おなじがイヤだったときづく

あぁ、あとから、きづくことって、じぶんでは、なぜだか、理解できていなかったけど、ほかのことをしてるときに、たとえば、つぎのプロジェクト、たとえば、本をよんでいるとき、ふと、うかぶ。いったん、あたまからだして、それをカタチにして、ながめてみたから、きっと、きづくことになった。もし、カタチにしてなかったら、えいえんに、きづかない。

はじめから、そうしようと、してなかった。時間差があったから、ひとつつくって、また、つぎどうするか、だった。だから、この2棟の住宅に、共通点はない。しいていえば、外壁をおなじにしたくらい。ただ、ゆいいつ、玄関だけはむかいあわせ、にすることだけは、決めて、あいだに、通路をそうていした。あとは、まったく、共通点はいらないと。

そうしないと、おなじような住宅がならぶ、ふしぎな風景をつくってしまう。けっきょく、そのときは、きづかなかったけど、あとからおもう、おなじようなものにしたくない、ことをしたかったと。

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かさなるから、うまれた

つながり方には、4種類、せっするか、かさなるか、はなれてるか、ズレているか、がある。つながる、ということだから、最低、2つのものがある。4種類のうち、ただひとつだけ、かさなるだけが、同時に、あらたなものを生成する可能性がある。かさなった部分が、あらたなものになる可能性。ぎゃくに、かさなりからみれば、そこから2つのものが、生成される、ともいえる。

だから、2つのものの、つながり方をかんがえるより、かさなる部分をさきに、かんがえることで、2つのもの、さらには、ぜんたいの構成がみえてくる、とおもった。

それを、いまのプロジェクトにいかしながら、同時に、かこのプロジェクトを再解釈してみる。そうすると、じぶんのなかで、たくさんの、かさなる部分が、うまれた。

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時間にカラダココロをつかう

カラダとココロが、ばらばらに、気分はいいけど、カラダがつかれてるな、そのぎゃくも、ただ、つい、カラダとココロをべつに、してしまうが、行動に、ちゅうもくすると、カラダもココロもひとつ、行動してるか、してないか、じぶんからうごくか、いわれてうごくか、だけのような気がする。

きっと、行動してるとき、ふぐざつなバランスのなかで、けっか的に、うまくいくように、するだろう。だから、じぶんからうごこうとすれば、けっか的に、そのとき、いちばんいいものになる。ならば、時間をみかたにして、じぶんからうごくことに、たくさんの時間を、かけることができるじょうきょうを、つくりたいものだ。

そんなことをかんがえながら、手をうごしていると、ふくざつなからみあいが、解けて、視界がクリアになった。やっと、まとまりそうだ。おいしいものでもたべて、またあした。

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偶然そうなっただけ、だから

いま、みているものは、きっと、1年後には、ない。いま、みているものは、いま、このときにあわせて、偶然そうなっただけ、かりに、1年前に、いま、みているものを、予測できても、いま、このときにあわせて、用意はできないだろうから、1年後にも、ないだろう。あたり前のことだけど、この偶然そうなっただけ、ということが大事だと、おもった。

偶然そうなっただけ、ならば、たまたま、そうなっただけで、ちがうものになる、可能性もあった。ならば、いま、みているものが、いつまでも同じ、でいる保障もなく、ちがうものに、いつかまた変化するかもしれない。

そう、だから、なにをつくっても、同じでいつづけることは、ないだろうから、絶対なものはないはず。すべては、変化する、ということになるが、そうすると、なにをつくっても、同じ、いみが無い、となりそうだが、なにをつくっても、変化する、という運動に、ちゃくもくすると、ものをつくることって、この運動を、かそくさせることで、そのときの燃料は、言葉、すなわち、いま、みているものが、偶然だと、絶対ではないと、わからせること、だとおもった。

だから、いまつくっているものは、時間の流れが、運動として、仕込まれていて、燃料となる言葉は、プランとかたちに変換して、はいちしている。

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放りこまれた言葉がつくるもの

うまくできそうだと、おもうのは、カンだけど、そのカンは、いままでの経験から、くるのかな。ただ、経験では、たどりつかない、ようなことが、おこるほうが、おもしろい、ともおもう。だから、経験はあてにはならない、とおもうほうが、おもしろいかもしれない。

経験が、あてにはならない、としたら、どうするか。てきとうに、言葉を、放りこむしかない。それは、思いつくかぎりの、言葉をだし、ならべ、かたっぱしから、ためす。ためした結果は、経験をこえるだろう、とおもえた。

さらにいえば、思いつくかぎりの、言葉をだしたときに、すでに、経験からくるカンは、ふ必要で、むいみになる。その言葉におうじたことが、現実に、てんかいされる、のだから、カンをあてにして、うまくいくかいかないか、をかんがえる、必要がない。

この住宅では、そもそも、経験したことがない、ことばかりした。だから、それをするためには、思いつくかぎりの、必要な言葉をだし、ならべ、ためす、ための素をつくった。素は、ときには図面、ときには素材、ときには職人、ときには感情だった。

けっか、経験したことがないから、うまくやる、こともできなかったが、言葉からつくった素、がおもしろさと、完成度を、たんぽしてくれた。

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ヨコヤリしてみた

みたいように、みているから、好きなようにみえる、こうみたいと、話しかけているように。でも、そこに、誰かが、こうだよ、これはどう、これがいいんじゃない、とか、ヨコヤリをいれる。ヨコヤリは、みたことがない、そうはみえなかった世界だった。そのとたん、いままで、みてみたい、とおもっていたものが、かわる、そっちのほうが、よかったと。

きっと、これが、りそうかな、とおもう、なにかをつくるときは。じぶんがヨコヤリのそんざいでいたい。

この住宅は、ヨコヤリをしてみた。リビングのまんなかに、まるみえの階段、その階段が、リビングを、3つのゾーンにわけて、空間はつながりながら、回遊でき、みんなすき勝手に、すごしている。それが2階からも、わかる。この空間のおかげで、なにかと、かおをあわせる、ようもないのに、話したくなる。空間が、なにをしたらいいのか、おしえてくれた。

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サボって、はかどった

サボり、っていけないこと、だけど、サボるときは、だいだい、大事なことを、しているときだから、ぎゃくに、大事なことがわかる。べつに、大したことをしてないときは、サボりにならないし。

大事なことは、変化につながること、だから、ひとは、変化がきらい、だから、サボる。ならば、サボるときにすることを、べつの大事なこと、にすれば、べつの大事なことは、おおいにはかどった。

そんなちょうしで、この住宅では、サボれる場所を、たくさん、つくって、あちこちで、サボれるようにした。

サボって、大事なことをする、って、うしろめたさ、とヤッた感が、ダブルでくるから、甘塩っぱいものを、食べてる感、けっこう、クセになるかも、おいしいかも。

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どこまで決めないで、いられるか

なにかと、あいまいにしたい、のだが、建築の境界の話、なかなか、それがゆるされないから、なやむことも多い。いろいろな境界が、建築には、あるけれど、壁もそのひとつ。境界として、外壁をみれば、いくらでも、あいまいにはできるけれど、たとえば、うごくようにするとか、壁を厚くして、外でも内でもない場所をつくるとか、ただしかし、きちっと、境界はきめなくては、いけない。それによって、法令順守と事業担保がはかられる。それはあたり前に大事なこと。

そのうえで、境界をあいまいにしたいのは、ものごとは、揺れうごくでしょ、そんなに、キチッとしてないでしょ、それは建築もおなじ、バッファーゾーンのようなものがあり、そのあいだだったら、揺れうごいてもいい、とすると、建築の決めかたも、できあがる建築も、かわるだろう。あたり前である、前提がかわるのだから、などと妄想してみて、バッファーゾーンがあると、いいなとおもう。

なにかと決まっていることがおおいので、なるべく、決まっていることはせず、そうすると、決まっていることがあいまいになり、そのまま、あいまいなまま、決まらないかな、そんなことはないのに。でも、この住宅は、クライアントに理解があって、あいまいのまま、けっこうギリギリまで、すすめて、アドリブもおおかった。それがよいか、わるいか、は別にして、決めるということを、見直す、キッカケにはなった。

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レンチンものづくり

行きつけの呑み屋、をつくったり、いつも同じものを、かったりたべたり、かならず通る場所とか、べつに、それでなくてもいいはずなのに、変えずに、同じをくりかえす。それで、あんしん感はあるし、よけいなことを、かんがえなくても、すむからいいのかもしれないが、ほんとうに、そのままで、いいのか、とギモンにおもわない、のだろうか。

たぶん、おもっても、変えられない、のだろう。変えるすべを、しらない。そんなときは、人まかせにすればいいのに。あいては、まかされて、喜ぶ、とおもうし。

けっか、おもいつけば、いいけれど、そんなこと、自分では、おもいもつかない。さいきん、はじめた、パンづくり、むずかしくて、時間がかかると、おもっていたけれど、レンチンで、15分あれば、できる。そのやり方を、ぐうぜん、SNSでしった。しろうとは、レンチンでパン、なんてできるんだ、と新鮮だったけど、プロにしたら、かんたんなこと、なんだろうな。

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なかった時間がながれはじめた

たったひとつ、大事なものがあれば、それだけで、なっとくしてもらえるのでは、といつも、かんがえ、プレゼンする。いつも、そうやって、そのときどきで、ちがうけれど、決め手は、いつも、ようぼうの奥にあった。

たったひとつの部屋を、よぶんにつくったり、まったく、常識とは、ぎゃくのことをしたり、いちどは誰でも、おもいつくがやらないことを、やったりした。

ここでは、たったひとりになれる居場所を、いつでも、つながることができるところに、つくった。空間とのかんけいは、使用者とながめる人にわかれるが、使用者とながめる人とのかんけい性がなかったので、トビラをあけることで、つなげてみた。このことで、おこったことは、いままでの暮らしにはなかった、かぞくの時間が、ながれはじめたこと。

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決めてみる、をしたい

はっきりと、こうしよう、と決まるのは、だいたい、動きだしたあとだが、動きだすまえに、なんとなく、こうならないかな、とか、こうならないとイヤだな、とかは、決めてみる。けっこう、いつも、この決めてみる、でどうするかな、となる。

せけんでは、はやい方がよく、こうりつよく、が良いとされ、とりあえず、あいまいでも、はやく動け、となる。ひじょうに、自分みたいなタイプはこまる。はやく動くのは、いくらでもできるが、そのまえに、決めてみる、をしたい。それがないと、いくら早くても、まちがった方向にいきそうになる。

それを言うと、まちがったら、引きかえして、またやり直せばいい、その方がはやいと。ちがう、ちがう、またやり直しても、たぶん、またまちがうか、さいあく、まちがいを無いものにしてしまうかもしれない、早くやるために。けっきょく、最初に、決めてみる、をした方が、けっか、早いし、良いとおもうのだが。

などと書いたのは、いま、そういうじょうきょうだからで、もうちょっと、じかんを下さい、とだれかにつたえたい、気持ちのあらわれでした。

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うまくいかないから、つづきがある

だいたい、あんぜんな方へ、かわらない方へ、いこうとする、本能だろうか。でも、かえるのが、スキだから、何ごとも、いまに定着しない、ようにする。けっきょく、いまいいのは、すぐに、あきるか、だめになる。何かをすこし、かえるぐらいで、ちょうどいい、といつも、おもう。

かといって、何年もおなじことを、し続けている。ふしぎだ。続けていることは、なかなか、うまくいかないこと。続けるコツは、うまくやらないこと、だったりして。

建築も、なかなか、うまくできない、もっと何とか、とおもうから、続いているのだろう。きっと、それがなかったら、うまれないことばかり。この画像の住宅は、いちだん、ギアチェンジしてみた。こまかいことの、精度をあげた。とたんに、うまくできないことばかり、になったけど、その次は、この精度がスタンダード、になって、また、ギアチェンジした。

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さかいは、いりますか?

境界について、きになることが、よくあるなとおもった。きっと、さかいとか、別々とか、はなれているとか、違いがはっきりしている、ことになにか、ていこう、があるのかもしれない。できるだけ、さかいをつくらずに、別々にならずに、はなれずに、できないものか、とかんがえる傾向があるかもしれない。

なに事にも、さかいはある。建築にもある。ただ、そのさかいは、たまたま偶然、そうなっただけとか、はじめからあったとか、便宜上そうなっただけとか、一時的とか、かならずしも、それである必要がなかったり、それだと決めつけなくても、なんとかなることもありそうな気がする。

そうおもうと、さかいを曖昧にしたい、となる。建築で、いちばん影響をうけるさかいは、敷地のさかい、だろう。このさかいだけは、なにがあっても、越えることができないし、曖昧にもできない。

ただ、さかいに、あらがいたい、それが、もしかしたら、設計するうえで、いちばんむすがしく、かつ、いろいろなことに、よい影響を、あたえること、かもしれないと、いまかんがえている。

前に、画像のように、建物の四周と塀とのあいだに、デッキを敷いた。デッキにより、室内空間が、敷地いっぱいまで広がり、その広がりは、敷地の外まで、拡張する意識、をつくりだす、とかんがえた。ただ、デッキによって、敷地のさかい、をよけい強調するけっか、にもなった。

いまは、さかいを別のしゅほうで、曖昧にすることを、かんがえている。

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たどると、いきあたるもの

なんとなく、気になる建築や空間を、おもいうかべながら、あれって、かたちだけ残して、あとはぜんぶ替えてみたら、どうなるのかな、とか、平面のプランはおなじだけど、かべの高さをかえてみると、とか、いちぶだけ、大きさをかえてみたら、どうなるかなど、あれこれ、妄想してみる。

そうすると、やっぱり、もとがいい、とか、あれっ、もしかして、なんてことを、また連想する。それで、じっさいに、かたちにしたら、オマージュとか、リスペクトとか、になるのだろうか。

ただ、そうかんがえると、無意識に、なにかしらに、影響をうけているから、もとネタはわからないが、いままでつくったものは、もしかしたら、すべてが、オマージュとか、リスペクトとか、になるのかもしれない。

それは、たくさんの建築にかんすることを、みききしてきたからで、いまこうして着想していることが、なにとつながるか、たどってみると、あんがい、面白いはっけんがあった。あした、その本をさがして、よんでみよう。

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いま、なにをみますか

カタがあると、それをだれかがくずし、またカタができる、そして、また、だれかがくずす。この一連のながれのなかで、どこに、いちばん、興味があるだろうか、とおもった。

はじめのカタがあること、そのくずし方、くずした後のカタのつくり方、また同じくずし方をするのか、など、ちゃくもくする点は、いろいろと、かんがえることができる。

きっと、自分は、また同じくずし方をするのか、に興味がある。カタなど、なにか主流のものがあれば、それとは真逆のものが、うまれる。そのときの、うまれ方、すなわち、カタのくずし方は、カタを相対化する方法をとる。

歴史はくりかえす、という。相対化する方法も、歴史をみればわかる。だから、また同じくずし方をするだろうことも予想はできる。しかし、それが、いつはじまり、だれがはじめて、どこではじまる、のかは、後になって、歴史になって、わかることで、同時代的には、なかなか、わからないこと、だとおもう。

ということは、また同じくずし方をするのか、に興味をもち、観察することは、いまをいきる、ことにつながる、とおもうし、そうすれば、いまがたいせつ、になる。いちばんは、いまかな、とおもう、きょうこのごろ。

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なにをつくりますか

見なれない、だから、すぐに理解できない、ふしぎなものと、見なれてはいるけれど、なにかが違う、とかんじるもの、どちらにも興味があり、じっさいに、りょうほうとも、この目で見てみたくなる。

では、じっさいに、自分がつくるとき、どちらのものをつくりたい、とおもうか。

見なれてはいるけれど、なにかが違うものは、いままであったものを、進化、あるいは、より洗練させた、ものだろう。見なれない、すぐに理解できないものは、いままでと、アプローチがちがう、あるいは、そもそも出発点がちがう、ものだろう。

いつもおもう、いままでに見たことがないもの、をつくりたい、と。だから、見なれない、すぐに理解できないもの、をつくることにひかれる。きっと、そういものは、画像では、すぐに、理解はできないけれど、じっさいに見れば、すぐに、なっとくするものだろう。

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まほうのことば、がふらせる

どんな形にしようかな、と最初は、かんがえていたのに、いつのまにか、どうやって形にしようかな、とかんがえている。

条件や要望を、形にしていくときに、ばくぜんと、かんがえているあいだは、手がかりがおおすぎて、まよい、形をむげんの海から、引っ張ってくるかんじ。そのうち、どうやって形にしようかな、と自然にかんがえているときには、あるていど、方向性がしぼれているしょうこ。

どうやって、って、まほうのことば、だとおもう。そうかんがえた瞬間に、形にむかって、すすみだし、形になる。

この階段は、ひかりが差しこむ、ところにある。だから、ひかりをさえぎりたくない。かといって、ガラスの階段では、ひかりが差しこむところに、あるいみがない。この階段があることで、ひかりの粒がみえればいい、これで、形のどうやって、のぶぶんができた。

あんがい、どうやってのぶぶんは、そのものとは、直接かんけいない、ところからふってくる。

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ひとが、そこに、いるだけ

まいにち、つづけて、それでいて、変化していくようなこと、きっと、暮らしはそういうものだ。

暮らしがおさまる器として、と住宅をかんがえるひとも、いるだろう。それで、いいとおもう。暮らし、という日常的につかわれる言葉で、住宅を表現することは、ひとつ、大切なこと、だとおもう。

ちがう言いかたをすれば、暮らし、という誰にでも、わかる言葉で、住宅をかたることの大切さ、住宅をかたることができるひとの大切さがある。

いっぽうで、ひとがいれば、自然と暮らしはおこる。大切なのは、そこに、ひとがどのようにいるか。暮らしは、たまたまそうなっただけ、として、住宅は、たんに、ひとがいる場所、にすぎない。

これは、もともと、暮らしは、その場所にあったのであり、たまたま、そこにきたひとと、むすびついただけ。暮らしは、つくりだすものではなく、環境にさゆうされる、都市の暮らし、山の暮らし、といったぐあいに。だから、ひとが歳をとるように、ひととむすびついた暮らしも、まいにち、変化していく。

このように、住宅と暮らし、を切り離してみると、もっと、根っこの、いま、そこに、ひとがいることを、形にする必要がある。それが、住宅のほんらいの姿、だとおもう。

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つながるキョリ、って

つながる、ってキョリの遠近とは、関係ないな、と電車にのりながら、いつも、おもう。となりの席のひとのこと、ではなくて、となりの電車のひとのこと。並走する電車のひとは、ちかいけど、まったく、つながることがないひと。たぶん、二度とあうこともない、かもしれない、あたりまえだけど。どんなに、キョリがちかくても、ふれることもできない、レールがまじわることがないから。

この関係性に、ひとてま、加えたら、たとえば、まじわることができれば、けっこう、りそう的な関係、になるかもしれない、とおもった。

ここでは、住宅が2棟、親族どうしで、ならんでいる。あいだに、きょうつうの、通路をもうけた。電車でいえば、同じレールをつかっている。それ以外は、まったくべつのもの、まったくべつの電車。ただ、ときどき、ぐうぜん、であうだけ、ふれることもできる、かわすこともできる。それが、お互いにとって、ここでは、ほどよいキョリかな、とおもった。

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偶然、かわるの、すき

建築みたいに、おおきくて、うごかないもの、に偶然性をおこすのは、むずかしい、と書こうとして、そんなこともないか、とおもいなおした。

建築ないぶに、偶然なにかが、おこるようにすることは、いくらでも、かんがえることはできる。が、建築じたいに偶然性を、まとうことが、できるだろうか。

すぐに、うごかないし、おおきいし、偶然性をまとうのは、むりかな、とおもった。偶然性をまとうとは、変化すること、例えば、太陽のひかりで、みえ方がかわるとか、になるのかな、それならば、とおもい、偶然もありうるか、とおもいなおした。

ただ、形がかわるようなことは、ないよな、やっぱり、うごかないものだし、ここでの偶然性は、形にかんして、言いたかった。可変って、建築にとって、やっかいかなこと。可変する機構をもりこむと、建築ではなく、機械になり、機械というメタファーをもちだしてくるのは、ふるくさい。

などと、ダラダラとかんがえながら、可変する、可動間仕切りを、よくつかっているな、すきなんだな、とおもった。

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すきじゃないと、いしきして

斜めがすきじゃない、まっすぐで、垂直で、四角がすき、だといつもスケッチしながら、おもう。だからか、坂道もすきじゃない、水平線がすき、地平線がすき。スロープよりも、階段がすき。円も、丸も、すきじゃない。べつに、こじんのすききらいなど、どうでもいいけれど、やっぱり、いままで、つくったものには、振り返ると、えいきょうがあるようだ。

だから、斜めや円、丸などは、いしきして、つかうようにしている。いしきするとは、なにか、意味をもたせたり、アクセントにしたり、そこをみて、というポイントにしたり。

ただ、いきなり、斜めや円、丸などをつかっても、こうかがないから、まっすぐや垂直、四角と対比させてつかう。この対比がうむこうかを、かんがえるのが、デザインのひとつかな、とおもう。

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まわりが決めるのもあり

かんじんなことは、いつも、後まわし、それで、他のことは、用意周到、なんてこと、よくありませんか?けっきょく、かんじんなことを、大事にとっておく、いや、面倒だから、やらない、なんてことになるかもしれない。

ただ、まわりから、決めていく、という考えも、あるかもしれない。かんじんなことは、いずれ、やらなくてはいけないことだから、先に、関係ないことをやる、のはいいとおもう。もしかしたら、まわりから、決めたことで、また、べつの展開が、みえたりして。

まわりのもの、たとえば、住宅では洗面かも。どこでもいい、訳ではないけど、かといって、そんなに。だからか、いつも、なぜか、場所を工夫することに。けっきょく、洗面のような、まわりを飾るものの場所が、反転して、かんじんな場所が、決まるような、気もする。

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余計なことしたい

べつに、そこまでする必要は、ないんだけど、とおもうときって、余計なことを、してると、かんがえているんだな、きっと。だけど、その余計なことが、ほんらい、じぶんがやりたかったこと、といまになって、気づく。

たいがい、余計なことは、オーダーには、ないこと。勝手におもいつき、勝手にやること。そのことで、1円ももらえない。これって、いつもおもう、経営者として、しっかくだな、と。

この住宅では、内装仕上げに、よくある下地材をつかった。どうやって、みせるか、がもんだい。ただ、つかうだけでは、芸がない。色をぬって、ごまかしたくもない、その予算もない。

板をつなぐ、ことにした。そのつなぎ方を、デザインする。そうすることで、つかう板が、なにかは、関係なくなる。

どちらにせよ、板をはることは同じ、つなぐことがおこるのも同じ、だから、つなぎ方のデザインは、余計なことになるかもしれないが、つなぎ方をデザインすることで、つかう板、つかう素材、素材の良し悪しが、どうでもよくなる、素材にいぞんしなくなる。これが、やりたかったこと、だった。

じつは、このことで、もっと余計なことをしてる。のちに、大工さんから、ゆめにうなされた、といわれた。画像には、うつらない、実物をみれば、すぐわかること、いままで、じふんも、ほかではみたことがないこと、ほんとうは、これの方が、やりたかったこと、かもしれない。

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チラみのかんけい

あちこち、みてしまうのは、集中力がないしょうこ、おちつきがない、とよくいわれたものだった。ものは、注意をひくために、できている、これをアフォーダンス、という。そもそも、興味をひかないものは、そこにないのと同じ、だから、アフォーダンスは、けっして、わるいことではなく、だから、おちつきがない、こともわるくない、とおもう。

この家では、みんな、行動がバラバラ、おもいおもいに、すごしていた。だから、いる場所がちがっても、お互いどこかで、つながってる感がほしかった。

なにげない日常の中で、なれ親しんでも、つながり続けるためには、興味をひきつけあう位置かんけいがひつようだ。チラッとみえる、かんけいは、お互いをじゃましない。

画像は、キッチンでの、奥さん目線。2階のひと、奥のひと、庭のひと、この家のひとの行動がチラみできる。きっと、チラみだから、なんか気になる、なんか興味がわく、そんなかんけいだらけの家が、いいとおもう。

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こうりつより勝るあいまい

どうでもいい、どっちつかず、あいまい、はネガティブなことで、なるべく、さけたいとおもうかもしれない。こうりつとか、はやくとか、を求めるときは、はいじょされる。

ただ、さいきん、このあいまいとか、どっちつかずの領域も、ひとつのかたち、になるとおもっている。

この住宅では、可動の間仕切りで、領域をつくるだけ。その領域が、そのときの必要におうじて、ついたり、わかれたりして、領域の大きさがかわる。

領域がきまっていないことは、こうりつの観点からいえば、非こうりつに、つながる。あらかじめ、きめられた、限定した領域の中で、うごくほうが、こうりつを追求しやすいから。

ただ、この住宅では、あいまいな領域があるから、いろいろな暮らしの可能性、それは、この住宅をじゅうぶんにいかしきる、という点で、こうりつより勝る、とかんがえた。

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色つき、色なし

色がついているものと、ついていないもの、をくらべると、色がついている分だけ、ひとつ特長がふえて、いいようにおもう反面、色がついていない、透明だから、さまざまなものを、そのまま鮮明に、映しだすことができるよさが、あるともおもう、ガラスのはなし。

ガラスを、色つきか、透明か、さいきんのなやみ、大したことがないなやみだけど、けっこうな時間をかんがえている。色つきだと、とうぜん、その色がガラスごしにつくので、鮮明にはみえないが、ガラスの微細な凹凸を、色が増長してくれる。ぎゃくに、透明だと、色による作用がないから、鮮明にみえ、ガラス特有の映り込みが、よりはっきりみえる。

この住宅では、透明にしてみた。日々の暮らしで、そのつどかわる色を、映すことで、さまざまな、暮らしの重なりが、壁の模様になる。それは、この住宅特有の、色になる。

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きょうかいは越えるためにある

きょうかい線、って、いろいろなものにあるけれど、さいきん、おもうのは、ちょっとでもはみ出したら、許されない感じが、つよい。建築のきょうかい線は、敷地のまわりにあり、たしかに、ぜったいに越えてはならないが、枝や葉が、空中を越えているのは、よく目にする。

それでいいとは、いわないが、うちもおとなりに越えているので、敷地のきょうかいが厳密なぶん、それぐらいのゆるさがあっても、いいような気もする、おとなりのかた、すみません。

いかに、きょうかいを厳密にまもりつつも、空中のような、いつでも、引きかえすことができるかたちで、越えていくか、って、実際にやるかどうかは、べつにして、一度はかんがえてみたほうが、いいことだとおもう、意識だけでも。

あんがい、なぜ、きょかいをまもるのか、の意味がわかり、そうすると、いままでと違った、きょうかいのまもり方ができるかもしれない。この住宅のように、おとなりの人と、かくしんはん的につながろうと、するかもしれない。

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やらせ?ぎわく

ちょっとでも多く、という心理、なるほど、よくわかるから、ロフトなるものをかんがえてみる。そもそも、あまりの空間をどうりようしようか、という発想のたまもの、だから、そこは、すなおに、あまりの空間さがしをしてみる。

ゆかした、やねうら、階段のおどりば、あとは、たかいところ、人がいきたがらない、ような、あまりはたくさんある。いっぱん的には、そのあたりが、ロフトや収納になる。

あまりの空間だから、いとてきに、空間をつくるのはNGらしい。あくまでも、空間のゆうこうりよう、ということらしい。だから、空間さがし、宝さがしみたいだ。

ふとおもう、宝さがしする空間は、はじめから存在していたのか?いや、つくったはずだ。ならば、ロフトを、さきにつくってから、空間のなかにうめこんでしまい、宝あったどぉ、なんて、やらせ?をしてもいいだろうか??

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壁なしでもいい気がする

こどものころは、外からかえると、勝手口からあがり、そこには台所があり、そこでなにかをしてる母親に、ただいま、とこえをかけた。むかしは、なんでも、手づくりだったから、つくるところを、みているのが、おもしろかった。

いまのほうが、家事は、だいぶ楽にはなっただろう。せんたくものは、干さなくてもいいし、レンチンで、おいしいものはたべれるし、ロボットが、そうじしてくれる。

もはやキッチンも、作業するところではなく、コミニケーションするところ、にかわった。家族といっしょにすごしながら、家事をする。もしかしたら、ゆっくりと、家族がすごせる場所がキッチン、ってのもわるくない。

家の外で、家族といっしょにすごすこと以外のことは、全部、みたすことができる。だから、家の中にいる目的は、家族といっしょにすごすことだけ。

この家には、コミニケーションするために、壁が、ひつようとされなかった。風呂とトイレ以外、壁がなくても、暮らせるんだ、とわかると、おもしろいことに、家の外と中のさかいの壁も、パブリックとプライベートのさかいも、なしにできそうな気になる。

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あつーいスープがとどく雰囲気

建築が複数あれば、関係がうまれる。関係がうまれれば、にぎわいができる可能性がある。だから、建築によって関係がうまれると、にぎあいをつくるためには、どうすれば、いいのか、をかんがえるようにしている。

よくあるのは、人のアクティビティを、建築同士の関係性に、からめること。複数ではなくても、例えば、建築によってつくられた、アトリウムなどの、大空間でもおなじだが、場所があり、人がいれば、かならず勝手に、あるいは、そこになにか、イベントのようなものをたすことで、にぎわいはできるだろう、というようなかんがえ。りくつで、人のことをかんがえ、あとは任せっぱなし、のじょうたい。

それでは、にぎわいはできないだろう。それで、にぎわうのであれば、せまい、路地の、呑み屋に人はあつまらない。

きっと、雰囲気だと、おもう。人がにぎわう雰囲気。それって、新規の建築計画が、いちばん苦手、とするところ、だとおもう。そこに、模範解答はなく、正解はなく、読めない。人のことを読めない、のとおなじ。

だから、ここでは、人のアクティビティを、建築同士の関係性にからめているが、建築が先ではなくて、人のアクティビティ、すなわち、人のからまり方を先にきめてから、建築をきめた。

人がからまり、にぎわうためには、その敷地の、どの場所に、どれくらいの形と広さが、あればいいのか。けつろんは、スープの冷めない距離感だった。それは、内部の部屋の構成にも、影響をあたえた。

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光のつぶが、みえますか

光のつぶ、というけれど、光がつぶで、みえるはずがない、とおもうが。

こんな話をきいたことがある、むかしは、雨つぶの存在が、みえなかった。むかしの西洋絵画には、雨がえがかれていない、地面はぬれているのに、というのだ。すなわち、それは当時のヒトには、雨つぶが、みえなかった。しかし、広重が線で、雨を表現したことで、雨つぶの存在にきづき、みえるようになった、というのだ。

真偽はわからないが、いままで、表現できなかったものが、表現できるようになると、それまで、きづかなかったものに、きづくようにはなるだろう。だから、もしかしたら、まだ、光のつぶを、表現できていないから、光のつぶが、みえないのかもしれない。

ここでは、階段をりようして、光をつぶで、とらえようとした。階段の段板と踊り場の床に、無数の穴をあけた。その穴をとおして、ふりそそぐ光は、無数の穴の輪郭を鮮明にし、つぶ状になる、とかんがえた。

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いっていのものよりまだ見ぬもの

じぶんが10年以上まえに、やったことを、いまだれかがやっていると、それはつかい古されたものか、それが当たり前になったのか、それとも、けっしてそのようなことは、ないとはおもうが、じぶんが早かったのか、などとかんがえる。

いずれにせよ、いま他のだれかがやっているのだから、それをいま、またじぶんが、やってもいいだろう、というおもいと、一度やり、いま他のヒトがやっているのだから、もうやる必要がない、ヒトとおなじことはしない、というおもいの、2つがうかぶ。

楽なのは、またやってもいいだろうだ。まえにやっているから、かんたんにできるし、失敗がない、それでいて、いっていの評価はもらえる。ただ、それだと、じぶんが満足できないだろう。いや、しごとだからと、割り切って、失敗がない、のがせいかいかもしれない。

10年以上まえのときも、ヒトとおなじことはしない、としてやったけっか、失敗しなかった。はじめてだから、しんちょうにもなり、いまだにきれいにのこっている。

さっきまで、あたまのなかを、グルグルとめぐっていたけれど、こうして書きながら、せいりされた。やっぱり、ヒトとおなじことはしない。そうしないと、このさき10年ごにこうかいしそうだ。

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あたらしい価値をうむ、いつも変わらない

いつもおなじが落ちつく、いつもおなじことには価値がある、とおもわない。いつもおなじと、いつも変わらない、はちがう。いつもおなじは、いちもおなじにしようとする。いつも変わらないは、いつもちょっとずつ変えて、変わらないようにしている。いつも変わらないほうが、あたしいことを受け入れるよちがあり、好奇心をはっきできる。好奇心は、価値のみなもと、だとおもう。

よくランダムにする。それは、そろえることが、いつもとおなじことをすることであり、ランダムにすることが、いつもと変わらないにようにすること、だとおもうから。

この建築では、かべの空調の吹き出し口やスピーカー、照明をとりつける穴をランダムにした。ランダムに変えたことで、機能は変わらないが、壁の穴にデザイン性がうまれ、ひとつあたしい価値がプラスされた。いつも変わらないには、あたらしい価値をうむ可能性がある。

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あんしんのかたち

おおきなものに、包まれる感じは、あんしんする。包まれるものにもよるけど、おおきなものは、ときにはヒトかもしれない。あんしんしていられるヒトは、包むのがうまい。

包まれるあんしん感は、あんぜん地帯にもなる。ヒトにとって、あんぜん地帯はひつようで、その場所は日常のなかにあったほうがいい。

家って、あんぜん地帯になりえるもの。へやにいると、その包まれ感があんしんする。だから、この家では、その包まれ感をみた目で感じてもらうために、家のかたちのなかに、家のかたちをつくった。

いまいる空間を、見た目で感じてもらうことで、いまいる空間がわかる。あんしん感のみなもとは、きっと、このわかる感覚、ヒトもわかりやすいほうがあんしんするでしょ。

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大事ならちゃんとしまって

大事なものは、捨てられない。だから、いっぱいものが、たまるのかもしれない。みてると、たまるものは、行き先ふめいのものだ。ものがかえっていく所が、きまっていれば、たまらない。たまるというのは、目にみえて、あふれているからで、おさまっていれば、たまっているようには、みえない。

おさめ方がいいと、大事なものは、またちがった価値をうむ。大事なものは、ただあるだけよりは、自分とつながったもの、でいてほしい。

その木は、クライアントのお父さんが、なくなったときに、自然と道路ぎわに、生えてきたらしい。だから、のこしたい、それが最初の希望だった。そのまま道路ぎわより、きちんとおさまる場所をつくり、どこからでも、みえるようにした。

おさまる場所を、つくることじたいが、大事なものとつながることだから、あふれていてもいいものは、もしかしたら、なくてもいいものかもしれない。

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昼かお夜かお、くらべ

昼のかおと、夜のかおがあると、なんとなく、どちらがほんと、なんか疑わしい、などとなるかもしれない。どちらもほんとで、どちらがいいか、わるいかはなく、二面性があっていい、とおもうが、ハッキリしないものには、無意識に、しろくろをハッキリさせたい、となるから、じぶんにとって、都合のいいほうをしんじるようになる。

二面性は、いつも意識する。ふたつの間をいったりきたりしながら、片方をみると、よーくみえるものがあるから、それがなにかのヒントになる。

建築にも、昼のかおと、夜のかおがある。昼ははくじつのもと、すべてをさらけ出す。夜はそうさできる。夜は都合のいいところだけを、みせることができる。だから、昼のかおと、夜のかおをくらべて、変化しているところが、かくしたいところ、すなわち、その建築にとって、いちばんみせたくないところか、もしかしたら、いちばん重要なところ、かもしれない。

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へやをつくらず、へやにする

それができても、できなくても、たいしてかわりがないのに、やろうとすることは、気がつかないうちに起こりそう。たいがい、そういうときは、やること自体がいい、とされてきたことだから、そのことにギモンを持たないし、持てない。

へやはヒトがたまるところだけど、けっして滞在するところではないこともある。ヒトが通っていくところに、ひっかかるモノがあり、そこにヒトがたまる。しかし、それは一時的であり、またヒトはうごいていく。

そのくり返しでへやが成り立つならば、ヒトは滞在せずに、たまりながら、また次へ、うごいていく。このばあい、へやは廊下のようであり、ならば、廊下をめぐらせてから、その廊下をへやにすることを考えてみた。

はじめから、へやをつくることが当たり前だから、それにたいして、ギモンを持たないし、持てない。しかし、へやイコール建築ではないので、へや以外のところをプランニングすることで、へやをつくりだす試みをしてみた。

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単なるものでなくなる

こわいもの見たさ、高いところがこわいのに、高いところにいきたくなる。不思議なもので、高いところから、上を見あげたくなる。きっと、好奇心が、こわさにかつのだろう。

四層吹き抜けの、らせん階段をつくったら、ぐるぐると上を見上げながら、のぼるかな、と想像して、計画してみた。らせん階段は、いちばんコンパクトな階段、だから、省スペースのためにもいい。

すける段板は、最上階からのひかりを、拡散させながら、1階までとどかせるため、あと、上を見上げたときに、先まで見せるため。らせん階段は、ふつうの階段より、視線が上にいきやすく、上へのいしきがつよくなる。だから、好奇心をそそるしかけとしても、すける段板はいい。

階段をのぼることに、なにか他のことをたすことで、ひとの動きに、変化をもたらす。その変化は、空間の感じ方に、影響をあたえ、好奇心を刺激する。階段が、単なるのぼり下りのそうち、ではなくなる。

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としとっても新鮮ですか?

かわってしまうことに、抵抗があるのは、としのせいかな。ただ、むかしから、そうだったような気もする。ものはなんでも、最初はあたらしくて、だんだん古くなっていく。できれば、古くなってほしくないとおもってしまう。だんだんあたらしくなることがあれば、それがいいけれど。だから、なんとか、古くならないようにしようとする。でも、どうしても、古くなるから、古くてもいい、もっというと、古くなるほどに新鮮、という矛盾するようなことが、できないかなとおもってしまう。

古くなるほどに新鮮なさまは、年月をへてもかわらないのではなくて、年月をへてかわることによって、最初とはちがうものになり、それがあたしいみえ方になる、のだろうと考えた。

そこで、年月をへてかわる材料として、木をえらんだ。木を素地のままで、室内につかうと、くちはてることなく、焼けたり、変色して、のこりやすくなる。木の素地のままだから、焼けや変色がめだつが、それがかわったあたらしいみえ方、になるというストーリーをえがいてみた。

何十年後、生きているかわからないが、かわったところをみてみたい、いまが新鮮か、と。

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なにをみたいかな

その場所にたったとたんに、なんかスイッチがはいったように、急になにかをしだしたり、考えたり、おもったり、することはないだろうか。それがいいことでも、わるいことでも、なんでだろうとおもう。

美術館には、ひとの評判より、たんにおもしろそうだな、という理由だけでいく。たいがい、ウイークデイで、すいていて、人もあまりいなさそうな時間にいく。しずかにみたいのと、逆走するので。いちばん最初に出口までいき、全体をパッとみて、みたいところだけに、時間をかける。そうしないと、途中であきてしまう。人がいないと、逆走しやすくていい。そんなことするの美術館だけ、美術館だけのうごき。

きっと、うごきって、場所できまる、とおもった。広いところへいけば、のびのび、自由にするだろうし、狭いところへいけば、うごきが自然と制限される。ならば、細長いところへいけば、どうなるか。

細長い通路をとおって、家につく、そういう土地のかたち。この細長い通路をとおるとき、どうするか、自然と、視線は家にむきそう。きっと、この家で、いちばん最初にみえる部分が、いちばん時間をかけて、みるところになる。なにをみるか、夜ならば灯りかな。

窓の灯りが、この家のかたちになる。細長い通路と窓だけが対峙する。そのとき、昼の家のかたちはない。窓の灯りに、なにをみるか、なにがみえるか、なにをみたいか、それがこの家のかちになる、とおもった。

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やわらかい困難

やわらかくて、かたいもの、そんなものはあるはずがないのに、言葉ではいえてしまう。壁もそうかもしれない。かたくて動かないから、壁を困難や問題にたとえたりする。でも、困難や問題も、ずっと変化しないわけではないから、壁もどこかで、やわらかくて、動くもの、とひそかにおもっていたりする。

じっさいに、壁が動いたらたのしいな、忍者やしきじゃないけれど、壁が反転したら、べつのへやがあって、そこには金銀ざいほうとか、なんかあったりして、ぬけ道があったりして、そう動く壁って、いまの暮らしにないものがでてくるにちがいない、とおもえる。

だから、将来がわからないとき、壁は固定しないで、動かしてしまおうと考える。壁があつくなれば、ものがはいる家具になる。家具ならば、自由に動かしてもいい。ときにふさげば壁になる。動く壁は、空間も将来も、なにも固定しない。なにも固定しないから、やわらかい壁なのである。

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いっぱいの空をみたら

あたり前のことのようにみえても、しらないところで、いろいろ工夫しているのがプロかな、とおもう。たとえば、おすしのにぎり方にも、しらないところで、とうぜん工夫があるだろうし、なにげない動作にすべていみがあり、目のまえにでてきたおすしは、同じようにみえてもみなちがうし、そのちがいが味にでるとおもう。

窓をつければ、よほどとなりがすぐ建物でなければ、陽ははいってくる。ただ窓って、なんのために必要かな、っておもう。べつになくてもいいか、と考えると、いや必要だとおもう。では、陽がはいれば、それでいいか、と。

さいきんは、窓があったら、空がみたいとおもう。きっと、空がみえると、室内が気持ちよく感じるのではないかな。なぜ?きっと、空と室内をくらべるから。もちろん、空のほうがキレイだけど、空とくらべることで、室内のちょっとよいところをさがしたり、あるいは、ちょっと片づけしてよくしたり、なんてことがおこるような気がする。気持ちいいものをみると、自分もなんかしたくなるものだとおもう。

晴れだけでなく、くもり、ゆきでも、またちがった空にであえば、こちらの気分もかわるし、室内もかわる。これは窓だけができる暮らしのなかのはなし。そのために、となりの屋根のうえに、窓いっぱいの空をつかまえた。

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少なくしようなんていらない

少ないことはいいことだ、少ないことは退屈だ、きっと両方ともあるのだとおもう。よく、少なくすることはいいことだと、ミニマリストにあこがれる人もおおいけれど、できやしない、好きなものがたくさんあるからしかたない。それに、少なくするのは余分なもので、大切なものは少なくしてはいけないし、むしろ、ふやしたい。だから、バランスなんだと、少なくできない自分をいつもなぐさめている。

できるだけ部材は少なくしたい、できれば壁から板だけがでているような階段にしたい、と最初はおもった。ただ、それだと、いくら鉄をつかってもできなかった。ならば最低限、ほそい丸棒で上下の板をつなけば、そこで計算して丸棒の本数をだした。

ほんとは、たての丸棒と丸棒をつなぐように、間にななめの丸棒が必要とされたけど、つくって、いざ現場に設置してから、なくても大丈夫、ない方がきれい、だとおもいとった。

計算してふやし、現物をみて少なくした。いいことと退屈の差は、ほんとうは紙一重で、そこのせまい巾での判断に、少ないはもはや関係がないこと。少ないかおおいかなんて、けっきょく、どうでもいいことなんだとおもった。

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なんでもつくればいい

ないものは、自分でつくりたくなるもので、あるとき味噌がきれて、これってつくれないかな、とおもった。ただ、おもっただけで、まあそんなことを言っても、とおもいながら、いつもたべている味噌をそのときはまた買った。

ところがしばらくして、知人が自分で味噌をつくっているときいた。せっかくだから、体験してみたい、でもいつもの味噌になれ親しんでるからどうしよう、大概こういうとき、つくることにしてる。コーヒー豆もそう、自分で焙煎してみた、コーヒー好きとしては体験してみたい。

つくりたいのと、あと既製品はいやだ、というおもいがあり、つくれるのならば自分の手で、身の回りのものは、なんでもつくたい。漆のお椀も自分でデザインしてつくった。

ここにあう換気扇がなかった。せっかくの特注キッチンだから、換気扇もあわせたい。ただ、換気扇にはスポットライトを仕込みたいし、仕上げもゼブラ調の木目、形も、などとやってると、もう自分でデザインして、つくるしかない。それから、換気扇は自分でデザインしてつくることがスタンダードになった、味噌も。

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夜にうかぶ表情

帰ってきたとき、自分の家がどうみえるかが気になる、けっこう毎回。なんでだろうと考えても、よくわらがないが、帰巣本能が人にはあるときくから、きっと、自分の巣は大丈夫だったかな、と無意識にかくにんしているのだろう。

そんな思いもあるから、毎回、夜のみえ方を気にする。よくみせるとか、明るくするとか、それもあるけれど、どちらかというと、昼とはちがったみえ方になるようにしたいとおもう。

夜帰ってきた人だけがみることができる表情、それがより帰巣本能をたかめるような気がするから。夜の暗闇がよけいなものを消してくれて、より家じたいが浮かびあがるからこそ、それをみせたい。

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壁はあったり、なかったり

リバーシブルとが、一粒で二度おいしいとか、反転できるとか、そういったものによわく、すき。効率がいいからとか、お得だからだけではなくて、ひとつのことに対して、二面性があることが面白いとおもう。

何でもひとつではないと普段からおもっている。答えはひとつではないとおもえば、いろいろなことができる楽しさがあるはず、そこが面白いとおもう。

コンパンクに暮らしたいとおもうときがある。十分な広さがとれないとき、でも暮らしは充実させたい。あと、とうぜん広さには限界があるけれど、人は欲ばりだったりして、あれもこれもとなる。

そんなとき、よくやることは壁を固定しないこと。壁を固定してしまうと、そこでひとつに限定されてしまう。壁をなくすこともできるが、最低限の壁が必要なときもある。壁を固定しないで可動させる。たったそれだけのことで、同じ場所でいろいろなことができるようになる。

壁を固定しないことで、とじこもっていた人の動きが流れでる。そのとき、流れでた先でいろいろな科学反応がおこればいいなとおもうし、それがその家だけでおこるイベントになるはず。きっとそれはその家の人にとって、よかったな、とおもうことにぜったいになる。

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ここはどこ、2階か

好きな形ってだれにでもあるでしょう。こどものころ、らくがき帳にずっと渦まき模様をかいていた記憶がある。なぜかいていたかは覚えていないけれども、大人になった今ではかきたいとも思わないから、きっとテレビかなにかでみて、それをマネしていたのかもしれない。

大人になったら、こんどは三角形をよくかく、屋根の形として。屋根の形はなんでもよくて、半円でも、フラットでもいいのに、三角形にしたくなる。木造の屋根としては、三角形が一番おさまりがいいから、それはそれでいいのだが、別に三角形でなくてもいいのだから、ちょっとそれにこだわる理由をかんがえるときもある。でも、自分のことながら、よくわからない。

ただ、2階の天井だけは意識して三角形にする。屋根の三角形の形を天井にも表して、いまいる場所は屋根に近い、すなわち、空に近いですよ、と思わせたい。

いまいる場所はどういうところなのかを形で表すことは大切で、とくに家はこころの安全地帯なようなものだから、自分がいたい場所といまいる場所を意識しないでも合わせることができるのが重要、安心感が生まれる。そのための形、そのための三角形ということです。

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バラバラだよ、何とかしよう

なるべく手ぶらで歩くのが好きで、携帯だけあればいい。どうしても携帯以外で必要なものがあるとき、秋から春にかけてはジャケットやコートがカバンがわりになる。

とにかくバラバラと何かを持ち歩くのが嫌い、なるべくまとめて少なくするか、目立たないようにして存在を消すか、別のものに置き換えて全く別の何かに見せたい。

空間の中でいつも心がけているのは、天井をスッキリさせること。天井には何も設けないか、最低限の小さな照明だけと決めている。頭の上にごちゃごちゃあると落ち着かないし、空間が煩雑にみえる。その分、壁にものが移動してくるが、壁には元々いろいろなもの、たとえば、家具などがくるから、うまく処理すれば目立たず、むしろ特徴にすることもできる。

壁に取り付ける予定だったものは、スピーカー、エアコンの吹き出し口、給気口、照明器具だった。それぞれバラバラの形や色をしている。そのまま取り付けては機能的かもしれないが、煩雑な壁がただ出現するだけ、何かできないか。

共通なのはすべて「穴」だということ。穴があればそこに仕込めばいい。穴がたくさんあっても、要素は壁面と穴だけになり、煩雑さを避けることができ、うまくみせれば、特徴的な壁になる。天井はスッキリ、壁には穴があるだけ、空間に手ぶらの良さが生まれる。

そもそも暮らしは煩雑さとのせめぎ合い、人間が煩雑な存在なのだから仕方がない。だから、その煩雑さをうまく使って、暮らし自体を面白くしたいといつも思う。

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どうして広くしたいの

せまいより広い方がいいに決まってる。すべてを広くできれば一番いい。ただ、広さには限界がある。だから、どこを広くして、どこをせまくするかもデザインのうち。広いリビングがほしいとの話はよくあり、できるだけ、それにこたえるようにしている。広いという表現は曖昧だから、それをどうあつかうか。

領地の奪い合いではないけれど、極端に差がつけば広いと感じるのではないかと思った。広さには限界があり感覚的だから、数値で置き換えても意味がなく、比較の中で広さを感じてもらうのが一番わかりやすい。

リビングの横に広さを比較できる小さいものをつくった。それは本来は大きくしたいが、小さくても事足りるものがいいと思い、小さい浴室にした。浴室が小さい分、となりのリビングが広くなっているということが視覚的にも、また頭でも理解できれば「うちのリビングは広い」と感覚的に思う。

本来、広さは何かをするときに必要な分だけあればいい。その分だけ確保できれば、あとは感覚的な広さをつくり出す。そのときにもデザインが力になる。

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括弧つながり

2つの言葉「バラバラ」「つながりがない」はどちらかと言うと否定的な言葉、あまりいい意味では使われないし、言わない。それでも案外使ったり思ったりする機会は多いような気がする。

ただ、バラバラだけど、つながりがあれば、それはいいような気がする。しかし、まとまりがあっても、つながりがないと、それはダメなような気がする。

そうすると、「つながり」のありなしが大事ということになるし、もっと言えば「つながり」があれば、何らかのものにはなるかもしれない。何らかのものとはいいもの。

ならば、何とつながりをつくるか、と考えるだろう、普通は。それにはなぜか違和感がある。「つながり」自体はそこらじゅうにあるし、いくらでもつくることはできるから、意図的にやろうとする、ただそれは不自然な「つながり」になるような気がする、「つながり」があれば何でもいいという訳ではない。

そうではなくて、「つながり」自体が括弧になっているようなものをつくることが大事かなと思った。括弧になっているとは、「つながり」自体はすでに含まれていて、「つながり」自体を考える必要がない状態になっていること。むずかしいけれど、括弧つながりでないと本当の「つながり」はつくれないと思った。

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家が出会う場

出会うってたのしいなと思う。男女の話だけでなく、出会う人はどんな人でも、自分の知らないことを連れてきてくれると思っている。旧知の人でも、たとえば、街中でとつぜん出会ったりすると、その人のいままで知らなかった一面をみることになる。もちろん、良いことばかりとは限らないけれど、いつも同じ人、同じことのくり返しよりは、なんか可能性を感じることができて、いいなと思う。

だから、出会いをつくり出すことが場づくりの基本だと考えている、それは住宅も同じ。家族や同居人とも出会うような感じがあれば日々の暮らしにもメリハリや、よりたのしむ感じが生まれるでしょ。

それぞれの居場所はきちんとつくる、落ち着く場所を。その上で移動したとき、たとえば、階段の上り下りによって、お互いの姿がみえ隠れするような、オープンとクローズドのバランスのとり方をデザインしてみた。完全にひとりではなく、かといって、いつも一緒でもなく、その中間をたくさん用意し、ひとつの住宅のなかに毎日出会いがある。

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キョリ感なくしたら

そろそろもう必要がないかな、と思う間にあるアクリル板、あるのが普通だとない方が不自然な感じにもなる。アクリル板をなくすかわりに、なんかちがったことで、アクリル板があった方がよい、となることはないかな、と考えるときもある。

壁なんかない方がいいと思うとき、私は床もと思う。壁は人のこころのキョリ感をはかる言葉してつかわれるけれど、床も同じように考えれば、床はこころの上下か階層のキョリ感か。

昔、斜面地で斜めの床を計画しボツにはなったけれど、斜めの床で上下階がつながり階層なくなるなら、それは斜面地という場所を最大限にいかすことになり、また階層がある当たり前の計画に対するちがった提案にもなるから、それはそれでいいのではと思ったことがある。

ささやかな上下の階層をなくすこころみとして、2階の廊下の床の一部を透明ガラスにした。そこを通らないと2階の各部屋には入れないようにして、そのガラスの床は1階のダイニングテーブルの真上にある。

あきらかに上にはあるけれど、下からも丸見え、上下の関係性が微妙にゆがむことで、暮らしにちょっとだけ他にはない体験をはさむことができ、外より家の方が面白いとなれば、をつくってみた。

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集まれここに

ものはこうして欲しいとうったえる。だから、何も知らなくても、押してしまうし、触ってしまうし、にぎってしまう。その形が何を意味するか、自然にわかる。TVリモコンがあれば、赤いボタンをとりあえず押す、それが電源のonoffたがら、まじまじと見なくてもそう思う。それをアフォーダンスという。ものが誘惑する、そうしてと。

小さな窓ひとつ、あとドアがあるだけの外壁面、色違いのラインがランダムに入る。そこに、うすい1m弱の出っ張りが端から端まである。

何か出っ張りがあれば、雨露しのげて、日差しをさえぎることができるから、まわりに何もなければ自然とその下にいく。大きな木の下へいくのと同じような感じかもしれない。

外壁の素材はよくある金属板、だから安い。そのままふつうに使えば、よくある住宅で馴染みがあるかもしれないが、そのような住宅があふれる中では金属板である意味がない。金属板でできる表現のうちで、もっとも住宅らしくない使い方をして、まわりの住宅とのちがいを出し、しかし、住宅とは人が集まるところとするならば、他の要素を重ね合わせて人を自然に集める。

見た目の住宅感を装飾してつくりだすのではなくて、人が自然と集まる場所としての住宅感をだしたかった。そうすることで、人と住宅のつながり、人ともののつながりが自然にでき、それが愛着にならないかな。

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壁あるな、ないな

いつもいっしょでなくても、あそこにいるというのがわかれば、とくべつ意識しなくても、安心した気持ちでいられる。つながったり、離れたり、何ごとにも関係性はできる。人にたいしてだけでなく、でも人かな一番は。さっき宅急便が指定時間よりおくれてきた。大事な荷物だったから、でも今どこかにあるのかわからなかったので、来なかったらどうしよう、などと思ってしまった。

小さい家でも、いや小さい家だから工夫しないと、それぞれ自分だけの場所をつくって閉じこもるような気がした。だから、少しでいいからお互いに今いることがわかるような工夫をしてみた。

階段を上り下りするときにチラッとみえたり、室内の窓から顔がみえたり、半階ズラして同じ場所にいても自分の場所ができるように。

いつも、まったく壁がないときと壁だらけのときの間のどのあたりがちょうどよいのかをさぐってみる。それは、いろいろなつながりが壁の量にあらわれるからで、壁の量が暮らしをつくりだすと思えば、暮らしや空間を壁ではかることができる。壁のあるなしが気になるのは人でも空間でも同じだなぁ

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となりもこちら

となりは何気にみえてしまうから気になり、「隣の芝生は青い」ことになるのはよくあるでしょう。となりは良くみえるものと、わかっていてもなんか落ち着かない。ならば、一緒に何かをしてしまえば、「なんだあ」と相手をよく知ることができて、落ち着いたりする。

前に、兄妹クライアントの住宅を別々につくった。そのときはひとつの敷地を半分にして、となり同士に建てる計画、要望はまったくちがったが、全くつながりがない住宅を並列に建てるのは、なんかよくないと思った。そもそもつながりがある同士だから、住宅にも何かつながりをつくりたい。

ただ、もともとつながりがある同士だからゆえに、離れていることも大切、だとは思っていた。そこで、玄関にいたるアプローチだけを共有にした。となりの敷地までお互いにつかうことで、倍のはばの通路がとれ、そこはお互いの家族の遊び場にもなる。

要望がまったくちがったので、住宅の大きさも外形もちがうが、外壁の仕上げだけは同じにして、つながりがあるもの同士だと表現し、アプローチに面する窓もお互いにズラしながらも、窓越しにコミュニケーションできるようにした。

アプローチだけを一緒にすることで、別々だけどまったく別ではなく、かと言って、よくある建売住宅の並びのような同じさにはならない。このバランスならば、「隣の芝生は青い」ことにもならないでしょ。

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ここからみる屋根はどう

遠くからみえる屋根が郷愁をさそうことは、たとえ実際に体験したことがなくても、なっとくしてしまう人がいると思う。むかし、合掌造りの集落を訪れたとき、だんだんとみえてきた三角屋根は、はじめてみるものでしたが、どこか前から知っているように感じた。なぜだかわからないけど、子供に家の絵を描かせると三角屋根になる。屋根にはそれだけイメージや感情とむすびついた何かがある。別の言い方をしたら、アイコンのようなもので、屋根は人の意識の一部に常にあるのかもしれない。

屋根の形にはいつも悩んでしまう。意識の一部にある屋根は誰でもイメージしやすいものとして常にスタンバイしているから、形はわかりやすく、イメージしやすいものがいい。ただ、それではアイコンとしては弱い。数あるアイコンとしての屋根がならぶ風景の中で自分のアイコンだとわからなくてはいけない、自分の家だから。

前につくった住宅は三方向から遠景としてみることができた。だから、三方向の全てでみえる屋根の形を変えた。屋根の形を考えるとき、まわりの屋根と比べることがある。それは高さや形がアイコンとしてふさわしいかどうかをみる場合、まわりのアイコンとちがいを出したいから。ただ、このときは比べる相手を三方向の屋根の形同士にした。

みる方向によって屋根の形がちがうことで、無意識に家と自分の位置関係を感じる。それは屋根の形を、単なるアイコンではなく、家と自分をもっと深く強くむすびつけるものにし、より愛着がわくようになる、家に、そして自分に。

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まじめに緩くして

たくさんの器、昔のものも今のものも、古染付や古九谷、民藝など1日でたくさんみることができた。器にくわしくはないけれど、器は大すき。ふだんの暮らしの中で何をつかうのか、どの器に盛ろうかな、どの器で飲もうかな、と迷うのがすき。

いろいろみて思ったのがつくる側とつかう側、みる側と言ってもいいかもしれないけれど、お互いにちがうところが気になる。つくる側にはつくる側の動機があり、つかう側にはつかう側の流儀がある。みる側はその両方を合わせ持つのかもしれない。

ときに、そのつくる側とつかう側のズレがおもしろい。つくる側の精緻さの具合いによって、生まれるものの良し悪しは決まるが、つかう側はその精緻さの具合いまで含めて迷う。

ふだんの暮らしにはその人の趣味趣向がでる。趣味趣向はその人の考えや想いのあらわれ。ただ、人は気分にも左右される。かっちりしたいときは精密なものを、おおらかにしたいときは緩いものを、というように精緻さの具合いまで趣味趣向の範疇になる。

そうすると、つかう側からみて、緩いもの意識してまじめにつくってほしくなる。そうなると余計おもしろい。今度はその緩さの具合いに良し悪しがあらわれてくる。ただ、つくる側は大変、緩さを精緻につくろうとするのだから。

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そちらに向けばいいのに

どちらを向くかってけっこう大事だなと思いながら、ついよそ見をするクセが。よそ見はいつでも向けるからという余裕かもしれないけれど。

東西を電車と道に挟まれた場所ではどちらを向いても空いているが、どちらを向いても視線が気になる。元の家は暗くて寒い。ただ、南と北は建物が接近している。一般的には南に開くのがよくあるパターンだけれども、空いている方に開く方が将来的に周辺環境に左右されない。電車にちょっとだけ開く、道にちょっとだけ開く、あと空にちょっとだけ開く。

開くはそちらの方へ向くことだが、ちょっとだけ開きながら背を向けることもできる。そうすると案外、外から見てもわからない。ちょっとだけ開き背を向けるとは中から見て視界の半分までの窓をつくること。経験上、半分までは窓にしても中外どちらからも気にならない。よそ見もいいいけれど、きちんと向いた方が今までのことを一旦保留にできて、新しい機会が増えるような気がする。

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ミニがいいだろうという顔

ほとんど車に乗らないのに持ってはいるので、たまにバッテリーが上がらないように用もなく走り回る。2台とも小さい、軽トラと古いミニクーパー。やはりないと困るときがあるので、あと愛着。もともとあまり車に興味がなく、必要に応じて軽トラと、あのときなんかほしかったミニクーパー、すでに27年がたつ。小さくても全く乗り心地がちがう2台、ミニから軽トラに乗り換えると、軽トラが広くただ走りは鈍く感じる。やはり自分はミニの小ささと軽快な走りが大好きなんだと毎回気づく。

前は狭小住宅の依頼がけっこうあったので、小さいなりの工夫をしていた。小さいなりの工夫とは、効率よく機能的にして省スペース化を実現する、ことではなくて「小さい」から「大きい」にはできないことをして「大きい」よりも「小さい」方がいいだろうという顔をするということ。

小さいが故に実現できることを探し出せば、大小のちがいをいったん保留にできる。そうした上でクライアントの暮らしに合わせていけば、まだ見ぬ空間ができあがるかもしれない。

前につくった住宅はあまりに小さくて必要な広さの空間がとれない。どうしてもひとつの空間に複数の行為が重なる、例えば、朝に顔を洗う横で目玉焼きをつくり洗濯をしているとか。一見それは乱雑な空間のように感じるが、それがクライアントの朝の習慣で、細長い空間の中で順番にできたら、クライアントにとっては快適で、さらにその空間がまだ誰も見たことがない景色になる可能性を小さいが故に実現したことになる。

「小さい」ということは制約だが、それは「大きい」も同じで別の制約がある。大小はひとつの条件にすぎず、可能性に差はないとミニに乗るたびに思う。

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見るは見られるだよ

着ている服が変わっただけで、たとえば安もののスーツでも、ふだん着ていない人が着るとよく見えたり、別人に見えたりする。中身が変わったわけではないけれど、中身まで別人のようで、案外本人も知らないうちにふるまいが変わる。そう自分もはじめて着物を着たときにそれを感じた、それは別の自分の発見にもなった。だから、たまにいつもとはちがうことを、それも他人から言われた方がいいかもしれない、自分の思いつきだとまた同じになるから。

ある時、前につくった住宅の屋根にあがるときがあった。たしかクライアントから何かを見てほしいとたのまれてのことだった。その住宅にはトップライトがあり、2階の床がガラス張りだから1階まで屋根から見える。トップライトの真下はダイニングテーブル、テーブルの上にはいろいろなものが置かれ、人が座ったり立ったり動いているのが見えた。いつもとはちがう見え方、日常では見ることができない風景、四角いトップライトが切り取るある家族の日常を記録映像風に見ているようだった。

設計しているときにはこのイメージはなく、むしろダイニングテーブルから見上げる空のイメージしかなかった。他からトップライト越しに室内を覗かれることはないので、見ることだけで見られることは考えていなかった。

ただ、この風景を見てからトップライト越しに見上げる空が身近に感じるようになった。うまくは言えないけど、一方通行の関係が双方向になったような。どんな風景でもこちらも見られていると思うと見せ方は変わるだろう。ならば見られることを身近に親近感を持って感じた方がいい。そうして生まれた別視点が新たなもの、例えば新たな自分、新たな暮らし、新たな空間を生みだすかもしれない。

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ものは試しに、飽きたらそれで

昔のツァイスレンズをデジタルで使いたくてカメラを手に入れた。ものは久しぶり、最近は形がないものに、と思ったら最近マグカップが増えた、毎朝のコーヒーのために。ツァイスレンズは15年くらい前に手に入れたもの、ずっと防湿庫に閉じこもっていたけれど、最近写したいものができたので防湿庫の鍵を開けることにした。せっかくカメラを手に入れても飽きたらどうしようとも思ったが、それならば飽きたという経験ができるからいいかなと。

時々、自分ではやらないが面白そうなオーダーを受ける。前につくった住宅ではすべり台がほしいという。ずっとマンション暮らしだったから、2階建ての住宅に住んだことがなく、階段の上り下りが面倒くさい、だからすべり台とのこと。

そもそも広い住宅ではないから、すべり台のスペースがもったいないし、たぶんまちがいなく飽きると思ったので、クライアントに正直にやめた方がいいと言って思った、見方をかえれば、下りの時は1階と2階の区別はなくなり1階と2階はつながる。

結果この住宅は、そもそも2階にある個室に壁がなく戸で仕切るだけ、1階はワンルームのキッチン、ダイニング、リビングだったので、2階からみれば全てがつながって感じられ、逆に1階からみれば階段があることでちがいが出て壁がない2階のプライベート感が増し、個室に壁がないことがよりよくなる。

試しにやってみて飽きたらその時考えればいいかな、いくらでもやりようはある。飽きたらすべり台に下から本を並べれば、階段が図書室に、積読にはもってこい、読みたいところに座ればいい。

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甘い誘惑にみたされて

空気を感じる、というと何か人間関係や場の雰囲気など目に見えないものをわかることを指すけれど、それを建築に当てはめてみることもできそうな。

建物があると人がいて、その建物と人との間には空気が充満している。空気は見えないけれど、もし空気に色をつけるならば、建物の外の空気と中の空気はちがう気がする。

その中の空気のことをボリュームといえば、ちょっとふわふわなやわらかい透明なマシュマロを思わず想像してしまう。人のまわりにある透明なふわふわマシュマロをどのようにあつかえばいいか。壁を建てないと流れ出てしまうが、壁の建て方によってはふわふわマシュマロでもみたされない場所ができそうな、きっとそういう所は人がいなくてもいい場所か、ひとりになれる場所になるのかな。

空気とすると冷たい空気、温かい空気などそれはそれでなんか良し悪しがあって窮屈だが、マシュマロだと思えばなんか笑えてくる、甘そうで、甘いものに弱いから誘惑されそう。日曜だからとぼんやり妄想してみたら、案外ヒントになったりして。

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キョリを感じるとき

キョリという言葉をすぐとなりの人にも、実際にはすぐとなりだから離れていないのに「心の距離がある」などとつかう。キョリというものは実際に目に見えること以上に多様な使われ方をする。

建築においてキョリは図面上の表現になる。その表現にさまざまな意図をのせるが、その意図はキョリと密接に関係しながら、読み取らないとすぐにはわからないときも多い。

例えば、壁を間に建てればお互いに遮断しているとわかるが、壁を建てたくないときは、間を離してキョリを取る。壁があれば目で見て遮断はわかるが、キョリを取ったときは他のものとのつながりも同時に見ないと遮断してるのか、つながりは保とうしているのか、どちらなのかがすぐにはわからない。表現がより複雑になる。

前につくった住宅で個室の壁を無くした。そのかわりに引戸で仕切り、個室状の空間を数珠つなぎにつなげた。各個室状の空間は大きさが微妙にちがう。誰がどの空間を使うかは大きさとお互いの離れ、すなわちキョリで決める。別に固定する必要もない。家族の成長に合わせてキョリも調整すれば良い。キョリの多様な使われ方を利用してみた。

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となりに緑がほしい

緑に包まれたい、ただ見るだけでなく緑に抱かれるような感じで過ごしたい。緑の多い場所、山や森や林に行きたい時はきっとそう思うのでは、私はそう思う。ただ見るだけならば、ちょっと緑の多い場所、都市のちょっと大きな公園などでも、それではもの足りないから自分のとなりに緑があるくらいの近さがほしい。そうすると、自分と緑との間にどのくらいの空間があるといいのかなどと思ってしまう。

自分は建築の中にいるとしたら、建築と緑との間にどのくらいの空間があるのがいいのか。建築の中に緑があったとしても自分との間に空間はできる。ようするに緑との接近度、親密度を間にある空間の大きさ具合ではかろうということ。

緑は自然、建築は人工、自然と人工の対立は昔からある話で、くっきり分けるのではなく自然と人工を混ぜたような状態も考えられるが、いずれにせよそこには人がいて、人は本来自然の方のはずだが、人と自然という対立になる。そうするとややこしくなるので、間にある空間を扱って人と自然をどのようにつなげるかをめぐらしてみると、案外単純な話にならないかな。

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じゃまなら合わせるのは

家を建てると皆んな緑を置きたくなる。プランターを外に置く人、家の中に置く人、大小いろいろだけど何かしら緑を増やす。それを勝手に自然の中で暮らしていた名残りではないだろうかと思ってる。

人間は大昔自然の中にいて最小限の自分を囲う小屋や巣のような場所で暮らしていた。それは身を守るため、ほかの大部分は自然だった。それがいまでは逆転し大部分が自然ではない人工のものになった。それで大昔のような危険はなくなり身を守る必要はなくなったが、今度はあまりにも自然がなくなりすぎて、それでは身が休まらないと本能的に感じているのかもしれない。人工のもの、すなわち建築がわるいという訳ではないが、人間という生物が生きて行くには自然と人工のバランスがあり、都市部ではバランスがわるいということだろう。

敷地の中に10本の木を植えようと計画している。なぜ10本かは10家族が暮らす予定だから、ひと家族1本、それによって暮らしにいつも木をまとわせる。だから、建築もはじめから木をまとうので、木のまとわせ方が建築を決めていく。それは木の方から建築をみることになるので、建築がじゃまならば建築が木に合わせることになる。

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ひとりになれたね

なんか大変そうだな、はじめての打合せで感じたことを貴重なヒントだと思って気にとめてみた。これから建物をつくろう、住宅を建てようとする人はどこかいつも勇ましくみえる。新しいことをするとき、思い切るとき、ちがったことをするとき不安をかき消すためにちょっと背伸びしたくなる、そのぶん見栄えがよくなるのかな。

ときに住宅だと家族のつながり具合がプランに影響を与えるときがある。余程ちがいを感じないかぎりはそのようなことはしないが、できれば感じたことをうまく建築的な要素として取り込み、ちょっと他にはないものを提案したい。

先ほどの「なんか大変そうだな」は以前につくった住宅のご主人、こちらまで息がつまりそうな気になった。プレッシャーを抱え込む感じ、それだけ家族を大事にしようと。初回の提案からひとつの住宅の中に離れをつくった。簡単に言えば外部であるバルコニーを通ってしか行けない部屋。ただし、その部屋は内向きに窓があり開けるとリビングからもお互いの存在がわかる。ご主人がひとりになれて好きなときに家族とつながることができる、ご主人しだいのご主人だけの場所。

昔から部屋の並びには序列があり、一番奥の部屋ほどプライベートで閉鎖的につくられていて重要な場所だとされてきた。その序列はときに有効だが、ときに住宅の規模くらいの建築だと序列を誘導し助長してしまう。ワンルームにして序列を全くなくしてしまうこともできるが、奥の場所と手前の場所につながりをつくり出すことができれば、部屋の並びは残しつつ序列は排除できる。この方がより建築としては望ましい方へ行けるだろう。

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たまたま屋上だった

高所恐怖症なのに高いところが好き、高層ビルでも屋内ならどれだけ高くても平気、むしろ行きたくなるのに、生身の身体がさらされているところは2階くらいの高さでも怖いから足場の上にはできるだけ行きたくないのに。ただ不思議なことにいまはないWTCの屋上は外に出れたが怖くなかった。あそこまで高いと地上から離れすぎているからかな。

2階くらいの高さでも屋上は貴重な外とつながる場所だと思い計画することがある。建設中何度も見に行くので慣れれば怖くない、むしろ地上とはちがう楽しみを発見する。見渡すと案外上空をうまく使っていない家ばかりなので、地上の庭よりプライバシーが守られて広大な空に近いから解放感があり快適な場所になる。

ただ、だんだんと使わなくなるときく。たぶんそれは屋上というスペースをとってあるだけだから、とくに使わなくてもいいから。強制的に使わせようとしてもダメだが、ないと困るというか、あるから良いとなるような工夫が必要。

前につくった家では屋上で遊ぶ姿が直下のリビングから見えるようにした。人が集まることができる場所、戯れる場所を分散することで家中いたるところがリビングのようになる。たまたま屋上が外のリビングになればいい。きっとこの「たまたま」な感覚が大事で強制はされないがあれば楽しめる場所になる。

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上を見上げてごらん

曇り空がきらい、雨の日は雨音が癒やしてくれるのでまだいいけれど、朝起きて晴れているだけで一日中気分がよく、特にいまの季節の秋晴れは気候もいいので窓を開け放して過ごしたくなってしまう。

いま住んでいる家は築50年、10年前くらいにある住宅メーカーが建てた家を購入し手を入れた。道路から奥まりまわりは建物に囲まれて1階にあったキッチンとリビングは日当たりが悪かったので、1階と2階の部屋を逆転して、キッチンとリビングを2階にした。おかげで晴れの日は一日中陽が適度にあたるのでずっと快適に過ごしていられる。

まわりを建物に囲まれることは住宅地以外でも、例えば商店街などは道路側以外はとなりの建物が接近している。そういう場合でも上階にはオーナーが住む場合があり、時には住宅地よりも日当たりが悪い。

日当たりが悪いことを別の言い方で「眺望が悪い」「閉鎖的」とも言えると思う。南側に窓がなくても他の方位に窓があればあまり日当たりが悪いとは思わないだろう。だから一番避けたいことは眺望がなく閉鎖的であること。

空は地上の事情とは関係なしに平等な存在。そんな空とつなげることが眺望を得て開放的になれ、そして、いまいる地上の状況を相対的に良くしてくれる。上を見上げれば良こともある。

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小さいから魅力的

小さいものが時に魅力的で、その魅力はどこからくるのだろうか。1995年に新車で購入したミニクーパーにまだ乗っている。その小ささが特徴的ではじめて生産された時の技術は素晴らしいものだったらしい。

今でも変わらず新鮮なままの体験が運転している時の感覚で、この感覚が実に楽しい。きっとそれは小ささに由来しているのではないか。小さい車体にエンジンやギアボックスなどを収めるために様々な工夫をし無駄な物を排除しているから、実に運転感覚がシンプルでアナログ。なかなかアナログな道具が減ってきている時に私にとっては貴重なストレス解消アイテムだ。

小さい住宅はいくつかつくった。あまり大小にこだわりはないが、小さい住宅の方が工夫しがいがあるから結果的に楽しい設計になる。室内では何かの存在自体を根本から見直ししないと入り切らないから、新しいことを考えるきっかけにもなる。

それは屋外でも同じで、小さい住宅というのはそもそも敷地も小さいので、余すところなく土地を使い切りたい。以前つくった住宅では敷地境界線までの距離を少し余計にとり、建物の周り四周に敷地境界線までウッドデッキを敷いた。普通に建てると敷地境界線と建物との間に普段使われることがない場所ができてしまう。その場所を室内と連続させることにより、小さい住宅の室内を少しでも広く感じさせることができた。

結果的に小さい住宅の方が敷地全体を余すところなく使い切ることになった。それは小ささに由来している。小さいということを積極的に捉えると大きいものでは獲得できない魅力に出会える。

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木が木に見えないよ

木は土の地面から生えている、だから何も見ないで木の絵を描いたら普通に地面には土を描くだろう。地面が土ではなかったらとは誰もイメージしない。だから、木と土の地面はセットであり、土の地面がないと木もないと思う。

突然木が目の前に現れた感じがした。そこは地面が砂利敷き、駐車場から続いた場所だった。砂利から木の幹だけが生えている、もっと言うと、どこかで伐採した丸太を持って来て、そこに立てて並べているようにしか見えなかった。

地面に土ではなく砂利を敷いたことで、地面と木がつながらなくなった、まるで別のもの同士、全く関係ないもの同士の組み合わせに見え、そうすると、木自体も木に見えなくなった。

今までの木とはこういうものという既成概念から抜け出た。そこで改めて木について考えると、例えば枝同士に渡して屋根をつくれば木は柱にしか見えなくなるなど、木が多様に変化しはじめるような気がした。

木が木に見えない、ならば木がある場が必ずしも屋外である必要がなくなる、あるいは、木がある場を屋内的な使い方をしても違和感がなくなる。既成概念を抜け出せれば、思いのままに木がある場を新たな空間にできる。

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庭があることで

先日の何もしない庭をつくった話のつづき、今は何かする庭をつくろうとしている。そこには1本の木を植えたい。むしろ木を植えたいから庭をつくろうとしている、と書いてふと思った、室内に木を植えたらどうなるだろうか、いややめよう、それも面白いが今は収拾がつかなくなる。

ただ1本の木を植えるだけでは庭にならない。その木があるからどうなの、ないとどうなの、庭の形は、庭のとなりに何がくるのなど、木を植える庭があると暮らしの中で何が変わるの?

以前に1本の木を植えた庭つきの住宅をつくった。その木はクライアントのお父さんが亡くなった頃から自然に敷地内に生えてきたらしく、残したいということで移設して庭の真ん中に持ってきた。その木はキッチンからもリビングからも眺めることができる、それが要望だった。

木が見えるということが家族のつながりを無意識に象徴することになった。庭は木のためだけにあるようなものだが、その庭がないとプランは完結しない。何もしない庭も同じだが、庭はあることでつながりをつくり出す、つながりがなければ庭はいらない。

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集まれその木に

たくさんの小鳥が木にとまり茂った葉の中で鳴いているのを何度か見た。ちょっと怖い風景でもあり、どうしてその木にと思う。小鳥に好かれている木は他と何がちがうのかと観察してみてもよくわからない。たまたまその木だったのか?

人にも好かれる木と好かれない木があるのだろうか。都市部にいると木が少ないからそもそも木の好き嫌いを思うことがなく、樹種にかかわらず大括弧で木としか思わない。でも、たくさんの木がある場所に行ったら自然と人が集まってくる木はありそうな気がする。

たくさんある木のうち、ちょっと根元に腰掛けやすそうだな、寄りかかりやすそうだな、張り出した枝の下は木陰になっていて涼しそうだなとか、人とのつながり方がイメージできそうだと自然と集まりそう。そうすると、小鳥には小鳥なりの人間にはわからないつながり方をしているということか。

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ここは空に近いよ

悩ましいのはいつも屋根のかたち、意外と屋根は目立つ。近くで見上げるとあまり見えないが、ちょっと離れると屋根がよく見える。なぜ目立つのか、たぶんそれは一番空に近いから、屋根の形がそのまま反転して空のかたちになるから。

2階の部屋は屋根のすぐ下にあるから、空に一番近い部屋となる。だから、それを表すために天井は屋根の裏の形をそのまま見せることが多い。無意識にここは空に一番近い場所だと、地面からは離れた場所だとわかってもらうために。

時たま天井をフラットにして空を意識させないようにする。そういう場合は2階にいながら地面を意識させたい時でだいたい広い庭か中庭がある。だから、狭小住宅の場合は必ずと言っていいほど2階の天井は屋根の裏を見せて、上へ空へ意識が抜けて少しでも広さを感じるようにする。

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階段ラバー

階段が好き、そう言うと階段に好き嫌いがあるのかと思われるかもしれないが、過去に1人だけ出会った階段好きに。妙に話が合い、その人はローマのスイペン階段が一番すきだと言っていた。私より若く学生だった彼の口から「スペイン階段」という言葉が出てきたのがちょっと意外で、でも納得してしまった。

よく階段に座りたくなる。2段分にかけて腰掛けるとちょうど椅子の高さと同じくらいになるから、階段を見ると休憩場所だと思うクセがある。スペイン階段もまさに腰掛けだ。

階段はいろいろなバリエーションをつくってきた。階段好きもあるが、階段はひとつの見せ場だといつも思う。階段を上がることは舞台に上がるようなもので、別の世界に運んでくれる。だから、上がった先には何かを用意したいし、上がっている途中も何かを感じさせたい。

別の場所へ行くために、時には休み、時には何かを感じ考え、時には下り、時には上がる。階段はいろいろと例えることができる。それはまるで何かのようでもあり、だから好きなのかな。

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壁なくてもいいよ

まず外と内というような分け方をします、家の話なのですが、案外他のことにも当てはまるかもです。領域というかテリトリーというか、自分たちの安全地帯をつくるように壁を建てて室内をつくります。

その室内に一緒にいる人たちは家族や仲間だから安心、でもお互いに隠したいことはあるからまた壁を建てて囲います。そうやって家はできます、古来より簡単なんです、家づくりは。

ただ、壁のバリエーションはいろいろです。それは人とのつながり方と同じです。何度も会い本当に親しい人から一度きりの人までいて、人によって会った時の感じがちがうようにです。

前に建てた住宅で壁が必要ありませんでした。1階は家族が集まるスペース、2階は各自のスペース、その2階に壁がありません。正確に言うと、引戸があるだけ、必要に応じて仕切るだけ、でもそれは壁ではないです。ご夫婦とお嬢さん2人のご家族、壁がなくてもいい暮らしができることをうらやましく思いながら設計してたな。

壁が必要だと、壁で囲うのが当たり前だと思うことで人のつながり方まで決めつけていたようです、壁はなくなった方が面白い空間ができるのに。

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何もしない庭つき一戸建て

庭つき一戸建て、なんて言葉があるようには庭と家はセットだった、一昔前までは。今ではマンション暮らしの人も多いし、一戸建てを建てる人も庭などはじめからない場合も多い。マンションだから、敷地が狭いからと理由はあるだろうが、そもそも庭が必要ないのだろう。

前に建てた住宅は1階のリビングと同じ大きさの庭をつくった。その庭にはウッドデッキを全面に敷いて室内のリビングの床と同じ高さにした、リビングの延長として広く見せるためとリビングに光を取り入れるために。だから、はじめから庭に出ることは考えていなかった。それで十分で、それで豊かな生活になるだろうと思った。

その庭はリビングが十分に広くて日当たりが良ければなくてもよく、ただリビングとつながって見えるようにするためにウッドデッキを敷いた。そうしないとその空間が生きないから、生かすためにリビングの暮らしと関連づけて何もしない空間をつくった。

10年後その住宅に訪れるとウッドデッキは多少古びたが完成当時と変わらずに何もしない空間があった、まるでそこの空間だけ時間が止まっているように。きっとそう見えたのも何もしない空間だから、でもそれがよかったのである。何もしなくても庭はあった方が日々の生活が豊かになると、室内を見渡して、ご家族を見て思った。

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空を使う

空って当たり前のようにいつもあるけど、うまく使えていない。窓越しに空は見えるけど景色の一部、天気を気にするくらい。使うという表現がいいかどうかわからないが、空だけがみんなに平等に与えられた自然のような気がするから、うまくいかさないともったいないとつい思ってしまった。

自然には他にも緑、木や水辺の川、海、地形として山や谷などがあるけれど、場所によっては身近にはない。だけど空だけは見上げれば誰の上にもある。

建築で空をいかそうと天井をガラス張りにした家を見たことがある。誰でも一度は考えることだ。ただそうすると、夏は暑過ぎて、冬は凍るように寒く、人が住める場所ではない。

空を使うって案外むずかしい。それに空を使わなくても建築はできてしまう。だから誰も真剣には考えないのだろう。ちょっとは空を使ってみてはどうなの、と秋空が教えてくれたような気がする。

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建築にマヨネーズ

コールスローをつくろうとしたら冷蔵庫にマヨネーズがなかった。普段マヨネーズを使うのはあと玉子サンドをつくる時くらいで、それもあまりつくる訳てはないから大体使い切らずに消費期限を過ぎてしまう。キャベツの千切りを別の食べ方にしようかとも考えたが、

ふとマヨネーズをつくろうかと思った。

ネットで調べたら、材料は全て家にあった。卵、酢、オリーブオイル、塩を混ぜればいい。卵は平飼いのもの、取り入れる油はオーガニックエキストラバージンオリーブオイルかグラスフェッド無塩バターだけと決めている。少し高いが他のものは使わないのでかえって安上がりだ。

10分後、オリーブオイルを使うからちょっと苦めのゆるい出来立てのマヨネーズはそれだけで贅沢なソースに変身した。あと茹でた野菜やパンがあれば、ヨーロッパでは平日の立派なディナーだろう。

結局、もうマヨネーズは買わない。

その分、冷蔵庫のスペースは空くし、余計な出費もなくなり、贅沢な気分にもなる。ちょっとしたことである。

ないから足すのではなくても、自作しても、ものを減らしてミニマリストにしても、あるいは、余分なものを削ぎ落としてレスイズモアなミニマムデザインな建築にしても時につまらないことがある。きっとその原因は結果的に新しい価値を獲得していないからである。マヨネーズで言えば、自作するが市販のマヨネーズの代替品でしかない時である。

そうそう関係ないが一昨日見たリヒターの作品は当たり前のように巨匠の域であったが、

マヨネーズ工場のようにも見えた。

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1本の木が森になるか

森の中で暮らすにはどうするかと考えながら設計をしているのだが、敷地が東京の区部でそれを実現するには広大な土地が必要になり無理だな、とぼんやり赤坂の迎賓館あたりを見下ろしながら考えていた。

森の中にいる感じを木の量で実現しようとすれば広大な土地が必要になる、当たり前である。では量でしか森を感じることはできないのか、探究のはじまりである。

1本の木で森を感じることはできないか。

普通に考えたら、というかそもそもおかしな問いの立て方である。1本の木が森になる、小学生の時に習ったはずである国語の時間に、木が2つあって「林」、木がたくさんあって「森」という漢字になると。まともな捉え方では解決しない。

ちょっと別視点から、その木は誰ものか。

自宅の玄関脇に1本のオリーブの木がある。最初は親指ほどの幹が今では私の太腿より大きい。毎年実をつけ、どんどん成長していくので自分で手入れをしている。また、2階のキッチンの窓からはお隣の木を見下ろすことができる。こちらは何の木だかはわからないが常緑で小鳥もよくやってきて鳴いているので、毎朝窓を開けてコーヒーを飲みながら眺めている。

どちらがより森にいる感じに近いか。

どちらも森にいる感じではないと言われればそうだが、強いて言えば、お隣の木を眺める方ではないかと思った。

そこで所有が鍵にならないかと考えた。

森を感じる時に自分のものであるかどうかは最初から頭にない。当たり前である、森の木と自分との間には何も関係性が無いから。関係性が無いから自分勝手に想いを抱き、そこに癒しを求めることができる。

長屋計画である。各長屋の中庭に1本の木を植える。ただし、その中庭は外部からアクセス可能であり木も共有である。長屋の数だけ木がある。10戸近く長屋があれば木もそれなりに目立つ、ただし、自分の木ではない。この感じは森に近いのではないか、そして、各長屋では木に接近した暮らしが実現できる。

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慣習以外の視点

日本では敷地の中で建築は北側に配置し、南側に庭を取るのが一般的である。その一番の理由は日当たりを確保することで、四季がある日本では季節により太陽高度が違い、その差が室内環境に大きく影響を与えるから、太陽高度の知識が無くても慣習的に建築の北側配置、南側に庭というパターンが昔から定着しているのだろう。ただ当然、人の暮らしや生活は太陽高度だけで決まる訳ではないから、このパターンとは違うことを考え比較する。その時にいつも思うのが建築は北、庭は南というパターンの説得力の強さである。それだけ人の暮らしや生活を慣習以外の視点で捉えることが難しいということである。だが同時にそこにデザインのヒントがあるとも思う。

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"A Perspective Outside of Convention"

In Japan, it is common to place the building on the north side of the site and take the garden on the south side. The main reason for this is to ensure sufficient sunlight. In Japan, which has four seasons, the altitude of the sun varies depending on the season, and this difference greatly affects the indoor environment. The pattern of arranging on the north side and the garden on the south side seems to have been established for a long time. However, of course, people's lives and lifestyles are not determined only by the sun's altitude, so I will compare things that are different from this pattern. At that time, I always think about the strength of the persuasive power of the pattern that the architecture is in the north and the garden is in the south. This means that it is difficult to understand people's lifestyles and lifestyles from a perspective other than customs. But at the same time, I think there are design hints.

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SNSを眺めながら

SNSはすべてのことを時系列で並列にしてしまう。それはSNSを見ているだけで勝手にすべての物事が時系列で相対化されることである。下から上に向かって相対化された物事が勝手に羅列されて積み上がっていく様は考えることを放棄させる。本来物事の相対化が考えることであり、SNSを見ていると何も考えていないのに考えているような錯覚に陥る。それはSNSを使って何かを仕掛ける側にとってはパラダイスなプラットフォームなのだが、享受する側にとっては頭の向きを自身で変えることができないように固定されているようなものだとSNSを眺めながら思った。

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"While looking at SNS"

SNS makes everything chronological and parallel. It is that all things are relativized in chronological order just by looking at SNS. The way things that are relativized from the bottom to the top are arbitrarily listed and piled up make me abandon thinking. Originally, thinking is to relativize things, and when you look at SNS, you fall into the illusion that you are thinking even though you are not thinking about anything. Looking at SNS, I thought that it was a paradise platform for those who used SNS to set things up, but for those who enjoyed it, it was like being fixed so that they could not change the direction of their heads. .

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奥はプライベートなスペース

住宅街の中で大きな敷地があると分割されるケースが多いが、分割せずに一塊の建築にしようとすると必ず奥の部分ができる。奥の部分とは道路から一番遠い場所である。一般的に建築の場合、道路側から順に奥へ向かってパブリックなスペースからプライベートなスペースへと変わっていく。だから、プライベートなスペースをつくりたい場合、奥にあるということだけでプライベートなスペースだと認識されてしまうので、建築としては特に何もする必要が無くなる。これは人の認識を利用する訳だが、大きな敷地の場合、それだけ建築の配置計画が重要であることを示している。

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"Private space in the back"

In many cases, when there is a large site in a residential area, it is divided, but if you try to build a single building without dividing it, there will always be a back part. The back part is the farthest part from the road. Generally speaking, in the case of architecture, from the road side to the back, the public space changes to the private space. Therefore, if you want to create a private space, it will be recognized as a private space just because it is in the back, so there is no need to do anything in terms of architecture. This is based on human recognition, but in the case of a large site, it shows that the architectural layout plan is that much more important.

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形を構成して風景をつくる

雑多な要素が日常には溢れる。それを入れる器として住宅を考えるならば、雑多な要素を物理的に見えなくしてしまうか、見えている要素を意識させなくするか、あるいは雑多な要素を美しいものに変換させるかが必要だろう。それらを端的に言うと、見えなくするには収納を多くする、意識させなくするにはより強い強度のもので雑多な要素を覆う、例えば、大屋根や高い天井で覆う、そして美しいものに変換するには雑多な要素を主役にして室内風景の一部あるいは室内風景を構成する一要素としてしまうことである。

このうち美しいものに変換することに興味があり、雑多な要素を主役にすることは外部における見え方である景観にも使える。雑多な要素を風景の一構成要素にする場合、雑多な要素の中での共通事項を取り出して構成するのが良く、その共通要素は形だと考えている。

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"Composing shapes to create landscapes"

Miscellaneous elements overflow in everyday life. If we think of a house as a container for it, we must either make the miscellaneous elements physically invisible, make the visible elements invisible, or transform the miscellaneous elements into something beautiful. . To put it simply, to make it invisible, we need more storage, to make it invisible, we cover miscellaneous elements with something stronger and stronger, for example, cover it with a large roof or high ceiling, and transform it into something beautiful. To do so, it is necessary to make miscellaneous elements the leading role and make them a part of the interior scenery or an element that composes the interior scenery.

Of these, I am interested in transforming them into something beautiful, and making the miscellaneous elements the main characters can also be used for the landscape, which is how it looks on the outside. When using miscellaneous elements as a constituent element of a landscape, it is better to take out common items among the miscellaneous elements and compose them, and I think that the common element is the shape.

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ただ空間があるだけ

中庭を持つコートハウスを設計しようとすると、自然と中庭に何か意味を持たせてしまう。特に意味を持たせないでただ空間があるだけ、誰も利用できない、ただ眺めるだけで、空白地帯のように扱ってもいいのに空間を隅々まで無駄なく使おうとしてしまう。それはもしかすると空間の可能性に気づけなくする行為かもしれない。ただ空間があるだけ、それをどう使おうかと考えることも暮らしなのではないか。それこそその方が自分にとっての暮らしとは何なのかと考えるキッカケになり、自分の暮らしの可能性を広げることにもなるのではないかと考えるクライアントでありたい。

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"There's just space"

When you try to design a courthouse with a courtyard, you naturally give the courtyard some meaning. It's just a space without any particular meaning, no one can use it, you can just look at it and treat it like a blank area, but you try to use every corner of the space without waste. It may be an act that makes us unaware of the possibilities of space. Just because there is space, isn't it part of life to think about how to use it? I would like to be a client who thinks that it will be an opportunity to think about what life is for him and that it will also expand the possibilities of his life.

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楽しい暮らしは想定しない

建築空間を生み出す時に予め楽しいだろう暮らしを想定しないことで新たな建築の価値が生まれるだろうと考えた。あらゆる種類の建築空間を実際に見聞きしてくると、空間とその空間を使うことでの楽しさがリニアにつながり、それが建築全体の枠組みと化してしまう。この建築全体での枠組みが建築を見慣れたものにしてしまう。いわゆる既視感である。既視感には安心感はあるかもしれないが、新たな建築の価値は生まない。

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"I don't expect a happy life"

I thought that a new architectural value would be created by not assuming an enjoyable life in advance when creating an architectural space. When you actually see and hear all kinds of architectural spaces, the space and the enjoyment of using that space are connected linearly, and it becomes the framework of the whole architecture. This framework of architecture as a whole makes the architecture familiar. This is the so-called déjà vu. A sense of déjà vu may provide a sense of security, but it does not create new architectural value.

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木を利用する

外の空間の話。水平方向の連続した壁があり、それは木造であったりRC造であったりして、その壁同士の間に木がある、あるいは木と木の間に壁がある。そこには何も関係性は無く、あるのは壁の連続性と木の点在である。はじめから何かそこに意味付けをしたくなく、不規則に変化する木を利用し、木が成長していけば壁との関係が、さらには建築まで含めた関係性がその都度変わり、そこに住人のアクティビティも加わり、当初の思惑とは違うことになるだろう。コントロールすることでできる関係性がつくる空間は予想に反した驚きが生まれない。また、その壁が室内にも対となり現れる。室内から外へではなく、外から室内へとつなげることにより住空間にも木を利用した予想外のことが生まれる可能性がある。それは建築の存在に木が深く関わることを意味する。

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"use wood"

Talk about the outside space. There are continuous horizontal walls, which may be wooden or reinforced concrete, with trees between them, or walls between trees. There is no relationship there, just the continuity of the walls and the scattering of trees. I didn't want to attach any meaning to it from the beginning, so I used a tree that changes irregularly. Residents' activities will also be added to this, and it will be different from the initial speculation. A space created by a relationship that can be controlled does not create unexpected surprises. The walls also appear in pairs in the room. By connecting the outside to the inside instead of the inside to the outside, there is a possibility that unexpected things will be born using wood in the living space. It means that trees are deeply involved in the existence of architecture.

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水平方向のレイヤード

外が連続して室内に至る、また逆に室内が連続して外に至る。外と室内の関係性をきっちりと分け隔てるのでななく混在させようとしたら、連続的にレイヤードさせようと考えるだろう。レイヤーというと垂直方向の層の積み重ねをイメージするが、水平方向にも適用できる。垂直方向ならば床をレイヤーとするが、水平方向ならばレイヤーは壁になる。壁が連続的に配されていく様である。水平方向のレイヤードは人をプライベート空間からパブリック空間までシームレスにかつ不連続につなげることを可能にする。さらに壁には様々な機能を組込むことが可能であり、エコや環境に配慮するために外と室内を分断することに対して外と室内の連続性を担保しつつエコや環境に配慮することができる。

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"Horizontal Layered"

The outside reaches the interior continuously, and conversely, the interior reaches the exterior continuously. If you try to mix the relationship between the outside and the inside instead of separating them, you will probably think of layering them continuously. When we think of layers, we imagine stacking layers vertically, but they can also be applied horizontally. If it is vertical, the floor is the layer, but if it is horizontal, the layer is the wall. It seems that the walls are arranged continuously. Horizontal layering makes it possible to seamlessly and discontinuously connect people from private spaces to public spaces. In addition, it is possible to incorporate various functions into the wall, and in consideration of ecology and the environment, it is possible to separate the outside and the interior, while ensuring the continuity between the exterior and the interior while considering ecology and the environment. can be done.

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外装の批評性

外装だけを抜き出して考えてしまう。外装は外部環境と内部空間の間に一皮一枚だけ存在し、建築に一枚の布を被せるようなイメージである。その布はその時々で変化する。それはまるでTPOに合わせて変える服のようである。今回はどのような服を纏わせるかと考える。その服は装飾的で目立たせる場合もあるし、周辺環境に馴染ませようとする場合もあるし、馴染ませつつ違った形で映えようとする場合もある。いずれにせよ判断基準はその場所での相対的な立ち位置をどこにするかであり、その外装の存在が周囲に対して批評性を帯び、それがクライアントの所有欲を満たすことにつながることを目指し、引いてはそれがよくある住宅への批評性を帯びると考えている。

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"Criticality of Exterior"

I pull out only the exterior and think about it. Exteriors exist as a single layer between the external environment and the internal space, giving the impression of covering a building with a single sheet of cloth. The cloth changes from time to time. It's like clothes that change according to TPO. Think about what kind of clothes to wear this time. Sometimes the clothes are decorative and stand out, sometimes they try to blend in with their surroundings, and sometimes they try to blend in and look different. In any case, the criterion for judging is where the relative standing position in the place is, and the existence of the exterior is critical of the surroundings, aiming to satisfy the client's desire to own. , and by extension I think it takes on a critique of ordinary housing.

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中庭は空白の場所

コートハウスの中庭は室内と一体的に使おうと考える場合が多いかもしれない。屋外の緑、光や風といった自然を取り込むことを目的として積極的に活用しようとする。今までもいくつかコートハウスを手がけてきた。その際にクライアントからの要望もあったがどちらかというとこちら側からの提案でコートハウスにする場合が多かった。その場合、中庭は積極的に空白、無の場所にしようとした。大概ウッドデッキを室内と同じ床高さで中庭全面に敷いた。室内と同じように続く空間として表現し、しかし、何も目的を与えなかった。何も目的を与えないことでただ室内から眺めるだけの空間になる。同じ床高さであるだけに積極的な空白、無の場所となり、室内の煩雑になりがちな暮らしの対比として中和してくれる。住宅ではそのような場所が必要だと思う。

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"The courtyard is a blank place"

In many cases, it may be thought that the courtyard of the courthouse should be used integrally with the interior. We try to actively use it for the purpose of incorporating nature such as outdoor greenery, light and wind. I have worked on several courthouses. At that time, there were requests from the client, but in many cases it was a proposal from our side to make it a court house. In that case, I actively tried to make the courtyard a blank, empty place. A wooden deck was generally laid on the entire courtyard at the same floor height as the room. It was expressed as a continuous space like the interior, but without giving it any purpose. By giving no purpose, it becomes a space that can only be viewed from inside the room. As the floor height is the same, it becomes a place of positive blankness and nothingness, and neutralizes it as a contrast to the life that tends to be complicated indoors. I think you need a place like that in your home.

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中庭は何か

コートハウスの中庭は外なのか中なのか。どちらにでもなり得る。関連付けをどうするかの問題である。では選択肢は外と中だけだろうか、と考えたくなる。

コートハウスは世界中で環境や地域を問わずに見られる形式であり、それだけコートハウスという形式には普遍性があるのだろう。しかし、皆同じという訳では無い。中庭の役割が環境や地域によって違う。中庭に何を求めるか、何を関連付けるかに依る。何を求め、何を関連付けか次第で外でも中でも無い、あるいは外でも中でもある、そのような二面性、両義性、あるいは渾然一体となった中庸な場所ができると考えてみた。

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"What is the courtyard?"

Is the Courthouse courtyard outside or inside? It can be either. The problem is how to make the association. Then I want to wonder if the only options are outside and inside.

The courthouse is a form that can be seen all over the world regardless of the environment or region, and that is why the form of the courthouse has universality. However, they are not all the same. The role of the courtyard differs depending on the environment and region. Depends on what you want and what you associate with the courtyard. Depending on what you are looking for and what you associate with it, I thought that you could create a moderate place where there is such a duality, ambiguity, or a harmonious unity between outside and inside, or outside and inside.

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抽象度高く生活空間をつくる

2階建てや平屋でも屋根直下の部屋の天井は、屋根形状なりに仕上げることが多かった。それは天井の上はすぐ屋根で空があることを表現したかったのかもしれない。あるいは、その部屋が空に近い、空と隣り合わせということを暗示したかったのかもしれない。そうすることで空間に変化をつけ暮らしに影響を与えようという意図がわかる。

別の見方をすると、天井を屋根形状なりに仕上げることでその部屋が存在するための具体的な証拠を得ようとしたのかもしれない。生活空間と考えれば具体的な何かが欲しくなる。ならば、生活空間と考えなければ具体性は必要なくなり、抽象度を高めるために天井を屋根形状とは関係なくつくることことになるかもしれない。どちらにせよ用途が住宅ならば生活空間にはなる訳だから、天井を屋根形状とは関係なくつくり、抽象度を高めた生活空間を試みる方が面白そうだ。

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"Creating a living space with a high degree of abstraction"

Even in two-story or one-story houses, the ceiling of the room directly under the roof was often finished according to the shape of the roof. It may be that he wanted to express that there is a roof right above the ceiling and there is a sky. Or maybe he wanted to imply that the room was close to the sky, next to it. By doing so, you can understand the intention to change the space and influence the living.

From another point of view, the ceiling may have been finished in the shape of a roof in an attempt to obtain concrete evidence for the existence of the room. If you think of it as a living space, you want something concrete. If so, if we don't think of it as a living space, there is no need for concreteness, and in order to raise the degree of abstraction, we may end up making the ceiling regardless of the shape of the roof. In any case, if the purpose is a residence, it will be a living space, so it seems more interesting to create a living space with a higher degree of abstraction by making the ceiling independent of the shape of the roof.

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先に木の場所を決める

建築を配置した残りの場所を緑化することはよくある。まず建築の位置を決める場合がほとんどだろう。ただそれでは自然の中に住むようにはならない。自然の中に住むことをイメージした場合、森がありその中に建築を建てることを思い浮かべる。ならば、先に木を植える場所を決めてしまおう。それもその敷地の中でどこに植えればその場所が、森とは言わずとも、緑が溢れる自然の中にいるイメージになるかと考えてみる。そうすると一番環境が良い、一番目立つ、大概は建築を配置することになる場所になる。建築はその木を避ければいいだけと考える。

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"Determine the location of the tree first"

Greening the rest of the building is common. In most cases, the location of the building will be determined first. But that doesn't make it possible to live in nature. When I imagine living in nature, I think of building a building in a forest. Then decide where to plant the tree first. Think about where you should plant them on the site to give the place an image of being in a natural environment full of greenery, not just a forest. Then, it will be the place with the best environment, the most conspicuous, and most likely where the architecture will be placed. I think architecture should just avoid that tree.

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緑の場所

敷地の中のどこに建築を置くのかを考えてみる。緑を多くして自然の中にいるようにしたい。地面に近い所で暮らせるメリットは外の自然と対峙できて取り込むことができることである。ただ、敷地の中のどこに緑を配するかで敷地の中の場所に優劣ができる可能性がある。敷地の中での場所の優劣はそこでの暮らしや生活に直結しやすいから避けたい。なぜなら建築としてそこで何かをする必要が無くなるからである。

"Green place"

Think about where to place the building on the site. I want to be in nature with a lot of greenery. The advantage of living close to the ground is that you can confront and take in the nature outside. However, there is a possibility that the place in the site can be superior or inferior depending on where the greenery is arranged in the site. I want to avoid the superiority and inferiority of the place in the site because it is directly connected to the living and living there. This is because there is no need to do anything there as architecture.

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二階建ては中途半端

二層の住宅を考えている。二階建てとは言わずに二層としているのは、一階、二階という表記には生活や暮らしや住空間に関する慣習が染み付いていて、それには良し悪しがあり、一度別視点から住宅を眺めたいからである。二層とすれば、一階は外部空間とのつながり、ニ階は屋根や空とのつながり、さらに一階とニ階のつながりなどの関係性から自由になれて、単に層の積み重ねとして見ることができる。そうして二層と考えると、なぜ二層なのか、二層の必要があるのか、何とも二層は中途半端だと思うようになった。二層にするのは単に積み重ねることができ、敷地の広さに対して要求していることが多いだけのように思える。もし要求していることを最小限にし、それでも二層が必要か、必要ならばなぜ二層かを考えることにした。

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"A two-story building is half-finished"

I am thinking of building a two storey house. The reason why I say two stories instead of two stories is that the notation of first floor and second floor is ingrained in customs related to life, living and living space, and there are good and bad in it, and I want to see the house from a different point of view. It is from. If there are two floors, the first floor is connected to the outside space, the second floor is connected to the roof and the sky, and the connection between the first floor and the second floor can be freed from the relationship, and it can be viewed simply as a stack of layers. can be done. When I thought about the two layers, I came to think that the two layers were half-baked, as to why the two layers were necessary and why they were necessary. It seems that making two layers simply means that they can be stacked on top of each other, and that there are many demands on the size of the site. If I minimized what I was asking for, I decided to think about whether I still needed two layers, and if so, why two layers.

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窓は透明な壁

窓があるから建築だとわかる。窓が無ければ単なる建造物で人の存在もない。窓は人を表す。普通は窓によって人のアクティビティが想像でき、暮らしが垣間見える。だから、窓は人を表し、尚且つ、暮らしを表す。ところがデザインをする上では窓の存在を消したい。もっと正確に言うと、窓枠の存在を消し、壁に穴を開けたような感じを消し、窓と壁の境目を無くして窓は透明な壁として扱い、窓が持つ特別感を消したい。その時建築は暮らしから自由になれるような気がする。

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"A window is a transparent wall"

You can tell it's architecture because it has windows. If there are no windows, it is just a building and there is no human existence. Windows represent people. Normally, people's activities can be imagined through windows, and people's lives can be glimpsed. Therefore, windows represent people, and they also represent lives. However, when designing, I want to eliminate the existence of windows. More precisely, I want to eliminate the presence of the window frame, eliminate the feeling of opening a hole in the wall, eliminate the border between the window and the wall, treat the window as a transparent wall, and eliminate the special feeling that the window has. At that time, I feel that architecture can be free from life.

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小さい窓は省エネではない

窓は大きく取りたいと考える。特に南側の窓はできるだけ大きく取りたい。昔の日本家屋は南側の窓が他の方位の窓に比べて極端に大きかった。昨今では環境問題からCO2排出抑制を目指した省エネ基準により断熱性能が重視され窓は小さくなるばかりである。

断熱を考える時、窓が最大のウィークポイントである。壁や屋根の断熱性能は断熱材の性能や厚みでいくらでも対応できるが、窓はガラス自体の断熱性能が元々低くく極端に上げようがない。だから、窓を小さくしようとする。

断熱性能の向上だけを考えるならば、小さい窓は有効である。しかし、住環境の快適性は断熱性能だけで決まる訳ではなく、断熱性能から紐解けば暑さ寒さの体感が重要である。冬暖かくて夏は涼しい住環境を実現するには南側の窓を大きく取るしかない。

冬の南側の窓はストーブ並の熱源であり、この熱を室内に蓄積すればエネルギーを使わずに室内を暖かくすることができ、夏は日射を遮り日影をつくる工夫をすれば良い。窓を小さくすることは省エネとは逆の発想である。

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"Small windows are not energy efficient"

I would like to make the windows bigger. In particular, I want to make the windows on the south side as large as possible. In old Japanese houses, windows on the south side were extremely large compared to windows on other directions. In recent years, due to environmental issues, energy-saving standards aimed at reducing CO2 emissions have emphasized insulation performance, and windows are becoming smaller.

When considering insulation, windows are the biggest weak point. The heat insulation performance of walls and roofs can be handled as much as you want depending on the performance and thickness of the insulation material, but the heat insulation performance of the glass itself is originally low and cannot be increased extremely. So try to make the windows smaller.

Small windows are effective if only the improvement of thermal insulation performance is considered. However, the comfort of the living environment is not determined only by the insulation performance. The only way to create a living environment that is warm in the winter and cool in the summer is to have large south-facing windows.

In winter, the windows on the south side are a heat source similar to that of a stove, and if this heat is accumulated in the room, it is possible to keep the room warm without using energy. Reducing the size of windows is the opposite of energy saving.

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距離をデザインする

周辺の建築にスケールを合わせることで街並みに上手く建築を挿入するが、建築自体の寸法の取り方を変えることで周辺の建築とは違う空間を生み出そうと考えた。寸法の取り方とは距離を変えることであり、建築において距離は機能上からも大体この位というのが暗黙の了解である。例えば、部屋の端から端まで、天井の高さなどで、一般的に押さえるべき数値の範囲があるが必ずしもそれにする必要はない。その数値の部分をデザインしてみようと考えた。

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"Design distance"

By matching the scale to the surrounding architecture, the architecture can be skillfully inserted into the townscape, but by changing the way the dimensions of the architecture itself are taken, we wanted to create a space that is different from the surrounding architecture. The way to take dimensions is to change the distance, and it is tacitly understood that the distance in architecture is about this degree from the functional point of view. For example, there is a range of numerical values that should generally be held, such as from one end of the room to the other, the height of the ceiling, etc., but it is not necessary. I decided to design the numerical part.

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街並みを改変する二面性

分節は周辺環境のスケールに合わせるためである。一塊が示すスケールは周辺にある建築のスケールと齟齬を起こす。だから、周辺の建築のスケールに合わせるように分節するのが常套手段で、その分節の仕方をデザインすることは良いとなる。ここには周辺のスケールと合わないことは駄目であり、スケールを合わせることは望ましいという前提がある。その前提を横展開してみる。スケールを合わせることは望ましいのだが、分節の仕方まで周辺の建築に合わせる必要はなく、周辺の建築ができない分節をしてみたらどうなるかをみてみる。もしかしたら、スケールを合わせることで街並みには素直に挿入されるがその場所だけの風景が生まれ、街並みに合いながら、街並みとは違う空間を持つという二面性を持ち合わせた建築が生まれ、上手く良い方向に街並みを改変できるかもしれない。

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"Duality that changes the cityscape"

The segmentation is to match the scale of the surrounding environment. The scale indicated by the mass is inconsistent with the scale of the surrounding architecture. Therefore, it is common practice to segment a building to match the scale of the surrounding architecture, and it is good to design the way of segmentation. There is a premise here that it is not good if the scale does not match the surrounding scale, and that it is desirable to match the scale. Let's expand on that premise. It is desirable to match the scale, but it is not necessary to match the way of articulation to the surrounding architecture. Perhaps, by matching the scale, it will be inserted obediently into the townscape, but it will create a landscape that is unique to that place, and it will create an architecture that has the duality of having a space that is different from the townscape while matching the townscape. You may be able to change the cityscape in the direction.

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分節した塊をつくる

分節の仕方を考えるのも面白い。大きな一塊の建築をつくる予定だったのが、10個に分節した塊になることになりそうな気配に。それはそれで分節の仕方によっては、地と図の関係のように、敷地の中に面白い形の外部空間をつくることも可能になり、また内部空間にも様々な外部空間とのつながりをつくることもできる。なかなか分節した塊をつくる経験もできないので、早速スタディしてみた。計算上は10個に分節できるが無理があるのがわかる。敷地は割合きれいな形をしていてプランニングは素直にできるから、何とか10個に分節してみたい。きっとそこが今回の計画で一番難しくて、一番面白いところだろう。

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"Creating segmented masses"

It is also interesting to think about how to segment. I was planning to create a large block of architecture, but it seems that it will be a block divided into 10 pieces. Depending on how it is segmented, it is possible to create interesting external spaces within the site, like the relationship between ground and figure, and it is also possible to create connections between internal spaces and various external spaces. can. I didn't have the experience of making a segmented mass, so I immediately tried to study it. Although it can be segmented into 10 pieces in terms of calculation, it is understood that it is unreasonable. The site has a relatively clean shape and the planning can be straightforward, so I would like to somehow divide it into 10 pieces. This is probably the most difficult and most interesting part of this project.

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スケールを周辺に合わせる

住宅街の中で建築のスケールが突出しそうな時にどうするか、広い敷地に建築を建てようとすると、住宅街ならばどうしても周辺の建築とのスケールの違いが生まれ、街並みが乱れることになる。程度の問題かもしれないが、できれば既存の街並みを良くする方向で建築を街並みの中に挿入したい。そのような時は建築のヴォリュームを分節する。1つの建築だが、建築の部分によって高さを変えたり、屋根形状を変えたりして周辺の建築のスケールに合うようにし、一塊としての建築ではないように見せる。

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"Fit scale to surroundings"

What to do when the scale of architecture is likely to protrude in a residential area, and if you try to build a building on a large site, you will inevitably create a difference in scale with the surrounding buildings in a residential area, and the cityscape will be disturbed. It may be a matter of degree, but if possible, I would like to insert architecture into the townscape in the direction of improving the existing townscape. In such a case, the architectural volume is segmented. Although it is one building, the height is changed depending on the building part, and the roof shape is changed to match the scale of the surrounding building, making it look like it is not a single building.

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objectからsubjectへ

全体を通して一貫性がある方が良いされ、全体から部分へ、subjectからobjectへという流れで計画を立てることが多い、というかそのように教えられることが多かった。それは効率的であり、ストーリーも立てやすいから説得力と信頼を築きやすい。ただいつも思っていた、一番興味があるのはobjectで、さらに言うとobjectの中身ではなくobject同士のつながりだと。だから、subjectの存在を どうでも良いとまではいわないが、objectから subjectを見て考えるだけで済むと思う。

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"from object to subject"

It is said that it is better to be consistent throughout, and we often plan from the whole to the parts, from the subject to the object, or rather, we were often taught that way. It is efficient and easy to create a story, so it is easy to build persuasiveness and trust. However, I always thought that what I was most interested in was objects, and even more so, the connections between objects, not the contents of objects. Therefore, I can't say that he doesn't care about the existence of the subject, but I think it's enough to think about the subject from the perspective of the object.

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どこにでもある、ここにしかない

「どこにでもある」のに「ここにしかない」という分裂を意図してつくり出しスタバは特別感を生んでいるという記事を見た。「どこにでもある」は安心感、信頼感を生むが、それだけでは人はいずれ興味を無くすし飽きる。「ここにしかない」は希少性を生み、もしかしたら良い意味での反社会性を帯びて大事にされるかもしれないが、そこにしかない不便さは大多数の支持を得られないだろう。「どこにでもある」安心感と「ここにしかない」希少性は本来矛盾して両立はしないはずである。それが両立している背景を考えてみる。

「どこにでもある」は店舗数の多さで実現できる。「ここにしかない」は本来ならばここでしかできない体験が必要になるだろう。それにはイメージも伴うのかもしれない。元々スタバは「サードプレイス」がコンセプトだから「ここにしかない」という希少性を演出できていないと「サードプレイス」として認識されない。だから、スタバは「安心の希少性」というものを演出してつくり出していることになる。確かに「安心の希少性」はなかなかつくり出せないから差別化にはなり、店舗数も増やすことができるという好循環が生まる。

ただ「安心の希少性」は下手をすると中途半端な甘いものになる可能性があるような気がする。それは「安心の希少性」が両極端のものの組合せで中和され角が取れて丸くなったような状態だからである。しかし、この丸くなった状態が丁度良く、たくさんの人に支持される理由にもつながるとも言えるのだろう。

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"Everywhere, only here"

I saw an article saying that Starbucks creates a sense of specialness by intentionally creating a division that "it's everywhere" but "it's only here". "Everywhere" creates a sense of security and trust, but people eventually lose interest and get bored with it. "Only here" creates a rarity, and maybe it's anti-social in a good sense, and it may be cherished, but the inconvenience that it's only there won't get the support of the majority.

"Everywhere" can be realized with a large number of stores. "Only here" would require an experience that can only be done here. Originally Starbucks is not recognized as a "third place" unless it can produce the rarity of "only here". Therefore, Starbucks is producing and creating something called "safe rarity".

However, I feel that "reliable rarity" may become a half-hearted sweetness if done poorly. This is because the "rarity of peace of mind" is neutralized by the combination of extremes, and the corners have been removed and rounded. However, it can be said that this rounded shape is just right and is also the reason why it is supported by many people.

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捉え方に活かす二面性

あるものの存在を捉えようとする時、いくつかの関係性を見つけ出し、その関係性を二面性を持つように極端化してみる。あるものの存在はそのいくつかの極端化された関係性の重なりの部分に現れる。ただし、その重なりの部分はその時たまたまそうなっただけで、たまたま仮にその形になっているだけで、いつまた変化するかわからない。だから、時間の要素を含んだ関係性を見つけ出すことにより、時間的な猶予を獲得する。ただ、いくつかの関係性の重なりでは、あるものの存在をそのままズバリ完璧に全て捉えることは難しい。どちらかというと捉え方のイメージは、完璧には捉えることができないものをいくつかの関係性の重なりによりあぶり出す感じである。

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"Duality that can be utilized in how to perceive"

When trying to grasp the existence of a certain thing, I find some relationships and try to make the relationships extreme so that they have two sides. The existence of a thing appears in the overlap of its extreme relations. However, the overlapping part just happened to be that way at that time, and it just happens to be in that shape, and you don't know when it will change again. Therefore, by finding a relationship that includes the element of time, we acquire time grace. However, due to the overlap of several relationships, it is difficult to completely capture the existence of a certain thing as it is. If anything, the image of how to capture it is a feeling of revealing something that cannot be captured perfectly by overlapping several relationships.

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二面性は受け入れられやすい

あるものの存在を捉えようとする時、これはこうで、あれはこれで、このようになっていると、仮にでもひとつのことに収束するように結論を出す。だから、建築として形になり、そして、その存在の在り方をズラしていくことで存在の捉え方自体をアップデートすることもできる。その際に矛盾しないように捉えようとするが、それをやめて矛盾をつくり出して矛盾したままで結論を出してみようと考えた。矛盾した状態は二面性であり、二面性がつくり出す建築空間の方がより社会性を帯び、人に受け入れられやすいのではないかと考えた。

"Duality is easy to accept"

When you try to grasp the existence of something, this is this, that is this, and that is this, and even if it's this way, you come to a conclusion to converge on one thing. Therefore, it takes shape as architecture, and by shifting its way of existence, it is also possible to update the way we perceive existence itself. At that time, I try to capture it so as not to contradict it, but I decided to stop doing that and create a contradiction and try to reach a conclusion while remaining contradictory. The contradictory state is duality, and I thought that the architectural space created by duality would be more social and more acceptable to people.

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二面性の捉え方

最近、二面性について考えており、二面性の捉え方は創作のヒントになるかもしれない。二面性は両極端のもの、あるいは矛盾するようなものが同時に存在している様だが、関係性として捉えてみると、関係性が極端化して1つには納まりきらない姿とも言えるかもしれない。両極端のもの、あるいは矛盾するものには各々のもの同士の関係性が存在しているが、その関係性自体はつながりがあり破綻しなければ安定して存在し、実際に現れるのはどちらか1つで済むはずである。ところが2つのものが同時に存在してしまうということは安定した関係性が破綻してしまった様、それが極端化であり、その極端化が起こった様である。

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"How to Perceive Duality"

Recently, I've been thinking about duality, and how to capture duality may be a hint for creation. Dichotomy seems to exist at the same time as extremes or contradictions, but if you look at it as a relationship, it may be said that the relationship has become extreme and can not be contained in one. . There is a relationship between each of the extremes or contradictory things, but the relationship itself is connected and stable if it does not break down, and one of them actually appears. should be enough. However, the fact that two things exist at the same time is like a stable relationship has broken down, that is extreme, and it seems that extreme has occurred.

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二面性

表と裏、明と暗、陽と陰、オンとオフなどの言葉が示すように両極端の状態があり、そのどちらに立つのか、あるいは2つの状態の間のどこに立つのか、真ん中ならば中庸だが、どららかの影響が強い状態で間に立つこともある。ただこれは両極端の状態が線状につながり音量の調整のように両極端をミックスしてどこかで1つの状態で立つということが前提の場合である。両極端のことが同時に成り立つ場合もあるだろう。二面性である。中庸と二面性は違う。中庸はミックスされた状態だが、二面性はミックスされていない。両極端、すなわち矛盾した状態が同時に成り立つ様には創作の種があるような気がする。

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"Duality"

As the words front and back, light and dark, yang and yin, on and off indicate, there are two extreme states. , may stand in between with some strong influence. However, this is based on the premise that the two extreme states are linearly connected, and that the two extremes are mixed like volume adjustment and stand in one state somewhere. Both extremes can occur at the same time. It is two-faced. There is a difference between moderation and duality. Moderation is a mixed state, but duality is not. I feel that there is a seed of creation in the way that two extremes, that is, a contradictory state, is established at the same time.

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ねじれ

建築は常にねじれていると思った。建築はスケールが大きいので目立ちやすく、単体での存在感が際立つ。しかし、同時にスケールが大きいので周りへ影響を与えるし、影響を与えられもして、周りとの関わりの中で存在することを余儀なくされる。単体で存在しながら周りとの関わりもあるので、建築を一概にこういう存在だと決めつけることは難しい。ただ、そこが建築の魅力のような気がする。建築を単体で見た時の完結的な形や空間に対して、印象はそこにいる人によって様々であり、建築の形や空間の存在だけに左右される訳ではない。この存在のねじれ加減をコントロールしてみるのも面白い。

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"distortion"

I thought architecture was always twisted. The architecture is large in scale, so it stands out easily, and the presence of a single building stands out. However, at the same time, because the scale is large, it affects the surroundings, and it is also influenced by the surroundings, and it is forced to exist in the relationship with the surroundings. It is difficult to categorically define architecture as such because it exists on its own but also has a relationship with its surroundings. However, I feel that this is the charm of architecture. In contrast to the complete form and space when looking at a single building, the impression varies depending on the person who is there, and is not only influenced by the shape of the building or the existence of the space. It is also interesting to try to control the degree of twist of this existence.

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モヤモヤに気づく

ちょうどさっき、そう言えば昔やり残したことがあったと思い出した。別に今更と思えれば賢いのだろうけど、一度頭の中に広がると何とも引っ掛かる。今からこの歳からやることも可能だが重く感じる。でも今一度やろうとしてみると、何とも方法がわからない。想いだけは重層し塊としてあることには気づいたが、できれば手間を掛けずにできないかと考えてしまう。もし誰かが代わりにお膳立てしてくれたらなどと妄想してしまう。中途半端なモヤモヤがあるが、別の見方をすればここから新たなモチベーションをつくれたら、今後も同じようなことに活かせるなとも思った。

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"Noticing Moyamoya"

Just now, speaking of which, I remembered that there was something left unfinished in the past. It's probably clever if you think it's too late, but once it spreads in your head, it's hard to get caught. It is possible to do it from this age, but it feels heavy. But when I try to do it again, I can't figure out how to do it. I noticed that my thoughts are multi-layered and lumped, but I wonder if it's possible to do it without taking much effort. I fantasize about what if someone else arranged it for me. There is a half-hearted feeling, but from a different point of view, I thought that if I could create new motivation from here, I could use it for similar things in the future.

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断絶を起こさない新しい建築をつくる

関係性には2つあると思った。周辺環境と結びつこうとする関係性と自らの内あるものとの関係性である。建築は規模が大きいため周辺環境に与える影響は大きく、また規模が大きい故に周りから受ける影響も大きい。よって必然的に周りとの関係性が生まれてしまう。また建築自体の内側にも関係性はあり、その建築が生まれる前と後のつながりである。例えば建替えならば以前の建築との関係性である。ほとんどの場合、以前の建築とは断絶し新しい建築が生まれる。建替えにはそれ相応の理由があり、大概は以前の建築が使えないから建替えるので断絶が必然的に起こる。面白いもので新しい建築が生まれる時、必然的に周りとの関係性は生まれ、必然的に以前の建築とは断絶が起きる。この必然的という言葉には積極性は無いので、関係性が生まれたところでそれを活かす訳でも無く、断絶があったところでそれを回避しようとはしない。ただ中には必然的に生まれる周りとの関係性を利用し、断絶を回避しようとする動きもある。しかし、それは新しい建築が生まれるには断絶は避けられないので、そのための償いとして周りとの関係性を利用しようと捉えることもできる。ならば一番的確なことは断絶を起こさないで新しい建築をつくることではないかと考えた。

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"Creating a new architecture that does not cause discontinuity"

I think there are two relationships. The relationship that tries to connect with the surrounding environment and the relationship with what is inside oneself. Since the scale of the building is large, it has a large impact on the surrounding environment. This inevitably creates a relationship. There is also a relationship within the architecture itself, a connection between before and after the architecture was born. For example, in the case of rebuilding, it is the relationship with the previous architecture. In most cases, new architecture is born, breaking away from the previous architecture. There is a reasonable reason for rebuilding, and in most cases it is rebuilding because the previous building cannot be used, so a discontinuity will inevitably occur. When interesting new architecture is born, it inevitably creates a relationship with the surroundings, and inevitably causes a discontinuity with the previous architecture. This word "inevitable" does not have positiveness, so even if a relationship is born, it will not be used, and if there is a discontinuity, it will not be avoided. However, there are also moves to avoid severance by taking advantage of the relationships that inevitably arise with those around them. However, since discontinuity is inevitable for the birth of new architecture, it can also be considered to use the relationship with the surroundings as compensation for that. Then, I thought that the most accurate thing would be to create a new architecture without causing a discontinuity.

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おおらかな街、建築

たまたま偶然そこにいるだけ。人は突き詰めていくと今の居場所はたまたま偶然そこであっただけである。例えば隣であっても大差はない訳で、別に今の居場所でなくでも良い訳である。今の居場所には必然性が無いとしたら、強固な他者との関係性でつくられずっと変化することが無い建築に居ることに違和感がある。建築はたまたま偶然そうなっただけの瞬間を形にしただけで今の姿に必然性は無いものであれば良い。結局、街も似たようなもので今の姿に必然的が無ければ、もう少し柔軟に必要で無いものを配して、どうでもいいような間をつくり、もっと街がおおらかになり、街を構成する建築もおおらかにできると考えてみた。

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"Generous City, Architecture"

I just happen to be there by chance. When it comes down to it, people just happened to be where they are now by chance. For example, it doesn't matter if it's next door, so it doesn't have to be where you are now. If there is no inevitability in the place where I am now, I feel a sense of incongruity in being in an architecture that has been created in a strong relationship with others and has never changed. Architecture should just be a form of a moment that happened by chance, and there is no inevitability in its current form. In the end, if the city is similar and there is no necessity in its current form, we will be a little more flexible in arranging things that are not necessary, creating spaces that do not matter, making the city more generous, and improving the city. I tried to think that the architecture that composes can also be generous.

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効率だけで決まらない

建築計画学的に考えると敷地から一番効率の良いプランは導き出せる。特に建築の用途が集合住宅やテナントビルなどのように床面積の大小が事業計画に直結するものは特にそうである。規模や戸数だけで考えれば大体似たり寄ったりのプランに収束していく。ところが実際は設計者の数だけ違ったプランが存在するはずである。すなわちそれは規模や戸数の効率だけで建築は決まる訳ではないということであり、おそらく世の中にある建築で戸建て住宅の次に多いのは集合住宅かテナントビルだと思われるので、何かそこでできることを見つけてアウトプットすることは社会的に意義あることだと感じた瞬間があった。

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"Efficiency alone is not enough"

From an architectural planning perspective, the most efficient plan can be derived from the site. This is especially the case when the size of the floor area is directly linked to the business plan, such as a collective housing or a tenant building. Considering only the scale and the number of units, it will converge to a plan that is roughly similar. However, in reality, there should be as many different plans as there are designers. In other words, it means that architecture is not determined only by the scale and efficiency of the number of units, and probably the next most common construction in the world after detached houses is collective housing or tenant buildings, so what can be done there. There was a moment when I felt that finding and outputting is socially meaningful.

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効率の枠から外れる

どこにでもあるマンションの形式はどこでも大体一緒である。そもそもマンションは効率良く人口密度を上げるための形式だから、どこでも一緒になるのが当たり前である。むしろ、効率を廃した形式ではマンションにする意味が無い。この効率の果てのマンション形式は事業側のメリットと住む側のメリットの合致点のバランスが取りやすいから当たり前のように繰り返される。ただ効率で決まるような形式は否定したい気持ちが強いからこのマンション形式をなんとかしたいと思う。その時考えられる方法はこの形式の効率性に着目し、一旦非効率にし再構成するか、効率をさらに推し進めて別の何かを引き出すことで効率の枠から外れるか。前者はよくある方法で再構成したものを見かけるが元の形式の亜種でしかない場合が多い。可能性を感じるのは後者の方で効率というものそのものを結果的に解体して再構成することなのかもしれない。

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"Out of bounds of efficiency"

The format of the condominiums that are everywhere is almost the same everywhere. In the first place, condominiums are a format for efficiently increasing population density, so it is natural for them to be together everywhere. Rather, there is no meaning in making it an apartment in a form that has lost efficiency. This condominium format, which is the end of efficiency, is repeated as a matter of course because it is easy to balance the points of coincidence between the merits of the business side and the merits of the living side. However, I have a strong desire to reject a format that is determined by efficiency, so I would like to do something about this apartment format. At that time, the method that can be considered is to focus on the efficiency of this form, and either make it inefficient and reconfigure it, or push the efficiency further and draw something else out of the framework of efficiency. The former can be seen reconstructed in a common way, but in many cases it is only a subspecies of the original format. What I feel is possible is the latter, which may result in the dismantling and reconstruction of efficiency itself.

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新しい結び目

この程度だろうという予想を越えるために、既存の関係を結びつきから解きほぐして、新たなに結び直す作業をしている。建築が建て替わる際のエネルギーは相当なものだといつも思う。0から構想するエネルギーもそうだが、現状を一旦0にするにも相当なエネルギーが必要だし、0から完成させるのにも相当なエネルギーがいる。また、元あった建築は決して単体で成り立っていた訳では無く、周辺との関係も簡単に切れないほど結びついている。だから、0にするために相当なエネルギーが必要なのだが、新たに完成後もただ新しくなっただけでは元の関係は戻らないどころかエネルギーが必要だった分、新旧でアンバランスになる。新しくするということは新しい結び目をつくることであり、それは今までの関係性の延長には無いものだと考えた。

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"New Knot"

In order to exceed the expectation that it will be at this level, we are working to untie the existing relationships and reconnect them to new ones. I always think that the energy when a building is rebuilt is considerable. It's the same with the energy to envision from 0, but it takes a lot of energy to turn the current situation into 0, and it takes a lot of energy to complete it from 0. In addition, the original architecture never stood alone, and the relationship with the surroundings was so connected that it could not be easily cut off. Therefore, a considerable amount of energy is required to bring it to 0, but even if it is newly completed, simply renewing it will not restore the original relationship, and the energy required will create an imbalance between the old and the new. To renew means to create a new knot, and I thought that it was not an extension of the existing relationship.

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緑から虐げられる存在

この季節は雑草との闘いを何度かする。最近は諦めていて邪魔にならなければいいと思っている。庭木も剪定しないと伸び放題、特にオリーブの木は成長が早いから、今年も見事な実をたくさんつけた。全部集めて搾ったらいいオリーブオイルができそうだ。草木と戯れていると案外楽しくて、面倒くさいし暑いから滅多にやらないが、やると夢中になって一日中戯れていても苦にならないし、雑草取りや剪定をやった後はマジマジと見てしまう。ほんと緑は不思議なもので、雑草が伸び放題だが目に優しいというか、緑が溢れる姿はなんとなく好きで、そんなにきちんとする必要がないというかそのままがいいと思ってしまう。だからか草木に侵食されたような建築は好きなのだが、はじめからそのような建築をデザインしたいと思わない。緑や自然はコントロールできない存在で、建築はあくまでもその緑や自然に負ける存在で、デザインすることは自然をコントロールしようとする行為だから、唯一できるのは緑や自然から邪魔な存在だと虐げられるようにするくらいである。

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"Existence oppressed by green"

This season has several battles with weeds. Lately, I've given up on it and hope it doesn't get in the way. If you don't prune the trees in your garden, they grow as much as you want, especially the olive trees, which grow very quickly, so they produced a lot of wonderful fruits this year as well. It looks like you can make good olive oil if you collect all of them and squeeze them. Playing with the plants is unexpectedly fun, but it's annoying and it's hot, so I rarely do it, but when I do, I can be absorbed in playing with it all day long, and after weeding and pruning, people stare at me seriously. . The greenery is really strange, and the weeds grow as much as you want, but it's easy on the eyes. Maybe that's why I like architecture that looks like it's been eroded by plants, but I don't want to design that kind of architecture from the beginning. Greenery and nature are entities that cannot be controlled, and architecture is an entity that is defeated by greenery and nature. Designing is an act of trying to control nature. It's about to.

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見えていないものを見るためには

普段意識していないことは見えないと考えると、その時々にはほとんどのことが見えていないと思った。目の前にあったとしても何気なくそれを見ているだけでは見えていない。見えていないものを見えるようにするには認識を変えるしかないのかもしれない。認識は自分が勝手につくり出したものであれば、自分で変えることができる。その時に人は知識が必要だと言い、本を読む必要があると言う。認識を変えるには知識を増やすしかないと言う。本を読む目的はアウトプットのためだと考えている。先にアウトプットが無く本を読んでいたら、増える知識に比例して満たされない想いだけが募るばかりであり、それで認識が変わることは無く、結局は見えないままである。

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"To See the Unseen"

When I thought that I couldn't see things that I wasn't usually conscious of, I thought that most of the things I couldn't see at that time. Even if it's right in front of you, you can't see it if you just look at it casually. Perhaps the only way to make the invisible visible is to change our perception. Perceptions can be changed by oneself if they are created by oneself. Then people say they need knowledge, they say they need to read books. He says that the only way to change perceptions is to increase knowledge. I think the purpose of reading books is for output. If you read a book without any output first, only unsatisfied feelings will arise in proportion to your increasing knowledge, and your perception will not change, and in the end you will remain invisible.

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実験するための自邸

自邸は実験の場だと学んだのはアアルトの夏の家で中庭の外壁を見た時である。様々なタイプのレンガが見本のように張られていた。もちろんただ張られているだけでなく、窓と合わせてコラージュされていた。それははじめからそのようなデザインを目指しそこに至ったように思える程印象的なものだった。でもたぶんクライアントの建築に対してはやらないだろう、やってもいいとは思うが。普段できないことをしようと考えるのはアイデアがあってもなかなか実現できないからかもしれないが、もしかしたら、そもそも普段のデザインとは違うところで考えていたのかもしれない。思いつく限りのレンガを並べて使い、一度使えば勝手知る材料になり、未知の部分に惑わされることが無くなるから、レンガ以外の素材へと意識が向くようになる。25年前、夏の家の中庭に立ち様々なタイプのレンガが張られた外壁を見ながら想っていたのは前年見たコルビュジエ のインドでの建築の荒々しい打放しの肌だった。

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"Home for experimentation"

It was when I saw the outer courtyard of Aalto's summer house that I learned that my house was a place of experimentation. Various types of bricks were stretched like samples. Of course, it wasn't just stretched, it was collaged with the windows. It was so impressive that it seemed that he had aimed for such a design from the beginning and had arrived there. But I probably wouldn't do it for a client's architecture, although I think it's okay. The reason why I try to do things that I can't usually do may be because I can't easily realize even if I have an idea, but maybe I was thinking in a different way from my usual design in the first place. As many bricks as you can think of can be used side by side, and once you use them, they become familiar materials. Twenty-five years ago, standing in the courtyard of a summer house and looking at the outer wall covered with various types of bricks, what I thought was the rough, exposed skin of Le Corbusier's architecture in India that I had seen the previous year.

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精巧で精緻で繊細で綺麗なもの

細かさを極めて繊細につくるのはいくらでもできてしまうが実際に繊細に見えるかどうかはまた別な話のような気がする。精巧に精緻に繊細に綺麗につくり込むことは技術だから熟練すればある程度のレベルのものはつくれる。ただ、そうやってつくり込んだものが実際に精巧で精緻で繊細で綺麗に見えるとは限らない。見え方は相対的な判断になるから精巧で精緻で繊細で綺麗に見えるようにするには、精巧で精緻で繊細で綺麗でない部分が必要になる。全てが精巧で精緻で繊細で綺麗なものは全てが精巧で精緻で繊細で綺麗では無い。

"Sophisticated, precise, delicate and beautiful"

It is possible to make the details extremely delicate, but I feel that whether or not it actually looks delicate is a different story. Since it is a skill to create something exquisitely, precisely, delicately and beautifully, if you are skilled, you can make something of a certain level. However, it is not always the case that things that are created in that way actually look elaborate, delicate, and beautiful. Since the appearance is a relative judgment, in order to make it look elaborate, delicate, delicate, and beautiful, it is necessary to have an elaborate, precise, delicate, and not beautiful part. Everything is elaborate, exquisite, delicate, and beautiful, but not everything is exquisite, exquisite, delicate, and beautiful.

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違和感からの逸脱

よくデザイン案を考える時は極端化をする。極端化は最大限に逸脱することだが、何を極端化するかというと、当たり前だと考えられていることの影に隠れていて日の目を見ないがもしそれが表に出てきたら最大限の違和感を感じる、あるいは表に出ることが想像できないものである。表に出てきて尚且つ主役になるように、主役にするには最大限の違和感から逸脱する極端化が必要で、その一連の極端化が成り立つ説明がつくようにすることがデザインだと考えている。

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"Departure from discomfort"

When I often think about design proposals, I go to extremes. Extremization is to deviate to the maximum extent, but what is extreme is that it is hidden in the shadow of what is taken for granted and does not see the light of day, but if it comes to the surface, it will be maximized. I can't imagine feeling uncomfortable or coming out. In order to appear on the surface and become the leading role, in order to make it the leading role, it is necessary to go to extremes that deviate from the maximum sense of incompatibility, and I believe that design is to provide an explanation that makes this series of extremes possible. ing.

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説明するための仮説

なぜそうなるのだろうか、と改めて疑問に思えるか。当たり前のことは実は見えていない。見えていないから疑問にも思わない。見えていないというのはもしかしたら知識の無さか、鈍いのか、考えたくないのか。改めて疑問に思うと、人はわからないことを埋めたくなる、理解したくなる。事実が先にあり、その事実を自分自身に説明し納得するために仮説を考える。この説明するための仮説が創造であり、創造とはこうして生まれるのではないかと今日読んだ本に書いてあった。

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"Hypothesis to explain"

Do you ever wonder why this is the case? I can't really see the obvious. I can't see it, so I don't doubt it. If you can't see it, maybe it's lack of knowledge, dullness, or you don't want to think about it. Asking questions again makes people want to fill in what they don't understand and want to understand. Facts come first, and we come up with hypotheses to explain and convince ourselves of the facts. The hypothesis to explain this is creation, and the book I read today says that creation is born in this way.

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自然の中の建築

土地が広いから緑化をする必要があり、そもそも自然の中で暮らしたいという希望だから、緑化面積を満たすために隙間を緑で埋めるのでなく、もっと積極的に緑と一体になった建築を考えてみる。が、しかし、何事にも限界はあり、木々に埋もれるような建築は現実的にはできない。今考えているのは最小限の緑で自然の中に建つような建築はできないかということである。言い換えれば、緑は少ないがその緑によって建築が決まっているように見えないか。そうすれば、自然の中に建つ建築と同等のものになり、限定的かもしれないが自然の中で暮す感じをつくることができるかもしれないと仮説を立ててみた。

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"Architecture in Nature"

Since the land is large, it is necessary to plant trees, and in the first place, people want to live in nature. View. However, there is a limit to everything, and it is not realistic to build a building that is buried under trees. What I'm thinking about now is whether it's possible to create a building that stands in the midst of nature with minimal greenery. In other words, although there is little greenery, it seems that the architecture is determined by the greenery. I hypothesized that if I did that, it would be equivalent to architecture built in nature, and I might be able to create a feeling of living in nature, albeit in a limited way.

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スケールとは関係ないデザイン

周辺環境のスケールに合わせなければならないと考えてしまう。街並みということを意識すると突出したスケールは悪だと考えてしまう。ただ東京だと至る所で突出したスケールが現れる。せめて住宅街ではスケールを周辺環境と合わせることで住環境が少しでも良くなるように貢献しようと考えてしまう。確かに、街並みのスケールから逸脱している建築は良くも悪くも目立つし、周辺環境に貢献しようと意識してデザインされた建築は少ないから、突出したスケールの建築に好印象がない。ただ、周辺環境に貢献することを意識してデザインすれば突出したスケールの建築にも好印象を抱くかもしれない。スケールとは関係無しにデザインの良し悪しがある、そこに注視したい。

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"Design without Scale"

You think you have to match the scale of the surrounding environment. If you are conscious of the cityscape, you will think that the projecting scale is evil. However, in Tokyo, a prominent scale appears everywhere. At least in the residential area, I think that I will contribute to improving the living environment by matching the scale with the surrounding environment. Certainly, buildings that deviate from the scale of the townscape stand out for better or worse, and there are few buildings that are designed with the intention of contributing to the surrounding environment, so buildings with a prominent scale do not give a good impression. However, if you are conscious of contributing to the surrounding environment when designing, you may have a good impression of the outstanding scale of the building. I would like to focus on the good and bad of design regardless of scale.

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時間を取り込む

建築は一度つくれば動かないし、大きいし、ずっと残り続けるから、たまたま偶然そうなっただけでいつまた価値が変化してしまうかわからない様では困る。だから、建築には時間という尺度を持ち込み、時間を建築の価値に加える必要がある。時間をどのように扱い建築の価値として加えるかには様々な方法が思い浮かぶが、時間と関連する記憶を建築に刻みたいと考えた。記憶は建築と人の相対的な関係性から生まれるもので、それを建築に刻むためには記憶を形の情報を持ったものに変換する必要がある。この変換の作業が建築と人の関係性の極端化につながり、関係性の曖昧な部分が排除され、時間を取り込みつつ自律的な建築を生む手助けになる。

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"Capturing Time"

Once a building is built, it does not move, is large, and will remain forever. Therefore, it is necessary to bring the measure of time into architecture and add time to the value of architecture. Various methods come to mind as to how to handle time and add value to architecture, but I wanted to engrave memories related to time into architecture. Memory is born from the relative relationship between architecture and people, and in order to engrave it in architecture, it is necessary to convert memory into something with shape information. This work of conversion leads to the extremeness of the relationship between architecture and people, eliminates the ambiguous part of the relationship, and helps to create an autonomous architecture while taking in time.

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偶然そうなっただけ

結果の全ては関係性の重なりの果て偶然そうなっただけのものであり、それ自体はすぐまた変化するかもしれない可能性があるが、結果として現れた時点ではとても強い強度を持ち自律している。建築とはそういうものだと仮定してみると、結果に執着すること無く、関係性に焦点をあて構築するというプロセスを重視したくなる。それはとても自然な流れだが、関係性をそのまま当てはめて重なりをつくったところで他律的な建築の域から脱することはできない。関係性をそのままではなく、極端化して関係性から曖昧な部分を排除することにより、他律か抱える相対性が薄れ、自律に欠かせない絶対性が増す。そうすることで他律的な関係性の重なりの向こうに自律的な建築が見える。

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"It just happened to happen"

All of the results are just a coincidence at the end of the overlapping relationships and may change again soon, but at the time they appear as a result they are very strong and autonomous. There is. Assuming that architecture is such a thing, we want to emphasize the process of building with a focus on relationships without being obsessed with the results. It's a very natural process, but you can't get out of the heteronomous architecture by applying the relationships as they are and creating overlaps. By excluding the ambiguous part from the relationship by making it extreme rather than keeping the relationship as it is, the relativeity of heteronomy is diminished, and the absoluteness that is indispensable for autonomy increases. By doing so, autonomous architecture can be seen beyond the overlap of heteronomous relationships.

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新しいもの

既存の繰り返しから新しいものが生まれるだろうか。いくら積み重ねても今までの考え方ややり方からは新しいものは生まれないような気がする。やり方を熟練させたり、効率を上げて早くできるようになり誰にもできない成果を上げることができてもそれは新しくない。新しいものははじめから新しいのだと思う。だから、新しいものは最初違和感があるし、その違和感故に消えてしまう。本当に新しいものとして実感され残るものはギリギリ受け入れることができるくらいの違和感にコントロールされたものであり、それははじめから新しくて徐々にコントロールされ、ギリギリ受け入れられて残りながら新しいと認識されていくと仮定してみた。そうなると、はじめから新しさが必要で、それは必ず既存からの逸脱になり、それも予定調和的な逸脱では新しくないので、研究者など既存のつながりから思考することが必要な場合、新しさを求めるのは困難になるかもしれない。

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"New"

Will new things be born from existing repetitions? No matter how much I accumulate, I feel that new things will not be born from the way of thinking and methods so far. It's not new if you can master the method, improve efficiency and do it faster, and achieve results that no one else can. I think new things are new from the beginning. Therefore, new things have a sense of incongruity at first, and they disappear because of the sense of incongruity. It is assumed that what is truly new and remains is controlled to a sense of discomfort that can be accepted at the last minute, and that it is new and gradually controlled from the beginning, and that it is accepted at the last minute and is recognized as new while remaining. I tried it. In that case, newness is necessary from the beginning, and it will always be a deviation from the existing, and it is not new with a planned harmonious deviation, so if it is necessary to think from the existing connection such as a researcher, seek newness. May be difficult.

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時間における関係性を加える

たくさんの他律的な関係性が重なり合うところに自律した建築は成り立つが他律的な関係性から生まれる自律は偶然の姿であり、いつまた変化するかわからないと考えた。その時、その場所でしか偶然成立せず、いつまた変化してしまうかわからない自律的建築は本来望まれないものである。たくさんの他律的な関係性を受け入れて、それによって成り立つ自律的建築は望まれるが、いつまた変化してしまうかわからないという時間を担保にできない様は建築では困る。だから、時間における関係性をつくり出し関係性の重なりの中に加えるしかない。関係性に時制は無いので、いくらでも関係性をつくり出すことはできる。

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"Adding relationships in time"

Autonomous architecture is established where many heteronomous relationships overlap, but the autonomy created by heteronomous relationships is a coincidence, and I thought that I would not know when it would change again. At that time, an autonomous architecture that happens only in that place and does not know when it will change again is not originally desired. It is desirable to have an autonomous architecture that accepts a lot of heteronomous relationships and is built on it, but it is a problem in architecture if we cannot secure the time when we do not know when it will change again. Therefore, there is no choice but to create relationships in time and add them to the overlap of relationships. There is no tense in relationships, so you can create as many relationships as you like.

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他律の中に自律が見える

たくさんの関係性が重なり合うところに自律した建築が成り立つのではないかと考えた。関係性から生まれる建築は他律的である。関係性はどこまでいっても切ることができないとするならば、他律の中に自律が存在するしかないし、他律の中でしか自律は存在できない。自律だけ存在しているように見えるのは、関係性がフラットでは無く主従があり、主にだけスポットライトを当てているからである。重なり合う他律的な関係性の全体にスポットライトを当てれば他律の中に自律が見える。そして、他律的な関係性から生まれる自律は偶然の姿であり、いつまた変化するかわからない。その時、その場所でしか成立しないのが自律的なものとなる。そう考えるとオブジェクト指向実在論のように複数の自律が同時に成り立つことが考えられだが、オブジェクト指向実在論の場合は関係性が二次的なものだから、他律の中に存在する自律的なものとは違う。だから、他律的な関係性をどのようにつくり出すかが自律的な建築のデザインになる。その時一番に考慮するべき他律的な関係性となる素材は時間だと仮定してみようと思っている。

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"Autonomy can be seen in heteronomy"

I thought that an autonomous architecture would be established where many relationships overlap. Architecture born from relationships is heteronomous. If the relationship cannot be broken no matter how far, autonomy can only exist in heteronomy, and autonomy can exist only in heteronomy. It seems that only autonomy exists because the relationship is not flat, but there is a master-slave, and only the main spotlight is on. If you shine a spotlight on the whole of overlapping heteronomous relationships, you can see autonomy in the heteronomy. And the autonomy that arises from heteronomous relationships is a coincidence, and we do not know when it will change again. At that time, it becomes autonomous that it is established only in that place. If you think so, it is conceivable that multiple autonomy can be established at the same time like the object-oriented realism, but in the case of the object-oriented realism, the relationship is secondary, so the autonomous thing that exists in other laws. Is different. Therefore, how to create heteronomous relationships becomes an autonomous architectural design. At that time, I will assume that time is the material that has the heteronomous relationship that should be considered first.

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スクラップアンドビルドの他者

リノベーションは主に内部空間について行われる手法であり、外観には関しては従前の姿をそのまま引き継ぐか、補完するデザインで終わるか、全く新しい仕上げでパッケージングし直すかである。もしリノベーションの手法を新築に応用した場合は外観は時の流れをどのように継続すれば良いのだろうか。外観はそもそも周りとの環境の中で決まる部分もある。ただ、個人的な様も都市の色になり得るので、むしろ個人的なことを時の流れにのせてつなげてみたいと考えた。建替えとなると全く新しい仕上げでパッケージングし直すことになるがそれでは断絶するだけであり、時をつなげるには建替え後の外観が従前とのつながりで決定されれば良い。つなげるために従前の建築から何を抽出するか。スクラップアンドビルドにおいて他者になるものは何だろうか。

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"Scrap and Build Others"

Renovation is a technique that is mainly performed on the interior space, and in terms of appearance, it is either to inherit the previous appearance, to end with a complementary design, or to repackage with a completely new finish. If the renovation method is applied to new construction, how should the appearance continue the passage of time? In the first place, the appearance is determined by the environment with the surroundings. However, personality can also be the color of the city, so I wanted to connect personal things with the passage of time. When it comes to rebuilding, it will be repackaged with a completely new finish, but that will only break it, and in order to connect the time, the appearance after rebuilding should be determined by the connection with the past. What to extract from traditional architecture to connect. What makes you another in scrap and build?

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時をつなげるリノベーション

建替えによるその場所での時の流れの断絶は避けたいと考えた場合、何を引き継げばいいのか。記憶は時の流れが断絶した状態のものであり、時の流れをつなげたい場合には使えないかもしれない。建替えはそれまでの建築の必要性が無くなったからなので引き継ぐものは何も無いと思ったが、もしあるとしたらならば何があるかと考えみる。元々の建築のプランは少なくとも完成時にはその場所での最適解のひとつではあったとみなしても良いのではないかとすると、プランの何かは使えるかもしれないし、元々のプランを有効活用することは効率が良い。ただし、使えるのはプランの機能に関する以外のことだろう。機能に関しては時の流れによる変化があり、現実的に今取り入れるのは難しい。よく考えたらこれはリノベーションの手法であり、リノベーションはむしろ断絶することの方が不可能に近く、強制的に時の流れのつながりができる。

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"Renovation that connects time"

What should I take over if I want to avoid the disruption of the passage of time at that location due to rebuilding? Memories are in a state where the flow of time is cut off, and may not be usable when you want to connect the flow of time. I thought that there was nothing to take over because the rebuilding was because the need for construction had disappeared, but if there was, I wondered what it would be. Given that the original architectural plan could be considered to have been one of the optimal solutions for the location, at least when it was completed, something in the plan could be used and it would be efficient to make good use of the original plan. Is good. However, you can use it for anything other than the features of the plan. As for the function, it is difficult to incorporate it now because it changes with the passage of time. If you think about it, this is a method of renovation, and it is almost impossible to break the renovation, and you can forcibly connect the passage of time.

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記憶と緑をつなげる

緑も輪郭があるようで無い、特定の輪郭を持たない。たまたま偶然にそうなっただけ、またいつ変化するかわからない。特定の輪郭を持たない様を建築として表現するには密度や濃淡の差異を利用する。特定の輪郭を持たない建築は特定の輪郭を持たない緑と親和性がある。特定の輪郭を持たない建築をつくるために記憶を利用すれば、記憶と緑がつながる。

"Connecting memory and green"

Green also doesn't seem to have a contour, it doesn't have a specific contour. It just happened to happen, and I don't know when it will change. The difference in density and shade is used to express the appearance without a specific contour as an architecture. Architecture without a specific contour has an affinity for green without a specific contour. If you use memory to create an architecture that does not have a specific contour, memory and green are connected.

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濃淡が建築をつくる

記憶にも密度があるかもしれないと思った。建築には指標によって様々な密度が存在し数値で表すことができる。実際には記憶はイメージで実体が無いから数値化はできないかもしれないが、ある特定の記憶だけが濃くてあとは薄い場合があるだろう。だから記憶を濃淡では表すことができる。濃淡も密度の一種である。逆に建築を濃淡で表すことはできるだろうか。何についての濃淡かによるが建築を平面絵画的に捉えれば可能である。平面絵画は奥行きに濃淡をつける。それは西洋絵画も日本画も同じである。建築を平面絵画的に捉えるにはヴォリュームを消す必要があり、そのためにはヴォリュームの輪郭を消去する必要があるだろう。輪郭を消去するには2通りあり、そもそも輪郭線を描かないか、特定の輪郭を持たないようにする。建築に応用するならば、実体としてオブジェクトは存在してしまうので、特定の輪郭を持たないようにすることだろう。特定の輪郭を持たないためにはオブジェクトの密度の疎密の差異を利用する。すなわちそれが濃淡でもある。だから、オブジェクトの密度の疎密をつくる出すものを元として建築を表現することができる。

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"Shadow creates architecture"

I thought there might be a density in my memory. There are various densities in architecture depending on the index, and they can be expressed numerically. In reality, memory is an image and has no substance, so it may not be possible to quantify it, but there may be cases where only a specific memory is strong and the rest is light. Therefore, the memory can be expressed in shades. Shading is also a type of density. On the contrary, is it possible to express architecture in shades? It depends on what the shade is, but it is possible if you think of the architecture as a two-dimensional painting. Planar paintings add shades to the depth. It is the same for Western paintings and Japanese paintings. In order to capture the architecture as a two-dimensional painting, it is necessary to erase the volume, and for that purpose, it will be necessary to erase the outline of the volume. There are two ways to erase the contour, either not to draw the contour line in the first place or to have no specific contour. If it is applied to architecture, the object will exist as an entity, so it would be better not to have a specific outline. In order not to have a specific contour, the difference in the density of objects is used. That is, it is also a shade. Therefore, it is possible to express architecture based on what creates the density of objects.

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記憶と想像の組み替え

記憶はつながりを示すものと考えがちだが、記憶は断絶の上に成り立つと思う。記憶を示す時はつながりが絶たれた時である。一旦つながりが絶たれた後に持ち出してくる過去のことが記憶である。だから、記憶自体には現在とのつながりが無く、時間軸としては過去だが、つながりが無い状態では過去のことでも、現在のことでも、未来のことでも皆同じであるから入れ替えが可能で、過去の記憶と未来の想像を等価に扱い自由に組み替えて考えることもできる。

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"Recombining memory and imagination"

It is easy to think that memory is a connection, but I think that memory is based on disconnection. The time to show memory is when the connection is broken. I remember the past that I brought out after the connection was broken. Therefore, the memory itself has no connection with the present, and the time axis is the past, but if there is no connection, the past, the present, and the future are all the same, so they can be replaced. It is also possible to treat the memory of the future and the imagination of the future equally and freely rearrange them.

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捉える試み

見方や捉え方の奥底、先にある建築の存在自体には手が届かないのかもしれない。ただもし手が届くと仮定しみたら何によって建築の存在自体を表現できるだろか。メイヤスーは数学でもの自体を捉えることができるとしたが、それは偶然そうなっただけであり、いつまた変化するかわからないという。一番簡単なことは建築の存在自体に踏み込まずに建築の見方や捉え方をデザインすることである。記憶をつなげるにはどうするかも捉え方のデザインである。ただその捉え方も一筋縄ではいかない。それを主題にしても考えることはたくさんある。記憶には時間の概念も含むから変化するものを捉えることが可能かもしれない。あらかじめ変化しそうなところまでを囲い込むように捉えることができればいい。認識や現象を捉えるより先のものの存在自体を捉える試みは例え無駄でもそれによって新しい認識を生むような気もする。

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"Attempt to catch"

It may be out of reach of the depth of perspective and perspective, and the existence of the architecture ahead. But if we assume that it is within reach, what can we express the existence of architecture itself? Meillasso said he could capture itself in mathematics, but that was just a coincidence and he didn't know when it would change again. The simplest thing is to design a way of looking at and understanding architecture without stepping into the existence of architecture itself. It is also a design of how to grasp how to connect memories. However, the way of thinking is not straightforward. There are many things to think about even if it is the subject. Since memory includes the concept of time, it may be possible to capture things that change. It would be nice if we could capture the areas that are likely to change in advance. Even if it is useless, it seems that an attempt to capture the existence of something before it captures the perception or phenomenon will create a new perception.

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見方があるだけ

建築の存在は実体として捉えようとしても捉えられないのかと思った。建築はこういうものだとという見方があるだけで、たくさんの見方の重なりが濃いか薄いかだけの違いに思えてきた。見方には正解は無く、間違いは有るかもしれないが、どの見方を選択するかだけの違いかもしれない。だから、創作するのは建築という実体では無くて捉え方であり見方である。ただそのなると他律的に存在する建築はイメージしやすいが自律的に存在する建築がイメージしにくい。自律的な建築は捉え方や見方という外からの指標とは無縁だと考えてしまうので、純粋な自律的建築は存在しないように思える。

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"There is only a point of view"

I wondered if the existence of architecture could not be grasped even if I tried to grasp it as an entity. There is only a view that architecture is like this, and it seems that the difference is whether the overlap of many views is strong or light. There is no correct answer in the view, and there may be mistakes, but it may only be the difference in which view you choose. Therefore, it is not the substance of architecture that is created, but the way of thinking and the way of looking at it. However, in that case, it is easy to imagine an architecture that exists heteronomously, but it is difficult to imagine an architecture that exists autonomously. It seems that there is no purely autonomous architecture, because we think that autonomous architecture has nothing to do with external indicators such as perspectives and perspectives.

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過去プラン判子

言葉以外で記憶を表現しようした時、建築において数値が端的に表現された寸法を用いる。言葉と違って数値だけが解釈によって変わらずに記憶を表現できると言ってもよい。ではその寸法はいつも同じだろうか。決してそのようなことはない。その場所で偶然そうなっただけである。だから、他の場所へ行けば当たり前だがいくらでも寸法は変化をする。ならば、寸法にその場所だけの固有性があり記憶として表現されるならば、その記憶としての寸法を引き継ぐことは建築として必然の行為ではないだろうか。

例えば、過去のプランがあり、そこに固有の寸法を見つけ出したならば、それをパターン化し判子のように転写を繰り返して新しいプラン、新しいエレベーションをつくってはどうだろうか。固有の寸法がまた違ったものになる、それも判子という効率を具現化したようなアイテムによって。

記憶という効率を考える上で排除されるようなもの、すなわち、他者性を帯びたものがパターン化し判子として転写されることでより活きるのであれば、効率の先に多様なモノがみえる。

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数値は効率のために用いるものなのに、効率によって排除された記憶を表現するものになるところが面白いと思った。

"Past plan stamp"

When trying to express memory with something other than words, we use dimensions that express numerical values ​​in architecture. It can be said that, unlike words, only numerical values ​​can express memories without change depending on the interpretation. So are the dimensions always the same? That is never the case. It just happened to happen at that place. Therefore, if you go to another place, it is natural, but the dimensions will change as much as you like. Then, if the dimension has the uniqueness of the place and is expressed as a memory, it would be an inevitable act as an architecture to inherit the dimension as the memory.

For example, if you have a plan in the past and find a unique dimension in it, why not pattern it and repeat the transfer like a stamp to create a new plan or a new elevation? The unique dimensions will be different again, depending on the item that embodies the efficiency of a stamp.

If something that is excluded when considering the efficiency of memory, that is, something that has otherness, is patterned and transcribed as a stamp, it will be more useful, then various things can be seen beyond the efficiency.

I found it interesting that the numerical values ​​are used for efficiency, but they express the memories excluded by efficiency.

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寸法は言葉以外の表現

言葉では表現できない記憶というものがある。建築における記憶もどんなに言葉を駆使しても全てを表現できない。モノとしてモチーフとして表現できる記憶は言葉でも表現できてしまう。だから、わざわざ建築として表現する必要性は無いかもしれないし、表現されたところでわざとらしくくどい。言葉以外で記憶を表現しようした時には数値を用いたらいいかもしれないとメイヤスーから着想した。数値は建築において絶対的な尺度である。数値でしか建築は表現できないと言っても過言ではない。建築において数値が端的に表現されているものは寸法であり、その寸法によって成り立っているのはプラン、セクション、エレベーション、そしてディテールである。さらに、寸法は建築の内外の関係性をも表現している。

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"Dimensions are expressions other than words"

There is a memory that cannot be expressed in words. No matter how much words I use, I can't express everything in the memory of architecture. Memories that can be expressed as motifs as things can also be expressed in words. Therefore, it may not be necessary to express it as an architecture, and it is intentionally awkward when it is expressed. Meillasso came up with the idea that when trying to express memory with something other than words, it might be better to use numerical values. Numerical values ​​are an absolute measure of architecture. It is no exaggeration to say that architecture can only be expressed numerically. In architecture, the simple representation of a number is a dimension, which is made up of plans, sections, elevations, and details. Furthermore, the dimensions also express the relationship between the inside and outside of the building.

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過去から定規をつくる

暮らしや情緒という言葉は本来建築とは無縁である。そう言うと不思議な感じを受けるかもしれない。建築によって暮らしは営まれるし、建築による趣きや感性を刺激することが情緒につながる。ただ、建築自体はモノであり、暮らしや情緒はモノに従属するもので、人がいてはじめて発揮されるコトである。だから、コトが無くてもモノとしての建築は成立するし、先に暮らしや情緒を求められると建築の話ができなくなる人も中にはいる。暮らしや情緒はコトとして後付けだから、建築自体がモノとして、モノだけで成立できる。建築のプランもモノとしてだけ見れば、単に壁のパターンだけであり、壁の位置の違いはそこでの機能によるアクティビティの違いである。よって、壁の位置が密か疎かも機能によるアクティビティの違いを意味するし、空間の中での壁の見え方は人の視覚に影響を与え、記憶として残る可能性が高い。ただ、記憶として残る場合は壁にコト、すなわち、暮らしや情緒が付着している。それは壁と暮らしや情緒が相互に関係性があるとも言え、壁の見え方が暮らしや情緒を想起させると考えることもできるだろう。だから、その建築特有の壁の見え方を過去のプランから抽出し、それはできればパターンを見つけ出し、そのパターンを定規として用いて新しいプランを考えれば、記憶として暮らしや情緒をつなぐようなモノができやしないかと考えている。

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"Making a ruler from the past"

The words life and emotion have nothing to do with architecture. That may make you feel strange. Living is carried out by architecture, and stimulating the taste and sensibility of architecture leads to emotions. However, architecture itself is a thing, and life and emotions are subordinate to things, and it is something that can only be demonstrated when there are people. Therefore, architecture as a thing can be established without things, and some people cannot talk about architecture if they are asked for their living and emotions first. Since life and emotions are retrofitted as things, architecture itself can be established as a thing, only with things. If you look at the architectural plan only as a thing, it is just the pattern of the wall, and the difference in the position of the wall is the difference in the activity depending on the function there. Therefore, whether the position of the wall is dense or sparse also means the difference in activity depending on the function, and the appearance of the wall in the space affects the human vision and is likely to remain as a memory. However, if it remains as a memory, things, that is, living and emotions, are attached to the wall. It can be said that the wall and the life and emotions are related to each other, and it can be thought that the appearance of the wall is reminiscent of the life and emotions. Therefore, if you extract the appearance of the wall peculiar to the architecture from the past plan, find a pattern if possible, and use that pattern as a ruler to think of a new plan, you can create something that connects your life and emotions as a memory. I'm thinking about it.

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都市と暮らしをつなぐ情緒

記憶は建築の外側にあるものであり、記憶から建築が導き出される。そして、プランは建築の内側にあるものであり、プランから建築は出来上がる。また、記憶の源はプランから派生した見え方である。記憶とプランと建築は相互に内外混じり合いながら関係性を持つ。過去のプランは記憶そのものであり、過去のプランから派生した見え方やそれに伴う暮らしの情緒が記憶の中身になる。見え方を通した暮らしの情緒は誰でも郷愁を誘うがそれは個人的なことであるから他人にはわからないかもしれない。しかし、そうして除外されていることで個人的な暮らしの情緒が他者性を帯び、それが建築として具現化された時には情緒を除外させたもの、たぶんそれは効率であり、効率か非効率かの脱構築として個人的な暮らしの情緒が使え、それが都市に対する関係性を築くきっかけにもなる。だから、過去のプランから個人的な暮らしの情緒につながるものを抽出して新しい建築に活かす。

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"Emotions that connect the city and life"

Memory is outside of architecture, and architecture is derived from memory. And the plan is inside the architecture, and the architecture is completed from the plan. Also, the source of memory is the appearance derived from the plan. Memories, plans, and architecture have a relationship that mixes internally and externally. The past plan is the memory itself, and the appearance derived from the past plan and the emotion of life that accompanies it become the contents of the memory. Anyone can feel nostalgia for the emotion of living through the way they see it, but since it is a personal matter, others may not understand it. However, such exclusion makes the emotions of personal life alien, and when it is embodied as architecture, it excludes emotions, perhaps it is efficiency, efficiency or inefficiency. The emotion of personal life can be used as a deconstruction, and it also becomes an opportunity to build a relationship with the city. Therefore, we will extract things that lead to the emotions of personal life from past plans and utilize them in new architecture.

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アクティビティの密度

その敷地においての過去のプランは記憶や過去との時間のつながりを形成する上で大事な素材であり、新たな建築に活かすことでできるつながりは都市の色になる。過去のプランはアクティビティを示す。過去のプランがいくつか存在するならば重ねてみることでアクティビティの密度がわかる。密度の高低により空間をデザインできる。

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"Density of activity"

The past plan on the site is an important material for forming the memory and the connection of time with the past, and the connection that can be made by utilizing it in the new architecture becomes the color of the city. Past plans show activity. If there are several past plans, you can see the density of activities by stacking them. Space can be designed by increasing or decreasing the density.

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プランは記憶の素材

記憶として残るものには様々なものがあるが、記憶をイメージと結びつける時に建築が手助けすることができるとしたら、そのひとつは視覚に派生するもの、例えば、壁や天井、床といった部位の見え方だろう。部位の見え方が記憶を呼び起こすと言っても良いかもしれない。そのような部位の見え方を引き継いでいくような建築は記憶や過去との時間のつながりを持ったものと言える。では、部位の見え方を決めるおおもとのものは何だろうか。たったひとつのことで全ての部位の見え方をコントロールしているのはプランである。プランによって見え方をコントロールし、それは記憶をもコントロールしている。だから、過去のプランは記憶や過去との時間のつながりを形成する上での大事な素材である。

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"Plan is a material of memory"

There are many things that remain in memory, but one of the things that architecture can help in connecting memory to images is something that is visually derived, such as how parts such as walls, ceilings, and floors look. right. It may be said that the appearance of the part evokes memory. It can be said that the architecture that inherits the appearance of such parts has a memory and a connection with the past. So what is the basis for determining how the parts look? It is the plan that controls the appearance of all parts with just one thing. The plan controls the appearance, which also controls the memory. Therefore, the plan of the past is an important material for forming the memory and the connection of time with the past.

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都市の色

建替えることで全く新しい建築ができる。それは一旦リセットされることである。ただ、建替える前にはそこに建築があった。そこにあった建築はただそこにあった訳ではなく、その場所で生まれた時には最適な解であった。きっと時間の経過によって建築自体の耐用年数を超えただけで建築としての最適解は今でも有効かもしれない。ならば有効な部分は引き継ぎ今に活かすことは必然であり、もっと引いて都市的視点で考えれば、建替えによる断絶より過去からのつながりが残った方が都市としては時間的な重みが増し、時間の経過による記憶が都市の色となるのではないかと考えた。

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"City color"

A completely new building can be created by rebuilding. It is to be reset once. However, there was an architecture there before it was rebuilt. The architecture that was there wasn't just there, it was the best solution when it was born there. I'm sure that the optimal solution as an architecture may still be effective just because the useful life of the architecture itself has been exceeded over time. If so, it is inevitable that the effective part will be taken over and utilized now, and if we take it further and think from an urban perspective, it will be more time-consuming for the city if the connection from the past remains rather than the disconnection due to rebuilding. I thought that the memory of the passage of time would be the color of the city.

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記憶の中から

記憶の中から何を抽出して建築デザインに活かすかを考えている。建築デザインに活かすには形になる情報を含んでいる必要がある。エコが直接的に建築デザインに結びつかないのは、エコには形の情報が無いからであり、エコを建築デザインに活かせるものに変換をしなければならない。例えば、最適な室温を保つために電力をたくさん使うのでは無く、日射や風などの自然の力を使うことを目指して、開口部の大きさや位置、庇や屋根形状などをデザインするように、建築の部位の形に直接影響を与えるように記憶の中から何かに焦点を絞る必要がある。

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"From memory"

I am thinking about what to extract from my memory and utilize it in architectural design. It is necessary to include information that can be used in architectural design. The reason why eco is not directly linked to architectural design is that eco has no information on its shape, and it is necessary to convert eco into something that can be utilized in architectural design. For example, instead of using a lot of electricity to maintain the optimum room temperature, design the size and position of the opening, eaves, roof shape, etc. with the aim of using natural forces such as solar radiation and wind. It is necessary to focus on something in the memory so that it directly affects the shape of the part of the building.

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記憶は関係性

関係性を記憶として捉え直してみると面白いと考えた。記憶は過去との関係性が現れたものとすれば、記憶と関係性が時間を媒介にしてつながることになる。過去と現在が記憶で関係性ができる。関係性のデザインだけが効率との両立が可能だと考えていて、関係性の並置と断絶が効率と都市性をつなげることができる。

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"Memory is a relationship"

I thought it would be interesting to reconsider the relationship as a memory. Assuming that the memory has a relationship with the past, the memory and the relationship are connected through time. The past and the present can be related by memory. We believe that only the design of relationships can be compatible with efficiency, and the juxtaposition and disconnection of relationships can connect efficiency and urbanity.

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関係性が重要

効率的に空間配置をすることは集合住宅では特に求められることである。効率的な空間配置を目指すと事業性が上がる経済的メリットとプランに妥当性と納得感が生まれる。通常はここまでで終わる。それ以上は考える必要がない。しかし、様々な関係性も同時に生まれるので、本来はその関係性こそがデザインをする対象として最も重要だと考えている。

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"Relationship is important"

Efficient spatial arrangement is especially required in apartment buildings. Aiming for efficient space layout will increase business feasibility. The economic merit and plan will be valid and convincing. Usually it ends here. You don't have to think any further. However, since various relationships are created at the same time, I think that these relationships are the most important objects to design.

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建築に都市を内包する

効率の良さと関係性の並置に関連性があるかどうかを考えている。集合住宅の計画において効率の良さは事業性にもつながるので大事だが、効率ばかりを追い求めていると人の住む空間ではなくなってしまう。だから程よい効率を求めたいのだが、その際に効率とのバランスを保つために関係性に注目した。

関係性には3つあり、住戸内の関係性と住戸間の関係性、そして外部環境との関係性である。どれも各々の関係性は存在しつつも、壁や床などの部位で各々の関係性には断絶が起こるので、関係性が並置された状態になり、一塊の建築の中に複数の関係性が共存している状態ができる。その状態が都市のようであり、関係性に注目すると建築に都市を内包することができる。

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そこで、効率は関係性の断絶の繰り返しだと考えれば、関係性を媒介にして効率に都市性を発見できるかもしれないと考えてみた。効率に都市性を発見できれば、やり方しだいで効率と人の住む空間を上手に結びつけることができるかもしれない。

"Including the city in architecture"

We are considering whether there is a relationship between efficiency and juxtaposition of relationships. Efficiency is important in planning an apartment building because it also leads to business feasibility, but if you pursue only efficiency, it will not be a space where people live. Therefore, I would like to seek moderate efficiency, but at that time I focused on the relationship in order to maintain a balance with efficiency.

There are three relationships: the relationship within the dwelling unit, the relationship between the dwelling units, and the relationship with the external environment. Although each relationship exists, each relationship is interrupted at parts such as walls and floors, so the relationships are juxtaposed, and there are multiple relationships in a block of architecture. Can coexist. The state is like a city, and if we focus on the relationship, we can include the city in architecture.

Therefore, if we think that efficiency is a repetition of the disconnection of relationships, we thought that we might be able to discover urbanity efficiently through relationships. If we can discover urbanity efficiently, we may be able to successfully connect efficiency with the space where people live, depending on the method.

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関係性の並置

関係性を並置してみるとまた違ったコトになると考えた。関係性から判断する時にはどうしてもヒエラルキーをつくってしまう。強引に言ってしまえば、関係性とはヒエラルキーである。大小、強弱など関係性に差異をつける。関係性を判断する時に差異を意識しないとわからないからかもしれないが、関係性の差異の塊が建築では古典的過ぎるので、差異を平すために、関係性を並置してみることにした。関係性を並置するとは関係性にヒエラルキーが生じても全体としての塊である建築には全く影響を与えない様である。関係性が有りながら、関係性自体が断絶して連続しない様とも言える。たがら、並置できる。

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"Parallelization of relationships"

I thought that if the relationships were juxtaposed, it would be different. When judging from the relationship, it inevitably creates a hierarchy. Forcibly speaking, relationships are a hierarchy. Make a difference in relationships such as size and strength. It may be because you have to be aware of the difference when judging the relationship, but since the mass of the difference in the relationship is too classic in architecture, I decided to juxtapose the relationship in order to flatten the difference. The juxtaposition of relationships does not seem to affect the architecture, which is a mass as a whole, even if a hierarchy occurs in the relationships. It can be said that although there is a relationship, the relationship itself is broken and not continuous. However, it can be juxtaposed.

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あえて保留する

全てをはっきりと、白黒とつけたくなる。全てを1mm単位で数値に落とすので曖昧さを許容できなくなる。曖昧に決めた数値だとしても、数値が一人歩きし決して曖昧とはならない。ただ、そこまで厳密に行うことがいいのかと、必要なのかと思った。それで良くなるのであればいくらでも厳密にできる。きっちりと何もかもが決まったものが果たして良いものとして受け入れられるのだろうか。よく遊びが必要だと言われるが、遊びが緩さではなく、遊びという厳密と同じ属性の行為になってしまってはつまらない。結局は厳密と曖昧のバランスを取ることが必要であり、それはあえて何も手を加えないで保留にできるかどうかではないかと考えた。

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"Dare to put it on hold"

I want to put everything clearly in black and white. Ambiguity cannot be tolerated because everything is reduced to numerical values in 1 mm increments. Even if the numerical value is decided vaguely, the numerical value walks alone and never becomes ambiguous. However, I wondered if it was necessary or necessary to do so strictly. If that makes it better, you can do it exactly as much as you want. Is it acceptable that something that has been decided exactly is really good? It is often said that play is necessary, but it is boring if play is not loose and it becomes an act with exactly the same attributes as play. In the end, it was necessary to strike a balance between strictness and ambiguity, and I wondered if it could be put on hold without any modification.

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記憶をつなぐには

記憶が断絶している建築ばかりでは都市は形成されない。記憶が個人的なものであったとしても断絶せずにつながりがあることで都市に時の流れによる積み重ねが生まれ特色が出る。だから、建築を更新する時には時の流れを断絶させずに記憶をいかに積み重ねていくかが重要だが、それが観念的な手法では単なる妄想の中の積み重ねで終わる。具体的に記憶を何らかの形あるモノで表現し、それを用いることで記憶をつなぐことができればよい。

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"To connect memories"

A city cannot be formed only by architecture whose memories are cut off. Even if the memory is personal, the connection without interruption creates the accumulation of time in the city, which gives it a distinctive character. Therefore, when renewing architecture, it is important how to accumulate memories without interrupting the passage of time, but with the ideal method, it ends up being simply accumulation in delusions. Specifically, it is only necessary to express memory in some form and use it to connect memories.

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記憶の連なりが都市

建築を都市とつなげようとした時、特別な意味づけとして時間によって蓄積された記憶が必要だとした。その記憶は決して特別なものである必要はない。むしろその場所だけの、個人的で構わない、その局所的な記憶の重なりが都市をつくり、都市に魅力を出す。その記憶を皆が理解できなくてもいい。その記憶がその場所をつくり、その連なりが都市を形成し、建築と都市をつなげることになる。

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"A series of memories is a city"

When trying to connect architecture to the city, he said that he needed a memory accumulated over time as a special meaning. The memory does not have to be special. Rather, the overlap of local memories, which can be personal and only in that place, creates a city and makes it attractive. It doesn't have to be that everyone can understand the memory. The memory creates the place, the chain forms the city, and connects the architecture and the city.

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建築と都市をつなげるには

建築を都市とつなげようとするならば、外部空間をつなげようとするよりも時間によって蓄積された記憶をつなげていく方が効果があるのではないかと考えた。外部空間をつなげる場合、敷地境界線という壁がある。公共建築の場合はその壁が管理区分でもあるから管理の仕方次第で都市とつなげることは可能で、公共建築、あるいは公共性の高い建築は外部空間を積極的につなげるべきである。しかし、外部空間のつながりは単に公共の外部空間が広がるだけに過ぎず、そこに特別な意味づけがなければ建築と都市がつながるとは言えないのではないか。それは公共空間以外であれば尚更で、観念的なつながりに過ぎない。その特別な意味づけに当たる部分が時間によって蓄積された記憶だと考えている。

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"To connect architecture and cities"

When trying to connect architecture to a city, I thought that it would be more effective to connect the memories accumulated over time than to connect the external space. When connecting external spaces, there is a wall called the site boundary line. In the case of public buildings, the walls are also management divisions, so it is possible to connect to cities depending on the management method, and public buildings or highly public buildings should actively connect external spaces. However, the connection of the external space is merely the expansion of the public external space, and if there is no special meaning there, it cannot be said that the architecture and the city are connected. It's even more so except in public spaces, it's just an ideological connection. I think that the part that corresponds to that special meaning is the memory accumulated over time.

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境界線を越えて

立体街区のようなプランが多く、集合住宅では住戸内部のプランに他との明確な差異を見つけることができないのか、建築計画上効率を優先し不特定多数に支持されるものにするにはある程度住戸内部のプランをニュートラルにせざるを得ないのか、住戸以外の廊下や階段といった動線空間をデザインしてまとめ上げる事例をよく見る。集合住宅のメリットである効率性を活かしつつデザインするには最善の方法にも見えるがちょっと無理を感じる時もある。敷地境界線を越えていく難しさとでも言うか、なかなか境界線を越えてつなげることは妄想の中でしかないケースも多い。

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"Beyond the border"

There are many plans such as three-dimensional districts, and it is not possible to find a clear difference in the plan inside the dwelling unit in the apartment house, or it is to some extent to prioritize efficiency in the architectural plan and make it supported by the general public. I often see cases where the plan inside the dwelling unit has to be neutral, and the flow line space such as corridors and stairs other than the dwelling unit is designed and put together. It may seem like the best way to design while taking advantage of the efficiency of an apartment building, but sometimes it feels a little impossible. It may be said that it is difficult to cross the boundary line of the site, but there are many cases where connecting beyond the boundary line is only a delusion.

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プロセスからデザイン

関係性が時制の中で変化することはよくあることであり、過去の関係性と現在の関係性は途中で断絶することが無ければつながるが、過去の関係性は記憶と言い換えて、記憶を何らかの形で抽出し、同じ方法で現在から抽出したものと合わせ、その差異を現在のプランに刻み込む。そうすれば、関係性が時制というフィルターを通して残り、さらにその手法は未来へと受け渡すことができる。このようにプロセスからデザインする必要をいつも感じる。

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"Design from process"

Relationships often change in tense, and past relationships and present relationships are connected if they are not interrupted in the middle, but past relationships are paraphrased as memories, and memories are remembered. Extract it in some way, combine it with the one extracted from the present in the same way, and imprint the difference in the current plan. Then the relationship remains through the tense filter, and the method can be passed on to the future. I always feel the need to design from the process like this.

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時制と効率

効率か非効率かを置き換えてシークエンスかランダムかにしてみると、建築計画上でプランニングとの関係性がわかりやすくなる。この関係性に含まれないものはひとつに時間だろう。時間という概念が無くてもシークエンスかランダムかはとりあえず考えることができる、今だけを見ればいいのだから。ただ、時間すなわち過去現在未来の時制に焦点を当ててみると、シークエンスかランダムかはプランニング上では棚上げになり大した問題ではなくなるのではないかと考えた。

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"Tense and efficiency"

By substituting efficiency or inefficiency for sequence or random, it becomes easier to understand the relationship with planning in architectural planning. One thing that is not included in this relationship is time. Even if you don't have the concept of time, you can think about sequence or random for the time being, because you only have to look at it now. However, when I focused on time, that is, the tense of the past, present, and future, I thought that sequence or random would be shelved in planning and would not be a big problem.

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物そのものに迫りたい

関係性があるから個別の存在が浮き上がるともいえる。個別の存在そのものを知覚することはできない、関係性という現象を通してのみ個別の存在がわかると、カントへの理解はその程度だが、人も含めた物には必ず他者が存在するから物そのものを知覚できないし、そもそも知覚できないということから他者が存在する。そうすると、他者を置くことは永遠に物そのものに到達できないことになる。建築を考えていると物そのものに思いをはせてしまう。だから、物の素材性や触覚性に走るのだろう、それは自分の手で確かめることができる唯一の物それ自体かもしれないから。ただ、それはある種の慰めでしかない。一度は無理を承知で物そのものに迫る建築行為をしてみたい。

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"I want to get closer to the thing itself"

It can be said that individual existence emerges because of the relationship. If we can understand the individual existence only through the phenomenon of relationship, which cannot perceive the individual existence itself, we can understand Kant to that extent, but since there are always others in things including people, we can understand the thing itself. Others exist because they cannot be perceived and cannot be perceived in the first place. Then, putting others will never reach the thing itself. When I think about architecture, I think of the thing itself. Therefore, it may be the material and tactile nature of the thing, because it may be the only thing that can be confirmed by one's own hands. But that's just some kind of comfort. I would like to do a building act that approaches the thing itself, knowing that it is impossible once.

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関係性と個別の外側

関係性は二次的で個別には存在している、まさによくある集合住宅のことだと思った。個別に存在することは二次的で関係性がまずあるのがシェアハウスか。個別に存在することよりも関係性に注目すれば、形の有無に関わらず、何かをつくる時のヒントになるのだが、それよりも関係性と個別の存在の外側に何かあるだろうかが今の関心事である。

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"Relationship and individual outside"

I thought that the relationship was a very common apartment house that was secondary and existed individually. Is it a share house that exists individually is secondary and has a relationship first? Focusing on relationships rather than being individual is a hint when creating something, with or without shape, but is there anything outside of relationships and individual beings? Is the current concern.

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効率と数値化できないものの組合せ

効率の良さを目指すことは同時に効率よく余分なものを排除することでもあり、排除する時の基準は制御できるかどうかであり、制御できないものは効率の外に置くことになる。効率の良さを測る指標は数値であり、制御できないものは数値化できない。それでは、効率の良いものと数値化できないものを組合せるとどうなるだろうか。普通に考えれば効率が悪くなると考えるだろう。だから、数値化できないものは、徹底的に数値化しようと試みるか排除しようとする。しかし、効率の良いものと数値化できないものを組合せても効率が悪くないらないどころか効率が良くなることがあるとしたら、それはどのような場合だろうかと考えてみると面白い。

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"Combination of efficiency and things that cannot be quantified"

Aiming for efficiency is also to efficiently eliminate excess, and the criterion for exclusion is whether or not it can be controlled, and what cannot be controlled is placed outside of efficiency. The index for measuring efficiency is a numerical value, and what cannot be controlled cannot be quantified. So what happens when you combine something that is efficient and something that cannot be quantified? If you think about it normally, you will think that it will be inefficient. So, if you can't quantify it, try to quantify it thoroughly or try to eliminate it. However, it is interesting to think about what kind of case it would be if the combination of efficient and non-quantifiable ones would not be inefficient but would be more efficient.

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排除されるものを考える

建築計画上効率によって排除される多様な関係性に当たるものには何があるかを考えてみた。あるいは、排除される多様な関係性を誘発するものは何か。例えば、集合住宅は建築計画上効率を追求する最たるもののひとつであり、効率によって同一的なプランの連続になる。そもそも集合住宅にするのは効率によって集積し高密度にする目的だから、同一的になることが目指すところではあるがそれによって排除されるものが気になる。集合住宅において多様な関係性、あるいはそれを誘発するものは何だろうか。たぶん、住戸内部にはない。あるとしたら住戸の外部だろうが、住戸間の関係性や住戸の外部である周辺環境との関係性以外にはないのかを考えてみたい。

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"Think about what is excluded"

I thought about what are the various relationships that are excluded by efficiency in building planning. Or what induces the diverse relationships that are excluded? For example, an apartment house is one of the most pursuing efficiency in architectural planning, and efficiency makes a series of identical plans. In the first place, the purpose of making an apartment house is to concentrate and increase the density by efficiency, so the goal is to be the same, but I am concerned about what is excluded by it. What are the various relationships or triggers in an apartment building? Probably not inside the dwelling unit. If there is, it may be outside the dwelling unit, but I would like to consider whether there is anything other than the relationship between the dwelling units and the surrounding environment outside the dwelling unit.

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効率から多様な関係性へ

建築計画上効率的なプランニングや配置とは、ある指標に対して一番無駄がなく動かしようのないものだが、それは同時に関係性の面からみたら多様性を排除している。効率を求めれば多様な関係性は築けない。効率を何か目的を達成するための手段と考えることができれば、代わりに多様な関係性が手段となり同じ目的を達成できればいい。排除された多様な関係性を主題に据える。ただ一度は効率を追い求めているので、排除された多様な関係性は効率とバランスが取れるように極端化することができ、効率と齟齬を起こさない新たな多様な関係性を築くことができる。

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"From efficiency to diverse relationships"

Efficient planning and placement in architectural planning is the least wasteful and immovable for a given indicator, but it also eliminates diversity in terms of relationships. If you seek efficiency, you cannot build diverse relationships. If efficiency can be thought of as a means to achieve some purpose, then it would be good if various relationships could be used as a means to achieve the same purpose. The subject is the diverse relationships that have been excluded. Since we are pursuing efficiency only once, the diverse relationships that have been excluded can be extremed to balance efficiency, and new diverse relationships that do not conflict with efficiency can be built.

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効率が排除すること

建築計画上効率的にプランニングや配置をされてたことにより排除されるものは何かを考えてみた。効率的なプランニングや配置は建築計画にとって重要なひとつの目指すべきことであり、それのみで建築計画を完了しても文句はないかもしれない。ただし、それと引き換えに何かが排除され、その排除されたことの方が重要な場合、効率的なプランニングや配置は存在意義を失くす。

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"Eliminating efficiency"

I thought about what would be excluded by efficient planning and placement in the building plan. Efficient planning and placement is one of the important goals of a building plan, and it may not be a complaint to complete the building plan by itself. However, if something is excluded in exchange and the exclusion is more important, efficient planning and placement loses its raison d'etre.

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関係性の時制をズラす

関係性を取り扱う時の時制は現在の今この瞬間か、少なくとも過去なり未来なりに合わせるだろう。時制がズレていては関係性を計る上で時間という余計な要素が加わる。時間は状態を変化させ、当然関係性にも影響を与えるので、関係性に時間による補正を加える必要が出てくる。だから、時制をズラすことは正解な関係性を計れなくする。しかし、関係性をデザインの発露にする場合は時制をズラすことで時間という要素をデザインに取り入れることができ、その取り入れ方次第でデザイン上の差異を生むことができる。

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"Sliding the tense of relationships"

The tense when dealing with relationships will match the present moment, or at least the past or the future. If the tense is off, an extra element of time is added to measure the relationship. Since time changes the state and naturally affects the relationship, it is necessary to correct the relationship with time. Therefore, shifting the tense makes it impossible to measure the correct relationship. However, when the relationship is exposed to the design, the element of time can be incorporated into the design by shifting the tense, and depending on how it is incorporated, a difference in design can be made.

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過去に焦点を合わせる

過去から未来へ流れる時間の中でのある点で切り取ったものが建築だと考えるならば、どこに焦点を合わせて切り取るかが問題になる。別に必ずしも現在に焦点を合わせる必要は無く、未来でも過去でもいい。未来に焦点を合わせることはよくあることだが、過去に焦点を合わせることはあまり無いかもしれない。時間の流れを考えれば必ず未来へ向かうので未来に焦点を合わせることは自然で、過去に焦点を合わせることは時間の流れに逆行するので違和感がある。ただ、現在を過去の集積と考えるならば、過去に焦点を当てて未来に向かう建築をつくることはできるような気がする。

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"Focus on the past"

If you think that architecture is cut out at a certain point in the time that flows from the past to the future, the question is where to focus and cut out. You don't necessarily have to focus on the present, it can be in the future or in the past. Focusing on the future is common, but focusing on the past may not be very common. Considering the flow of time, it is natural to focus on the future because it always goes to the future, and focusing on the past goes against the flow of time, so it feels strange. However, if we think of the present as an accumulation of the past, I feel that we can focus on the past and create architecture that faces the future.

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残るのは差異だけ

現在を過去の集積だと考えた場合の他者は偶然性である。ならば偶然性を主題にして、現在を過去の集積とは考えずに、現在は単なる偶然の産物と考えてみる。そうなると現在はたまたまそうなっただけとなる。たまたまそうなっただけの存在にはもしかしたら意味など全く無いかもしれないし、たまたまそうなっただけならば、いつかまた変化してしまうかもしれない。いつかまた変化してしまうものに価値を見出すとしたら、その瞬間の姿を焼き付けて記録し、変化したらその差異を楽しむしかないし、そもそも変化することが前提ならば、変化せずに残るのは差異だけである。

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"All that remains is the difference"

Others who think of the present as an accumulation of the past are accidental. Then, with the theme of contingency, instead of thinking of the present as an accumulation of the past, think of the present as a mere product of chance. Then it just happened to happen now. The existence that just happened to happen may have no meaning at all, and if it just happened to happen, it might change again someday. If you want to find value in something that will change again someday, you have to burn and record the appearance of that moment, and if it changes, you have to enjoy the difference, and if it is supposed to change in the first place, the difference remains unchanged. Only.

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他者の一貫性

他者を見極め徹底的に他者を全うする一貫性が素晴らしかった。東京都現代美術館で開催中の吉阪隆正展での感想である。昔からから不連続統一体に興味があり、ただ今回はあまり詳しく不連続統一体に触れる展示は無く、最後の展示で都市計画に表れていた。以前から不連続統一体はコルビジェのオブジェクトの配置の発展したものと捉えていたので、その辺りを展示の中で見たかったのだが、それよりも面白い他者性に触れることができ有意義な時間だった。

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"Consistency of others"

The consistency of identifying and thoroughly fulfilling others was wonderful. This is my impression of the Takamasa Yoshizaka exhibition being held at the Museum of Contemporary Art Tokyo. I have been interested in discontinuities for a long time, but this time there was no exhibition that touched on discontinuities in detail, and it appeared in city planning at the last exhibition. I've always thought that the discontinuous unification was an evolution of the arrangement of Corbusier's objects, so I wanted to see that area in the exhibition, but it was a meaningful time to be able to experience more interesting otherness. was.

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両方を満たす他者的視点

美学的な素晴らしさがあり、それがモノの存在や関係性と結びついて表現されているならば更に興味深いモノになるのだが、両方が満たされているものはなかなか見当たらない。それは美学的な素晴らしさも、モノの存在や関係性もそれぞれ単独で成り立たせることができるから、それぞれを単独で追求する人はいるが両方を満たそうとする人はなかなかいないし、いてもバランスが悪い。モノの存在や関係性に意識的にならないと美学的な素晴らしさは引き出せないし、美学的な素晴らしさに目を向けないとモノの存在や関係性に意義を見出せないと考えている。だから、両方満たすために新たな他者的な視点が必要かもしれない。

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"Another perspective that satisfies both"

It would be even more interesting if there was aesthetic splendor and it was expressed in connection with the existence and relationships of things, but it is hard to find anything that satisfies both. It is aesthetically pleasing, and the existence and relationships of things can be established independently, so there are people who pursue each independently, but there are few people who try to satisfy both, and even if they are balanced. bad. I think that aesthetic splendor cannot be brought out unless one is conscious of the existence and relationship of things, and that the existence and relationship of things cannot be found to be meaningful unless one pays attention to the aesthetic splendor. Therefore, a new perspective of others may be needed to satisfy both.

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関係性の断絶か継承か他者か

建替えによって時間と記憶が断絶される。この断絶には功罪がある。ただ、断絶か継承かの二者択一では無く、断絶では無いがかと言って継承でも無いような、断絶か継承かを棚上げするような他者が見つかれば、別の建替えの表現ができると考えた。

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繋がりながらも一部は途切れているような関係性を時間や記憶と形成したい。時間や記憶をデザインの話として扱う時には関係性に注目すると捉えやすいかもしれない。

"Disruption or inheritance of relationships or others"

Rebuilding cuts off time and memory. There are merits and demerits in this disconnection. However, if you find someone else who shelves whether it is a break or a succession, it is not a choice between a break and a succession, and it is not a break or a succession, you can express another rebuilding. I thought.

I want to form a relationship with time and memory that is connected but partially interrupted. When treating time and memory as a design story, it may be easier to understand by focusing on relationships.

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記憶を編集する他者

記憶の継承を外部からの関係性か内部からの関係性かを考えた場合、排除されている他者は何だろうか。外部からは周辺環境のコンテクストを含むものであり、内部からは実際の物によって記憶を対象化できる。だから、この時の他者は、記憶の継承は周辺環境のコンテクストと実際の物から成り立っているということ以外である。ただ、外部からでも無く内部からでも無いもので見当がつくものは無いが、外部か内部かという考えから外れた他者は思い当たるものはある。それは外部からの関係性や内部からの関係性のみを抽出し、その関係性を組み替えたものである。組み替えることで他者性を獲得する。ただし、この時の組み替えは記憶を編集するものでなければならない。

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"Others who edit memory"

When considering whether the inheritance of memory is an external relationship or an internal relationship, what are the others excluded? From the outside, it contains the context of the surrounding environment, and from the inside, the memory can be targeted by the actual object. So, the others at this time are other than that the inheritance of memory consists of the context of the surrounding environment and the real thing. However, there is nothing that can be guessed from the outside or the inside, but there are things that others who deviate from the idea of whether it is the outside or the inside can think of it. It extracts only the relationships from the outside and the relationships from the inside, and rearranges the relationships. Acquire otherness by rearranging. However, the rearrangement at this time must edit the memory.

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内発か外部かそれ以外

その場所の記憶の継承を考えた場合、内部からと外部からの2通りある。内部からは空間の変遷が及ぼす関係性を記憶と重ねることができ、外部からは周辺の影響の変遷が及ぼす関係性を記憶と重ねることができる。一般的にはどちらかを選択することになり、どちらを選択しても記憶の継承はできる。ただ、内部か外部かだけでは無いという立脚点に立ち別の可能性を考えてみる価値はあるかもしれないと考えてみた。

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"Internal or external or otherwise"

When considering the inheritance of the memory of the place, there are two ways, from the inside and from the outside. From the inside, the relationship exerted by the transition of space can be superimposed on the memory, and from the outside, the relationship exerted by the transition of the influence of the surroundings can be superimposed on the memory. Generally, either one is selected, and the memory can be inherited regardless of which one is selected. However, I thought that it might be worth considering the possibility of another from the standpoint that it is not only inside or outside.

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記憶のアイテム

建替えで排除されるものは過去からの時間であり、記憶など時間によって蓄積されたものが一旦リセットされるのが一般的である。リセットされることで未来への新しい展開が生まれるが、それと同時に記憶など蓄積されたものは何か特別な施しをしない限り消滅する。そこでリセットしないで建替えをすれば良いと考えれば記憶など蓄積されたものは消滅しないが、それと引き換えに未来への新しい展開が制約を受けるかもしれない。そうなると建替えのプロセスの中で記憶など蓄積されたものを含む何かをプラン作成のアイテムとすれば、未来への新しい展開が制約を受けることはないかもしれないと考えた。

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"Item of memory"

What is excluded by rebuilding is the time from the past, and what is accumulated by time such as memory is generally reset once. By being reset, a new development for the future will be born, but at the same time, the accumulated things such as memories will disappear unless some special treatment is given. Therefore, if you think that you should rebuild without resetting, the accumulated things such as memories will not disappear, but in exchange for that, new developments in the future may be restricted. In that case, I thought that if something including the accumulated things such as memories in the rebuilding process was made an item for making a plan, new development to the future might not be restricted.

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記憶を紡ぐこと

記憶は自分の中に他者をつくる。記憶の重なりが無ければ今の自分だけであり、そこには他者は無い。どのような記憶であれ完全に消えることは無いので必ず自分の中に他者は存在する。だから、建替えで記憶を継承しないことには無理があり、例え形が無くなったとしても記憶は消えないので、何らかの形で記憶を紡ぐ必要はあると考える。結果的にモノとして記憶を継承することを目指すがむしろ継承の仕方、プロセスに目を向けてみることで他者をより意識できる。

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"Spinning memory"

Memory creates others in you. If there is no overlap of memories, I am the only one I am now, and there is no other person there. No matter what kind of memory you have, it will never disappear completely, so there will always be others in you. Therefore, it is impossible not to inherit the memory by rebuilding, and even if the shape disappears, the memory will not disappear, so I think it is necessary to spin the memory in some way. As a result, we aim to inherit the memory as a thing, but rather we can be more aware of others by looking at the inheritance method and process.

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他者に乗る

無意識な自分が他者というのは現代思想の礎だが、今だに無意識な自分を他者と捉えてもいいかもしれない。自分の中に他者を内包するのは自然なことだと思うがそれを受け入れられない人が多いかもしれない。自分の中にいる他者と対話することはそれだけで新たな発見があるのだがそれを社会と結びつけないとつまらない。もし自分の中にいる他者が暴走したらと考えて受け入れらないのならば他者の背中に乗れば今まで見たことが無い世界を概観できるだろうに。

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"Riding on others"

It is the cornerstone of modern thought that the unconscious self is another person, but it may still be possible to regard the unconscious self as another person. I think it's natural to include others in yourself, but many people may not accept it. Dialogue with others within you is a new discovery, but it's boring if you don't connect it to society. If you don't accept the runaway of others in you, you can get an overview of a world you've never seen before by riding on their backs.

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自分にとっての他者

訳がわからない、わからないと言えるモノを探してみようと考えた。どこまでも考えても、どこまでも塗りつぶしても塗れない部分、考えても結論が出ない部分がある。それは能力の問題なのかもしれないが能力が高くても空白と呼べるような部分は残る。きっとそれが自分にとっての他者なのだろう。自分にとっての他者と社会にとっての他者にはきっとズレがある。そのズレがデザインのヒントになる。だから、自分にとっての他者は大切な基準になる。

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"Others for me"

I thought I'd try to find something that I couldn't understand or could say I didn't understand. There are parts that cannot be painted even if you think about it, and parts that you cannot reach a conclusion even if you think about it. It may be a matter of ability, but even if the ability is high, there remains a part that can be called a blank. I'm sure it's someone else for me. There is surely a gap between others for me and others for society. The deviation becomes a design hint. Therefore, others are an important standard for me.

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建築を捕まえたい

建替えを計画する時、時の流れを建築の存在に込めることはできないかと考えてしまう。

建築が時の流れを止めてしまうのでは無く、時の流れを繋ぐような存在にしたいという想いがあるからだが、もうひとつの想いは建築という物自体の存在を捕まえたいという欲求が働くからでもある。

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だがたぶん捕まえることはできないだろうという想いも同時にある。

"I want to catch architecture"

When planning a rebuild, I wonder if the passage of time can be incorporated into the existence of architecture.

This is because architecture does not stop the flow of time, but wants to be something that connects the flow of time, but another desire is that the desire to capture the existence of architecture itself works. be.

But at the same time, I have the feeling that I probably won't be able to catch it.

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偶然性が鍵

自分が認識している範囲が全てでは無いのでその外側に意識を向けようとするのは至極当然の行為だが、その外側でさえ認識の範囲だから外側に意識を向ける事自体が無意味である。結局は全てを認識できることは無く、全てをコントロールしようという考え方自体が虚しい。その時々の出来事は共時的偶然なのだからコントロールしようが無い。唯一できるのは出来事の確率を高めることだけであり、確率を高めるにはコントロールすることとは真逆のコントロールできないことを受け入れる姿勢にある。これは建築の話であり、偶然性がデザインの鍵になるということである。

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"Contingency is the key"

It is quite natural to try to turn your consciousness to the outside because the range you are aware of is not all, but it is meaningless to turn your consciousness to the outside because even the outside is the range of recognition. In the end, it is not possible to recognize everything, and the idea of controlling everything is empty. The events at that time are synchronic coincidences, so there is no way to control them. The only thing that can be done is to increase the probability of an event, and to increase the probability, we are willing to accept that we cannot control the opposite of controlling. This is an architectural story, and contingency is the key to design.

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さらにバラバラにする

バラバラな条件をひとつにまとめようとするのがモノづくりの典型的なパターンだろう。ただ、まとめるという行為はイレギュラーなものを排除することにもなる。

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バラバラな条件をさらにバラバラにし、個々の条件が際立った状態でそのまま全体をひとまとめにするさらに上位の条件を設定すれば、イレギュラーなものまで含んだモノをつくることができる。その上位の条件はただ個々の条件のつながりだけを設定するようなものかもしれない。

"Make it even more disjointed"

A typical pattern of manufacturing is to try to combine disparate conditions into one. However, the act of putting together also eliminates irregular things.

By further disassembling the disjointed conditions and setting higher-level conditions that put the whole together in a state where the individual conditions stand out, it is possible to create a product that includes even irregular ones. The higher-level conditions may be like setting only the connection of individual conditions.

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新しい展開のつくり方

何かを極端に扱う時には何かを排除しなければならない。それは極端に扱うものに焦点を当て、極端に扱ったものを中心に据えるから他が排除されるが、排除されるものを知りたくて一時的に極端な扱いをすることもあるかもしれない。

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排除されるものは今その瞬間には必要がないかもしれないが見方や焦点の当て方をかえれば再び必要とされるものである。だから、再び必要とされる見方や焦点の当て方を考えれば、それがすなわち新しい展開へと通じる。

"How to make a new development"

When dealing with something extreme, something must be excluded. It focuses on the extreme treatments and puts the extreme treatments at the center, so others are excluded, but there may be temporary extreme treatments to know what is excluded.

What is excluded may not be needed at that moment, but it is needed again from a different perspective and focus. So, if you think about the perspective and focus that you need again, that leads to new developments.

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こぼれ落ちた他者

建築は全て一時的なものだと捉えるならば、建築に対する距離の取り方も変わる。建築を考える時、その存在に対してどこか相対的になることが多い。それは建築の経済的影響のせいか、はたまたスケールの大きさのせいか、建築を絶対的なものとすることに何故か躊躇する。しかし、一時的なものだと捉えるならば、建築を絶対的なものだとしてもいいような気になる。絶対的な建築を想起できれば、そこからこぼれ落ちる他者が明確になる。そのこぼれ落ちた他者が絶対的な建築に代わる新たな建築をつくる。

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"Spilled others"

If you think of architecture as temporary, it also changes the way you distance yourself from architecture. When thinking about architecture, it is often somewhere relative to its existence. Perhaps because of the economic impact of architecture, or because of the size of the scale, I hesitate to make architecture absolute. However, if you think of it as temporary, I feel that architecture can be considered absolute. If you can recall the absolute architecture, the others who spill from it become clear. The spilled others create a new architecture that replaces the absolute architecture.

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全ては一時的な果て

全ては一時的なものと捉えるならば、はじまりも終わりも無意味なものになる。それは着想も無意味であり、結論も無意味である。そうなると建築は成り立たない。全ては一時的なものだろうか。

建築もいつかは無くなる。ならば一時的であり、はじまりも終わりもないとなる。その様が建築のデザインに現れないことにいつも違和感を感じていた。ならば、その回答としてメタボリズムのような新陳代謝を繰り返す建築を想起すればいいのだろうか。今、中銀カプセルタワーは解体中である。

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一時的な姿をスクリーンショットのように捉え実現化する、その繰り返しで良く、さらに建築はその大きさと不動故に経年変化をデザインに取り込まないといけないと思うがそこの部分に知恵を絞る事例は皆無に近い。

"Everything is a temporary end"

If everything is considered temporary, the beginning and the end will be meaningless. The idea is meaningless, and the conclusion is meaningless. If that happens, architecture will not be possible. Is everything temporary?

Architecture will disappear someday. If so, it is temporary and has no beginning or end. I always felt uncomfortable that such a thing did not appear in the architectural design. Then, as an answer, should we think of architecture that repeats metabolism such as Metabolism? The Nakagin Capsule Tower is currently being dismantled.

It's okay to capture and realize a temporary figure like a screenshot, and it's okay to repeat it, and because of its size and immobility, I think that secular variation must be incorporated into the design, but there are no cases where wisdom is narrowed down to that part. Close to.

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他者を炙り出す

両義的な意味を考えることができれば、他者として隠れていることに焦点を当てることができる。

単純に物事を捉えれば何かが抜け落ちる。抜け落ちたものは単純化する際には不要なものと見なされたが、単純化が何かの弊害を生む場合、解決するには抜け落ちたものの中に答えがある。

抜け落ちたものが他者であり、単純化の際には暗黙の了解で隠れていてすぐには把握できない。そこで、単純化した物事を再度両極端な状況で成り立つような両義的な状態を仮定することで隠れていた他者を炙り出すことができる。その時には最初から両義的な状態を仮定した場合とは違う他者が現れるかもしれず、よりクリティカルな他者になる可能性がある。

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だから、他者を見つけ出すために一旦極端な単純化をすることは有効かもしれない。

"Burning others"

If you can think of ambivalent meanings, you can focus on hiding as others.

If you simply catch things, something will fall out. The omissions were considered unnecessary in the simplification, but if the simplifications do something wrong, there is an answer in the omissions to solve.

What is missing is another person, and when it is simplified, it is hidden by an implicit understanding and cannot be grasped immediately. Therefore, by assuming an ambivalent state in which simplified things are once again established in extreme situations, it is possible to expose others who have been hidden. At that time, another person may appear different from the one assuming an ambiguous state from the beginning, and it may become a more critical person.

So it may be useful to make some extreme simplifications to find others.

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関係性からつくる自律

関係性を誘発する建築は自律していると言ってもいいだろうと考えた。関係性の中から生まれる建築は関係性から影響を受けているので自律しているとは言い難いがその建築があることで関係性が生まれる場合は関係性を生成する元であり関係性からの影響を受けていないので自律していることになる。

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関係性からつくる建築でも関係性を生成する元であれば自律でき、関係性からの影響で歪むことも無い。

"Autonomy created from relationships"

I thought it could be said that the architecture that induces relationships is autonomous. It is hard to say that the architecture born from the relationship is autonomous because it is influenced by the relationship, but when the relationship is created by the existence of the building, it is the source of the relationship and is the source of the relationship. It is autonomous because it is not affected.

Even architecture created from relationships can be autonomous as long as it is the source of the relationships, and it will not be distorted by the influence of the relationships.

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関係性で歪む建築

オブジェクト自体が自律して存在するには関係性を否定する必要があるかもしれない。ただ、関係性を否定してオブジェクトが成り立つことがなかなか想像できない。それは関係性を常に創作のヒントにしてきたからだろう。

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関係性を断ち建築というオブジェクトを自律させる必要性は感じる。それは関係性に引っ張られて建築の在り方が歪んでいると思う時があるからである。関係性を尊重するあまりに建築が醜いものになる。それは関係性を尊重すること自体が悪い訳ではないが、度を超えていることを示している。

"Architecture distorted by relationships"

It may be necessary to deny the relationship for the object itself to exist autonomously. However, it is hard to imagine that an object would be established by denying the relationship. That's because relationships have always been a hint of creation.

I feel the need to break the relationship and make the object of architecture autonomous. This is because there are times when I think that the way architecture is distorted due to relationships. Architecture becomes too ugly to respect relationships. It's not that respecting relationships is bad in itself, but it shows that it's overkill.

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関係性の肯定、存在の否定

バラバラに分断して配置したものの次の展開はどうなるのだろうか。バラバラに分断したのだから次は統合へ向かうのが普通に考えれば順当な流れかもしれない。ただその場合、バラバラに分断する前の統合の状態に戻らないし、戻さない。

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あと、統合かバラバラかの話の中でどこに焦点を当てるかもある。統合かバラバラかはオブジェクトの関係性の問題だが、その場合関係性があることが前提になっている。関係性が無い場合はそもそもバラバラか統合かの話にはならないからだが、関係性の話をした時に気になるのは関係が前提になっていること。関係性はたくさんの拠り所にできるから、まず関係性をみるクセが身に付いているが、それはオブジェクトが関係性で成り立つことが前提である。その場合、おざなりにされているのはオブジェクト自体であり、関係性など無しにオブジェクト自体は存在できることを全く否定している。

"Affirmation of relationship, denial of existence"

What will happen to the next development of what is divided and arranged separately? Since it was divided into pieces, it may be a reasonable flow to move to integration next time. However, in that case, it does not return to the state of integration before it was divided into pieces, and it does not return.

Also, where may we focus on the story of integration or disparity? Whether it is integrated or disjointed is a matter of object relationships, but in that case it is assumed that they are related. If there is no relationship, it is not a matter of disjointness or integration in the first place, but when talking about relationships, what is worrisome is that relationships are a prerequisite. Since relationships can be based on many sources, we first have a habit of looking at relationships, but it is premised that objects are made up of relationships. In that case, it is the object itself that is being neglected, and it completely denies that the object itself can exist without any relationship.

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上下を混じり合わせる

無意識で当たり前のように行っていた階数による配置、重ね合わせることについて考えてみた。階段やスロープ、エレベーター、吹抜けなどで上下階をつなぎ重ね合わせし配置をするがそれらによってつながる以外は上下が床で分断されている。だから、上下階を別々のものとして考えることができるのだが、もう少し上下が混じり合うようなことができないかと思った。

その際にどうしても床で分断されることは避けられないから床全体を傾斜させて上下階の区別自体を無くす方法は今までたくさん試みられてきた手法で、それ自体は魅力的な空間ができあがるが、分断に対する対処の仕方がつながること以外にはないのか。

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もしかしたら、さらに分断を進める、あるいは別の分断を持ち込むことにより分断自体から自由になれて上下が混じり合うような手法がないかと考えている。

"Mix the top and bottom"

I thought about arranging and superimposing by the number of floors, which was unconsciously done as a matter of course. The upper and lower floors are connected and arranged by stairs, slopes, elevators, stairwells, etc., but the upper and lower floors are separated by the floor except that they are connected by them. Therefore, I can think of the upper and lower floors as separate things, but I wondered if the upper and lower floors could be mixed a little more.

At that time, it is inevitable that the floor will be divided, so the method of tilting the entire floor to eliminate the distinction between the upper and lower floors is a method that has been tried many times, and it itself creates an attractive space. Isn't there anything other than connecting how to deal with the division?

Perhaps, I think there is a method that allows us to be free from the division itself and mix the top and bottom by further dividing or bringing in another division.

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型の有無

型が無い世界と型が有る世界、両極端を味わいたくて茶道を習いはじめたのかもしれない。生業としている建築の世界は型が無い。これについては異論があるかもしれないが、一定基準のレベルを満たしていれば何でも有りの創造の世界だと考えている。一方、茶道の世界は今のところ型が有り、その型の中での創造性はある一定の基準以上のレベルまで行けばあるのかもしれないが、その型は崩せない。だから、型の有無でいえば、建築と茶道は真逆の世界であり、一方から真逆の片方を眺めることで気づくことがたくさんある。

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"Presence or absence of mold"

Perhaps he started learning the tea ceremony because he wanted to experience the extremes of a world without a mold and a world with a mold. The world of architecture, which is a living business, has no pattern. There may be some disagreements about this, but I think it's a world of creation where anything meets a certain standard level. On the other hand, the world of tea ceremony has a pattern so far, and the creativity in that pattern may be reached to a level above a certain standard, but that pattern cannot be broken. Therefore, in terms of the presence or absence of molds, architecture and tea ceremony are the opposite worlds, and there are many things that can be noticed by looking at one of the opposites.

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コントロールのバランス

コントロールできるものとコントロールできないものがあり、コントロールされたものとコントロールされないものがある。コントロール自体を主題にするのは全てをコントロールしたい欲望かもしれず、この世界は全てコントロールされているのが良いとする考えが前提かもしれない。それに対しては反論したくなり、コントロールから逃れる所にクリエイティブなことを見つけたくなる。

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ただ結果的に良いものが出来上がれば、それがコントロールされていようが、偶然であろうがどちらでも構わない。要は良いものを生み出すプロセスを考えていく中で偶然とコントロールのバランスを最適にとりたいのである。

"Balance of control"

Some are controllable and some are uncontrollable, some are controlled and some are uncontrolled. The subject of control itself may be the desire to control everything, and the premise that this world should be all controlled. I want to argue against it, and I want to find something creative where I can escape control.

However, if the result is a good one, it doesn't matter whether it is controlled or accidental. In short, I want to optimally balance control by chance while thinking about the process of producing good things.

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作為ゼロをコントロール

偶然に生まれたものはコントロールされたものではないから評価に値しないだろうか。何かが生まれる仕組みの中に偶然性を盛り込めば、それは確かに偶然生まれたものとなるが、その仕組み自体はコントローされたものだがら、少し引いて見てみればそこには偶然という名のプロセスパーツがあるだけになる。

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だから極端なことを言えば、サイコロを振るという仕組みを決めてしまえば、サイコロの目が何になろうと、結果は全てコントロールされたものであり、偶然性という作為ゼロのことまでコントロールされたものの範疇に含めることができる。

"Control zero action"

Isn't it worthy of evaluation because what was born by chance is not controlled? If you include contingency in the mechanism by which something is born, it will certainly be born by chance, but the mechanism itself is controlled, but if you look at it a little, there is a process called chance. There are only parts.

So, to put it in the extreme, if you decide on a mechanism to roll the dice, no matter what the dice roll, the result is all controlled, and even the zero act of chance is controlled. Can be included in.

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不安定なものを捕まえる

不安定でコロコロと変わるものは捕まえようが無いがもし捕まえようとしたら、こちらも不安定で不確実な手段を用いて、どこかの瞬間に共鳴して捕まえることができるかもしれない。

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不安定で不確実な手段とは、別の言い方をすれば偶然性を伴う手段であり、それは全てをコントロールできない手段である。その手段をデザインしてみたら、不確実なものがデザインの範疇におさまるかもしれない。

"Catch unstable things"

There is no way to catch something that is unstable and changes, but if you try to catch it, you may be able to resonate and catch it at some moment using unstable and uncertain means.

Unstable and uncertain means, in other words, means with contingency, which is a means out of control of everything. If you try to design the means, uncertainties may fall into the category of design.

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他者性を生み出す

他者性に埋没して見える世界は青い海か赤い海か。きっと青い海だから他者性になるのだろうが、あらゆる可能性を掘り起こした後の痕跡だらけではすぐに青い海には結びつかない。

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きっと他者性の獲得にはもう一段階の捻りなり展開が必要かもしれない、簡単に考えれば、それは新しい組合せになるだろう。

"Creating otherness"

Is the world buried in otherness the blue sea or the red sea? I'm sure it will be a stranger because it is a blue sea, but if it is full of traces after digging up all the possibilities, it will not immediately lead to the blue sea.

I'm sure that the acquisition of otherness may require another twist and development, in a nutshell, it will be a new combination.

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効率か無駄か

効率から生まれるものは無駄が無いものになるが、無駄を効率的に配置したら、それはそれで効率的ではないのかと思った。

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地である効率と図である無駄を反転させたような話だが、図である無駄を効率的に配置すれば、地か図か、効率か無駄かの話が棚上げになり、別の視点が持てるのではないかと考えた。

"Efficiency or waste"

What is born from efficiency will be lean, but if waste is arranged efficiently, I wondered if it would be efficient.

It's a story that reverses the efficiency of the ground and the waste of the figure, but if the waste of the figure is arranged efficiently, the story of the ground or the figure, efficiency or waste will be shelved, and another perspective will be given. I thought I could have it.

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効率から自由になる

さらに効率を推し進めるとむしろ効率から離れることができるのではないかと考えた。効率的になる部分を増やしてより効率化すると、それまで効率について考える必要があったことが無くなり、効率自体を考える必要が無くなる。その結果、効率から自由になれる。

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だとすれば、さらに効率化する時の手段を固有のものにすれば、効率化を推し進めながら固有のものが生まれ、生まれたものは効率とは無縁のものにできる。

"Free from efficiency"

I thought that it would be possible to move away from efficiency by further promoting efficiency. If we increase the efficiency and make it more efficient, we no longer have to think about efficiency, and we don't have to think about efficiency itself. As a result, you are free from efficiency.

If that is the case, if the means for further efficiency improvement are made unique, unique things will be born while promoting efficiency improvement, and the born things can be unrelated to efficiency.

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偶然なハンコ

ひとつの決まり事をつくり、その決まり事はそこでの固有のものだが、その決まり事をハンコのように繰り返しながら、しかしその時々でハンコのどの部分を押さえるのかを偶然的に決めようと考えた。

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ハンコは効率的なもの、ただ、押し方を偶然性に頼ったら予想もしなかったものが現れるかもしれない。効率は担保しながら自分でも予想していないようなものを見てみたい。

"A coincidental stamp"

I made a rule, and the rule is unique to it, but I thought about repeating the rule like a stamp, but accidentally deciding which part of the stamp to hold at that time.

Hanko is efficient, but if you rely on chance to push it, you may find something unexpected. I want to see something that I didn't expect while guaranteeing efficiency.

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お互いに依存

内部から詰めるか、外部から詰めるか、この内部と外部という両義な問題はいつも頭にある。たぶんそれはどちらかを決めて、そのスタンスではじめれば良いのだろうが、その時その時でこの内部と外部の両義のどちらに振るかを決めていたので、その選択が重要になった。

ちょっと進めて内部も外部もお互いに依存しあうような切り口があるかどうかを考えてみる。内部を決める時に外部を必要とする、あるいは外部を決める時に内部を必要とする、そのような関係性がある切り口で建築が部分から全体ができあがればいい。

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それは内部と外部の関係性をリフレーミングするようなことかもしれないが、新たな自由と秩序が手に入るような気がする。

"Depending on each other"

Whether to pack from the inside or from the outside, this ambiguity between the inside and the outside is always in my head. Maybe it's better to decide which one to start with, but at that time I was deciding whether to swing inside or outside, so that choice became important.

Let's go a little further and consider whether there is a way to depend on each other both inside and outside. It would be good if the whole building could be completed from the part with such a related cut that needs the outside when deciding the inside, or needs the inside when deciding the outside.

It may be like reframing the relationship between the inside and the outside, but I feel like I have new freedom and order.

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一番遠いもの

プロセスは効率的なことをさらに進めて行うが、結果的には効率的なプロセスから導き出されるものから一番遠い所に着地したいと考えている。

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効率にもバリエーションがあるとしたら、その場所での一番効率的なことを選択し、その結果出てくるものはその場所固有のものであり、もしかしたら他の場所では効率的ではないかもしれない。それはちょっと引いて見れば、結果的には効率的なプロセスから導き出されたものから一番遠いものになるかもしれない。

"The farthest thing"

The process goes a step further in efficiency, but in the end we want to land farthest from what is derived from the efficient process.

If there are variations in efficiency, choose the most efficient one at that location, and the resulting results are specific to that location and may not be efficient elsewhere. not. At a glance, it may end up being the furthest from what was derived from an efficient process.

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遠いか近いか

先日見たある絵画は桜を題材にしたものだった。ポロックのアクションペインティングの指向性を高めて、青空に映える桜というモチーフを表現していた。どこまでが具象でどこまでが抽象かがわからない、作者本人も語っていたが、具象と抽象をつなぎ行ったり来たりする。

面白いことに絵画から距離を取りある一点から見ると実際の花が咲き乱れる自然の桜のように見えるが、間近で見ると単なる抽象絵画になってしまう。

距離が近ければ絵画と自分との間に差し挟むものは何も無く直接的に対峙することになるからそのままの絵画としての桜が目の前に出現する。距離を取り絵画から離れれば絵画と自分との間に別の要素が入り込み、絵画としての桜はその別の要素を通して間接的に出現する。別の要素が入り込むということが絵画の桜を自然の桜のように見せるのだろう。

自然の桜はどこから見ても、近くても遠くても、自然の桜に見える。細密に描いた桜の絵画はどこから見ても絵画の桜で自然の桜のようには見えない。

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具象度を落とし遠くなることで実物との差異が生まれる。その差異が自身が持っている桜に対する感性と共鳴し増幅され、無意識のうちに増幅された実物との差異を埋める作用が起こり、自然の桜に浸るような感覚に包まれる。だから絵画との距離は人によって違う。

"Is it far or near?"

One of the paintings I saw the other day was about cherry blossoms. By increasing the directivity of Pollock's action painting, he expressed the motif of cherry blossoms that shine in the blue sky. The author himself said that he didn't know how much concrete and how abstract he was, but he goes back and forth between concrete and abstract.

Interestingly, when viewed from a certain point away from the painting, it looks like a natural cherry blossom in full bloom, but when viewed up close, it becomes just an abstract painting.

If the distance is short, there is nothing to put between the painting and myself, and they will face each other directly, so the cherry blossoms as the painting will appear in front of me. If you take a distance and move away from the painting, another element will enter between you and yourself, and the cherry blossoms as a painting will indirectly appear through that other element. The inclusion of another element may make the cherry blossoms in the painting look like natural cherry blossoms.

Natural cherry blossoms look like natural cherry blossoms no matter where you look, whether they are near or far. The detailed painting of cherry blossoms is a painting of cherry blossoms and does not look like a natural cherry blossom from any angle.

By reducing the degree of concreteness and getting far away, a difference from the real thing is created. The difference resonates with one's own sensibility for cherry blossoms and is amplified, and the action of filling the difference with the amplified real thing occurs unknowingly, and it is wrapped in the feeling of being immersed in natural cherry blossoms. Therefore, the distance from the painting varies from person to person.

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記憶の消滅への抵抗感

時間が切断されるものをつなげようとすると無理が生じるかもしれないが、そのままにしておくと時間に張り付いている記憶が消滅してしまう。きっと切断を繰り返すことが当たり前になっているから記憶の消滅を何とも感じないようになっているのかもしれない。

切断してしまう方が楽でつなげる方は労力がいる。切断し新しい時を刻むようにつくり替えてしまえば、切断した時点がスタートになるので全てがリセットされ身軽になるが、つなげる方はそれまでの記憶を継承するのではじめから記憶との関わりが伴い対処を迫られる。

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ただ、記憶とのつながりはその人、その場所、そのものの固有のものだから消滅してしまうことには抵抗感があり、いつもこの抵抗感との兼ね合いが建築デザインには伴う。

"Resistance to the disappearance of memory"

If you try to connect something that cuts time, it may be impossible, but if you leave it as it is, the memory stuck to time will disappear. I'm sure it's normal to repeat disconnection, so it may be that I don't feel the disappearance of my memory at all.

It is easier to disconnect and it is more laborious to connect. If you disconnect and remake it so that it ticks a new time, everything will be reset and lighter because the point of disconnection will be the start, but the person who connects will inherit the memory so far, so it will be dealt with from the beginning. Is pressed.

However, since the connection with memory is unique to the person, the place, and itself, there is a sense of resistance to disappearing, and the balance with this sense of resistance always accompanies architectural design.

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他者の投影

ある一点を見つめていると周りはボヤけてくる。まさにある一点を見つめることがものづくりかもしれない。次のことを考えているつもりでも、ある一点を見つめる範疇から逃れることができておらず、周りがボヤけている様を自身の投影に利用する。ある一点を見つめることは他の部分を捨てて断絶しているように見えるが、一点に集約して周りを引き連れようとしているようにも見える。解釈のちがいは断絶か連続かだが、断絶せずに次のことを考えていても何も変わらない、連続では何も変わらない。次のことを何かを変えたいならば、一点を見つめながらボヤけている周りに他者を投影したい、それで断絶できる。

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"Projection of others"

When I stare at a certain point, the surroundings become blurred. It may be manufacturing to look at exactly one point. Even if I think about the following things, I haven't been able to escape from the category of staring at a certain point, and I use the appearance that the surroundings are blurred for my own projection. Looking at one point seems to be cut off by throwing away the other parts, but it also seems to be trying to consolidate into one point and take the surroundings. The difference in interpretation is whether it is discontinuous or continuous, but nothing changes even if you think about the following without discontinuity, and nothing changes in continuous. If you want to change something to the next thing, you want to project another person around the blur while staring at one point, and you can cut it off.

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サイコロを真面目に振る

全体があり部分が決まるような流れから脱したいとしたならば、ひとつの方法としてはその流れを切断するように偶然性を取り入れる。何の疑いもなく全体から部分を考えていると全てが予定調和の範疇におさまってしまう。

ひとつサイコロを振ることにしよう、たったそれだけで予定調和が切断され、面白いことに結果が気になりだす。

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サイコロは不真面目かもしれない、しかし、予定調和も真面目とはいえない。予定調和は何も考える必要がないだけで、むしろサイコロを導入しようと考えるだけでも現状に何かを変化を、そうしたらもっと良くなるかもと考えるだけ大真面目である。

"Roll the dice seriously"

If you want to get out of a flow that is whole and part-determined, one way is to take in chance to cut off that flow. If you think about the part from the whole without any doubt, everything falls into the category of planned harmony.

Let's roll one dice, and that alone will break the planned harmony, and interestingly the result will be worrisome.

The dice may be unscrupulous, but the planned harmony is not. Scheduled harmony doesn't just have to think about anything, but rather just thinking about introducing dice is serious enough to think about something that will change the status quo and that it will be even better.

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偶然性に委ねる

偶然性をコントロールできないかと考えている。偶然性をコントロールするとは一見矛盾することの組み合わせだが、全てが偶然である必要はないし、全てをコントロールする必要もないと考えれば、一見矛盾することに妥協点は見出せる。

コントロールし、ある枠内で偶然性が起こる。偶然の結果で現れるものが最終結果になれば、それは偶然性を帯びたものと呼べるだろう。

偶然性をコントロールすることはプロセスデザインでもあり、結果を手放し、結果をコントロールしないことをデザインすることでもあり、結果に収束していく流れを切断することでもある。

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何を持って決定するかとした時の基準が偶然性に委ねられることはものづくりの世界ではタブーかもしれないがアートの世界では当たり前である。ならば、一考の余地はあるかもしれないと思った。

"Leave it to chance"

I'm wondering if I can control the contingency. Controlling contingency is a combination of seemingly contradictory things, but if you think that everything doesn't have to be accidental and you don't have to control everything, you can find a compromise in seemingly contradictory.

Control and chance happens within a certain frame. If what appears as a result of chance is the final result, it can be called contingent.

Controlling contingency is also process design, letting go of the result, designing not to control the result, and cutting off the flow of convergence to the result.

It may be taboo in the world of manufacturing that the criteria for deciding what to have is left to chance, but it is commonplace in the world of art. Then, I thought there might be room for consideration.

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ブレを面白がる

カルサイトという石がある。必ず菱形に割れるその石は半透明なのでかざすと文字や線が透けて見えるが、石の性質上必ずブレて見える。

自分の目と線や文字の間に何も無く直接的に見ることができるならば、ブレることなくはっきりと見えるが、自分の目と線や文字の間にカルサイトが入ると見え方はカルサイトの性質に依存し間接的に見ることになる。それはカルサイトの分だけ距離が遠くなったとも言える。

日常の中ではカルサイトが間に入るように距離を遠くして間接的な見方をしていることが多く、本来はブレて見えているはずだが、自分の目が自動補正しブレずに見せていると思う。

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だから、直接的に見ないとダメとかという話では無くて、むしろ日常の中では直接的に見ることは不可能だから、カルサイトに当たるものを意識して入れ替えながら見て、その時のブレの見え方の差異を面白がる方が良いのでは。

"Interesting blur"

There is a stone called calcite. The stone, which always breaks into a rhombus, is translucent, so when you hold it over, you can see through the letters and lines, but due to the nature of the stone, it always looks blurry.

If you can see directly without anything between your eyes and lines or letters, you can see clearly without blurring, but if you put calcite between your eyes and lines or letters, you will see it. It depends on the nature of calcite and will be seen indirectly. It can be said that the distance has increased by the amount of calcite.

In everyday life, I often take an indirect view by increasing the distance so that calcite is in between, and although it should look blurry, my eyes automatically correct it and show it without blurring. I think it is.

Therefore, it is not a story that you have to look directly, but rather it is impossible to see it directly in everyday life, so look at it while consciously replacing what hits calcite, and how the blur looks at that time. I think it's better to be amused by the difference.

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遠いか近いか

何事も遠くなればブレや行き違いなどの差異が生まれ誤解が生じるが、誤解や行き違いをネガティブではなくポジティブに捉えれば、良し悪しも無いどっちつかずの状態になり、それはひとつの側に固定されていない状態だから、そこからどのようにでも変化させることができる。

逆に近いと相当正解に言い当てることができてしまうが故に差異が生まれずにかえって融通が利かなくなるとも言える。

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遠くでもなく近くでもないバランスをとることができれば一番良いのだがそうもいかないので、差異をポジティブに捉え主題にし拡張してみると、バランスを取らない方が良い結果が生まれるかもと思い、遠いか近いかの距離感の見方がちょっと変わった。

"Is it far or near?"

If everything goes far away, differences such as blurring and misunderstandings will occur and misunderstandings will occur, but if you catch misunderstandings and misunderstandings positively instead of negatively, you will be in a state of neither good nor bad, and it is fixed to one side. Since it is not in a state, it can be changed in any way from there.

If it is close to the opposite, it can be said that the answer is quite correct, so there is no difference and it is rather inflexible.

It would be best if we could balance neither far nor near, but that is not the case, so if we take the difference positively and expand it to the subject, I think that it is better not to balance, so it is far. The view of the sense of distance, whether close or near, has changed a little.

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切断に可能性はないのか

時が流れれば必ず変化していく、それは人も物も同じだが、時による変化が絶対的なことと捉えれば、時の変化自体が人や物の何か固有なことを絶対的に表現してしまうと考えることもできる。

その時問題になるのが切断か継承かであり、時の流れを切断することで固有なことまで切断し無いことにするか、時の流れをつなげることで固有なことを継承するか、モダニズムの考えは切断を選んできた。

ポストモダニズム以降はいかに切断されたものをつなげるかの歴史であるが、今だに切断が優位である。切断する方が資本主義経済と同調しやすくメリットがあるからだろう。中には時の流れをつなげるという見せかけまで存在させて切断する。

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切断されるものは放っておいて、つなげることができるものだけでもつなげていくのが固有なことを継承する現実的手段だと思うが、どうも頷けない。それは切断に可能性が見出せないのかと思ってしまうからである。

"Is there a possibility of disconnection?"

It always changes as time goes by, which is the same for people and things, but if we consider that the change with time is absolute, the change in time itself absolutely expresses something unique to people and things. You can think that it will be done.

At that time, the problem is disconnection or inheritance, and whether to cut off the flow of time so that it does not cut off the unique things, or to connect the flow of time to inherit the unique things, or to inherit the unique things of modernism. The idea has chosen to disconnect.

Since postmodernism, it is a history of how to connect cut things, but cutting is still dominant. This is probably because disconnecting is easier to align with the capitalist economy and has the advantage. There is even a pretense that connects the flow of time inside and cuts.

I think it's a realistic way to inherit the uniqueness of leaving things that are cut off and connecting them only with things that can be connected, but I can't nod. That is because I wonder if there is a possibility of disconnection.

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絶対的効率は非効率か

普通にいったら効率に飲み込まれてしまうところを別の効率を持ち出してきて違う結果を生み出せないかと考えている。

最近、効率的=同一的=全体的という図式から逃れてたくて、非効率、不同一、部分について考えたりするが、反対を考えても結局は同じ文脈で考えていることになるので、度を超す位に効率的=同一的=全体的を推し進めたらどうなるかを考えてみている。

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例えば、絶対と呼べるような効率的な状態は不安定になるのではないか。絶対的な効率は少しでもバランスを崩したら非効率に転じるのではないか。それは結果的に効率から逃れてまた別の状態をつくることができるのではないか。

"Is absolute efficiency inefficient?"

I'm wondering if I can bring out another efficiency and produce different results where it would normally be swallowed by efficiency.

Recently, I've been thinking about inefficiencies, inconsistencies, and parts because I want to escape from the scheme of efficiency = identity = overall, but even if I think about the opposite, I end up thinking in the same context. I'm thinking about what would happen if I pushed forward with efficiency = identity = overall to the extent that it exceeds.

For example, an efficient state that can be called absolute may become unstable. Absolute efficiency may turn into inefficiency if the balance is lost even a little. As a result, it may be possible to escape from efficiency and create another state.

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時間による偶然

偶然的に生まれることははじめから全体を持たないことであり、部分の生成が最初にあり、いくつか部分が増えていった時に部分同士の関係性が生まれ全体が見えてくる。

ただ存在としての全体ははじめには無いが、コントロールをしようとした時には指針のようなものが必要になるだろう。だがその前にコントロールする必要があるのかということもある。コントロールすればそこに偶然が生まれるのかという疑問もあるが、何かを生み出す場合にコントロールがそもそも必要か。

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決定できれば良いのだから、コントロールせずに決定できる方法か、そもそも決定しないことを受け入れる曖昧な状態が最終的な全体の状態で良いとなればいいのか。ならば、時間を持ち出してきて、ある時間で切断した状態、その時間の偶然性による結果が最終で良いともいえるか。

"A coincidence by time"

Being born by chance means not having the whole from the beginning, the generation of the part is first, and when some parts increase, the relationship between the parts is born and the whole becomes visible.

It's not the whole thing at first, but when you try to control it, you'll need something like a guideline. But before that, it may be necessary to control it. There is a question as to whether control will create a coincidence, but is control necessary in the first place when creating something?

Since it is only necessary to make a decision, is it a method that can be decided without control, or is it good if the ambiguous state that accepts not making a decision in the first place is good in the final overall state? If so, can it be said that the final result is the state of taking out the time, disconnecting at a certain time, and the accidental result of that time?

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偶然的に待つ

建築がつくられていく上で必然的にそうなったのではなくて偶然的にそうなったようにできないかと考えている。必然的とは建築計画学的な積み重ねや暗黙の了解も含めた同時代的な表現であり、偶然的とはそれらの意図が及ばないところで決定されることである。

建築計画学的な積み重ねや暗黙の了解も含めた同時代的な表現は全体的に同一なものを生み出す方向に力が働く。それに対して偶然的は同一なものを生み出す力とは断絶して、とてもフラットな状態で何にでもなるし、何にでも変化する。それ故に偶然的は目の前の事柄を重視し、全体的な関係性は二の次になる。

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だから、偶然的ははじめから全体的な結果を生み出すことはできず、目の前の事柄に対して個別に結果を生み出しながら、ある時全体が現れるの待つ。

"Wait by chance"

I'm wondering if it could happen by chance, not inevitably in the construction of architecture. Inevitable is a contemporary expression that includes architectural planning accumulation and implicit understanding, and accidental is determined where those intentions do not reach.

Contemporaneous expressions, including architectural planning accumulations and implicit understandings, work in the direction of producing the same thing as a whole. On the other hand, by chance, the power to produce the same thing is cut off, and it becomes anything in a very flat state, and it changes to anything. Therefore, by chance, the matter in front of us is emphasized, and the overall relationship is secondary.

Therefore, by chance, it is not possible to produce an overall result from the beginning, and while producing an individual result for the matter in front of us, we wait for the whole to appear at a certain time.

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効率に対して

効率的でありたいと思うのと同時に遊びたいし効率的じゃないことも必要かなと思ってしまう。効率的か非効率的か、非効率的という言葉の響きにはネガティブな印象しかないが、どちらも効率を扱う上での立ち位置の違いだけなような気もする。

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ちょっと角度を変えて、効率をさらに進めたらどうなるだろうか。効率というとムダを省きシンプルにするようなイメージもあるが、進め方や進んだ先は1つではないだろう。様々な効率のバリエーションがあった場合、どれもが効率的ではある訳だから、どれを選んでも良いとして、何を判断基準として選ぶかと考えてみた。それを考えることが効率ということに対するささやかな遊びになるような気がして。

"For efficiency"

At the same time as I want to be efficient, I also want to play and I think it is necessary to be inefficient. There is only a negative impression on the sound of the words efficient, inefficient, and inefficient, but I feel that both are just different positions in dealing with efficiency.

What if we change the angle a little and further improve efficiency? When it comes to efficiency, there is an image of eliminating waste and simplifying it, but there is probably more than one way to proceed and where to go. When there are various efficiency variations, all of them are efficient, so I thought about what to choose as a criterion. I feel that thinking about it is a small play for efficiency.

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複数のこと

一貫性が大事だなと思うことがよくある。それはコントロール感と言い換えてもいいと思うが、自分で制御しながらある範囲内で物事が行える感覚を保ちたいと思う。一貫性やコントロール感などと思うと、何か目標がありそこに向かうようなことをイメージするかもしれない。最近も何を目指しているのと言われたことがあるが、目の前の個々に起きる複数のこと、それぞれに関連性があってもなくてもいいのだが、に対しての態度のようなものが一貫性やコントロール感で、具体的な目標が無くても、むしろ無い方がいいくらい、もし目標を持つとしたら抽象的で捉えどころが無い方が様々な工夫をする余地があっていいと思う。

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"Multiple things"

I often think that consistency is important. It can be rephrased as a sense of control, but I want to maintain a sense of being able to do things within a certain range while controlling myself. When you think about consistency and control, you might imagine that you have a goal and you are heading for it. I've been told what I'm aiming for lately, but it seems to be an attitude toward multiple things that happen individually in front of me, whether they are related or not. What is consistency and control, even if there is no concrete goal, it is better not to have it, and if there is a goal, there is room for various ingenuity if it is abstract and elusive. I think

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断絶をつくる

自身を確立する、あるいは違いを生み出すにはそれまでの流れとは違うものを生み出さなくてはならない。それはとてもビジネス的だが、それも飲み込まなくては先には進めないと人は言い、確かにと頷く。

その場合2通りある、ひとつはそれまでの流れに対してアンチテーゼを示すことであり、それはよくあり、大概はそれで自身を確立しようとする。それは今までの流れと関連性を持たせることができるから安心安全最大限のリスクヘッジをして自身を確立しようとできるだろう。ただし、それでは大きな流れ、うねりはつくれない。

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断絶を狙う、自身を確立するもうひとつの方法である。断絶を起こす、それは新しい流れを自らつくることである。ただし、それは今までの流れを全否定するのでは無く、今までの流れをさらに度を超える位に推し進めることだと気がついた今日。

"Making a break"

In order to establish yourself or make a difference, you have to create something different from the previous flow. It's very business-like, but people say that if you don't swallow it, you can't move on, and nods.

In that case, there are two ways, one is to show antithesis to the previous flow, which is common and usually tries to establish itself with it. Since it can be related to the current flow, it will be possible to try to establish itself by performing maximum risk hedging for safety and security. However, that does not create a big flow or swell.

Another way to establish yourself, aiming for a break. To cause a break, it is to create a new flow by oneself. However, today I realized that it is not to completely deny the flow so far, but to push the flow so far to a higher level.

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超効率を考える

何かをデザインする時に効率をどのように扱うかを考える場合がある。効率を別の言い方をすれば無駄を省くことなのでレス イズ モアと考えて、より洗練させていく方向でデザインすることができる。また、逆にレス イズ ボアと考えて、効率をデザイン上で考慮することは避けたいと考えることもできる。この場合は効率と非効率を天秤にかけるのだが、非効率も効率の範疇だとしたら、効率や非効率に対して超効率のような普通の効率とは違う絶対的な効率を考えれば、それは初源のような状態かもしれないし、飽和状態にあり何も省くことができない状態かもしれないが、効率だけで何かを規定してしまう力を持ち、逆に効率以外のことが入り込む余地が生まれると考えてみた。

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"Thinking about super efficiency"

Sometimes we think about how to handle efficiency when designing something. In other words, efficiency can be considered as less is more because it eliminates waste, and it can be designed in the direction of further refinement. On the contrary, it is possible to think of it as a less bore and avoid considering efficiency in the design. In this case, efficiency and inefficiency are weighed, but if inefficiency is also a category of efficiency, considering the absolute efficiency that is different from ordinary efficiency such as super efficiency with respect to efficiency and inefficiency, It may be a state like the first source, or it may be in a saturated state and nothing can be omitted, but it has the power to define something only by efficiency, and conversely there is room for things other than efficiency to enter. I thought that would be born.

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新しい構図をつくる

良し悪しは別として逆張りをしたくなる。大概のことには王道と呼ばれるような大多数が支持するものがあり、その逆の少数支持のものも存在する。通常の逆張りはその少数支持のものを祭り上げることだが、もう少し引いて考えて、この大多数対少数という構図自体に対して逆張りをしたくなる。この構図からこぼれ落ちるものに焦点を当てたくなる。そもそもの前提にこのこぼれ落ちるものを含む可能性が無いからで、こぼれ落ちるものに焦点を当てることで前提自体を変えてしまえば新しい構図をつくることができる。

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"Creating a new composition"

Regardless of whether it is good or bad, I want to make a contrarian. Most of them are supported by the majority, which is called the royal road, and vice versa. The usual contrarian is to celebrate the minority support, but with a little more thought, I want to contradict the composition of majority vs. minority itself. I want to focus on what spills out of this composition. There is no possibility that this spilling thing is included in the premise in the first place, so if you change the premise itself by focusing on the spilling thing, you can create a new composition.

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記憶でノイズを起こす

ちょっと思うことは周りを見渡せば他者性なるものに溢れているのにちっとも他者性を感じないことである。それは他者性なるものにもネットやSNSなどの受け皿があり、他者性なるものをいちいち祭り上げる必要がないからかもしれない。ただ、そうなると結局は全てが同じ地平の上にいて、いる場所が違うだけになっていき、他者性という単なるアドレスを持っているに過ぎなくなる。

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だから、さらにちょっと思うことは未来がそのように全て同じ地平に収束していく方向ならば、過去を見て記憶と結びつけて収束の過程にノイズを起こして他者性なるものをつくり出したらどうか。

"Make noise in memory"

What I think for a moment is that if you look around, you will find that you are full of other things, but you do not feel other things at all. It may be because there is a saucer for other things such as the Internet and SNS, and it is not necessary to raise the festival for other things one by one. However, in the end, everything is on the same horizon, and the place where they are is different, and they just have the address of otherness.

So, what I think a little more is that if the future is all in the direction of converging on the same horizon, why not look at the past and connect it with memory to create noise in the process of convergence and create something else.

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主体を変えてみる

全体を全て同列に扱うことは中々難しいが、仮に全てを同列に扱うことができたとしたら、そこからこぼれ落ちるものは何かを考えみた。集合住宅の話である。個別に同列に扱えば、個別の関係性は全てイコールになるはずだがそのようなことはあり得ない気がする。

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関係性がイコールにならない要因がこぼれ落ちていることかもしれない。ならば、今度はこぼれ落ちるものを主体に全体を考えようとする。そうするとたぶん全体を全て同列に扱えなくなるが、同列に扱おうとする前の状態とは違うものが生まれるだろう。

"Try changing the subject"

It's difficult to treat everything in the same line, but if I could handle everything in the same line, I wondered what would spill out of it. It is a story of an apartment house. If treated individually in the same line, all individual relationships should be equal, but I feel that such a thing is impossible.

It may be that the factor that the relationship is not equal is spilling out. Then, this time, I will try to think about the whole, focusing on what spills. Then you probably won't be able to treat the whole thing in the same row, but you'll end up with something different than before you tried to treat it in the same row.

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全体ではなく同列

全体としての統一感は求めていないが個々のつながりがそれぞれで違いながらもあるようにデザインしたいと考えている。集合住宅の話であり、効率的にプランニングしたいと考えるのが常套手段であるが、その効率性は建築計画上だけでそれが事業性の高さに通じるからだが、事業性の高さは別の手段で担保すれば良い。

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そもそも全体を考えることを止めることができないかと考えている。集合住宅以外でも建築は全体から部分へと考察が流れていくが全体と部分という分け方では無くて、全てが同列に扱われその間の関係性を考察するように設計ができないかと考えている。

"Same line, not the whole"

I don't want a sense of unity as a whole, but I want to design it so that each connection is different. It is a story of an apartment house, and it is a common practice to want to plan efficiently, but the efficiency is only in terms of architectural planning and it leads to high business feasibility, but high business feasibility is different. It should be secured by the means of.

I'm wondering if I can stop thinking about the whole thing in the first place. Even if it is not an apartment house, the consideration of architecture flows from the whole to the part, but it is not a way of dividing the whole and the part, but I think that it can be designed so that everything is treated in the same line and the relationship between them is considered.

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別のルール設定

全く見過ごされて外されてしまっていることはあるルールの中での話であり、別のルールを設定することにより見過ごされ外されていることに焦点を当てることができる。そもそものルールを変える話だが、揺れ動く関係性が何にでもどこにでもあると考えることができれば、絶対的なことなどは存在せずに常に状況は入れ替えて考えることができ、それを考えでは終わらせずに実践さえすれば目の前の状況やことやものも変わり、違った状況やことやものをつくり出せる。それはデザイン行為であり、別のルールを設定することもデザインの範疇になる。

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"Set another rule"

What is totally overlooked and missed is a story within one rule, and by setting another rule we can focus on what is overlooked and missed. It's a story that changes the rules in the first place, but if you can think that the swaying relationship is everywhere, you can always think about the situation by changing the situation without absolute things, and end it with thinking. If you practice it without doing it, the situation, things and things in front of you will change, and you can create different situations and things. It is a design act, and setting different rules is also a category of design.

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制限されたアクティビティによる空間

アクティビティが空間に与える影響を考えている。アクティビティは機能より発生すると考えれば、機能が空間に与える影響と読み替えてもいいが、それでは当たり前過ぎて面白くない。

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アクティビティを限定したり、制限したりしたら空間は何か変わるだろうか。アクティビティがダイレクトに空間になる場合、例えば、スロープ状の動線空間などは当たり前だがスロープを上るとうアクティビティに限定していることになる。これは単一のアクティビティで1つの空間をつくることは可能だということだが、制限された範囲での複数のアクティビティによる空間を考えた場合はどうなるだろか。空間は単なる受け皿にしかならないだろうか。

"Space with limited activities"

I am thinking about the impact of activities on space. If you think that activity occurs more than function, you can read it as the effect that function has on space, but that is too obvious and not interesting.

Will limiting or limiting activities change anything in space? When the activity becomes a space directly, for example, a slope-shaped flow line space is natural, but it is limited to an activity that goes up the slope. This means that it is possible to create one space with a single activity, but what if we consider a space with multiple activities within a limited range? Is the space just a saucer?

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プロセスの最適化

何かを生み出すプロセスに目を向けている。ものづくりの場合、完成した物が成果品として価値を持つので、どうしても結果にフォーカスすることになるが、結果を変えようとするならばプロセスを変えなければ何も変わらない。

同じプロセスでは、コンセプトや考え方を変えても結果は今までの範疇に収まってしまう。だから逆に考えると、結果をあと少し変えたい時やもう少しで目指す結果に辿り着きそうな時はプロセスを変えない方が良い。プロセスに目を向けることで、直接的に結果をデザインしようとするのでは無く、プロセスをデザインすることで自ずと結果が変わってくる。

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最近よく考えるのは結果の一貫性では無く、プロセスの一貫性である。それは常に同じプロセスを踏むということでは無くて、常にプロセスに手を入れて、今求めたい結果を出すためのプロセスに最適化していくことだと考えている。

"Process optimization"

We are looking at the process of creating something. In the case of manufacturing, the finished product has value as a deliverable, so the focus is always on the result, but if you want to change the result, nothing will change unless you change the process.

In the same process, even if you change the concept or way of thinking, the result will be in the same category as before. So, if you think about it the other way around, it's better not to change the process when you want to change the result a little more or when you are about to reach the desired result. By looking at the process, rather than trying to design the result directly, designing the process naturally changes the result.

What I often think about these days is not the consistency of the results, but the consistency of the process. I think that it is not always the same process, but always working on the process and optimizing it to the process that produces the desired result.

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一部になってしまうのか

意識に物が現れそして消えていく、これを繰り返すのが広告だとしたら、それは建築でも同じだと思った。日常的に建築と広告をたくさん目にするが明確に意識して覚えているものは数少ない。脳の記憶容量には限界があり全てを覚えていたら脳がパンクしてしまうから、目にはするが無意識にほとんどを覚えないようにしてしまうのだろう。

ただ、これは人の感性に訴えてくる広告や建築に対して起こることである。特に広告は人の感性を刺激して記憶に残すことを広告効果のひとつにしているから、意識の取捨選択の対象になりやすく、ほとんどの広告が現れては消えるを繰り返す。

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もし建築や広告が人の感性に訴える量の度が超えて、人の感性が働かなくなるくらいに一度にたくさんの影響を与えることになったとしたら、意識の取捨選択の対象から外れて建築や広告そのものと直に対峙せざるを得なくなるだろう。その時建築と広告は風景の一部になってしまうのか、それとも対峙する人が建築や広告の一部になってしまうのか。

"Will it be a part?"

If it was advertising that things would appear and disappear in consciousness, and this would be repeated, I thought it was the same in architecture. I see a lot of architecture and advertisements on a daily basis, but few of them are clearly conscious and remembered. There is a limit to the memory capacity of the brain, and if you remember everything, your brain will puncture, so you may unknowingly try not to remember most of it.

However, this happens to advertisements and architecture that appeal to human sensibilities. In particular, since advertising stimulates human sensibilities and leaves it in memory as one of the advertising effects, it is easy to be the target of consciousness selection, and most advertisements appear and disappear repeatedly.

If architecture and advertising exceed the amount that appeals to human sensibilities and have so many effects at once that human sensibilities do not work, then architecture and advertising are out of the scope of consciousness selection. You will have to face it directly. Will architecture and advertising then become part of the landscape, or will the confronting person become part of architecture and advertising?

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広告のルールを抽出し持ち込む

建築は常に目の前に現象としてあり続けているが、受け取る側の都合でその現象が意識されたりされなかったり、受け取る側の感性に影響を与えたり与えなかったりする。

建築は現象として常にある訳で、それに対して厚さが所々で違う感性のベールをかけて現象を感じ取っているようなものだと考えている。その感性のベールを全て透かして、受け取る側が現象としての建築を全て意識できるようになれば、建築は感性から自由になりただ単に物だけの存在になる。物だけの存在になった建築は今度は根源な物、例えば、光や影、木や岩などといった意図を感じない自然物と同化していき風景になる。

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感性のベールが全て透けた状態を無感性状態といい、無感性状態をデザインでつくり出そうと考えている。その際に参考になるのが広告で、その過激性は受け取る側を無感性状態にする。ただ、広告の過激性をそのまま建築に応用するのではなくて、応用した例は新宿辺りに行けばよく見られるが、建築と受け取る側との関係性の中に広告が過激になる際のルールを抽出して持ち込もうと考えている。

"Extract and bring in advertising rules"

Architecture always exists as a phenomenon in front of us, but for the convenience of the recipient, the phenomenon may or may not be conscious, or it may or may not affect the sensibility of the recipient.

Architecture is always a phenomenon, and I think it's like feeling the phenomenon by putting a veil of different sensibilities on it in places. If the recipient can be aware of all the architecture as a phenomenon by seeing through all the veil of that sensibility, the architecture will be free from the sensibilities and become merely an existence. Architecture, which has become an existence of only things, is now assimilated with the original things, such as light and shadow, trees and rocks, which do not feel the intention, and become a landscape.

The state in which all the sensibility veils are transparent is called the insensitivity state, and we are thinking of creating an insensitivity state by design. Advertising is helpful at that time, and its radicality makes the recipient insensitive. However, instead of applying the radicality of advertising to architecture as it is, examples of applying it are often seen around Shinjuku, but the rules when advertising becomes radical in the relationship between architecture and the recipient I'm thinking of extracting and bringing it in.

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感性のベール

建築を届ける側と受け取る側に分けて考えた場合、受け取る側がどのように感じるのかに興味がある。受け取る側は建築を現象として何を感じるかを無意識のうちに取り扱っていて、それを感性という。

感性が豊かという言葉があるように、感じることを微細に受け取ることはいいがそれが行き過ぎると逆に感性が鈍く空回りする無感性の状態になる。

無感性の状態はよく広告の世界ではあり得ることで、広告の過激性が問題になることがあるが、見方を変えれば、建築に広告の過激性のような感性が鈍く空回りしてしまう状態、無感性の状態まで人の感性を刺激する力があれば、建築において感性のベールが透けて、建築が本来持っている空間性や素材性や時間性などが現れるのではないかと考えた。

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普段、建築は人の感性のベールに包まれており、それが良くも悪くも建築の姿を歪めているように思えてならない。

"Veil of sensitivity"

I am interested in how the recipient feels when considering the architecture on the delivery side and the receiving side separately. The recipient unknowingly deals with what he feels as a phenomenon of architecture, which is called sensibility.

Just as there is a word that the sensibility is rich, it is good to receive the feeling finely, but if it goes too far, the sensibility becomes dull and the state of insensitivity becomes idle.

The state of insensitivity can often be in the world of advertising, and the radicality of advertising can be a problem, but from a different point of view, the state of architecture that is dull and idle like the radicalness of advertising. I thought that if there is a power to stimulate human sensibilities to the state of insensitivity, the sensibility veil can be seen through in architecture, and the spatiality, materiality, and temporality that architecture originally has will appear.

Architecture is usually wrapped in a veil of human sensibility, which, for better or for worse, must not seem to distort the appearance of architecture.

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過去からの時間が蓄積されたこと

その場所固有のことを建築計画の軸にしようと考えている。都市部では特殊なロケーションでもなければ、なかなかその場所固有のことはないかもしれない。もちろん、その場所の特徴的なことはある。例えば、角地であったり、前面道路が広いなど、ただそれは別に他の場所でもあることである。

その場所固有のことを計画の軸にしようとした理由は時間の流れを計画に取り込みたかったからである。一過性の点で計画に関わるのではなく、過去から未来への時間の流れの中に建築を自然な形で埋め込みたいと考えた。

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そのためには過去からの時間が蓄積されて形成されたその土地固有のことを軸にして建築計画をする必要があると考えた。

"The accumulated time from the past"

I'm thinking of making the place-specific thing the axis of the architectural plan. If it is not a special location in an urban area, it may not be unique to that location. Of course, there are some characteristics of the place. For example, it is a corner lot, the front road is wide, etc., but it is also another place.

The reason I tried to make the place-specific thing the axis of the plan was because I wanted to incorporate the flow of time into the plan. I wanted to embed architecture in a natural way in the flow of time from the past to the future, rather than being involved in planning in terms of transients.

For that purpose, I thought that it was necessary to make an architectural plan centering on the land-specific things that were formed by accumulating time from the past.

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感性の境界を往来

無感性的な状態が感性が行き過ぎた状態かまだ感性のはじまりの状態だとすれば、無感性的な状態では感性というベールが透けてしまうか無い状態で物事を見ることができるので、何かを理解しようとする時には望ましい状態かもしれない。

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この無感性的な状態と感性的な状態の境界をつくり出すことができたら、その境界を行ったり来たりしながらものづくりをすると面白いかもしれない。

"Crossing the boundaries of sensibility"

If the insensitive state is a state in which the sensibility has gone too far or is still the beginning of the sensibility, in the insensitive state, things can be seen with or without the veil of sensibility, so something It may be a desirable state when trying to understand.

If we can create the boundary between this insensitive state and the emotional state, it may be interesting to make things while going back and forth between the boundaries.

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無感性的に理解する

感性的とは感性が豊かになることがひとつの状態で、その状態になりたくて綺麗なものを見たり、美しい音を聴いたりとアクティビティを起こす。また逆にひどく悪いものを見たり、悲しいことがあった場合にも感性的になる。

さらに良くても悪くても感性的な状態の度が進むと、今度は感性が麻酔を打ったような状態になり無感性的になる。無感性的な状態は決して極端なことではなく、あまりにも素晴らしい、逆にあまりにも悪いことが続くとその状態に慣れ、それが普通になり、無感性的な状態になる。無感性的な状態は感性が無い状態ではなく、感性が麻酔を打ったような状態なっているだけだから感性は働いているので、今目の前で起こっている現象は受け入れている。

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この無感性的な状態では全ての現象を感性で計ることなく受け入れてしまう状態かもしれないので、この状態を意図的につくることができたら、万人に受け入れられるものができるかもしれない。しかし、感性は麻酔を打ったような状態なので、そのものの良し悪しを感性では判断できずに現象として理解するのみになってしまうかもしれないが、かえってそのものを理解するには良いかもしれない。

"Understanding insensitively"

Sensitivity is a state in which the sensibilities are enriched, and activities are triggered by seeing beautiful things and listening to beautiful sounds that one wants to be in that state. On the contrary, if you see something bad or sad, you will be sensitive.

As the degree of sensibility progresses, whether better or worse, the sensibilities become anesthetized and insensitive. The insensitive state is by no means extreme, and if it continues to be too great, or too bad, it becomes accustomed to it and becomes normal and insensitive. The insensitive state is not a state without sensibility, but a state in which the sensibility is just like anesthesia, so the sensibility is working, so I accept the phenomenon that is happening in front of me.

In this insensitive state, all phenomena may be accepted without being measured by sensibility, so if this state can be intentionally created, it may be possible for everyone to accept it. However, since sensibility is a state of being anesthetized, it may not be possible to judge whether it is good or bad by sensibility, and it may only be understood as a phenomenon, but it may be better to understand it.

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意識の偏重が起こる時

何かを見て、見たままに捉えるのではなく、心の中で意識したことで捉えてみると必ず偏重が起こるだろう。偏重とは何かを見た時に人によって受け取り方が違うということであり、偏重が起こることは当たり前のような気がするが、案外そうでもないかもしれない。

ある所へ急いで歩いていたら途中で藤の花が咲き乱れる家を見つけた。普段よく通る所だが何故か今まで気がつかなかった。藤の花が綺麗だったが、それ以上に関心を引いたのはその家だった。藤の花に朽ちられていて、そのやられ感が妙に良かった。

きっと多くの人は綺麗な藤の花に目がいくのかもしれないし、自分ももしかしたら今までは藤の花にしか目がいかなかったのかもしれない。しかし、今回は急いでいたこともあり、視野も意識も拡散せずに集中していた。集中していたことにより全体像ではなく部分的な像しか見えず、綺麗な藤の花と朽ちた家の一部のコントラストしか目に入らず、そこで違和感を覚え、意識の中で何か反応してしまったようだった。

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意識での偏重がアクティビティと絡んで起こることはあり得るかもしれない。

"When consciousness is overweight"

If you look at something and catch it by consciousness in your mind instead of catching it as you see it, there will always be a bias. When you see what is overweight, it means that people receive it differently, and it seems natural that overweight occurs, but it may not be surprising.

When I was walking to a certain place in a hurry, I found a house where wisteria flowers were in full bloom on the way. It's a place I usually go to, but for some reason I didn't notice it until now. The wisteria flowers were beautiful, but it was the house that attracted more attention. It was decayed by wisteria flowers, and the feeling of being damaged was strangely good.

I'm sure many people will be interested in beautiful wisteria flowers, and maybe I've only been interested in wisteria flowers until now. However, because I was in a hurry this time, I was concentrating without spreading my horizons and consciousness. Due to my concentration, I could see only a partial image, not the whole image, and I could only see the contrast between the beautiful wisteria flowers and a part of the decayed house. It seemed like I had done it.

Conscious bias may occur in connection with activity.

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図の印象

過去の記憶や体験が「地」となり、今目の前で起こっていることを「図」として浮かび上がらせて認識する。この場合、地も図も現象になるのだろうが、同じような現象では図が浮かび上がらず、図として認識されない。

空間認識もこれと同じで、地としての記憶や空間体験が今目の前にある図として空間の認識に影響を与えることになる。地は認識する個人により違うので、図の認識のされ方も個人により違ってくるが、個人の地でも他の個人と共通な領域があるから、その領域にある図としての空間は浮かび上がらず、図として認識されず印象にも残らない。

印象に残すためには、個人の地の共通な領域にある記憶や空間体験とは違う図としての空間をつくる必要があり、そのためにはどうすればいいかを考えている。

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ひとつの方法として、見た目でわかるくらいな共通領域にある地との違いを出すことだが、それはよくあるつくり方で、時に違和感という印象が図に伴うことがあり、必ずしも良い方法ではない場合がある。

"Impression of the figure"

The memories and experiences of the past become the "earth", and what is happening in front of us now emerges as a "figure" and is recognized. In this case, both the ground and the figure will be phenomena, but in the same phenomenon, the figure does not emerge and is not recognized as a figure.

Spatial cognition is the same as this, and memory as the earth and spatial experience will affect the perception of space as a figure in front of us. Since the ground differs depending on the individual who recognizes it, the way the figure is recognized also differs depending on the individual, but since there is an area in common with other individuals even in the individual land, the space as a figure in that area does not emerge. It is not recognized as a figure and does not leave an impression.

In order to leave an impression, it is necessary to create a space as a diagram that is different from the memory and spatial experience in the common area of ​​the individual's land, and I am thinking about what to do for that.

One way is to make a difference from the ground that is in a common area that you can see visually, but it is a common way of making, and sometimes the impression of discomfort accompanies the figure, so it may not always be a good method. ..

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空間認識できるのか

人の感性に最も影響を与えるものは何か、外部から持たされるもので何が一番影響を与えるのか。素直に考えれば、視覚を通して入ってきたものが一番影響を与えるように思うが、果たして本当にそうなのだろうか。

建築でいえば空間認識の仕方が人の感性に影響を与えるルートになるだろう。空間認識はどのようにして起こるのか。例えば、目を閉じて視覚からの情報をシャットアウトしたら空間認識できないのだろうか。視覚を奪えば確かに空間の詳細な様子はわからなくなるかもしれないが、空間の中にいるという感じは得られ、これを空間認識といっても良いだろう。

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ではどうして視覚が無い状態でも空間認識をすることができるのだろうかと考えてみる。

"Can you recognize space?"

What has the greatest impact on human sensibilities, and what has the greatest impact on external sensibilities? To be honest, I think that what comes in through vision has the most impact, but is that really the case?

Speaking of architecture, the way of recognizing space will be the route that affects people's sensibilities. How does spatial cognition occur? For example, if you close your eyes and shut out the information from your eyes, can you not recognize the space? If you deprive yourself of your eyesight, you may not be able to see the details of the space, but you can get the feeling that you are in the space, and this can be called spatial recognition.

Then, let us wonder why it is possible to recognize space even without vision.

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プロセスのルールをつくる

標準プランの繰り返しだけは避けたいと考えていて、それは一見効率的では無いが、効率性は違うことで担保すれば良いとすれば、標準プランの繰り返しを避けることは可能だと考えた。標準プランはプロセスの簡素化が一番の効用だから、違うことでプロセスの簡素化を行えば良い。例えばひとつとして、プロセスを決めるルールをつくっておけば標準プランをつくらなくてもプロセスを簡素化でき、尚かつプロセス自体が毎回違う可能性が生まれ、その結果自ずからプランにもバリエーションができ、効率で決まる標準プランとは違う効率的なものができる。

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"Making process rules"

I wanted to avoid repeating the standard plan, which is not efficient at first glance, but I thought it would be possible to avoid repeating the standard plan if I could guarantee that the efficiency would be different. The standard plan is most useful for process simplification, so you can simplify the process by doing something different. For example, if you create a rule that determines the process, you can simplify the process without creating a standard plan, and there is a possibility that the process itself will be different each time. You can create an efficient one that is different from the standard plan that is decided.

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不真面目になろうよ

感性が生まれる時を演出したいと思う。それがデザインであって欲しい。デザインが社会性を帯びてきた初期には感性がないがしろにされてきたように思う。デザインが感性を刺激することを忘れた世の中はつまらない。

なぜデザインをしているのか、それは人の感性を刺激したいから、人に影響を与えたいから。

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なぜ感性をないがしろにするのか。感性を刺激するデザインを主題にしたら、これほど楽しい社会はないだろう。もうちょっと不真面目になろうよ。

"Let's be unscrupulous"

I want to produce a time when sensibility is born. I want it to be a design. In the early days when design became social, I think it was neglected because it had no sensibility. The world where design forgets to stimulate sensibilities is boring.

The reason why I design is because I want to stimulate people's sensibilities and I want to influence people.

Why do you neglect your sensibility? If the theme is design that stimulates sensibilities, there would be no more enjoyable society. Let's be a little more serious.

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引き継ぐ物

建替えをする時、できれば何かしらを次に引き継ぎたいと考える。その何かは思い出が染み付いた物や記憶にあることを物として残したい。よくやったのは、旧家では今はもう生産されないようなガラスを使っていることが多いので、そのガラスを再利用し建具などに組み込んでいた。それはそれで面白いと思うのだが、もっと根本的な部分で過去から未来へ引き継げることはないかと考えた。

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その土地固有の何かを探し出し、次に引き継ぎたい。もし建替えが何度か行われているのならば、あるいは増改築を繰り返しているのならば、その時々のプランを重ねてみたらどうなるだろうかと考えてみた。プランはその土地固有のものであり、重なりに偏重が見られるだろうから、それを何かの尺度で拾い集めれば次に引き継ぐ物が姿を現すかもしれない。

"What to take over"

When rebuilding, I would like to take over something next if possible. I want to leave something that is ingrained in memories and that is in my memory. What I often did was to use glass that is no longer produced in old houses, so I reused that glass and incorporated it into fittings. I think that's interesting, but I wondered if there was a more fundamental part that could be passed on from the past to the future.

I want to find something unique to the land and then take over. If the rebuilding has been done several times, or if the expansion and renovation are repeated, I wondered what would happen if I repeated the plans from time to time. The plan is unique to the land, and there will be a bias in the overlap, so if you pick it up on some scale, the next one may appear.

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装飾の中に住む

装飾は人の感性に影響を与える。装飾以外にも人の感性に影響を与えるものはあるが、装飾というモダニズムが排除してきたものを用いることにより建築に対するアプローチやつくる上でのプロセスが変わるだろうと考えた。

ただ、近代のモダニズム建築の中にも今から振り返れば装飾を纏っているといえるものもあると考えていて、例えばアアルト流の装飾といえるものもあり、装飾の中に住むことで感性に影響を受けることを意図した建築もあると考えた。

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装飾の中に住むことを考えるならば、装飾をもっと構築的な観点で捉え直すことにもなるので面白い。

"Living in decoration"

Decoration affects human sensibilities. There are other things that affect people's sensibilities besides decoration, but I thought that using decoration, which modernism has eliminated, would change the approach to architecture and the process of making it.

However, I think that some modern modernist architecture can be said to be wearing decorations from now on. For example, there are some Aalto-style decorations, and living in the decorations affects sensibility. I thought that some buildings were intended to receive.

If you think about living in a decoration, it's interesting because it also gives you a more constructive view of the decoration.

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予測不可能なプロセス

効率を求めることによってどこかで見たようなものに収束してしまうことを避けようと考え、プロセスに注目した。

どこかで見たようなものになるのは予測可能なことばかりでプロセスが形成されているからであり、そこに予測不可能なプロセスが挿入されれば、思いも寄らない結果が生まれ、どこか見たようなものにはならなくなる。

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予測不可能なプロセスとは偶然性を取り入れることであり、その偶然性の源をその場所やそのものの成り立ちなど求めれば、生まれる結果はより固有のものになる。

"Unpredictable process"

I focused on the process, trying to avoid converging on something I saw somewhere by seeking efficiency.

It looks like you've seen it somewhere because the process is formed by only predictable things, and if an unpredictable process is inserted there, unexpected results will be produced and where. It doesn't look like you saw it.

An unpredictable process is the incorporation of contingency, and if the source of the contingency is sought, such as its location or its origin, the resulting result will be more unique.

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効率から逃れる

効率から逃れるためにはどうしたらいいのかとずっと考えてきた。効率を求めるあまり同じようなものばかりになってしまう。効率は目に見えない物の構造にまで及んでいるので、目に見える部分をいくらいじっても何も意味が無い。効率は結果だけで無くプロセスから効率を求めるために起こる結果であるので、効率から逃れるには結果では無くプロセスに目を向けて、効率から脱却をしなければならない。

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間違ってはいけないのは、効率を求めることが良くないのでは無く、効率を求めた結果が皆同じようになってしまうことが良くないのである。だから、プロセスを見直すことにより同じになることを避けて違う結果を求め、その結果がはじめからプロセスを含めて効率を求めた物と違うが同じ位に効率的であれば良い。

"Escape from efficiency"

I've been wondering what to do to escape efficiency. The demand for efficiency is so similar. Efficiency extends to the structure of invisible objects, so there is no point in tinkering with the visible parts. Efficiency is not only the result, but the result of seeking efficiency from the process, so in order to escape from efficiency, we must look at the process, not the result, and break away from efficiency.

Don't get me wrong, it's not that it's not good to ask for efficiency, it's not good that all the results of looking for efficiency are the same. Therefore, by reviewing the process, we avoid the same thing and seek different results, and the result is different from the one that asked for efficiency including the process from the beginning, but it should be as efficient as it is.

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記憶からの抽出

記憶に残るものは何だろうか。例えば小さい頃の記憶として今は無い母方の実家で残っているのは、夏の夕暮れのオレンジ色の西日がさす部屋である。あるいは急な階段、2階の窓から見える景色であり、身体の動きと一緒に目が覚えており、匂いも同時にしてくる。それらは何でもないことであり、特別なことではないが他では体験できないことであった。身体に目がついているという当たり前のことを記憶が教えてくれる、鼻もそうであり、五感を改めて身体を通した記憶で感じる。

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五感を通した記憶から何を抽出するかを考える。抽出したものから形をつくることで記憶を継承していくことが可能になると考えた。記憶という形が無いものに形を与えるためには、形につながる情報が必要であるが、最終的に形になるものを装飾として限定することにより抽出する情報の抽象度を上げることができ、様々な要素を使えるようになるのではないかと考えた。

"Extraction from memory"

What is memorable? For example, what I remember when I was little is the room where the orange west sun shines at dusk in the summer, which remains in my mother's parents' house. Or the steep stairs, the view from the window on the second floor, the eyes remember with the movement of the body, and the smell comes at the same time. They were nothing, not something special, but something that couldn't be experienced anywhere else. The memory tells us that the eyes are on the body, and so is the nose, and the five senses are felt through the body again.

Think about what to extract from the memory through the five senses. I thought that it would be possible to inherit the memory by creating a shape from the extracted material. In order to give shape to something that does not have the shape of memory, information that leads to the shape is necessary, but by limiting what will eventually become the shape as decoration, the degree of abstraction of the information to be extracted can be increased. I thought that I could use various elements.

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輪郭の継承

記憶を継承しようとする時、何をつないでいくかを考えている。建築の場合、形として物が存在しているので、形の輪郭をトレースするように継承することはひとつの方法かもしれない。

景色の違いに気がつく時は、まずぼんやりと視界に入ってきた物の輪郭の違いにわかるのではないだろうか。人は見ている物全てをはっきりと記憶していたら簡単に脳の記憶容量を超えてしまうので、自身の身の安全を図る上で最低限のことだけを記憶しておく。だから、輪郭だけで十分であり、その違いには気がつき、何かしらの影響を人に与える。

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今までそこに動かずにずっとあり、常日頃から見ていたりする物、ただし意識して見たりはしていない物でも、無くなったり変化したりすると違和感を感じる。だから、輪郭を継承することは十二分に記憶の継承につながると考えた。

"Inheritance of contour"

When I try to inherit my memory, I am thinking about what to connect. In the case of architecture, things exist as shapes, so it may be one way to inherit to trace the outline of the shape.

When you notice the difference in the scenery, you may first notice the difference in the contours of the objects that are vaguely in sight. If a person clearly remembers everything he sees, he or she can easily exceed the memory capacity of the brain, so remember only the minimum for personal safety. So contours are enough, and you'll notice the difference and have some impact on people.

I haven't moved there for a long time, and I feel uncomfortable when things that I see on a regular basis, but things that I haven't consciously seen, disappear or change. Therefore, I thought that inheriting the contour would lead to the inheritance of memory more than enough.

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模様から成るヴォリューム

装飾に感じる可能性は、装飾には人の感性に直接影響を与える力があることであり、その装飾が最大ボリュームから成るのであれば、最大ヴォリュームが人の感性に直接影響を与えるということである。またデザインも人に影響を与えるものだとすれば、最大ヴォリュームをつくることはデザインだとしてもいい。

装飾にもいろいろあるが、まずは模様に注目した。なぜ模様かは装飾をパラフレージングしてみた結果であり、模様ではあれば平面的にも立体的にも捉えることができ、建築とも相性が良い。

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模様を扱うことで最大ヴォリュームが得られるプロセスは何か、そのプロセスが構築できれば、同時に人の感性に影響を与えるものもできる。

"Volume consisting of patterns"

The possibility of feeling a decoration is that the decoration has the power to directly influence the human sensibility, and if the decoration consists of the maximum volume, the maximum volume directly affects the human sensibility. be. Also, if design also affects people, it can be said that creating the maximum volume is design.

There are various decorations, but first I focused on the pattern. The reason for the pattern is the result of paraphrasing the decoration, and if it is a pattern, it can be grasped both two-dimensionally and three-dimensionally, and it is compatible with architecture.

What is the process that can obtain the maximum volume by handling patterns, and if that process can be constructed, it can also affect human sensibilities at the same time.

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ヴォリュームが装飾

事業性を考えた時、建築の最大ヴォリュームを確保することは必要な要件になってくるが、最大ヴォリュームのおかげでプランやデザインに余裕が無くなり、遊びもできず、つまらない建築になる可能性がある。

そこで最大ヴォリュームだからできることはないかと考えてみた。ひとつの考え方として全く関係性が無いことをつなげてみることにした。それは「装飾」である。ヴォリュームが塊の量としての表現ならば、装飾はサーフェスとしての表現であり、直接的な関係性は無いがヴォリュームも装飾も見え方という共通項で括ることができると考えた。

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つなげて言えば「最大ヴォリュームが装飾になる」であり、そこに何か可能性を感じるのである。

"Volume is decoration"

When considering business feasibility, securing the maximum volume of architecture is a necessary requirement, but thanks to the maximum volume, there is no room in the plan and design, there is no play, and there is a possibility that the architecture will be boring. be.

So I thought about what I could do because it was the maximum volume. As one way of thinking, I decided to connect things that have nothing to do with each other. It is "decoration". If the volume is expressed as a quantity of lumps, the decoration is an expression as a surface, and although there is no direct relationship, I thought that both the volume and the decoration can be summarized by the common term of appearance.

In short, "the maximum volume becomes a decoration", and I feel something possible there.

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建築体験の新しい可能性

過去の体験を予測に利用し感情が生まれ行動するとのことだが、過去に体験したことが無いことでは感情による行動は起こらないのだろうか。何かしらを頼りに予測し感情を生み行動するのではないだろうか。その何かしらは現実に今体験していることでもいいのではないだろうか。

体験と感情と行動がほぼ同時に起こる。体験は行動でもあるので、感情と行動が過去とは切り離されてほぼ同時に現実に今起こる。その時の感情と行動は新しい結びつき、新しい回路で形成される。それが初めて体験するということだろうが、何かしらの過去の体験からの予測も無意識に起こり介入してくるかもしれず、それをコントロールすることができないだろうから、予測を起こさせない仕掛けが必要になる。

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もし予測を起こさせない仕掛けを建築デザインで行うことができたら、建築が感情と行動をほぼ同時に生むことができ、それが初めてのこととして記憶されることになる。それは建築体験の新しい可能性になるだろう。

"New possibilities for architectural experience"

It is said that emotions are born and act by using past experiences for prediction, but isn't emotional behavior occurring if you have never experienced it in the past? Perhaps they rely on something to predict, generate emotions, and act. I think it's okay if something is actually being experienced now.

Experiences, emotions and actions occur almost at the same time. Since experiences are also actions, emotions and actions are separated from the past and occur almost at the same time in reality. The emotions and actions at that time are formed by new connections and new circuits. It may be the first experience, but predictions from some past experience may unknowingly occur and intervene, and you will not be able to control it, so you need a mechanism that does not make predictions. ..

If architectural design can do something unpredictable, architecture can produce emotions and actions at about the same time, which will be remembered for the first time. It will be a new possibility for the architectural experience.

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感情による行動を促す

感情による行動を脳科学的に解くと予測が行動のきっかけになるとのこと。視覚を通して入ってきた情報に対して過去の似たような体験を頼りにその後に起こることを予測し対処するために感情を発動し行動するのだろう。

恐いから行動する場合は、それが恐いということを過去の体験より予測するから、恐いという感情が生まれ行動に結びつくとのこと。過去の体験が現在の感情の源になる。

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もしかしたら、過去の体験は規範やルール、秩序といった言葉に置き換えることが可能かもしれないと考えた。予測に過去の体験を使うということは、その人にとって過去の体験が行動の規範になっている。ならば、過去の体験以外のことを規範として利用し、感情による行動を促すことが可能かもしれないと思った。

"Promote emotional behavior"

It is said that prediction will be the trigger for behavior if the behavior due to emotions is solved by brain science. They will act by invoking emotions to anticipate and deal with what will happen afterwards, relying on similar experiences in the past for information that comes in through vision.

When acting from fear, it predicts that it is scary from past experiences, so feelings of fear are born and lead to behavior. Past experiences are the source of current emotions.

I thought it might be possible to replace past experiences with words such as norms, rules, and order. Using past experiences for prediction means that past experiences are the norm of behavior for the person. If so, I thought that it might be possible to encourage emotional behavior by using things other than past experiences as norms.

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ヴォリュームの影響

最大のヴォリュームを得ようと計画することがよくある。制限がある中でギリギリまで大きくする。事業性が高い建築、例えば、集合住宅では当たり前に行うことである。その敷地に対してどれだけのヴォリュームのものが建つかは算定ソフトでも出すことができ、数値上の話で終始する。

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ただ、他に可能性はないのかと思った。最大のヴォリュームがもたらすものは事業性の高さだけだろうか。ヴォリュームというものに注目すれば、それだけで人に影響を与えることもある。どのようなヴォリュームがどのように人に影響を与えるのか。ただ、それではまだチャンクが大きい。もう少しチャンクダウンして、例えば、ヴォリュームの構成や配列が人の感性に影響を与えるか、もし影響を与えるならば結果的に得られる感性が人のアクティビティに変化もたらすか、などまだまだヴォリュームという言葉から派生することはありそうだと考えている。

"Influence of Volume"

Often we plan to get the maximum volume. Make it as large as possible while there are restrictions. This is a matter of course in highly business-friendly buildings, such as apartment buildings. How many volumes can be built for the site can be calculated with calculation software, and it is a numerical story from beginning to end.

However, I wondered if there was any other possibility. Is the only thing that the largest volume brings is high business feasibility? If you focus on the volume, it can affect people by itself. What kind of volume affects people and how. However, the chunks are still large. Chunk down a little more, for example, whether the composition and arrangement of the volume influences the human sensibility, and if so, whether the resulting sensibility changes the human activity, etc. I think it is likely to be derived.

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より深みへ

なぜもっとより深みに目を向けないのだろうかと魯山人が乾山に対して嘆いたとのこと。深みに目を向けるには何かを変える必要がある。きっと無意識のうちに変える行為に抵抗してしまうのだろう、だから変わらない、より深みに目を向けない。別に変えなくても生きていけるが、変えないと満たされない、そのような人が結構多いかもしれない。

着物を選ぶのは楽しい。いろいろな組み合わせの中から絞る時点で面白さに没頭している、色の深みにはまる。柄の違いがわかるかわからない位のところで見栄えに影響する。

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より深みに目を向けやすくするひとつの方法は細部の見過ごしていたことに注目し、そこに自分なりのやり方を見出すことだが、そもそも気がつかないフリをしているから見過ごすので、自身のフリを振り払うには第三者からの言葉が必要かもしれない。

"To the depths"

Rosanjin lamented Kenzan as to why he didn't look deeper. Something needs to change to look at the depths. I'm sure they will resist the act of changing unknowingly, so don't change, don't look deeper. There may be quite a lot of such people who can live without changing, but are not satisfied without changing.

Choosing a kimono is fun. At the time of squeezing from various combinations, I am absorbed in the fun, and I am absorbed in the depth of color. It affects the appearance where you do not know the difference in pattern.

One way to make it easier to look deeper is to focus on the details that you have overlooked and find your own way, but since you are pretending to be unaware in the first place, you will overlook it, so shake off your own pretense. May need words from a third party.

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感性の振れ

人の感性が極端に振れるような影響を与えたいと思うから建築のデザインをしているので、極端に振れるような可能性が無いことはなるべくやりたくはない。感性が振れるとはどういう状態なのか、逆に全く振れないとはどういう状態なのか、さらには感性が全く振れない状態は感性が無い状態なのかに興味がある。ここでは感性を振り子のようだと考えているので、感性が振れる振れないと表現しているが、それ自体が違う可能性もある。振り子だと一定の円弧上を移動するが、もしかしたら点から点への移動かもしれない。あるいは、円弧移動と点移動のミックスも考えられる。感性についてはまだまだわからないことが多い。

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"Sensitivity swing"

I'm designing architecture because I want to have an influence that makes people's sensibilities shake extremely, so I don't want to do as much as possible without the possibility of shaking extremely. I am interested in what kind of state it is when the sensibility swings, what kind of state it is when it does not swing at all, and whether it is a state where there is no sensibility at all. Here, I think that the sensibility is like a pendulum, so I express that the sensibility does not swing, but it may be different in itself. A pendulum moves on a certain arc, but it may move from point to point. Alternatively, a mix of arc movement and point movement can be considered. There are still many things I don't understand about sensibilities.

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ヴォリュームが感性をつくる

ヴォリュームに対して大小の尺度で考えるのが建築では当たり前である。建築は人を内包することで定義されるようなものだから、人がどのように内包されるかの尺度のひとつがヴォリュームで、スケール感という言葉があるように大小をみる。

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ヴォリュームの大小は当然数値に影響を与えるが、それだけではなく人の感性にも影響を与える。建築に限らず人の尺度を超えるヴォリュームのものを目の前にした時、人はそのヴォリュームに対して感性が動く。その時の感性は畏敬の念かもしれないし、崇高かもしれないし、驚きかもしれない。自身のヴォリュームとの差を埋める何かを感性でつくり出す。

"Volume creates sensibility"

It is natural in architecture to think about the volume on a large or small scale. Architecture is something that is defined by the inclusion of people, so one of the measures of how people are included is volume, and we look at the size as if there is a word of scale.

The size of the volume naturally affects the numerical value, but it also affects the human sensibility. People move their sensibilities to the volume when they see something in front of them that exceeds the scale of human beings, not limited to architecture. The sensibility at that time may be awe, sublime, or surprise. Create something with sensibility that fills the gap with your own volume.

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クリエイティブのはじまり

プロジェクトをはじめる時、最初に探すのはわからないこと。全てをわかる範囲内でプロジェクトをおさめることは勿論可能だが、それでは今までの焼き増しに過ぎず、焼き増しの段階で全てが古いもので価値が半減している。また、自身のモチベーションも上がらない。

わからないということは自身にとっては新しいことであり、毎回何か新しい要素が入り込むから創意工夫も生まれる。

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わからないことをわかるようにすることで新しいことが生まれるならば、それがクリエイティブであり、わからないこと探しがクリエイティブのはじまりになる。

"Beginning of creative"

When you start a project, you don't know what to look for first. Of course, it is possible to complete the project within the range where everything can be understood, but that is just a reprint so far, and at the reprint stage, everything is old and the value is halved. Also, my motivation does not rise.

Not knowing is new to me, and every time something new is introduced, ingenuity is born.

If something new is born by making people understand what they don't understand, it is creative, and searching for something they don't understand is the beginning of creative.

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未知な魅力

綺麗な模様が並んだ中に見過ごしてしまそうな位に小さな点を見つけた時に、それを綺麗な模様を乱す点と思うか、綺麗な模様にアクセントを加えてくれる点と思うかで模様の浮かび上がり方が違うと思った。

完全さを求めるならば綺麗な模様を乱す点になるだろうが、不完全さを許容するならばアクセントになり得る。

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どちらが良いかでは無いと思うが、不完全さを許容する方が外からの要因によって変化する可能性があり不確実性が増す。不確実性は捉えようによっては不安要素だが、未知なことを含んだ伸び代として魅力的でもある。

"Unknown charm"

When you find a small dot in a line of beautiful patterns that you might overlook, you can either think that it disturbs the beautiful pattern or that it adds an accent to the beautiful pattern. I thought the way it emerged was different.

If you want perfection, it will disturb the beautiful pattern, but if you allow imperfections, it can be an accent.

I don't think which is better, but allowing imperfections can change due to external factors and increases uncertainty. Uncertainty is an anxiety factor depending on how you capture it, but it is also attractive as a growth margin that includes unknown things.

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身長ちぢんだ

昨夜、猫背矯正ベルトに目が止まりポチり、去年の健康診断の身長測定で1cmも縮み、何度試しても、背伸びしても、背筋伸ばしても、数ミリかかとを上げても変わらず、測定してくれた女性の半笑いの「歳とると誰でも縮むのよ」の慰めが今だに聞こえ、今年はそれでも1年間無理して背伸びし続けた結果か5mmを取り戻し、あと5mmの来年に向けて早いデリバリーのおかげでランチには矯正ベルトを装着、なかなか、これで無理して背伸びしなくていいかもしれないと。

先日、ミニクーパーを車検に出した。乗り始めて27年、外装の輝きが無くなってきたので、そろそろボディ磨きをしてみてはの誘いに一旦は乗ってみたのだが、一晩考えて、27年間の垢が落ちてピカピカのボディになったとしてそれが良いのかと、新車当時の輝きより27年経った今のくすみの方が価値あるだろうと思い、ボディ磨きは取りやめてワックス掛けだけしたら余計に外装のくすみがマダラで浮かび上がったなと。

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年月は無用なあがきと変な納得を生むけれど、また次の機会まで楽しみができたなとも思う。

"Height is small"

Last night, my eyes stopped on the stoop straightening belt, and I shrank by 1 cm in the height measurement of last year's health check. I can still hear the comfort of the half-laughing woman who measured me, "Everyone shrinks when I get older." Thanks to the quick delivery, I put on a straightening belt for lunch, and I thought that I might not have to stretch myself with this.

The other day, I sent a mini cooper to an automobile inspection. It's been 27 years since I started riding, and the exterior has lost its brilliance, so I tried to polish the body and tried to ride it once, but after thinking about it overnight, the dirt from 27 years was removed and it became a shiny body. I wondered if that was a good idea, and I thought that the dullness of the current 27 years after the brilliance of the new car would be more valuable, so if I stopped polishing the body and just waxed it, the dullness of the exterior emerged with Madara. When.

The years have given rise to useless postcards and strange convictions, but I think I was able to enjoy it until the next opportunity.

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人から見られるには

何かを見ることは対象物からの誘いに乗ることだとしたら、誘いに乗る前は無感性な状態、例えば、ボーっとしていたり、麻酔をかけられていたりするような、意識はあるが反応しないような状態であり、誘いに乗った後は感性が満ちていく状態になる。

感性に満ちている状態は対象物に焦点を合わせ見ている状態だが、興味があるのは無感性な状態での対象物からの誘いに乗る瞬間で、誘いに乗る時の決め手は何になるのかである。

ひとつの推測としては違和感ではないか。無感性なボーっとしている状態でも意識はあるので何かを受け止めている。その受け止めた中に何か違和感があれば、そこに焦点を合わせる。その違和感はギャプかもしれないし、不足や不完全かもしれないし、驚きや賞賛かもしれない。いずれにせよ、意識の地平の中に出現する異物なのだろう。

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そうなると、少なくとも異物になる可能性を秘めたものをつくらないと人から見られることは無いと言えるかもしれない。

"To be seen by people"

If seeing something is to ride an invitation from an object, you may be conscious but react to an insensitive state, such as being drowsy or anesthetized, before riding the invitation. It is a state where you do not, and after you get on the invitation, you will be in a state where your sensibilities are full.

The state of being full of sensibility is the state of focusing on the object, but what is of interest is the moment of riding the invitation from the object in the insensitive state, and what is the decisive factor when riding the invitation? Is it?

Isn't it strange as one guess? I am accepting something because I am conscious even in a state of insensitivity. If there is something wrong with that, focus on it. The discomfort may be a gap, a shortage or an incompleteness, a surprise or an admiration. In any case, it is a foreign substance that appears in the horizon of consciousness.

In that case, it may be said that people will not be able to see it unless they make something that has the potential to become a foreign substance.

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見ることは誘いに乗ること

何かを見る、凝視する直前には散漫な状態があり、散漫でボーっとしている時には視野の中にたくさんのものが同列で優劣なく存在している。まず人はこの散漫でボーっとしている状態を瞬時に無意識につくるが、意識的に長くつくることもできる。

この次の段階で何に焦点を合わせて凝視するかを決めるのだが、散漫な視野の中にあるたくさんのものからの誘いに乗ることで決めていると考えることもできる。それは散漫な視野の中にものを置く時点で誘いを誘発しているとも考えられる。

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そうすると「見る」ことは焦点を合わせて凝視する段階ではじまるのではなくて、その以前、目を開けて視野を形成している時点にはすでに凝視するものは捉えていて「見る」ことははじまっていると考えることができるかもしれず、初期のボーっとしている状態はまだ誘いに乗る前で何かを「見る」上で実は一番素直にものを見ている状態かもしれない。

"Seeing is an invitation"

Immediately before seeing or staring at something, there is a distracted state, and when distracted and drowsy, many things are present in the same line in the field of vision. First of all, people instantly and unconsciously create this distracted and dull state, but they can also consciously create it for a long time.

At this next stage, you decide what to focus on and stare at, but you can also think of it as taking the invitation from many things in a distracted field of view. It is also thought that it induces an invitation when it puts something in a distracted field of view.

Then, "seeing" does not start at the stage of focusing and staring, but before that, when the eyes are opened and the field of view is formed, the person who is staring at is already caught and "seeing" begins. You may think that you are, and the initial dull state may be the state where you are actually looking at something most honestly in "seeing" something before you take the invitation.

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曖昧とハッキリを重ねる

曖昧な言い回しや曖昧な事柄は何かがハッキリとせずわかりにくいので、そのわかりにくさを自分で補おうとして余計に印象に残ることがある。全てが曖昧だと全体がボヤけてしまうので、何を曖昧にするかが重要になる。また、曖昧なこととハッキリとしていることの境目を意識することも重要である。

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このことを建築空間の中で考える時、ハッキリしたことと曖昧なことをボーダーレスで重ねることがある。これは目に見える実体があるものだからできることで、特に建築のようなスケールが大きく人を内包できるものには有効な表現方法になる。

"Ambiguity and clarity"

Ambiguous phrases and ambiguous things are unclear and difficult to understand, so it can be even more impressive to try to make up for the incomprehensibleness. If everything is ambiguous, the whole thing will be blurred, so what is important is what makes it ambiguous. It is also important to be aware of the boundary between what is ambiguous and what is clear.

When thinking about this in an architectural space, there are times when clear and ambiguous things are overlapped borderlessly. This can be done because there is a visible substance, and it is an effective expression method especially for things such as architecture that have a large scale and can contain people.

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感性に影響を与える部分

何かを見ている時、その対象物以外の周辺のものは、視界の中には入っているがボヤけていて、感じてはいるがハッキリと感じていない状態である。ハッキリしている対象物とボヤけている周辺部の境目もまたハッキリとしない。それで境目を意識して見ようとすると、今度は焦点が合い境目は消える。

人の目の構造がそうさせるのだろうが、「見る」ことをそこまで意識しない時は無意識に自動的に周辺部のボケをつくり対象物に焦点を合わせる。それは目の動きで起こるが、人は無意識に自分の感性がなせることと錯覚するのではないだろうか。

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「見る」ことに重点を置く時、対象物がどのように見えるかを感じとろうとする。その際の目の動きも感性の一部と考える。ボヤけている周辺部は感じとれていないと思うところで、その部分が無感性としてダイレクトに人の感性に影響を与える部分になるのではないだろうかと考えてみた。

"Parts that affect sensitivity"

When I'm looking at something, things around me other than the object are in my field of vision, but they're blurry, and I feel it, but I don't feel it clearly. The boundary between a clear object and a blurred peripheral area is also not clear. So when I try to look at the boundary, the focus is on and the boundary disappears.

The structure of the human eye may make it so, but when you are not so conscious of "seeing", you unconsciously automatically create a blur in the peripheral part and focus on the object. It happens with the movement of the eyes, but people may unconsciously think that they can make their own sensibilities.

When we focus on "seeing", we try to get a feel for what the object looks like. I think that the movement of the eyes at that time is also a part of the sensibility. I don't think I can feel the blurred peripheral area, so I thought that it might be a part that directly affects people's sensibilities as insensitivity.

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知覚と空間と時間をコントロール

人の行為をデザインすることが建築や時間をデザインすることにつながるのならば、人が何かを知覚することをデザインすることで建築空間と時間の流れができあがると考えた。

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人が何かの行為を行う場合、同時に何かを知覚し、同時に空間を感じ、同時に時間が流れていく。人が何かの行為を行うことによって、知覚と空間と時間が生まれる。ならば、あとは人の行為をデザインするだけで知覚と空間と時間をコントロールできる。

"Controlling Perception, Space and Time"

If designing human actions leads to designing architecture and time, I thought that designing what people perceive would create an architectural space and the flow of time.

When a person does something, he perceives something at the same time, feels space at the same time, and time flows at the same time. Perception, space and time are born when a person does something. Then, you can control perception, space, and time just by designing human actions.

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人の行為をデザイン

人が見るという行為が時間という概念をつくり出すことは面白く、それができるのが建築の特徴かもしれない。

建築の中で人が何かの行為をする場合は時間や時間差が生じ、その人の行為に対して建築が応答するものと考えると、建築と時間は人の行為によって結びついていると考えることができる。

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ならば、人の行為によって建築と時間の関係性が変わることもあり得る。それは、人の行為をデザインすることが建築をデザインすることにつながり、同時に時間もデザインすることになる。

"Designing human actions"

It is interesting that the act of seeing people creates the concept of time, and it may be a feature of architecture that it can be done.

Considering that when a person does something in architecture, there is a time or time lag, and the architecture responds to that person's actions, it is considered that architecture and time are connected by the person's actions. Can be done.

Then, the relationship between architecture and time may change depending on the actions of people. It means that designing human actions leads to designing architecture, and at the same time designing time.

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人がつくり出す時間

建築を見る時に歩き回ることでしか建築は知覚できないと信じているところがある。

建築が人を内包するスケールで歩き回ることができるということが歩き回りながら建築を知覚することを可能にしているのだが、建築は一点から全てを把握することが困難な場合が多いので必然的に歩き回ることになるのは自然なことだとずっと思ってきた。

歩き回りながら見るということは視点が常に移動しているので、シームレスな視点の連続性が、まるでパノラマ写真のように、建築空間を把握するにはいいと考えてきたが、もしかしたら移動することで前の視点をリセットし続けていくとも考えらないかと思った。

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もしそうならば、歩き回りながら建築を見る行為は常に新しい視点を得る行為であり、その建築の中に常に新しい発見をする行為であり、それは建築の中に時間の概念を人が自らつくり出す行為になると考えてみた。

"Time created by people"

Some believe that architecture can only be perceived by walking around when looking at it.

The fact that architecture can walk around on a scale that embraces people makes it possible to perceive architecture while walking around, but it is often difficult to grasp everything from one point, so it is inevitable to walk around. I've always thought it was natural.

Looking around while walking is always moving the viewpoint, so I thought that seamless continuity of viewpoints would be good for grasping the architectural space like a panoramic photograph, but maybe by moving I thought I would continue to reset the previous viewpoint.

If so, the act of looking around the architecture is always the act of gaining a new perspective, the act of constantly making new discoveries in the architecture, and the act of creating the concept of time in the architecture by oneself. I thought it would be.

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見られている知覚

「見る」という知覚に興味があり、「見る」ことがデザインに与える影響が気になる。デザインを考える時に当然「見る」という知覚を意識するが、それは自分が対象物を見ていることを考える。

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他の可能性として、対象物が見られている状態を考えることもデザインには必要である。対象物がどのように見られているかを知覚するには同時に全方位から見られることを意識の中で自分の目を感じながら行うが、それは同時に対象物が周りからどのように存在しているのかを考察することにもなる。

"Perception being seen"

I am interested in the perception of "seeing", and I am concerned about the effect of "seeing" on design. When thinking about design, of course, we are conscious of the perception of "seeing", but we think that we are looking at the object.

Another possibility is that the design also needs to consider the state in which the object is being viewed. To perceive how an object is viewed, at the same time, consciously feel that it is seen from all directions, but at the same time, how the object exists from the surroundings. It will also be considered.

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視覚の特性をいかす

何かを見ている時、周辺視野はぼやけて見ているようで見ていない。デザインの時、その周辺視野が存在していることは考慮しないのが普通で、ぼやけて見えない部分はそもそも存在していないことにして、全てが均等に見えることが前提である。

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もし周辺視野のぼやけをデザインに組み込むとしたらどうなるだろうか。それは人の視覚の特性をデザインにいかすことでもある。そのように考えると、デザインをする時に人の視覚の特性が無視されていることがわかる。

"Making use of visual characteristics"

When I'm looking at something, the peripheral vision seems to be blurry and I'm not looking. At the time of design, it is normal not to consider the existence of the peripheral vision, and it is assumed that the part that cannot be seen blurry does not exist in the first place, and that everything looks even.

What if you wanted to incorporate peripheral vision blur into your design? It is also about utilizing the characteristics of human vision in design. Thinking that way, we can see that the characteristics of human vision are ignored when designing.

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新たな感性の会得

普通に知覚できる以上のことがバーチャルやメディアで予め流れているので、実際に目の前で起こることに対して、それがどれだけ自分にとって素晴らしいことでも、無感動、無関心、無感性になりやすいかもしれない。

それは一見否定的なことかもしれないが、考えようによっては新たな感性を生む土台になるかもしれない。だから、あえて無感性になってみようと考えてみた。

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無感性は身体が麻痺したような状態であり、自分の周りで何があっても他人事のような感覚である。もしそこに別の新たな感性を挿入でき知覚できれば、今までにないもの生み出すための感性を会得できるかもしれない。

"Acquisition of new sensibilities"

Beyond what you can normally perceive, it's pre-flowing in virtual and media, so it's easy to be insensitive, indifferent, and insensitive to what actually happens in front of you, no matter how great it is to you. Maybe.

It may seem negative at first glance, but depending on how you think about it, it may be the basis for creating new sensibilities. So, I dared to try to be insensitive.

Sensitivity is a paralyzed state of the body, which feels like someone else's affairs no matter what happens around you. If we can insert and perceive another new sensibility there, we may be able to acquire sensibilities to create something that has never existed before.

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違うことを見せる

見ることと見られることは同じかもしれないと考えると、実際に目で見ることと意識の中で見ることは同じになるかもしれないと思った。

対象物を見ることは対象物が見られる状態をつくることであり、同時に発生する訳だから、引いて状況を観察すれば同じ枠組みの中のことだといえるかもしれない。

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対象物を見ることは実際に目で見ることであり、対象物が見られる状態を把握することは意識の中で見られる状態を想像することである。それらが同じ枠組みとして捉えることができるならば、人の意識にアクセスできれば、実際とは違うことを見せることができるかもしれない。

"Show different things"

Given that what you see and what you see may be the same, I thought that what you actually see with your eyes and what you see in your consciousness may be the same.

Seeing an object creates a state in which the object can be seen, and it occurs at the same time, so it may be said that it is within the same framework if the situation is observed by pulling it.

To see an object is to actually see it, and to grasp the state in which an object is seen is to imagine the state to be seen in consciousness. If they can be seen as the same framework, it may be possible to show something different if we can access human consciousness.

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デザインをスルー

スルーしていくことでしか見えないことがあるような気がする。スルーしてやり過ごすことでそれがどういうことだったのかが後でわかる。後でわかることに対して損得勘定が働くからスルーできない。後でわかることを受け入れてしまえば簡単にスルーできる。受け入れるためにはスルーすることでしか最大限の成果は得られないようにすれば良く、それがスルーしていくことでしか見えないことになる。

デザインも同じで全てをデザインする必要はなく、最低限の範囲でデザインできれば最大限の成果を得られる領域を見つけることができれば、デザインをスルーすることもできる。

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デザインをスルーすることでもっと初源的なものの在り方を考えるキッカケができるような気がする。

"Through design"

I feel that there are things that can only be seen by going through. You can see what it was like by going through it. You can't go through because the profit and loss account works for what you will find out later. If you accept what you will find out later, you can easily go through it. In order to accept it, the maximum result should be obtained only by passing through, and it can only be seen by passing through.

The design is the same and it is not necessary to design everything, and if you can find the area where you can get the maximum result if you can design in the minimum range, you can go through the design.

By going through the design, I feel that I can think about what the original things should be.

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無感性的な着地

感性的に物事を捉えようとすると、いちいち気になるところで引っ掛かりができる。気になるところはその物事の表面上の帰納するところである場合も多いので、無視することもできずにいちいち考え込んでしまうが、結局は表面上のことなので捉え方によってはまた別の解釈も成り立つかもしれないから、引っ掛かりが自分にとって無駄な時間で終わる可能性もある。

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だから、感性的に物事を捉えようとしつつ、無感性的な状態に意識してなり、表面上の引っ掛かりを回避して、本当に気になるところに着地したいと思うのだが、それがなかなか難しい。

"Insensitive landing"

When I try to grasp things sensuously, I can get caught in every place I care about. In many cases, the place of concern is the induction on the surface of the thing, so I can not ignore it and think about it one by one, but in the end it is on the surface, so another interpretation holds depending on the way of thinking. Maybe that's why the catch can end up in wasted time for you.

So, while trying to capture things sensuously, I want to be conscious of the insensitive state, avoid getting caught on the surface, and land where I really care, but that is quite difficult.

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まず変えないことを決める

仮に慣れ親しんだものをリセットしようとしてもなかなかできないもので、それは何かを変えようとしても守りに入る人間の本能が関係しているかもしれない。

例えば、片付けなどはまず何かを捨てようとすると失うことへの損得感情が働き、結局失うことに対して守りに入るから捨てられなくなる。だから、まず捨てて片付けしようとするのでは無くて、まず何を残すのかを考えてから片付けをする。絶対に残したい物を選ぶことは損得勘定が働いて守りに入ってもできるから、絶対に残したい物以外を捨てて片付けをすればいい。

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それでいけば、リセットしようとしても全てを変える訳では無いので、まず絶対に変えないことを決めてからそれ以外を変えれば、守りに入る人間の本能の影響を最小限に抑えてリセットができるのではないかと考えた。

"First decide not to change"

Even if you try to reset something you're used to, it's hard to do, and it may be related to the human instinct that protects you even if you try to change something.

For example, in the case of tidying up, if you try to throw away something, you will have a feeling of loss and gain, and in the end you will be protected against losing, so you will not be able to throw it away. So, instead of throwing it away and trying to get rid of it, first think about what to leave and then get rid of it. You can choose what you absolutely want to keep even if the profit and loss account works and you can protect it, so you can throw away the things you absolutely want to keep and put them away.

If that is the case, even if you try to reset it, it will not change everything, so if you first decide not to change it and then change everything else, you can reset it with the minimum influence of the human instinct that enters the defense. I thought it might be.

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リセット

慣れ親しんだことをリセットして、別の状態にしようとした時に何からはじめればいいのかを考えてみた。

慣れ親しんだことは継続した積み重ねとなり、それはリソースとして武器にできるが、同時にそれは他の新しいことに目を向けなくなる原因にもなる。常に何か新しい要素を少しでもいいからプロジェクトには持ち込みたい。

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リセットする時のヒントは好奇心であり、慣れ親しんだこと以外の好奇心が湧くことから手をつければ、自然とリセットできるかもしれない。

"reset"

I reset what I was used to and thought about what to start with when trying to change to another state.

Familiarity becomes a continuous buildup, which can be a weapon as a resource, but at the same time it also causes you to lose sight of other new things. I always want to bring some new elements into the project, even if only a little.

The hint when resetting is curiosity, and if you start with curiosity other than what you are used to, you may be able to reset it naturally.

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いつもに可能性を

いつものこと、いつもの状況、いつもの素材、いつもの場面など、いつもと変わらないことが揃っている中で、何かを変えれば新しい成果が生まれだろうかと考えてみた。

例えば、いつもの素材でも組合せを少し変えれば成果は違うし、いつもの状況でも時間を少しズラせば成果は変わるだろうし、いつものことでも途中のプロセスを少し変えれば成果に違いが生まれるだろう。

どれもこれも少しの工夫で済むかもしれない。そう思えれば、いつもと変わらないことに可能性が生まれる。

"Always the potential"

With all the things that are the same as usual, the usual situation, the usual materials, the usual scenes, etc., I wondered if something could be changed to produce new results.

For example, even with the usual materials, if you change the combination a little, the result will be different, even in the usual situation, if you shift the time a little, the result will change, and even if you change the process in the middle a little, the result will be different. ..

All of this may be a little ingenuity. If you think so, there are possibilities for things that are the same as usual.

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つくり方を変えるだけ

タイル張りなのにタイル張りに見えない。前川國男の打ち込みタイルにはいつもハッとしてしまう。よくある通常のタイル張りの外壁は正直好きではない。重厚さが出るような厚みのあるタイルを使い、端部やコーナー部の納まりも詳細につめて精緻につくり込むことができればいいのだが、そこまでいいタイルを使い施工できている建築はほとんど見ない、それほど安直なタイル張りが多い。

打ち込みタイルは通常のタイル張りとは施工方法が違う。そこにひとつタイル張りに見えない所以があるのだろう。もちろん、見た目で違いがわかるのだから、通常のタイル張りに見えないのは当たり前なのだが、関心があるのは同じ素材を使ってもつくり方を変えれば見え方が変わる所である。

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見え方をコントロールしようとする時、見えているそのもののデザインや素材に焦点を当てることが多いが、つくり方を変えるだけで見え方をコントロールできるとなれば、見え方のデザインにより可能性を感じることができる。

"Just change the way you make it"

It's tiled, but it doesn't look like tiled. Kunio Maekawa's driving tiles are always a surprise. I honestly don't like the usual tiled exterior walls that are common. It would be nice if we could use thick tiles that would give a heavy impression, and make the edges and corners fit in detail, but we can see most of the buildings that can be constructed using such good tiles. No, there are many tiles that are so easy.

The construction method of driving tiles is different from that of normal tiles. There may be one reason why it doesn't look like tile. Of course, it's natural that it doesn't look like normal tiles because you can tell the difference by appearance, but what I'm interested in is that even if you use the same material, the appearance will change if you change the way you make it.

When trying to control the appearance, we often focus on the design and material of what we see, but if we can control the appearance just by changing the way we make it, we feel the possibility of designing the appearance. be able to.

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焼き付けるイメージ

イメージを実現化していく時にあまり考え過ぎてしまったり、スケッチを何度も繰り返していると、当初の新鮮でスッキリしたイメージがいつの間にか鈍重で安全なイメージになってしまうことがある。

それはそれで良いのかもしれないし、たくさんの人に安心を与えるかもしれないが、当初のイメージが頭をチラつきモヤモヤする。

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ある程度鮮明なイメージができたらすぐに図面に手をつけることにしている、イメージを焼き付けておくために。

"Image to burn"

If you think too much when you realize the image, or if you repeat the sketch many times, the original fresh and refreshing image may become a dull and safe image before you know it.

That may be fine, and it may reassure a lot of people, but the original image is flickering and moody.

As soon as I get a clear image to some extent, I will start working on the drawing, in order to print the image.

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妄想からの

妄想との対話が続く。常に妄想が語りかけてくる。妄想がいろいろとアイデアやヒントをくれる。ほとんどを聞き流し気にもとめないが中には引っ掛かり頭にずっと残るものがある。妄想は現実ではないが現実と区別がつかなくなった時、ずっと頭に残っていたものが意識に上る。

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意識化されたアイデアやヒントには逆らえないからそのまま受け入れるが、役に立たなければ容赦なく捨てる。そうしないと妄想に振り回されて意に反したものをデザインしてしまう。

"From delusion"

Dialogue with delusions continues. Delusions always speak. Delusions give us various ideas and hints. I don't care about most of them, but some of them get caught and stay in my head forever. Delusions are not reality, but when they become indistinguishable from reality, what remains in my mind comes to my consciousness.

I can't go against the conscious ideas and hints, so I accept them as they are, but if they don't help, I mercilessly throw them away. If you don't do that, you'll be swayed by delusions and design something that goes against your will.

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記憶とのつながり

物の質感をデザインする時にはじめは意識していないが後から考えると記憶の中にある質感からヒントやアイデアをもらっていることがある。

例えば、木の質感は子供の頃からまわりに材木があふれていて遊び道具だったので素手で触ることが多く、当然ざらつきや棘が刺さり痛い思いをしてきて、それが木の質感としては当たり前のように触感として身体に刻まれているので、木の面はなるべく塗装などで覆いたくは無く、ざらつきを残し、視覚的にもざらつきや凹凸感や立体感を出したくなる。

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記憶の中には当然今の自分を形づくる要素がたくさん存在しているが、はじめから記憶を拠り所にするのでは無く、気がついたらあの記憶と結びついていたと思う位の方が自然と自己とのつながりの中で創作でき、また自分にしかできないものを登場させることができるような気がする。

"Connection with memory"

When designing the texture of an object, I wasn't aware of it at first, but when I think about it later, I sometimes get hints and ideas from the texture in my memory.

For example, since I was a kid, the texture of wood has been a plaything because it has been a plaything, so I often touch it with my bare hands. Since it is carved on the body as a tactile sensation, I do not want to cover the surface of the wood with paint as much as possible, leaving a rough surface, and I want to visually give it a rough, uneven or three-dimensional effect.

Of course, there are many elements that shape oneself in memory, but it is better to think that it was connected to that memory when you noticed it, rather than relying on it from the beginning. I feel like I can create something that only I can create in my memory.

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階段は異質の存在

設計において階段は特別な存在だという意識がある。昇降するためのものだからその機能を満たすだけで良いのだが、空間において何か異質の存在のような、機能などどうでも良い、むしろ昇降しない、ただそこにあるだけための階段をつくりたいとも思う。

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だから、昇降する機能は当たり前のこととして、設計する時に考えることは空間の中でどのような在り方をするのか、どのようなつながりをつくるのか、どのように見せるのか、そして、昇降する機能が無くなっても存在価値があるのかということ。

"The stairs are foreign"

There is a consciousness that stairs are special in design. Since it is for going up and down, it is only necessary to satisfy that function, but I do not care about the function, such as the existence of something different in the space, rather I would like to create a staircase that does not go up and down, just to be there. ..

Therefore, the function to move up and down is a matter of course, and when designing, what to think about in the space, what kind of connection to make, how to show it, and the function to move up and down are lost. But is it worth the existence?

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つながりをつくるアクション

想起によって誘発するアクションは消費へ直接向かわずに何かのつながりをつくる方向へ持っていきたい。

想起によるアクションの誘発は広告が最も得意とするところだが、消費が大前提になる。ただ消費することだけでは想起のもととなる記憶が脚色されてしまう。

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つながりをつくる方向に持っていければ、記憶が今この瞬間とつながり、その人なりのアクションが生まれる。そのアクションには消費も含まれるかもしれないが、つながりのおかげで多様なものになる可能性がある。

"Action to make a connection"

I want to take actions triggered by recollection in the direction of making some connection without going directly to consumption.

Advertising is best at inducing actions by recall, but consumption is a major premise. Just consuming it will dramatize the memory that is the source of the recollection.

If you take the direction of making a connection, your memory will be connected to this moment and your own action will be born. The action may include consumption, but it can be diverse thanks to the connections.

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アクションの誘発

アクションを誘発するには、ひとつに想起させることである。何かを想起させることができれば、その何かに関連することのアクションを起こすかもしれない。

想起には人の意識の中にある記憶や思い込みや常識を利用する。一般的なこと、よくあること、普通なことを排除して、それでも残ることに注目する。

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常識的なことも一般的なことと特定の範囲で通用するものとある。一般的なことは排除して、特定の範囲で通用するものを利用する。特定の範囲で通用するものを掴むことはすでに誘発のヒントを獲得したことになる。

"Induction of action"

To provoke an action, remind one of them. If you can remind yourself of something, you may take action related to that something.

For recall, we use memories, beliefs, and common sense in human consciousness. Focus on eliminating the common, common, and ordinary things and still remaining.

Common sense is also common and can be applied to a specific range. Exclude the general ones and use the ones that are valid in a specific range. Grabbing something that works in a certain range has already acquired a hint of triggering.

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誘発する壁

壁が隔てる目的以外に存在する理由があるとしたら、ひとつに人の視覚を通して何かを伝え、人にアクションを起こさせることである。

一番わかりやすい例は、壁にあるものは全て含むとしたら看板であり、その広告性は人のアクションを誘発するために存在する。

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広告以外でも壁がアクションを誘発することが可能だとしたら、隔てるためのデザインとは違ったものになるだろうし、そもそも壁の見え方が違うだろうから、アクションを誘発する壁を考える時点で何か違う空間を生み出す可能性を孕む。

"Inducing wall"

If there is a reason other than the purpose of separating the walls, one is to convey something through human vision and make people take action.

The most obvious example is a signboard, if anything on the wall, to provoke human action.

If a wall could induce action other than advertising, it would be different from the design for separating, and the appearance of the wall would be different in the first place, so when thinking about the wall that induces action It has the potential to create something different.

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奥行き感

薄っぺらい平らな面に何を施せば奥行き感が出るのだろうかと考えてみた。もちろん、厚みを持たせれば奥行きはつくれるかもしれないが、ここで意図したいことは奥行きがある感じである。厚みを持たせても奥行き感が出せるとは限らない。しばしば目の錯覚で奥行き感が出たり、消失したりすることがある。その時実際には奥行き自体は無い。

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薄っぺらさはそれだけでひとつの表現を指向することになる。そこから脱却したい時、厚みを増すことでは無く、目の前の物を違った表現にすれば脱却し別の物にできることに興味がある。

"A sense of depth"

I wondered what to do on a thin, flat surface to give it a sense of depth. Of course, if you give it thickness, you may be able to create depth, but what I want to do here is to have depth. Even if it is thick, it does not always give a sense of depth. Often, the optical illusion may cause a sense of depth or disappear. At that time, there is actually no depth itself.

Flimthiness alone directs one expression. When I want to break away from that, I'm interested in being able to break away and make something else by expressing the thing in front of me in a different way, rather than increasing the thickness.

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物が人を選ぶ

空間は人に従属するものだろうかと、その逆の人が空間に従属することはあるのだろうかと考えてみた。人が空間に従属することは空間が人を選ぶことでもある。さらに空間は物だから、物が人を選ぶことと言い換えることもできるかもしれない。

物が人を選ぶとしたら、物の機能や使用感、例えば、快適性などに注意を払う必要が無くなる。物は合う人だけと関係ができれば良いとなる。

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そうなると、極端に物の価値が限定されるように思えてしまうが、人側から物の魅力の深度みたいなことを考えてみると、機能や使用感が消失して物と同一化しても良いくらいに合わせたいと思えれば、それはその人とって物の価値は最大化しており、結局ものづくりをしている人にとってはそこが最終目的地なのではないかと思ってしまう。

"Things choose people"

I wondered if space is subordinate to humans, and vice versa. The fact that a person is subordinate to space also means that space chooses a person. Furthermore, since space is a thing, it may be rephrased as a thing choosing a person.

If an object chooses a person, it is not necessary to pay attention to the function and usability of the object, for example, comfort. Things only need to be able to relate to people who fit.

In that case, it seems that the value of the thing is extremely limited, but considering the depth of the attractiveness of the thing from the human side, the function and usability may be lost and it may be identified with the thing. If you want to match it, it maximizes the value of things for that person, and after all, for those who are making things, I think that is the final destination.

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今ここにいるつながり加減はデザイン

トリップしたいのは非日常を味わいたいから、いつもと違う体験がしたいからだと思うが、案外にも日常の延長でしか考えない場合も多いかもしれない。

非日常とは言えあまりにも日常とかけ離れていては現実味が無くなるから、かえって楽しめなくなるのかもしれない。

非日常の加減、度合いが大事になるが、それは今ここにいる自分をどれだけ想像できるかによると思う。今ここにいる自分とは、今ここにいることに自分とつながりがあり、そのつながりが自分のことのように思えるかである。

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建築ならば、今いる空間につながっている自分を現実感を持って見ることができるかであり、そのつながり加減、度合いを調整することもデザインの範疇だと考えている。

"The connection that is here now is design"

I think that I want to trip because I want to experience extraordinary things, and I want to experience something different from usual, but unexpectedly, I may think only as an extension of my daily life.

Even if it is extraordinary, if it is too far from everyday life, it will be unrealistic, so it may not be enjoyable.

The degree of extraordinary adjustment is important, but I think it depends on how much you can imagine yourself here. I am here now, and I have a connection with myself to be here now, and that connection seems to be me.

In the case of architecture, it is possible to see yourself connected to the space you are in with a sense of reality, and I think that adjusting the degree and degree of that connection is also a category of design.

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メタファーが運ぶ意識

視覚の中にメタファーを持ち込むことにより、時間に空白という間をつくり、今ここには無いことまで意識させ、目の前の空間だけでは無いことまでデザインしたいと考えた。

メタファーという暗示は、明示のような瞬時のわかりやすさは無く、わかるまでに時間の空白ができ、その空白がより深い理解と意識を別の所へ運ぶ。

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ここでデザインしたいのは人の意識の行き先である。

"Consciousness carried by metaphor"

By bringing a metaphor into the visual sense, I wanted to create a gap in time, make people aware of what is not here now, and design not only the space in front of them.

The suggestion of metaphor is not instantly understandable like explicit, but there is a time gap before it is understood, and that gap carries a deeper understanding and consciousness to another place.

What I want to design here is the destination of human consciousness.

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視覚に時間の幅を

視覚の中に時間の要素を持ち込みたいと考えている。

時間の要素とは時間の幅のようなもので、例えば、何かを見ている時に目の前にある物の今この瞬間を捉えているが、その物が過去から未来へと時間の流れの中でどのように存在してきたが伝わるようにしたい。

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もしかしたら、それは瞬時にでは無くて少しの間があり、少しわかりづらい状況をあえてつくることになるかもしれない。

"Visually the width of time"

I want to bring an element of time into my vision.

The element of time is like the width of time, for example, when you are looking at something, you capture the moment of the thing in front of you, but that thing is the flow of time from the past to the future. I want to convey how it has existed in the world.

Perhaps it's not an instant, but a short time, and it may dare to create a situation that is a little confusing.

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時間の空白が多様を生む

視覚の中で曖昧な部分をつくることにより瞬時にわかることを避けて、そこに時間の空白をつくろうとした。

人は空白を感じると何かで埋めようとする。時間の空白は視覚で得た情報に余分な意味づけをする機会を与える。その意味づけの内容は見る人によって違う。

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同じものを見ていても見る人によって受け取り方が変わる可能性がより広がり多様になる。

"The gap in time creates variety"

I tried to create a time gap there, avoiding instant understanding by creating an ambiguous part in the visual sense.

When a person feels a blank, he tries to fill it with something. The time gap gives the visual information an opportunity to give extra meaning. The content of the meaning differs depending on the viewer.

Even if you are looking at the same thing, the possibility that the way you receive it will change depending on the person who sees it will become more widespread and diverse.

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視覚でタイムラグをつくる

視覚で感じたことの中にある意味が明示ならば瞬時に全体を把握することができ、それがわかりやすさや自律性の高さにつながる。

わかりやすさは何かを相手に伝える時には非常に大事なことだが、相手に深い印象を残すことを意図した場合には必ずしも大事なことでは無い。深い印象を残したければ明示より暗示、すなわちメタファーを活用する方が良い。

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視覚で感じるメタファーにより、瞬間の把握では無くほんの少しのタイムラグが生じる。このタイムラグが深い印象へとつながる。

"Create a time lag visually"

If the meaning in what you feel visually is clear, you can instantly grasp the whole thing, which leads to easy understanding and high autonomy.

Clarity is very important when telling something to the other person, but it is not always important when the intention is to leave a deep impression on the other person. If you want to leave a deep impression, it is better to use suggestion, that is, metaphor, rather than explicit.

The visual metaphor creates a slight time lag rather than a momentary grasp. This time lag leads to a deep impression.

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メタファーを意識する

素材からの連想を意識することはメタファーにアクセスしていくことを意識する必要があると考えた。

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メタファーは建築において使い古された言葉と思ってしまうが今だに主題になり得る言葉であり、あえて特別に扱う必要が無く一般的な言葉になったと解釈している。建築以外の分野ではメタファーは当たり前に意識されているので、建築でも特殊なことを一般解として扱いたい時には手段として使える。

"Aware of metaphor"

I thought that it is necessary to be aware of accessing the metaphor to be aware of the association from the material.

I think that metaphor is a word that has been used up in architecture, but it is still a word that can be the subject, and I interpret it as a general word that does not need to be treated specially. Metaphors are taken for granted in fields other than architecture, so they can be used as a means when you want to treat special things as general solutions in architecture as well.

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素材からの連想をデザイン

素材から連想する建築もあるだろう。例えば、木組みを見たら和風の建築や和に関係する空間や建築を連想する。素材に意味がついている。あと、素材の見せ方や素材感にも意味がついていて連想を助けている。それは素材を扱う時に考慮しなければいけないところであり、別の考え方をすれば、素材の扱い方を変えればついている意味を操作できることでもある。

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木組みは和風という素直な連想を利用することが重要な時もあるが、少し素材の扱いを変えて、木組みに和風以外の意味を付け加えた時にどうなかるかを考えるのもデザインの範疇である。

"Designing associations from materials"

Some architecture may be associated with the material. For example, when you look at the wooden structure, you think of Japanese-style architecture and spaces and architecture related to Japanese. The material has a meaning. Also, the way the material is shown and the texture of the material have meaning, which helps the association. That is something that must be taken into consideration when dealing with materials, and if you think about it differently, you can manipulate the meaning that comes with it by changing the way you handle materials.

Sometimes it is important to use the straightforward association of Japanese style for woodwork, but it is also a category of design to think about what happens when you add a meaning other than Japanese style to woodwork by slightly changing the treatment of materials. ..

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素材感の影響

素材感だけを抜き出して眺めてみると、素材の違いに関係無く全て同じに見える場合がかる。

例えば、木製の仕上げがされていても、そこにクリアな厚い塗装がかけられていたら、木製に見せかけたプリントと素材感は似たようになる。何かでコートすることにより汚れや傷みから守ろうとするのはわかるが、それならばそもそも木を使わなければ良い。

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素材の違いより素材感の違いに注目すると見た目以上に素材の持つ空間への影響を感じ取ることができる。

"Effect of texture"

If you take out only the texture and look at it, it may look the same regardless of the difference in the material.

For example, even if it has a wooden finish, if it is painted with a clear thick paint, the texture will be similar to the print that looks like wood. I know that you can coat it with something to protect it from dirt and damage, but then you shouldn't use wood in the first place.

If you pay attention to the difference in texture rather than the difference in material, you can feel the influence of the material on the space more than it looks.

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秩序が与える影響

物そのものでは無くて物に付随すること、例えば、見せ方についていろいろ考えてみた。モジュールやパターンで物を見せようとした時に何が起こるだろうか。

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物そのものの存在もあるが、物とは関係するが離れたパターンやモジュールといった規則性、それを秩序と言い換えてもいいと思うが、その秩序を直接扱うことになる。それは物そのものでは無いが付随することを直接扱うことになり、それが物そのものにどのような影響を与えるのか気になる。

"The impact of order"

I thought about things that accompany things, not the things themselves, such as how to show them. What happens when you try to show things in modules or patterns?

There is the existence of the thing itself, but the regularity such as patterns and modules that are related to the thing but separated from each other, which can be rephrased as order, but the order is dealt with directly. It is not the thing itself, but it deals directly with the accompanying things, and I am wondering how it affects the thing itself.

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付随が価値を決める

物に付随していることを扱う方が直接物を扱うより可能性があると考えている。

物を直接扱う場合は物の質を問うことになり、質の良し悪しが物の直接的な価値を決めることになる。質の悪い物をつくる気は無いつし、質の悪い物でいい訳では無く、質の良い物をつくろうとするが、質に焦点を当てると価値判断にコストが付き纏い、コストが直接的に価値を決める場面が出てくる。

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しかし、物に付随していること、例えば、物の見せ方に焦点を当たれば、価値判断をコストで左右されにくく、別の要素が価値を決めるようにできる。

"Attachment determines value"

I think it is more possible to deal with things that accompany things than to deal with things directly.

When dealing with things directly, the quality of the things is questioned, and the quality of the things determines the direct value of the things. I have no intention of making poor quality products, and I am not good at making poor quality products, but I try to make good quality products, but if I focus on quality, the cost is attached to the value judgment, and the cost is direct. There will be a scene where the value is decided.

However, if we focus on what is attached to an object, for example, how it looks, the value judgment can be less cost-sensitive and another factor can determine the value.

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付随していること

見え方をデザインすることは見えているものをデザインすることとは違う。見え方を変えれば、見ているものが同じでも、違うものに見えるかもしれない。

見ているものをデザインすることは物を直接扱うことになるが、見え方をデザインすることは物を間接的に捉えることになり、直接扱うのは物に付随していることである。

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付随していることは有形無形いろいろあるが、今ここにあることに直結していることで、物の存在に直に関わることだと考えている。

"Attachment"

Designing what you see is not the same as designing what you see. If you change the way you look, it may look different even if you are looking at the same thing.

Designing what you are looking at deals with things directly, but designing how you see them indirectly captures things, and dealing directly with things is attached to them.

There are various tangible and intangible things that accompany it, but I think that being directly connected to what is here now is directly related to the existence of things.

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物そのもの

どう見せるかを考える時にそのまま物を見せるより、物が見える現象に注目して、その物の見え方をコントロールしたいと考えた。物がそこにあることと物が見えることは等しいことでは無く、そこにあることをデザインすることと見え方をデザインすることも違う。

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見え方に注目してみた。その物がどうであるかより、どう見えるかを扱った方が物そのものの存在に迫れるような気がしている。

"The thing itself"

Rather than showing things as they are when thinking about how to show them, I wanted to focus on the phenomenon of seeing things and control how they look. It is not the same that an object is there and an object is visible, and designing what is there is also different from designing how it looks.

I paid attention to how it looked. I feel that it is closer to the existence of the thing itself when dealing with what it looks like rather than what it looks like.

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何が美しいのか

何を美しいと思うのだろうか。美しいという基準は人から植え付けられる。いま一度、赤子に戻り美しさを問い直すと疑問が湧く。美しさの常識が嘘に思える。ここで分かれ道です、どうするか、美しさの常識に乗る方が安心でき、確実で、破綻しない。ただ、自分の中にある美しさと一致しないかもしれない。破綻が怖い人が多いだろう、積み上げが無になるから。積み上げが無い人にとっては自分の中にある美しさが尊い。

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"What is beautiful"

What do you think is beautiful? The standard of beauty is planted by humans. When I go back to the baby and ask the beauty again, I have doubts. The common sense of beauty seems to be a lie. This is a fork in the road, and it's safer, more reliable, and unbreakable to follow the common sense of beauty. However, it may not match the beauty within me. Many people are afraid of bankruptcy, because there will be no stacking. For those who do not have a stack, the beauty within them is precious.

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変化する美しさ

何かを見せるにしても、そのまま見せることに興味が湧かない。どれだけ美しいものでも美しさを前面に出すだけではつまらない。絶対的な美しさは素晴らしいが飽きる。飽きないためには常に変化する要素が必要である。常に変化する要素を得るために相対的な美しさを求める。相対的とは比較であり、美しさも比較する対象があって成り立つ。比較する対象を必要とすることは、比較する対象によって美しさが変化するということである。

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"Changing beauty"

Even if I show something, I'm not interested in showing it as it is. No matter how beautiful it is, it's boring just to bring it to the fore. Absolute beauty is wonderful but tired. In order not to get bored, we need elements that are constantly changing. Seeking relative beauty to get the ever-changing elements. Relative is a comparison, and beauty also has an object to be compared. The need for an object to be compared is that the beauty changes depending on the object to be compared.

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ブレークスルーの種

現状をブレークスルーには、違和感のような小さなフラストレーションに目を向け、それを解消することに好奇心を持つといいかもしれない。

似たり寄ったり当たり前のことに違和感を持つことが多く、似たり寄ったりがたくさんあることはそれがその業界の今の正解かもしれないが、たくさんあることに違和感を持ち、そもそも似たり寄ったりと思う時点で自分には興味の無いものになっている。

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当時者が気づかない違和感を持つことができれば、それだけでブレークスルーの種はできたかもしれない。

"Seeds of breakthrough"

To break through the status quo, it may be good to look at small frustrations such as discomfort and be curious about eliminating them.

There are many things that are similar or close to each other, and it may be the correct answer in the industry that there are many similarities, but it is strange that there are many things that are similar to each other in the first place. At the time I think about it, I'm not interested in it.

If the person at that time could have a sense of incongruity that he did not notice, that alone might have created a breakthrough seed.

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空間には未知の体験が必要

人が影響を与える空間では人の根源的な欲望を刺激する必要がある。人が影響を与えるには、人がアクティビティをする必要があり、アクティビティのきっかけが必要になる。そのきっかけが根源的な欲望を刺激されることであり、空間が人の根源的な欲望を刺激する存在である必要がある。

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根源的な欲望は好奇心と言い換えてもいいかもしれない。好奇心にもいろいろと種類があり、人により違うかもしれないが、わかりやすいのは未知の体験に対する好奇心である。知らないものを知りたいという知識欲と相まって未知の体験は好奇心を刺激する。

"Space needs an unknown experience"

In a space where people influence, it is necessary to stimulate the person's fundamental desires. In order for a person to influence, a person needs to do an activity, and an opportunity for the activity is needed. The trigger is to stimulate the fundamental desires, and the space needs to be the existence that stimulates the fundamental desires of human beings.

Primitive desire may be rephrased as curiosity. There are many types of curiosity, which may vary from person to person, but what is easy to understand is curiosity about an unknown experience. An unknown experience, coupled with a desire to know what you don't know, stimulates curiosity.

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空間は建築独自

常に空間に囲まれている。建築を考える時、空間に注目するか、物に注目するかの2通りある。

それは建築を空間として捉えるか、物として捉えるかの違いであり、空間として捉える場合は建築内部に空虚な部分があり、その空虚な部分が人を内包できる位に大きいので、建築は人の影響を受けるという考え方である。

一方、物として捉える場合は建築はひとつの塊として捉え、その塊をどのようにつくるか、どのように置くかが重要であり、それによって周りの環境や人にどのような影響を与えるかが主題になる。

どちらが良いかではなく、時代によって流行り廃りはあるが、基本的には歴史上どちらかが優位になることを繰り返してきた。

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別の言い方をすると、人が影響を与えるか、人に影響を与えるかの違いである。良い建築を見て感動する場合は人に影響を与えることになるので、物としての建築が優位になり魅力的に見えるが、人無しで成立するものは建築以外でも、工作物でも、美術品でもあり得るので、人が影響を与える建築、すなわち空間として捉える方が建築独自のものが表現できると考えている。

"Space is unique to architecture"

Always surrounded by space. When thinking about architecture, there are two ways to focus on space and things.

It is the difference between perceiving architecture as a space or as an object. When perceiving it as a space, there is an empty part inside the building, and the empty part is large enough to contain people, so architecture is influenced by people. The idea is to receive.

On the other hand, when considering it as an object, architecture is regarded as one mass, and how to make the mass and how to place it are important, and how it affects the surrounding environment and people. Become a subject.

It is not which one is better, but it has become fashionable and obsolete depending on the times, but basically, it has been repeated that either one has an advantage in history.

In other words, it is the difference between a person's influence and a person's influence. If you are impressed by seeing a good architecture, it will affect people, so architecture as a thing will be superior and look attractive, but what can be established without people is not only architecture, but also works of art. However, since it is possible, I think that it is possible to express something unique to architecture by considering it as an architecture that people influence, that is, a space.

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機能を頼りにしない

狭い空間では求められる機能を頼りにデザインをしていたら似たり寄ったりになる。

機能を頼りにデザインをすることはデザインに明確な根拠を与え、恣意的という批判を安易にかわすことができるので多用されやすい。しかし、狭い空間では機能が限定されバリエーションが無くなるので似たり寄ったりを招く。

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だから、むしろ機能とは関係が無いところでデザインをする。それはもしかしたら人の内面に直接働きかけることになり、人のウォンツを引き出すかもしれない。

"Don't rely on features"

In a small space, if you rely on the required functions for designing, they will look similar.

Designing by relying on function gives a clear basis to the design, and it is easy to avoid criticism that it is arbitrary, so it is easy to be used frequently. However, in a narrow space, the functions are limited and there are no variations, which leads to similarities.

Therefore, rather, design in a place that has nothing to do with the function. It may work directly on the inside of the person and may bring out the wants of the person.

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定まらない可能性

時を経て前の建築とつながろうとする時に齟齬が起きそうなところに注目してみようと考えた。

前の建築とこれから現れる建築は同じ場所に建つので同じような特徴を持つが同時に全く違う要素も持ち合わせる。全く違う要素は齟齬を起こすが、その場所での可能性につながると考えた。

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定まらないから全く違う要素になるのであり、定まらないことに可能性を感じる。

"Possibilities that cannot be determined"

I decided to pay attention to the place where a discrepancy might occur when trying to connect with the previous architecture over time.

The previous architecture and the one that will appear in the future will be built in the same place, so they have similar characteristics but at the same time have completely different elements. A completely different element causes a discrepancy, but I thought it would lead to possibilities in that place.

Since it is not decided, it will be a completely different element, and I feel the possibility of not being decided.

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つなぐ役割

時を経て前の建築とつながることで魅力的な空間ができないかと考えている。現在これから魅力的な空間をつくろうとする時に前の建築とつながる必要は無いから、スクラップアンドビルドが普通に行われるが、それでは時間と記憶と愛着の断絶が起こってしまう。

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時間と記憶と愛着をつなぐのが建築の役割であって欲しいので、つなぐための手法をいろいろと考えている。

"The role of connecting"

I am wondering if it will be possible to create an attractive space by connecting with the previous architecture over time. Nowadays, when trying to create an attractive space, it is not necessary to connect with the previous architecture, so scrap and build is usually done, but that causes a break in time, memory and attachment.

I want architecture to play a role in connecting time, memory, and attachment, so I am thinking of various methods for connecting them.

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新たな意味の新たな空間

抽出するのは密度であり、抽出したものは単なる模様として意味を剥奪し、全く違った意味を付着させる。

時がズレており決して交わることが無かったプラン同士を重ねてみた時、そこにつながりを見つけるために重なりの密度に着目し、そこから俯瞰して模様として全体を見ることにした。

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模様として全体を俯瞰することは元々の意味を無いことにし、新たな意味で捉え直すことであり、その新たな意味が新たな空間を生むだろう。

"A new space with a new meaning"

It is the density that is extracted, and what is extracted deprives the meaning as a mere pattern and attaches a completely different meaning.

When I tried to stack plans that never intersected due to the time lag, I focused on the density of overlap in order to find a connection there, and decided to take a bird's-eye view of the whole as a pattern.

Taking a bird's-eye view of the whole as a pattern has no original meaning and is to be reconsidered in a new meaning, and that new meaning will create a new space.

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建ち方の傾向

現在の建築のプランと前回の建築のプランを重ねてみた。何度か増改築を繰り返しているので柱の位置が同じ所もあり、また重ねたことにより壁の密度の差がよりはっきりと出た。

壁の密度が高い所は細かく仕切られた空間が集まっており、密度が低い所は仕切られていない空間の集まりである。

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重ねることでより顕著になる壁の密度の差は、その場所での建ち方の傾向を表現している。

"Tendency of how to build"

I tried to overlap the current architectural plan and the previous architectural plan. Since the pillars have been expanded and remodeled several times, the pillars are in the same position, and the difference in the density of the walls became clearer due to the overlapping.

Where the wall density is high, the spaces that are finely divided are gathered, and where the density is low, the spaces that are not partitioned are gathered.

The difference in wall density, which becomes more noticeable when stacked, expresses the tendency of how to build at that location.

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断絶しない、つながりをつくる

現在の建築があり、そして、次の建築を用意する。そこに何か現在と次の建築の間につながりをつくりたいと考えた。

全く無いことにして次の建築を計画することが普通になっているが、それでは様々な断絶が繰り返し起こるだけであり、断絶は積み重ねたものを無にしてしまい、しかもその原因を建築がつくっていることになる。

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建築は人を内包する規模のものであるから影響力がある。だから、断絶しない、つながりをつくることが様々なことに良い影響を与えると考えている。

"Make a connection without breaking"

There is a current building, and the next one is ready. I wanted to make a connection there between the present and the next architecture.

It is common to plan the next building with nothing at all, but then various breaks will only occur repeatedly, and the breaks will eliminate the piled up things, and the cause will be created by the architecture. Will be there.

Architecture is influential because it is of a scale that embraces people. Therefore, I think that making connections without breaking has a positive effect on various things.

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規範が全てを絡め取る

建築において目には見えない規範のようなものは何かと考えてみると、モジュールやグリッドやスパンなどの一定の決まった尺度の繰り返しであったり、その土地固有のルール、例えば、敷地に対する建ち方や仕上げの素材などの環境からの影響や、建築に具体的にはわかりやすく現れてこないかもしれない慣習などがある。

さらに、それらの規範にはその元となる建築へのモラルや期待感なども含まれるかもしれないし、過去へ遡ってつながりを紡ぐことも必要かもしれない。

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何かひとつの規範を抽出したら、建築に関係する全ての事柄を絡め取るようなことができないかと考えている。

"The norm entwines everything"

Thinking about what kind of invisible norms in architecture are the repetition of certain fixed scales such as modules, grids and spans, and the land-specific rules, such as how to build on the site. There are environmental influences such as finishing materials, and customs that may not appear in architecture in an easy-to-understand manner.

In addition, those norms may include morals and expectations for the underlying architecture, and it may be necessary to go back in time and create connections.

I'm wondering if I could extract all the norms and get involved with all the things related to architecture.

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規範の抽出

永遠に残すことができるものは何かと考えていくと、経年劣化しないものであり、実体があるものというよりは概念や枠組みやルール、それを秩序と言い換えてもいいが、目には見えない規範のようなものをイメージした。

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建築に吸着している記憶や愛着は、建築自体が無くなれば消滅してしまうかもしれないが、建築が持っていた規範のようなものが抽出され残るならば、記憶や愛着も元々は目に見えないものだけに相性が良く、記憶や愛着のエッセンスだけ残り、また新たな肉付けが記憶や愛着にされるのではないかと考えた。

"Extraction of norms"

Thinking about what can be left forever, it does not deteriorate over time, and it can be rephrased as a concept, framework, rule, or order rather than a substance, but an invisible norm. I imagined something like.

The memories and attachments that are attached to the architecture may disappear if the architecture itself disappears, but if the norms that the architecture had are extracted and remain, the memories and attachments are originally visible. I thought that it would go well with only the invisible things, leaving only the essence of memory and attachment, and that new flesh would be made into memory and attachment.

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抽出して永遠に残す

記憶や愛着が吸着するモノは、よく見ていたモノか、よく触れていたモノであり、人の五感、特に視覚や触覚と結びついていたモノである。だから、建築には記憶や愛着が吸着しやすいかもしれない。

吸着した記憶や愛着は建築の形や空間や場面として残る。だから、建築の形や空間や場面がそのまま記憶や愛着となる。よって、建築の形や空間や場面をそのまま永遠に残すことができれば、記憶や愛着は途切れることが無いが、永遠に残すことなどはできない。

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ならば、永遠に残すことが可能なモノを建築の形や空間や場面の中から抽出して残せば良いのではないか。

"Extract and leave forever"

The things that memories and attachments adsorb are the things that you have often seen or touched, and the things that are associated with the five senses of human beings, especially the sense of sight and touch. Therefore, it may be easy for memories and attachments to stick to architecture.

The adsorbed memories and attachments remain as the shape, space, and scene of the architecture. Therefore, the shape, space, and scene of the architecture become memories and attachments as they are. Therefore, if the shape, space, and scene of architecture can be preserved forever, memories and attachments will not be interrupted, but they cannot be preserved forever.

Then, it would be better to extract and leave things that can be left forever from the shapes, spaces, and scenes of architecture.

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投影されたモノ探し

記憶や愛着などの自体が無いものを形にするには、記憶や愛着が投影されているモノを探し、そのモノをどのように扱えば記憶や愛着が前面に出てくるのか、表現できるのかを考える。

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記憶や愛着が投影されているモノは必ず時のサイクルを経ても残っているモノであり、ただそのままでは時のサイクルにより無くなるモノであり、投影されているモノを探し出したら、時のサイクルに流されないように変えてやる必要がある。

"Searching for projected objects"

In order to shape something that has no memory or attachment, look for a thing on which memory or attachment is projected, and how to handle that thing to express how the memory or attachment comes to the fore. think of.

Things on which memories and attachments are projected are always things that remain even after the cycle of time, but things that disappear by the cycle of time as they are, and if you find the thing that is projected, it will flow into the cycle of time. It is necessary to change it so that it will not be done.

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つなぐ、変換

今は見えない、かつてあったものに思いを馳せて、つながりを持ちたいと考えた時に何に注目し、そこから何を抽出すればいいのだろうか。

無くなる建築、建て替わる建築、それらは時のサイクルだとしたら仕方は無いが、それでも何かつながりを持てれば無くなった建築から未来に向けて何か残すことができるかもしれない。

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建築には記憶や愛着が宿る。記憶や愛着をつなぎたい。記憶や愛着はそれ自体実体が無い。自体が無いものを形にするには、何かに変換する必要がある。

"Connect, convert"

What should we focus on and extract from what we once had, which we can't see now, and when we want to make a connection?

It can't be helped if it's a cycle of time, architecture that disappears, architecture that rebuilds, but even so, if we have some connection, we may be able to leave something from the lost architecture to the future.

Architecture has memories and attachments. I want to connect my memories and attachments. Memories and attachments have no substance in themselves. In order to make something that doesn't exist, it needs to be converted into something.

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虚実の入り乱れ

実物を目の前にして、ただそれを見せるだけでデザインするのはつまらないと思った。どれだけ素晴らしいモノでも、どれだけ精緻に加工しても、そのまま痕跡を残すようなことをしたら、そのモノと対峙して内在している良さを引き出せたことにはならない。

そのモノの存在自体からデザインしたいと考えた。今見ている実像とは違う虚像をつくり出し、実像に内在しているそのモノだけでは納まり切らない関係性をデザインし、全く違うが関連性のあるコトをイメージさせたい。

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例えば、存在しているのかしていないのかというような状態をつくり出せれば、虚実が入り乱れ内在している関係性が浮かび上がるかもしれない。その時の虚実の入り乱れ方をデザインすることで、全く違うが関連性のあるコトのイメージをコントロールできるかもしれない。

"The mess of truth"

I thought it would be boring to design by just showing the real thing in front of me. No matter how wonderful a thing or how finely it is processed, if you do something that leaves a trace as it is, it does not mean that you can bring out the inherent goodness by confronting the thing.

I wanted to design from the existence of the thing itself. I want to create a virtual image that is different from the real image I'm looking at, design a relationship that isn't completely contained in the real image, and imagine something that is completely different but related.

For example, if we can create a state of existence or non-existence, the relationship between the truth and the immanence may emerge. By designing how the truth is mixed up at that time, it may be possible to control the image of things that are completely different but related.

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モノは虚像

見ることでしか実感ができないのであれば全てが虚像だと思った。触覚を除いた視覚でのみモノを把握しようとした時、モノは目を通した像が脳内で処理され認識するので、脳というフィルターを通している時点で実像とは違うものになっており虚像である。

そうすると、いつまで経っても視覚のみでは実像にたどり着くことはできない。人間に手足があるのは触覚により実像を把握するためともいえるかもしれない。

しかし、手足で触れることができるモノは限られる。

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だから、モノは視覚のみで把握されると限定した上で虚像としてのモノについて考察したりデザインをする方がモノの本質に迫ることができるような気がした。

"Things are virtual images"

If I could only feel it by looking at it, I thought it was a virtual image. When trying to grasp an object only by sight excluding the sense of touch, the image through the eye is processed and recognized in the brain, so when it is passed through a filter called the brain, it is different from the real image and it is a virtual image. be.

Then, it is impossible to reach the real image only by sight, no matter how long it passes. It may be said that humans have limbs because they can grasp the real image by touch.

However, the things that can be touched with limbs are limited.

Therefore, I felt that it would be possible to get closer to the essence of things by considering and designing things as virtual images after limiting things to things that can only be grasped visually.

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虚から実を生む

半透明の膜を通して見ることと直接見ることの違いについて、言い換えると虚と実について考えるきっかけがあり、虚をつくり出すことで実の存在を超えるようなものにしたいと思った。

虚は実との関係で成り立ち、実があるから虚が存在できるが、極端なことを言えば虚が実をつくり出すようなことができないかと考えている。

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例えば、虚が大枠や輪郭を定めることにより実が浮かび上がるようなことができないか。その場に虚と実が同時に存在している必要はないから、虚だけが見せることができる像から実がイメージできればいい。

"Bringing fruit from the emptiness"

There was an opportunity to think about the difference between seeing through a translucent film and seeing directly, in other words, imagination and reality, and I wanted to create something that goes beyond the existence of reality.

The emptiness is based on the relationship with the fruit, and since there is a fruit, the emptiness can exist, but to put it in the extreme, I wonder if the emptiness can create the fruit.

For example, is it possible for the imaginary to emerge by defining the outline and outline? It is not necessary for the imaginary and the real to exist at the same time, so it is only necessary to be able to imagine the real from the image that only the imaginary can show.

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輪郭を引き継ぐ

線材で文節される空間領域を持つ和風建築を引き継いでいく時に、時が経ち形が無くなったとしても線材による空間領域の輪郭は残せるのではないかと思った。

その場所における空間領域の輪郭はその場所固有のものであり、その場所においては時が積み重なった価値あるもので、別の言い方をすれば記憶や愛着の輪郭である。

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輪郭を引き継ぐことは建築ならば受け入れやすく実践しやすいことかもしれない。

"Take over the contour"

When taking over the Japanese-style architecture that has a space area that is sung by the wire, I thought that the outline of the space area by the wire could be left even if the shape disappeared over time.

The contours of the spatial area at that location are unique to that location, and at that location are valuable as time accumulates, in other words, the contours of memory and attachment.

Taking over the contours may be easy to accept and practice in architecture.

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和風の肝

和風建築をよく見ると緩やかに段階的な結界で領域をつくりながら空間が展開していく。その様は現代建築や西洋建築とも違う。

和風建築の空間はつながり連続していくが決して全てがオープンでは無い。節目があり、越えられない線が存在し、領域分けを覆い被せるように天井や屋根が架けられる。

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だから、いかに越えられない線を扱い、巧みに配置するかが和風建築のプランニングの肝であり、それは現代建築にいかすことができる。

"Japanese-style liver"

If you look closely at Japanese-style architecture, the space develops while creating areas with gentle stepwise barriers. That is different from modern architecture and Western architecture.

The spaces of Japanese-style architecture are connected and continuous, but not all are open. There are knots, there are lines that cannot be crossed, and ceilings and roofs are erected to cover the area division.

Therefore, how to handle the lines that cannot be crossed and arrange them skillfully is the key to planning Japanese-style architecture, which can be applied to modern architecture.

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開放的では無い和風

数寄屋建築のような和風建築で大広間があるものは障子や襖を開け放てば外部空間と一体的にシームレス につながる。その場合、大広間から外部空間までの間でいくつかの線材により区切られる。

線材とは例えば、敷居や鴨居であったり、框などの段差の見切りであったり、天井の仕上げの変わり目や見切り縁であったりする。

機能上必要だから線材を入れるのだが、見せ方として線に見せないこともできるはずであり、意図的に何かの意味を持たせるために線としているのだろう。線材が無ければよりシームレスに一体的に外部空間と大広間がつながる。しかし、和風建築はそこは意図しておらず、大広間から外部空間まで見通せるが外部空間は別の領域としたい。

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そこで、外部空間までの間にいくつか線材を入れて段階的に結界をつくっているのだろう。だから、和風建築は決して開放的では無い。

"Japanese style that is not open"

Japanese-style architecture such as Sukiya-zukuri, which has a large hall, can be seamlessly connected to the external space by opening the shoji and sliding doors. In that case, it is separated by several wires from the hall to the external space.

The wire rod may be, for example, a sill or a lintel, a parting line of a step such as a stile, or a transition or a parting edge of a ceiling finish.

I put in a wire because it is functionally necessary, but it should be possible not to show it as a line as a way of showing it, and it seems that it is intentionally made into a line to have some meaning. If there is no wire, the exterior space and the hall will be connected more seamlessly and integrally. However, Japanese-style architecture is not intended there, and although you can see from the hall to the exterior space, you want to make the exterior space a different area.

Therefore, it seems that some wires are inserted between the exterior space and the barrier is created step by step. Therefore, Japanese-style architecture is by no means open.

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現代と和風を比べる

現代建築と和風建築を続けて見る機会があり、見た目は全く違う建築だが、繊細さやクオリティの面では共にハイレベルなので、建築について考えるきっかけとなりとても面白ろく、両方共に内部と外部をつなげるような空間構成だが、共に線が目立つ建築だった。

現代建築の方は築20年近く経ち、完成当初から何度か見に行ったが、今回は端部や継ぎ目の線が気になった。劣化もあるだろうが、今つくろうとするとシームレスにでできることが当時の技術的限界でできなかったのだろうと感じた。

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和風建築の方はそもそも線材を多用し、線材によって領域を分割していく。故に線が目立つのだが、現代建築と比べることで線材が結界になっている感じがした。

"Compare modern and Japanese style"

I have the opportunity to see contemporary architecture and Japanese-style architecture in succession, and although they look completely different, they are both high-level in terms of delicacy and quality, so it is very interesting as an opportunity to think about architecture, and both are spaces that connect the inside and the outside. Although it was composed, both were buildings with conspicuous lines.

The modern architecture is almost 20 years old, and I went to see it several times from the beginning, but this time I was worried about the edges and seams. There may be some deterioration, but I felt that what I could do seamlessly when I tried to make it now was not possible due to the technical limitations of that time.

Japanese-style architecture uses a lot of wire rods in the first place, and the area is divided by the wire rods. Therefore, the lines stand out, but I felt that the wires were a barrier compared to modern architecture.

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歪みやノイズをいかす

全ての敷地のコンテクストには歪みやノイズが必ずあり、その歪みやノイズを均一にしてしまうような計画で建てること、すなわち、どこで建てても同じになる建築には魅力を全く感じない。

この場合の均一化は、均一に均すというより、均一な枠組みに無理矢理嵌め込むようなイメージであり、枠組みがあった方が管理しやすく、再現性があるから良いという理屈になり、それは効率化へつながる。

では歪みやノイズをいかしながら、管理の良さと再現性を求めてみたることはできるだろうかと考えみた時、中和が有効手段だと思った。一旦ニュートラルな状態にする中和は、一見均一化に似ているが、元々あるモノとのつながりを断絶せずに維持する点で相違がある。

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中和は歪みやノイズを一旦ニュートラルにするが、その過程では最大の歪みやノイズを発生し新しいモノを生むことができる。だから、効率化されたモノとは全く違うモノになる。

"Making use of distortion and noise"

There is always distortion and noise in the context of every site, and I am not attracted to building with a plan that evens out the distortion and noise, that is, the same architecture no matter where it is built.

Uniformization in this case is more like forcibly fitting into a uniform framework rather than evening it evenly, and it is the theory that it is better to have a framework because it is easier to manage and reproducible, which is efficiency. It leads to reproducibility.

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