枠の中にいる

決められた枠の中だけでかんがえていると、その枠の中がすべてだとおもってしまう。そういうときは枠自体を意識できていないので、必ず何かしらの枠の中にはいるとおもえれば、枠の外に目を向けることができる。

枠の外には、今まで実行できていないことが広がっているかもしれない。そうかんがえれば、枠を設定したら窮屈かもしれないと躊躇しなくなるだろう。

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イメージか言葉か

イメージと言葉が別々に出てくる。イメージは今まで見聞きしたものの延長でしか出てこないと思う。一方、言葉も単体では今まで見聞きしたものの延長でしか出てこないかもしれないが、いろいろ組み合わせたり、組み合わせた言葉をヒントに他の言葉をまた生み出すことができるように思う。

では、イメージも組み合わせやヒントにして、他のイメージを生み出せるのか。こうして文章にすると、生み出せそうな気がするが、実際は言葉より難しいような気がする。それだけイメージが持つ力が言葉より強いのかもしれない。やはり、最終的にはどのようなイメージを築けるかが重要になるのだろう。

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偶然とつながりの枠の外

いくつか同時にモノがあるときに、どうしてそこにあるのかを考えてみることに興味が湧く。偶然といえば、そうなので、今度は偶然性に興味が湧く。九鬼周造の『偶然性の問題』をポチッとしてみた。

あと、同時にいくつかあるということは、ひとつひとつが周りから独立している。独立していることは、別の見方をすれば、つながりが切断している、ともいえる。やはり、オブジェクト指向存在論が頭に思い浮かぶ。

偶然性と切断、この2つをつなげる何かを考えたら、面白そうな展開がありそうで、ただ、誰かがすでに考えているだろうから、もう少し枠を狭めて、限定した中で考えてみる。そうすると、その枠から外れたモノも取り込めるようなコトをしてみたくなる。

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不公平なくらいに

すべてのモノを等価に扱うことで、全体像を余すところなく浮かび上らせようとすることは、とても平等で、誰にでもわかりやすく、誰にでも受け入れやすいモノがつくれるような気がした。モノを受けとる側にもいろいろな感じ方や知性があるので、何かを重用すると、受け取れない人が出てくるかもしれない。

ただ、それとつくらたモノの良し悪しは別のような気がする。すべてのモノを等価に扱っていては、ちがいはモノの差異だけになり、扱うモノそのものを取捨選択する必要がなくなり、モノ全体のクオリティが下がるとおもう。むしろ、扱うモノは不公平なくらいに厳選し、それでもどれだけ多くの人が受け取れるかを考えた方がおもしろいそうだ。

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塊でバラバラ

ひとつの塊であり、かつ、バラバラでもある。そのようなことがあり得るとしたら、理想的な関係かもしれない。例えば、社会として全体性がありながら、個人がバラバラに存在しイキイキとしているようなことになる。

ひとつの塊は、形としての塊もあるが、関係性としての塊もある。どちらかというと、関係性としての塊が構築できれば、バラバラも同時に成り立つことは可能のような気がする。

関係性としてひとつになるには、お互いに越境しうるような部分を持ちながら、ただ、バラバラでもいられるには、絶対に交わらない部分も必要になる。バラバラであることは、この絶対に交わらない部分のつくり方しだいで決まるとおもう。

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小さな集まり方から

大きな塊を小さなものに分割することと、小さなものを集めて大きな塊にすることは、両方とも、大きな塊が存在するが、その様はきっと同じにはならないだろう。

大きな塊を分割する場合は、全体的なルールが必要になる。最初に総量が決まっているから、ちょうど良く分割できるようにルールをつくるだろう。

一方、小さなものははじめから存在しているので、ちょうど良く集めて塊にするために、小さなもの同士の集まり方にルールをつくるだろう。

前者は建築ではよくあるパターンで、後者は建築ではなかなか採用しない。建築では大きな塊から小さい物へいく流れで設計される。小さなもの同士の集まり方から設計しても面白いかもしれない。

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つながりが生む

つながり自体が新たなに生まれるには3通りある。つながり自体をつくる、つながり自体を選ぶ、そして、元々あるつながりを変える。この中で、一番容易そうなものから手をつけてみる。それは、元々あるつながりを変える、だろう。

一番容易そうなものから手をつけるのは、容易だから短時間で量をこなすことができ、量をこなせば、つながり自体をつくる、選ぶ場合の結果も必然的に含むことになるだろうから、と考えた。

元々あるつながりをその場に合わせて変えていく。その過程で新たなつながりが生まれる。生まれたつながりは新旧のハイブリッドで、他では生まれないものになる可能性は高い。

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失敗をつくる

意図的にやると、やり過ぎて失敗するときがある。そういうときは、そもそも意図的にやるのが失敗のもとだったりする。ではと、そのときに学び、意図的さを排除するためにはどうするかと次に考える、普通は。

もしかしたら、失敗することを避けること自体が失敗のもとだったりしないだろうか。禅問答のようだが、やり過ぎて失敗した様は、そこだけ見れば、もとの意図をすでに反映していない。失敗した後のものには意図的さが消え、違うものに見えていないだろうか。その違うものは最初に目指したものではないが、最初の意図の別バージョンではないだろうか。ならば、失敗は新しいものを生成する要素として、避けるのではなく、つくるものではないだろうか。

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失敗の山

自然な様はつくり出すことができるだろうか、という問いには何と答えるか。自然の様は自然そのものではないから、意図的に人工的につくり出すことはできるだろう、と言葉上はそういう回答になるかもしれない。

ただし、実際に意図的に人工的につくり出したものが自然の様に見えるかどうかはわからない。どこかでやはり意図的で人工的だと思ってしまったら、自然の様ではない。結局、自然な様も何もしないで放ったらかしにすることでしか、つくり出すことができないのかもしれない。ならば、自然そのものと同じではないか、となる。

だから、自然そのものの生成過程を真似て、その生成過程を意図的に人工的につくり出し、あとは何もしないで放ったらかしにする。そうしたら、やがて自然の様になる。

時はかかるものである。でも、時はかけれないから失敗する。そして、同じ失敗をたくさん繰り返す。その失敗の山はもしかしたら、自然の山に近い見え方を一瞬するかもしれない。

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誰も注目しないところ

同じ場所、土地でもどこに注目するかは人によるが、大体似たようなところを見ている。やはり、ハレの部分というか、設計で扱いやすい部分を自然に選んでいる。そこを扱えば大多数の人を説得しやすいし、納得させやすい。事業上、仕事にして最終の形にしたいので必然的にそうなるのだろう。

だから、可能性を求めるならば、誰も注目しないところに目を向けてみる。圧倒的にそちらの方が量は多い。たしかに、大部分はすぐには設計の中で扱えないものばかりである。しかし、そこで建築として扱えるように見出すことが、設計すること、だといえなくもない。

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