、毎朝のコーヒーのために。ツァイスレンズは15年くらい前に手に入れたもの、ずっと防湿庫に閉じこもっていたけれど、最近写したいものができたので防湿庫の鍵を開けることにした。せっかくカメラを手に入れても飽きたらどうしようとも思ったが、それならば飽きたという経験ができるからいいかなと。

時々、自分ではやらないが面白そうなオーダーを受ける。前につくった住宅ではすべり台がほしいという。ずっとマンション暮らしだったから、2階建ての住宅に住んだことがなく、階段の上り下りが面倒くさい、だからすべり台とのこと。

そもそも広い住宅ではないから、すべり台のスペースがもったいないし、たぶんまちがいなく飽きると思ったので、クライアントに正直にやめた方がいいと言って思った、見方をかえれば、下りの時は1階と2階の区別はなくなり1階と2階はつながる。

結果この住宅は、そもそも2階にある個室に壁がなく戸で仕切るだけ、1階はワンルームのキッチン、ダイニング、リビングだったので、2階からみれば全てがつながって感じられ、逆に1階からみれば階段があることでちがいが出て壁がない2階のプライベート感が増し、個室に壁がないことがよりよくなる。

試しにやってみて飽きたらその時考えればいいかな、いくらでもやりようはある。飽きたらすべり台に下から本を並べれば、階段が図書室に、積読にはもってこい、読みたいところに座ればいい。

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甘い誘惑にみたされて

空気を感じる、というと何か人間関係や場の雰囲気など目に見えないものをわかることを指すけれど、それを建築に当てはめてみることもできそうな。

建物があると人がいて、その建物と人との間には空気が充満している。空気は見えないけれど、もし空気に色をつけるならば、建物の外の空気と中の空気はちがう気がする。

その中の空気のことをボリュームといえば、ちょっとふわふわなやわらかい透明なマシュマロを思わず想像してしまう。人のまわりにある透明なふわふわマシュマロをどのようにあつかえばいいか。壁を建てないと流れ出てしまうが、壁の建て方によってはふわふわマシュマロでもみたされない場所ができそうな、きっとそういう所は人がいなくてもいい場所か、ひとりになれる場所になるのかな。

空気とすると冷たい空気、温かい空気などそれはそれでなんか良し悪しがあって窮屈だが、マシュマロだと思えばなんか笑えてくる、甘そうで、甘いものに弱いから誘惑されそう。日曜だからとぼんやり妄想してみたら、案外ヒントになったりして。

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キョリを感じるとき

キョリという言葉をすぐとなりの人にも、実際にはすぐとなりだから離れていないのに「心の距離がある」などとつかう。キョリというものは実際に目に見えること以上に多様な使われ方をする。

建築においてキョリは図面上の表現になる。その表現にさまざまな意図をのせるが、その意図はキョリと密接に関係しながら、読み取らないとすぐにはわからないときも多い。

例えば、壁を間に建てればお互いに遮断しているとわかるが、壁を建てたくないときは、間を離してキョリを取る。壁があれば目で見て遮断はわかるが、キョリを取ったときは他のものとのつながりも同時に見ないと遮断してるのか、つながりは保とうしているのか、どちらなのかがすぐにはわからない。表現がより複雑になる。

前につくった住宅で個室の壁を無くした。そのかわりに引戸で仕切り、個室状の空間を数珠つなぎにつなげた。各個室状の空間は大きさが微妙にちがう。誰がどの空間を使うかは大きさとお互いの離れ、すなわちキョリで決める。別に固定する必要もない。家族の成長に合わせてキョリも調整すれば良い。キョリの多様な使われ方を利用してみた。

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となりに緑がほしい

緑に包まれたい、ただ見るだけでなく緑に抱かれるような感じで過ごしたい。緑の多い場所、山や森や林に行きたい時はきっとそう思うのでは、私はそう思う。ただ見るだけならば、ちょっと緑の多い場所、都市のちょっと大きな公園などでも、それではもの足りないから自分のとなりに緑があるくらいの近さがほしい。そうすると、自分と緑との間にどのくらいの空間があるといいのかなどと思ってしまう。

自分は建築の中にいるとしたら、建築と緑との間にどのくらいの空間があるのがいいのか。建築の中に緑があったとしても自分との間に空間はできる。ようするに緑との接近度、親密度を間にある空間の大きさ具合ではかろうということ。

緑は自然、建築は人工、自然と人工の対立は昔からある話で、くっきり分けるのではなく自然と人工を混ぜたような状態も考えられるが、いずれにせよそこには人がいて、人は本来自然の方のはずだが、人と自然という対立になる。そうするとややこしくなるので、間にある空間を扱って人と自然をどのようにつなげるかをめぐらしてみると、案外単純な話にならないかな。

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じゃまなら合わせるのは

家を建てると皆んな緑を置きたくなる。プランターを外に置く人、家の中に置く人、大小いろいろだけど何かしら緑を増やす。それを勝手に自然の中で暮らしていた名残りではないだろうかと思ってる。

人間は大昔自然の中にいて最小限の自分を囲う小屋や巣のような場所で暮らしていた。それは身を守るため、ほかの大部分は自然だった。それがいまでは逆転し大部分が自然ではない人工のものになった。それで大昔のような危険はなくなり身を守る必要はなくなったが、今度はあまりにも自然がなくなりすぎて、それでは身が休まらないと本能的に感じているのかもしれない。人工のもの、すなわち建築がわるいという訳ではないが、人間という生物が生きて行くには自然と人工のバランスがあり、都市部ではバランスがわるいということだろう。

敷地の中に10本の木を植えようと計画している。なぜ10本かは10家族が暮らす予定だから、ひと家族1本、それによって暮らしにいつも木をまとわせる。だから、建築もはじめから木をまとうので、木のまとわせ方が建築を決めていく。それは木の方から建築をみることになるので、建築がじゃまならば建築が木に合わせることになる。

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ひとりになれたね

なんか大変そうだな、はじめての打合せで感じたことを貴重なヒントだと思って気にとめてみた。これから建物をつくろう、住宅を建てようとする人はどこかいつも勇ましくみえる。新しいことをするとき、思い切るとき、ちがったことをするとき不安をかき消すためにちょっと背伸びしたくなる、そのぶん見栄えがよくなるのかな。

ときに住宅だと家族のつながり具合がプランに影響を与えるときがある。余程ちがいを感じないかぎりはそのようなことはしないが、できれば感じたことをうまく建築的な要素として取り込み、ちょっと他にはないものを提案したい。

先ほどの「なんか大変そうだな」は以前につくった住宅のご主人、こちらまで息がつまりそうな気になった。プレッシャーを抱え込む感じ、それだけ家族を大事にしようと。初回の提案からひとつの住宅の中に離れをつくった。簡単に言えば外部であるバルコニーを通ってしか行けない部屋。ただし、その部屋は内向きに窓があり開けるとリビングからもお互いの存在がわかる。ご主人がひとりになれて好きなときに家族とつながることができる、ご主人しだいのご主人だけの場所。

昔から部屋の並びには序列があり、一番奥の部屋ほどプライベートで閉鎖的につくられていて重要な場所だとされてきた。その序列はときに有効だが、ときに住宅の規模くらいの建築だと序列を誘導し助長してしまう。ワンルームにして序列を全くなくしてしまうこともできるが、奥の場所と手前の場所につながりをつくり出すことができれば、部屋の並びは残しつつ序列は排除できる。この方がより建築としては望ましい方へ行けるだろう。

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たまたま屋上だった

高所恐怖症なのに高いところが好き、高層ビルでも屋内ならどれだけ高くても平気、むしろ行きたくなるのに、生身の身体がさらされているところは2階くらいの高さでも怖いから足場の上にはできるだけ行きたくないのに。ただ不思議なことにいまはないWTCの屋上は外に出れたが怖くなかった。あそこまで高いと地上から離れすぎているからかな。

2階くらいの高さでも屋上は貴重な外とつながる場所だと思い計画することがある。建設中何度も見に行くので慣れれば怖くない、むしろ地上とはちがう楽しみを発見する。見渡すと案外上空をうまく使っていない家ばかりなので、地上の庭よりプライバシーが守られて広大な空に近いから解放感があり快適な場所になる。

ただ、だんだんと使わなくなるときく。たぶんそれは屋上というスペースをとってあるだけだから、とくに使わなくてもいいから。強制的に使わせようとしてもダメだが、ないと困るというか、あるから良いとなるような工夫が必要。

前につくった家では屋上で遊ぶ姿が直下のリビングから見えるようにした。人が集まることができる場所、戯れる場所を分散することで家中いたるところがリビングのようになる。たまたま屋上が外のリビングになればいい。きっとこの「たまたま」な感覚が大事で強制はされないがあれば楽しめる場所になる。

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上を見上げてごらん

曇り空がきらい、雨の日は雨音が癒やしてくれるのでまだいいけれど、朝起きて晴れているだけで一日中気分がよく、特にいまの季節の秋晴れは気候もいいので窓を開け放して過ごしたくなってしまう。

いま住んでいる家は築50年、10年前くらいにある住宅メーカーが建てた家を購入し手を入れた。道路から奥まりまわりは建物に囲まれて1階にあったキッチンとリビングは日当たりが悪かったので、1階と2階の部屋を逆転して、キッチンとリビングを2階にした。おかげで晴れの日は一日中陽が適度にあたるのでずっと快適に過ごしていられる。

まわりを建物に囲まれることは住宅地以外でも、例えば商店街などは道路側以外はとなりの建物が接近している。そういう場合でも上階にはオーナーが住む場合があり、時には住宅地よりも日当たりが悪い。

日当たりが悪いことを別の言い方で「眺望が悪い」「閉鎖的」とも言えると思う。南側に窓がなくても他の方位に窓があればあまり日当たりが悪いとは思わないだろう。だから一番避けたいことは眺望がなく閉鎖的であること。

空は地上の事情とは関係なしに平等な存在。そんな空とつなげることが眺望を得て開放的になれ、そして、いまいる地上の状況を相対的に良くしてくれる。上を見上げれば良こともある。

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小さいから魅力的

小さいものが時に魅力的で、その魅力はどこからくるのだろうか。1995年に新車で購入したミニクーパーにまだ乗っている。その小ささが特徴的ではじめて生産された時の技術は素晴らしいものだったらしい。

今でも変わらず新鮮なままの体験が運転している時の感覚で、この感覚が実に楽しい。きっとそれは小ささに由来しているのではないか。小さい車体にエンジンやギアボックスなどを収めるために様々な工夫をし無駄な物を排除しているから、実に運転感覚がシンプルでアナログ。なかなかアナログな道具が減ってきている時に私にとっては貴重なストレス解消アイテムだ。

小さい住宅はいくつかつくった。あまり大小にこだわりはないが、小さい住宅の方が工夫しがいがあるから結果的に楽しい設計になる。室内では何かの存在自体を根本から見直ししないと入り切らないから、新しいことを考えるきっかけにもなる。

それは屋外でも同じで、小さい住宅というのはそもそも敷地も小さいので、余すところなく土地を使い切りたい。以前つくった住宅では敷地境界線までの距離を少し余計にとり、建物の周り四周に敷地境界線までウッドデッキを敷いた。普通に建てると敷地境界線と建物との間に普段使われることがない場所ができてしまう。その場所を室内と連続させることにより、小さい住宅の室内を少しでも広く感じさせることができた。

結果的に小さい住宅の方が敷地全体を余すところなく使い切ることになった。それは小ささに由来している。小さいということを積極的に捉えると大きいものでは獲得できない魅力に出会える。

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