厚みがあるなし

何でもかんでも平面的に捉えてしまう。昔、村上隆がスーパーフラットということをいっていたけれど、東山魁夷の絵が好きで、一番最初に絵を見て感化されたのはウォーホールのキャンベルスープなので、陰影がなく、空気遠近法でもなく、画面という二次元に三次元を描くためになるべく平面的にしようという、変化球を投げようとしたら、結局直球になり、ただ、その直球が何ともいえないシンプルな味があるような、ややこしい捻くれ者の表現が心にささる。

だから、建築という三次元の代表のような存在を表現する時にも、平面的に、フラットに、イメージでは陰影がなく、その場面場面は建築をスライスした断面という二次元を見ているような感じです。

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だから、そこにいる人も厚みがなくペラペラでひらひらした存在、人間とはそういうもので、人間は社会の中で存在する人なので、その社会の在り方によって人はどのようにも人間として変わるし、変われる、人間には厚みは必要ではないかもしれない。

そのような見方だから、柔軟に人間としてウィズコロナに合わせ、ひらひらと変わればいいし、後で振り返ったら、今のこのややこしい時があったから、人として厚みが増したと思いたい。

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物中心より人間中心

設計とは、何でもありな多様性に枠をはめて限定的な多様性にする行為だとしたが、その枠のはめ方を人間中心に考えたいと思います。

人間中心以外では、素材や形といった物中心に考えたり、暑い寒いなどの温熱環境から派生して、また別の物中心の考えがあったりなどしますが、人間が使い、人間との関係性があるから建築として成立しているのであり、人間とは関係が無いところで成立していれば、それは単なる工作物であり、建築とは明確に違います。

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だから、設計として建築を取り扱う以上、人間中心に考えるのが自然であり、そうすると、予算も物中心の範疇に入りますので、物の良し悪しとは関係が無いところで、建築の良し悪しを考えることができるようになります。

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何でもありに枠をはめる

全体としてのひとつの意味づけではなくて、たくさんの意味づけが存在しており、そのどこを取り入れるかは人によって違い、その取り入れ方によってその都度意味が変わり、見え方も変わる、そのような建築をつくりたいといつも思う。

ひとつの意味で成り立つものはどこかで無理矢理その意味に合わせていて、そうすることにより存在意義を見出しているのかもしれないが、それは何とも不自然であり、別の見方や別の人が見れば、いろいろな意味がつけられる。それを簡単に言えば、多様性があるということだけれど、単なる多様性では何でもありであり、それは何でもありの建築になり、何でもありならば、あえて設計者はいらなくなる。

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設計とは、何でもありな多様性に枠をはめて限定的な多様性にする行為であり、その枠のはめ方がデザインであり、デザイナーの姿勢が表れるところだろう。

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小さいから第一印象で決まる

本当に小さい商業施設に対して、その大きさに対する認識を建築デザインと結びつけて考えることは有効だとしたが、その大きさ故に、小さいから全てを一望でき、そうすると、本来ならば、ひとつひとつ、それは無意識に、これは何、これは何と意味を確認しながら、その存在を段々と認識していくところを、瞬時に確認と認識のズレもほとんど無く、意味づけをしてしまうことになる。

この意味づけを印象とか、イメージという言葉で置き換えるならば、その大きさ故に、第一印象を瞬時に決められてしまう。

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人も同じだが、第一印象で8割ぐらいは成否は決まるかもしれないので、商業施設で、しかも小さい建築ならば、尚更、その大きさをデザイン要素として活かしコントロールしなければならないだろう。

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計画案の問いとしての大きさ

いま、本当に小さい商業施設の計画案を考えている。一般的な家より小さく、屋台や移動販売車や露店よりは大きいくらいのスケールです。

普段、建築を用途で振り分けているところがあり、ここは家、ここは飲食店、ここはスーパー、ここはコンビニ、ここは病院、ここは、などのように、そして、勝手に大きさもこのくらいだと決めつけていて、だから、あの家は大きい、この飲食店は広い、このコンビニは狭い、などと思ったりする。

用途と大きさは結びついていて、違和感なく人に認識され伝わるための用途に対する大きさがあるような気がします。そうすると、明らかに、今計画中の商業施設はその違和感なく人に認識され伝わる大きさから外れている。

その大きさの認識に対してどうするか、それを建築のデザインとしてどのように考えるか、どのような建築のデザインに結びつけるかは、十二分にこの計画案の主題として成り立つ問いだろう。

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変わらないアナログさ

3年に1度の一級建築士の定期講習の日、新型コロナで3回延期になり、今年度中に受講すればいいのですが、またいつ第2波の新型コロナで受講できなくなるかもしれないから、早めに、できるうちに、朝から5コマのビデオ講義と効果測定のための修了考査と1日がかりでした。

一応、修了考査に合格しないと、また定期講習を受講し直しで、今年度中に定期講習を修了しないと、修了するまで設計できなくなるのですが、たぶん修了考査で不合格になるような人はいないくらいの問題の難易度であり、ビデオ講義で使用するテキストを見て解答してもよいので、全く何も問題なく合格でき、それは全然大したことでは無いのですが、ただ、いつも思うのは、いつまでマークシート方式で解答するのだろうかということ。

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マークシート方式の○✖️問題を解くのも3年に一度、この定期講習の時だけで、3年ぶりに○か✖️かを考える問題をやり、それは単なる間違い探しをしているだけで、そして、出た○か✖️かの解答をマークシートに塗り絵していく。

こういう定期講習の場合、間違い探しをする問題になるのは仕方が無いとしても、このマークシートの塗り絵をしている時にいつも思います、この時間が勿体ないな、塗り絵をしている時間で他の問題がいくつも解答できるし、学生の時にはマークシート方式がありましたから、いつまで経っても進歩しないというか、パソコンもスマホも無い時代からあるマークシート方式を今だに採用しているのは不思議だし、なんかとてもアナログだなと、アナログ好きには貴重な時間でしたが、塗り絵はなんとか別の、デジタルな方式に、その方が受ける方も管理する方も楽で時間の無駄もなく良いと思うのですが、何かマークシート方式で行う理由があるのでしょう。

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際の敷地に慣れ以上の何かがあるか

線路際の敷地での設計や工事の経験は何度もあります。一番最初は前に在籍していた設計事務所ではじめて担当した集合住宅の設計で、敷地が東海道新幹線を見下ろす場所だったので、事前協議の書類を提出するためにJR東海の大井車両基地へ何度か行って、止まっているたくさんの新幹線車両を間近で見たりもしました。

他の鉄道会社でも、設計段階で事前協議をし、別にそれは大変なことではないですが、一番気を使うのは施工段階の実際に工事をする時であり、設計事務所にいた時はゼネコン任せでよかったですが、自社で設計施工をするようになると、もし万が一何か事故があれば大変なことになるかもしれないという心配がいつもありました。

ただ、実際に工事がはじまれば、心配は最初の方だけで、きちんと安全対策を取るのだから問題は無いので、段々と慣れてきて気にもならなくなり、むしろ間近で電車が見られることを楽しんだりもしていました。

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そうやって余裕ができると、いつもふと思うことがあります。すごく近くを電車が通り、時には車両の中の乗客と目が合ったりして、実際の距離がとても近くても、お互いのいる場所は全く違う空間であり、その空間同士は断絶しているから、お互いに近かろうが、目が合おうが、全く気にならない、この関係性をうまく同一の建築の中におさめることができたならば、高い公共性やプライバシーが要求される建築での有効な空間構成が発見できるのではないだろうか。

実際にずーっと線路際の土地に住んでいる人にとっては、近くを電車が通っていても、気にしないどころか、無いも同然なので、それはただ単に慣れ以上の何かがあるとして考えてみるのがいいかもしれない。

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意識してしまう建築、それは精度

毎日毎日、建築ばかり見ている、それは誰でも同じで、街を歩けば誰でも建築を見ます、どこにでも、そこらじゅうに建築は建っているから、でも後で振り返った時に、例えば、1日を振り返ってみて、覚えている建築はいくつあるだろうか、いや、いくつどころじゃなくて、ほとんど覚えていないだろう。建築をやっている私でさえ、ほとんど覚えていない、覚えているのは利用した建築ぐらいで、見てはいるけれど覚えていない。

ほとんどの人が目の前を通り過ぎる建築を覚えていない、見ていない、それはそこに建築が存在していないのと同じです。その証拠に、今まであった建築がある日突然取り壊されて無くなってはじめて、そこに今まであった建築のことを気にするが、ほとんどの場合、そこにどのような建築が建っていたかを思い出すことができない。それは意識の上でそこに建築が存在していなかったからです。

だけど、いちいち見た建築を全部覚えていたら、頭の記憶容量がパンクしてしまうから、そのくらいでいいのだろうけど、それでも覚えている建築もある訳だから、その差はどこにあるのだろうか、気になるところです。

電車の車内から窓越しに外を見ていると、流れるように風景が通り過ぎていきますが、その中でも、特に意識せずにいても、パッと目に止まる建築があります。他とは何かが違うから目に止まる訳ですが、大概そういう時は建築家の作品である場合が多いです。

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それは私がそういう建築を求めているからというのも当然ありますが、ずーっと同じトーンで流れているのが突然乱れるような、ノイズのような、別の言い方をすれば、引っ掛かりがあり、そのせいで突然意識上に現れてくるようです。

その引っ掛かりが何か、私がいつも考えるのは「精度」であり、明らかに他より精度が高い、それはデザインの精度であり、そして、つくりの精度です。逆に言うと、他が粗く、雑に見えてしまうのです。

だから、建築を意識させるために必要なことのひとつとして「精度」は必ず入ってくると考えています。

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変形地は宝探し

変形地の建築計画を考えるのは何故だかわからないですが、宝探しをしているような楽しさがあります。

高架の用地買収の結果できた細長い変形地は、まさに切り取った後に残った余白のような土地であり、また、違う見方をすれば、元の状態の断片であるともいえる。

きっとそのような余白であり、断片である土地があちらこちらに出現しているだろう。今は空き地だが、それが段々と埋まり、何かが立ち現れた時に、これらの余白で断片な土地はどのように扱われているのだろうか。

細長い変形地であるから、利用の仕方は限られるかもしれない。実際に今計画中の土地も、前は駐車場とする計画だった。いやむしろ、駐車場として利用できるような土地の残し方をしたのかもしれない。

このような事例はきっとよくあることだろう、それ故に、これから建つかもしれない建築が何かのヒントになったり、何かを誘導するような役割に、その何かは景色の中でその建築がそこに存在することで獲得できるたくさんの人にとって良いこと、それがお宝であり、それを探り当てることが目標であり、それをこの建築計画における環境面の課題として考えています。

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斜めを入れてみると

斜めが気になりながら、どうしてだろうと頭の片隅に残しながら、はじめて能楽を鑑賞してました。

いつもお世話になっている先生が能のシテを演じる機会にお声を掛けていただき、シテとは主役のことだとはじめて知りましたが、このようなキッカケでもなければ能楽を鑑賞することなど無いかもしれないと思い、予備知識もそこそこに宝生能楽堂へ。

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非対称の客席にどこに座ろうかと迷いながら、能舞台正面に対して左斜め45度の後ろの方の席に、そこが客席も含めて全体を見渡せるかと思い、とにかくはじめてなので、舞台上だけでなく、お客の反応も見られるところが良いだろうと思いながら、その後は2回客席を移動して、舞台正面、舞台側面と座ってみました。

演者出入口と能舞台をつなぐ導入路を「橋掛り(はしかがり)」というそうで、能楽堂によりその長さは違っていても能舞台に対しては斜めに取り付いていて、何故か、どうしても建築的に見てしまうのか、それがどうして斜めなのかが気になった。

後で先生にお伺いしたら、遠近感がわかるためだと教えていただき、それが日本的、東洋的で面白く、斜めを入れることにより遠近感を出そうとするのが、西洋絵画に比べて平面的な日本画や水墨画、襖絵、屏風絵、浮世絵などの特徴と同じだと思い、それらは決して西洋絵画のように写実的ではないけれど、絵画を幾何学的に扱い、斜めの線で遠近感を実際より誇張し、写実的な西洋絵画より、より絵画的で、むしろデザインされた図案のような印象を与えてくれる。

さらに能楽はそこに実際の人の動きが加味されるので、隠れた斜めの線もあり、より幾何学な動く図案として立ち現れるような気がして、ただ、それは後から気がついたので、また機会があれば、今度はそこを意識して見てみたいと思います。

それにしても、つい建築と関連づけて考えてしまいますが、もしかしたら「斜め」を入れることを、それは過去の建築を思い返してもたくさんあるのですが、今後はまた違った見方で考えることになるような気がします。

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そこで存在する形にする

これから景色が変わる土地にできた細長い小さな変形地、三面が道路に接する、線路際、これから高架になる、たぶん、全く雰囲気が変わるだろう。

そこに予想される建築は本当に小さい、小さな飲食兼料理教室で平屋、それだけに建築全体の形がわかりやすい。周辺の環境が変化していく中で、この小さな建築は変化に流されず、その変化を利用して、存在感を出さなくてはならない。住宅ならば、その変化に対応して住環境を整える必要があるが、飲食店ならば、まずここにお店らしきものがある形をしていないと、誰の関心も引かない。

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派手で目立つのではなく、周りは住宅だから、住宅のスケール感は去就しつつ、飲食店としての外しやズレを挿入しようと考えている。

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建築の塩梅

外観が基壇、中段、頂部の構成の場合、古典的なイメージになり、モダニズム建築は頂部を無くすことにより、新しい建築の見え方をつくろとした。それはモダニズムの考え方を伝えようとする時の手段として、建築の見え方を選択したのであり、新しさや考えを理解してもらうためには視覚に訴える、見え方を変えることがわかりやすい。

そして、その変え方も極端ではかえってわからなくなる。モダニズムの場合も、外観の構成を扱うということは同じであり、その中で変える、ちょっと変えることにより、変わったことがわかる、この変わったことがわかることが重要で、「あの建築は何か違う」と思わせないと。

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わかりやすくもあり、同時にちょっと変わったわかりにくい部分がちょっぴり存在するような建築がいい、それが建築をつくる時の塩梅としてちょうどいい。

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外観の構成によるイメージの違い

基壇、中段、頂部という分け方をする。建築を外から見た時に、基壇と呼ばれる基礎部分があり、頂部と呼ばれる屋根や飾りがあり、その基壇と頂部の間を中段とする。洋の東西を問わず、日本の寺院建築、ギリシャの神殿もこの基壇、中段、頂部の構成になっていて、建築の外観の構成の基本として古来よりあります。

だから、外観が基壇、中段、頂部の構成になっているのがハッキリとわかる場合、その建築は古典的なイメージを纏うことになります。

なので、モダニズム建築は前時代からのこの基本の外観の構成を去就せず、頂部を無くか、より目立たなくして、基壇と中段だけの構成を取ることによって、古典的なイメージから脱却し、新しい建築の見え方をつくろとし、それは今でも引き継がれています。

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建築を外観の構成で見ていくと、基壇、中段、頂部の構成になっているか、頂部があるのか無いのかと、外観のイメージとの相関関係が面白いです。

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服を着こなすように、らしさを形にする

らしさを形にする、その時の外すズラし方の指南は「人に受け入れやすくするために行う」とした。きっとそれは着こなしのようなことかと思います。

どんなに素晴らしい服でも、自分のサイズに合っていなければ、その服は似合わないし、おかしい。さらに、サイズが合っていたとしても、その服をただ着るだけならば、皆同じになってしまう。その服をどう着るのか、どうアレンジするのか、それがその服を着る人固有のものになり、そこに独創性が生まれる。

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だから、まず精度高く、素晴らしい服を用意し、それを着こなす時に、外しズラし、らしさを独創的に発揮する。それがらしさを形にすることです。

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らしさを形にすることは独創

らしさを形にする時、どこにでもあるような、特徴のない形になってしまうことは避けたい。たぶん、らしさを形にする時、そこが一番抵抗を感じるところだと思います。誰も見たことが無いものをつくりたい、新しいものをつくりたいと考える。その考え自体は良いと思います、そうでないと新しいものは生まれないから。

ただしかし、新しいかどうか、誰も見たことが無いかどうかは誰が判断して、誰のためになるのでしょうか。新しくて、誰も見たことが無いものをつくるのは案外簡単なのです。人に受け入れられることを考えなくても良ければ、誰でもできる。

らしさを形にする最大の目的は、人に受け入れられやすくするためです。独創とは、人の上に成り立ち、尚且つ、滅私したところに存在すると思うのです。滅私、すなわち、それはらしさを纏うこと、その上で、誰にもできないものをつくり出す、精度を高めて、外しズラして。

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だから、外すズラし方の指南は「人に受け入れやすくするために行う」です。それだけでイメージが湧いてくるはず、難解に見せる、面白く見せるためでは無くて、外しズラした方がより人が良いと思い受け入れる、そして、それが独創になる。この場合の人は、特定の個人、クライアントでもいいですし、不特定多数の人、社会に生きる全ての人でもいい、用途により、それは違うでしょう。

らしさを形にすることが、実は独創につながる、これを理解できている人は案外少ないかもしれないです。

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らしさを形にする手法

らしさを形にする時、どこにでもあるような、特徴のない形になってしまう可能性があり、だから、同時にその形が特徴にもなることを考えなくてはならない。

これは建築だけのことではなくて、デザイン全般、あるいは、ものづくり全般に、料理にもいえることだと思います。

そのための手法は2つあると考えていて、ひとつは外すズラす、もうひとつは精度を上げる。

外すズラすは、そこにほんの少しの違和感を挿入することです。「らしさ」はそのものではなく、どこにでもあるような特徴のない形はそのものか、そのものを真似た形であり、そこに僅かな、本当に少しの変化や、異物や、異形などを施すことにより、らしいもの、「らしさ」を纏ったものにする。

もっと付け加えますと、その外しズラした部分が見る者の意識に引っ掛かりを与え、見る者の想像力を掻き立てるので、より印象に残りやすい。

もうひとつの精度を上げるは、簡単にいうとクオリティを上げることです。形は同じでも、精度が高いだけで特徴になります。「らしさ」を追求した結果、どこにでもあるような特徴のない形になったとしても、そこから細部にわたって形のつくりの精度を上げていけば、その形の完成度が高くなり、結果的にそれが特徴になります。

ただ、精度を上げるためには、高い意識と高度な技術が必要になり、それだけに誰にでもできることではなくて、だから、特徴になります。

反対に、外すズラすは、高度な技術が無くてもできます。なぜならば、外すズラすは、精度を落とす行為と同じことをするからで、それだけに誰にでもできることですが、今度は外し方、ズラし方が重要になってきて、そこが直接特徴になる訳ですから、外すズラすための高い能力が要求されます。

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どちらの手法でも特徴ある「らしさ」を形にしたものをつくることはできるので、あとはどちらを選択するかですが、できれば、精度高く外しズラした形をつくりたいと考えています。

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らしさを形にする時は注意

らしさを形で出そうと考えています。素材もあると思いますが、瞬時の印象で一番残るのは形だろうと思います。

本当に小さな建築になる、だから、外形を一目で把握できてしまう。その形に好き嫌いの感情が伴うこともあるでしょう。全く好き嫌いの感情を外して成り立つことは考えにくいので、好き嫌いを超えた形をつくりたいと考えています。

好き嫌いを超越するには、やはり「らしさ」が必要になるのではないでしょうか。誰もが連想できる形、それが「らしさ」だとしたら、「らしさ」があれば、好き嫌いの感情がそもそも起きにくいのではないかと思います。

「らしさ」を別の言い方をすれば「馴染みやすさ」になるかもしれません。それが安心感を呼び、その安心感がその形を受け入れやすくする。ただそうなると、案外、どこにでもあるような、特徴のない形になってしまう可能性もあります。それが「らしさ」を形にする時に注意をしなくてはいけないところでしょう。

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だから、「らしさ」を形にしながら、それが特徴にもなることを同時に考えなくてはなりません。

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らしさを纏う建築

線路際、よく見える場所、線路に沿って細長い変形地、そこで平屋、飲食兼料理教室を行う小さな建築を考えている。

お話をいただいて、実際に行うかどうかもまだわからない、影も形もない現状で、現地を見て、これは面白そうな仕事になる予感がして「是非」と思い、それから「らしさ」をずっと考えていた。

敷地の形や大きさと、平屋との希望から、本当に小さな建築になる予定で、そうなると、必然的に建築全体を一目で判断することとなり、それで建築としての印象が、イメージが決まってしまう。要するに、建築のデザインが印象と直結するのである。

だから「らしさ」が必要かというところから考えて、使い古された言葉だが、アイコンのような、その建築を見ただけで、飲食店のような、料理教室のような「らしさ」を醸し出している方がよいのかどうなのか。

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むしろ「らしさ」を外すのは簡単なので、何々に見えないようにするのは案外簡単なので、「らしさ」を醸し出すデザインを、それも建築のデザインとして成り立つものを、そちらの方が遥かに難しいので、「らしさ」を醸し出し纏う建築を考えている。

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拾い集めるだけても

あとここが良くなればいいのに、あとここがこうなっていれば手に入れようと思うのに、ということがよくある。そういう時は大抵、自分の中でははっきりとはしていないが、なんとなくこういう物が欲しいことはわかっていて、でも具体的なイメージをまだ考えていない。

違和感を感じている状態ともいえるが、そこからよく考えると、あとここがという部分になかなか答えが見つからない、それはわかっていないからか、知識がないからか、技術がないから。

それと、その違和感は同時に、普通すぎて、よく見かけるし、ありきたりで、つまらないから、何とかした方がもっと良くなるという想いも伴う。

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だから、あとここが良くなればいいのに、あとここがこうなっていれば、という想いをたくさん拾い集めるだけでも、コロナで家にいてはできない体験だなと思っていた。

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らしさと精度

人は「らしさ」を無意識のうちに求めている。

家らしさ、建築家らしさ、飲食店らしさ、などなど、究極は人間らしさか、「らしさ」を求めているというよりは、「らしさ」があるとわかりやすいから、人はわかりやすいものに惹かれるのだろう。

「らしさ」は厄介だなと思う。無視はできないし、でも無視したいし、らしいものをつくるより、らしくないものをつくりたくなる。誰も見たことがないものをつくりたくなる。

世の中で一番多いのは、斬新だけど売れないものらしい。だから、売れないと困るから「らしさ」が気になる。

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精度高く、クオリティ高く、「らしく」なく、誰も見たことがないものをつくったら、どうなるのだろうか。それが斬新だけど売れないものなのだろうか。精度が高ければ、売れると思うのだが、精度が高いものは誰でもつくれるものではないから。

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らしさは必然か

らしさは建築には必要なのか、物全般にいえることかもしれないが、「らしさ」がないと人はどうしていいのかがわからないのかもしれない。

建築以外だと「らしさ」から人は使い方を推測するので、「らしさ」は残しつつ、余計な物は削ぎ落として、シンプルに機能性重視のデザインでつくるか、もしくは「らしさ」にデコレーションして、「らしさ」に付加価値をつけるか。

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付加価値をつける場合は気をつけないと、やり過ぎると「らしさ」が消えて何だかわからなくなる。それがアート作品であれば、それはそれでいいのだが、使い道や用途があるならば、道具としての、物としての「らしさ」が無くなると価値も無くなる。そのことがわからずに、よく勘違いしている物を見かける。

使い道や用途がはっきりしているならば、やはり「らしさ」は必要なのかもしれない。ならば、建築にも当然「らしさ」は必要になるはずだが、なぜか同意しつつ違和感がある。

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らしさはデザインか

「らしさ」はデザインの範疇なのかと考えた。家らしさ、飲食店らしさ、工場らしさ、遠くから見て、その外形や外観でその建築が何の用途なのかがわかることは大事なのかとも考えた。

「形態は機能に従う」ではないが、その建築が何のためにそこに存在しているのかを外観が一目で教えてくれることはよくあるし、そういう外観の判断を実際の手掛かりによくする。

駅らしさ、交番らしくさ、病院らしさ、学校らしさ、こうやって「らしさ」を並べていくと、言葉では上手く言い表せなくても、何となく「らしさ」の違いを感じることはできるだろう。そういう感じの違いを頼りに目的地を探し当てたりしている。

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設計する時に意識して「らしさ」を演出することは、そうはないとは思うが、結果的に「らしさ」の範疇に落ち着くことが多いのは、建築計画学における建築の用途の違いが結果的に「らしさ」の演出になっているからだろう。だから、「らしさ」を意識しなくても、自然と「らしさ」の範疇におさまることになる。

建築以外のデザインの世界では「らしさ」やシズル感が重要視されているが、デジタル化に伴い、その「らしさ」やシズル感の演出に苦労している。それはデジタル化によって「形態は機能に従う」ではなくなってきたからで、形態は単なる「装飾」として存在するだけで、機能は形態を必要としなくなったから。

そして、「装飾としての形態」はユーザーとの関係構築のためだけにつくられる。要するに、「らしさ」という装飾で物と人をつなげるだけが形態の役目で、はじめの第一印象を決める役目を形態が担う。ということは、やはり「らしさ」はデザインの範疇になるのだろう。

では、建築にとって「らしさ」は大事なのか、そもそも必要なのか、それはまた次回、ここに書きます。あと、「らしさ」には使用との関連もあります。

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自分でつくるとは精度による

自分でつくる、といっても、自分でつくるわけではなくて、人につくってもらう。自分で構想して、人につくってもらっても、自分でつくるという。つくる、ということに対して、自分の手を実際に動かすかどうかはあまり関係がないと思っている。

だから、自作といっても、構想はするけれど、実際に手を動かしてつくるのは専門の職人かプロに任せる。趣味程度でよければ、自分の手を実際に動かしてつくるが、それでは、出来上がったものに、その精度に満足できないのがわかっているから、自分では手を出さないし、そもそも趣味程度のものをつくるために構想はしない。

今までに建築において、実際に自分の手を動かして自作したことは何度かある。その時は予算が無かったのと、ちょっとやってみようかなという気持ちになったからで、ただ、精度を求めてつくり方を考えたが、やはり、その道の専門の職人では無いので、引き出しが無いというか、自分ができる範疇でしか考えられないので、出来上がったものは、それはそれで良いのだが、何かもの足りなかった。

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ただ、精度を求めなければ、つくること自体は楽しいので、上手に楽しさと精度のバランスが取れるならば、自分の手を実際に動かしてつくりたい。しかし、常に出来上がりの精度が気になるし、その精度も求めているデザインの範疇だから、高い精度でないと満足できない。

自分の手を実際に動かしてつくることは、精度の曖昧さがデザインの特徴になる場合でしか成り立たないのかもしれない。

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木目を装飾として扱う

木の仕上げが施された空間にいると、他の仕上げ、例えば、コンクリート打放しの空間にいるより、癒されたり、落ち着いたりするのだろうか。

よく木をたくさん室内の仕上げに使うことを特徴とする住宅や商品化住宅がある。木をたくさん使う目的は、癒しであったり、木が自然を象徴し、自然を取り入れているというイメージの良さがあったり、また、それを望んでいる人も多いからだろう。

ただ、別の見方をして、木の表面の木目だけを取り出して考えてみることもできる。木目という装飾であり、木目という記号であり、無垢の木とは別もので、表面の木目だけを独立して考えてみる見方である。そうなれば、木もクロスやペンキや金属などの表面の仕上げの種類のひとつでしかなく、木の仕上げに特別な意味がなくなる。

装飾とは外の世界との調整をはかるためのものであり、装飾をして、自分の立ち位置を明確にするというお約束がある一種の記号のようなものでもある。

だから、クロスでもない、ペンキでもない、金属でもない、木目という装飾を施すことを選択する時点で、外の世界との調整がはじまり、立ち位置がはっきりしてくる。その調整や立ち位置の取り方を別の言い方で表現すればデザインになる。

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その木目のデザインの範疇には、当然、癒しや落ち着きなどの感情も含まれるだろうが、そこで止まってしまっては木目の持つデザインの可能性を活かし切れていないと考えており、木目を装飾として意識して、何かとそれを取り巻く世界や環境との折り合いをつけるために、選択肢のひとつとして木目を利用する。そうしてはじめて、木が癒しや落ち着きなどの感情を与えるだけのものから離れて、素材として、もっと自由に、もっと創造性豊かに扱えるようになる。

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光の造形で自然を感じる

建築ならば、建築で自然の中にいる心地よさや気持ちよさを表現する、それは決して自然を再現することではなくて、建築のデザインとして表現する。

フィンランドの建築家、20世紀の巨匠、アアルトの話を出した。造形、素材、光でフィンランドの自然を建築として表現し、心地よさや気持ちよさを体験させてくれる。

ここまで、素材と造形について書いた。それは素材や造形を通して建築と自然の関係性をまず書いた方がわかりやすいと考えたからで、光はそのものが自然であり、太陽の光は一様にどこにでも降り注ぐから、フィンランドの自然という地域性を出すことはできないと考えてしまう。

ところが、アアルトの自然を表現するデザイン要素として光を出した。アアルトは光も造形の一種、目に見える形を光に与えていた。だから、光は造形の下位属性になるかもしれないが、その造形としての光の扱い方がアアルトの建築の特徴だったので、造形と同等にした。

光を造形として扱う具体的な手法は、窓と呼ぶ開口部に造形を与えることだった。開口部は光の取り入れ口だから、そこが造形的になれば光を造形として表現できる、唯一光に形を与えることができる建築の部位は窓と呼ばれる開口部だけかもしれない。

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冬のフィンランドは雪に閉ざされ、太陽が見えない日が続き、直接光が室内に差し込まない状況では光を感じることもできない。そこで、きっとアアルトは光を造形的に扱い、光に形を与えることにより、冬のフィンランドで光という自然を象徴的に表現したのだろう。

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際立つ造形が自然を想起させる

建築ならば、建築で自然の中にいる心地よさや気持ちよさを表現する、それは決して自然を再現することではなくて、建築のデザインとして表現する。

アアルトの造形は決して自然の形ではないが、自然を想起させる形をしている。結局、人は目から入る自然の景色を自分が判断できるものに還元して認識している。

なので、自然そのものの形もそこに規則性を探し出して見ようとし、アアルトはその規則性を抽出して造形しているような気がする、だから、自然を想起させるのだろう。

アアルトの建築をスケッチすると、アアルトの建築に使われている丸味は結構きつい、丸味が強く、自然の丸味を誇張しているような気がする。それはデザインをする上で意図的に丸味を強調しているのかと考えることもできるが、そうではなくて、より強い丸味は余韻みたいなものを残し、それが伝播していき、自然を想起させることになる。

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それは丸味だけでなく、アアルトの建築に関する造形の全てにいえることで、自然を想起させるために、より人工的に形を際立たせることをしている。

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素材で自然を表現する

建築ならば、建築で自然の中にいる心地よさや気持ちよさを表現する、それは決して自然を再現することではなくて、建築のデザインとして表現する。

フィンランドの建築家、20世紀の巨匠、アアルトの話を出した。造形、素材、光でフィンランドの自然を建築として表現し、心地よさや気持ちよさを体験させてくれる、ただ、それはフィンランドでの自然であり、フィンランドでの心地よさや気持ちよさだと思い、そこから学び、日本では日本なりの自然を建築に取り込み、心地よさや気持ちよさを表現する仕方があると考えている。

やはり、建築のデザインには地方性を取り込みたい、その地方性が日本で建築をつくることの意味につながる。

アアルトの素材は、フィンランドで手に入る自然素材を使うのが前提だった。それは時代背景もあり、第二次大戦後、フィンランドはソビエトに賠償をする立場にあり、国として貧困になり、産業らしい産業もなく、使える素材は粗悪な木材しかなく、ならばそれをデザインで生かすことをやりはじめた。

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だから、その素材をデザインに利用した建築や家具などは、それを使うだけでフィンランドの森や湖をイメージできたし、それが心地よさや気持ちよさのデザインの源になった。

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人工の建築で自然の中にいるような

この季節、梅雨の晴れ間の適度な湿気がある風が心地よくて、緑の中を散歩したくなります。現場からの帰りに井の頭公園の水辺を歩くと、ほんとうに気持ちがいい。誰もがベンチでくつろぎ、思い思いに過ごしている。

こういう心地よさや気持ちよさを建築でどうやって表現するか、実現するか、そのままの緑や水辺をつくることができれば一番よいのかもしれないですが、敷地が狭かったり、そもそも庭がつくれないとどうしようもない。

建築家のアアルトはフィンランドの豊かな自然を造形、素材、光で建築の中に表現した。自然の中にいるような心地よさや気持ちよさを人工の建築で実現しようとすれば、自然をそのまま再現しても、それはどこまでいってもギミックであり、人の深層心理である心地よさや気持ちよさはそのような作為を見抜き拒絶反応を起こす。

ならば、人工である建築で自然の中いるような心地よさや気持ちよさを実現するには、それにふさわしいデザインが必要になる。そのデザイン要素がアアルトの場合、造形、素材、光だった。

では、造形、素材、光とは何なのか、それはまた次回、心地よさや気持ちよさを表現する建築デザインの話として、ここに書きます。

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住めば都は違和感を感じない

何かの問題や課題があり、それに対して建築のデザインで回答していく、これが建築の設計の本質だと考えています。もちろん、無理矢理に問題や課題をつくり出す必要はないですが、必ずといっていい程、問題や課題が存在するものです。

そして、家であれば、その問題や課題は、そこに住む人特有の問題や課題である場合が多い。だから、その問題や課題を建築のデザインで解決していけば、自然とそこに住む人にとって最適な建築のデザインが生まれ、住んでいて気持ちいい家になる。

だから、家に無理矢理、自分を合わせなくてもよくなる。案外、自分を合わせて住んでいて、それは慣れてくると違和感を感じなくなり、「住めば都」となるかもしれないけれど、スーツで例えたら、オーダーメイドのスーツの着心地の良さにはかなわないでしょう。

それに「住めば都」状態におちいると違和感を感じないから、課題や問題にも自分では気づかなくなる。設計のプロセスで問題や課題を意識してみるだけでも、今後の日常や暮らしを考える上で価値のあることだと思います。

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お互いに気になる気にならない

何かの問題や課題があり、それに対して建築のデザインで回答していく、これが建築の設計の本質だと考えています。もちろん、無理矢理に問題や課題をつくり出す必要はないですが、必ずといっていい程、問題や課題が存在するものです。

まず周辺環境に対する問題や課題が出てくることが多いです。どのような場所に建てようとしているのか、例えば、住宅街の中に家を建てようするとプライバシーの確保が課題になることもあります。

プライバシーの確保は他人の視線が気になるもので、ところが、他人が自分とは違う状態や行動をしていたら、案外間近にいても気にならないものです。そのいい例が通りに面したオープンカフェ。カフェでお茶をしている姿は通りから丸見えでも、通りを歩いている人とカフェでお茶をしている人は全く違う行動をしているので、お互いに気にならない。

ところが、住宅街ではお隣り同士が私生活をその場で行っているので、お互いに違う生活パターンで日常を送っていたとしても、私生活を送るという状態は同じなので、お互いが気になる時が出てくる。

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そうすると、後から家を建てる方が隣りの家の窓の位置を気にして配慮をする必要が出てきます。案外これが設計のプロセスにおいて重要なことになる時があります。

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つながりに着目してみる

「つながり」を意識することが設計プロセスでは多いかもしれない。

窓がつながりを表現しているものならば(『窓はつなぐもの』を参照)、他にも見えるもの、見えないもの、建築には実にたくさんの「つながり」が表現されている。

人の動きでいえば、家事動線もつながりだが(『つながりで家事も考える』を参照)、人が動き回ることをイメージし、その時の視線の動き、それによって見える風景が連続的に変化する様を「つながり」と捉えて、変化する様をデザインのテーマにし、空間を連続的に配置して考えていく設計もあり、また逆に、空間の連続的な配置から「つながり」を設計し、人の動きをデザインするやり方もある。

「つながり」に着目すると、まだまだ様々な事柄が設計プロセスに関係してくる。

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つながりで家事も考える

「つながり」を意識することが設計プロセスでは多いかもしれない。

窓がつながりを表現しているものならば(『窓はつなぐもの』を参照)、他にも見えるもの、見えないもの、建築には実にたくさんの「つながり」が表現されている。

例えば、「家事動線」という言葉がある。家事がしやすいように、家事をする場所や器機がどのように配置されているかを実際の人の動きを想定して線で結び、その線が短ければ短い程、家事が効率的に行え、時間もかからずに、疲れにくいという指標で、これも家事をする際の人の動作のつながりを表現したものである。

ただ、この場合の「つながり」は、お手伝いさんや将来家事ロボットなるものが存在したら、ありがたいことかもしれないが、家事を面倒なもの、効率的にさっさと終わらせて、他に楽しいことをしようよ、という裏の意味が込められているので、どうにも「家事動線」という言葉を設計プロセスで使いたくない。

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家事も日常の一部であり、仕事と同じで1日のうちでかなりの時間を使うことだから、家事を家づくりに巻き込むならば、家事が楽しくなる、したくなるようにするのが本来の設計プロセスではないかと思い、その場合の「つながり」は家事だけでは完結せずに、例えば、外部空間の庭やテラス、人がくつろぐ時の気分や感情までもつなげて、その場所でしかつくることができない「つながり」を創作することになるだろう。

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窓はつなぐもの

何とかの窓や何とかの窓口のように「窓」という言葉は外界とのつながりを含意する。建築においては「窓」というと、光や風や熱を取り入れるためにあるものとされるが、設計時にはやはり「つながり」を強く意識する。

窓はどこにあり、それがどのぐらいの大きさかによって、「つながり」を自由にコントロールしている。

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例えば、リビングでテラスに面して窓を設けようとした時、その窓の幅が大きくて、高さも床から天井近くまであれば、窓を開け放して、リビングとテラスを、室内と屋外を1つのつながりとして考えようとする設計の意図が見られるし、大きさが小さい窓をいくつも並べていたら、プライバシーに配慮して、室内と屋外のつながりを制限しているのか、あるいは、外の景色を額縁のある絵のように室内で見せようとしているのかなとも、それもひとつのつながり方になる。

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窓をつながりとしてみていくと、空間と空間のつながり、そのつながりの基点は人で、そうすると、窓は人と人をつなげるために存在しているものだとわかる。

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精度が上がること

窓は面白い存在だなといつも思う。建築の仕事の場では窓とはいわずに「開口部」という。窓を開口部というとプロっぽい。「開口部」だから、開いている部分ということになり、建築の設計においては窓の機能以上のことを負わせる。

光を入れる、風の出し入れは窓の機能ですぐに思い付くことで、それ以外にも熱の交換、光も入れるだけでなく、光の演出も、これは結構重要だと思っており、設計を志したキッカケでもあり、その他にも開口部をどのようにつくるかによって、窓とは感じさせない、壁の一部として取り扱うこともできるし、その開口部の納まりも枠なしに、ガラスだけとか、そうすると、ガラスが無いように見せることができたり、開口部を見るとその設計者の技量がわかる。

今、窓は、開口部は、専門的にいうと、都内だと防火設備の規定があり、防火設備とは隣家に近いと火に強くしないといくけないという法律で決まっており、鉄製だと自作ができるが、アルミ製だと簡単にいうと自作ができない、でも世の中、アルミ製がほとんどであり、それはメーカーが既製品として安価につくりやすいから、ただ、設計者として設計と共につくりたい開口部があるのに、アルミ製では少数ロットではつくれないし、防火設備として認定するのは難しいし、鉄製のサッシでは高価だし。

建築を実務ではじめた頃、不思議だった、建築基準法ではアルミは鉄ではない、世の中の窓はほとんどがアルミ製なのに、無理矢理、建築基準法に合わせるためにアルミ製のために許認可を求めている、ならば、いっそのことアルミを鉄と同等に扱えばいいのに、利権が絡むのだろう。

そのようなことはどうでも良いが、設計者としては窓の、開口部の、創作を自由にしたい、設計者に全責任を負わせてもいいから、開口部を自由に自作したい。

ここにきて、面白いもので、鉄製で自由にサッシを自作できる機会を得ている。もし上手くいけば、今後つくる建築の精度が上がる、今一番ワクワクすることは、つくることの精度が上がること。

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設計のプロセスをもう少し大事に

人は普段、実際の空間と意識の中にある空間の2つを同時に重ね合わせて、目の前に広がる空間を感じでいる。意識の中にある空間とは、過去にどこかで経験している記憶の中の空間で、それを実際に見ている空間に重ね合わせ、自分用に空間を合成をして感じている。

だから、人は自分に都合よく空間を感じ取り、好き嫌いも合わせて、意識の中にある空間に先導される。昔、気持ちがいい体験をした場所と似ていたら自然と気持ちがほぐれて、嫌な体験をした所に似ていたら、その時の嫌な気持ちが蘇ってくる。

理性的に空間を感じるより先に、感情的に空間を判断してしまう。

でも、ならば簡単だろう、自分にとって居心地が良い空間をつくるのは。自分が自然と気持ちいいと思える空間を寄せ集めれば良い、それで少なくともハズレはない。

ところが、面白いもので、普通の人には、自分が自然と気持ちいいと思える空間がわからない、普段、そのように空間を感じようとすることが無いから。そうすると、何をするか、他人が気持ちいいと思う空間をネットや雑誌で拾い集めだす、あるいは、展示場やショールームへ行く、自分ではわからないから、気持ちいい空間の正解を求めて、挙げ句の果てに、他人の気持ち良さを自分の気持ち良さと錯覚しはじめる。それでは勘違いしたまま、自分が気持ちいい空間を知らぬまま、完成してしまう、こんなものかなと。

設計のプロセスをもう少し大事にするだけでいいのにとつい思ってしまう。

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サポートが設計者の役目

人は普段、実際の空間と意識の中にある空間の2つを同時に重ね合わせて、目の前に広がる空間を感じでいる。意識の中にある空間とは、過去にどこかで経験している記憶の中の空間で、それを実際に見ている空間に重ね合わせ、自分用に空間を合成をして感じている。

だから、同じ空間でも人によって感じ方が違う。どのように感じるかは自由なのだが、先入観や知識に感じ方を歪められてしまうこともある。他の人が良いというと、良く感じられるように、影響されてしまい、空間の感じ方など簡単に変わってしまう。

だから、知識や人の意見から入らないこと、簡単にお手軽にネットや雑誌で調べないこと、空間などそこら中に、それこそ今いる場所も空間なのだから、感じることぐらい簡単にできる。感じ方に良し悪しは無く、感じ方に正解は無い。ただし、その人特有の感じ方はあり、それは誰にでもあり、それに影響を与えるのが意識の中にある空間のみである。

意識の中にある空間は、ネットや雑誌で調べてもわからない、それをわかるためには、自分で断片を拾い集めるがごとく、空間を意識の中から引っ張り出してこなくてはならない、そのサポートをするのが設計者の役目である。

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辿り着けない居心地良い空間

人は普段、実際の空間と意識の中にある空間の2つを同時に重ね合わせて、目の前に広がる空間を感じでいる。意識の中にある空間とは、過去にどこかで経験している記憶の中の空間で、それを実際に見ている空間に重ね合わせ、自分用に空間を合成をして感じている。

だから、意識の中にある空間がわからないと、自分が欲している、気持ち良いと思う、居心地が良い空間に辿り着けない。

しかし、普通の人に、その意識の中にある空間がわかる人はいない。そもそも、そういうことを考えたことが無いから。

はじめて家を建てる人で熱心な人は情報収集をする。しかし、これらの情報は、その意識の中にある空間には触れてこない。当たり前である、情報というのは意識の外にある事柄で、誰でも扱えるものでないと価値が無いからで、だから、いくら情報を収集をして知識を得ても、例えば、高気密高断熱、何とかソーラー、エコなんとか、無垢の木の家、これからだと、抗菌、抗ウイルスの材料などを知ったところで、自分にとって居心地が良い空間を求めているならば、そもそも辿り着けない。

その意識の中にある空間をわかるには、そういうものが存在していて、それを設計のプロセスに活かさないと、自分にとっての居心地が良い空間にはならないと知っている人が必要なのだが、プロでも情報収集で得られる知識が全てだと考えている人がほとんどだから、自分にとって居心地が良い空間に辿り着ける人はほんの一握りとなる。

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人とつなぐ精神

人は普段、実際の空間と意識の中にある空間の2つを同時に重ね合わせて、目の前に広がる空間を感じでいる。

意識の中にある空間とは、過去にどこかで経験している記憶の中の空間で、例えば、子どもの頃に住んでいた家の部屋であったり、たまたま訪れた旅行先の宿であったり、日常的に利用する商業施設であったりなどするが、原風景と呼ばれるような強く意識に刻まれている記憶も含まれる。

子供の頃に遊んでいた公園を訪れたとしたら、実際に目の前に広がる公園に、子供の頃の記憶に残る公園を重ね合わせて見ている。それを意識せずに無意識にやっており、子供の頃の記憶だから人によって皆違うので、同じ公園を隣り同士で見ていたとしても、隣りの人とは違う公園空間を感じ取っていることになる。

このような、実際のものと意識の中にあるものの2つを同時に重ね合わせて感じ取ることは、空間だけでなく、全てのものについてもいえるかもしれない。

だから、意識の中にある空間であったり、ものであったり、それに付随する言葉も含めて、そこまで対象としてつくろうとする精神が人と空間、人とものをつなぐことになると思う。

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空間を感じる時

空間を感じる瞬間というのがあると思うのです。それは壁や天井で囲まれていればいいという訳ではなくて、それでは単に室内にいるという感じだから、空間を感じさせる何かに出会うといった方がわかりやすいかもしれない。

空間を感じさせる何か、それはいろいろあるかもしれない、もしかしたら、人によっても違うかもしれない。

そこに人がいれば、あるいは、椅子のような物が置いてあれば、その比較によって空間を感じるかもしれない。ただ、それは空間の大きさを感じるのであって、空間そのものを感じている訳ではない。

そう考えていくと、私が今思いつくのは光しかない。

光は太陽からの自然光と照明による人工光に分けられるが、どちらの光でも、光が当たっているから空間を認識して、空間そのものを感じることができる。真っ暗ならば空間を感じるだろうか。

ただ、ふと思った、真っ暗でも、もしかしたら空間を感じるかもしれない。そうすると、空間を感じることには2通りあるかもしれない。

実際の空間を感じることと、人の意識の中にある空間、それは過去にどこかで経験している記憶の中の空間ともいえるが、真っ暗になった時に人の意識の中にある空間を感じるようになるかもしれない。

ということは、普段、空間を感じている時、人は実際の空間と意識の中にある空間の2つを同時に重ね合わせているのかもしれないと思った。

そして、それは建築を建て替える時に、その時、その場所、その人特有の空間の感じ方をつくることができると思えた。

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家をつくること

真っ新な土地にして、まず基礎工事からはじめるのが実際の住宅の工事手順ですが、その前にどのような家にするのか、どのような家にしたいのかを工事ができるように具体的なものにするのが設計です。

その設計をまず最初から家の性能や指標や数値で考えていくやり方があります。例えば、高気密高断熱の家などのように、年間を通して快適な室内温度を保つことを目的に、具体的な計算式を使い、間取りから材料の選定や設備機器までを決めていく。

他に材料にこだわり、家づくりを進めていくやり方もあります。例えば、木の家であることを強調し、無垢の木を室内にたくさん使うことを大事にするなど。

最初にどのような家にしたいかのイメージが無い場合やどのような家にしたいかがわからない場合は、性能や指標や数値で考えたり、材料にこだわりを持つところから家づくりに入る方がわかりやすいかもしれませんが、流行りすたりがあります。

材料や設備などはどんどん進化しますが、家は一度建てたら、簡単に材料や設備を更新できません。だから、材料や設備などは年月が経ても価値が変わらない定番をおさえれば良いと考えています。

家の性能や指標や数値は計算式を知っていれば、誰でも年間を通して快適な室内温度を保つ設計はできます。

ただ、本来どのような家が良いかは住人によって一人一人ちがいます。材料や設備だけでは決まりません。その一人一人のちがいを考え、イメージし、合わせていき、家として具体的な形にして、工事ができるようにするのが本来の設計で、一人一人がイメージしやすいように手助けするのが設計者だと思います。

設計も工事も実際の家が完成するためのプロセスですが、工事は設計したものを実際の家にすることですから、その前の設計段階でどのような家かが決まります。

その設計を何度も経験する住人はいないでしょう。ならば、わからないことが多いけれど、その設計というプロセスを楽しみながら、今一度、一生に一度かもしれませんが、自分はどういう家に住みたいのかを想ってみるのもいいかもしれません。設計というプロセスは楽しいですよ。

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光を通す階段

よくやるのが階段で光を取り入れること、階段を吹抜けだと考えれば、窓の位置しだいで、光の量を自由に調整できる。

光の量を最大限にしたければ、階段の真上にトップライトを設ける、そもそもトップライトは壁にある窓より3倍の光の量が入ってくる。そして、階段の段板をメッシュやガラスにして、トップライトからの光を下まで落とせば、住宅密集地の1階でも明るくなる。

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特に、らせん階段を利用すると、最小の階段面積で、最大限の効果が得られる。

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窓明かりが見えた

東京アラートが発令されて、都庁とレインボーブリッジのライトアップが赤色に変化しましたが、色や照明で何かを抽象的に伝えるという手法は、言葉で直接わかるように伝えようと試みるより、深く印象的に伝わるように思います。

言葉だと字義通りの解釈しかできず、言葉使いや言い方、表現の仕方によっても、受け手の印象が変わり、場合によっては拒否反応が起こる可能性がありますが、色や照明のような抽象的な表現だと、それを見る人が自分の都合のいいように読み取り解釈することになるので、拒否反応が起こりにくく、読み取った解釈がより深く意識に入り込むのだと思います。

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よく、窓明かりがもれるように、それが道路から見えるようにします。外灯ではなく、窓の明かりだと、その家の住人ならば、直感的に誰かいる、もっというと、誰がいるかまでわかるはずです。

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それは夜帰ってきた時の喜びや嬉しさや安心感につながるような、それは人それぞれ解釈の仕方は違うかもしれませんが、少なくともわるくはない、ちょっとホッとするようなことかなと思いまして。

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外観の特徴は新たな人のため

外観に色を散りばめることをよくやります。それを外観の特徴としたいから、なぜ特徴にしたいか、それは建主自身がその家で自分に合った新しい生活をはじめるから、その家は建主にしか住みこなせない家だから。

完成するまで家と人は別々で接点がありません。そして、住みはじめることによって接点ができ、そこで家と人の関係性ができて、新たな人が誕生すると考えています。

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そして、その新たな人がさらに新たな家をつくり上げていく。その様を外観に特徴として表現する。その特徴はきっと今までに建主が目にしたことが無いものにすることによって、そこに新たな自分を感じ取って欲しいから。

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三角屋根の家の形

子供に家の形を描かせたら、たぶん、三角屋根を最初に描くだろう。それは大人も同じで、家=三角屋根が一般的な家のイメージ、アイコンのように、そういえば、サイトのホームへ戻るボタン、トップページへ戻るボタンも三角屋根の家のアイコンだったりする。

仕事場からいつも車で帰ってくるクライアントに、何か我が家に帰って来た感をプレゼントしたくて、それを外観で表現して、窓を設けずに、三角屋根の家の形を宙に浮かせて見せた。

宙に浮かせたのは車で帰って来た時に遠くからでも見えるにようにと、三角屋根の家の形が強く印象的に出るようにと、それが誰にでもわかる特徴となるようにと思って。

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外観の馴染む、突出するをミックスして

服も化粧も、自分が身につけるものや着飾るものは、自分と社会との関係性を表現したり、関係性を調整したりするものであり、TPOに合わせた服選びもその一種であり、それは建築でも同じであるという。

建築でいえば、棟飾りや玄関周りの装飾がそれに当たるかもしれない。今では見られなくなったが、その集落の長の家には特別な装飾が施されていた。

それをもっと発展させて考えると、建築の外観も社会との関係性を表現しているものといえるだろう。外観全体を考えると、その地域で突出したものというより、違和感なく馴染むものが求められ、地域によっては街づくりガイドラインなるものがあり、外観の仕様や色などが条例などで定められていて、それも主旨としては突出したものよりは馴染むものをつくらせるためにある。

例えば、昔からの宿場街のような古い街並みの意匠を守り、街並みの統一感を保とうとする場合は、馴染むものの方が良いだろうし、社会との関係性を表現する上でも、その地域においては古い街並みを維持することに社会的意義を見つけることができるだろうが、そのような場合では無い時、例えば、どこにでもある普通の住宅街ならば、馴染むだけが外観として、社会との関係性を表現することにはならず、反対に突出するという表現も社会との関係性を考えて許される表現であるはずであり、突出することにより、その建築を基点として、周辺環境に良い影響が沁み渡るような外観になったならば、それはそれで素晴らしいと考えている。

私の場合、大体、外観に関してはクライアントから要望を言われることがほとんど無く、逆に、私の方から提案して、それが採用される場合がほとんどである。

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提案する際には、馴染むと突出するを使い分けて、地域での見え方、あと、クライアントの人柄とイメージが合うようなものや、馴染む場合でも、突出する場合でも、全体全部を馴染むか突出するかに振る訳ではなくて、割合として、馴染むを多めにするか、突出するを多めにするか、バランスを考えて、大体、どちらかが微妙な、ほんの僅かな差で多くなるようにミックスして外観のデザインを決めていく。

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カスタマイズできる余地余白

今日は久しぶりに過去に建てた住宅にお邪魔した。ちょっとした不具合を見に行って、その場で処置して、すぐに帰ってきたが、やはり今は、ちょっと上がってお茶でも、という感じにはならない。

私たちは何もない真っ新なところからはじめて、形にして、完成し、クライアントに引き渡す。それが住宅ならば、そこでの日常や暮らしを想像しながらつくり上げていくが、なのに一度たりとも住むことはなく、そこでの日常や暮らしを体感することもない。

だから、クライアントが羨ましい、そこでの日常や暮らしはきっと楽しいだろうなと思えるものを設計し、つくっているから。

時には、こちらの想像を超えるような暮らし方をしているクライアントもいて、たまに、これからクライアントになるかもしれない人を連れて行って説明すると、そこにリアリティを感じ、それが決め手になることがある。

建築自体のアカデミックなことはとりあえず置いておいて、クライアント目線で考えると、どうもこちらが意図したこととは違うことが行われているということは、カスタマイズしながら積極的に自分たちの日常や暮らしを送ることができると解釈するようだ。

そのようなことは当たり前ではないかと思ったりするが、どうも自分たちの家を、それも新築の家を、カスタマイズしながら住むという発想がないのか、できても模様替えレベルと思うのか、とりあえず、我慢して家に自分たちを合わせるしかないと思うのか。

その人に合わせて、その人用につくったとしても、それはその時点のもので、いくら想像力を働かさせて将来予測をしても限界がある。それを補うために、カスタマイズできる余地、余白のようなものも予め仕込んでおく。

どうもその余地、余白が、確かにあまり他では見ないから、かえってリアリティを感じ、説得力があるのかもしれない。

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暮らしの中で見る方角を決める

最初の打合せで「商店街に住むのは本当は嫌なの」というクライアントの奥さんの一言がずっと設計をしている時の課題だった。

どうしたら安心してここで暮らせるか、おまけに面してる商店街の反対側は小学校の校舎の廊下であり、そのことも嫌な理由のようだ、プライバシーが侵されそうな気がするのだろう。

1,2階をテンナントに貸し出すので、住居は3階になる。その時点で商店街とは高さ方向にズレるし、小学校とも間に商店街をはさんでいるので距離がある、それは打合せでも説明したが、先の言葉である。今まで住んでいたところが住宅街の中だから、変わりように差があり過ぎるのかもしれない。

とはいえ、敷地を変更することはできないので、どうしたものかと思案して、商店街や小学校の側は方角としては南だから、明かり取りのためにも開口部は必要であるが、商店街や小学校の方角を見ること無しにほぼ暮らしが成り立てば、商店街や小学校を意識すること無しに暮らせるかもしれないと考えた。

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そこで、屋上をつくり、住居がある3階とトップサイドライトを通して視覚的につなげ、そのトップサイドライトは明かり取りにもなり、お孫さんが遊びに来た時は屋上が庭がわり、そのトップサイドライトを通してお孫さんが見え、コミニケーションができるようにし、むしろ、商店街や小学校の方角とは反対にはなるが、室内空間からしてみれば、そちらの方角がメインのような扱いにし、全く商店街や小学校を意識すること無しに暮らせるようにした。

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もちろん、クライアントの奥さんは毎日熟睡している。

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可動間仕切りがもたらす暮らし

可動間仕切りをよく使う。大体、そういう時は、クライアントがどういう日常を送りたいか、どういう暮らしをしたいかがはっきりしており、それに対応するために部屋の方を変化させる。

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一般的には、可動間仕切りを使う時は、可変することにより、どのような部屋の使われ方をしても構わないように、より曖昧で、はっきりと決められない場合である。だから、可動間仕切りを設置することは一種の設計の手抜きのような印象があるかもしれない。

しかし、きちんとクライアントの日常や暮らしを把握した上で設置する可動間仕切りは、クライアントの要望がいくつも折り重なって1つの部屋に表現されている証しであり、より濃く、より深く、限られたスペースの中で日常や暮らしを送るための手段である。

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階段×洗面

階段の構造は、足をのせる段板があり、その段板を支える側板があれば最低限成り立つ。洗面の構造は、洗面器をはめ込む天板があり、その天板を支える脚があれば最低限成り立つ。

共通するのは板であり、階段の段板と洗面の天板は水平であることも共通する。

ただ、階段と洗面は、全く関係がない機能同士である。

少しでも効率よく水回りをまとめたい、それも階段下のスペースが空いているが、そこに壁をつくり部屋にしてしまうと狭くなるし、せっかくの階段の開放性が損なわれてしまう。

ならば、階段と洗面の共通点を頼りに、階段の段板が延びて洗面の天板となり、そこに洗面器を設置し、洗面周りの小物を置く場所として、同じく階段の段板が少しだけ延びて棚状になり、そこに家族分の歯ブラシなどを置くようにした。

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クライアントの本来の要望はこの階段に滑り台をつくりたいだった。その要望通りに、さらに、洗面の機能を加えた、階段×洗面×滑り台が完成した。

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きっと朝などは大忙しだろう、この階段×滑り台×洗面によって、より家族の営みをお互いに感じることとなり、そうしたら、朝がより家族にとって楽しめるでしょ。

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家の中に家でもない場所をつくる

会社でもない、家でもない場所、別に会社にいたくない訳ではなくて、別に家に帰りたくない訳でもなくて、ただ、会社か家かという2つに1つ、二者択一的な生活はずっと続くとちょっとぐらいの変化を求めたくなるかもしれない。

それは決して悪いことではないけれど、こうするべき的な思いにとりつかれると、まっすぐ家に帰ろう、寄り道なんてせず、となると日々の生活が不自由なものに感じられるようになってくるかもしれない。

要領のいい人は行きつけの飲食店などを見つけて、顔馴染みになり、会社の人でもない、家族でもない、友達でもない、そんな人のつながりをつくり、上手に気持ちを受け流し整理して、家路につくのだろうが、なかなかそれもできない人が多そうな気がする。

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だから、ちょっと家の中に、家でもないような場所をつくり、ひとりになれる時間をつくってあげることができたら、少しは違うのかなという想いから、離れをつくったり、部屋ではないが廊下にしては広いような場所をつくり、そこが街の中の広場や通りのような雰囲気をかもし出せば、家の中で気分も切り替り、家族との時間もより楽しめるのではと思ったりして設計した。

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日当たりが厳しい時の対処法は別々にすること

暗い家よりは明るい家の方がいいですよね、暗い家にして欲しいという要望は今までに聴いたことがないです。明るい家にして欲しいという要望もあまりないというか、「明るい家になりますか」という問いかけは何度かありました。

奥に引っ込んだような敷地で、その分静かだけれども、周りを建物に囲まれていて太陽の光が入ってこないかもしれないという心配から。

そういう時はいつも決まって「日当たりはどうにでもなります」と答える。

確かに、敷地の周りを四方建物に囲まれていて、しかも狭小地ともなれば日当たりは厳しいので、よくあるのは日当たりが欲しい部屋、例えばリビングダイニングを2階に持ってきて、日当たりがあまり関係がない部屋、例えば寝室、水回りなどを1階に持ってくるというもの。

ただ、1階はせっかく外の庭などの外部空間と内部空間を連続させることにより広く感じさせることができるので、狭小地に建つ家ならば、尚更、1階にリビングダイニングを持ってきて広く感じさせたいだろう。

そこで、日当たりが厳しい時の対処法は、太陽の光を入れることと部屋を明るくすることを別々に行えばよい。

狭小地で周りを建物に囲まれていたら、太陽の光が1階まで差し込む時間は、季節にもよりますが、1日のうちで多くても3時間くらい、これでは太陽からの直接光だけで1階を明るくするのは不可能です。ただ、2階だと1日中太陽からの直接光で部屋を明るくすることができます。

だから、そういう時は階段を利用して、1階の部屋を明るくする。階段を1階から2階までの吹き抜けだと考え、階段室という部屋に見立てて、2階から太陽の直接光を階段室に放り込み、階段室の中を光が反射し拡散して、1階の部屋まで太陽の光を届ける。

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その際、階段室と1階の部屋との境の壁は必ず半透明の壁にして、光を通すことが必要になる。これによって、昼間は半透明の壁が光っているようにも見えて、部屋を明るくする。2階からは1日中太陽の光が階段室に供給されので、1階の部屋も1日中明るくすることができ、入ってくる火は間接光になるので、熱をほとんど1階の部屋には伝えないから、夏などは明るくても暑くはならない。

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家は遊び場、家は遊具

建物が完成してクライアントに引き渡す時、大概、お子さんが走り回っている。子供にしてみれば家は遊び場、家は遊具なんだなと思う瞬間です。

そんな姿を何度も見ているので、設計している時からクライアントのお子さんに合わせて、それは結構クライアントには内緒で、勝手に盛り込んでいたりする場合もありますが、遊具となるような仕掛けを考えている。

子供の頃の記憶にはよくその当時住んでいた家の情景が入り込んできて、その時の体験と一緒に焼き付いています。きっとお子さんが成長していく上で家が果たす役割ははかりしれないと、結構、その後の成長や人生に影響を与えるのではないかなと思っています。

だから、ほんのちょっとなことなのですが、そこに腰掛けて本を読んだり、皆んなが見渡せるような所をつくったり、扉を開けると視界が開けて、その先にチラッと見える家族を感じたり。

クライアントのために離れをつくったことがあります。離れといっても別の建物になっている訳ではなくて、ひとつの屋根の下にテラスからしか出入りができない3帖くらいの部屋、茶室くらいの広さです、ほんとに狭い、でも、クライアントがひとりになれる部屋をつくりました。

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ただ、その部屋は、出入りはテラスから一旦外に出る必要があるのですが、室内に向かって2つの窓があり、開けると1つはリビング、1つは寝室につながっていて、そんなに勝手にひとりにはなれないようにしてあり、結局はひとりいながら、ちょっと寂しくなるとどちらかの扉を開ければ、家族と、お子さんとつながることができるようにしました。

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それは、大人にとっても家は遊び場、家は遊具で、子供の頃の家の原体験の延長に今の家があり、ただ大人になって求めるものは子供の頃の家ではなくて、今の自分が満たされるためのもの、それはお子さんを見ているとわかります、お子さんは親の真似をしますので、だから、打合せではお子さんをよく観察して、クライアントにたくさん尋ねます。

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省スペース化が生む階段の効果

敷地に建てれるだけ目一杯に建物を建ててしまうと、どうしても満足に庭が取れないし、防犯のことも考えて、子供を遊ばせたり、洗濯物を干すために、屋上が欲しいという要望がクライアントから出ることがよくある。

子供の頃、屋上のある家に住みたいと思ったものです。なぜか高いところに上がるとテンションも上がるし、遠くまで見渡せるのは気持ちがいい。そういえば、学校の屋上へ行くのも好きだった。屋上へ出る扉を開ける瞬間がなんかワクワクしたことを覚えている。

屋上へ通じる階段は、自治体や確認検査機関の判断にもよりますが、建築基準法の住宅の階段の規定を受けないので、省スペース化させるために、急な階段にすることもある。

ただ、階段は廊下と同じように通路なので、人が通る場所として常に空けておく必要がある。廊下ならば、廊下も部屋という考え方をすれば無くすこともできますが、階段はそうはいかない、どうしても場所を占領してしまう。階段下の空間を便所や収納にすることもありますが、今回は2階を大きなワンルームとして、そこを必要に応じて可動間仕切りで仕切り、個室をつくるというプランなので、階段はできるだけ省スペースに、それも視線を遮らないようにして、クライアントの希望である大きなワンルームであることを邪魔したくはなかった。

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だから、段違い階段にし、段板のみで構成することにした。段違い階段とは、段板が右、左と半段ずつズレて設置されており、人の足の動作に沿った段板の位置になっているもので、階段をより省スペース化できるのですが、自治体や確認検査機関の判断にもよりますが、建築基準法の住宅の階段としては認められていない。今回は屋上へ通じる階段でしたが、一応、事前に確認検査機関へ相談し了解を取り実現しました。

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この階段ならば、透け透けで、屋上へ出る扉をガラス扉にしたので、太陽の光が屋上から拡散されて2階の空間にまで降りてきて明るくしてくれますし、階段の存在感自体もより無い方向に、視線もなるべく遮らないように、クライアントの望むワンルーム感が出て、不思議なことに階段が造付けの家具のように見えなくもない。

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それが最善の設計プロセス

時には建築でも1本の木からはじまることもある。

クライアントとの初回打合せでは、要望を一通り傾聴し、何でもいいから話をしてもらおうとする。様々な問いかけをしたり、ご自宅にお伺いしたならば、室内にあるものに関心を持って尋ねたり、思い入れやこれだけは絶対のようなことも、特にマニュアルがある訳でもなく、その場の即興で、事前に準備もしないようにしている。

何かが情報として事前に頭に入っていると、自分にとって都合がよい言葉や話をクライアントから引き出そうとしてしまい、本来そこでしか聴くことができなかったことに辿り着けないような気がするからで、その場で聴きたいのはクライアントが本当に欲している心の声、それがわからなければ打合せをしている意味がなく、時間のムダで、メールやメッセージでやり取りすれば事足りる。

不思議なことを突然クライアントが言い出した。
「この木は父親が亡くなってから突然生えてきたのです」
「だから、建て替えする時にこの木は切らないで欲しい」

だだ、古い家を解体する時にその木が邪魔になり、解体業者が勝手に敷地の北西の角に植え替えてしまった、こちらが全く意図しない場所に。だから、その木をまた移動することもできた。でも、しなかった。

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突然生えてきて、また意図しない場所に移動して、その状況をそのまま活かして設計することがクライアントが欲していることではないか、その木に父親を重ね合わせているのがわかった。

木を活かすならば、その木がある場所を庭として、外に出られる場所とし、室内の空間と連続させたい、その空間はリビングやダイニングなどの家族が集まる所で、その空間のどこからでもその木が見えるようにしてあげたかった。

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料理をしてキッチンに立っている時も顔を上げると視線の先にはその木が見え、ダイニングからリビング、リビングからダイニングへと移動する時もその木が自然と視界に入るように。

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その木から派生して空間の用途を順に決めていった、普通はそのようなことをしないが、この住宅ではそれが最善の設計プロセスだと考え、そして、そのように実現した。

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階段はひとつの見せ場

建築の部位の中で階段は面白い存在であり、設計する時の腕の見せ所でもある。

建築家の村野藤吾は階段そのものを如何に美しく魅せるのかを突き詰めているようであり、その曲線の優雅さは一度見たら忘れられない。また、フィンランドの建築家のアルヴァ・アアルトは階段に機能的な端正さを出しながら、素材に木や鉄や煉瓦などを使い、自然な柔らかさを纏わせ、北欧モダンの空間にナチュラルに馴染ませていく。

いずれも階段をひとつの見せ場だと考えていたのだろう。それは普通に住宅でも同じであり、日常の暮らしの中で階段に様々な役割や活用の仕方や魅せ方をさせる。

空間の広さにはどうしても限界があり、効率的に広さを有効活用しようとして、時に階段の下に便所を配置したりする。便所は腰掛ける所であり、また法規上は居室ではないので、天井の高さに規定がないこともあり、天井が段々と低くなる階段下の空間を有効活用する際にはもってこいである。

ただ、便所にいる時でさえ、それは日常の暮らしの大事な時間でもあるので、いかに心地よく過ごせるかをデザインで考えたいところで、また階段下にあることを何かに活かしたいと考えた。

階段には「蹴上げ」という部分がある。段板と段板をつなぐ縦の部材で板状のものだが、階段のデザインによっては無い場合もあるが、階段下の空間を利用する場合には必要になる。

蹴上げがある場合、通常は板で塞がれているが、そこに乳白色の「ツインカーボ」という名の二重のポリカーボネート板を嵌め込んだ。この板は光を通すが、乳白色で二重になっているので、中は見えない。

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便所という暗くて狭いイメージの空間に明るさを取り入れたかった。あと、階段という動線の下にあるので、階段を通る人の動きと便所を関連づけしたかった。

昼間は階段に差し込んだ太陽の光が蹴上げの乳白色のポリカーボネート板を透して便所の中まで柔らかく入ってくる。逆に、夜間は便所の照明の灯りが階段の足元灯の役目をするので、便所の灯りだけを頼りに階段の昇り降りもできる。

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階段とその下の便所の相互関係をデザインし、便所に入り込んでくる太陽の光はその日の天気をも反映する。階段という存在が日常の暮らしの中で様々な事柄をつなぐ役目をする。そのつなぐ役目にはまたまだたくさんある。

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収納家具の軌跡が部屋になる

将来予測をして、なるべく不用な個室はつくりたくないと考え、そもそも広さに限界がある場合にはできるだけ細かく部屋を区切りたくはなく、大きく空間を使う方が広く感じる。

ただ、そうすると、どうしても部屋を分けたい時に困る。例えば、お子さんが男女の組合せの場合は、ある程度の年齢になったら部屋を分けたいが、小さな時は別々に部屋にこもられるのも親としては心配だから、一緒の部屋の方がよく、ところが大人になってもずっと家にいる訳ではないから、部屋を分けた後に大人になって家を出たら、残った部屋は物置きになるケースも考えられる。物置きならまだいいが、単に空き部屋になったら勿体ない。

それは2世帯住宅の2階でのこと、息子さんが将来結婚した時用の空間を用意することになった。

ただ、まだ予定がない、そこで、洗面所と便所を1つの箱状の空間に納め、それだけを固定にし、あとは移動できる同じく箱状の収納家具をいくつか用意した。

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それ以外は小屋裏収納と壁一面の収納のみで何もない、間仕切り壁のない広い空間だけをつくり、移動できる箱状の収納家具を使って、部屋を2つに分けたり、その場合は想定して出入り口の扉を2つあらかじめつくったが、他にも、その移動できる箱状の収納家具の置く位置によっては、寝室コーナーなどのプライベートスペースをつくり、残りは団欒スペースにするなど、その時の必要に応じて、可変できる空間とした。

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箱状の収納家具を置く位置もある程度何通りも想定して、それに合うように箱状の収納家具の大きさも決めていったが、今伺うと想定外のところに置かれていて、その意外性が面白くて、収納家具は中身を入れたまま移動できるので、模様替えも楽に楽しめるのだろう。

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細長いお風呂場でリビングとつながる

そういうこともありますよね、それもありですよね、ポイントを押さえれば案外いろいろな考え方ができそうで、ただ、ポイントを外すと単なるデタラメになってしまう。

足を伸ばして湯船に浸かりたい、普通にそう思いますよね、そうなると体を洗う洗い場も欲しい、当たり前ですよね、ただ、できる限り広いリビングやダイニングも欲しくて、そこで家族と一緒に過ごしたい、大体、住宅全体の広さは敷地の大きさで決まるので、はじめに数値でわかる。

だから、広さとか狭さを数値でいっても意味がなくて、敷地が急に広がらない限り変わらないので、数値ではなくて、広く感じるのか、狭く感じるのかの感覚で考えていく。ただ、感覚的なことは人による違いが大きいので、自分の感覚を押し付けるようなことはせずに、当たり前だが自分の感覚で設計はせずに、そこに理屈があり、あとはクライアントの感覚に合わせていく。

最大限リビングやダイニングの広さを確保するために、お風呂場をコンパクトに、それもただコンパクトにするだけでなく、お風呂場の形状もリビングやダイニングの広さを確保するために細長くし、それで足を伸ばして湯船に浸かり、体を洗うのにも支障がなく、クライアントは狭く感じない。

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ちなみに、横に細長い窓の先はリビング、湯船に浸かりながらも、リビングともつながるように。

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建ち方で変わることがある

きっとこう建って欲しいのだろうなとおもんばかることも必要だと思う。

広い土地が相続によって小さく分割され、何ヶ月後かにいくつもの建売住宅が出現し、それまでの街並みが変わることがよくある。前の風景を知っている者にとってはその変わりように違和感を覚えるが、なぜ違和感を覚えるかというと、不自然な建ち方をしているからである。

当然、事業なので、建売住宅を建てるために、広い土地を少しでも効率よく分割して、より多くの建売住宅を建てようとする。だから、そこでどのように建ったら、人同士の交流が生まれ、周りの環境とも馴染みが良いかという意識そのものが無いので、周りからしたら不自然に見える。

クライアントのお母さんが住んでいた土地を分割し、兄妹で2棟の二世帯住宅を建てる計画があった。土地を分割するところから設計をしていったのだが、お母さんからの条件が道路に対して手前と奥という土地の分割の仕方はしないで欲しい要望があった。奥になった方が不利になると考えたようだ、あくまでも兄妹でなるべく差が出ないような分割の仕方を望んでいるように感じた。

だから道路に対して、手前と奥では無くて、右と左という分割の仕方にした。ただ、そうすると土地の形が不自然に長辺が長い長方形になってしまう。

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ならば、それを利点として、2棟の住宅の間に共用の長い通路を取り、お互いにその通路に面して玄関を設けて、日常の暮らしの中で自然と行き来したり、交流したり、お互いのリビングにある窓も高さを半階ずらして配置し、視線が交差することは無いが、お互いの賑わいや存在が何となくわかるようにした。

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それは敷地内の親族同士の交流だが、その交流が自然と周辺環境にも伝播して、何気に人が立ち止まって話込んでいるのをよく見るようになった。

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見えそうで見えない距離感が暮らしに必要な時もある

別々にいるのが嫌なのだろうと思った。

最初の打合せで敷地図を見せてもらうと、敷地の形状がほぼ真四角に近かったので、一瞬、コルビュジエの「成長する美術館」が頭に浮かんだ。コルビュジエは3つの美術館を設計し、そのうちの2つがインドにあり、あと1つが世界遺産にもなった上野の国立西洋美術館である。プランは3つともほとんど同じで、真四角の建物の中心部分にエントランスがあり、そこから2階の展示室へ階段でアプローチしていく。展示室は真四角の建物の中を渦巻状に回遊するように配置されており、仕切りがなく展示するための壁が連続しているので、閲覧する方は建物の中を一筆書きに一回りするだけでいい。

打合せでは家族の普段の生活や行動を、特に家にいる時のお互いの距離感を測ろうとつとめる。それは、その距離感がそのままプランに変換できる場合が多いからである。

お話を伺うとクライアントのご主人も奥さんもそれぞれ違う趣味を持っており、休日など家にいてもお互い別々の場所で別々のことをしているらしい。それ自体は普通にあることだし、ではそのお互いの趣味が成り立つように空間を設計すればいいだけだが、問題はその距離感であり、もっというと、その距離感がいつでも同じということだった。

建て替えだから同じ敷地なのだが、それまで住んでいた家は増改築を繰り返したせいか、壁が不自然なところにあり、別々な趣味をするための場所が近くてお互いに干渉していた。そのため、どちらかが先にその場所にいると片方は自分の趣味ができないようだった。

普通ならば、全く違う場所で自分の趣味ができるようにすればいいだろうにと思いのだが、それはしないらしい。要するに、家族がそれぞれ別々なことをしていても同じ空間の中に一緒にいたいのだろうと考えた。

同じ空間の中だが、お互いに干渉することになし自分の趣味ができて、必要な時にはその距離感を縮めて一緒にいることもできるような、お互いの距離感が調整できて、一番離れている時は姿形は見えないが、気配だけは感じるような空間をつくろうとした。

敷地の形状なりに設計すると、ほぼ真四角の建物になるので、真四角の真ん中に2階へ上がる階段を配置して、1階をその階段を中心にキッチン、ダイニング、リビング、玄関と配置して、ぐるぐると回遊できるようにし、お互いの距離感を自由に調整できるようにした。

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その距離感の調整に一役買ったのが真四角の中心に配置した階段である。階段と1階の空間は透明のアクリル板で空調の仕切りをつくったが、場所によって階段の下の部分の壁の高さが違うので、階段越しにお互いが見える範囲も違ってきて、同じ空間にいながら、お互いが見える見えないの調整が少し移動するだけで容易にでき、一番見えないところでも気配はお互い感じることができる。

だから、空間の使い方しだいでお互いの距離感を自由に設定できるので、何年か毎に少し模様替えするだけで、全く違った空間体験もできるだろう。

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暮らしの中で欲しいが空間になる

よくその人だけの居場所をつくったりする。そういう場合は大抵クライアントからの直接的な要望ではなくて、お会いしていろいろとお話を伺う中で頭の中に急に浮かんできたりする。家と人をつなげたいというか、そういう居場所があってはじめて自分の家だと思うような気がしているから。

お子さんがまだ赤ちゃんの時から将来この子に勉強を教えるのが楽しみですと雑談の中で語っていた。たぶんその時はダイニングテーブルで子供が学校の宿題や勉強をしている横で、自分は本でも読みながら、子供の勉強を見るようなイメージだったと思う。

クライアントも本を読むのが好きで、ただ書斎をつくる程のスペースは取れなかった。そこで各個室に行く廊下を少し広げ、そこに本棚と長机を造り付けにしスタディスペースとして、書斎とお子さんもそこで一緒に勉強をする場所とした。

そもそも機能上は廊下だから家族みんなが通る。だから、そこで本を読んだり勉強をしていても、部屋に籠るのとは違って、家族がお互いに何をしているのがわかり、それでいて自分の居場所でもある。

クライアントとの雑談の中で、形として明確ではないけれど、これからの暮らしの中で欲しいのはこのようなスタディスペースではないだろうかと思い、提案し実現した。

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敷地いっぱいが住環境スペースになるように

隣の家とのすき間はなんとかならないか、中途半端に空いていて、敷地が広ければいいが、狭い敷地だったら勿体ないし利用したいとずっと思っていた。

ちなみに、民法上は境界線から50cmは空けなければならない、だから、必ずすき間ができる。

もちろん、そのすき間が無ければ、作業スペースが取れないから家自体を建てることができない。ただ、そのすき間がもっと狭くても、50cm未満でも建てようとすればできなくもない。

旗竿状の敷地というのがある。敷地の形状を上から見たら竿にたなびく旗のように見えるからそう呼ばれる。敷地というのは建築基準法上、道路に2m以上は接していなければならないと決められている。だから、道路に2m以上接していない敷地には法律上、家を建てることができない。

旗竿状の敷地は竿の部分の巾が2mで、そのままの巾で道路に接していることが多く、これは大きさな敷地を道路に対して手前と奥で分割する際に、奥の敷地に法律上、家を建てることができるようにするための苦肉の策である。そして、その竿の部分には巾が狭すぎるため建物を建てることはほとんどしない、大体、車や自転車の置き場所になり、建物を建てるのは敷地の旗の部分になる。

その竿の部分が20m以上ある旗竿状の敷地が住宅の計画地になった。敷地面積には当然、竿の部分の面積も含まれるから、竿の部分が長くなればなるほど、建物を建てる旗の部分の敷地面積が狭くなり、竿の部分が20m以上もあれば、旗の部分は狭小地と呼べるくらいに狭い。

クライアントの要望はただ1つ「家の周りにメンテナンス用のスペースを取って欲しい」だった。建て替えだったが前の家では家の周りのスペースが狭すぎてメンテナンスに苦労したようだ。

敷地の旗の部分がただでさえ狭いのに、メンテナンス用のスペースを取ったら、余計に狭くなり、家自体も狭くなる。だから、家の周りのメンテナンス用のスペースをなるべく小さく狭くして、家自体の広さを確保することを考える、これが常套集団だろう。

ただ、それではメンテナンスという、家が建っている間に何回も必要にはならないことのためにスペースを空けておくのは勿体ないし、もっと積極的にクライアントの要望に応えたかった。

だから、家の周り四周に、民法上必要なスペースの倍の巾のスペースを取り、それはクライアントの要望のメンテナンス用のスペースとしては余りあるぐらいの広さであり、そして、その家の周り四周にウッドデッキを敷き、その高さは1階の室内の床の高さと同じにして、1階にあるリビングダイニングスペースが敷地いっぱいまで広がっているような感覚をつくり出し、敷地の狭さ、家の狭さを視覚的にも和らげようとし、尚且つ、積極的に敷地いっぱいを住環境スペースとして利用することを試みた。

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光はどこまでも深く差し込む

真上から光が差し込んでキラキラと波打つ水面に辿り着くまで、階段を何段も降りていく。それはストリートレベルから地下鉄の入り口のような階段を降りて行った一番深いところに緑色の水面がある。

インドの階段井戸の話である。井戸の水面は地中の深いところにあるが、その水面まで地上から真っ直ぐの階段で降りていけるようになっている。地中の深いところにあるから水面の辺りは暗いと思っていたが、水面の真上は真っ直ぐ地上までつながっていて、トップライトのように光が井戸の側壁に反射しながら降り注いでいて結構明るい。

ちなみに、トップライトとは天井に開いている明かり取りの窓のことだが、壁に開いている窓と比べて3倍の光量がある。だから、同じ大きさの窓ならば、壁よりも天井にあった方が空間を3倍明るくする。

「昼間に電気をつけないで生活がしたい」

それがクライアントの奥さんの要望だった。しかも、家族が集まり、奥さんが1日のうちで1番居る場所であるキッチン、ダイニング、リビングは1階にしたいという要望もあった。

その敷地は周りを建物に囲まれていて、狭くはないが、太陽の光が1階に差し込む時間帯はわずかであった。昼間はずっと電気をつけなくてもよい明るさが求められていたが、仮に吹抜けを設けて、2階の天井にトップライトを設置し、1階まで光が差し込むようにしたくても、そうすると、2階に必要な部屋が必要な大きさで取れない。

吹抜けをつくらずに、それでも1階まで光を落としてこなくてはいけない、床が邪魔をする、ならば、光を通す床にすれば良い。

1階のダイニングテーブルの真上、そこは2階の廊下の床であり、ガラスの床であり、その真上にトップライトがある。1階のダイニングテーブルから見上げると空が見える。

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家族だから個室はいらない

お互いに別々なことをしていて、それは同じ時間帯に、同じ空間で、それが当たり前の家族は結構多くて、今まで携わってきた住宅のクライアントにも結構多くて、ただ、家族だから個室に篭って別々になるのは避けたという話は打合せでよく出る。

「だから個室はいらない」

「でも完全にオープンにはできない、娘二人だから」

ある住宅のクライアントから出た要望で、3LDKとか、4LDKなどのプランに慣れ親しんだ人には、空間的に矛盾をしていることになるだろう。

従来のnLDKのプランでは、個人の空間をつくるためには壁で囲うという発想だった。それが必要無いとなると発想を全く変えるしかない。ちなみに、声や物音がしても、気配を感じても良いそうだ。

ならば、個人の空間をつくるということではなくて、必要な時に隠れることができる場所、すなわち、死角をつくり出すことができれば良いのではないかと考えた。

1階全部をキッチンやリビング、ダイニングスペースと水回りに当て、2階の壁を全部無くして、全て可動間仕切りにし、可動間仕切りを全て閉めれば4つのスペースに区切られるが、開け放しても可動間仕切りの扉が残るので隠れるための死角ができる。

それが、個室はいらないが、完全にオープンにはできない空間への提案であり、採用され実現した。

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最初のイメージが道しるべになる

どこに居ても気配を感じるように、壁で仕切られた場所はあるが、移動すれば必ずどこにいても気配を感じる。つながりたくなれば扉を開ければよい、お互いに顔が見えるし、何をしているのかわかる。それぞれの場所でそれぞれが違うことをしていても、何かがつながっている。

これは前に設計した住宅の構想段階で、クライアントの話を聴きながら、頭の中で思い浮かべたこと。

家族が好きなように好きなことをして好きな場所にいるのだけれども、ひとつ屋根の下でチラッと見えたり、音が聞こえたり、足音に気づいたり、もちろん一緒に居れば、様々な空間のつながりから、光や風が人に優しく届く。

きっとクライアントの家族がみんな家に居るのが好きだったので、ならば家の中にたくさんの居場所をつくり出し、その居場所はお互いにちょっとずつ空間的なつながりがあるから、その都度好きな居場所を選んでも、お互いにお互いを感じられる、そういう住宅をつくろうした。

具体的なプランに入る前のこういう漠然としたイメージが最後の完成へと導く道しるべになる。

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"The first image becomes a guide"

There are places that are partitioned by walls so that you can feel the sign wherever you are, but when you move, you will always feel the sign. If you want to be connected, just open the door, you can see each other's faces and you can see what you are doing. Something is connected even though each place does different things.

This was the idea of ​​the house I designed earlier, which I had in mind while listening to the client.

They do what they want and do whatever they want, but they can see a glimpse under one roof, hear a sound, notice footsteps, and of course, various spaces if they are together. Because of the connection, light and wind reach people gently.

I'm sure that all the client's families loved staying at home, so I created a lot of places in the house, and those places have a little spatial connection with each other, so I choose the place I like each time. But I tried to make such a house where we can feel each other.

Such a vague image before entering a concrete plan is a guide to the final completion.

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まず王道、定番へいく

建築物の大きさの限界は敷地の大きさで決まる。広い敷地には大きな建築物が建ち、狭い敷地には小さな建築物が建つ。それは当たり前のことだが、建築物の大きさの違いの意味はこれだけであり、大きさの違いが建築物そのものの優劣を示すものでは無い。

どこに建つか、都心であろうと、郊外であろうと、地方であろうと、山や海に近くても、それは建築物の建つ場所がどこかを選ぶだけのことであり、建つ場所で建築物そのものの優劣は決まらない。

建築物を建てる予算が有ろうが無かろうが、できあがるのは建築物であるのだがら、予算の有る無しが建築物そのもの優劣には直接関係が無い。

そうやって、ひとつひとつ紐解いていくと、まだまだ解き明かしていくことはたくさんあるが、クライアントにとっての王道、定番となる建築物が出現してくる。

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"First, go to the classic road"

The size limit of a building is determined by the size of the site. Large buildings are built on large sites, and small buildings are built on narrow sites. That is obvious, but this is the only meaning of the difference in the size of the building, and the difference in size does not indicate the superiority or inferiority of the building itself.

No matter where you build it, in the city, in the suburbs, in the rural areas, or near mountains or the sea, it just means you choose where to build the building, and the building itself The superiority or inferiority is not decided.

Whether or not there is a budget to build a building, but the result is a building, but without a budget, there is no direct relation to the superiority or inferiority of the building itself.

By unraveling each one in this way, there are still many things to unravel, but a royal road for clients, a classic building will emerge.

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暮らしがどのくらい変わるのか

暮らしが変わるのだろうか、大きく変わるという人もいて、今まで変えようとして変えることができなかったこと、リモートワークや電子認証などのデジタル変革がたった2ヵ月で起こり、働き方改革も一気に進むから、東京から地方へ、多拠点生活に、都市生活を補完するような地方暮らしをする人が増えるという見方がある一方で、世界的には来年には今年起こったこと、新型コロナ渦は無かったことになるだろうという人もいるし、今この混乱期にいち早く動いて、周りが止まっている間にシェアを拡大した大企業もある。

全く暮らしが変わらないということは今さら無いだろうが、どのくらい変わるのか。時代を振り子に例える人は、大きく揺れれば、振幅は大きくなり、小さければ、振幅も小さいという。

今回の新型コロナが及ぼした影響は、たくさんの死者を出し、経済的にも大きなダメージをもたらしたので、とても甚大ではあったが、暮らしに関しては巣篭もりするという、今も続く初めての経験をしていても、そのための手段はリモートワークにしても、今までSkypeやテレビ電話で行ってはいたし、日用品の配送はAmazonフレッシュ、フードデリバリーはUber Eatsなど既存のサービスを使うことで解決でき、なかなか思うように外出できないなどの不自由な思いをしながらも、慣れてくれば以前とさほど変わらず、むしろ新たな発見や試みにより、今回の新型コロナ渦を暮らしの精度を上げるために利用している人さえもいて、影響と被害は甚大だが、暮らしに対する振り子の振れ幅は小さく済んでいるような気がする。

だから今は、暮らしが大きく変わるようには思えず、ウィズコロナ用の対策がワクチンができるまでプラスされ、その期間が長く続くというぐらいの変わりようなのかなと思ってしまう。

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"How much will life change?"

Some people will change their lifestyles, and it will change drastically.Because they could not change it until now, digital transformation such as remote work and electronic authentication will occur in just two months, and work style reform will progress at once. While there is a view that more people will live in rural areas that complement urban life from Tokyo to rural areas, there is no new corona whirlpool next year next year. Some would say this would be the case, and some large companies have been quick to move into this turmoil and have increased their shares while the environment has stopped.

It's unlikely that your life will change at all, but how much will it change? People who compare the times to pendulums say that if it shakes greatly, the amplitude will increase, and if it is small, the amplitude will be small.

The impact of the new Corona this time caused a lot of deaths and caused great financial damage, so it was extremely huge, but I had a bird's-eye-like experience in my life. However, even if remote work is used as a means for that, I have been using Skype or videophone until now, I can solve the problem by using existing services such as Amazon Fresh for daily necessities and Uber Eats for food delivery, which is quite easy. Even though I feel like I can not go out as I want, if I get used to it, it does not change much as before, but rather by new discoveries and trials, I am using this new corona vortex to improve the accuracy of life There are even some people, and the impact and damage are great, but I feel that the swing range of the pendulum with respect to life is small.

So now, I don't think my life will change significantly, and I wonder if the measures for Wiscorona will be added until a vaccine can be made, and that period will last for a long time.

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機能性が高い詰め込み過ぎの暮らしでは

家にいる時間が長いと、いつもよりやることが決まってきてパターン化してくるから、段々と何事もムダなく、効率的に行うようになり、本来ならば、そこに変化を加えたくて外に出たくなるのだが、それもままならないから、余計に効率的で機能性が高い暮らしになっていくが、それがかえってストレスや飽きにつながるような気がする。

だから、ちょっと緩く、主に時間にゆとりを持たせて、
どうせ仕事は思うようには進まないから、すき間が生まれるようにすると、なぜか勿体ないような気がして、今度は余計なことをしてしまう。

何かをたくさん詰め込んで効率的で機能性が高いことは良いが、本来何がしたかったのかがわからなくなってしまう。

本当はもっと日常や暮らしを楽しみたいのだが、時間に追われる羽目にならないようにする術が今ほしい。

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"In a highly packed life with high functionality"

If you stay at home for a long time, you will have to decide what to do more than usual and it will become a pattern, so you will be able to do things gradually and efficiently, and if you want to make changes there, outside I want to get out of it, but I can't do that anymore, so I'm living a more efficient and highly functional life, but I feel that it leads to stress and tiredness.

So, let's relax a little, mainly to allow time
I can't do my job anyway, so if I try to create a gap, I feel like it's wasteful for some reason, and I'm doing extra things this time.

It's good that it's packed with a lot of things and efficient and highly functional, but you don't know what you originally wanted to do.

I really want to enjoy my daily life and life more, but now I want a way to prevent you from having to spend time.

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機能性以外の他の何かが必要になってくる

「機能性」という言葉がある。よく使う言葉、よく考える言葉、衣食住に出てくる言葉。機能性の衣類は、例えば、機能性肌着のヒートテック、機能性表示食品は、例えば、トクホの食品であり、住における機能性は「効率性」と言い換えた方がわかりやすいかもしれない。

機能がまずあり、それに対応したプランが決まり、部屋の役割が決まる。その時にムダな動きは無いか、ムダなスペースは無いか、要するに、そこに与えられた機能を余すところ無くプランに反映しているか、効率良く機能を発揮できるプランになっているか、それができていれば「機能性が高い」となる。

よって、機能性は客観的な数値で表現できる。だから、クライアントを説得する材料として機能性は最良であり、数値で表現できるから、誰でも扱うことができる。

衣食住がテクノロジーの成果だとしたら、機能性のように客観的な数値で表現できることは当たり前であり、それでクライアントに納得してもらうことは必要なことではあるが、テクノロジーだけで衣食住が成り立っている訳ではない。

テクノロジー偏重になり過ぎると、テクノロジーだけで、客観的な数値だけで、住を満たそうと普通にする。それに対してクライアントも何も疑問を抱かずに、それが当たり前だと思っている。

しかし、よく考えれば、自分たちの暮らしを全て客観的な数値だけで表現できる訳が無く、主観的な感情なども入り交じってくるのに、そのような主観的な感情などを受け止めるようなことは機能性の中には含まれない。ならば、機能性以外の他の何かが必要になってくるだろうに。

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"I need something other than functionality"

There is a word "functionality". Frequently used words, thoughtful words, words that appear in food, clothing and shelter. Functional clothing is, for example, heat tech for functional underwear, and functional labeling food is, for example, food from Tokuho, and it may be easier to understand that the functionality in living is "efficiency".

There is a function first, the plan corresponding to it is decided, and the role of the room is decided. At that time, there is no useless movement, there is no useless space, in short, whether the functions given there are reflected in the plan completely, or whether it is a plan that can efficiently perform the function, If so, it is "highly functional".

Therefore, the functionality can be expressed by an objective numerical value. Therefore, the functionality is the best as a material to persuade the client, and since it can be expressed by a numerical value, anyone can handle it.

If food, clothing and housing are the result of technology, it is natural to be able to express them with objective numerical values ​​like functionality, and it is necessary to convince the client with that, but technology alone is the basis for food and clothing. Not a translation.

If technology becomes too weighted, it will be normal to fill housing with only technology and objective numbers. Clients don't question anything about it, and they take it for granted.

However, if you think carefully, there is no reason to be able to express all of your life with only objective numbers, and even if subjective feelings are mixed in, you should accept such subjective feelings. Is not included in the functionality. Then I would need something other than functionality.

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建築に思って欲しいこと

建築をどうやって認識するかなんて考えたことが無い人がほとんどだろう、どうやって利用するかは考えるだろうけれども。

建築をつくる側にいると、この建築はどのように見えるのだろうか、どのように感じるのだろうか、この空間に入った時、光の見え方はどうだろうか、視線がどのように抜けていくだろうか、歩きながら目線が連続的に変化していく中で、何を感じ、何を見て、どのように思うだろうか、時には歩き、時には座り、時には立ち止まる、そうやって、設計時から抱いていたイメージと現実を擦り合わせし、住宅ならば、ここでこれから暮らしをはじめるクライアントに想いを馳せ、修正した方がいいと思えば、その場で変更を加えたりもする。

まず最初に建築をどうやって認識するかから入る。それは建築を学びはじめた時から当たり前のように行ってきたことだが、クライアント側に立てば、決してそれは当たり前のことでは無くて、広さや大きさや使い勝手などが一番最初に大事なことになり、それは建築そのものの建築的な価値を見るというよりは、不動産としての建築の価値を見るようである。

建築には事業という側面もあるのだから、不動産としての価値が大事なのも当たり前ではあり、それを第一に持ってくるのは仕方が無い場合もあるが、それでは立つ場所や予算や広さ、大きさで優劣が決まってしまうかもしれない、それは惜しい。

建築をどうやって利用するかは少し抑えめにして、建築そのものをどうやって感じて、どのように認識するのがいいのだろうか、暮らしのためには、という考え方もあるかもしれないと思って欲しい。

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"What you want the architecture to think about"

Most people haven't thought about how to recognize architecture, though they will wonder how to use it.

If you are on the side of building architecture, what does this building look like, how do you feel it, how does the light look when you enter this space, how do you gaze? What do you feel, what you see and what do you think, while your eyes are changing continuously while walking, sometimes walking, sometimes sitting, sometimes stopping, so from the time of designing If you think it is better to revise the image you were embracing and the reality, to think about the housing you are living in here, and make corrections, you can make changes on the spot.

First of all, we start by how to recognize architecture. It's been a matter of course since I started to learn architecture, but on the client side, it's not a matter of course, but the size, size, and usability are the most important things. It seems to see the value of architecture as real estate, rather than the architectural value of architecture itself.

Since there is also a business aspect to construction, it is natural that the value as real estate is important, and it may be unavoidable to bring it first, but then, where it stands, budget and area, It might be decided that the size is superior or inferior, which is a shame.

I think that there may be a way of thinking about how to use architecture, how it should be felt and how it should be perceived, while limiting how it is used.

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より多様で人に寄り添う建築を生み出すには

建築をどうやって認識してもらうか、クライアントに。

光に感動してもらいたいと考え設計するのは、建築を評価する指標が予算やプラン、敷地の場所や周辺環境などの優劣だけでは無いことを知ってもらいたいからである。

そして、更には、日常の中で建築をどのように認識するかが大事で、その認識の仕方しだいで、例えば光の話でいえば、朝陽が室内で拡散し光の粒で充満されたように感じたならば、それは爽やかで気持ちいいことであり、それはその空間でしか体験できないことだと思えれば、朝陽を毎日感じ取ることにより、爽やかな気持ち良さと一緒にその空間をも感じ取ることになり、それが日常の中で毎日起こるならば、その爽やかな気持ち良さは建築や空間があるおかげとなり、朝陽を毎日感じ取ることが、予算が潤沢にあることよりも、敷地の場所や周辺環境が良いことよりも優先されるようになる。

そのように、建築を評価する指標において、予算や敷地の場所や周辺環境などの優劣に左右されない指標があり、その指標が予算や敷地の場所や周辺環境などの優劣よりも優先された方が、より多様で人に寄り添う建築を生み出す可能性につながる。

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"To create more diverse and close-to-people architecture"

Ask clients how to recognize architecture.

The reason why we design with the impression of light is that we want to know that the indicators for evaluating a building are not limited to the superiority or inferiority of budgets, plans, site locations and surrounding environments.

Furthermore, how to recognize architecture in everyday life is important. Depending on the way of recognizing it, for example, in the case of light, the Chaoyang diffused indoors and was filled with particles of light. If you feel that it is refreshing and comfortable, and if you think that it can only be experienced in that space, by feeling the morning sun every day, you will also feel that space with refreshing comfort, it If it happens every day in everyday life, the refreshing comfort is thanks to the architecture and space, and feeling the morning sun every day is better than having a rich budget rather than having a good place and surrounding environment Will also be prioritized.

As such, there are indicators that do not depend on superiority or inferiority such as the budget, location of the site, surrounding environment, etc. in the indicators for evaluating the building, and it is better if that indicator is given priority over superiority or inferiority such as the budget, location of the site or surrounding environment. , Will lead to the possibility of creating architecture that is more diverse and closer to people.

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建築における光の話

光を意識するようになったのは建築を勉強しはじめてからだ。建築家の作品を見学する場合の見るべきポイントのひとつとして光の入り方があり、最初はそういうものかと思いつつ、自分なりに光の入り方を意識して観察し、どういうものか、どのように感じるかを積み重ねていった。

どうして光の入り方が見るべきポイントなのかというと、建築をどのように美しく見せるかと考えていった場合、そのまま見せるよりは何か演出をしたいとなり、建築は変化せずに動かないもの、光は時刻に応じて変化していくもの、そういう意味では建築と光はものの性質上、全く正反対のものであるから、かえってその差が演出上とても効果があると考えたのだろう。

ただ、光を意識することは、人から植え付けられた見方であり、自発的に気づいた見方では無かったので、光を意識していれば建築を理解できるのだから、という程度の興味しかなかった。

その後、より光を形として意識し、デザイン要素として考えはじめるようになったのは、北欧とインドの建築を訪れてからだ。

北欧で見た光は拡散した間接光であり、室内空間を淡い光が全体的に包むような感じがあり、光を形としてデザインしたというよりは、光を粒状にして空間全体にばらまいたような感じだった。

逆に、インドで見た光は鋭く指すような光で、同時に影をつくり出していたが、その時に感じたのはむしろ影が先に存在していて、その影と影の隙間に明暗をはっきりさせながら、鋭い光が割って入ってくるような感じだった。

そもそも北欧とインドでは気候が違い過ぎて 本来ならば、そのように建築を環境の面から比べるのは無理があるが、光を意識することにより、各々の建築の違いを比べて目で見て感じ取ることができ、光がむしろ建築に地域性という要素を与えていることに気がつき、では、より光を美しくみせて、それが室内空間への演出になり、クライアントが感動するにはどうしたらいいのだろうと自然に考えるようになった。

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"The story of light in architecture"

I became aware of light only after I started to study architecture. One of the points to watch when observing the work of an architect is how to enter the light. Thinking that it is that kind of thing at first, but observing the way how the light enters, and wondering what it is. I accumulated what I felt.

The reason why the way of entering light is the point to see is that when I was thinking about how to make the architecture look beautiful, I wanted to do something rather than show it as it is, the architecture does not change without changing, the light Is something that changes with time, and in that sense architecture and light are the exact opposite of each other in nature, so I think that the difference would be very effective in terms of performance.

However, being conscious of light was a perspective that was planted by people and was not a spontaneously recognizable perspective, so I was only interested in the fact that I could understand architecture if I was conscious of light. .

After that, I began to think more about light as a form and to think about it as a design element only after I visited the architecture of Northern Europe and India.

The light seen in Scandinavia is diffused indirect light, and there is a feeling that the interior space is totally surrounded by faint light, rather than being designed as a shape of light, it seems that the light is granular and scattered throughout the space. It was like that.

On the contrary, the light I saw in India was sharply pointing light, and at the same time, it was creating a shadow, but what I felt at that time was that the shadow existed first and the light and darkness was clearly visible in the gap between the shadow and the shadow. While letting it go, it felt like a sharp light was breaking in.

In the first place, because the climate is too different between Northern Europe and India, it would be impossible to compare architecture in terms of the environment, but by conscious of the light, we can compare the differences between the architectures and see them visually. I could feel it and realized that the light rather gives the architecture an element of locality, so what should I do to make the light more beautiful and to create an indoor space and to impress the client? I came to think naturally.

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光の記憶、建築体験。

一番最初の建築体験は光に魅せられた時だった。どうして人は光に魅せられるのだろうか、毎日毎日、太陽の光を浴びているのに、その都度感動はしない。

その時、建築は光の形をデザインするのだと思った。光量も含めて、時間に沿わせて刻々と変わる光に形を与えることにより、人に光を特別な存在に思わせているのではないか。

例えば、教会のステンドグラスはガラス自体に装飾や物語が施されているが、そのステンドグラスを通した光にも装飾や物語といった形を与えることになり、ステンドグラスと共に光も特別な存在となしている。

やはり、光が特別な存在になり得るのは、ひとつは天から全てに一様に降り注ぐためであり、もうひとつは万物に恩恵をもたらすからだろう。「一筋の光」という言葉があるように、人は光にメタファーとして希望を感じ取っている。

要するに、「一筋の光」もそうした人、すなわち、光にメタファーとしての希望を抱く人が無意識のうちに形をデザインしたようなものであり、建築はその手段となり得る存在であり、その光に魅せられた人が光と共に建築に対しても特別な感情を抱くのであり、それが素晴らしい建築体験として記憶されるのだろう。

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"Memory of light, architectural experience"

The first architectural experience was when I was fascinated by light. I wonder why people are fascinated by the light, and even though I am exposed to the sunshine every day, I am not impressed each time.

At that time, I thought architecture designed the shape of light. By giving shape to the light that changes with time, including the amount of light, it may make people think of light as a special existence.

For example, church stained glass has decorations and stories on the glass itself, but the light passing through the stained glass also gives shapes such as decoration and story, and together with the stained glass, the light is also a special existence. ing.

After all, light can be a special existence, partly because it pours evenly from heaven to all, and partly because it benefits all things. As the word "a ray of light" implies, people perceive light as a metaphor.

In short, "a line of light" is like that person, that is, a person who has a hope as a metaphor for light unconsciously designed a shape, and architecture is a means that can be the means, The fascinated person will have a special feeling for the architecture with the light, and it will be remembered as a wonderful architectural experience.

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想像できるくらい先のことでいい

人はどこの辺りで認識をするのが一番心地よく感じるのだろうかと考えていた。

今現在の日常より良くなると認識できれば、当然心地よく感じるだろうが、今現在の日常より悪くなると認識したならば不快になるだろうし、今現在の日常と変わらず同じでも不快では無いかもしれないが、ただ心地よいとも思わないだろう。

では、今現在の日常より良くなるとして、今現在の状況からは想像できないくらいに良くなるとしたら、それはどうだろうか、想像できないくらいに良くなるのだから、凄く心地よくなるのだろうか。

もしかしたら、それはそれで不快かもしれない。自分が想像できないくらいのことは、例え凄く良くなることがわかっていても、想像できないことで不安や心配が湧き上がってきて、それは自己防衛本能が働くからか、素直に心地よくはなれないかもしれない。

結局、人は自分が想像できる範囲で良くなることが一番心地よく、それは今現在の位置より自分の手が届く所くらいまでの前進で良いのかもしれない。

これはあくまでも建築やデザインやものづくりのはじめの目標設定の話だが、今現在の状況に照らし合わせても、それは完全にコロナが終息する状況が早く訪れることが一番良いのだが、それに対して誰も明確な答えを出すことができないのならば、人が想像しやすい時間の単位毎に、例えば1週間毎に、今現在までの状況分析からのリスク説明を伴う出口戦略を示してもらえれば、ただStay Homeしているよりもこの時間を使って、今現在も行ってはいるが、より少しでも良くなる手段を自分たちでも考え創意工夫できて、精神衛生上もより良くなるし、今現在より少しは心地よくなれると思うのだが、いかがなものでしょうか。

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"It's okay to think ahead"

I was wondering where people would feel most comfortable to recognize.

If you recognize that it will be better than your present day, you will naturally feel comfortable, but if you recognize that it will be worse than your present day, it will be uncomfortable, and even if it is the same as your present day, it may not be unpleasant. I don't think it's just comfortable.

So, if it's better than today's daily life, and it's better than you can imagine now, what's that, and it's better than you can imagine, so it's really comfortable.

Maybe it's offensive. Even if you know that things that you can not imagine can be greatly improved, anxiety and anxiety will rise because you can not imagine, maybe because your self-defense instinct works, you may not be comfortable comfortably .

After all, it is most comfortable for a person to be as good as they can imagine, and maybe it's better to move from where he is now to where he can reach.

This is only about setting goals for the beginning of architecture, design, and manufacturing, but in light of the current situation, it is best that the situation where the corona will completely end soon will come, but to whom If you can not give a clear answer, if you can show the exit strategy with risk explanation from the situation analysis up to now, for each unit of time that people can easily imagine, for example, every week, However, I am spending this time rather than staying home, and I am still doing it now, but I can think and devise ways to improve even a little, I am better in mental health, and now I am I think it will be a little more comfortable, but how is it?

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精度か

コーヒーのマグカップを眺めながら、繊細さはどうやって認識するのだろうと考えていた。

まず形だろう。形がシャープならば繊細に感じる。例えば、樽型よりは糸巻き型の方が繊細に感じそうだ。やはり、樽型では野暮ったく、無骨になるだろう。

次に、厚み。厚みは端部に現れる。端部の処理が細かったり、薄かったりすると繊細さが出て、厚いと繊細には見えない。

あと、色もあるだろう。膨張色である暖色系よりは収縮色である寒色系や、黒やグレーや白のような無彩色の方が繊細に感じそうだ。

そして、精度。もしかしたら精度が一番大事かもしれない。精度とは全体のつくりの精密さであり、きっちりとしていて狂いがない様で、精度が高い方が繊細に見える。もしかしたら、形が樽型でも、厚みが厚くても、色が暖色系でも、精度が高ければ、それだけで繊細に見えるはずだ。

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"Accurate?"

Looking at the coffee mug, I wondered how to recognize the delicacy.

First of all If the shape is sharp, it feels delicate. For example, the wound type seems to be more delicate than the barrel type. After all, the barrel type will be dull and clunky.

Next, thickness. Thickness appears at the edges. If the edge treatment is thin or thin, delicateness appears, and if it is thick, it does not look delicate.

There will also be colors. It seems that cold colors, which are contracted colors, and achromatic colors, such as black, gray, and white, are more delicate than warm colors, which are expanded colors.

And precision. Perhaps accuracy is the most important thing. Precision is the precision of the whole construction, it seems to be tight and there is no deviation, and the higher precision looks delicate. Maybe even if the shape is barrel-shaped, thick, or warm-colored, if it has high accuracy, it will look delicate by itself.

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自分を中心に据えてみると

普通に認識していた空間が違って見える瞬間を考えていた。

認識する側、すなわち自分が立ち止まっているか、動いているか、動いていれば場面が転換していくので、その転換ごとに場面を認識するだろう。それはまるで舞台の上のセットのように、それはわかりやすい、セットが転換すればストーリーも変わる。この場合、ストーリーは日常の暮らしに言い換えてもいいだろう。動くごとに日常の暮らしが場面転換し、その都度、空間を含めた日常を認識していく。

では、立ち止まっている時はどのように認識しているか、自分は動かない、でも何かを決起に認識していく、その何かはもしかしたら日常の暮らしそのものかもしれない。ならば、立ち止まった自分を中心に据えて空間を構築してみると、日常の暮らしが直に空間に現れてくるような気がした。

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"When you put yourself in the center"

I was thinking of the moment when the space that I normally recognized looks different.

The recognizing side, that is, whether you are stationary, moving, or if you are moving, the scene changes, so you will recognize the scene at each change. It's like a set on the stage, it's easy to understand, and when the set changes, the story changes. In this case, the story could be translated into everyday life. Every time you move, your daily life changes scenes, and each time you recognize your everyday life, including space.

Then, when I'm stopped, I don't move, I recognize something when I stop, but I think that something is the everyday life itself. Then, when I tried to build a space centered on myself who stopped, I felt that everyday life would immediately appear in the space.

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しょがねぇあ

ふと思い出していた「しょがねぇあ」という口癖を。私の両親は千葉東部の出で、今でも父親の実家は残っており、その口癖は伯母がよく言っていた。

いつも優しい伯母はよく会話の最後に「しょがねぇあ」とつけ加えて吐き捨てるように言う。普通に会話をしていて、自分ではどうしようも無いことや、ちょっとでもできないことや、無理なことになるとその口癖で終わる。

言葉だけを字にして見ると、諦めてしまうネガティブな印象を受けるが、実際にその言葉を声として聴くと、なぜか心地よく、癒される。

自分ではどうしようもできないことは無理をせずに「しょがねぇあ」と言って手放し、できることだけをやる。そんな無理のない生活を田舎でずっとしてきて、何事も乗り越えてきた人にしか出せない声のトーンが耳についていて、ときどき無意識に自分でも「しょがねぇあ」と言ってしまう。

ただ、その一言で切り替わり乗り越える強さを、都会に住む人では到底身に付かないしなやかな強さを感じるからこそ、真似して「しょがねぇあ」と唱えたくなる。

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"Shogane"

I suddenly remembered the habit of "shoganaea". My parents were from eastern Chiba, and my father's parents' home is still there, and my aunt often said that.

A gentle aunt always adds "Shoganeea" at the end of a conversation and tells her to throw it away. When I have a normal conversation, I end up with that habit when I can't help myself, what I can't do at all, or when it becomes impossible.

Looking at only the words in a word gives the negative impression of giving up, but when I actually hear the words as a voice, it feels comfortable and healed for some reason.

Don't overdo things you can't do without saying anything, let go, let go, and just do what you can. I have lived such a comfortable life in the country all the time, and I hear the tone of voice that only people who have overcome anything can hear, and sometimes I unconsciously say "I don't know."

However, it is tempting to imitate the strength of switching over with just one word, because it feels supple enough that people living in the city can't get it.

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蓄積してきたモノやコトを活かせばいい

普通のことや当たり前のことをちょっとだけ変えながら人の営みは過去から未来へと繋がっていくのだろう。それはある日突然急激に変化することでは無くて、過去に得た知識や感情などを素にして、未来へと過去からの延長線で繋ぐ。

あまりにある日突然急激に変化することは、戸惑うだけで誰もついて来れないし、そもそも急激に変化することを誰も望んで無く、徐々に緩やかに変化していかないと誰も順応できない。

人の営みによる日常は、何があろうとも、それ程簡単には大きく変わらない。今の状況での在宅ワークやリモートワークにしても、そもそも元々ある技術を使い、働き方改革の延長で捉えることができるから誰でもそれなりに順応できていて、尚且つ、新鮮で新しくも思える。

だから、必ずしも新しいことでなくても、今まで蓄積してきたモノやコトをちょっとだけ上手く活かしてやれば、乗り切れることはたくさんあるだろう。あとはそれをどう活かすか、その方向性を誰がどのように決めるかだけかもしれない。

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"You can make use of the things and things you have accumulated"

It seems that people's activities will be connected from the past to the future while slightly changing the ordinary and ordinary things. It is not something that changes suddenly one day, but it connects to the future with an extension of the past, based on the knowledge and emotions acquired in the past.

Sudden sudden changes in one day can be confusing, and no one can bring them. In the first place, no one wants to change suddenly, and no one can adapt unless they change gradually.

No matter what happens, the daily life of people does not change so easily. Even in the case of home work or remote work in the current situation, it is possible to use the existing technology in the first place, and it can be understood as an extension of work style reform, so anyone can adapt as it is, and it seems fresh and new.

Therefore, even if it is not necessarily new, if you make good use of the things and things that you have accumulated so far, there will be many things you can survive. All that may be left is how to use it, and who decides the direction.

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今、気が休まる建築を考えてみると

ずっと家にいる、飽きるぐらい家にいる、普段から在宅ワークなので、この状況になっても何も変わらずに生活をしていても、やはり自由に外出できないと、最初はストレスかな、疲れかなと思っていたけれど、どうも違うようで、場面が展開しない、循環しないことへ違和感のような感じがずっと続いている。

どういうことかというと、以前は、家にいる、そして、外出する、また家にいるが繰り返されることによって、自分が置かれる環境が変わり、それに応じて準備をしたり順応したりして、その都度、心身ともに変化があり、違う環境を認識して、心身や環境の違いを認識して、それが心身ともに活性化になり、良い循環をしていたのだろう。

その良い循環が無くなったので、ずっと同じ心身の状態で止まっているように感じる。たぶん、それは散歩をしたり、ジョギングをしたり、生活必需品を買いに出たくらいでは大して変わらない。

早く自由に外出できるようになってもらいたいのだが、ずっと家にいることで良い循環が途切れてしまうことを家の、建築の課題として捉えることができないだろうか、いい機会だから自ら実験台になって考えてみたいと思った。ただ、個人的な認識が先行するかもしれないけれど。

どうも身体を動かすことによって、環境や建築や空間の違いを認識しているようで、ただそこに立ち止まっていてはごく一部しか認識しておらず、たぶんそれはその必要性か無いから、別に環境や建築や空間の違いを認識しなくてもその場にはいられるからで、そこが課題のひとつのポイントかもしれないが、この状況では本来、家は安全地帯になり、そこにいるだけ気が休まり、良い循環が途切れてしまうことは別に問題にならないはずだが、そうでは無い。

つまり、人は身体を動かし続ける、あるいは、身体を動かす自由が存在しないと、いくら家という安全地帯にいても気が休まったり、心身ともに正常な状態を保つことができないようである。

ならば、その課題を建築的に解決しようとしたら、アクティビティの問題であり、アクティビティによって環境や建築や空間を認識できるようなプランニングなり、設えなり、状況なり状態をつくれば良いと一応安易に大枠の考えには及んだ。

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"Considering an architecture where people can relax now"

I'm always at home, tired of being at home, and I usually work from home, so even if I'm living in this situation without any change, if I still can't go out freely, at first I feel stressed or tired. As I thought, it seems that it is different, and the feeling that something is wrong with the scene does not develop and that it does not circulate.

What I mean is that when I was at home, going out, and staying at home repeatedly, my environment changed, and I prepared and adapted accordingly. Each time there was a change in mind and body, recognizing a different environment, recognizing the difference between mind and body and the environment, and activating it both mentally and physically, which would have been a good cycle.

Since that good cycle has disappeared, I feel like I'm still staying in the same state of mind and body. Maybe that's not much different than taking a walk, jogging, or shopping for essentials.

I would like people to be able to go out freely as soon as possible.Isn't it possible to regard the fact that staying at home for a long time disrupts the good cycle as an architectural issue for homes? I wanted to think about it. However, personal recognition may come first.

Apparently, by exercising your body, you seem to recognize the differences in the environment, architecture, and space, and when you are just standing there, you are recognizing only a small part of it. Maybe it is not necessary, so another environment It may be one point of the issue because you can enter the place without recognizing the difference in architecture and space, but in this situation, the house originally becomes a safe zone, and I feel like being there. It shouldn't be a problem that rest and breaks in a good cycle, but it's not.

In other words, a person seems to be unable to maintain a normal state of mind and body no matter how much he or she is in the safety zone of the home, unless he or she continues to move or does not have the freedom to move the body.

Then, if you try to solve the problem architecturally, it is a problem of the activity, and it is easy to roughly plan if it is necessary to plan, set up, and create a situation that can recognize the environment, architecture and space by the activity. Came to the idea.

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後のこと

建築や建築家が日常や暮らしと結びついた存在ならば、今この状況の中で対処療法的に不自由さと向き合いつつ、アフターコロナの日常や暮らしを考えて、そこに焦点を合わせているだろう。

日常や暮らしと結びついていない建築や建築家の方々もたくさんいるだろうし、過ぎ去れば何も変わらない日々がまた訪れるから、今は巣篭もりしていればいいと割り切れる人たちもたくさんいて、それとは対照的に巣篭もりしたくてもできない人たちもたくさんいる。

どの社会的立場、別の言い方をすれば、どの階層から見るかによって、アフターコロナが違う。

別にわざわざ変える必要性も無いと思うかもしれないし、周りが変われば変わらざるを得ないと思っているかもしれないし、積極的に、あるいは生き残るために変えていこうと考えるかもしれない。

今までも何度か、この後の世界は変わるだろうと言われたが、何も変わらなかった。それ程、過去から未来への時間軸の流れは強固であり、人の営みはそんなに柔ではないし、建築は自身では変える能力を持たず、哲学的や社会的な変容を必要とするので、リニアには変わらない。

しかし、今回はどうだろうか。人の営みは生まれて最後は死ぬという絶対真理と時間軸の流れの掛け合わせで決まるが、その最後の死を今、毎日見せつけられて、毎日考えさせられるこの状況で、変わらずにいられるのだろうか、それとも風化して何事も無かったように戻るのだろうか、などとちょっと考えてみたくなった。

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"After"

If architecture and architects are connected to daily life and daily life, they will be facing the inconvenience of coping therapy in this situation, thinking about everyday life and life of after-corona and focusing on it. .

There may be many architecture and architects who are not connected with everyday life and life, and when they pass by, the days when nothing changes will come again, so now there are many people who can divide that it should be a nest, and that. In contrast, there are many people who want to keep their nest but cannot do it.

The after-corona differs depending on which social position, or in other words, from which level you are looking.

You may not think there is a need to change it, you may be forced to change if your surroundings change, and you may think positively or change to survive.

I was told several times that the world after this would change, but nothing changed. To that extent, the flow of time from the past to the future is strong, human activities are not so soft, and architecture does not have the ability to change by itself, and it requires philosophical and social transformation, so it is linear. Does not change.

But what about this time? People's activities are decided by the combination of the absolute truth of being born and finally dying and the flow of time, but in this situation where the last death is shown every day and made me think everyday, I can remain unchanged I wondered if it would be weathered or would it return as if nothing had happened.

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素晴らしい普通が待っている

良くもなく、悪くもなく、普通というと、何となくそれは悪い部類に含まれるような気がして、少なくとも良い部類では無いように思う。たまに、普通が一番、という言葉を耳にするが、それも当たり障りが無いから、飽きることが無いなど、決して良い訳では無いが、かと言って極端に悪い訳でも無い、ちょっと良いか、ちょっと悪いかが許容範囲くらいのことで、それはそれくらいで収めるのが丁度良いということなのだろう。

ただ、その普通の内容がいつも同じであるということは無く、その時代、その時々で変わる。例えば今ならば、制限の多い暮らしを送っているので、普通にできることも制限されるから、コロナ以前の普通がとても良いもの、素晴らしいことに感じる、その時はそれが普通だったのに、そう思うとストレスになる。

アフターコロナでは普通が変わる。今が普通で、コロナ以前の普通が飛び切り素晴らしいことに格上げされるから、アフターコロナではコロナ以前に戻るだけでも、普通の日常が、暮らしがより豊かに感じるようになるのではないか、同じなのに。

普通に注目して、以前と今、今と以後を比べてみたら、こうして家に篭っている状況が、アフターコロナの飛び切り素晴らしい普通の日常や暮らしを楽しむためには必要なこと、その準備のためとは思えないだろうか。

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"A wonderful normal is waiting"

It's good, it's good, it's normal, and it feels like it's part of the bad category, at least not the good category. Occasionally, I hear the word "ordinary is the best", but it's also not disturbing, so I'm not tired of it, but it's not a good reason, but it's not an extremely bad thing, a little good or a little What is bad is about the acceptable range, and it means that it is just good to put in that amount.

However, the usual contents are not always the same, and they change from time to time. For example, now that I am living a limited life, I am also limited in what I can do, so I feel that the normal before Corona is very good, it feels great, I think it was normal at that time, I think Becomes stressful.

Ordinary changes in after corona. It's normal now, and the pre-Corona normal is jumped up to a wonderful level, so even after returning to the pre-Corona after-corona, it seems that normal everyday life will make your life richer. .

If you pay attention to normal, and compare before and now, and after that, the situation of staying in the house like this is necessary for enjoying the wonderful ordinary everyday life and life of after corona, the preparation of it. Don't you think it is worthwhile?

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ソーシャルディスタンスで信頼関係を保つ

距離を取る、ソーシャルディスタンスなんて聞き慣れない言葉が普通になった。こんな単純なことがウイルスに対して本当に効果的だったのかは後になってわかるだろうが、とにかく得体の知れないものには近づかない方が良いだろうと、場当たり的な対応でも、しておいた方が安全第一でいいと思うのだが、こんな単純な、距離を取る、という対処方法が全てを一変させてしまった。

人と一切会わないでできることはほとんど無いとわかり、距離を取るにしても、手が届く範囲でないとどうしようもなく、それではソーシャルディスタンスが保てず、声が届く範囲で良ければ、わざわざ会う必要もない。

イヤらしい位に心理をもてあそび、アクティビティを封じるウイルスに対して、どうしたものか、リモートやデリバリーで済むならばまだ良いが、直接人と会わないとどうしようもないことも当然ある。

ヒアリングができない。ヒアリングの目的は、相手の話を聴くことでは無い、相手の状況を把握することでは無い、相手の情報を共有することでは無い、それらは全てインタビューであり、直接会わなくても、リモートでも、文書でもできる。

ヒアリングの真の目的は、相手と信頼関係を築くことである。そのためには、飛沫がかかる距離、パーソナルディスタンスに入り込む必要も出てくる。

ウイルスが人の命を奪うこと、これが一番怖くて問題であり、どうしても避けたところだが、それと同じ位に怖くて問題なのが、人との信頼関係が築けずに縁が途切れること、むしろこちらの方が対処が難しいかもしれない、ソーシャルディスタンスを保つ状況では。そして、それが社会の様々な場面でボディブローのように効いてくるだろう。だから、どのような状況になっても信頼関係だけは失わないように気をつけるしかない。

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"Keeping trust with social distance"

Unfamiliar words such as social distance and distance have become commonplace. I'll see later if such a simple thing was really effective against viruses, but I also made an ad hoc response that it would be better not to come close to something strange. I think it's better to put safety first, but such a simple way to deal with distance has changed everything.

It turns out that there is almost nothing you can do without meeting people, and even if you take a distance, you can't do it unless you can reach it. Nor.

It would be good if I could remote or deliver it to the virus that blocks the activity and play with the psychology to the extent that it seems to be unpleasant, but of course there is no way I can do without meeting people directly.

I can't hear. The purpose of the hearing is not to listen to the other person's story, not to understand the other person's situation, not to share the other person's information, they are all interviews, even if you do not meet directly or remotely. You can do it with documents.

The true purpose of hearings is to build trust with the other person. For that purpose, it will be necessary to enter the distance where the droplets are splashed and the personal distance.

It is the most scary and problematic thing that a virus takes a person's life, and I avoided it by all means, but the same fear and problem is that the relationship is broken without building a trust relationship with a person, rather here May be more difficult to deal with, in situations where you maintain a social distance. And it will act like a body blow in various scenes of society. Therefore, no matter what kind of situation, you have to be careful not to lose trust.

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建築で、空気が綺麗になるように

今年は花粉症にならなかった。正確に言うと、新型コロナ騒動がまだ静かだった頃、2月初め位にいつものように目が痒くなって市販の目薬を購入したが、隣国で新型コロナが大流行しだして都市封鎖が行われたら、全く痒くなくなり、いつしか花粉症のことなどすっかり忘れてしまい、新型コロナでそれどころでは無かったので、実はスギ花粉のアレルギーではなくて、大気汚染が原因だったのかもしれない。新型コロナのおかげで空気が綺麗になった。

人間の弱いところにつけ込む。家に篭っていればいいが、それでは息が詰まり、我慢できない弱みに付着してくる。ほんとイヤらしい位に人間の心理を巧みに利用して広がろうとする。

なんか新型コロナに翻弄される。空気が綺麗という意外な恩恵を受けながら、一方で亡くなる方もいるという怖さを感じ、かつてない程の振れ幅にさらされて、この振れ幅の大きさに人間が全然対応できておらず、追いついたと思ったら変異しているような感じ。

いずれも社会を営む人間の歪んだところ、ほころび、脆弱なところ、行き過ぎたところを上手く利用されているような感じで、それに対して場当たり的な対応しかできず、それは新型コロナのことがまだよくわからないから仕方がないが、空気が綺麗になって花粉症にならなかったように、後から振り返ったら、あの時があるから、今こうして良くなっていると言いたい。

ところで、今のこの状況、Stay Homeが何か建築に影響を与えるのだろうか。素直に考えれば、家にいることに関心が出て、家自体に注目が集まるはずなのだが、どうもそうではなくて、むしろ家にずっといてストレスが溜まると、それはまるで会社にいるように、だから、何か対策をしないといけない、例えば、読書をしてみては、お料理なんかはどうですかと、それは個人的には大賛成で、今までしてこなかったことを新たにはじめるのは素晴らしいことなのだが、もっと根本的に家の問題、住宅の問題として考えたい。そして、新型コロナ対応でいうところの空気が綺麗になったような結果を出したい。

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"Make sure the air is clean in architecture"

I didn't have hay fever this year. To be precise, when the new Corona turmoil was still quiet, I got itchy eyes as usual in the beginning of February and purchased eye drops as usual, but the new Corona was very popular in neighboring countries and the city blockade was If it was done, it would not itch at all, and I forgot about hay fever all the time, and it was not the case with the new corona, so it may be because it was not allergic to cedar pollen, but air pollution. The clean air thanks to the new Corona.

Take advantage of where humans are weak. I just need to keep it in my house, but then I am suffocating and attach to weaknesses I can't stand. It tries to spread by making good use of human psychology to the extent that it is really unpleasant.

Somehow the new Corona is at the mercy. While receiving the unexpected benefit of clean air, on the other hand, I felt the fear that some people would die, and I was exposed to an unprecedented swing range, and human beings could not respond to this swing range at all, If you think you've caught up, it feels like you're mutated.

All of them seem to be used well in distorted places, fragile places, vulnerable places, and excessive places of people who run society, and they can only respond ad hocly, and that is why the new Corona is still good. I can't help it because I don't know, but when I look back later, as if the air didn't become hay fever and the air became clean, I want to say that it's getting better now because I have that time.

By the way, will this situation, Stay Home, have any impact on architecture? To be honest, I should be interested in staying at home and paying attention to the house itself, but that's not the case, and if you stay at home and get stressed, it's just like being at a company. , I have to do something, for example, reading, how about cooking? I personally agree with it, and it's great to start something new that I haven't done before. However, I would like to think more fundamentally as a home issue and a housing issue. And I would like to get the result that the air in the new Corona is clean.

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アフターコロナで必要なのは国語力

今の状況がずっと続くようならば、早期に終息してまた同じような日常が送れないならば、人と人との関係性やつき合い方にも変化が起こるだろう。

まだリモートワークには不慣れだと皆承知の上で行い、その不慣れな分は従来のSNSやメールなどで補うことで許されているが、今後は今よりももっと言葉や文字がコミュニケーションを取る上で重要になってくる。

通常のコミニケーションでは、言葉以外に、表情の変化や声の感じや雰囲気などを加味して、何かを伝えようとするが、5Gが当たり前になるまでは、リモートでリアルタイムに詳細に相手に言葉以外の表情や声や雰囲気の違いを伝えるのは難しく、言葉や文字だけで全てを伝える必要が出てくる。

そうなると問われるのは国語力である。国語力が無いと言葉や文字だけで、表情や声や雰囲気の違いで加味できる部分を表現できない。外に出ないで、おうちで読書をしている人も多いと思うが、くしくも、それがアフターコロナの国語力養成にもなっている。

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"What you need for aftercorona is your national language ability"

If the current situation continues for a long time, and if we end it early and cannot live a similar daily life, the relationships and relationships between people will change.

Everyone is aware that they are still unfamiliar with remote work, and it is permissible to supplement the unfamiliarity with conventional SNS and email, but in the future more words and characters will be communicated than now. Will become important.

In ordinary communication, in addition to words, we try to convey something by taking into account changes in facial expressions, feeling of voice, atmosphere, etc., but until 5G becomes commonplace, we can remotely communicate in detail to the other party in real time. It is difficult to convey the differences in facial expressions, voices, and moods except for, and it becomes necessary to convey everything with only words and letters.

In that case, the national language ability is asked. Without Japanese language ability, it is not possible to express the part that can be added by the difference in facial expression, voice, and mood only with words and letters. I think there are many people who do not go out and read at home, but it is also the training of the after-corona Japanese language.

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建築は全て言葉で表現できる

まだ幼い頃、幼稚園にあがる前から遊び場は建築現場だった。大工の父親の後にくっついて、軽トラに乗り、現場で打合せをする父親の目の届く範囲で、現場の中に入って遊んでいた。おが屑を撒き散らしたり、木の切れっ端を拾い集めて積み木のようにしたり、現場だから当然刃物があり、危ないからノミには絶対に近づけなかった。きっと現場の大工さんには邪魔だったと思う。今では考えらない子供が現場の中で遊ぶなんて、でも自分にとって建築現場は遊具だった。

だから、その時の建築体験が身体に記憶として残っているので、自分にとっての建築のはじまりはいつも論理からではなくて感覚からだった。

建築をはじめ感覚で捉えて、自分が受けた印象であったり、見え方であったり、感触であったりなどがまずあり、それから自分が受けたその感覚を自分で自分に説明するように言葉に置き換えて、建築を理解しようとしていた。

だから、建築の全て、デザインからディテールまで全てを言葉に置き換えて表現でき説明できると考えている。

感覚、それを情熱と言い換えてもいいと思うが、建築を何も無いところから情熱を頼りにはじめて、実作として結実させるには論理が必要になり、その論理を使いこなしてつくるには、言葉で曖昧なところ無く示さなければ誰にも伝わらないし、説明できないし、説得できない。

だから、建築は全て言葉で表現できるのである。

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"All architecture can be expressed in words"

When I was little, even before I went to kindergarten, the playground was a construction site. I was playing with the light tiger, sticking after the carpenter's father, within the sight of the father who was on the light tiger and had a meeting at the scene. I scattered the sawdust, picked up scraps of the tree and made it like a building block. Naturally, there were blades at the site, so I never approached the fleas because it was dangerous. I think it was a hindrance to the carpenter on site. It's playground equipment for me, but it's a playground for children that I don't think about now.

Therefore, the experience of architecture at that time is remembered in my body, so the beginning of architecture for me was not always logic but sense.

First of all, there is an impression, a way of seeing, and a feeling that I have received from an architectural sense, and then I should explain the feeling that I received to myself. Trying to replace it and try to understand architecture.

Therefore, I think that it is possible to express and explain everything about architecture, everything from design to detail by words.

It may be called a sense, but it can be rephrased as a passion, but it is necessary to use logic to build a real work by relying on passion from the place where there is nothing in the architecture, and to use that logic to make words, If it is not shown unambiguously, it cannot be communicated to anyone, cannot be explained, and cannot be persuaded.

Therefore, architecture can be expressed in words.

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デザインでシェルターに変わる言葉を見つけないと

ずっと家に篭っていると、今いる場所しか安全地帯が無いと意識すると、今までの自分の家に対するイメージが段々と変わってくる。

アフターコロナには一度全てをリセットした方がいいかもしれない。シェルターとは思いたくはなかったけれど、どうしても自分の家をシェルターだと意識せずにはいられない。

シェルターとしての安全性は、今までは当たり前だと思っていた、自分の家なのだから。だけど、もっと外に出られなくなったら、安全であることが唯一絶対の条件になってしまう、自分の家なのだから。

どうしても、作り手としてはそれは避けたい。家に幻想や希望を抱くわけではないし、そうした情緒を前面に出して訴えるようなものづくりはしたくないのだが、ただ、アフターコロナではシェルターに変わる言葉を見つけないと、デザインで誰も説得できないだろうと考えてしまう。

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"I have to find a word that changes to a shelter in design"

If you stay in your house for a long time, and you realize that there is a safe zone only where you are now, the image of your own home will gradually change.

It might be better to reset everything after corona once. I didn't want to think of a shelter, but I couldn't help thinking of my house as a shelter.

I used to think that safety as a shelter was commonplace, because it is my own home. But if you can't go out further, being safe is the only absolute requirement for your home.

As a creator, I definitely want to avoid it. I don't have illusions or hopes in my house, and I don't want to make things that bring out such emotions to the forefront, but in the after-corona, I can't convince anyone in the design unless I find a word that turns into a shelter. I think about it.

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建築性と諸条件のバランスは7:3

建築が建築として成立するためには、建築性と諸条件を満たすことが必要になる。建築性とは、歴史的蓄積や時代背景などの流行や社会的動向、哲学的思考、審美的見方などであり、諸条件とは、建主の要望や予算、法規、敷地や周辺環境の状況などである。

建築が事業として成立するためだけならば、諸条件を満たすだけでいいが、それではただの建物であり、建物を建築にまで昇華させるには建築性が必要になり、さらには、建築性と諸条件のバランスが重要になる。

それでは、建築性と諸条件のバランスをどのように取ればいいのか。その目安は割合で考え、建築性を7、諸条件を3とする。

ではどうして、その割合なのか。建築性を諸条件に比べて多くする理由は、諸条件の良し悪しに建築の優劣が左右されないためである。どうしても諸条件には良し悪しがでる。予算の有る無し、環境の良し悪しなどは仕方がないことであり、それを後から変えることはなかなか難しい。

しかし建築性は、極端な言い方をすれば、どうにでもなる。どのような建築性を持って建築と向き合うかは設計者しだいであるから、その建築性の割合を多くしておいた方がいい建築ができる可能性が高くなり、諸条件の良し悪しを上手く利用することもできるようになる。

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"The balance between architectural quality and various conditions is 7: 3"

In order for an architecture to be established as an architecture, it is necessary to meet the architectural characteristics and various conditions. Architectural property refers to trends and social trends such as historical accumulation and historical background, social trends, philosophical thinking, aesthetic perspectives, etc., and various conditions include the request of the owner, budget, laws, conditions of the site and surrounding environment. And so on.

If the architecture is only to be established as a business, it is enough to satisfy the various conditions, but it is just a building, and to sublimate the building into the architecture requires architectability. The balance of conditions becomes important.

Then, how should we balance the architectural property and various conditions? Consider the ratio as a ratio, and the architectural property is 7, and the various conditions are 3.

So why is that ratio? The reason why the architectural property is increased compared to the various conditions is that the superiority or inferiority of the architectural condition is not influenced by the goodness and badness of the various conditions. There are good and bad conditions. There is no way to have a budget and the environment is bad, and it is difficult to change it later.

But, in an extreme way, architectural qualities do not matter. It is up to the designer to decide what kind of architectivity to face with the architect. Therefore, it is more likely that good architects will be able to build architects, and the good and bad conditions will be improved. You can also use it.

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建築性が無ければ、ただの建物に過ぎない

諸条件だけでできている建物ばかりである。建築がその時に存在するためには建築性が必要になるはずなのに、それがはじめから無いか、無視されている。それは諸条件が、それを事業性と言い換えてもいいが、優先されているということであり、それは経済性のみが判断材料になっていると言っても過言ではない。

では、建築デザインは諸条件と建築性のどちらに属するのか、本来は建築性のはずなのだが、どうも諸条件に含まれてしまう現状がある。

その時の建築デザインを決めるには、歴史的蓄積や時代背景などの流行や社会的動向や哲学的思考、審美的見方などの建築性が複雑に絡み合い、何をどのように扱うのか、どのように判断するのかを設計者が考え、建築デザインに反映させるのだが、そもそも建築性が無いか、無視をされている現状で、ただ建築デザインという行為は存在しているので、建築性なき建築デザインが諸条件に属していることになる。だから、程度の差はあるがラブホみたいな建築がたくさん存在することになる。

ではなぜ、無くても建物は建つのに、建築性が必要かというと、人間に例えるとわかりやすいかもしれないが、建築性とは人間性に当たる。人間といった場合、それは社会の中での一般的な量的な人を差す、だから誰でもいいが、そこに人間性が加わると特定の個性がある人になる。

すなわち、建築性が無ければ、どこにでもあるただの建物と同じであり、それではその建物を使う建主の個性を反映することは無く、満足させることはできない。だから建築性が必要になる。

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"If there is no architectural property, it is just a building"

All the buildings are made up of only the conditions. Architecturality must be required for architecture to exist at that time, but it is missing or ignored from the beginning. It can be said that the terms are prioritized, even though it may be rephrased as businessability, and it is no exaggeration to say that only economic efficiency is a criterion.

Then, whether the architectural design belongs to the various conditions or the architectural property, which should be the architectural property originally, but there is the current situation that it is included in the various conditions.

In order to decide the architectural design at that time, how to handle what is handled and how to deal with the complicatedness of architectural characteristics such as historical accumulation and trend of the times, social trends, philosophical thinking, aesthetic perspective, etc. The designer thinks whether to make a judgment and reflects it in the architectural design, but in the first place there is no architectural property or it is ignored, there is only an act of architectural design, so an architectural design without architectural property is It belongs to various conditions. Therefore, there are a lot of architectures such as love ho, though to varying degrees.

The reason why it is easy to understand that human beings need to be built to build a building even if it isn't necessary is similar to humanity. When it comes to humans, it refers to the general quantitative person in society, so anyone can do it, but when humanity is added to it, it becomes a person with a specific personality.

In other words, if there is no architectural property, it is the same as any other building that is ubiquitous, and it does not reflect the individuality of the owner who uses the building and cannot be satisfied. That is why architecture is needed.

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建築性なき建築は建築にあらず

建築は、空間と物のバランスで成り立っているが、別の見方をすれば、建築性と諸条件のバランスで成り立っているとも言える。

空間と物のバランスが建築のそれ自体に関することならば、建築性と諸条件のバランスは建築の存在に関することである。

諸条件には、建主の要望や予算、法規、敷地の状況、周辺環境の状況などがあり、建築が事業として成り立つために必要なことである。これに対して建築性とは、建築の歴史的蓄積や社会的動向や哲学的思考や審美的見方や時代背景などの建築がその時に成り立つために要求されることである。

ただ、ほとんどの建築には建築性が無い、諸条件のみで存在している建築ばかりである。それでは建築とは言えず、単なる建物に過ぎず、それでは建主を感動させることはできないだろうと考えている。

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"Architecture without architecture is not architecture"

Architecture is based on the balance between space and objects, but from another perspective, it can be said that it is based on the balance between architectural properties and various conditions.

If the balance of space and things is about the architecture itself, the balance of architecturalness and conditions is about the existence of architecture.

The various conditions include the owner's request, budget, laws, site conditions, surrounding environment conditions, etc., which are necessary for the construction to be successful as a business. On the other hand, architectural property is required for the construction of the historical accumulation of buildings, social trends, philosophical thoughts, aesthetic perspectives, historical backgrounds, etc. to be established at that time.

However, most of the architecture has no architectural properties, and only the architecture that exists only under various conditions. It cannot be said that it is architecture, it is just a building, and I think that it will not impress the owner.

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建築は空間と物のバランス、センスではなく論理

建築のはじまりはいつも建主からであり、建主の要望がまずあり、その要望を満たすのが最低限になる。

ところで、空間は20世紀の発明であり、それまで建築は物としてだけの存在だったのが、そこに空間という見方が加わった。

物であれば人と相対することになるが、空間だと人は包括される。建築を自分の外に置き、その物の存在自体を、全体の有り様を意識するのに対し、空間の中に身を置き、全てを把握することはできないが、指向性を持って、ある断片のみに意識を及ぼして、建築を意識する見方ができた。

建主の要望は大抵空間に関することが多い。日常生活の中ではほとんどの時間を空間の中に身を置くことに費やすので、ある断片のみに意識した要望であることが多い。だから、建主の要望は空間をどうにかすることで解決できることが多い。

そこで、物としての建築が建主には意識されないから、建売住宅も市場では成立するのだろうし、趣味的な建築もできるのだろう。

しかし、建築は物と空間のバランスであり、どちらもそこには論理があり、気分よい日常生活を構築するためには、要望をバランスよく建築に仕立てなければならず、そこにも論理が存在する、そこはセンスではない。

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"Architecture is a balance between space and things, not logic but logic"

The beginning of construction is always from the owner, and there is a request from the owner first, and it is the minimum to satisfy that request.

By the way, space was an invention of the 20th century, and until then architecture was only as a thing, but the view of space was added to it.

If it is a thing, it will face people, but if it is a space, people will be included. You can put the architecture outside yourself and be aware of the existence of the thing as a whole, but you cannot put yourself in the space and grasp everything. I was able to give a consciousness to only one person, and to have a viewpoint to be conscious of architecture.

The owner's request is often related to space. In my daily life, most of my time is spent putting myself in space, so it is often a request that only considers certain fragments. Therefore, the owner's request can often be solved by managing the space.

Therefore, since the building as a thing is not noticed by the owner, it seems that a house for sale can be established in the market, or a hobby can be built.

However, architecture is a balance between things and space, and there is logic in both, and in order to build a pleasant daily life, it is necessary to tailor requests to architecture in a well-balanced manner, and there is also logic there. Yes, that is not a sense.

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壁ばかり毎日見てるから気がついた建築のズレ

毎日毎日、壁を見て暮らしているような感じがする。普段から在宅ワークだが、今までこんなに壁を意識したことは無い。Stay Homeだからか、このような状況だからだろうか、外との境界である壁を妙に意識してしまう。

そこに壁があるだけで安心してしまうのだが、朝日を浴びたり、夕日が差し込んだりすると、それだけで気分が良くなり、それは壁のどこの位置に、どのくらいの大きさの窓があるか、窓も壁の一部、壁が気分を左右するとも言える。

今までは、太陽の位置と周辺環境から、室内に、どの時間帯に、どこまで太陽の光が差し込むかが計算できるので、ここに窓を開ければ気持ちの良い光が差し込むだろう、簡単に言うと、差し込む光の量を設計して、あとはそこにいる人は気持ち良いと思うのが前提だった。

それは、光を取り入れるやり方を設計していただけであり、そこにいる人の気持ち良さを実現することを直に設計していた訳では無かった。そして、そのことに毎日毎日、壁を見て暮らしていて気がついた。

壁があり、そこに窓を開ける、それだけで外ともつながり、差し込む光は当たり前に気持ちが良い、それでは足りなかった、人の気分を受け止めるにはやり方の設計では無くて、人の気分そのものを直に反映できる建築デザインが必要だった。

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"I saw the walls every day, and noticed the architectural gap"

Every day, I feel like I am living by looking at the walls. I usually work from home, but I have never been so conscious of walls. Perhaps because it's Stay Home or this situation, I strangely think about the wall that is the boundary with the outside.

I feel relieved just because there is a wall there, but when the sun rises or the sunset comes in, it makes me feel better, that is where the wall is, how big the window is, It can be said that a part of the wall, the wall affects the mood.

Up until now, it is possible to calculate from the position of the sun and the surrounding environment how much time the sun will shine into the room, so if you open a window here, you will be able to immerse yourself in pleasant light. The idea was to design the amount of light coming in and think that the rest of the people would feel comfortable.

It was only a way of designing a way to take in light, not a direct design of the comfort of the people there. And I noticed that I was living by looking at the wall every day.

There is a wall, there is a window there, it connects to the outside only, and the light that comes in is naturally pleasant, it was not enough, it was not a design of a way to catch the mood of a person I needed an architectural design that could be reflected in.

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建築の外で来年、スプリングコートを着る

せっかく購入したスプリングコートを着ていく機会がなくなった、そもそもマスクをして着るのもと思ってしまう、そんなことを言っている場合ではないのに。

意外と平気、ずっと家に篭っていても外へ行きたいとは思わないし、おかげではかどる、目先の仕事も、その先の道筋をつけることも。

家の中にいて、どう感じるのだろうか。ずっと見ている壁が今は自分が行動できる範囲、それが今の自分が身体で感じることができる世界の全て、すなわち、建築=自分の世界。これは今だけだろう、この状況が終わった時、壁の外に解き放たれて、無限に自分の世界を、以前のように広げていくことができるはず。

ただ、以前と同じではない、自分にとって建築の意味合いが変わるだろう。一度でも建築によって自分の世界が制限されたならば、制限される前と同じようにはできない。改めて、建築が自身の身を守ってくれることに、シェルターとして、ありがたいと思うと同時に、建築はシェルターではない、身を守るのは当たり前であり、その先の部分を、建築として実現できる日常を、それによってどのような感情を人に抱かせるかを、シェルターに代わる言葉を見つけて、その日常や感情を直に提示することが求められる。

そして、きっと今とは違う気分で来年スプリングコートを着ていることだろう。

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"Wearing a spring coat next year outside the architecture"

I didn't have the chance to wear the spring coat I bought, so I thought that I would wear it with a mask in the first place, even though I'm not saying that.

Surprisingly, I don't want to go out even if I stay home for a long time, and thanks to that, I can get the job done at hand and the path ahead.

How do you feel when you are inside the house? The wall that I'm looking at for a long time is the range where I can act now, that is all the world I can feel now, that is, architecture = my world. This will be the only time now, when this situation is over, you should be able to unleash yourself out of the wall and infinitely expand your world as before.

However, the meaning of architecture will change for me, which is not the same as before. Once architecture limits your world, you cannot do the same as before. Once again, I am grateful for the fact that architecture protects ourselves as a shelter, but at the same time, architecture is not a shelter. , It is required to find out alternative words for shelter and to directly present the daily life and feelings, as to what kind of feelings the person should have.

And I'm sure I'm wearing a spring coat next year with a different feeling.

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過ぎ去った後の建築

いつか必ず過ぎ去るから、家に篭りながら、過ぎ去った後のことを考えている。また、いつもと変わらない日常が来るのか、たぶん来るけれど、前とは同じではいられない、また、来年同じような状況にならないとは言えないだろうから。

リセットされる人もいるだろうし、防御態勢を取るために自らリセットする人もいるだろう。いい機会かもしれない、何かを変えるタイミングとしては悪くはない、ほぼ全ての機能が止まっている状況だから、再始動するタイミングで変えれば、何事もやりやすい。

アップデートもある。ただ、それは最低限強いられるだろう、社会から、様々なことから、前と同じという訳にはいかない、また同じ状況にならないようにしないといけないから。

建築に対しても変わるだろう。建築に対する考えがリセットされてもおかしくないが、最低限以前のような論理は通用しなくなるだろう。そもそも社会から望まれる建築が変わるだろうし、経済と密接に関係する建築だから、過ぎ去った後、アフターコロナの建築は一時的かはわからないが経済の落ち込みに影響を受ける。その時建築は、自らの社会での立ち位置が問われる、それはバブル崩壊を経ているから、いやここで、バブル崩壊以降の建築の軌道修正もできるかもしれないし、また違った建築の側面が重要視されるようになるかもしれない、バブル崩壊後の建築の開閉のように。

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"Architecture after passing"

I'll always pass by someday, so I'm thinking about what I've done after I've been staying in my house. Also, I wonder if there will be the same everyday as usual, but maybe it will not be the same as before, and I can not say that it will not be the same next year.

Some will be reset, others will reset themselves to take defensive posture. It may be a good opportunity, but it's not a bad time to change something, because almost all functions are stopped, so if you change it at the timing of restarting, it is easy to do anything.

There are also updates. However, it will be enforced at the very least, because of various things from society, it cannot be said that it is the same as before, and it is necessary to prevent the same situation.

It will change for architecture. It wouldn't be strange if the idea of ​​architecture was reset, but at least the old logic would no longer work. In the first place, the architecture desired by society will change, and since it is closely related to the economy, after-corona architecture will be affected by the economic downturn after passing, although it is unknown whether it is temporary or not. At that time, the position of the building in the society is questioned, because it has undergone the bubble burst, so no, it may be possible to correct the trajectory of the building after the bubble burst, and another aspect of the building is important. Like the opening and closing of buildings after the collapse of the bubble, which may come to be.

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揺れ動く建築

在宅ワーク、家に篭る毎日、ただ外界とは様々な手段でつながっている、SNS、Skype、使ったことは無いがZOOMでつながる人もいるだろう、目の前にいなくても、とりあえずの意思疎通はできるから、つながっている感覚にはなれる、身体感覚は有るような無いような、人の脳は優秀だから、補ってくれるのだろう足りない部分を、ZOOMで飲み会なんて聞くと、なんか楽しそう、案外、居酒屋で呑んでるのと大して変わらないかもと思ってしまう。

これを社会とつながっていると言えるならば、つながっている人がいる場所、すなわち、その人がいる建築は社会に対して開かれた建築ということになる。きっと今、建築はシェルター化していて、社会に対して防御態勢にあるはずなのに、人はそのようなこととは関係無しに社会とつながることができる。

現代建築を考える時、建築が社会や市民に対して、開いているのか、閉じているのかは根本的な問題であり、特に建築が社会や市民に対して寄与する物だと考えるならば、開かれているのが当然なのだが、現実を見ると、そのようなことを考えること自体が無意味だと思える程、的外れな考えをしているのではないかと、昨今の状況から思ってしまう。

またまた建築が根本から揺れ動く時が来たようだ、バブル崩壊、9・11、3・11の時と同じように。

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"Swaying Architecture"

Work at home, every day at home, just connected to the outside world by various means, SNS, Skype, people who have never used but will be connected by ZOOM, even if you are not in front of you, for the time being Because you can communicate, you can become a connected feeling, there is no physical sensation, because the human brain is excellent, so if you listen to the ZOOM drinking party, you will hear the missing parts that will supplement you, It looks like it's fun, and unexpectedly, I think it's not much different from drinking at a pub.

If it can be said that this is connected to society, the place where there is a connected person, that is, the architecture where the person is, is an architecture open to society. Surely, architecture is now sheltering and should be in a state of defense against society, but people can connect with society regardless of such things.

When thinking about modern architecture, whether architecture is open or closed to society and citizens is a fundamental issue, especially if you think that architecture contributes to society and citizens, It is natural that it is open, but in reality, I think from the recent situation that I am thinking so inappropriate that thinking about such a thing is meaningless itself .

It seems the time has come for the architecture to shake from the ground up, just as it did at the burst of the bubble, 9/11, 3/11.

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建築を閉じる

家にずっといることになるだろうと、最低2週間は外に出なくても大丈夫ではあり、キングカズが「パーソナルロックダウン」という言葉を使って家族にもそれを徹底させているようで、それならばそれで、このような機会も今後なかなか無いだろうし、もちろん経験したことも無いので、中途半端に外出などせずに、自分もパーソナルロックダウン、ずっと家にいることで自分にどういう変化が起こるのかを見てみたい、ストレスフルになるのか、それとも逆にアップデートできるのか。

これがずっとホテル暮らしならば、ストレスフルにもなるのかもしれないが、自宅にいる訳だから快適だし、そもそも普段から在宅ワークなので変わりが無く、あとはずっと外に出ないようにすることで、どのような影響があるのか、それを建築的に考えてみたい、きっと後になって貴重な体験だったと思うだろう。

バブルが崩壊して、経済的に低迷した後、建築家が公共建築を手掛けることが急に増えた。公共建築は市民のものであるから、市民に対して開かれた建築でなければならない、それは建築全般にも言えることとなり、建築は段々と社会や市民に対して開かれた存在になっていき、それが当たり前になった。

ところが、今回の新型コロナの影響で今、建築は閉じた状態が求められている。密閉空間を避けるという意味では人がいれば換気のために物理的に開くことが求められるが、それまで人の流れや経済活動をストップさせるため、また感染させないために建築は閉じることになった、それは物理的にも、精神的にも安心感を得るために閉じた。

一時的かもしれないが、ずっと開く様を見せ続けていた建築が、社会から閉じることを要求され一斉に閉じた。建築と社会の関係性、建築と市民の関係性はこのようにいとも簡単に逆転するのか、家に篭りながら、この状況でも今後も同じように建築を開こうとするのか、開く意味があるのかを考えてみる。

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"Close architecture"

If you're going to be at home all the time, you don't have to go outside for at least two weeks, and King Kaz seems to be using it with their family using the word `` personal lockdown, '' So, it is unlikely that there will be such an opportunity in the future, and of course I have never experienced it, so I will not go out halfway, personal lockdown, what kind of change will happen to me by staying at home all the time Want to see, is it stressful or can it be updated?

If you live in a hotel for a long time, it may be stressful, but it is comfortable because you are at home, and since you work at home from the beginning, there is no change, and by leaving it out all the time, I would like to think about these effects architecturally, and it would have been a valuable experience later.

After the collapse of the bubble and the economic downturn, architects have suddenly started working on public buildings. Since public buildings belong to citizens, they must be open to citizens, and this is true for architecture in general, and architecture is gradually becoming open to society and citizens. , That became the norm.

However, due to the influence of this new corona, the building is now required to be closed. In the sense of avoiding enclosed spaces, if people are present, they must be physically opened for ventilation, but until then the architecture has been closed to stop the flow of people and economic activities and to prevent infection. , It closed for physical and mental security.

Although it may be temporary, the architecture, which had been open all the time, was closed all at once as society required it to be closed. Is the relationship between architecture and society, or the relationship between architecture and citizens, easily reversed in this way? While staying in a house, will it continue to open in the same way in this situation, or will it make sense to open it? Consider

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家の中で

元々在宅で仕事をしているので、外に出る間隔が延びただけで普段と何も変わらない生活をしていて、それでいつもそう思うのだが、家にいると外の喧騒とは切り離された所にいるので、社会や外界の生の感じ、ライブ感のようなものが伝わってこない。

普段から外出する時は予定をまとめて、その日に全てこなすようにしているので、都内をあちこちと移動し、その時に外界のライブ感を肌身で感じ、夜の感じとか、それが新鮮な時もあり、普段では無いことに気づいたりするのだが、今はそれだけが無い。

無いならば、別のことで補えば良いと頭を切り替えて、普段やらないことを取り入れれば、そこに新鮮味があり、外出した時のような普段では無いことに気づいたりもするし、面白いもので、外出した時のライブ感のようなものは、確かに刺激的で何か影響を与えてくれて、それが気晴らしにもなるのだろうが、それは一方的なものだとわかり、こうして家の中で普段とは違うことをしているとイチイチ応答しながら考えてしまう。

今日はなぜ大きな模型が必要なのか、必要ないのではないか、いや、むしろ大きな模型はつくらない方が良いのではないかなどと延々と考えていた。

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"in house"

I'm originally working from home, so I'm living the same as usual just because I've been away from home longer, so I always think so, but when I'm at home I'm separated from the hustle and bustle outside Because it is in a place, the feeling of life in society and the outside world, the feeling of live, etc. are not transmitted.

When I usually go out, I keep my schedule together and do everything on that day, so I move around in Tokyo and at that time I feel the live feeling of the outside world with my skin, at night, even when it is fresh Yes, I notice that it is not usual, but now it is not.

If you don't have it, switch your mind to supplement it with something else, and if you take in things you don't usually do, you will find that there is a fresh taste there and it is not as usual when you go out and it is interesting Things like a live feeling when you go out are definitely exciting and inspiring, and it can be a distraction, but it turns out to be a one-sided thing, thus I think that I am doing something different from my usual in the house while responding to it.

Today I was wondering why a large model is needed, why it is not necessary, or rather, why it is better not to make a large model.

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前提の慣習

知らず知らずのうちに慣習の中で行うことが当たり前になっているから、そこから外れることができず、外れてしまうのが怖く、外れないようにしてしまう。

慣習とは便利なもので、それを守っていれば、その範疇の中にいれば、いちいち説明する必要も無く、立ち位置は守られ、暗黙の了解も通るから楽である。

慣習以外のことを行ったところで評価の対象にならないから関係が無い。いかに慣習の中で新しいことを見つけ発展させるかが問われる。慣習自体を疑うこともできるが、それをやるのは効率が悪く賢いやり方では無いので、誰もやりたがらない。

結局、慣習も所属が問われるのと同じで、前提条件みたいなものだから、それは素直に受け入れて、そこから先を新しく構築することに頭を使うことが、やはり、慣習のようだ。

ただ、慣習を都合よく扱うこともできて、それは、慣習から先の部分を最初に新しく構築し、それに合わせて慣習の解釈を都合良く変えることもできると考えている。そうすれば、慣習を都合良くカスタマイズあるいはアップデートできて、それを前提にできるから、それはそれで素晴らしいはずなどと夜な夜な考えているしだい。

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"Premise customs"

Because it is natural to do it in a custom without knowing it, it is impossible to get out of there, and I am afraid that it will come off, so I will not let it go off.

Customs are convenient, and if you follow them, you do not need to explain each time you are in that category.

There is no relationship since doing something other than customary will not be evaluated. The question is how to find and develop new things in custom. You can doubt the custom itself, but doing so is inefficient and not a clever way, so nobody wants to do it.

After all, custom is the same as asking for affiliation, it's like a prerequisite, so it's customary to accept it straightforwardly and use your head to build new things from there.

However, we can also treat customs conveniently, and believe that it is also possible to construct new parts of customs first, and to change the interpretation of customs accordingly. That way, you can conveniently customize or update the conventions and assume that, so it's a good night to think it should be great.

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複数の型

シンプルに捉えようと、難しく考えたり、複雑に考えたりすることはいくらでもできるけれど、案外、シンプルに要点だけを掴める人は少ないので、それだけで貴重な能力だと思う。

型を用意しておき、その型に当てはめることによってシンプルに捉えようとする試みはよくある。だから、型を用意をしておけば、シンプルに捉えること自体は案外簡単にできるので、あとは柔軟性をどうやって担保するか。

柔軟性とは、物事自体はそんなにわかりやすい構造をしていないので、型に上手く当てはめるには技術が必要だが、高度な技術が必要では誰も上手く型を使いこなせないので、誰でも使いやすくすること。

そのためには2通りあり、型自体を緩く遊びがある物にしておくか、複数の型を用意しておくか。どちらでも良いが、複数の型を用意しておいた方が状況に応じて型を選択すれば良いだけだから、とりあえず、高度な技術は必要無く、誰でも簡単に迅速にシンプルに捉えることができるようになる。

だから、複数の型を用意しておけば、物事をシンプルに捉えやすくなり、そうすれば、道筋がはっきりするので、より良い結果が出やすくなると思うのだが、多くはどうも型自体に緩く遊びがあるようだ。

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"Multiple types"

You can think of it as difficult or complicated to capture it simply, but surprisingly few people can simply grasp the gist, so I think that alone is a valuable ability.

There are many attempts to keep a simple type by preparing a type and applying it to the type. Therefore, if you prepare a type, it is surprisingly easy to grasp it simply, and how to ensure flexibility after that.

Flexibility means that things do not have such a straightforward structure, so technology is necessary to apply them properly, but if advanced technology is required, no one can use them successfully, so making it easy for everyone to use.

There are two ways to do this, whether the mold itself should be loose and playful or have multiple molds available. Either way is fine, but if you prepare multiple types, you only have to select the type according to the situation, so for the time being, there is no need for advanced technology, anyone can easily catch it quickly and simply Become like

I think that if you prepare multiple types, it will be easier to catch things simple, and that way will be clearer, and it will be easier to get better results, but in many cases the type itself is loosely playable There seems to be.

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デザインは生活必需品

生活必需品とは何だろうと考えてみると、どうしても最低限の物と考えてしまう。無くなったらその必要最低限の物を補充をするために外に出る。人によって必要最低限の物が違う場合もあるだろう、お酒だって飲む人には生活必需品だし、間食用のお菓子もなくてはならない人もいるだろう。食べ物は栄養だけを考えれば、お酒もお菓子もいらないが、精神的な安定をもたらす物だと考えれば、お酒もお菓子も必要になる。

では、デザインはどうだろうか、必要だろうか、生活必需品だろうか。この非常時に、この不安定な状況の時に、やはりお酒やお菓子と同じように、精神的な安定をもたらす物として考えることができるのではないだろうか。

デザインは生活必需品である。もしかしたら、殺伐として、ささくれ立ちそうな場所にいても、自分が好きな物、好きなデザインに囲まれていたら、少しは心が晴れて、精神的に安定してくるのではないだろうか。こういう時だからこそ、目に見えない物と対峙しなければならない時だからこそ、目に見える所に安心できる物を置きたい、今こそ、デザインが必要な時、デザインの力を発揮する時ではないだろうか。

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"Design is a daily necessity"

When we think about what we need for daily necessities, we always consider it a minimum. When it is gone, go outside to replenish the minimum required. The minimum requirements may be different for different people, and even those who drink alcohol will be a necessity of life, and some will have to have snacks for snacks. Food does not require alcohol or sweets when it comes to nutrition alone, but when it comes to mental stability, alcohol and sweets are needed.

So what about design, whether it's necessary or necessities of life? In this emergency, in this unstable situation, it can be considered as a thing that brings mental stability, just like alcohol and sweets.

Design is a necessity of life. Perhaps, even if you are in a place that seems to be upset as a killing, if you are surrounded by your favorite things and favorite designs, your mind will be a little clearer and mentally stable. This is the time when you have to confront an invisible object, so you want to put something that can be seen where you can see it.Now, when you need design, isn't it time to use the power of design? .

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デザインのある日常

北欧でデザインが盛んなのは、冬の間、雪に閉ざされて外出ができず家の中で過ごすため、どうしたら快適に暮らすことができるだろうかと工夫をした結果だという。

フィンランド、スウェーデン、デンマークと雰囲気はそれぞれ全く違う国だけど、街を歩いていると、何気ない窓の中に見える室内の様子が綺麗にデザインされているのがわかる。それもこなれている、生活とデザインが密着している感じがする。

ずっと家にいて、それが居心地が良く快適であれば、外に行きたいとも思わないし、家にいるだけで楽しい。

いつも、その時自分が好き物を部屋の真ん中に置いている、一番目に入るところ、部屋の真ん中に飾り棚を置き、好みの物をたくさん並べて、どこからでも見えるように。見ているだけで楽しいし、気分が華やかになる。

断捨離とは真逆で、好みの物が増える一方で、でも飾り棚のスペースには限界があるから、ローテーションでぐるぐると部屋の中の置き場を移動する。部屋の真ん中の飾り棚がメインで、その時の気分で、その時一番好きな物がその場所にくる。ずっと置かれている物もあるし、すぐにローテーションする物もあるし。

結局は、自分の居場所を快適にできないのに、外で快適な居場所を見つけようなんて無理だと思う。

北欧デザインの良さは、一言でいうと、洗練された親しみやすさ、だから、日常の生活に取り入れやすく、そのデザインされた物があるだけで、生活がお洒落に見える、それは、冬の間、人々の心を癒す。

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"Everyday with design"

The reason why the design is thriving in Scandinavia is that it is the result of devising how to live comfortably in winter because it is closed in the snow and cannot go out and spends time in the house.

The atmosphere is completely different from Finland, Sweden, and Denmark, but when you walk around the city, you can see that the interior is clearly designed through casual windows. It feels good that life and design are in close contact.

If you stay at home and it's cozy and comfortable, you don't want to go outside and just stay home and have fun.

I always put my favorite things in the middle of the room at the time. The first place is to place a cabinet in the middle of the room and arrange a lot of favorite things so that they can be seen from anywhere. It's fun just watching and it makes me feel gorgeous.

It's the exact opposite of discarding, and while there are more things to like, there is a limit to the space in the cabinet, so you can move around in the room as you rotate around. The cabinet in the middle of the room is the main one, and at that time, my favorite thing comes to that place at that time. Some things have been around for a while, others rotate quickly.

After all, if you can't comfortably be where you are, you won't be able to find a comfortable place outside.

The good point of Scandinavian design is, in a nutshell, refined friendliness, so it is easy to incorporate into everyday life, and just by having the designed thing, life looks fashionable. Heal people's hearts.

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今の居心地良さ

何気ない日常は人によって違うだろうが、朝起きてから夜寝るまで、その人にとっての一番心地よい事やリズムで過ごしたいと思い、いろいろと工夫をしたり、こだわったりして、そこにその人の個性や資質が現れたりもするが、明日からもっと規制をされる可能性もあるが、この段々と不自由になっていく中で、どうしたら心地よく過ごせるか、そのようなことは無理だから、今はとにかく我慢をしてというのでは面白くない。

狭小住宅というカテゴリーがある。狭い土地、例えば、10坪位の土地に建てる住宅のことをそう呼ぶ。狭い土地でも広い土地でも法規は一様にかかるから、土地の広さに応じて住宅の広さも決まる。だから、狭小住宅の広さは数値で表したら狭い。

でも、意欲のある設計者はそこに抗う。狭い土地だから、そこの土地に建つ住宅が狭いのは仕方がないことだとは考えない。数値で表したら確かに狭いが、広く見えるような、広く感じるような工夫を考え、そして、狭小住宅だから実現できる居心地良さを見出す。

今この状況だから、人にうつさないために家にこもる時だから実現できる自分に合った居心地良さを見つけるのも良いものだと思う。

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"Comfort now"

The casual daily life will vary from person to person, but from waking up in the morning to going to bed at night, I want to spend the most comfortable things and rhythms for that person, and devised and stuck in various ways. Although personality and qualities may appear, there is a possibility that it will be more restricted from tomorrow, but in this increasingly inconvenience, how can you feel comfortable, it is impossible to do such things, so now It is not fun to be patient anyway.

There is a category of small houses. A house built on a small land, for example, a land of about 10 tsubos, is so called. Laws apply uniformly on small and large lands, so the size of a house determines the size of a house. Therefore, the size of a small house is small if it is expressed by a numerical value.

But motivated designers resist it. Because it is a small land, I do not think that it is inevitable that the houses built there are narrow. The numerical value is certainly small, but we think of a device that looks wide and feels wide, and finds the comfort that can be realized because it is a small house.

In this situation, I think it's good to find the comfort that suits me when I'm staying at home to keep people out.

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悩ましい蓋物

手元に蓋物がある。誰でも好みがあるだろう、その蓋物の形は好みではなかった。今までに何度もその蓋物の前を通り過ぎた。その度に目をやるが好みではないから興味が湧かない。

ある時、別のところで、その蓋物と同じものに出会した。遠目からその蓋物があることはわかっていたが、好みではないから近づかなかった。別のものを手に取りたくて、その蓋物の近くまで行き、顔を上げると、目の前にその蓋物が出現した。以前から目にしている蓋物と同じものだが、微妙に何かが違う。形は似ているから好みではない、色も同じようだと思うのだが、無性に手を伸ばして触りたくなった。その膨らみが、その色が艶やかに感じ、一瞬で惹かれてしまい、今は毎日眺めながら、それでも触れたくて仕方がない衝動を毎日抱く。

だが、相変わらず形は好みではない、なのに触れたくて仕方がない、説明がつかないこの衝動が湧く毎日である。きっと、何か別の扉が一瞬のうちに開いてしまったのだろう、そうしたら、中から好みとは別の何かが溢れ出てきたのかもしれない、その何かは今はわからないが、無理に詮索もしないが、なかなか外に出られない毎日のちょっとした悩ましい楽しみになっている。

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"Annoying Lid"

There is a lid at hand. Everyone would have a preference, the shape of the lid was not a preference. I've passed the lid many times before. I look up each time, but I don't like it because I don't like it.

One day, I met the same thing elsewhere. I knew from a distance I had the lid, but I didn't like it because I didn't like it. I wanted to pick up another thing, approached the lid, raised my face, and the lid appeared in front of my eyes. It's the same as the lid you've seen before, but something slightly different. I don't like it because the shapes are similar, and I think the colors are the same, but I felt like reaching out to touch asexually. The bulge makes the color lustrous and fascinates in an instant. Now I look at it every day and still have the impulse that I still want to touch.

However, as always, I don't like the shape, I can't help touching it, it's every day that this unexplained impulse springs up. Perhaps something else has opened in an instant, and then something different from your taste may have overflowed from within, but I don't know that now However, I do not forcibly pry, but it is a little annoying fun every day I can not easily go out.

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精神的な空白

なぜ建築をやっているかと言うと、何気ない陽の光にハッとして感動して印象に残ったり、日常生活の中でホッとして心地よい場所に腰掛けてボーっとして眠くなったり、そんな見え方するのかなどと新しい空間に驚嘆したりして、今度は反対に自分がそのような建築や空間をつくり、誰かにその感覚を味わって欲しい、それはきっと豊かにする人も社会も心もと考えたから。

それが今までにできているかどうかは自分では判断しないが、そもそも、そのように建築のことを考え、何かをしたいと考えるのも、自分自身が元気でいることが前提になっていて、それが当たり前だからできることである。

長期戦は覚悟している、そのための準備もできている、今の空白が今後の更なる我慢を強いる可能性もあるが、建築でできることは粛々と行うしかない。しかし、何か落ち着かない。

マズローの欲求5段階説に準えれば、食事などの生理的欲求や身の安全などの安全欲求が満たされないと、その上位欲求になる貢献などの社会的欲求が湧いてこない。

今回の新型コロナウイルスによる経済的なダメージは世界的にも大きいが、それ以上に精神的なダメージ、精神的な空白がもたらすダメージの方が今後に影響を与えると思う。

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"Mental blank"

The reason why I am doing architecture is that I am impressed by the casual sunlight and am impressed, or I feel like I am sitting in a comfortable place in my daily life and become sleepy as a bow, etc. I was surprised at the new space, and on the contrary, I wanted to create such an architecture and space, and I want someone to taste that feeling, because I thought that the people who enriched it and the society would have heart.

I do not judge whether it has been done by myself, but in the first place, thinking about architecture and wanting to do something on the assumption that I am fine, This is something that can be done because it is natural.

We're prepared for the long run, we're ready for it, and the current void may force us to be more patient in the future, but we can only do what architecture can do. But something restless.

According to Maslow's five-stage theory, if the physiological needs such as meals and the safety needs such as personal safety are not satisfied, social needs such as contributions to higher ranks will not emerge.

Although the economic damage caused by the new coronavirus is large worldwide, I think that the mental damage and the damage caused by the mental void will have a greater effect on the future.

リンク

不完全な様

完成美より不完全な様、それは、その時点では何も定まっておらず、その後、時間がそうさせるのか、作為的にそうなるのか、自然になるのか、ある時点で定まる、その時、その瞬間だけの完成美が出現し、また不完全な様へと戻っていき、また違った完成美が出現し、また、の繰り返しに、そのような不完全な様に惹かれる。

その時々で見せる完成美は、完全な物でも無く、完全とは違い、ただその瞬間だけの姿、あるいは、時間軸でのある断面を見ているだけで、金太郎飴のように、どこを切っても金太郎だが、その金太郎は全て微妙に違い、どの金太郎が完全とは言えないのと同じで、その時々での違いが見られる、それは不完全ゆえの余白のような、どうにでも解釈できる部分があるからで、その余白の部分が曖昧さを生み、様々な物や事を反映できる面白さが不完全な様にはある。

完全美は何もかも全てが揃っていて、それを全て見せて、見えている物が美しい様であり、不完全な様はその時点では全ては揃っていないが、全てを揃えるためのスペースは用意されており、そのスペースは自由に使って良い状態なので、その時々でスペースの使い方も変わるから、美しさも変わる。

今、建築で実現したいことは、このような不完全な様であり、それは容れ物だけを用意して、あとは使う人が自由にすることでは無くて、建築そのものがこのような不完全な様を表現しているようにしたいと考えている。

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"Incomplete"

As imperfect than perfect beauty, it is not fixed at that time, then it is determined at a certain time, whether time will be, artificially, natural, at that time, only at that moment The perfect beauty emerges and returns to an imperfect appearance, and another perfect beauty emerges, and is repeatedly attracted to such an imperfect appearance.

The perfect beauty that is shown at that time is not perfect, unlike perfection, just looking at the figure at that moment or cross section with the time axis, like Kintaro candy, where It is Kintaro even if it is cut, but all Kintaro are slightly different, the same as which Kintaro is not perfect, and there are differences from time to time, such as margins due to imperfection, Because there is a part that can be interpreted even in, there is a case where the margin part produces ambiguity and the fun that can reflect various things and things is incomplete.

Perfect beauty has everything in it, show it all, the things you see are beautiful, and the imperfect ones are not all in place at the time, but there is space for everything The space can be used freely, and the use of the space changes from time to time, so the beauty changes.

What we want to realize in architecture now is such an imperfect state. It is not just a matter of preparing containers and leaving the user free, but the architecture itself is such an imperfect one. We want to be able to express the state.

使われる物の不完全さ

輪郭や境界がハッキリとしていて独立した存在感を醸し出している物が良いと思っていた。それは絶対的に美しく、絶対的に素晴らしいと形容するような物で、それ自体で完成された物、例えば、美術工芸品のような、うかつに触ることができずにガラスケースの中に入っているような物である。

そうした完成された絶対的に美しい物は魅力的に見え、所有したくなるが、使うことは考えない。当たり前である、はじめから使うことは考えておらず、そもそも使う物ではない。だから、見ることで、そこに存在していることで完結しており、その完成美が全てであり、それ故に強さがあり、そこに惹かれるのかもしれない。

一方で、使う物、使われる物の良さ、美しさ、素晴らしさもあるだろう。例えば、民藝の物は、日常の生活の中で使われることを念頭につくられ、使用に耐える強さを持ち、同時にその物が日常で使われることによって、人に情緒的な豊かをもたらす。その物は人が使うことによって完結するから、その物単体での良さ、美しさ、素晴らしさはまだ完成されていないように思え、その不完全さに惹かれてしまう。

故に、完成美としての魅力は物に対して抱き、使われる物の不完全さとしての魅力は、物に対してでは無くて、人と物との関係性に対して抱く。どちらが良いということでは無いが、人と物との関係性の方に興味が湧き、そういう物、不完全性を纏う物に惹かれる。

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"The imperfection of things used"

I thought it would be good if the outlines and boundaries were clear and had an independent presence. It is an absolutely beautiful and absolutely wonderful thing that can be described as a finished product, such as a piece of art and craft, in a glass case without being touched It's like

Such completed absolutely beautiful things look attractive and you want to own them, but don't consider using them. It's natural, I don't think about using it from the beginning, and it's not something I use in the first place. So, by looking at it, it is complete by being there, its complete beauty is everything, and therefore it has strength and might be drawn to it.

On the other hand, there will be things to use, good things to use, beauty, and splendor. For example, folk art objects are designed to be used in daily life, have the strength to withstand use, and at the same time bring emotional richness to people by using them in everyday life . Because the object is completed by human use, the goodness, beauty, and splendor of the object alone seem not to be completed yet, and I am attracted to its imperfection.

Therefore, the beauty as perfect beauty embraces the thing, and the charm as the imperfection of the used thing embraces not the thing but the relationship between the person and the thing. It doesn't mean which is better, but I'm interested in the relationship between people and things, and I'm attracted to those things and those that wear imperfections.

別物

同じ用途、同じ見た目でも、形がほんのわずかでも違えば、それは別物だと考えている。その差はもしかしたら、1mmもないかもしれない。ただ、1mmは大きな誤差だ。1mm違えば、戸は閉まらない、触れば、その差はわかり、見た目にもわかる。

その物を見て、比べる物があれば、別物だと判断し、比べる物が無ければ、印象に残らない。その物自体の形、スケールが良ければ問題無く、すぐにそれが良いと判断するが、どこかバランスが悪い、何か形が良くないなどとなると、あとその物がどうなれば良いのかと自然に考えてしまい、だから、ほんのわずかな違いに気がつき、売り物ならば、別に欲しくないとなる。

正解の形は無いから、厳密に言うと、規範となる形はあるだろうが、それとそのまま同じ形の物をつくっても別物だと判断されるだろう。おかしなものだが、同じではだめで、その規範となる形より、触ってもわかるかわからないか位の違い、例えば、細い所はわからない位に微妙に細く、太い所はわからない位に微妙に太く、よりわずかだがメリハリをつけて繊細にすることでちょうど良く同じ物に見える。

だから、先の話で言えば、数値としては同じ形の物かもしれないが、感じ方は別物だと判断してしまうということ。あくまでも人が使う物ならば、その物を見て触れた時の印象が全てということで、その時に精巧さがあらわれる。

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"Another"

For the same uses, the same look, and the slightest difference in shape, we consider them different. The difference may be less than 1mm. However, 1mm is a big error. If it is 1mm different, the door will not close, if you touch it, you will see the difference and you can see it.

Looking at the thing, if there is something to compare, it is judged to be another thing, and if there is no thing to compare, it does not remain in the impression. If the shape and scale of the object itself are good, there is no problem and it is immediately judged that it is good, but if somewhere the balance is poor or something is not good, etc., it will be natural what to do with the object So, you'll notice the slightest difference, and if you're selling something, you don't want it.

There is no form of the correct answer, so strictly speaking, there will be a normative form, but if you make a thing of the same form as it is, it will be judged different. It's weird, but it's not the same, it's not the same as the normative form. Slightly sharp and delicate, it looks just the same.

So, speaking earlier, the numbers may have the same shape, but the way they feel is different. If the object is used by a person, the impression of seeing and touching the object is everything, and so elaborateness appears at that time.

認識される

パッと見た時に認識しやすいのは、部分的でも良いから、ヒエラルキーがある状態で、そのヒエラルキーのつき方がわかりやすい時である。

例えば、はじめて入ったお店でトイレを探そうとした時に、そのお店の考え方にもよるが、まずバックヤードと思われる辺りを探そうとする。それはトイレがメインの空間からは見えにくい所にあるだろうからと当りをつけるからで、時々、トイレのドアかなと思うとスタッフルームのドアだったりする。

メインからサブへ、表から裏へと明確に違いがわかれば、あるいは、トイレへの案内があれば良いが、無ければ尋ねるしかない。

人にまず認識をされなければ、何も伝わらないので、関係性を持ちたければ、認識しやすさ、あるいは、認識される構造を把握することが伝える内容と同じ位に重要だとなり、もしかしたら、伝える内容が普通でも認識のされ方が良ければ、伝える内容がより良く思われるかもしれず、そうすると、認識のされ方、伝え方により重きを置くのが良いかもしれない。

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"Recognized"

What is easy to recognize at a glance is when there is a hierarchy and it is easy to understand how to attach the hierarchy because it may be partial.

For example, the first time you try to find a toilet in a store you enter, depending on the way the store thinks, you first try to find a place that seems to be a backyard. It's a hit because the toilet may be hard to see from the main space, so sometimes it's a staff room door if you think it's a toilet door.

If you can clearly see the difference from the main to the sub, from the front to the back, or if there is a guide to the toilet, you have to ask if there is no guide.

If you don't recognize it first, nothing will be transmitted, so if you want to have a relationship, it is as important to understand as possible or to understand the structure to be recognized as much as what you tell, If the content to be conveyed is ordinary but well recognized, the content to be conveyed may seem better, and then it may be better to give more weight to the way of recognition and communication.

ルーティン化の再構築

こんな時だから、時間があるから、普段できないこと、しなかったことをやる、でも、その「普段できないこと」「しなかったこと」は今この普通ではない状況でなければやろうとしなかった訳だから、そもそも一生やる必要が無いことだ。

そのようなことにせっかくできた時間を使うのは勿体ないので、日常の中で普段やっていることを、今この普通ではない状況でも同じようにやるためにはどうすれば良いかと考えてやることに時間を使うことにした。

それができれば、どのような状況に置かれても普段通りに日常を送れるし、それは精神衛生上も良いし、少しは落ち着く。

案外、日常の行動はパターン化され、ルーティン化されているので、一番困るのは、そのパターン化された行動が制限され、ルーティンできないことで、これからもっと制限されるかもしれない。制限を無視するのは簡単かもしれないが、それでは、今この普通ではない状況にさらされていることを活かせない。ならば、制限される行動をしなくても済むようにすれば良いと皆思うから、買い占めがはじまる。

行動のパターン自体は中々変えることができないし、パターン化された行動が日常の中でルーティンするおかげで、日常を送るという推進力が生まれるので、制限されると推進力を失い、日常に支障をきたす。

ただ、簡単に言ってしまえば、日常の中でルーティンしていれば推進力は生まれるので、今この普通ではない状況でもルーティン化できるパターンを再構築すれば良いことになり、そこには新しい発見があるかもしれない。

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"Rebuilding routines"

I have time to do things that I can't usually do and things that I didn't do, but I wasn't going to do what I couldn't do or things I didn't do in this unusual situation right now That's why you don't have to work for a lifetime.

It's inevitable to spend the time you have done in such a way, so it's time to think about what you usually do in your daily life and how to do the same in this unusual situation now. I decided to use.

If you can do it, you will be able to send your everyday as usual in any situation, it will be good for mental health, and it will calm down a little.

Surprisingly, everyday behavior is patterned and routine, so the worst thing is that the patterned behavior is restricted and can't be routed, so it may be more restricted. It may be easy to ignore the restrictions, but that doesn't take advantage of the now unusual situation. In that case, we all want to avoid having to be restricted, so we start to buy.

The pattern of behavior itself cannot be changed easily, and the routine of patterned behavior in everyday life creates the driving force to send everyday, so if it is restricted, it loses the driving force and interferes with everyday life Come.

However, to put it simply, routines in everyday life can generate impetus, so we just need to reconstruct patterns that can be routinely used in this unusual situation. There may be.

慣習を詮索

どの分野でも同じだと思うが、その分野での暗黙の了解のような事は存在し、それが慣習化し疑いようもないものになっていて、それは時代によって変わるが、何事もまずそこからスタートする。

何も知らない者がまず手始めに行うことは、その慣習を知り学ぶことで、それは疑いようもないことだから、いちいちそこを疑っていては何も前には進まないから、とりあえず、その慣習を覚えていき、やがて、その慣習の先が創意工夫するところとなる。

慣習の部分を「知識」や「知恵」や「メカニズム」などに置き換えても良いが、その慣習の部分に対する違和感は何も知らない者にとっては「変だな」と思うか、「そんなものか」と思うかの2通り、やがて大部分は消えていくが、それでもその違和感が残っていたり、復活してきた違和感に対しては、新ためて今度は詮索しないと先に進まなくなる。それは今までを疑うことになるから、それまで身に付けたものが必要で無くなるかもしれないが、それでも一度は行う価値があると考えている。

目的が結果を出すことだけならば、結果を出すこと自体も大変な事だから、慣習の部分に違和感を覚え疑うなど時間の無駄でしかないことだが、そこを詮索することが面白そうだなと思えてしまうならば行うのもありだと思う、そうすればアップデートできる。

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"Peeking into customs"

I think it's the same in every field, but there are things like tacit understanding in that field, it's customary and undeniable, it changes with the times, but everything starts from there I do.

The first thing a stranger does first is to know and learn the custom, and that is undoubtedly impossible, so if you doubt it there, nothing will go forward. Remember, and eventually, the end of that custom is where you devise.

The custom part may be replaced with "knowledge", "wisdom", "mechanism", etc., but for those who do not know anything about the unusual part of the custom, it seems "weird" or "Is that something like that?" In the two ways, most will eventually disappear, but even if the discomfort still remains or the discomfort is resurrected, you will not be able to proceed unless you pry anew. That would make you doubt what you've been doing, so you may not need what you've learned, but I think it's still worth it.

If the only purpose is to produce a result, producing the result itself is also difficult, so it is only a waste of time, such as feeling strange and uncomfortable in customs, but it seems interesting to snoop on it If you do, I think you can do it, so you can update.

飾ること

装飾とは「飾る」ことだが、「飾る」という行為以外にも、モノとしての装飾という意味合いもある。建築では主に「装飾」というモノとしての意味合いの方が強いが、「飾る」という行為にも興味が湧く。

装飾が外の世界との関係を調整するものであるならば、モノとしてよりは「飾る」という行為の方が重要である。飾ることによって、自分のいる場所や自分自身を外の世界に向かって特徴づけしようとする。関係性を築きたいのであれば、まずは自分が何物なのかを示さなくてはならない、そのための特徴づけが装飾であり、「飾る」行為である。

この場合の「飾る」行為の対象には、建築や空間も含まれるし、人間自身も含まれ、その手段には建築空間のデザイン以外にも、服などのファッションも用いられる。

ならば、建築空間デザインとファッションデザインを同じ舞台に上げて、同じ様に扱ってみるのも面白い、建築空間ではもちろんスケールの違いがデザインになるが、それはファッションデザインでも同じ、サイズがあり、ファッションデザインでも建築空間デザインと同じように、サイズもデザインの内である。

建築空間デザインでは、当たり前だが、そこに建築性という規範があり、その範疇で捉えようとする。それは現実実際の複雑な状況を建築空間デザインで扱えるように単純化するためのものであるが、その建築性の部分にファッションデザインの考えや見方を移植してみると、同じように単純化しても、また違った見え方になり、それはもしかしたら、現実実際の複雑な状況が複雑なままに建築空間として立ち現れてくるのではないかと考えている。

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"Decorating"

Decoration is "decorating", but in addition to the act of "decorating", it also has the meaning of decoration as a thing. In architecture, the meaning of "decoration" is mainly stronger, but I am also interested in the act of "decorating".

If decoration adjusts the relationship with the outside world, the act of "decorating" is more important than as an object. By decorating, you try to characterize your location and yourself towards the outside world. If you want to build a relationship, you must first show what you are, and the decoration is the act of "decorating".

In this case, the act of "decorating" includes architecture and space as well as human beings, and means of clothing and fashion is used in addition to the design of architectural space.

Then, it is interesting to put the architectural space design and fashion design on the same stage and treat them in the same way. Of course, in architectural space, the difference in scale will be the design, but that is the same in fashion design, there is the same size, fashion In design, as in architectural space design, size is within design.

It is natural in architectural space design, but there is a norm called architectural property, and I try to capture it in that category. It is intended to simplify real-world complex situations so that they can be handled by architectural space design.However, when porting ideas and perspectives of fashion design to the architectural part, it is similarly simplified. However, I also think that it will be a different way of seeing, and that it is likely that real and complex situations will emerge as architectural spaces with complex complexity.

二次的な表現

複雑なことを単純にして見せる、凝縮か、還元か、間引くのかなど、手法は様々だけれども、単純でシンプルだけど、そこにたくさんの意味合いがあり、奥深さや趣深さがあると、今、頭の中では長谷川等伯の「松林図屏風」が思い浮かんでいるが、素直に感銘してしまう。

単純化しシンプルにしていくと、今までの余韻や場所を感じる間や余白が生まれ、その間や余白は一見すると何も無く、何も意味が無く、無駄のように思えるが、その間や余白に様々な心象を投影できるし、勝手に投影してしまう。

きっと人の脳は足りない何かを想像力を駆使して、勝手に創造するのだろう、その間や余白に様々なものを足し加え、様々な想いを勝手に抱かせる。その表現は決して一次的で直接的では無いから分かりやすくは無いが、それ故に、解釈しだいで様々な情景を見ることができ、一次的で直接的な表現よりも豊かで、奥深さや趣深さが生まれる、そのような二次的で間接的な表現をつくり出したいといつも考えている。

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"Secondary expression"

There are various methods, such as condensing, reducing, thinning, etc. that show complicated things in a simple way, but it is simple and simple, but there are many meanings there, and if there is deepness or fancy, now, I think that Among them, Tohaku Hasegawa's "Pine forest figure screen" comes to mind, but I am impressed with it.

If you keep it simple and simple, there will be gaps and spaces that you feel the lingering and place of the past, and the gaps and margins at first glance are nothing, nothing meaningless and seem to be useless You can project a great image, and project it without permission.

Surely, the human brain will use imagination to create something that is missing, and will add various things to the space and margins to bring various thoughts to themselves. The expression is not easy to understand because it is not primary and direct, but it is possible to see various scenes depending on the interpretation, and it is richer, deeper and deeper than the primary and direct expression I always want to create such a secondary and indirect expression that can be born.

建築に装飾

装飾が無いという装飾が成り立つならば、この世は全て装飾に満たされている、ならば、後はどの装飾を選択するかだとしたら、何を選択するか、自分の気分によって選択したいし、ファッションのように流行はあるだろうが、それを踏まえながら、より最適なものを選択したいと思う、それは損得勘定ではなくて、自分にとって最適なもの、心象としてそう思い、そして、後から事象を考える。

人と人がつながることと装飾は関係があるのか、答えは、あるだろう。人と何かしらつながりたいから、服を着るし、ファッションの流行を追う。

装飾は人とつながるためにある、ならば、建築も同じだろう、建築と人の関係性を考えるならば、装飾を考えない訳にはいかない。

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"Decoration in architecture"

If the decoration without decoration is valid, the whole world is full of decorations, so if you decide which decoration to choose, what you want to choose, you want to choose according to your mood, fashion There is a trend like this, but I would like to select the most optimal one based on that, it is not a profit and loss account, but it is the most suitable for myself, I think as an image, and think about the event later .

The answer may be whether the connection between people and decoration is related. I want to connect with people, so I wear clothes and follow fashion trends.

Decoration is to connect with people, if so, architecture is the same. Considering the relationship between architecture and people, it is inevitable to consider decoration.

装飾の関係

装飾は外の世界との関係性を示すもので、京都大学柳沢研究室『装飾と住居』によると「装飾は秩序」だという。

モダニズム建築は、装飾に限って言えば、装飾を無くすことで、装飾を余計なもの、装飾を悪のように扱い、削ぎ落とすことにより成立していた。ただ、装飾を外の世界との関係性を示すものとするならば、モダニズム建築は、装飾が無いという装飾をつくり出して、外の世界、すなわち、社会に対して関係性をつくろうとしたとも考えることができる。

しかし、人は太古の昔から、装飾性を身にまとい、外の世界との関係性を築いてきたと言える。それは建築にも現れるが、民族衣装や祭事にも現れる。だから、装飾が無いという装飾性には、人の精神衛生上、どこかに無理があり、かと言って、全くモダニズムからは離れることもできずという状況が現代だと考えている。

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"Relationship of decoration"

Decoration shows its relationship with the outside world, and according to Yanagisawa Lab at Kyoto University's "Decoration and Housing", "decoration is order".

Modernist architecture, in terms of decoration, was realized by eliminating decorations, treating decorations as extras, treating decorations as evil, and scraping them off. However, if decoration is to show a relationship with the outside world, modernist architecture would also create a decoration without decoration and try to create a relationship with the outside world, that is, society. be able to.

However, it can be said that since ancient times, people have been dressed in ornaments and built relationships with the outside world. It appears in architecture, but also in national costumes and festivals. For this reason, I think that the modern situation is that the decoration without decoration is impossible somewhere in terms of human mental health, and it is impossible to leave modernism at all.

不完全に反応

そのものズバリと何かを表現する事には抵抗を覚える。そこに何かを読み取る部分があり、そこは読み取る側が自由に創造できるのがいい、それは創造であって、正解探しではなくて、つくり手がこうですと細部まで、こう解釈して、こう考えてとすると、つくり手の思惑通りの状況をつくり上げることができるだろうが、そうしたら、読み取る側は誰でもいいことになり、別に自分でなくてもいいことに誰も興味を持たないし、誰もそのようなことに魅力を感じないし、それを作品とはそういうものとみなすかもしれないが、それはガラスケースの中の美術品のようだが、読み取る側によって作品の解釈が自由に変化し、定まっておらず、人によってその時々で違う作品が出現したら、それには、そのものズバリというよりは、二次的に何かが現れることかもしれないが、不完全な部分が垣間見え、その部分に読み取る側が反応し自由に創造できる表現の方が良いと考えている。

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"Incomplete reaction"

I feel reluctant to express something. There is a part to read something, and it is good that the reader can create freely. It is creation, not the search for the correct answer, the creator is like this. By doing so, it will be possible to create the situation as the creator's intention, but then everyone will be good for the reader, and no one is interested in not being myself, Nobody is attracted to such things, and you may think of it as a work, but it seems to be a work in a glass case, but the reading side freely changes the interpretation of the work, If it is not fixed, and different works appear from time to time depending on the person, it may be that something appears secondarily, rather than by itself, but there is a glimpse of the incomplete part. , Who represented the side that read in that portion can be freely creative reaction is considered to be good.

装飾のような厚み

境界を線として扱うのではなくて、そこに厚みを持たせて、境界自体に太さや意味や中身が与えられたならば、ハッキリとした境目ではなくて、ゆるやかであったり、その境界自体に注目するよになったりして、全体を俯瞰した場合に、境界としての役目は以前として残るが、その境界にまた別の領域が発生することになるだろう。

境界は見えても見えなくても消せないが、境界を乗り越えて影響を与えたいと思う。だから、境界が空間同士の境目ならば、境界にも空間を与え、空間が空間同士を分け隔てるようにすれば、境界とは言え、空間同士のつながりとして考え、境界を乗り越えて何かの影響を表現できる余地が生まれる。

境界としての壁の厚みに注目し、厚みを拡大解釈して空間として考えてみる。その過程で、境界自体にバッファゾーンも含めて、空間を与えてしまうことも考えたが、現実には境界が壁として立ち現れることが多いので、より一般解を得られやすい事を考えてみた。

そうすると、壁自体の見え方に変化は無いが、境界自体が今までとは違う意味合い、例えば、ただ境界を受け入れることしかできなかったが、壁の厚みが空間として立ち現れるならば、その厚みはもしかしたら装飾のように扱えて、人の何かを表現するようになるのではないか、そうすると、装飾が空間として立ち現れて、人の何かと呼応するようになるのではないか、それは見てみたいと思えた。

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"Thickness like decoration"

Instead of treating the boundary as a line, if you give it a thickness and give the boundary itself a thickness, meaning and content, it is not a clear boundary but a loose one, If you start to pay attention and look down on the whole, the role as the boundary will remain as before, but another area will be generated at that boundary.

The boundaries can't be erased by seeing or not seeing them, but I want to overcome and influence them. So, if the boundary is a boundary between spaces, if the space is given to the boundary and the space is separated from the space, it can be said that it is a boundary, but it can be considered as a connection between spaces, and some influence over the boundary The room to express is born.

Focusing on the thickness of the wall as the boundary, we will interpret the thickness as a space by expanding it. In the process, we considered giving a space including the buffer zone to the boundary itself, but in reality, the boundary often appears as a wall, so we thought that it was easier to obtain a general solution. .

Then, there is no change in the appearance of the wall itself, but the boundary itself has a different meaning than before, for example, you could only accept the boundary, but if the wall thickness appears as a space, the thickness will be Perhaps it can be treated like a decoration and express something of a person, and then the decoration appears as a space and responds to something of a person. I thought like

厚い壁

境界が重なり合う様に興味があり、その様を壁で表現できないかと考えている。その重なり合う部分は、境界が曖昧になり、境界が不完全なものになり、ひと手間加えないとハッキリとしない。だから、そこに人の何かしらの行為を誘発する状態が生まれる。

壁=境界なのか。そもそも境界をつくるために壁は存在し、境界が必要でなければ壁はつくらないだろうし、境界が必要でも壁をつくらない場合はありそうだから、全ての壁は境界ではあるが、全ての境界に壁は必要ではないというところか。

境界とすると線のようなイメージだが、壁には厚みがあるから、その厚みが厚くなればなるほど、境界としての存在は薄れていき、別の存在として重要になってくるような気がするが、以前として境界の役目は果たすだろう。

ならば、壁の厚みが厚く、そこに境界として別の役目が与えられた時、それは境界が重なり合う様と同じように、境界が曖昧になり、境界が不完全なものになり、ひと手間加えないとハッキリとしない、そこに人の何かしらの行為を誘発する状態が生まれる状況になるだろうと考えてみた。

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"Thick wall"

I am interested in overlapping boundaries, and I'm thinking if I can express that with walls. In the overlapping part, the boundary becomes ambiguous, the boundary becomes incomplete, and it will not be clear unless it takes time. Therefore, a state is created that triggers some sort of human action.

Is the wall the boundary? Walls exist to create a boundary in the first place, and if a boundary is not needed, a wall will not be created, and even if a boundary is needed, it is unlikely that a wall will be created, so all walls are boundaries, but all boundaries are Is there no need for walls?

The boundary is an image like a line, but the wall is thicker, so the thicker the wall, the less the boundary will be, and it feels more important as another. As before, it will serve as a border.

Then, when the wall is thick and given another role as a boundary, it becomes vague and incomplete, as if the boundaries overlap, and takes extra effort I thought that it would be a situation that would not be clear without it, and that would create a state that would trigger some sort of human action.

装飾だけの空間

装飾だけの空間をつくると、それは見た目では、その空間が何をするための場所か、そこで何をしたら良いのか、すぐに判別できなく、理解できない空間になるかもしれないが、それは、空間ではそもそも何かをする目的があって人工的につくられているからで、すぐに理解できず、判別できないならば、人の脳は足りない部分を補うために、過去の経験から想像したり、こうではないかと推察して、その空間での立ち振る舞い方を瞬時に決めるだろう。

きっとモダニズムの空間はこの理解ができず、判別できない状態を無くす方向に進展して来たように思う、曖昧な部分が無い、ある意味では違いや境界をハッキリとさせてきた。

そして、次の段階として、このハッキリとした違いや境界を残しつつ、その違いや境界に幅をもたせり、形を与えたりして、その違いや境界自体がより意味のあるものになっていき、そして、その違いや境界が変異していく。

そこで、改めて装飾が問わられることになる。その時の装飾は付加物では無くて、そこに構造や機能も包括され、さらには、人の関係性がより濃密になると考えている。

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"Space just for decoration"

If you create a space just for decoration, it may be a space that you can not immediately understand and understand what the space is to do and what to do there, but it is a space In the first place, because it is artificially made for the purpose of doing something, if you can not understand immediately and can not distinguish it, the human brain can imagine from past experience to compensate for the missing part, I guessed this and would instantly decide how to behave in that space.

Surely, the space of modernism seems to have evolved in a direction that does not understand this and loses the indistinguishable state, has no ambiguous parts, and in a sense, makes the differences and boundaries clear.

Then, as the next stage, while leaving these distinct differences and boundaries, the differences and boundaries are given width and shape, and the differences and boundaries themselves become more meaningful. , And the differences and boundaries mutate.

Therefore, the decoration is asked again. The decoration at that time is not an addendum, but the structure and function are also included in it, and we believe that the relationship between humans will be deeper.

会話のような空間

一文として、一言では無く、一言が連なり文章となるように空間を考えてみれば、そこに様々な展開を考えることができる。

ひとつの文章を叙情豊かにすることもできれば、説明や解説をするような文章や、翻訳のような文章にもできるように、空間も同じ、言葉を扱うように考えてみる。

ただ事実を説明するだけの文章ならば、簡単そうに思えるが、事実のどこに焦点を当てて文章を構成するかにより違いが出るから、それはそれで事実の見方が問われるし、叙情豊かな文章にするには、いくつか方法はあるだろうが、形容詞などの修飾語の選択や使い方が重要になる。

それを空間にも適用できると考えてみると面白い。文章だと形容詞などの修飾語と修飾される語の違いがはっきりとわかり、分解することもできて、当たり前だが取り替えも容易で、取り替えると全く違う印象の文章になるが、空間では、修飾語は装飾、装飾される語は骨組みとしたら、それらは一体で分解することはできず、容易に取り替えられないし、違いもプロならばわかるが、一般の人にはわからないだろう。なのに、建築を文章技法に例えて説明することがある。

例えば、修飾語だけ残して文章は成り立つだろうか、もしかしたら、意味は伝わるかもしれないし、会話ではしばしば、修飾語だけしか使わない場合があるけれど、やはり、文章としては曖昧な表現になり、正確な意味は伝わらないかもしれない。しかし、空間ではどうだろうか、修飾語だけ、装飾だけの空間が成り立つのではないだろうか、特に、店舗デザインの世界では、会話のような空間が成り立つだろうなどと考えてみた。

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"Space like conversation"

If one considers a space so that one sentence is a series of sentences, not a single sentence, various developments can be considered there.

Think of words as having the same space, so that one sentence can be lyrical, one can explain or explain, or it can be a translation.

It may seem easy to just explain the facts, but it depends on where to focus the facts and compose the text. There are several ways to do this, but the choice and usage of modifiers such as adjectives is important.

It is interesting to think that it can be applied to space. If it is a sentence, the difference between a modifier such as an adjective and the word to be modified can be clearly understood, it can be disassembled, it is natural, but it is easy to replace, and if you replace it, it will be a sentence with a completely different impression, but in space, the modifier is If the decoration and the words to be decorated are a skeleton, they cannot be disassembled in one piece, cannot be easily replaced, and the difference can be understood by professionals, but the general public will not know. Nevertheless, architecture is often described as a writing technique.

For example, does the sentence hold with the qualifier alone, or perhaps the meaning can be conveyed, and in conversations, sometimes only the qualifier is used, but again, the sentence is vague, Meaning may not be transmitted. However, I wondered what would be the space, whether it would be a space consisting only of modifiers and decorations, especially in the store design world, where a space like conversation would be realized.

一文の空間

日常の様々な出来事が、良いことも悪いことも、雑多なことも、毎日描かれていく中で、ひとつの空間で捉えてしまうのは無理があると自然に思う。

それは、日常の様々な出来事を一言で言い表すようなもので、一言で言い表し、済ませようとしたら、その一言の抽象度を上げないと、その一言の範疇に日常の様々な出来事が含まれてこないが、抽象度を上げたら、その日常の様々な出来事をつくり出す人の個別性が無くなってしまい、その一言の具体度を上げていくと、日常の様々な出来事がこぼれ落ちていく。

その一言は空間にも例えることができて、ひとつの空間だけで、この場合、その空間が目指しているところも含むが、日常の様々な出来事を受け止めるには無理があり、無理があるのに、ひとつの空間で成り立っている理由は、人が空間に合わせているからで、人の個別性もねじ曲げられている。

ひとつの空間とは、ある指向性や趣向性を持った空間のことであり、そこには思想も含まれるが、一言では無くて、一言が連なり一文になっていれば、抽象度を上げる必要も無く、人が空間に合わせる必要も無く、日常の様々な出来事を受け止める空間、それは一文が一言より指向性や趣向性が弱くなり、その弱さ故に、一言の抽象度が上がるのと同じ効果が出て、人が空間に合わせなくても済むようなにできるのではないかと考えてみた。

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"One sentence space"

It is natural to think that it is impossible to capture various events in everyday life, good or bad, miscellaneous things, in a single space as they are drawn every day.

It is like describing various everyday events in a single word.If you want to express it in one word and finish it, you need to raise the abstraction of that one word. Although it is not included, if you increase the level of abstraction, the individuality of the person who creates the various daily events will be lost, and if you increase the specificity of the word, various events of the everyday will fall down .

One word can be compared to a space, and there is only one space, in this case, the place that the space is aiming for, but it is impossible and impossible to catch various everyday events. In addition, the reason that one space is formed is that people are adapted to the space, and the individuality of the person is also twisted.

A space is a space with a certain directivity or taste, and it includes thoughts, but it is not a single word. There is no need to raise it, and there is no need for people to adjust to the space, a space that catches various everyday events. I wondered if this would have the same effect as above, so that people would not have to adjust to the space.

装飾の在り方

装飾がそのままの形のみで現れるから抵抗感がある。装飾とは付加物であり、京都大学柳沢研究室『装飾と住居』によると「装飾は秩序」だという。

外の世界との調整をはかるために装飾をして、自分の立ち位置を明確にする、そこで秩序立てる。この場合、目につきやすいのは装飾の見た目だが、そこには見た目だけでは部外者にはわからない、仲間うちの意味を持つ、一種の記号のように、約束事とも言える。例えば、服のファッションもそうだろ。

見た目だけの装飾では単なる形や色や柄のお披露目だけ、そこに興味は無く、その装飾が何と何を結びつけているのかなど、結果どうなるかの二次的な事、それが装飾としてデザインされている様が面白いと考えている。

今まで装飾もデザインの一種と考えて来たが、デザインが装飾の一種だと考えた方が自然のような気がして、そして、装飾をもっと拡大解釈し、機能をも取り込みたいと考え、それが成り立つ装飾の在り方を模索している。

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"The way of decoration"

There is a sense of resistance because the decoration appears only in its original form. Decoration is an additive, and according to Kyoto University's Yanagisawa Laboratory "Decoration and Housing", "decoration is order".

Decorate to coordinate with the outside world, clarify where you stand, and order there. In this case, it is easy to see the decoration's appearance, but it is a promise like a sign that has the meaning of fellows who can not be understood by outsiders only by appearance. For example, the fashion of clothes.

In appearance decoration, it is just a presentation of shape, color and pattern, not interested in it, secondary things such as what is connected to the decoration, what is the result, it is designed as decoration I think that it is interesting.

Until now, we have considered decoration as a kind of design, but I think that it is more natural to think that design is a kind of decoration, and we also want to expand the interpretation of decoration and incorporate functions. We are exploring the way in which decoration can be achieved.

機能と装飾

モダニズムは機能を発見し、分割し、配置することだとしたら、配置を変えたり、分割を変えたり、機能を見直したりすれば、モダニズムの延長で語ることができるし、変えたり、見直したりした事もすんなりと新しい事として受け入れやすいが、今まで気がつかなかった建築と人の関係性を築くことによって、機能が意味を持たない、重要ではないことにならないか、そうすると、見た目はモダニズムだが、中身はまるで違うものにならないかと考えている。

機能とは建築と人をつなぐ役目があり、機能が存在するから、人は建築の中でアクティビティを起こす、その場合、機能は人が人のことを考えて決めているように思うが、実際は建築が成立するように人にとって都合が良い機能を選択しているだけであり、建築の用途が先にある。

だから、機能は人を反映していないし、人は定められた機能に合わせているだけである。

この機能を意味が無いものにできれば、建築と人の新たな関係性が築ける。そこで、機能の対極にある「装飾」を使って空間を構成しようと考えている。それも装飾が建築と人をつなぐ役目をすることによって、新たな装飾の役割が二次的に登場しないかと、その可能性を視野に入れて考えている。

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"Function and decoration"

If modernism is to discover, divide and arrange functions, if you change the arrangement, change the division, and review the functions, you can talk about, extend, and review modernism as an extension of modernism It's easy to accept things as new, but building relationships between architecture and people you didn't even realize would make the functions meaningless or insignificant. I'm thinking if it will be different.

Functions have the role of connecting architecture and people, and because functions exist, people initiate activities in architecture.In that case, it seems that functions are determined by thinking of people, but in reality, Only the functions that are convenient for human beings are selected so that the construction is realized, and the purpose of the construction is first.

So the function doesn't reflect the person, and the person just fits the defined function.

If this function can be made meaningless, a new relationship between architecture and people can be established. Therefore, we are trying to construct a space using "decoration" at the opposite end of the function. In addition, we are considering the possibility that a new role of decoration will appear secondarily by the role of decoration connecting architecture and people.

純度を落としたモダニズム

モダニズムのシャープなデザインが重なり合っていくと、それはシャープさを残したまま、野暮ったくならず、叙情豊かな、様々な解釈が可能な、複雑性を帯びたデザインになるのではないかと考えている。

重なり合い、混ざり合う状況は、純度の高いものが、段々とその純度を落としていく、シャープなデザインはそのシャープが失われていく。ただ、元々シャープであれば、その余韻を残したまま、純度が落ちていく。

そうすると、重なり合い、混ざり合う状況を上手くコントロールできれば、どのような表現もモダニズムのシャープを残したまま、モダニズムの延長線で可能になる。

野暮ったくない、シャープな重なり、さらに、直線の分割ではなく、入り乱れた分割にすれば、それはモダニズムを超えた新たなモダニズムの世界ではないかと考えてしまう。

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"Modernism with reduced purity"

I believe that if the sharp designs of Modernism overlap, it will become a lyrical, multi-interpretable, complex design that retains sharpness, does not want to go wild.

In the situation of overlapping and mixing, those with high purity gradually lose their purity, and sharp designs lose their sharpness. However, if it is originally sharp, its purity will decrease while retaining its lingering sound.

Then, if we can control the situation of overlapping and mixing, any expression can be made an extension of Modernism, while keeping the sharpness of Modernism.

If you do not want to be sloppy, sharp overlap, and if you do not divide a straight line but make a complicated division, you will think that it is a new world of modernism that goes beyond modernism.

何か足りない

そのものよりも、何かを経て垣間見えるものに興味がある。装飾ならば、表に見える色や形や柄よりも、それが形成される過程に興味が湧くし、装飾の存在の仕方がまだ完全では無くて、何か足りなくて、何かが加われば成立するような不完全な状態に興味が湧く。

そのものズバリで完成された状態は、それはそれで完全無欠な様の完璧さに憧れと羨望感はあるが、例えば建築で言えば、インドのタージマハルは建築自体が最高峰の美術工芸品であるから、それ自体の美しさは素晴らしいのだが、一瞬で飽きる、あとは関心が無い。

あと少しその場で人が何かを加えると真の姿が現れるような事に惹かれる。

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"Something is missing"

I'm more interested in something glimpsed through something than in itself. If it's a decoration, I'm more interested in the process by which it is formed than in the colors, shapes, and patterns that can be seen on the table, and the way the decoration is not yet complete, if something is missing and something is added I am interested in the imperfect state that holds.

The state completed in Zubari itself has a longing and envy of perfection of completeness. The beauty in itself is wonderful, but I get tired of it in a moment, and I have no interest.

I am attracted to the fact that when a person adds something on the spot, the true appearance appears.

二次的な装飾

装飾が装飾のまま現れる姿が一番わかりやすく、その見え方が装飾の価値を決めるのだろうが、建築の場合、装飾が装飾のまま現れると違和感があり、それは建築において装飾を排除したモダニズムが今でも根底にあるからだろう、いや、勝手にそう思い込んでいるだけかもしれないが、刷り込まれているだけかもしれないが。

ただ、そこで違和感がない装飾の仕方を見つけてみようとすると、装飾の見せ方も一次的な装飾そのものではなくて、二次的な装飾、それは一次の何か、形態なのか、何なのかの、そのもの同士の重なりの中に生まれる装飾、そこに確かに形態としての装飾はあるが、その装飾の受取り様は受け手によって皆違う、例えば、一次は普通によく見るモダニズムのデザインだが、その重なりが、制御可能ではあるけれども予測不可能な状態で存在する、それは重なりの境界を曖昧にすることかもしれないが、装飾と呼べてしまう状態をつくり出していれば、モダニズムのデザインに慣れ親しんだ者でも受け入れやすく、またそれは何か新しい装飾を纏わり付かせているようにも考えられるし、それは新しい見え方にもつながる。

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"Secondary decoration"

The appearance of decorations as decorations is the easiest to understand, and how they look will determine the value of decorations, but in the case of architecture, if decorations appear as decorations, there is a sense of incongruity, which is a modernism that eliminated decorations in architecture Maybe it's still at the root, no, maybe it's just a self-assured thought, but maybe it's just imprinted.

However, if you try to find a way of decorating that does not make you feel uncomfortable, the way of showing the decoration is not the primary decoration itself, but the secondary decoration, which is something primary, form, or what. The decoration that is born in the overlap of the objects themselves, there is certainly a decoration as a form, but the way of receiving the decoration differs depending on the recipient, for example, the primary is a commonly seen modernist design, but the overlap is Exist in a controllable but unpredictable state, which may blur the boundaries of overlap, but create a state that can be called decoration, even if you are familiar with modernist design It's easy, and it also seems to have some new decorations around it, which leads to a new look.

物欲より使う喜び

見て所有して良いと思う物と、使って良いと思う物は、必ずしも一致しない。

使って良いのは、使いやすいという意味では無くて、見て所有して良いには、ブランドだから、評価されているからも含むが、視覚から得た情報が好みでも、手などの触覚から得た情報が好みで無いとか、その逆もあり、一致することの方が珍しいかもしれない。

物欲は、時として見た目の視覚からの情報に左右される。だから、どうでも良いと思っている物には、そもそも目もくれないから、物欲も起こらない。そして、物欲が起こると「痘痕(あばた)も靨(えくぼ)」状態になり、所有する喜びが先に来て、使っても良いと錯覚してしまい、自分の審美眼でさえも書き換えてしまう、困ったものだ。

だから、所有する喜びを捨ててみて、使う喜びに重点を置いて、使うところを想像して、そこに喜びや高揚感があれば良しとしている、最近の物欲まみれから離れるために。

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"Pleasure to use rather than desire"

The things you see and possess and the ones you use are not always the same.

It does not mean that it is easy to use, but it is also a brand that is good to see and own because it is evaluated, but even if you like the information obtained from the eyes, you can get it from the tactile sense of your hands. It may be rare for the information to match because there is no preference for the information and vice versa.

Desire sometimes depends on visual information. Therefore, I don't have any lust because I don't have an eye for anything I don't care about. Then, when a desire arises, it becomes "pox (dimples)", and the joy of owning it comes first, making me illusion that I can use it, and even rewriting my own aesthetic sense. I'm in trouble.

So, let's throw away the joy of owning, focus on the joy of using it, imagine the place to use it, and if there is joy and elation, it would be nice to get away from the recent desires.

装飾だけでつくる

オーバーラップのところに装飾がある、それがデザインの考えどころか、オーバーラップとは日常と建築の接点であり、そこに装飾がある。

服にしても、建築にしても、日常との関係を表現するために装飾があり、装飾が関係性を表現している。どのように装飾するかは、どのように自分を取り巻く世界を見ているか、その世界に対する態度表明でもある。

装飾が無いという装飾も成り立つから、装飾があるのが当たり前、全てに装飾があり、この世界は装飾で満たされていると考えると、装飾自体が機能やアクティビティを担保する可能性もあり、そうすると、装飾だけで建築をつくることも可能になるのではないかと考えている。

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"Make only with decorations"

There is decoration at the overlap, which is not a design idea. Overlap is the contact point between everyday life and architecture, and there is decoration there.

In clothes and architecture, there are decorations to express the relationship with everyday life, and the decoration expresses the relationship. How to decorate is also an expression of how you look at the world around you and your attitude toward that world.

It is natural that there is no decoration, so it is natural that there is decoration, everything has decoration, and if you think that this world is filled with decoration, decoration itself may secure functions and activities, I think that it will be possible to make architecture only by decoration.

装飾にどうしよう

装飾は不可欠なもの、必ず存在する。装飾が無く、シンプルにしているようで、それは「装飾しない」という装飾の一種だから、そう考えると世の中は装飾に溢れている、それを自然な形で見せるのがいいなと思ってしまう。

装飾はデザインか、デザインと装飾の違いは何とか考えていたら、区別は無いなと。

普段デザインを考えているようで、実際は装飾を考えているのか、それならば装飾として、装飾を意識をして、装飾を考えるようでいいのだとしたらどうなるだろうか、その方が人と建築をつなげることができるのではないか、それで良いとして考えてみる。

今まで気づいているようでスルーしていたことに気がついたら、それが装飾だった、それがまた良い、どうしようと頭をずっと悩ましていた、今日一日、もういたたまれない気持ち、今日は心象に浸った日だった。

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"How to decorate"

Decoration is indispensable and always exists. It seems that there is no decoration and it is simple. It is a kind of decoration that "does not decorate", so when you think about it, the world is full of decorations and I think it is better to show it in a natural form.

If you think about the decoration as a design or the difference between a design and a decoration, there is no distinction.

It seems that you are usually thinking about design and you are actually thinking about decoration, so if it is good to think about decoration as decoration, what if it is OK to think about decoration? Let's think that it can be connected, and that's good.

When I realized that I was aware of it and I was through it, it was a decoration, it was good again, I was struggling my head all the time, I felt irresistible one day today, I was immersed in the image today It was a day.

装飾に可能性

身近なところで「装飾」というと、着飾るための服がある。京都大学柳沢研究室『装飾と住居』によると「装飾は秩序」だという。

身に付ける服は、自分と外の世界を繋げて調整してくれるのもののひとつで、自分がこれから行こうとする場所に合わせて洋服を選択する行為は、すでに服が調整役であり、繋げ役であり、服そのものが外の世界での秩序をもたらすものになっている。

また「装飾」が自分と外の世界を繋げて調整してくれる存在ならば、日常とどのような関係性を築くかが装飾になる。だから、装飾には日常が現れる、その装飾で空間ができあがれば、その空間は日常を反映する。日常が人の気分や感情で成り立っているならば、その空間は人の気分や感情を反映するだろう。

などと考えていくと「装飾」にはまだまだ可能性があると思ってしまう。

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"Possibility in decoration"

When you say "decoration" in your immediate surroundings, there are clothes to dress. According to the Yanagisawa Laboratory of Kyoto University "Decoration and Housing", "decoration is order".

Wearing clothes is one of the things that connects and coordinates the world with the outside world. It's a role, and the clothes themselves bring order to the outside world.

Also, if "decoration" exists to connect and coordinate with the outside world, what kind of relationship with everyday life is decoration. Therefore, everyday life appears in the decoration. If the space is created by the decoration, the space reflects the daily life. If everyday life is made up of people's moods and feelings, the space will reflect people's moods and feelings.

I think that "decoration" has more possibilities.

機能≠気分

建築空間は機能から自由になれないと、人の気分や感情を反映することはできない。それは、機能には人の気分や感情が含まれないから、機能によって決められた建築空間では人の気分や感情を反映できない。

別に気分や感情を反映できなくても良いが、建築を人との関係性の中で考えようとしたならば、どうしても気分や感情が絡んでくる。人は当たり前のように日々、気分や感情の振幅の中で生きているから、それに対しての建築の在り方は問われる部分だろう。

ところが、機能と切っても切れない関係性の建築空間では、人の気分や感情の扱いは疎かになるというか、登場して来なくなるし、そもそも扱えない、言説だけで扱ったような気分にはなれるが。

だから、建築空間と機能を切り離すために「装飾」に目をつけた。

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"Feature ≠ Feeling"

If the architectural space cannot be freed from its functions, it cannot reflect people's moods and emotions. Because functions do not include human moods and emotions, the architectural space determined by the functions cannot reflect human moods and emotions.

You don't have to be able to reflect your mood and emotions, but if you try to think about architecture in a relationship with people, you will inevitably have moods and emotions involved. People live in the amplitude of mood and emotions every day, so it is a matter of course how architecture should be addressed.

However, in an architectural space that has an inseparable relationship with function, people's moods and emotions are treated sparsely, or they do not appear, and they can not handle them in the first place. I can peel off.

Therefore, I focused on "decoration" to separate the function from the architectural space.

空間=装飾

空間と機能が切り離せないならば、空間がどうなれば機能と切り離すことができるかと考えてみる。そうなると、空間又は建築と関連性があり、尚且つ、機能とは関連性が無いことを探してみる。ひとつ思い浮かんだのが「装飾」、装飾ならば空間又は建築と関連性があり、尚且つ、機能とは関連性が無いとすることができる。

装飾と機能ならば切り離すことができる、そうすると、空間=装飾として扱えば良くなる。

装飾は本来、元があっての付加物のように考えてしまうので、装飾そのものが空間になるようなイメージが湧きにくいが、例えば、コルビュジエ のロンシャンは装飾そのものが空間を成していると言えなくもないような気がし、その空間がたまたま教会だったと、勝手な解釈をしても許されそうな気がする。ならば、装飾そのものが空間になるようなイメージもできなくはない。

装飾ならば、機能性どころか、建築計画学的な効率性からも離れることができるかもしれない。次は装飾の内容について考察してみる。

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"Space = decoration"

If space and function cannot be separated, think about how space can be separated from function. Then, look for something that is relevant to space or architecture, but not functional. One thing that came to mind was "decoration". If it was a decoration, it could be related to space or architecture, and not related to function.

If decoration and function can be separated, then it can be treated as space = decoration.

Originally, decoration is considered as an addition to the original, so it is difficult to imagine that the decoration itself is a space.For example, Corbusier's Longchamp can be said that the decoration itself forms a space. I feel like there is no end, and if the space happened to be a church, I feel it would be forgiven even if I interpreted it without permission. Then, it is not impossible to imagine the decoration itself as a space.

With decoration, it may be possible to move away from functionality as well as architectural efficiency. Next, let's consider the contents of the decoration.

切り離せない機能か

空間を考える時に機能を優先してしまう、それは当たり前なのかもしれない、その空間は何のために存在するのか、事業であれば尚更、そうでも無くても、例えば森でテントを張って空間をつくる時でさえ、その場所での滞在中に行うことを考えてテントを張るだろうから、その考えることはそこでの機能性を高めること、すなわち、その場所で行う機能は何かを考え優先することになるから、どのような場合でも空間と機能は切り離しはできない。

ならば、空間と機能を切り離して、もし仮に考えることができたならば、また違った空間を創出できる、少なくとも言葉上はその可能性がある。

ただ、イメージが追いつかない、空間と機能を切り離すことがどういうことか、例えば、機能を定めていない空間をつくろうとすると、すでにそれは「機能を定めない」という機能性を持った空間になってしまうので本末転倒になる。

先程のテントの話で言えば、自然の森は機能とは無縁の存在で成り立っているが、人工の森は「機能を定めない」という機能性を持った空間になってしまう、人の手が入るとはそういうことか、機能も無く何かを創出できないということか、などと外出したくない日の戯れこと。

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"Is it an inseparable function?"

When thinking about space, giving priority to functions, it may be natural, what is the space for, even if it is a business, even if it is not, for example, setting up a tent in a forest and setting up a space Even when you make it, you will put up a tent to think about what you do during your stay in the place, so that thinking enhances its functionality, that is, gives priority to what the function you do in the place Therefore, space and function cannot be separated in any case.

Then, we can separate space and function, and if we can think about it, we can create another space again, at least in words.

However, what does it mean to separate the space from the function that the image can not catch up with? For example, if you try to create a space where the function is not defined, it will already be a space with the functionality of "undefined function" So it will fall.

Speaking of the tent I mentioned earlier, natural forests are made up of nothing to do with functions, but artificial forests become spaces with functionality that does not define functions. Entering is that kind of thing, or that you can't create something without functions, and that you don't want to go out.

キライな好きな物

形はキライなのに、大きさ、スケールが変わると良いと思ったり、キライな形だけれどもある一部が良くて、そこが引き立て役になり、それを良いと思ってしまう。

物欲との戦いで、ひとり考えながら、自分にとって何が良いのかを捏ねくり回しながら探っている行為自体が一番デザインの学習になるかもしれない。

自分でつくり出す以外に完璧だと思う形や物はなかなか無いし、例え自分でつくり出そうとしても完璧な形には、制約や理解不足で辿り着けないかもしれないが、与えられた知識や見聞で優劣を判断したくは無いから、自分で試行錯誤するしかない、当たり前だとしていることも時にははじめから構築することもしないと、それは時間もかかり、厄介だが、そうしないと丸腰でも戦える気がしない。

などと1日考えていたら歯医者の予約をすっぽかしてしまったが、物の良し悪しの尺度は変わるもので、ちょっとした見方の違いに気づいたり、気づかされたりしただけで、キライな物まで好きになってしまうようだ。

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"Dislike favorite things"

I hate the shape, but I think it would be nice to change the size and scale, or I don't like the shape, but some of the shape is good, and that helps me, and I think it's good.

In the fight against greed, the act of thinking and thinking about what is good for me while searching for it may be the best way to learn design.

There are few shapes and things that I think are perfect other than my own, and even if I try to create my own, I may not be able to reach the perfect shape due to constraints or lack of understanding, but given the knowledge and hearing I do not want to judge the superiority, so I have to do trial and error myself, if I do not make it obvious or sometimes from the beginning, it will be time-consuming and troublesome, but otherwise I feel like I can fight even if I am not do not do.

If I thought about it for a day, I made a reservation at the dentist, but the scale of good and bad things changes, and I just noticed a slight difference in viewpoint and noticed it, I like things I dislike It seems to be.

気分や感情に焦点を当てて

人の気分や感情など、内にあり一見外からはわからないようなことが影響して、見え方やデザインが変われば、それが人との関係を築く上で一番良いデザインだと考えている。

内在しているものが、何かを介して、外に現れてくる。その何かが建築であったり、デザインであったりすれば良い。

建築やデザインが人に影響を及ぼして、人の気分や感情が変わることはよくある。素敵なデザインやお洒落な空間に身を置けば、気分も晴れやかになるだろう。

その逆はほとんど見ない。日常の中では素敵なデザインやお洒落な空間の方が圧倒的に少なく、内なる人の気分や感情は日常的に起こる。ならば、その内なる人の気分や感情に焦点を当てて、それが影響を与えることによって変わる建築やデザインを見てみたいものだと素直に思った。

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"Focus on mood and emotions"

If the appearance or design changes due to things that are inside and seemingly invisible from the outside, such as the mood and emotions of the person, I think that it is the best design to build a relationship with people .

What is inside comes out through something. It just needs to be architecture or design.

Architecture and design often affect people and change their moods and emotions. If you put yourself in a nice design and a stylish space, you will feel refreshed.

The opposite is rarely seen. In everyday life, there are overwhelmingly few nice designs and stylish spaces, and the mood and emotions of the inner people occur on a daily basis. Then I thought I would like to focus on the mood and emotions of those people and see the architecture and design that change as they affect it.

構法も範疇

外と内で、すでに重なりがあり、そこでは当然、内と外でちがう様相を呈しており、仕上材ひとつとっても違い、そこで要求される性能も違い、当然意匠も違う、壁の話である。

例外はコンクリート打放しの壁、外も内も区別が無い。だが、建築家の安藤忠雄はコンクリート打放しの壁だけれども、その壁を外だとみなした場合はPコンの穴を埋め、内だとみなした場合はPコンの穴を埋めないことをしていた。確か、時には内だけどPコンの穴を埋めている場合があり、その空間を安藤忠雄は内だけど外だとみなすこともしており、その逆の場合も目撃したことがある。

コンクリート打放しの壁は内外同じ様相の意匠にできるので、ミニマムな空間や、シンプルな空間や、空間という場を重視する時の意匠、あるいは型枠をつくり成型するので、塊としての造形的な意匠には適しているが、別の見方をすると、成型して塊にした壁を内外の境界としてつくるだけなので、その塊に壁以上の意味や解釈を仕込むことは難しい気がする。

幾重にも重なり様々な解釈や意味を投影できる壁をつくるには、その構法的な成り立ちもデザインの範疇となりそうだ。

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"Construction is also a category"

There is already an overlap between the outside and the inside, and there is, of course, a different appearance between the inside and the outside. This is a story of a wall where the finishing material is different, the required performance is different, and the design is naturally different.

The exception is bare concrete walls, where there is no distinction between inside and outside. However, Tadao Ando, ​​an architect, is a concrete bare wall, but fills the hole of P-con if it considers the wall to be outside, and does not fill the hole of P-con if it considers it to be inside. Was. Certainly, sometimes it is inside, but sometimes it fills the hole in P-con, and Tadao Ando considers that space to be inside but outside, and has witnessed the opposite case.

Since the exposed concrete wall can be made the same design inside and outside, it is a minimal space, a simple space, a design that emphasizes the space, or a formwork that is molded and molded, so it is a solid design as a lump From a different point of view, it seems that it is difficult to add meaning and interpretation beyond the wall to the block, because it only creates the wall formed into a block as the inside and outside boundaries.

In order to create a wall that can overlap and project various interpretations and meanings, its constitutional structure is likely to fall into the category of design.

融合の果て

コルビュジエの初期の作品では、ピュリスムの絵画の特徴であるモチーフの重なりの要素は無いように思えるが、後期の作品、特に、ラトゥーレット修道院では重なりの要素を感じる。

一言では、一見しただけでは理解し難い建築だった。その建築を理解しようとする姿勢もどうかと思うが、あまりにもわかりそうでわかりにくい、でも、何かわかりたい衝動みたいなものがあり、それはラトゥーレット修道院に宿泊したからだろうか、あの暗闇の恐怖を経験したからだろうか、朝になり全体像が見えた時のあちらこちら問いかけてくる、投げかけてくるデザインの波に押し流されないように必死で抵抗しつつ、その一つ一つを全てを理解しようとしていた。

今から振り返れば、たくさんの重なりが、それが絵画のモチーフのような様々な造形が、様々な要素が見え隠れしながら、今そこにいる自分の立ち位置によって受ける印象が違うくらいに複雑な建築空間だった。

それがモダニズム建築とピュリスム絵画の融合の果てだと考えると妙に納得してしまう。

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"End of fusion"

Corbusier's early works seem to lack the overlapping elements of the motifs that are characteristic of Purism's paintings, but in later works, especially the La Tourette monastery, they do.

In short, the architecture was hard to understand at first glance. I don't know how to try to understand the architecture, but it seems too obvious and difficult to understand, but there is something like an impulse to understand, probably because I stayed at La Tourette Monastery, that fear of darkness Perhaps because of the experience, I asked everywhere when the whole picture was seen in the morning, I understood each and every one of them while desperately resisting being washed away by the waves of the design that was thrown I was trying.

Looking back now, there is a lot of overlap, a variety of forms such as painting motifs, various elements can be seen and hidden, and the architectural space is complex enough to give a different impression depending on where you are right now was.

It is strangely convinced that this is the end of the fusion of modernist architecture and purism painting.

重なりを見る

午後は近代建築五原則を唱えてモダニズム建築を設計し、午前はピュリスムの絵画を描く、コルビュジエはピュリスムの絵画を描きながら、それは新たな建築空間の習作であり、それは絵画の世界から建築の世界を見つめ直して、午後に新たなモダニズム建築を構想していたのであろう。

コルビュジエの頭の中ではピュリスムからモダニズムへという流れができており、それは一見すると相違しているように思ってしまうが、仮に同一、あるいは同一の部分が多いとして考えてみると面白い。

ピュリスムの絵画の特徴である、モチーフが重なり、そのモチーフの輪郭線だけが強調されたり、意味を持ってくる様と呼応する部分がモダニズム建築にはあるのだろうかと考えてしまう。

モダニズム建築は確かに、水平垂直や外観の輪郭は強調されるが、そこに重なりの要素は無いように思う。そこは未だに気づかない部分があるのかもしれない。

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"See the overlap"

In the afternoon, we design modernist architecture by advocating the five principles of modern architecture, and in the morning, we draw a painting of Purism. It was likely that he had reconsidered and planned a new modernist architecture in the afternoon.

In Corbusier's head, there is a transition from purism to modernism, which at first glance seems to be different, but it is interesting to think that it is the same or that there are many identical parts.

I wonder if there is a part of modernism architecture that overlaps with the motifs that are the characteristic of the painting of Purism, and emphasizes only the outlines of the motifs, or responds to bringing meaning.

The modernist architecture certainly emphasizes the horizontal and vertical and the outline of the appearance, but I think there is no overlapping element there. There may be parts that have not yet been noticed.

面で呼応し合う

デザインが幾重にも折り重なる姿はあまり見たことが無いので、なかなかイメージができないが、コラージュの技法を使った絵画を思い浮かべて、その一つ一つがデザインされたものだとしたらイメージがしやすい。

ピュリスムの絵画も、例えばコルビジェの絵画も、モチーフの重なり具合で画面を構成し、そのモチーフの重なりの輪郭線だけを抜き出して、そのモチーフ自体もそもそも平面化されており、輪郭線だけがまた別のモチーフになっていたり、別の意味をつくり出していたりするので、このモチーフもデザインされたものだとしたら、またコラージュとは違った折り重なり具合をイメージできる。

コラージュもピュリスムも平面化された画面構成をしており、それは簡単に言うと、陰影がはっきりとした立体感を出す絵画に対する新しい試みだった。モチーフに陰影をつけて奥行き感を出すのでは無くて、モチーフ自体を幾重にも折り重ねてモチーフの存在に意味合いという奥行きを付けていった。

コルビュジエは、ピュリスムの表現技法を建築に用いて、内部空間を構成していた。午前はアトリエで絵を描き、午後は事務所で建築の設計をしていたというコルビュジエ にとって、午前のピュリスムの絵を描く時間は建築の実験をしていたのだろう。

重なりの輪郭だけが浮き出たような内部空間を有するコルビュジエ設計のパリのラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸は、その内部空間に身を置くと、その輪郭に沿うようなアクティビティが自然に起こるような感じがした。それは、その輪郭と人の関係性が密接だからであろう。

ただ、そのラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸を体験しているからこそ、きっと実現したい内部空間は輪郭という線では無くて、壁という面を用いて、もっと建築と人が呼応し合うものにならないかと考えてしまう。

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"Resonate with each other"

I haven't seen any of the designs that fold over and over, so I can't easily imagine the image. However, if I think of paintings that use collage techniques, and if each of them is designed, it's easy to imagine.

Both the paintings of Purism and, for example, the paintings of Corbigier, compose the screen based on the degree of overlap of the motifs, extract only the outline of the overlap of the motif, and the motif itself is originally flattened, and only the outline is another Motifs or create different meanings, so if this motif is also designed, you can imagine how it folds differently from a collage.

Both the collage and the purism have a flattened screen composition, which, in short, was a new attempt at painting with clear shadows and a three-dimensional effect. Instead of shading the motif to give it a sense of depth, the motif itself was folded over and over to add depth to the existence of the motif.

Corbusier used purism expression techniques in architecture to compose the interior space. For Corbusier, who painted in the atelier in the morning and architectural design in the office in the afternoon, the time of painting the Purism in the morning would have been an architectural experiment.

La Corcheier-designed La Roche Jeannelet's house in Paris, which has an interior space where only the outline of the overlap emerges, when you put yourself in that interior space, it seems that activities along the outline occur naturally. did. The reason is that the relationship between the contour and the person is close.

However, just because I experienced La Roche-Jeanneret's house, I wondered if the interior space I wanted to realize would not be a line of contour, but a wall that would make architecture and people interact more Would.

壁に関係性を折り込む

空間がストラクチャー以外の要素で成り立つならば、そこは厳密に言うと、ストラクチャーがないと空間は成り立たないが、ストラクチャー以上の強度を持って空間を成り立たせる要素が存在するならば、ストラクチャーの存在を消すことができるので、その状態はストラクチャー以外の要素で空間が成り立つとしても良いだろう。

そのストラクチャー以上の強度を確保するために、人との密接な関係を築く。要するに、空間を認識する側の人との関係性で成り立つ空間になると、その空間ではストラクチャーの存在が消える。

それでは、ストラクチャー以上の強度を持って空間を成り立たせる要素を何にするか、今考えているのは「壁」及び「壁に付随するもの」である。壁ならば、物理的に消すことができないストラクチャーをも包括することができ、その包括の仕方に、空間を認識する側の人との関係性を折り込むこともでき、空間を人が自身の手中で扱えるデザインとして構成できる可能性が生まれるからである。

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"Folding relationships into walls"

If space consists of elements other than structure, strictly speaking, space does not hold without structure, but if there is an element that makes space more strong than structure, the existence of structure exists. Since it can be erased, its state may be good if space is made up of elements other than structure.

Establish a close relationship with people to ensure the strength of the structure. In short, when a space is established based on the relationship with the person who recognizes the space, the existence of the structure disappears in that space.

Now, what are the elements that make up space with more strength than the structure is what we are thinking about, "walls" and "things attached to walls." Walls can include structures that cannot be physically erased, and can include relationships with people who recognize the space in the way they are included. This is because there is a possibility that it can be configured as a design that can be handled by.

真の姿

ストラクチャーを消すけれど、そこに現れるのは装飾ではなくて真の姿となるように。

建築を人が自身の手中で扱えるデザインで構成しようとすると、ストラクチャーの存在を消す、あるいは、ストラクチャーをデザイン要素として扱わないようにする。

それは、人が自身の手中で扱えるデザインと、建築のように人のスケールを超えて存在するデザインの違いで、一番大きいのがストラクチャーの有無だから。

ただ、ストラクチャーは建築が建築として存在するためにはなくてはならないものでもあるし、ストラクチャー自体が現実にそこに建築があることの証明にもなっているので、その存在を消すと残るのは建築と称してストラクチャーに纏わりついていた装飾だけになる。

その装飾は、建築の真の姿を表現していないし、すでに建築では無い。それは単なる造形遊びの成れの果てである。

それを回避するためには、ストラクチャーを消した後に残るものが人と密接に関係を有していれば良く、さらに、それが空間の構成要素であれば、それを「建築」だと強引にしてしまえば良い。そして、人と密接な関係があるのだがら、それを「真の姿」だと、あるいは、今まで気がついていなかった別の「真の姿」だとしてしまえば良い。

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"True figure"

Eliminate the structure, but make it appear as a true figure, not a decoration.

When trying to construct an architecture with a design that can be handled by one's own hands, the existence of the structure is erased, or the structure is not treated as a design element.

The difference between a design that people can handle in their own hands and a design that exists beyond the scale of people, such as architecture, is the biggest thing because of the presence or absence of structure.

However, the structure is indispensable for architecture to exist as architecture, and the structure itself is also a proof that there is actually architecture, so if you erase that existence, it will remain It is just the decoration that was tied to the structure, called architecture.

The decoration does not represent the true form of architecture and is no longer architecture. It is the end of mere modeling play.

In order to avoid this, it is only necessary that what remains after the structure is erased has a close relationship with people, and if it is a component of space, it must be forcibly called "architecture". Just do it. And if you have a close relationship with a person, you can call it a "true figure" or another "true figure" you haven't noticed before.

ストラクチャーを消す

他の分野からデザインのヒントを探そうとしている。人が自身の手中で扱えるデザインと、建築のように人のスケールを超えて存在するデザインでは全く違う。建築を人が自身の手中で扱えるデザインで構成したいと考えている。

それができれば、より建築が人と密接に関係してくるだろうから。

まず最初に考えたことはストラクチャー、人が自身の手中で扱えるデザインと、建築のように人のスケールを超えて存在するデザインの違いで、一番大きいのがストラクチャーの有無、建築は明確にストラクチャーが存在する、もっと言うと、ストラクチャー自体がデザイン要素として重要である。

だから、人が自身の手中で扱えるデザインとするために、ストラクチャーの存在を消す、ストラクチャーをデザイン要素として扱わないように考えている。

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"Erase the structure"

I'm trying to find design tips from other fields. A design that people can handle with their own hands is completely different from a design that exists beyond the scale of people like architecture. I want to construct the architecture with designs that people can handle with their own hands.

If we can do that, architecture will be more closely related to people.

The first thing I thought about was the difference between structure, a design that people can handle with their own hands, and a design that exists beyond the scale of people like architecture, the biggest thing is whether there is a structure, the architecture is clearly a structure The structure itself is important as a design element.

Therefore, in order to make a design that people can handle with their own hands, we try to eliminate the existence of structures and do not treat structures as design elements.

考えあぐねる

フリーカップを制作中、毎朝、豆から挽いてコーヒーを淹れる際に、その日の気分でコーヒーカップを選ぶので、その選択肢のひとつにしようと思って。気分で選ぶ、その楽しさ、身勝手さみたいなものをデザインできたら面白いと。

飲み口の厚みを不連続に変化させ、その日の気分で飲み口を選ぶと、非対称のカップだから、カップの見え方も変わる。気分が直接カップの見え方まで左右する。そして、その非対称な形故に、カップに液体が注がれてはじめて安定して鎮座する。

そのフリーカップ自体は常に不完全であり、使われてはじめて完全な姿を成す。そこでは、物と人の関係性をデザインに取り込みたかった。そうすることが物単体の価値を超えた、人にとっての価値ある物をつくることにつながると考えたから。

さて、それを建築で実現しようと考えている。しかし、人が自身の手中で扱えるデザインと、人のスケールを超えて存在するデザインで、これほど相容れないものかと、建築ではさらに何かが必要だと考えあぐねる。

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"Thinking"

While making a free cup, every morning when I grind from beans and brew coffee, I choose a coffee cup according to the mood of the day, so I decided to make it one of the options. It would be interesting if you could design something that was fun, selfish, and so on.

If you change the thickness of the spout discontinuously and select the spout according to the mood of the day, the appearance of the cup changes because it is an asymmetric cup. The mood directly affects how the cup looks. And, because of its asymmetric shape, the liquid is poured into the cup, and the liquid is stably settled.

The free cup itself is always imperfect, and will only be complete when used. There, I wanted to incorporate the relationship between things and people into the design. I thought that doing so would lead to creating something valuable for people, beyond the value of the substance alone.

Well, I'm thinking about realizing that with architecture. However, he argues that there is something more needed in architecture, whether designs that people can handle in their own hands and designs that exist beyond the scale of humans are so incompatible.

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機能は形態に従う

ルイス・サリヴァンが「形態は機能に従う」と説いた。今だに有効な言説だと思うが、それをそのまま言われると違和感がある。

たくさんの機能が折り重なり、同時に存在し、その中から、その時々で必要な機能を選択するように発見していき、その選択が建築の見え方に影響を与えるような不均質空間をつくろうとする時、「形態は機能に従う」よりは「機能は形態に従う」方がしっくりくるように思う。

もうその形態ならば、そう行動するしかないじゃないか、機能はアクティビティを誘発するものだから、形態=機能でアクティビティが起こるが、人は視覚情報にまず反応する、要するに見た目、そうすると、見た目で分かりやすいのは機能より形態、だから、見た目の形態で機能を判断し、アクティビティを起こす。

見た目のアフォーダンスが機能を瞬時に理解させることもあるが、そのアフォーダンスも形態の一種だと考えている。

したがって、たくさんの機能の折り重なりは、形態によって表現し、その形態の中からか、又は、その形態そのものを選択するから、その時々で建築の見え方が変わり、その様はどう考えても均質空間では生まれないから、不均質空間と成す。

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"Function follows form"

Louis Sullivan stated, "Form follows function." I think it is still a valid discourse, but if you say it as it is, it feels strange.

Many functions overlap and exist at the same time, and we try to find the necessary function from time to time, and try to create an inhomogeneous space where the selection affects the appearance of architecture. When I do, I think that "function follows form" is better than "form follows function".

If it is already in that form, it is necessary to act so, because the function induces the activity, the activity occurs in the form = function, but the person reacts first to the visual information, in other words, it looks like, so it can be understood by the appearance Because it is easier to form than function, it is easy to judge the function in the form of appearance and activate the activity.

Affordances can make a function understandable instantly, but I think that affordance is a form of form.

Therefore, the overlapping of many functions is expressed by the form, and from among the forms or the form itself is selected, the appearance of the architecture changes from time to time, and even if you think about it like that, Since it is not born in space, it is a heterogeneous space.

機能の選択

たくさんの解釈が折り重なり、同時に存在し、その中から選択するように発見していく不均質空間をつくろうとすると、その場合、解釈は1対1の対応では無くて、そこに重なり、それも前後に奥行きのある複数の解釈が重なり合っている状況をつくり出すことになる。

とりあえず「解釈」を別の言い方にしてみて「機能」とすると、たくさんの機能が折り重なり、同時に存在し、その中から、その時々で必要な機能を選択するように発見していき、その選択が建築の見え方に影響を与える。

そうすると今度は「選択」について考察したくなる。

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"Selection of functions"

If you try to create an inhomogeneous space where many interpretations overlap, exist at the same time, and discover to choose from among them, then the interpretations are not a one-to-one correspondence, but overlap, It creates a situation where multiple interpretations with depth before and after overlap.

For the moment, if you try to interpret "interpretation" in another way and say "function", many functions overlap and exist at the same time, and from among them, discover that you need to select the function you need at each time Affects the appearance of architecture.

Then, I want to consider "selection".

可変に違和感

日常の出来事が様々に形を変えて出現する空間をつくるとすると、壁から様々なものが飛び出してくるような、壁が開き中から様々なものが移動してくるような空間をすぐに思い浮かべてしまうが、それは確かに建築的な解釈に沿ってはいるが、メタボリズム的な匂いもするが、それは事象として可変することに重きが置かれており、可変した様が今までの建築の見え方と同じならば、単なるサーカスやマジックに過ぎず、ショーとしては面白いかもしれないが、空間としてはつまらないというか、何も新しいものを生み出せてはいないので、わざわざやるようなこととは思えない。

可変するよりも、心象によって事象が変化したように見えることの方が建築らしいような気がする。きっとその建築らしさのようなことは、可変する装置のような建築に対する刷り込まれた違和感から来るのだろう。

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"Variably uncomfortable"

If you create a space where everyday events change shape and appear, you can immediately imagine a space where various things jump out from the wall, and various things move from inside the wall. Although it certainly conforms to the architectural interpretation, it also has a metabolic smell, but the emphasis is on changing as an event, and the appearance of the change is the If it's the same, it's just a circus or magic, and it might be interesting as a show, but it's boring as a space, or it doesn't seem to bother you because it doesn't create anything new. .

It feels more like architecture that the phenomenon seems to have changed depending on the image than it can change. Surely, the architectural nature comes from imprinted strangeness to the architecture, such as a variable device.

前後に折り重ねる

たくさんの解釈が前後に折り重なり、重層し、どの解釈を選択するかにより、意味が変わり、その選択は作者では無く、使う側が行う。よって、そこで実現される日常は作者の意図の範疇でありながら、様々なバリエーションが存在し、そこに使う側のアクティビティや心象が加われば、唯一無二の空間ができ上がる。

前後に折り重なる様には空間性が内在しているから、これらの言葉を空間化できる。

それは決して特異な空間ではなく、日常が様々に形を変えて出現する空間になるだろう。だから、その日常をどのように設定するかによって、特定の個人に対しても、不特定の多数にも対応できる。

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"Fold back and forth"

Many interpretations wrap around and stack, and the meaning depends on which interpretation you choose, and the choice is made by the user, not the author. Therefore, although the daily life realized there is in the category of the author's intention, there are various variations, and if activities and images of the user are added to it, a unique space is created.

These words can be spatialized because there is an inherent spatiality that folds back and forth.

It will never be an unusual space, but a space where daily life will appear in various forms. Therefore, depending on how the daily life is set, it is possible to deal with a specific individual or an unspecified large number.

スペースは関係ない

たくさんの解釈が折り重なり、同時に存在し、その中から選択するように発見していく不均質空間をつくるとすると、最初に思いついたのが最小限住宅である。

最小限のスペースしかないから、そこにたくさんの機能を効率良く配置し、建築家の清家清、池辺陽などが、あと、安藤忠雄も思い浮かぶが、必要な機能がキュッと凝縮されて詰め込まれているイメージがある。

ただ、それでは、たくさんの中から選択していく感じにはならない。スペースが最小限であるから効率性を高めるために機能をたくさん折り重ねるかと考えたが、そうではなくて、機能のムダを省いて最小限のスペースを実現しているようだった。

たぶん、スペースがあるかないかは関係が無いのだろう。

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"Space doesn't matter"

If we create a heterogeneous space where many interpretations overlap, exist at the same time, and discover to choose from among them, the first thing we came up with is a minimal house.

Since there is only minimal space, many functions are efficiently arranged there, and architects Kiyoshi Seike and Yo Ikebe, and Tadao Ando also come to mind, but the necessary functions are packed tightly and packed. There is an image that is.

But that doesn't make me feel like choosing from many. The space was minimal, so I thought I'd fold a lot of features to increase efficiency, but instead, it seemed that the feature was wasted to minimize space.

Maybe it doesn't matter if there is space.

不均質空間

予め何をするかが決まっていない空間を設計してみようと考えてみると、簡単そうで案外難しい。

ユニバーサル・スペースのような空間の設計をすることは一般的によくある。限定せずに自由に使えるスペースとして、建築家のミースの空間を例にあげて、均質空間と称して、オフィスビルをイメージしてもらうとわかりやすいが、どのようなテナントにも対応可能な空間を指すが、予め何をするかが決まっていない空間とは、限定せずに自由に使える均質空間を目指すのではなくて、居心地の良い場所を自分が発見するように見つけていく空間で、その場所の解釈は人によって違い、まるで自然の中のような、森のような、均質ではなく、不均質な空間で、その時々で空間の受け止め方が変わる、違う空間、だから、予め何をするかが決まっていないということになる。

要するに、たくさんの解釈が折り重なり、同時に存在し、その中から選択するように発見していく空間である。

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"Inhomogeneous space"

If you try to design a space where you don't know what to do beforehand, it seems easy and unexpectedly difficult.

It is common to design a space such as a universal space. As a space that can be used freely without limitation, taking the example of the architect's Mies space as a homogeneous space, it is easy to understand if you imagine an office building, but a space that can accommodate any tenant Pointing out, a space where you do not decide what to do beforehand is a space where you find a comfortable place to find a comfortable place, rather than aiming for a homogeneous space that can be used freely without limitation. Interpretation of the place differs from person to person. It is a heterogeneous space that is not homogeneous, like a forest, like nature, and the way of accepting the space changes from time to time. That means that it has not been decided.

In short, it is a space where many interpretations overlap, exist at the same time, and discover to choose from among them.

予め決まりがない

『予め決まりがない』

居心地の良い場所を探すように選択できたら、自然の中ではそれを当たり前のようにやっている。

きっとここは平らだからテントを張るには良いなとか、この木の根元で休憩しようとか、見晴らしの良い場所でご飯を食べようとか、そこは元々、その行為専用につくられている訳ではなく、むしろ、その場所を自分が発見するように見つけていく。

予め何をするかが決まっている空間や場所には興味が持てないのかもしれない。

選択できるということは、決まりや縛りの強度のようなものがほとんどないことかもしれない。それは例えば、室名のない部屋のような。

予め何をするかが決まっていない空間を設計してみよう。

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"No pre-determined"

If you can choose to find a cozy place, you do it in nature.

Surely this place is flat, so it is good to set up a tent, to take a break at the root of this tree, to eat rice at a place with a good view, it is not originally made exclusively for that act, but rather , Find the place as you discover it.

You may not be interested in the space or place where you decide what to do in advance.

Being able to choose may mean that there is little like a rule or stiffness. For example, like a room without a room name.

Design a space where you do not know what to do beforehand.

接面のデザイン

人の手が届く範囲から建築デザインをはじめて、それが同心円状に段々と広がっていき、人と建築との接点、それはプラン的には壁で、その壁が人の日常の暮らしを反映するように、その時々の気分で何か変わる、その何かが変わる時、人と建築との間に密接な関係性が生まれる。

その関係性は人の数だけ違った種類が存在するだろう。そこは自然発生的に関係性が生まれれば良いから、デザインによって関係性を規制はしたくない。

だから、デザインでは、気分で何か変わる、その何か、その変わり方を扱う。

人と建築の接点というか、接面は壁として、気分で壁が変わる、その変わり方、実際には壁が可変する訳がないから、複数の違った壁を気分で選択すること、その選択の仕方をデザインする。

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"Interface design"

Starting with architectural design within the reach of humans, it gradually expands concentrically, and the point of contact between people and architecture, which is a plan, is a wall, and the wall reflects the daily life of a person. In addition, something changes depending on the mood at the time, and when that something changes, a close relationship is created between people and architecture.

There may be as many different kinds of relationships as there are people. There is only a need to spontaneously establish the relationship, so we do not want to restrict the relationship by design.

So, design deals with something that changes with mood, something that changes.

The contact point between people and architecture, or the contact surface as a wall, the wall changes with mood, the way it changes, in fact there is no reason that the wall does not change, so select multiple different walls with mood, that choice How to design.

区別して限定

日常の暮らしの中で建築を考えていくと、どこか使い手に迎合してしまう印象がつきまとう。

使いやすさとか、趣味とか、居心地良さとか、気持ち良さとか、それは人それぞれ違うから、それを追い求めると使い手に合わせることになるし、建築は設計者自らの自由裁量でとはいかず、事業として成り立つようにクライアントがいて、設計者はそこではじめて登場するから、建築のことだけを考える訳にもいかず、だから、上手いこと暮らしと建築を切り離して、暮らしは取り扱わず、それは見て見ぬ振りをして、建築のことだけを語る方が作品になる。

ところが、面白いことに、建築のことだけを取り扱っているのは設計者だけで、設計者以外は建築と暮らしを区別していない、というか区別できない、だから、暮らしの中で交わされる言葉を使って設計者とクライアントはコミニケーションをするので、結局は迎合してしまう。

ならば、建築と暮らしを区別せず、日常として一緒に扱えば良いと普通に思うと、今度は日常と非日常の区別をするようになる。その区別はわかりやすく、利用しやすい。

結局、区別して、範囲を限定することによって、その範囲内で自由にやろうということで、建築を担保しているのだなと思う。

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"Limited distinction"

When you think about architecture in your daily life, you will always get the impression that it will suit you.

Ease of use, hobbies, comfort, comfort, etc., are different for each person, so pursuing them will suit the user, and architecture will not be at the designer's own discretion, but will be a business. Because there is a client and the designer appears there for the first time, it is impossible to think only about architecture, so it is a good thing to separate living and architecture, living is not handled, it is pretended to see And the one who talks only about architecture becomes a work.

Interestingly, however, only architects deal exclusively with architecture, and non-designers do not distinguish between architecture and living, or indistinguishable, so we use the words exchanged in our lives. The designer and the client communicate, so they end up being compliant.

Then, if you normally think that it should be treated as everyday without distinguishing between architecture and living, then you will distinguish between everyday and extraordinary. The distinction is easy to understand and easy to use.

In the end, by limiting and limiting the scope, I think that the architect is secured by trying to be free within that range.

発明的

連続的に、床から丸味を帯びて壁になり、壁が丸味を帯びて天井になる、それは床が反転して天井になる、そのデザインをはじめて見た時、一種の発明に近い驚きがあった。

それは、オランダのユトレヒトにあるレム・コールハースとOMAが設計した『エデュカトリアム』で、ユトレヒト大学の施設である。

床、壁、天井が分節されずに、連続的に繋がっている様は、たぶんおそらく、自然界には存在せず、人がつくり出すイメージでのみ存在することで、ただ、そのイメージすら、今まで無かったので、だから発明的だと思った。

これ以降、発明的な建築に出会った記憶が無い、もちろん、素晴らしい建築にはたくさん出会ったが、なかなか発明的なものは生まれるものでもないのだろう。

ただ、床、壁、天井の関係性には、まだまだ可能性があると考えている。とりわけ壁には発明的な何かを見出したいと考えている。

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"Inventive"

Continuously, the floor is rounded to a wall, the wall is rounded to a ceiling, and the floor is inverted to a ceiling. Was.

It is an Educatorium designed by Rem Koolhaas and OMA in Utrecht, the Netherlands, a facility of Utrecht University.

The fact that floors, walls, and ceilings are continuous without being segmented is probably because they do not exist in nature but exist only in images created by humans, and even that image has never existed. So I thought it was inventive.

Since then, I have no memories of encountering inventive architecture, and of course, I have met many wonderful architectures, but it is unlikely that anything innovative will be born.

However, we believe that the relationship between floors, walls, and ceilings still has potential. Especially, I want to find something inventive on the wall.

距離感はデザイン

ヤコブセンのエッグチェアをコペンハーゲンのSASロイヤルホテルのロビーではじめて座った時、椅子が身体を包み込み、ロビーの中にプライベートな空間が出来上がることを感じたと同時に、人はそのような極小の自分だけの空間を潜在的に欲しているのではないかと思った。だから、エッグチェアに座ろうとする時は、休息というよりは、自分だけの空間に入り込む感じだった。

それは、自分と外界との距離感を調整することであるように思う。人はいつでも距離感を測る。人同士でも、物とでも、建築とでも、その距離感が丁度良いと居心地良さを感じる。

ヤコブセンのエッグチェアは、外界を遮断し、自分と外界を遠ざけてくれる装置になっている。だから、自分だけになりたい人が寄ってくる。

逆に、距離感を近づけてくれるものもある。例えば、同じく椅子で言えば、ベンチシート。自分以外の空間があり、そこが余白となり、そこに誰が座っても許されるし、外界との距離感を緩やかに調整し、馴染ませて、近づけてくれる、あるいは、強制的に近づけてしまう。強制的な場合は、通勤電車の長椅子が思い浮かぶ。

例えに椅子を持ち出したのは、人の身体に密着するものだから、距離感の話がわかりやすいと考えたのと、それがデザインできるものだから。

すなわち、距離感はデザインの対象にすることができるということである。

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"A sense of distance is design"

When I first sat down with Jacobsen's egg chair in the lobby of the SAS Royal Hotel in Copenhagen, I felt that the chair wrapped up and created a private space in the lobby, and at the same time, people were such a tiny personal space I thought I might have a potential. So when I was sitting on an egg chair, I felt like I was going into my own space rather than resting.

I think it's about adjusting the sense of distance between me and the outside world. People always measure distance. I feel comfortable when the distance between people, objects, and architecture is just right.

Jacobsen's egg chair is a device that blocks the outside world and keeps you away from the outside world. That's why people who want to be alone come.

On the other hand, there are things that make the sense of distance closer. For example, in a chair, bench seats. There is a space other than myself, and it becomes a blank space, anyone can sit there, and the sense of distance to the outside world is adjusted slowly, familiarizing, approaching, or forcibly approaching. In compulsory cases, a commuter train chaise comes to mind.

For example, we took out the chair because it was close to the human body, so we thought it was easy to understand the sense of distance, and because we could design it.

In other words, the sense of distance can be an object of design.

壁に切り込む

人の領域をどこまで拡大するか、その原動力を人の気分にしようと考えている。気分によって左右されることが、今まで建築の領域だと見なされていたところに切り込む、その切り込み方をデザインしてみようと。

それによって、今までの建築の見え方が少しでも変われば、それは人にとっても影響を与える範囲が増えるので良いし、建築では新たな空間が生まれるかもしれない。

壁に切り込む。領域をプラン的に考えれば、最初に人の領域が切り込むべき建築の領域は壁だろう。

壁が人の気分によって左右される状況をつくり出す。そのつくり出された空間は新しい見え方になるはずだとして。だから、壁に取り付くものの見方を変えて検討する、その中で建具に行き着いた。

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"Cut into the wall"

He wants to expand his territory and make him feel the driving force behind it. I try to design a way to cut into what was once considered to be an architectural domain, depending on my mood.

If the appearance of the architecture changes a little, it will increase the range of influence on people, and architecture may create a new space.

Cut into the wall. Considering the area in terms of planning, the architectural area that the human area should cut first is the wall.

The wall creates a situation that depends on the mood of the person. The created space should be a new look. Therefore, I changed the perspective of what was attached to the wall and examined it.

人の領域、建築の領域

建具を服のように、身に纏い、着飾る、それは人と建築の関係性において、人を中心に据え、どこまでが人の領域で、どこからが建築の領域になるのかのせめぎ合いのようなことをイメージしている。

日常の生活の中でいろいろとコーディネートでできることは人の領域で、変えられないことは建築の領域で、その境界は明確にあるように思われているが、その境界自体が揺らげば、今まで見たことがない空間に出会える。

その場合は、人の領域が拡大していくのか、建築の領域が拡大していくのか、両方あり得るとは思うが、今までの建築の歴史的な流れは、建築の領域が拡大していく方向であり、その建築の領域の在り方が問われてきた。

今、興味があるのは、人の領域がどこまで拡大するか、そして、それによって、建築の領域の在り方がどう変わるかということであり、それは日常の生活や暮らしの場で起こることであるとし、それは建築を日常の生活や暮らしの中で考えるということである。

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"Human domain, architectural domain"

Wearing and fitting fittings like clothes, it is like a battle between the human and the architectural relationship in the relationship between people and the building, focusing on the human sphere and from the architectural sphere. The image is.

What can be coordinated in everyday life is the domain of human beings, what cannot be changed is the domain of architecture, and it seems that the boundaries are clear, but if the boundaries themselves fluctuate, now You can meet a space you have never seen before.

In that case, it is possible that the area of ​​people will expand or the area of ​​architecture will expand, but I think that the historical flow of architecture so far is that the area of ​​architecture has expanded The direction of the architectural domain has been asked.

Now I am interested in how far the human territory expands and how it changes the architectural territory, which happens in everyday life and living places. That means thinking about architecture in everyday life and daily life.

建具が被覆

壁を建築の付属物と考えず、人の付属物と考えれば、服を着飾るように、そこにもう1枚のレイヤーを用意して、気分で選択し、装飾することができる。

壁に服を着せるように、もう1枚のレイヤーを着飾る。

外装では、外皮のことをスキンと称して、ダブルスキンなど、レイヤーを用意することはよくあり、カーテンウォールも同じ。

それを内装で考えている。外装では水密性を要求されるから、気分で選択するようなことは難しいかもしれないが、内装ならば可能かもしれないし、外装よりも日常の生活に、暮らしに密着したことが可能になるのではないか。

その内部の被覆は、壁に取り付く建具も含む。もしかしたら、その被覆は建具そのもの、建具と同義かもしれない。建具が本来の機能、出入り口や収納などから逸脱して存在するようになれば、被覆としての可能性が広がるかもしれないと考えている。

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"Fittings are covered"

If you don't think of the wall as an architectural accessory, but a human accessory, you can choose another layer and decorate it, just like dressing up.

Decorate another layer to dress the wall.

On the exterior, the outer skin is called a skin, and layers such as double skins are often prepared, and the same applies to curtain walls.

I think it in the interior. The exterior needs to be watertight, so it may be difficult to choose by mood, but it may be possible for the interior, and it will be possible to adhere more closely to everyday life and living than exterior. Isn't it?

The interior coating also includes the fittings that attach to the wall. Perhaps the covering may be synonymous with the fitting itself. We believe that if fittings deviate from their original functions, doorways, storage, etc., the potential for covering may be expanded.

人の付属物

普段の生活の中に実用としての屏風が家にある人は少ないだろう。屏風と言えば、鑑賞用として、美術品としてのイメージが強いが、普段の生活の中で実用として使われることがある。

昔の日本家屋では、6畳や8畳などの和室が襖で仕切るだけで続いており、広く使いたい時はその襖を外して使うことができ、逆に小さく使いたい時には、屏風を立てて、その場所だけを仕切っていた。

日本家屋の続きの和室には、洋室のようなドアは無く、襖や障子で仕切り、壁は4面のうち1面しかない場合が多く、視覚上、明確な出入り口が存在しない。だから、襖や障子を外したりして、洋室よりフレキシブルに使うことができ、さらに、小さく仕切る、出入り口を明確にする、出入り口を隠すなど、細かな対応をするために屏風を使う。

屏風は、昔の日本家屋では、生活に無くてはならない小道具であり、簡単に移動もでき、空間要素のひとつだった。

その屏風に代わるものとして、和室が無くなり洋室ばかりの家では、移動に制限があるが、可動間仕切りとしての機能を持った木製の建具を使うことがある。その可動間仕切りを襖や障子の代わりとみなすこともできなくないが、洋室に障子を使うこともあるので、屏風の代わりと考えた方が素直だろう。

洋室に和の要素を取り入れた結果、木製の可動間仕切りを使うことはよくあるが、やはり屏風よりはフレキシブルではない。それは、移動に制限があるだけではなく、可動間仕切りは建築の付属物であり、屏風は人の付属物であり、その違いによるような気がする。

だから、屏風には仕切りとしての実用の役目の他に、鑑賞や美術品としての役目も負う、それは人が着飾るように。

そう考えてみると、今、建築の付属物と見なされている物を、見方を変えて、人の付属物とすれば、また違ったデザインが見えてくるかもしれない。

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"Human accessories"

Few people will find a practical folding screen at home in their daily lives. Speaking of folding screens, they have a strong image as an art object for appreciation, but they are sometimes used in everyday life as practical.

In old Japanese houses, Japanese-style rooms such as 6 tatami mats and 8 tatami mats are just separated by sliding doors.If you want to use it widely, you can remove the sliding door and use it. , Only that place was partitioned.

The Japanese-style room following the Japanese house does not have a door like a Western-style room, but is divided by sliding doors and sliding doors, and often has only one of the four walls, and there is no visually clear entrance. Therefore, you can remove the fusuma or shoji and use it more flexibly than in the Western-style room, and use folding screens to provide small measures such as partitioning small, clarifying the entrance, and hiding the entrance.

Folding screens were an indispensable prop in everyday life in old Japanese houses, and they were easy to move around and were one of the spatial elements.

As an alternative to the folding screen, in a house where there are no Japanese-style rooms and only Western-style rooms, movement is restricted, but wooden fittings that function as movable partitions may be used. Although the movable partition cannot be considered as a substitute for a sliding door or a sliding screen, it may be more straightforward to think of it as a substitute for a folding screen because a Western screen may be used as a sliding screen.

As a result of incorporating Japanese elements into the Western-style rooms, wooden movable partitions are often used, but still less flexible than folding screens. Not only is there a restriction on movement, but the movable partition is an accessory of the architecture, and the folding screen is an accessory of the person, and I feel like the difference.

Therefore, in addition to the practical role as a partition, the folding screen also has a role as appreciation and art work, as if people are dressed up.

If you think so, if you change what you see now as an accessory of architecture and make it an accessory of people, you may see a different design again.

外へとつながる

数寄屋造の建築からお庭を眺めていた。内部と外部を仕切るガラス戸は、透明度が高く、存在が感じられなかった。

ガラスを建具に使うようになったのは、たぶん、近代以降だから、数寄屋造の建築が確立された時代には、そこに建具は無く、広縁は外部で、和室と広縁の境に障子があるだけだっただろう。

だから、その障子に雨が当たらないように、数寄屋造の建築の屋根の軒が低く深く垂れ込めているのだろう。そして、雨が降れば、その屋根の軒先から雨が滴り落ちる。

今は軒先に雨を受ける樋が取り付けられているが、それは下水道が整備されたので、雨を集める必要があり取り付けられたもので、それ以前は無く、雨が滴り落ちる辺りの地面を砂利敷にして、土の泥跳ねを防ぎ、地面に浸透しやすくしていた。

その砂利敷が数寄屋造の建築を取り囲む、その様は屋根の形と建物の形の写し絵のように、ならば、そこに少しの遊び心を求めるのも数寄者のさがか、その砂利敷をお庭の構成要素のひとつにし、人が歩く所とすることにより、建築と人とお庭に関係性が生まれ、混在し、構成要素は単純ながら、複雑な空間が着物の色を引き立てる。

などと、お庭を眺めながら、適当に、自分が今いる所から外へと想いを巡らせてみた。

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"Connect to the outside"

I was looking at the garden from a Sukiya-style building. The glass door, which separates the interior and exterior, was highly transparent and could not be felt.

The use of glass for fittings was probably from the modern era, so in the era when Sukiya-style architecture was established, there were no fittings, the wide rim was outside, and there was a shoji on the border between the Japanese-style room and the wide rim. Would have only been.

Therefore, the roof eaves of the Sukiya-style building may be low and deeply hung so that the shoji is not exposed to rain. And when it rains, it drips from the roof eaves.

Currently, a gutter receiving rain is attached to the eaves, but it was installed because it was necessary to collect rain because the sewer was prepared, and before that there was no gravel, and the ground around the area where the rain dripped was dropped. In order to prevent mud splashing of the soil, it was easy to penetrate the ground.

The gravel floor surrounds the Sukiya-style building, as if it were a copy of the roof shape and the shape of the building. Is a component of the garden and a place where people walk, creating a relationship between architecture and people and the garden, mixed, and the simple but complex space enhances the color of the kimono.

While looking at the garden, I thought about myself from where I am now to the outside.

建具から考えはじめる

建具には、その建築の精度と、その建築での暮らしが垣間見える。

建具とは、扉や戸のことであり、外部建具と内部建具があり、外部建具は木製の場合もあるが、主に鋼製かアルミニウム製で、サッシやドアと呼ばれ、内部建具は木製主体で、障子や襖も含まれる。

建具を単に仕切りとだと考えれば、雨風を凌ぐためや空調をコントロールするための、環境の仕切りとしての建具と、防犯や目隠しをするための、プライバシーの仕切りとしての建具が必要になり、それ以外の建具は必要が無いと考えているが、さらに言うと、防犯や目隠しの必要性が無ければ、プライバシーの仕切りとしての建具も必要が無くなり、建築にとって必要な建具は、環境の仕切りとしての建具のみになる。

プライバシーの仕切りが必要無い状況は、そこでの暮らしが影響するから、その影響はプランにも現れるだろう。

だから、環境の仕切りとしての建具のみの建築は、それだけでプランにも建築自体にも特色が出てることになる。それは、ぼんやりと曖昧で、特に何もない建築では起きないことであり、より細かく精緻なプランニングが必要になる。

もしかしたら、仕切りとしての建具から建築を考えはじめる可能性もあり得るのではないかと考えてみた。

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"Start thinking from joinery"

The fittings provide a glimpse of the accuracy of the architecture and the life in the architecture.

Fittings are doors and doors, there are external fittings and internal fittings, and external fittings may be wooden, but they are mainly made of steel or aluminum, and are called sashes and doors, and internal fittings are wooden. Mainly includes shoji and fusuma.

If we consider the fittings simply as partitions, we need fittings as environmental partitions to overcome rain and wind and control air conditioning, and fittings as privacy partitions for crime prevention and blindfold. We believe that there is no need for other fittings, but furthermore, if there is no need for crime prevention or blindfolding, there is no need for a privacy partition, and fittings required for construction are environmental partitions. Only fittings.

In situations where privacy barriers are not needed, the impact of living there will be reflected in the plan.

Therefore, a building with only fittings as a partition of the environment will have its own characteristics in both the plan and the building itself. It is vague and ambiguous, especially in empty buildings, and requires more detailed and detailed planning.

I wondered if it might be possible to start thinking about architecture from the fittings as partitions.

型を疑う

建築的創造は、型を守り、その型を基にして、その先へ発展させて行くのか、それとも、型自体を疑い、新たな型をつくろうとするのか、どちらなのだろうかと考えてしまう。

単に、創造するということであれば、どちらの場合も有り得る。どちらの場合も、結果的には、新しいものが生まれるから。

だから、どちらでも構わないのだろう、あとはどちらの態度を選択するだけか、無難に行くならば、型は守った方が良いし、そちらの方が賢いやり方のような気がするし、そちらの方が新しいものができた時に抵抗なく受け入れやすく、わかりやすく、評価を受けやすいが、無性に新たな型をつくることがやりたくなるし、既存の型を疑いたくなる。

はっきりと、これは新しいと、見たことが無いと、でも良いと、なるように。

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"I doubt the type"

In architectural creation, one wonders whether to follow the pattern and develop it on the basis of the pattern, or to doubt the pattern itself and create a new pattern.

Either way, it just happens to be creative. In both cases, the end result is something new.

So, it doesn't matter which one you choose, then you just have to choose which one, or if you're going to be safe, it's better to keep the pattern and it's a wiser way, It is easy to accept, understand, and evaluate without difficulty when a new one is created, but it makes it difficult to create new types asexually and to doubt existing ones.

Clearly, this is new, never seen, but good.

美に気付く

デザインされた物は使いにくいという迷信は今でもあるのだろうか。確かに、そういうことはあるかもしれないが、使いにくい物はデザインに関係無く存在する訳だから、デザインされた物を揶揄する決まり文句だと考えている。

民藝の「用の美」というものがある。民芸運動の中心的役割をした柳宗越が提唱したものだが、日用品の中に真の美があるというもので、日用品は使うために存在しており、美術品のように鑑賞目的では無く、使うことが目的の道具だからこそ、形や色などが美しいという。

20代のはじめ、ニューヨーク近代美術館で1脚のスツールにはじめて出会った。そのスツールの形の美しさに目を惹かれ見入ってしまった。そのスツールは座らなくても、ただそこにあるだけでも良かった。後に他で座る機会を得たが、その座り易さ、その感触に感動すら覚えた。そのスツールのキャプションにはデザイナーとして「SORI YANAGI」とあった。後に民芸運動の柳宗悦の息子さんだと知った。はじめて柳宗理の作品に触れた瞬間だった。

それ以来、使い易さと美は車の両輪、だと考えるようになった。

使い易さは、身体感覚として、日常の生活の中で、無意識のうちに訓練しているような所があるから誰でもわかりやすい。

美には、もしかしたら、意識付けのようなことが必要なのかもしれない。何が美しいかは、時と場合によって変わることもあるだろうし、永遠に美しいものも存在するが、それが美しいかどうかをはじめて知る時は、何かの導きが必要になってくるのではないだろうか。

だからと言って、すぐにでも美術館や博物館へ行けば良いとは言いたくない。

何が美しいかは、自身の中に美の基準をつくることであり、その美の基準が自身特有のものでないと日常の生活にも生かせないし、日用品の中にある真の美を見出すこともできないし、そもそも、美しいものに気が付かないだろう。知識として「用の美」を知っていても意味が無い。

もしかしたら、美に気付かせてくれる機会は、ある日突然訪れるのかもしれない。それは、知らない美、意識したことがない美を抱えている人にしか起こらない。だから、無理に美を知ろうとしない方がたくさんの美に気付くことになるかもしれないが、そうすると、感度が高い人ほど、美に気付いた時の衝撃が大きくて、それに耐えるのは大変かもしれない。見える世界が変わる代償か、でも、その方が確実に面白いし、自身特有の美の基準を得ることになると考えている。

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"Notice the beauty"

Is there still a myth that designed things are hard to use? Certainly, there may be such a thing, but since there are things that are not easy to use regardless of design, I think that it is a cliche to mock the designed thing.

There is a folk art "beauty for you". It was proposed by Munekoshi Yanagi, who played a central role in the folk art movement, but there was a real beauty in daily necessities, and daily necessities exist to be used, and must not be used for appreciation like art objects. It is said that the shape and color are beautiful because it is the intended tool.

In my early 20s, I first met a stool at the Museum of Modern Art, New York. I was attracted to the beauty of the shape of the stool and watched it. It didn't matter if the stool wasn't sitting or just sitting there. Later, I had the opportunity to sit elsewhere, but I was impressed by its ease of sitting and its feel. The stool caption was "SORI YANAGI" as a designer. Later I learned that he was the son of Muneyoshi Yanagi of the folk art movement. It was the moment I first touched Sori Yanagi's work.

Since then, I have come to think that ease of use and beauty are two wheels of a car.

Ease of use is easy for anyone to understand because there are places where you are training unconsciously in your daily life as a bodily sensation.

Beauty may need something like awareness. What is beautiful can change from time to time, and there is something forever beautiful, but the first time you know if it is beautiful, you do not need any guidance I wonder.

I don't want to say that it's good to go to a museum or museum right away.

What is beautiful is to create a standard of beauty in one's own, and if the standard of beauty is not unique to oneself, it cannot be used in everyday life, and it is also possible to find the true beauty in daily necessities You can't, and you won't notice anything beautiful in the first place. There is no point in knowing the "beauty of utility" as knowledge.

Perhaps the chance to remind you of beauty comes suddenly one day. It only happens to those who have beauty that they don't know or have never conscious of. Therefore, those who do not try to know beauty may notice a lot of beauty, but then the more sensitive people are, the greater the impact when they notice beauty, and it may be difficult to withstand it Absent. At the cost of changing the world we see, we believe that it will definitely be more interesting and will give you a unique standard of beauty.

漂う建築らしさ

建築らしさ、というものがあるような気がする。例えば、街を歩いていて、これは建築家の作品ではないかと見当がつき、後から調べると大体間違いがない、あるいは、知っている建築家の作品は、たまたま出会しても瞬時にわかる。

それは、デザインされた建物ではなく、建築家が手掛けた建物だという「建築らしさ」が漂っている。

その違いを上手く説明できない。精度や密度などの質の差では無い、もちろん、質として一定の水準は超えているが、大きさや高さなどの量も関係が無い。

その建築らしさが厄介だ。それはたぶん、今まで見てきた建築家の作品の蓄積により、勝手に自分の中に形成されたものであり、それが基準になっており、その基準に合致しないと違和感を感じる。

別に、勝手に自分の中に形成された基準だから、それを無視しようと誰からも責められることは無いが、その基準から外れることは質が下がるような気がして躊躇する。だが、その建築らしさから外れないと、自分が今イメージしている建築ができないならば、解決案として、建築らしさを漂わせながら、少しだけ外れてみようかと考えている。

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"Floating architecture"

I feel like there is architectural quality. For example, while walking in a city, I guess that this is an architect's work, and when I examine it later, there is almost no mistake, or the work of an architect I know is instantly known even if I happen to meet .

It is not an architectural design, but a building designed by an architect.

The difference cannot be explained well. There is no difference in quality such as accuracy or density. Of course, the quality exceeds a certain level, but the quantity such as size or height has no relation.

The architectural nature is troublesome. Probably, it was formed in myself by the accumulation of the architect's works that I have seen so far, and it is the standard, and I feel uncomfortable if it does not meet the standard.

On the other hand, nobody is blamed for ignoring it because it is a standard that has been formed in myself, but I feel hesitant to deviate from that standard because it seems to be degraded. However, if I can't do the architecture I'm imagining without deviating from the architectural characteristics, I'm thinking of trying to deviate a little while keeping the architectural characteristics as a solution.

気分に応じる

気分はその人特有のものであり、その気分をデザイン要素として取り扱うことができたならば、人とそのデザインされた物との間に直接的な関係性が生まれる。そのような関係性をつくりたいと日々考えている。

コロコロ変わる気分を捕まえるのは難しいけれども、コロコロ変わる気分に応じることはできそうな気がする。

「これもアリだよね」「これもアリだよね」の繰り返し、様々な角度から選択が可能な状況が散りばめられているようなことになれば、コロコロ変わる気分に応じることができる。

それを建築空間として表現するならば、壁の在り方に取り入れてみると面白いと考えている。

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"According to mood"

Mood is unique to a person, and if he could be treated as a design element, there would be a direct relationship between the person and the designed thing. I want to create such a relationship every day.

It's hard to catch the changing mood, but I feel like I can respond to the changing mood.

Repeating "This is an ant" and "This is an ant" as well, you can respond to the changing mood if you are stuck with situations where you can select from various angles.

If we express it as an architectural space, we think it would be interesting to incorporate it into the way the walls should be.

気分もデザイン

気分で変わることに何故か興味が湧く。気分で変わることは何事もあまり良いこととは思われないかもしれないが、気分ほど、その人らしさを表現しているものはないように考えている。

気分自体は目に見えるものではないから、気分が何かに反映した時に、その気分がわかる。

顔に気分が出たり、態度に気分が出たりするが、その気分を読み取る側の気分もあるから、気分を取り扱うことは、人の内なるものを扱うことになり、また、その気分が反映されたものが、具体的な物ならば、それをデザインの範疇として扱うこともできるのではないか、気分をデザインの範疇に組み込むことができるのではないかと考えている。

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"Mood design"

For some reason I am interested in changing with my mood. It may not seem like anything good to change with your mood, but we try to make sure that nothing expresses that personality as much as we do.

The mood itself is not visible, so when the mood reflects on something, you know it.

Mood appears on the face and attitude, but there is also a mood on the side that reads that mood, so handling mood is dealing with inner things of people, and that mood is reflected If what is done is a concrete thing, I think that it can be treated as a category of design, or mood can be incorporated into the category of design.

アフォーダンスはつなぎ

壁の造形が作者の自由で好きなように成り立つためには、その壁が最低限、アフォーダンスとして成立していれば良いのではないかと考えてみた。

アフォーダンスとは手掛かりである。人のアクティビティの発露になるものである。作者が好き勝手に、自由に、恣意的に振る舞って、造形が決まっていたとしても、最低限、このアフォーダンスが成り立っていれば、その壁はデザインされたものとして受け入れられるだろう。

アフォーダンスが成り立っていなければ、ただの奇抜な壁である。それがデザインされた壁として受け入れられるかどうかは好み次第か、その壁がその造形である必要性が客観的では無いから、その壁がただの恣意的ということだろう。

恣意的な造形にはしたくないのが前提なので、ただ、造形は一見恣意的なように自由で好きなようにしたい、この矛盾を上手くつなぎ合わせるためにアフォーダンスとして成立させることは有効だろう。

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"Affordance is a bridge"

In order for the author to be free and likable to shape the wall, I wondered if the wall should be at least as affordable.

Affordance is a clue. It is a manifestation of human activity. Even if the author freely, arbitrarily and arbitrarily shaped the form, if at least this affordance holds, the wall will be accepted as a design.

If affordance does not hold, it is just a strange wall. Whether it's acceptable as a designed wall is up to you, or it's just arbitrary, because the need for that wall to be shaped isn't objective.

It is premised that we do not want to make it arbitrary, but we want to make it seemingly arbitrary and free, and it would be effective to establish it as an affordance in order to connect these contradictions well.

壁のアフォーダンス

壁を凹凸で認識するとどうなるのだろうかと考えている。

知らない空間へ行った時、まず最初に振る舞いの方向性を与えてくれるのは、壁のアフォーダンスである。アフォーダンスとは、簡単に言うと、手掛かりであり、どう扱えば良いのか、その空間でどう振る舞えば良いのかを壁が教えてくれる。

例えば、壁にドアがあれば、そのドアが開くかどうかがわからなくても、少なくとも、そのドアは何かの出入り口であり、そのドアが奥の引っ込んだ所にあれば、もしかしたら、そのドアの先がお手洗いかもしれないと推測がつく。この奥に引っ込んだドアがアフォーダンスである。

このアフォーダンスを簡略化していくと、壁の凹凸で、人の振る舞いが決まるようになるのではないか、その凹凸を空間デザインとすれば、デザインすることにより、人の振る舞いも同時に決まるようなことが起こるのではないか、そして、そのデザインは自律して存在していながら、人の振る舞いにも影響を与えるという意味で他律的でもあるという状況がつくれるのではないかと考えている。

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"Affordance on the Wall"

I wonder what would happen if I recognized the wall with irregularities.

When you go to a space you don't know, the first thing that gives you the direction of behavior is affordance on the wall. Affordance is simply a clue, and the wall tells you how to handle it and how to behave in that space.

For example, if you have a door on a wall, you don't know if the door will open, at least if it's a doorway to something, and if the door is in a deep recess, maybe that door I guess that may be the restroom. The door retracted into this back is affordance.

If this affordance is simplified, people's behavior will be determined by the unevenness of the wall.If the unevenness is a space design, the behavior will be determined at the same time by designing I suppose that we can create a situation in which the design is autonomous, but also autonomous in the sense that it also affects human behavior.

最初の線

形を考える時、その発露は何かあり、それを手掛かりに進めていき、その中で様々な理論、理屈、理由を、先に考えるにしても、後付けにするにしても、伴わせる。そうしないと観念的で恣意的な表現になってしまうからと強迫観念が走る。

自由に線を引いてもいいし、自由に曲線を描いてもいい。

ただ、線が引かれた途端に、たった1本の線でも、そこに建築的には意味が立ち上がる。たった1本の線で空間を感じる。

だから、その線が引かれる必然性のようなものを求めてしまう。建築が立ち上がる時、それはデザインだけで成り立つことは無く、法規や構造、設備など、デザイン以外のことがたくさん絡んでくるので、デザイン以外の意味で1本の線は引ける。

ただ、その1本の線は建築が立ち上がる時の本質を突いていないように考えてしまう。

観念的で恣意的な表現ではなく、建築の本質を突いた1本の線、その最初の線を描くことが尊いと思ってしまう。

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"The first line"

When you think of a form, there is something that manifests itself, and you can use it as a clue, and in it, you can accompany various theories, theories, and reasons, whether you think first or later. Otherwise, the obsession runs because the expression is ideological and arbitrary.

You can freely draw lines or freely draw curves.

However, as soon as the line is drawn, even a single line has an architectural meaning. Feel the space with just one line.

So we want something like the necessity of drawing that line. When an architecture starts up, it does not consist solely of design. It involves many things other than design, such as regulations, structures, and facilities, so a single line can be drawn in a non-design sense.

However, it seems that the one line does not deviate from the essence of the building when it stands up.

I think it is precious to draw a single line that projects the essence of architecture rather than an idiosyncratic and arbitrary expression.

それもまた良し

設計をしている時の複雑に絡み合った問題を整理し、単純化した後の、捨てた訳ではないが、単純化してしまったことによりに、表から消えてしまったことに興味が湧く。

それが裏付けにはなっているのだろうけれど、表から消すことなく、そのまま見えるようにしたらどうだろうか。例えば、壁が裂けて中から裏が盛り上がってくるような造形と表から消してしまったことが上手く呼応するようにする。

ところが、建築では、そのようなイメージの仕方をして、それをそのまま造形要素にするやり方は、恣意的で観念的だとして、敬遠される。

単純化して引いていく場合はまだ良いが、複雑なことをそのまま、あるいは、足してより複雑にしていく場合は、それが良いデザインでも敬遠される傾向にある。

要するに、理屈が伴わない造形は恣意的で観念的だと、それもまた良しだと思えるようにすれば良いが。

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"It's also good"

It is not an abandonment after sorting out and simplifying the complicated intertwined problems when designing, but it is interesting that the simplification has made it disappear from the table.

Perhaps that is the backing, but what if you don't erase it from the table and keep it visible? For example, make sure that the wall is torn and the back is raised from the inside, and that it has disappeared from the front.

However, in architecture, it is shunned that the way of doing such an image and transforming it into a sculptural element as it is arbitrary and idiomatic.

It is still good to simplify and draw, but when it comes to adding more complexity or adding more complexity, even a good design tends to be avoided.

In essence, let's make it seem that it's also good that non-reasonable modeling is arbitrary and idiomatic.

単純化しない

整えないとどうなるだろうか、いつも何かを整えることばかりしてきたように思う。設計をしていると、複雑に絡み合った問題を整理し、単純化し、その単純化したものをモデルとして、建築空間を組み立てる。

そう、そこに何か解決策を見つけようとしてしまう、それがひとつの使命のように。それは正しい建築設計の在り方だが、必ずしも人に沿っていない場合もある。

人の問題などは、もしかしたら、建築で解決策が見つかるほど単純なことではないかもしれない。むしろ、解決策を見つけようとするより、複雑に絡み合った問題をそのまま提示することの方が建築の役割のような気がする。

あとは、整えるのではなくて、観察して、選択できる状況をつくる、選択が唯一の解決策になるように。

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"Do not simplify"

I guess I've always been trying to fix things, what will happen if I don't. When designing, we organize and simplify complicated and intertwined problems, and assemble architectural spaces using the simplifications as models.

Yes, they try to find a solution there, like a mission. That's the right way of architectural design, but it doesn't always follow people.

Human problems may not be as simple as finding a solution in architecture. Rather, it seems like the role of architecture is to present complex and intertwined problems as they are, rather than trying to find a solution.

The rest is to make a situation where you can observe and make choices, rather than trimming, so that choice is the only solution.

別の解法

人の営みの複雑さ、日常の生活の煩雑さを整理して単純化する役目が建築にはあると考えている。それが建築のプランに反映され、様々なプランがクライアントの数だけ存在するようになる。

人の営みの複雑さ、日常の生活の煩雑さを整理しつつも、単純化せずに、複雑なまま、煩雑なままに見せるプランは存在しないのだろうかと考えてしまう。

その複雑さや煩雑さは、単純化した場合と同じように、クライアントの数だけ存在する。だから、ある程度は整理しつつも、その複雑さや煩雑さをそのまま見せてしまった方が、より人の営みや日常の生活との親和性が良いような気がするし、その方が人と建築の関係において自然のような気がする。

ただ、単純化せずに複雑さや煩雑さをそのまま見せるには、別の解法を、それを建築性と呼ぶかもしれないが、用意してあげる必要がある。そして、その答えは別の分野にあるかもしれない。

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"Another solution"

I believe that architecture has the role of organizing and simplifying the complexity of human operations and the complexity of everyday life. That is reflected in the architectural plans, and various plans exist as many as the number of clients.

While arranging the complexity of human activities and the complexity of everyday life, I wonder if there is a plan that does not simplify, but remains complex and complicated.

The complexity and complexity are as many as the number of clients, as in the case of simplification. Therefore, it seems that it is better to show the complexity and complexity as it is, while organizing it to some extent, it is more compatible with people's work and everyday life, and that people and architecture I feel like nature in the relationship.

However, in order to show complexity and complexity without simplification, another solution, which may be called architectural, must be prepared. And the answer may be in another area.

不規則な壁

連続した壁が不規則に変化する様に興味がある。それは建築の壁だけでなく、壁状になった自然の地形でも同じように興味がある。

建築の場合は、単体の建築での、外壁でも、内壁でも、どちらでも、連続した壁の不規則性に興味があり、さらには、都市での単体の建築の連なりがつくり出す、連続した壁の不規則性にも興味があり、街並みなども、例えば、町家の連なりや、宿場町の街並みも綺麗で美しいが、それよりも繁華街の猥雑さの方に惹かれる。

建築でも都市でも同じだが、人のアクティビティは壁に誘発されると考えている、床や地面ではなくて。

「壁を伝っていけば、あの建築は理解できる」という話を前に聴いた覚えがあるが、人は無意識のうちに日常生活の中で壁を頼りに行動していると考えている。それは、全てのアクティビティを誘発するものが壁にあると言っても過言ではないから。出入り口、窓、キッチンや棚など、日常生活に関わるものはほぼ全て壁にある。

だから、その壁が整然としていれば、日常生活も整然となり、煩雑ならば、日常生活も煩雑になる。それは、設計する側から考えてみると、日常生活をどう捉えるか、その捉える様が壁に現れるとも言える。

日常生活をどう捉えるか、整然として単純よりは、煩雑で、複雑で、猥雑なものと捉えてしまう。日常生活は人の営みであり、人はそんなに整然として単純ではいられないから、人はそれぞれ特徴があり、考え方も違うから。

だから、それが壁に現れ、不規則に変化する様をつくりたくなる。

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"The Irregular Wall"

I am interested in the continuous walls changing irregularly. It is not only interesting for architectural walls, but also for walled natural terrain.

In the case of architecture, we are interested in the irregularity of continuous walls, both exterior and interior walls, in a single building, and furthermore, the continuous wall construction of a single building in a city creates I am also interested in irregularities, and the streets, for example, the series of town houses and the post town are beautiful and beautiful, but I am more drawn to the obsceneness of downtown.

The same is true for architecture and cities, but we believe that human activities are induced by walls, not the floor or the ground.

I have heard before that you can understand that architecture if you travel along the wall, but think that people are acting unconsciously relying on the wall in their daily lives. It's no exaggeration to say that there is something on the wall that triggers all activities. Almost everything related to daily life, such as doorways, windows, kitchens and shelves, is on the wall.

Therefore, if the wall is tidy, the daily life will be tidy, and if it is complicated, the daily life will also be complicated. From a designer's point of view, it can be said that how to perceive everyday life appears on the wall.

How to perceive everyday life is more tidy, complicated, complicated and obscene than simple. Everyday life is a human activity, and people cannot be so orderly and simple, so each person has its own characteristics and different ways of thinking.

So I want to make it appear on the wall and change irregularly.

nLDKの派生ではない

集合住宅のプランを考えている時、いつも、nLDKの形式にはならないようにしたいと思う。もちろん、それは注文住宅でも同じだが、注文住宅では、それほど意識しなくても、nLDKの形式にならないことが多い。

集合住宅では、住戸の積層と反復による効率の良さによって、事業計画上、最大住戸数、最大専有面積を取ることを求められることが一般的で、その効率の良さと住戸プランのnLDKが相性が良いのか、一般的にわかりやすいのか、建築計画上もnLDKの形式に落ちつくことが多い。

ただ、nLDKという形式だけで、日常の生活活動が規定されてしまうことが多く、それが一般的なわかりやすさにつながるのだろうけれど、確かに、nLDKの形式が欧米の生活様式を象徴する時代はあったかもしれないけれど、プランが日常の生活活動を規定してしまうことに違和感がある。

プランに日常の生活活動を合わせるのではなくて、日常の生活活動にプランを合わせるようにしたく、注文住宅では特定のクライアントがいるので、それが可能だが、集合住宅では不特定多数の住人が相手になるので、それが容易にできない。だから、それもあってnLDKの形式の一般的にわかりやすいプランに至ってしまうのだろう。

だから、集合住宅のプランでnLDKの形式を取らないならは、それに代わる他の形式を考える必要があり、それは決して、nLDKの派生ではなく、日常の生活活動から派生する形式にする必要がある。

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"Not a derivative of nLDK"

When thinking about a multi-family apartment plan, I always want to make sure it doesn't come in nLDK format. Of course, the same is true for custom-built homes, but custom-built homes often don't go into nLDK format without much awareness.

In a multi-family housing, it is common practice in business plans to take the maximum number of dwelling units and the maximum occupied area due to the efficiency of stacking and repetition of dwelling units, and the efficiency and nLDK of the dwelling unit plan are compatible. Whether it is good or generally easy to understand, architectural plans often settle down in nLDK format.

However, daily living activities are often defined only by the nLDK format, which may lead to general intelligibility, but indeed, in the era when the nLDK format symbolizes Western lifestyles It may have happened, but I feel uncomfortable that the plan regulates daily living activities.

I want to match my plan to my daily life activities instead of my daily life activities.I can do this because there are specific clients in a custom-built house, but an unspecified number of residents in an apartment house It can not be done easily. So, that will lead to a generally straightforward plan in the form of nLDK.

So, if you don't take the form of nLDK in a multi-family plan, you need to think about other alternatives, which should never be derived from nLDK, but derived from daily living activities.

変容する素の空間

ぼんやりと視点を合わせず空間を見てやれば、物体の陰影だけが見えてくる。視点を合わせれば、それが何であるのかは過去の記憶からわかるが、視点を合わせなければ、ただの出っこみ引っ込みであり、その出っこみ引っ込みに特徴があるだけである。

人が空間を認識する時、瞬時に視点を合わせて、その場の状況を判断するのだろうけれど、その前の0.何秒かは視点の合わない状態、物体の陰影だけが見え、その出っこみ引っ込みしか見えない状況がある。

その状況は、空間が本来あるべき姿として認識されていない状態ではあるが、空間の骨格というか、余計な装飾が剥ぎ取れた素の状態でもある。

その素の状態はむしろ、デザインとして、つくり出したい状態でもあるのではないか、その状態で空間が成り立つのならば、その後は、どの様にでも、素だから、変容できる空間ということになるのかと考えてみた。

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"Transforming elementary space"

If you look at the space without blurring the viewpoint, only the shadow of the object will be visible. If you match the viewpoint, you can understand what it is from the past memory, but if you do not match the viewpoint, it is just a depression and retraction, and the depression and retraction is only characteristic.

When a person perceives a space, he or she will instantly adjust the viewpoint and judge the situation at that moment, but in the 0 second before that, the viewpoint is not aligned, only the shadow of the object can be seen, There are situations in which you can only see in and out.

The situation is that the space is not recognized as it should be, but it is also the skeleton of the space, or the elementary state where extra decorations have been stripped off.

Isn't that elementary state rather a state that we want to create as a design, and if space can be established in that state, then, after all, it will be a space that can be transformed because it is elementary. I thought.

受け入れられるか

あくまでも机上での話だが、建築が立ち上がる時、確信めいたものが芽生えるが、そのためには何かに裏打ちされていなければならず、その何かとは、今まで経験したことや、見聞きしたことや、得た知識など、裏付けや後ろ盾になるもので、それが無いと確信が持て無い。

ところが、その確信はやはり、何処かで見たり、経験したりしたことの延長線にあるので、その延長線にあるということに対しての安心感からの確信でしかない。

全く脈絡が無いことを人は思い付くが、それを上手く今までの繋がりの中に納めていくことになるので、当初の思い付きが上手く生まれ変わる。

その上手さがセンスかもしれないが、全く脈絡が無いことを考えている楽しみは無くなる。案外、この楽しみが新しいことを生み出す、それは生まれ変わらせることでは無くて、原動力なのではないか。だから、そのまま形にすれば、それが今までの繋がりから離れた新しいものになるが、ただ、それが受け入れられるかどうかはわかない。

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"Is it acceptable?"

It's just a story on the desk, but when architecture starts up, things that I'm convinced will sprout. It provides support and backing for the acquired knowledge, and I cannot be convinced that it does not exist.

However, that conviction is still an extension of what you have seen or experienced somewhere, so it is only a conviction from a sense of security that you are on that extension.

People come up with the idea that there is no context at all, but they will be able to put it into their existing connections, so their initial ideas will be reborn.

The skill may be good, but the fun of thinking that there is no context disappears. Surprisingly, this pleasure creates something new, not a reincarnation, but a driving force. So, if you take it as it is, it will be a new thing that is far from the connection, but it is not clear whether it will be accepted.

人のように

そこで立ち上がる建築がどうなりたがっているのか、などと考えてみることにした。

それはクライアントの要望などから類推する話ではなくて、その場所に建築が立ち上がるならば、その建築はどのようなものになりたがっているのか、まるで人のように、それに対して、接する側は優しく。

何をつくるか、考えられる事はたくさんあり、やってみたい事もたくさんあるが、それが建築として成り立つか、成り立つとはこなれているか、しっくりいっているか、などと抽象的な表現になってしまうが、どうも、やり過ぎてしまったり、考えだけが先走ってしまったりして、まとまりが悪くなるようなことは避けたくて。

きっと、どうなりたがっているか、というのは、無理がないというか、肩の力が抜けているというか、必然であり、妥当であり、調和されたような状態なのかと。

ただ、それは決して、今までの焼き直しのような建築ではないのは確かなことだし、それは望んでいない。

ちょっと自分から離れて、客観的に見るために、まるで人のように接してみるのも良いかと思い。

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"Like a person"

So I decided to think about what kind of building I wanted to stand up to.

It is not a story that is inferred from the client's request, etc. If an architecture stands in that place, what kind of architecture it wants to be like, as if it is a person, the contact side is gentle .

There are a lot of things you can think of, and a lot of things you want to do.However, it becomes an abstract expression that it can be realized as an architecture, that it is not well-formed, or that it fits nicely. But, I don't want to be too overkill or just thinking ahead, so that things don't get cohesive.

I guess what I want to do is whether it's easy, my shoulders are loose, or it's inevitable, appropriate, and harmonious.

But it's certainly not the kind of architecture that we've ever done, and we don't want it.

I think it's a good idea to get away from yourself and see it objectively, as if you were like a person.

様々な寄せ集め

壁が梃子の支点の役割をするように、村上春樹の「梃子」の話が頭から離れない、それを今、自分が考えている空間に当て嵌めると、どうなるか。

空間がそこにいる人しだいで見え方が変われば、それが人と建築の関係性においては良いことだろうと考えていて、それも人の気分しだいで、何か作用して見え方が変われば良い、壁を梃子にして、気分という推進力を得て、建築を増幅させる。

そう考えていると、空間は様々な物が寄せ集まってできているが、ずっと前から、建築を学びはじめた頃から、空間は実体があるけれど、目で見ることはできず、感じることしかできない、空気のような存在だと、何故か思っていて、そうなると、空間自体にはあまり興味が無く、その様々な物が寄せ集まってできている状態に興味が湧くのだと改めて思った。

だから、建築の中にある物、全てに興味があり、家具、食器やカトラリー 、調理道具などなど、それらも建築の範疇だと考えている。

ただ、例えば、住宅ならば、自邸はともかく、住人がいて、設計者がいる、という関係性の中で、どこまで関わることができるかという想いが常にあり、全てをコントロールをしたいと思いつつ、それでは、何か予想外のことが起こらないからつまらない、という想いもあり、それでどうするかが設計の際の常に中心にある考えのひとつだった。

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"Various collections"

Just as the wall plays the role of a lever, the story of Haruki Murakami's "Lever" will not be left out of my mind.

I think that if the appearance changes depending on the people in the space, it will be a good thing in the relationship between people and architecture, and if that also depends on the mood of the person, if something acts and the appearance changes Good, leverage the walls, get the driving force of mood and amplify the architecture.

If you think so, the space is made up of various things, but since long ago when you started studying architecture, the space has substance, but you can not see it with your eyes, you can only feel For some reason, I thought that it was impossible, like an air, and I realized again that I was not interested in the space itself, and that I was interested in the state that various things gathered together.

Therefore, I am interested in everything in the architecture, including furniture, tableware, cutlery, cooking utensils, etc., and consider them to be in the category of architecture.

However, for example, if it is a house, there is always a feeling of how much you can be involved in the relationship that there is a resident, a designer, aside from your own residence, and you want to control everything, There was also the idea that something unexpected was boring because nothing unexpected happened, and what to do with it was one of the always central ideas in design.

建築の姿

学生の頃から建築を見続けてきて、自分なりのこれが良い建築という基準のようなものが、感覚的にも、思考的にも出来上がっている中で、それとは違う建築が自分の意識の中で立ち上がりつつあり、ただそれは、そのままでは、自分なりの基準に照らし合わせた時に、良い建築とはなかなか判断されない。

少し建築に対する興味の対象が、今までとはズレてきているように思う。人と建築の関係性がまずあって、それはとても些細なことで、日常的なことで、どこでも起こり得ることで、その関係性を構築することをまず考えて、それを展開していった結果、総体として建築が出来上がる。

はじめに建築がある訳ではなくて、あるのは人との関係性だけであり、人との関係性を構築するものが建築以外ならば、それを展開していった結果、総体として出来上がるものは建築以外になる。

今まで見てきた建築は、建築として、建築単体として、とても強度があり、建築のみで成り立つ、全てを規定してしまうような力があった。それは魅力的で惹かれ、自分なりの基準を築く礎になった。

しかし、建築は、人が空間の中に入り、アクティビティが展開されることで、建築としての本来の姿になるとすると、そこでは、人と建築の関係性のみが重要であり、そこから展開していった結果、総体としての建築の姿は、唯一ひとつに決まるものでもなくなり、必ずしもひとつである必要もなくなる。それの方が面白いではないかと思ってしまった。

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"Architecture"

I have been looking at architecture since I was a student, and while my own standards of good architecture are being made both intuitively and intuitively, different architectures are in my consciousness. However, it is not easy to judge a good architecture as it is when compared to your own standards.

I think that my interest in architecture has shifted slightly from before. There is a relationship between people and architecture first, it is very trivial, everyday, it can happen anywhere, the result of thinking first about building that relationship and developing it As a whole, construction is completed.

At first, there is no architecture, but only the relationship with people.If the thing that builds the relationship with people is something other than architecture, as a result of developing it, Beyond architecture.

The architecture we have seen so far is very strong as an architecture or as a building alone, and has the power to regulate everything that can be realized only by architecture. It was fascinating and fascinating and laid the foundation for setting your own standards.

However, in architecture, if people enter the space and activities are developed, it will become the original form as architecture, where only the relationship between people and architecture is important, As a result, the appearance of architecture as a whole is no longer the only one, and it does not have to be one. I thought it would be more interesting.

梃子

創作の態度として、村上春樹の『職業としての小説家』からよく考えさせられることがあるのだが、その中で「梃子」という表現が二度出てくる。

『もともとあったかたちと、そこから生じた新しいかたちの間の「落差」を通して、その落差のダイナミズムを梃子のように利用して、何かを語ろうとするわけです』

『架空の「僕」を梃子の支点にして小説世界を立ち上げ、広げていくことをひとつの目的としていた』

村上春樹は創作に梃子の役割をするものが必要だと考えているようだ。梃子は小さな力を大きな力に変えてくれるもの、素のものを増幅させてくれるもの、それは別の言い方をすれば「作品化」かもしれない。

何でもない日常の出来事を小説という作品に変えるために梃子を利用する。その梃子をどのように使うかが作者の力量ということか。

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"lever"

Haruki Murakami's "Fictionalist as an Occupation" is often thought of as a creative attitude, but the expression "leverage" appears twice.

"Through the 'head' between the original form and the new form arising from it, we try to leverage the dynamism of the head like a lever and speak something."

"One purpose was to launch and expand the novel world with the fictional" me "as the leverage point."

Haruki Murakami seems to think that something is needed to play a role in creation. Leverage is what transforms a small force into a great force, and amplifies the elementary one, which, in other words, may be a "work of art".

Leverage leverage to turn anything but everyday events into novels. How to use the lever is the ability of the author.

分析しない方が

なるべくふわっとした感じで、最初は捉えるようにして、分析的に見るのは楽しくないのと、分析的につくりたくはないので、何故そうなるのかは、わからないか、後づけで良いではないかと考えている。

いろいろと考えを巡らせたり、イメージをしたりするのは、分析をするためではなくて、坐りの良い場所を探すため、納まりの良い位置に置くため、それを決めるのは分析の結果ではなくて、しっくりくるかどうかの感覚的なこと。

だから、意外と根拠がない、あったとしても後づけ、それに自信が持てないと分析したくなるのだろう。そうすれば、頭では理解される。そういうものがつくりたい人はそれで良いが、そういうものは心に響かない、印象に残らない。

ただ、全く分析的ではないかというと、そうではなくて、自分勝手に分析的に展開している時もあるが、それは分析的というより、何かを試行錯誤するための自分勝手な思い込みを整理しているに過ぎない。

まあ、ちょっとばかり、辻褄が合わず、抜けているくらいが、より魅力的に見えるようなもの。

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"One who does not analyze"

As soft as possible, try to catch it at first, and it is not fun to see analytically, and I do not want to make it analytically, so I do not know why it is so, I think that it is good to add it later ing.

It's not about analysis, but about finding ideas and thinking about images, not about doing analysis. The sensation of whether or not it will come nicely.

So, it is surprisingly unfounded, and if you do, you will want to analyze it later if you are not confident. Then you can understand in your head. That's fine for those who want to make such things, but those things don't resonate and don't leave an impression.

However, sometimes it is not analytical at all, but sometimes it is developing analytically on its own, but rather than analytical, it is a self-assured assumption to try and error something. It is just organizing.

Well, a bit, inconsistent and missing, something that looks more attractive.

まどろっこしい生成

極限までに簡素にした時、捨てられる部分が豊潤であり、複雑であり、その部分に興味が湧く。それは、あくまでも簡素化を経た後に捨てられた部分であり、はじめから豊潤で複雑なものには興味が無い。

要するに、捨てられた豊潤で複雑な部分は、捨てられる段階で、余分なものを切り離し、より洗練される。

この一見まどろっこしい生成の仕方が建築に合うような気がする。三次元で、実際に内部に入ることができて、体験ができる、そして、表現物である建築は、人と接している面も大きく、時間も長いから、様々なやり取りが人と建築の間で可能になる。

だから、より深く広がりを持って何かを建築から人に伝えようとすることが可能であり、その時の手段として、いくつもの段階を経ることも可能であり、それは長編小説と読者の関係性に似ているのかもしれない。

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"Madoshy generation"

When simplified to the utmost extent, the discarded parts are abundant, complex, and interesting. It is a part that has been abandoned after simplification, and I am not interested in things that are rich and complex from the beginning.

In short, the abundant and complex parts that are discarded become more sophisticated when they are discarded, cutting off the excess.

I feel that this seemingly sloppy way of generation fits in with architecture. In three dimensions, you can actually enter the interior and experience it.Because the architecture, which is an expression, has a large surface in contact with people and a long time, various exchanges between people and architecture Is possible.

Therefore, it is possible to spread something deeply from architecture to humans, and at that time it is possible to go through a number of stages, depending on the relationship between the novel and the reader. It may be similar.

豊潤で複雑な様

極限までに簡素にしながら、そこで表現されていることをある角度から見ると豊潤で複雑に見えるには、どうしたら良いのだろうかと考えてみる。

矛盾したことが同時に成り立つには、並列では無くて、どちらかが包括的で、その中にもう一方が存在する形しかないだろう。

極限までに簡素にするということは、捨てる部分がたくさんあり、尚且つ、その捨てる部分の存在が明確にわかるから、対比して簡素さが際立つ。

だから、今度は、その捨てる部分に焦点を当ててやれば、豊潤で複雑に見えるようになるのではないかと考えを進めてみる。

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"Abundant and complicated"

Let's consider how to make the expression expressed in a certain angle look rich and complex, while keeping it as simple as possible.

In order for the contradictions to hold at the same time, there is no parallel, only one form that is inclusive and the other in it.

Simplifying to the utmost limit means that there are many parts to be discarded, and the existence of the discarded parts is clearly understood.

So I'm going to think that if we focus on that discarded part, it might look rich and complex.

新たな単純化

人の感情や気分を単純化して捉えようとすれば、それは誰か自分とは違う人の感情や気分を推し量ろうとする時に、まずは単純化して、わかりやすく捉えようとするのと同じように、枝葉の部分を切り落として、太い幹の部分だけ把握するようにはできるが、それでは本来の姿を捉えきれないから、枝葉の部分を切り落とさずに、ありのまま、そのままに捉えようとすると、それはすでに単純化ではなく、複雑なことを複雑のままに捉えることになる。

ただ、それができれば良いが、人はたぶん、自分なりのフィルターを持っていて、そのフィルターを通して、自分にわるように単純化をして物事を捉えるだろうから、それと同じことを何にでもするだろうから、単純化自体をしないことはできない。

ただ、他人のフィルターは自分とは違うから、人は単純化してるいるつもりでも、側から見たら複雑怪奇に見えるかもしれない。

それを利用すれば、単純化しているのに、複雑なことを複雑のままに見せることができる。要するに、定説的なフィルターでは無い、新たなフィルターを用意して単純化してやれば良い。

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"A new simplification"

If you try to capture the emotions and moods of a person in a simplified way, it's the same as trying to guess the emotions and moods of someone different from you first, just like trying to simplify and understand them easily. It is possible to cut off the branches and leaves so that only the thick trunk can be grasped, but it is not possible to capture the original shape, so if you try to capture the branches and leaves as they are, it is already simple It's not about becoming complex, but about complicated things as they are.

I just want to be able to do it, but people will probably have their own filters, and through those filters, they will do things the same way, simplifying them as if they were, and doing the same thing So simplification itself cannot be avoided.

However, because others' filters are different from yours, people may seem simplistic, but they may seem complicated when viewed from the side.

With it, you can make complicated things look complicated, while they are simplified. In essence, you can prepare a new filter that is not a conventional one and simplify it.

建築性でつくる集合

日常の中での気分や感情が、その人特有の物語を生むのだろうと想像している。ならば、その気分や感情を受け止める建築をつくることができれば、その建築はその人特有の建築になる。

それは、建売などの住宅に自分を合わせていき、自分だけの建築にするのとは訳が違い、建築自体が人の気分や感情が無いとそもそも成り立たない、人の気分や感情が建築の構成要素のひとつになっている、それが、今、構想している建築の辿り着きたいところ。

それを成り立たせるためには、具体的な仕組みが必要になるだろう。そうで無いと、単なる観念的な建築になってしまう。

人の気分や感情が反映された建築の断片が集合して、ひとつの建築になるが、その集合の仕方に、『職業としての小説家』で村上春樹が書いている、何か特別なマジックというか、物語性のようなものが必要になる。その何か特別なマジックというか、物語性のようなものが建築家の建築性であり、そこで新たな建築性を獲得できれば、既視感の無い建築が生まれるだろう。

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"Assembly-based assembly"

I imagine that the moods and emotions in everyday life will create a unique story. Then, if you can create an architecture that captures the mood and emotions, the architecture will be unique to that person.

It is different from building your own house in a house for sale, etc., and making it your own architecture, the building itself does not work if there is no mood or emotion of people, the mood and emotion of people is the composition of architecture It is one of the elements, that is where I want to reach the architectural concept that I am currently envisioning.

To make that work, a concrete mechanism will be needed. Otherwise, it will be just an idealistic architecture.

Fragments of architecture that reflect people's moods and emotions are assembled into one architecture, but the way of assembly is something special Magic Haruki Murakami wrote in "Fictionalist as a profession" Rather, something like narrative is needed. The architect's architectural property is something special or narrative, and if we can acquire a new architectural property, an architecture without a sense of sight will be born.

断片の集合

ここが見せ所という部分を意識的につくり、写真写りの良い所をつくり、そのワンカットという断片が流布するような状況は、ネットが当然無い、写真しか無い近代建築では、建築作品を世界中に広めるための手段で、それに批判がありつつも、現代建築は近代建築が素になっているから、現代建築でも同じような状況であり、ネットが当然の状況では尚更、断片的な見せ方でどのように伝えるかが重要になり、無意識のうちに、断片を重要視しているように思う。

断片という細部で全体を暗示するやり方も当然あるが、建築や空間は、人よりも規模が大きいから、わざわざ細部で全体を暗示してやらなくても、実際に体験をすれば全体を把握できる。

そこで乖離が起きる、ネットで流布された断片から暗示される全体と、体験した場合の全体とで。それは当然そういうこともあるのだが、大概は、断片をネットで見る方が先で、体験が後になり、断片を見て良いなと思ったから体験したくなるので、その乖離はガッカリになる。

断片から全体を暗示させることはできるが、その断片の集合だけで全体を構成している場合にガッカリするようだ。

断片の集合に、何か特別なマジックというか、物語性のようなものがないと、実際の体験では見劣りしてしまう。そのマジックや物語性の構築が建築家の能力の見せ所だと思う。

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"A collection of fragments"

In this situation, where the consciousness of creating a part called a show place, creating a place where photos are good, and the fragment of one cut are circulating, in modern architecture without a net and only photographs, the architectural works are all over the world. Although modern architecture is based on modern architecture, it is the same situation in modern architecture, even though there is criticism for it. I think it's important how to convey it, and I'm consciously thinking about fragments.

Of course, there is a way of suggesting the whole with the details of fragments, but architecture and space are larger than people, so even if you do not bother with the details in detail, you can grasp the whole by actually experiencing it.

There is a divergence between the whole that is implied from the fragments spread on the net and the whole that you experience. Of course, that's the case, but in general, it's better to watch the fragments on the net first, and later to experience it, and because it's good to see the fragments, you'll want to experience it.

Fragments can be used to suggest the whole thing, but it seems disappointing if the whole set is composed of just that set of fragments.

Without a special magic or narrative in a set of fragments, the actual experience is inferior. I think that the construction of magic and narrative is a highlight of the architect's ability.

視点の違い

三人称の視点で設計してみる。それは建築計画学上は当たり前のような気がするが、それでは、誰が設計しても同じような建築しかできないような気がするので、一人称の視点の割合が多くなるが、それではどうしても局所的なデザインしか生まれないような気がして、小説の視点の違いから思いを巡らせてみた。

三人称の視点の方が小説においては、より複雑な物語が描けるらしいが、その分、難易度も上がるらしい。物語に俯瞰したような広がりと、さらに細かいところまでも対象にできる奥行きが出るからだろう。作者の想像力しだいで、描けない世界が無くなるような気がする。

建築では、不特定多数の人が使用する公共施設などでは、否応なしに三人称の視点が必要になるだろうし、それが当たり前のこととして行われているが、三人称の視点が建築に、より広がりやより奥行きを与えているようには思えない。どちらかと言えば、過不足無い建築が出来上がるために使われているように思える。

それは、小説のように、建築を広がりと奥行きのあるものにしょうという意図で三人称の視点を必要としていないからだろう。だから、余計に三人称の視点による設計に可能性を感じる。

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"Differences in viewpoints"

Design from a third person perspective. It seems natural in architectural planning, but it seems that no matter who designs it, only the same architecture can be done, so the percentage of first-person perspectives increases, but then it is absolutely local I felt that only design was born, so I thought about it from the viewpoint of the novel.

It seems that a third-person viewpoint can draw more complicated stories in a novel, but it also seems to be more difficult. Probably because the story looks like a bird's-eye view and the depth that can be targeted at even smaller details. Depending on the imagination of the author, I feel that the world that cannot be drawn disappears.

In architecture, in public facilities used by an unspecified number of people, a third-person perspective will be necessary without necessity, and this is done as a matter of course, but the third-person perspective spreads to architecture more widely It doesn't seem to add any depth. If anything, it seems that it is being used to create an architecture that is perfect.

That's because, like a novel, it doesn't require a third-person perspective with the intention of making the architecture more spacious and deep. Therefore, I feel the possibility of designing from a third person perspective.

三人称で設計

ずっと一人称で設計してきたような気がする。クライアントの要望を聴いて、時にはその人格になりきって、空間を体験していくように設計をしていく。

だから、要望を聴いていく中で、すでに頭の中に空間が出来上がっていることも多く、計画案をまとめる時は、その頭の中に出来上がった空間をトレースするように、あとは諸条件に合わせてやれば良いだけである。

なぜか、頭で考えたことではなく、体感したことでしか空間はつくれない、と思い込んでいるところがあり、自身が空間を頭の中で、まず擬似的に体験し、それが過去に自分が体験した空間と比較して良いことが判断基準となる。だから、ならばクライアントの人格になりきって、擬似体験をするのが良いだろうと自然になってくる。

それは、自分にしかつくれない空間をつくろとすると、どうしても自分が今までに経験した空間を超えたいという欲が出てくるので、どうしても一人称でいろいろと思索して、まず自分がその空間を良いと判断しないと先に進まないからでもあるだろう。

そこで、三人称で考えてみると、どうなるだろうと思った。すぐに思ったのは、客観的になるだろうと、そして、頭で考えたことと体感したことがミックスされて、今までつくってきた作品とは違うものになるかもしれないと、そして、それは作品がスケールアップするように感じ、試してみる価値はありそうだと思った。

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"Designing in Third Person"

I feel like I've been designing for the first person. I listen to the client's requests and sometimes design my personality to experience the space.

Therefore, while listening to the request, there are many cases where space has already been created in the head, so when compiling the plan, trace the completed space in the head, It just needs to be done.

For some reason, some people think that space can be created only by experiencing it, not by thinking with their heads. A good criterion is to compare with the space you have experienced. So it's natural to become a client and to have a simulated experience.

That is, if you try to create a space that can only be created by yourself, you will inevitably want to exceed the space that you have experienced so far. It will be because you cannot proceed unless you judge.

So, in the third person, I wondered what would happen. I immediately thought that it would be objective, and that what I thought and felt in my head would be mixed, and that it might be different from the work I had made so far. I felt the work scaled up and thought it was worth trying.

待庵の窓

銀座松屋で開催されている「利久のかたち」展の起こし絵を立体的に空間化した利久作の茶室「待庵」の再現にて、「窓を残して壁をつくる」との記載を見つけ、その言葉に感覚的に反応してしまった。

待庵の窓は、土壁を四角状に塗り残しただけで、小舞と呼ばれる格子状の塗り壁下地がそのまま見える。だから、窓と壁の違いは、土壁があるかないかだけであり、そうすると、窓は壁の一種であり、窓は壁の派生であり、窓は壁の装飾だと見ることもできるだろう。

窓と壁は分離した要素であり、窓には採光や換気や眺望などの機能があり、壁には構造や断熱などの機能があり、それらの機能を満たした上でのデザイン上の窓配置を決めるのが近代建築以降の窓と壁の関係性であり、そこでは窓は独立した建築要素だった。

ところが、待庵では窓が壁に対して従属的な扱いになり、窓は土壁を四角状に塗り残しただけだから、壁に対して窓配置がどこでも良いことになる。

そのことは、今そこに窓がある必然性が無くなることであり、それは窓として不完全な状態を保有し続けることになり、その不完全な状態の窓を補う何かが必要になってくる。

その補う何かが、その空間が茶室であることにつながってくるのだろうと想像した。

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"The window of Taian"

In the reproduction of the tea room "Taian" of Rikyu-saku, which is a three-dimensional spatialization of the drawing of the "Shape of Rikyu" exhibition held at Ginza Matsuya, I find a description that "I will leave the window and make a wall" , And responded intuitively to the words.

In the window of Taian, the basement of the lattice-shaped painted wall called Komai can be seen as it is, just leaving the clay wall in a square shape. So the only difference between a window and a wall is whether or not there is a mud wall, and then you can see that the window is a type of wall, the window is a derivative of the wall, and the window is a wall decoration .

Windows and walls are separate elements, windows have functions such as daylighting, ventilation and views, and walls have functions such as structure and heat insulation, and the window arrangement in the design after satisfying those functions It is the relationship between windows and walls since modern architecture, in which windows were independent architectural elements.

However, in Taian, the windows are treated subordinate to the walls, and the windows are simply painted on the earthen walls in a square shape, so the windows can be placed anywhere on the walls.

That means that there is no longer any need to have a window there, which will continue to have an imperfect state as a window, and will need something to compensate for the imperfect window.

I imagined that the supplement would lead to the space being a tea room.

黒豆を煮ながら

黒豆を煮ている。お正月が過ぎたのに、今年すでに2回目、年末に1回煮たので、今季3回目である。150gずつ少量だが、2種類の丹波の黒豆を、新豆と古豆を使い分けて味比べ、そもそも豆を煮るのが好きで、煮ている時の豆の匂いが家中に充満して、昔は窓ガラスが結露したりして、その匂いが子供の頃の記憶と結びついて、いろいろな情景が蘇る。その匂いを嗅ぎたくて、豆を煮ている雰囲気を味わいたくて、キッチンで仕事をしているくらいだ。そして、もっと好きなのが、豆を戻すこと。鍋に水をはり、豆を入れて、一晩以上かけて戻すのだが、翌朝、鍋の蓋を開けるのが楽しみでしょうがない。毎回、豆の増え方に驚いて感心する。とにかく時間がかかる。他の人は知らないが、黒豆を煮るのに2日をかける。1日かけて戻し、3〜4時間煮て、1日おく。豆を煮るのにもっと簡単なやり方があるのは知っているが、圧力鍋やポットを使う方法など、それでは満たされない、豆を煮たい気持ちが、大豆ならば水煮がスーパーで売られているから、そのまま煮る必要がなく使えるし、煮豆だってわざわざを作らなくても、かえって自前でつくった方が少量だったらコストがかかるし、味だって、自分好みに調整はできるが、素人がつくる訳だから商品より美味しいということはない。ただ、つくりたくて、できた黒豆は自分だけの愛しい黒い宝石のように輝いて見える。

全く同じことである。自分だけの空間になる、それも、つくりたい気分のような単純な動機で、自分が反映された空間や建築になる、水煮の大豆や市販の煮豆のような空間や建築に自分を合わせるのではなくて、自分好みの黒豆をつくるように空間や建築に仕立てる、それを日常の中で行う、今、スケッチしながら、黒豆を煮ながら、その仕組みを考えているところ。

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"While boiling black beans"

Boiled black beans. This is the third time this season since the new year has passed, but it has been boiled for the second time this year and once at the end of the year. It is a small amount of 150 g each, but I compare the taste of two types of Tamba black beans, using new beans and old beans, I like to boil beans in the first place, the smell of beans when boiling is filled in the house, The dew condensation on the window glass and the smell of the window are linked to the memories of childhood, and various scenes are revived. I want to smell the smell, taste the atmosphere of boiling beans, and work in the kitchen. And my favorite thing is to return the beans. Fill the pot with water, add the beans, and let it return over more than one night. The next morning, I'm not looking forward to opening the pot lid. Every time, I am amazed and impressed at how beans increase. It takes time anyway. Others don't know, but take two days to boil black beans. Return over 1 day, boil for 3-4 hours, leave for 1 day. I know there are easier ways to boil beans, but the pressure cooker and pot methods are not enough, so if you want to boil beans, soybeans have boiled water sold at supermarkets Therefore, you can use it without having to boil it as it is, even if you do not make boiled beans, it will cost more if you make a small amount on your own, and you can adjust the taste as you like, but it can be adjusted to your liking, but it is made by an amateur Nothing is better than a product. However, I want to make it and the resulting black beans look like my own beloved black jewel.

Exactly the same. Become a space of your own, with a simple motivation to feel like creating a space or architecture that reflects you, or adapt yourself to a space or architecture like boiled soybeans or commercially available boiled beans Instead of creating black beans that you like, you make it into space and architecture, do it in your daily life, and now you are thinking about the mechanism while sketching and boiling black beans.

アクティビティの自由探し

建築の特徴のひとつに人のアクティビティが内部で起こることがある。逆に言えば、内部で人のアクティビティが起こらなければ建築とは言えない。

人のアクティビティは様々な方向に、自由に起こすことができる、しかし、その方向は建築に左右される。だから、人のアクティビティが建築デザインの対象になるとも言えるが、これが何とも不自由である。

当然だが、建築は人のアクティビティのみで決まる訳ではない。その他の要素、例えば、建築の構造、法規、予算など、まだまだたくさんあるが、およそそれらのほとんどが人のアクティビティを制限するものばかりと言っても過言ではない。

建築の中で、日常生活に直結するのは、人のアクティビティであり、それが制限されるということは、日常生活が制限されることでもある。

だから、余計に人のアクティビティがいつの時代でも建築のデザインの対象として扱われ、そこでどのような折り合いをつけるのか、強引に引き寄せるのか、他を無視するのかなど、様々なアプローチが存在する。

いずれにしても、この不自由さから逃れるためにスケッチをしているといつも思ってしまい、大半の時間を自由への道を探すために使っているように思う。

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"Free search for activities"

One of the architectural features is that human activities occur inside. Conversely, if there is no human activity inside, it cannot be called architecture.

Human activities can occur freely in various directions, but the direction depends on the architecture. Therefore, it can be said that human activities are subject to architectural design, but this is inconvenient.

Naturally, architecture is not determined solely by human activity. There are still many other factors, such as architectural structures, regulations, budgets, etc., but it's no exaggeration to say that most of them only limit human activities.

In architecture, what is directly connected to daily life is human activity, and limiting it means limiting daily life.

Therefore, there is a variety of approaches to human activities that are always treated as an object of architectural design at any time, such as how to make arrangements, forcibly attract, or ignore others.

Either way, I always think that I'm sketching to escape this inconvenience, and I spend most of my time looking for a way to freedom.

日常で建築が起こすこと

不整形に閉じた箱がある。箱は人が入ることができるから空間と呼ばれる。

なぜ不整形かは、壁の厚みが一定ではないからだ。では、なぜ壁の厚みが一定ではないのか、壁の中に設えが仕込まれているから、その設えは日常の人の営みに必要なもの、それはあらゆるものが対象になる、基準が日常に必要なものだから、何でも良い、設えの種類を選ばない。

それは、観念的なことと構造が一体となった様がそこにある。どういうことか、壁の厚みは日常の人の営みの違いを現している、それは観念的に人が頭の中で考えること、だから、いちいち壁の厚みに仕込まれているものを確認せずに近づく、それはもはや情景反射のようになっている、そのこと自体がここの空間での仕組みであり、ここの空間が成り立つための構造になっており、まさにそれは、ここの空間に日常的にいる人にだけ起こること。

そして、不整形な箱だけに、人がいる場所により、空間の見え方が違う、それは日常の中で人の営みが行われる度に起こること。

だから、この空間がつながり、重なり合って建築になれば、その建築は日常の人の営みによって見え方が変わる。

ところで、日常の人の営みは何によって支配されているのだろうか、理性か、それとも感情か、どちらか一方ではないだろうが、どちらが勝るか、どちらでも良いが、この空間ではどちらか勝った方が建築の見え方を支配する。

いずれにせよ、日常の人の営みにより建築の見え方が決まる、願わくば、感情、それも気分で見え方が変われば、日常の生活により潤いが出るような気がする。

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"What Architecture Can Do Everyday"

There is an irregularly closed box. Boxes are called spaces because people can enter them.

The reason for the irregularity is that the wall thickness is not constant. Then, why the thickness of the wall is not constant, because the installation is installed in the wall, the installation is necessary for everyday people's work, it is for everything, the standard is necessary on a daily basis Whatever it is, it doesn't matter what type of installation it is.

It is there that the idea and the structure are united. What that means is that the thickness of the wall shows the difference in the daily activities of people, that is, the idea that people think in their minds, so without having to check what is being built into the wall thickness each time Approaching, it is no longer like a scene reflection, it is a mechanism in this space itself, it is a structure for this space to be established, exactly it is everyday in this space What happens only to people.

And the appearance of the space differs depending on the place where people are located only in the irregular box, which happens every time human activities are performed in daily life.

Therefore, if these spaces are connected and overlap to form an architecture, the appearance of that architecture will change depending on the daily activities of people.

By the way, what is governed by the daily activities of human beings, whether it is reason or emotion, it is not one of them, but whichever is better, whichever is better, but either won in this space The one who controls the appearance of architecture.

In any case, the appearance of architecture is determined by the activities of everyday people. Hopefully, emotions, and if the appearance changes depending on the mood, it feels more moist in everyday life.

レゴ(LEGO)のように

動くわけではないが、建築が人にアジャストして、それによって建築の見え方が変われば、素敵な建築になるかもしれない。

アジャストするとは、人の営み、あるいは、人の営みを決める想いや気分によって、建築の見え方が変わること。

何か、ゆらぎのようなものがあって、ひらひらと風によって形を変えるような、ゆらぎのようなものが建築で、風が人の営み、そのようなイメージ、確か、昔、建築家の伊東豊雄が自身の建築のことを「風の変容体」と称していたと思うが、そこまで強い全体像というか、強い形態を持たず、もっと部分的で、もっとありふれたどこにでもある形で、しかし、誰もそのことに気づいていないような存在のもの。

この建築に対する観念的なことを実現可能なところまでに持っていくためには、構造に目を向けるしかないと考えた。

この場合の「構造」とは、別の言い方をすると「成り立ち」や「仕組み」であり、その成り立つや仕組みだけに目を向けても何だかわからないが、その成り立つや仕組みを積み上げていくと、ひとつの形として完成する。

まるでそれはレゴ(LEGO)のようである。気分でひとつひとつレゴのブロックを積み上げていけば、それは何かしらの形になり、気分で積み上げ方を変えれば、また別の形になる。

そのようなことが、日常の建築空間の中でできないものかと思案中である。

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"Like LEGO"

It doesn't move, but if the architecture adjusts to people, which changes the way the architecture looks, it might be a nice architecture.

Adjusting means that the appearance of architecture changes depending on people's activities or the feelings and moods that determine people's operations.

There is something like a fluctuation, and the shape that fluctuates due to the wind fluttering is the architecture, the wind is the work of people, such an image, surely, in the past, the architect Ito I think that Toyoo called his architecture "transformation of the wind", but it was not so strong a whole image, or a strong form, more partial and more ubiquitous, but , Something that no one is aware of.

In order to bring this idea of ​​architecture to the point where it can be realized, I thought that I had to look at the structure.

In other words, the term "structure" is, in other words, "composition" or "mechanism", and it is not clear what the focus is on the composition or mechanism. Completed as a shape.

It's like LEGO. If you pile up the LEGO blocks one by one with your mood, it will take on some form, and if you change the way you pile up with mood, it will take on another form.

I am wondering if such a thing can not be done in everyday architectural space.

単純な仕組み

人の営みは複雑だから、人の営みの部分を複雑のままに表現すればよく、それが複雑だとわかるためには、単純な所から眺めなければならない。この関係性を建築に置き換えればよく、あとは人の営みの複雑さを反映する仕組みを組み込めばよい。

それこそ、複雑なことを受け止めるものが単純な仕組みでないと、複雑さがわからないし、かえって煩雑になる。

その単純な仕組みは、選択できる状態であり、人の営みの複雑さを包括的に受け止めて表現できることが求められる。

だから、人の営みの複雑さを複雑なままに見せるが、そのまま見せるのではなくて、何かに置き換えて見せることになる。その何かが建築の一部分になり、人の営みの複雑さを反映した建築になる。

そして、人の営みには様々な種類があるが、全ての営みに影響を与える、人の「気分」によって選択できる状態を単純な仕組みで形にすることを目論んでいる。

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"Simple mechanism"

Because human activities are complicated, it is only necessary to express the complexities of human activities, and to see that it is complicated, we must look at it from a simple point of view. You can replace this relationship with architecture, and then incorporate a mechanism that reflects the complexity of human activities.

That is, unless something that accepts the complexity is a simple mechanism, the complexity will not be known and rather complicated.

The simple mechanism must be selectable, and must be able to comprehensively capture and express the complexity of human activities.

Therefore, the complexity of human activities is shown as complicated, but instead of being shown as it is, it is replaced with something. Something becomes a part of architecture, and it becomes an architecture that reflects the complexity of human activities.

There are various types of human activities, and we are aiming to use a simple mechanism to create a state that can be selected according to the "mood" of a person, which affects all activities.

複雑なまま

複雑なことを複雑なままに理解するためには、それを単純な所から見ていなければ、単純な立ち位置からでないと理解できないかもしれない。それは、複雑なことと単純なことが入り組んだ空間、あるいは、単純な空間の中に入れ子状の複雑な空間があることかもしれない。

ずっと建築とは、複雑なことを単純化する作業だと考えてきた。単純化のために様々な論理や技術が存在していて、単純化の深さみたいなものを深めるためにも様々な論理や技術が存在している。

高度な単純化を成し遂げるためには、高度な論理と技術が必要で、ただ、それが建築の優劣に直結しないのも、建築としての面白さのひとつだが、それは位置エネルギーのようなもので、より高度な論理や技術からスタートした方が、より良い建築にたどり着く可能性が高いようにも感じていた。

だが、複雑なことを複雑なまま見せる建築が気になり出す。複雑なことを単純化した建築は、単純化の過程で何かを捨てることになり、その捨てた中にというか、捨てずに全てを包括的に抱き込んだ建築の方が、人に訴えかけるものがあるのではないかと、複雑なことを単純化した建築も人に訴えかけるものがあるが、それは多くの場合、単純化の洗練さに惹かれるのであって、だから、建築家の能力の見せ所にもなるが、そうではない、建築という物自体が持つ魅力のようなもので人を惹きつけるような、そのために、複雑なことを複雑なままにとどめておける状態をつくり出したいと考えている。

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"It remains complicated"

In order to understand a complex matter as it is, it may not be possible to understand it from a simple standpoint unless it is seen from a simple point. It may be a space where complexity and simplicity are mixed, or a nested complex space within a simple space.

I've always thought that architecture is the task of simplifying complex things. There are various logics and technologies for simplification, and there are various logics and technologies for deepening the simplification.

Achieving a high degree of simplification requires advanced logic and technology, and one of the interesting things about architecture that does not directly relate to the architectural quality is that it is like potential energy, I also felt that starting with more advanced logic and technology was likely to lead to better architecture.

However, I am worried about architecture that shows complicated things as complex. Architecture that simplifies complicated things means throwing away something in the process of simplification, and architecture that embraces everything comprehensively without throwing it away appeals to people. Simplifying complicated things can appeal to people, but there are many things that appeal to people, but it is often attracted to the sophistication of simplification, so the ability of the architect But it's not like it, but it's like attracting people with the charm of architecture itself, so we want to create a state where we can keep complex things complicated. thinking.

軽快さと重厚さ

軽快な空間を求めている訳ではないが、かと言って、重厚な空間を求めている訳でもない。現代建築では、軽快さも、重厚さも、極限のものまですでに存在していると言っても過言ではなく、もちろん、イマジネーションを補完する技術の進歩により、あるいは、技術の進歩がイマジネーションを触発することにより、より軽快な、より重厚な空間が出現するだろうし、それは是非見てみたいものだが、より大きく、より高い建築を求めていくのと同じで、量的な尺度の違いのような気がして、そこには興味が持てない。

また、空間の軽快さも、重厚さも建築的な修辞として、そのように表現することと捉えることもでき、そのために素材やディテールなどをどうするかを考えるが、それは軽快さや重厚さに意味があるという態度だから、それが重要なことではなく、別にどうでもよいという態度ならば、軽快でも重厚でも建築の修辞上は大差がなくなる。

もし、建築の修辞上の軽快さや重厚さに興味を持てるとしたら、それをどのようにコンビネーションするか、建築的修辞を単なる機能的なツールとして扱うこと、ただそれはポストモダンのように、表層的に扱うのではなくて、人の内面と呼応するように扱った場合に限る。

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"Lightness and solidness"

It doesn't mean that you want a light space, but that doesn't mean you want a solid space. In modern architecture, it is no exaggeration to say that both lightness and heavyness already exist to the extremes, of course, due to technological advances that complement imagination, or that technological advances inspire imagination. A lighter, heavier space will emerge, and it's something we'd like to see, but it feels like a difference in quantitative scale, just as we want bigger, higher architecture. I'm not interested there.

Also, the lightness and depth of space can be regarded as expressing it as such as architectural rhetoric, and we think about how to use materials and details for that purpose, but it is said that lightness and depth are meaningful Attitudes that aren't important, and don't matter, will make no difference in their rhetoric, whether light or heavy.

If you're interested in the lightness and weight of architectural rhetorism, how to combine it, treat architectural rhetorical as a mere functional tool, just like a postmodern, superficial It is limited to the case where it is handled not in the same way but in correspondence with the inner part of the person.

選択できる状態

人のアクティビティによって決まる他律的な建築を可変以外の手法でつくろうとすると、何があるのだろうか。

すぐに思いつくのは、人の意識を利用することだが、気をつけないと、あまりにも観念的になり過ぎるような気がして躊躇してしまう。それでなくても、設計者は観念的になりやすい。頭の中だけで全体的なつながりを考えて、それをそのまま構築してしまい、おかしなことになっている建築がたまにある。それは設計者の姿勢としては悪いことではないと思うが、具体的現実との折り合いがもう少し必要になる。

可変でなければ、選択できるということもある。選択には人のアクティビティが伴う。人が選択することによって建築が決まる、それは他律的な建築になる。その場合は、建築が選択できる状態にあることをつくれば良い。

選択ということは、少なくとも1つの動線という指向性のアクティビティではなくて、複数の動線による無指向性に近いアクティビティが必要になる。

複数の動線による無指向性の空間はイメージできる、あとは具体的現実との折り合いであり、今回は集合住宅である。

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"Selectable state"

What would happen if we tried to create a heterogeneous architecture determined by human activities by means other than variable?

The immediate idea is to use human consciousness, but if you are not careful, you may feel hesitant to be too ideological and hesitate. Even so, designers tend to be ideological. Sometimes thinking about the whole connection only in my head and building it as it is, there are some architectures that are going wrong. I don't think that's a bad thing for a designer, but it requires a bit more work with concrete reality.

If it is not variable, it may be possible to select. Selection involves human activity. Architecture is determined by people's choices, and it becomes a heterogeneous architecture. In that case, you just need to make sure that you can choose the architecture.

The selection does not require the directional activity of at least one flow line, but requires an omnidirectional activity with a plurality of flow lines.

An omnidirectional space with multiple traffic lines can be imagined, and the rest is a compromise with concrete reality.

可変ではない

人のアクティビティによって決まる他律的な建築をつくる手法のひとつとして、人のアクティビティに応答して建築自体が可変する手法がある。例えば、可動間仕切りによって部屋の広さを変えることによって、その時々の使い方に建築を調整することである。

ただ、それは確かに建築が他律的になることだが、別の見方をすると、建築が装置化することであり、それを良しとする考えもあるだろうが、建築デザインの精神性のようなことに興味を持っていて、人の内面にまで影響を及ぼす建築をつくりたいので、そうすると、装置化した建築には精神性を投影することができず、興味が持てない。

今まで見た建築で装置化の傾向があるものは、リートフェルトが設計した住宅で世界遺産にもなった「シュレーダー邸」で、この住宅は間仕切りだけではなく、様々なものが可変した。ただ、この住宅の特色は多色使いであり、壁や天井といった要素ごとに色を塗り分けて、それぞれの要素の自律性を高めており、それはむしろ人のアクティビティに左右されない自律的な建築を目指した結果だと考えて、その多色使いに精神性を投影できる可能性は感じたが、この住宅にそれ以上の興味は持てなかった。

だから、可変以外の手法で、人のアクティビティによって決まる他律的な建築をつくろうとしている。

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"Not variable"

As one of the techniques for creating a heterogeneous architecture determined by human activities, there is a technique in which the architecture itself changes in response to human activities. For example, by changing the size of a room with a movable partition, the architecture can be adjusted to the usage at that time.

However, it is certainly that architecture will be heterogeneous, but from another point of view, it is that the architecture is computerized, and there are thoughts to make it good, but like the spirit of architectural design I am interested in things and want to create an architecture that affects the inside of a person, so I can not project the spirituality on the computerized architecture and am not interested.

The architectural trend we have seen so far is the Riedfeld-designed house, which became a World Heritage Site, the Schroeder House. This house is not only a partition, but various things can be changed. However, the feature of this house is multi-colored, and the color of each element such as walls and ceilings is painted differently to enhance the autonomy of each element, which is rather an autonomous architecture that is not affected by human activities I thought that it was the intended result, and felt the possibility of projecting spirituality to the multicolored use, but I could not have any more interest in this house.

Therefore, we are trying to create a heterogeneous architecture that depends on human activities, using a technique other than variable.

アクティビティによって

プロダクトは動かすことができるから、動かすことで見方を変えることができるが、建築は動かすことができないから、自ら動いて見方を変えるしかない。そこに、建築のデザインとして、人のアクティビティが入り込む余地が生まれ、それを活かすことが建築デザインの特徴のひとつだと考えている。

人のアクティビティには2種類あり、能動的か受動的か。能動的は自ら進んで動くことに建築が応答してくれるか、受動的は建築に用意されているアクティビティのルールに自らが応答するか。

別の見方をすると、能動的な人のアクティビティで成り立つ建築は、人のアクティビティによって決まるという意味で他律的であり、受動的な人のアクティビティで成り立つ建築は、人のアクティビティには左右されないという意味で自律的とも言える。

モダニズム以降で考えると、受動的な人のアクティビティで成り立つ自律的な建築が主流だった。

要するに、建築がまずあって、その建築に人は合わせる、と言うこと。例えば、病院を思い浮かべるとわかりやすい。病院という建築がまずあって、受診したい人は、その病院の受診ルールに従って、決められたルート通りに動くだけ、それは効率良く受診できるルールを考えた結果である。

自律的な建築は、行き過ぎると、効率性だけが重要視されるようになり、その結果、人は置き去りになる。だから、人のアクティビティによって決まる他律的な建築はできないものかと日々考えている。

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"By activity"

Products can be moved, so you can change your perspective by moving them, but you can't move architecture, so you have to move and change your perspective. There is room for human activity as an architectural design, and I think that utilizing this is one of the features of architectural design.

There are two types of human activity, active or passive. Whether the active responds to the willingness of the building to move, or the passive responds to the rules of the activity provided in the building.

From another perspective, architecture consisting of active human activities is heterogeneous in the sense that it depends on human activities, and architecture consisting of passive human activities is not affected by human activities. In a sense, it can be said to be autonomous.

After modernism, autonomous architecture consisting of passive human activities prevailed.

In short, it means that there is architecture first and people adjust to it. For example, it is easy to understand if you think of a hospital. There is a building called a hospital, and the person who wants to consult only needs to move according to the determined route according to the hospital's consulting rules.

When autonomous architecture goes too far, only efficiency becomes important, and as a result, people are left behind. That's why I'm thinking everyday that I can't do other disciplined architecture that depends on people's activities.

デザインの断片

断片的につなぎ合わせたデザインだと、何故か、ポストモダンの建築を思い出す。学生の頃だった、歴史的なデザインをモチーフにして、断片的に、装飾としてつなぎ合わせていた。それでも、学生の頃、参照していた建築はモダニズムの建築だったので、ポストモダンの建築を見る度に違和感しかなかった。

デザインを表層的に捉えて、その操作が建築のデザインの全てあるかのような態度にポストモダンの建築は映り、それがかえって建築デザインに対して、窮屈な想いと、嫌な感じしかなかった。

学生の頃は、建築デザインの精神性のようなことに興味を持っていたし、人の内面にまで影響を及ぼす建築とはどういうものかを考えていたので、表層的にデザインを扱うことはしたくなかった。

それは今も変わらないが、断片的なデザインのつなぎ合わせには興味がある。そもそもデザインは建築と人をつなぐためにあり、人は、人の精神性は、常に一定ではなくて、不規則に変化をするので、その不規則な変化に、動かない建築が応答しようとするならば、ひとつの可能性として、断片的につなぎ合わされたデザインが、その不規則な変化にシンクロするという回答もありうると考える。

ただ、それは決して表層的にデザインを扱うことでは無いので、断片的にせよ、デザインには人の精神性とのつながりや関係性が必要になる。

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"Fragments of Design"

The piece-by-piece design reminds me of postmodern architecture for some reason. He used to be a motif of a historical design when he was a student, and pieced it together in pieces and as decorations. Still, when I was a student, the architecture I was referring to was a modernist one, so every time I saw postmodern architecture, I felt uncomfortable.

The post-modern architecture was reflected in the attitude as if the operation were all in the architectural design, taking the design in a superficial manner. .

When I was a student, I was interested in the spirituality of architectural design, and I was thinking about what kind of architecture would affect the inside of a person. I didn't want to.

It remains the same, but I am interested in splicing fragmented designs. In the first place, design is to connect architecture with people, and people tend to change their spirituality irregularly, because they are not always constant, and the immovable architecture responds to the irregular changes. Then, I think that one possibility is that a piece of stitched design can synchronize with the irregular changes.

However, since it is not a surface treatment of design, design requires a connection or relationship with human spirituality, even if it is fragmentary.

形の無い事を表現

今はより小さな物に興味が向き、それは形のある物で、さらには、形の無い物、それはすでに物では無くて、人の気分や感情、関係性などにも興味が移り、それらの形の無い事が形のある物に対して、どのように影響を及ぼすかを考えていることが多い。

形の無い事、気分や感情、関係性などを建築で扱おうとすると、それ自体には形につながる情報が無いので、それ自体を直接的に形にすることは難しいから、形のある物との連続的なつながりとして扱うことによって、建築でも形として扱えるのではないかと考えている。

建築を説明する言葉として、形の無い事、気分や感情、関係性などを語ることは意外と簡単にできるが、やはり、建築として、形のある物として表現したい。

それはまだ、建築より小さな物、それ自体が動かせる物の方が表現しやすいかもしれない。簡単に言えば、取り替えることもできるし、形を容易に変えることもできるから、気分や感情を反映しやすい。建築は動かないし、形も容易には変えられないから、そのような反映の仕方は難しい。

それだけに、形の無い事、気分や感情、関係性などを建築として、形のある物として表現することには意味があると考えている。

ひとつは、動かず、形も変わらないけれど、「〜のように見える」と想えることかもしれないと、それは形を扱うことにつながるのではないかと考えていて、それを建築として、形のある物として表現しようとしている。

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"Expressing intangible things"

Now I am interested in smaller things, which are tangible things, and even shapeless things, which are not already things, but also interest in people's moods, emotions, relationships, etc. I often think about how the absence of something has an effect on things with shape.

If you try to deal with things without form, moods, emotions, relationships, etc. in architecture, it is difficult to directly form itself because there is no information that leads to form itself. By treating it as a continuous connection, I think that it can be treated as a form in architecture.

It is surprisingly easy to describe things without form, moods, feelings, relationships, etc. as words to describe architecture, but I still want to express it as something with form as architecture.

It may still be easier to express things that are smaller than architecture and that can move themselves. Simply put, they can be replaced and easily reshaped, making it easier to reflect mood and emotions. Such a reflection is difficult because architecture does not move and its shape cannot be easily changed.

For that reason, I think it is meaningful to express things without form, moods, emotions, relationships, etc. as architecture and forms.

One is that it doesn't move and its shape doesn't change, but thinking that it may be "looks like" might lead to dealing with shape. Trying to express it as an object.

ルーティンの中の気分

日常の中で誰でも何かしらのルーティンを持っているだろう。例えば、朝のルーティンと称して、起きてから仕事をはじめるまで、決まった段取りで、決まった行動をする。

ただ、毎日同じように決まった行動をするかもしれないが、その行動をする時の気分は毎日違うだろう。

となると、もしかしたら、ルーティンの中に毎日違う気分に合わせる何かを含めている人もいるかもしれない。例えば、毎朝飲むコーヒーのカップは気分で毎日変えているなど。

建築はルーティンを形成する上で、動線や設えなどを担保する。そこで、建築が毎日変わる気分にも対応するというか、呼応して、同じルーティンの繰り返しの日常の中に、何か変化をもたらすことができたならば、それは人と建築がリニアにつながる瞬間だと思う。

具体的には、人の気分によって、建築の何かが変わる、とうことであり、人が気分によって何かを選択することにより、それに呼応して建築の何かが変わるか、変わったように見えることである。

その何かを今、壁に求めて試行錯誤をしている。

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"Mood in the routine"

In everyday life everybody will have some sort of routine. For example, you call a morning routine and take a fixed action in a certain arrangement from waking up to starting work.

You may do the same thing every day, but you will feel different every day.

Perhaps some of your routines include something that adapts to different moods every day. For example, the cup of coffee you drink every morning changes every day depending on your mood.

In building the architecture, the flow lines and installations are secured in forming the routine. So, if we can respond to the mood that architecture changes every day, and if we can make something change in the repetitive daily routine of the same routine, that is the moment when people and architecture will be linearly connected. I think.

Specifically, something in the architecture changes depending on the mood of the person, and if the person chooses something according to the mood, something in the architecture changes in response to it. It is visible.

I'm trying and trying to find something on the wall now.

置き換え作業中

何か、それでいいんじゃないの、それもあるよね、そこに注目するのか、と思わせてくれるもの、それは今まで見聞きしなかったもの、考えてもみなかったこと、思いもしなかったことに気づいた時にそうなるが、人にそう思わせるものをつくりたいといつも思っている。

それは奇をてらう訳ではなくて、日常的にいつも見てはいるけれど、そこを意識して見ることが無かった、見る必要もなかったことに、ある違う意味付けや理由付けがされることにより、とても掛け替えのないものになるようなことで、何でもないことが実は重要なんだと思わせたい。

だから、それは既存の枠組みの中だけを見ていたら、自分が気がづかないから、まず自分が気がつかないと人に伝えられないから、その種はほんの些細な、身近なことからはじめて、それはものづくりとは関係が無い時もあるけれど、何でも結局はものづくりに繋げられるので、そこにはお手本は無く、何でもはじめから構築して、結果そうすると、勝手に枠組みから外れてくれるので、そこで何かに自分が気づき、今度はそれを人にわかる言葉に置き換えて伝える、その置き換える作業がデザインだと考えている。

そして、今、その置き換え作業中、なかなか人にわかってもらえるデザインが見つからない、そういう時は、またはじめに戻って、種からはじめる。

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"Replacement in progress"

Something that doesn't matter, it's there, it's there, it's something that makes me wonder if I pay attention to it, I've realized that I've never seen or heard, never thought, never thought When I do, I always want to make something that makes people think so.

It is not a strange thing, but I always look at it on a daily basis, but I did not see it consciously, I did not need to see it, but by giving a different meaning and reasoning I want you to think that it is really important that nothing is so irreplaceable.

So, if you look only in the existing framework, you will not notice yourself, you will not be able to tell people unless you first notice, so the seeds are only trivial, familiar, There are times when it has nothing to do with it, but in the end everything can be connected to manufacturing, so there is no example there, build anything from scratch, and as a result you will come out of the framework without permission. I realized that design was the task of replacing it with words that people could understand.

And now, during the replacement work, it is difficult to find a design that people can easily understand. In such a case, return to the beginning and start with the seed.

人と建築の関係性

建築は取っ替え引っ替えが容易にできない。ならば、建築自体が人に呼応しなければならない。

そもそも建築はモノとして存在することが成り立つように体系があるが、そこでの高いクオリティはあった上での話として、人との関係性がどうあるかに興味がある。建築以外の全てのモノに対しても同じ、人との関係性に興味がある。それをコトとして言い表してきた。

だから、例えば、バカラのグラスとか、単体でのモノとしての興味は無く、そのバカラが良いと思う人との関係性に興味がある。その前提条件として、バカラのモノとしての精度などのクオリティの高さがある。

よって、人とどのような関係性が築けるかがデザインのポイントになる。

そして、人と建築をつなぐ役目を気分に負わせようと考えている。建築に人の気分を反映させるのである。

それは、人と建築のリアルな関係性を築きたいから。

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"Relationship between people and architecture"

Architecture cannot be easily replaced. Then, the architecture itself must respond to people.

In the first place, architecture has a system so that it can exist as a thing, but there is a high quality there, but as a story, I am interested in how there is a relationship with people. I am interested in the same relationship with people for all things except architecture. It has been expressed as a thing.

So, for example, I am not interested in baccarat glasses or as a single item, but I am interested in the relationship with people who think that baccarat is good. As a prerequisite, there is high quality such as the accuracy of baccarat.

Therefore, what kind of relationship can be built with people is the key to design.

And I'm thinking of giving the role of connecting people and architecture. It reflects people's mood in architecture.

Because I want to build a real relationship between people and architecture.

型をつくる

型は何のためにあるのかを考えていて、昨日聴いた言葉を思い出した、それは「コミニケーションのツール」。

型があることによって、何者かがはっきりとわかる、態度を表明していることだし、その型に合わせて意思疎通を図れば良いことになるからだろう。型があると何かと外に向かってわかりやすくなる。

ただ、型をつくろうとする時は、どうしても独り善がりになりそうな気がする。そもそも型をつくりたい衝動は、自分とは何者かを発信したい時だから、他者のことより自分のことを優先したくなる。

だから、独り善がりの型にならないために、型が「コミニケーションのツール」であるという意識を持つことは非常に大事だと、これはわかってはいるけれど疎かになってしまうことで、なぜならば、型は、やはり自分だけのものだから、どうしても排他的になる。

もう少し考えを進めてみると、何かが洗練されたものが型であるならば、それは「コミニケーションのツール」としての型が排他的でもあるという、この相反することが高い次元で同時に成り立っている状態が型になる。

結局、最終的には型をつくる上げることに全て行き着くような気がする。

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"Making a mold"

Thinking about what the mold is for, and remembering what I heard yesterday, it's a "communication tool."

The presence of a type clearly indicates someone's attitude and makes it easy to communicate with that type. If there is a type, it becomes easy to understand something outside.

However, when I try to make a mold, I feel like I'm going to be self-righteous. In the first place, the urge to make a pattern is when you want to send out who you are, so you want to prioritize yourself over others.

So it's very important to be aware that a type is a "communication tool" so that it doesn't become a self-righteous type. Is, by itself, exclusive, so it is absolutely exclusive.

Looking a little further, if something is a refined type, then it is at the same time a higher dimension that this type of "communication tool" is also exclusive. The state becomes a type.

In the end, I feel like I end up with making the mold.

自然と型のようなものができて、この空間だったら、あの人が設計しているだろうと想像がつくことがある。

似たような空間も現れるが、やはり、真似にしか見えず、真似をする所からはじまるかもしれないが、真似はどこまでいっても真似なので、良くても新鮮味は無く、それにやはり、型なので、比較が出来てしまうから、微妙な形の違いが気になる。

どんなに美味しい食べ物でも、毎日食べたら飽きる。ならば、間隔を空ければ飽きないかというと、1ヵ月、3ヵ月、半年、1年と間隔を空けても、途中で変化が無く、毎回同じ味ならば飽きる。空間も同じか、だから、模様替えをしたり、何かを加えたり、何かを捨てたくなる。

ところが、型のようなものが出来上がると、飽きない。毎回同じでも、同じように良いし、美味しい。

きっと型とは、昇華した形であり、そこまで行くと、飽きることは無く、簡単に真似できることでは無くなるのだろう。

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"Type"

You can imagine that if this space is made of nature and a type, it would be designed by that person.

A similar space also appears, but after all it looks only imitated and may start from the place where it is imitated, but since imitation is imitated no matter how far it is, it has no freshness at best, and it is also a type, I'm worried about subtle differences in shape because I can make comparisons.

No matter how delicious food you eat, you get tired of eating it every day. Then, if you do not get tired if you leave an interval, even if you have an interval of one month, three months, half a year, one year, there is no change on the way, and you will get tired of the same taste every time. The space is the same, so I want to make up, add something, or throw away something.

However, once something like a mold is completed, I will never get bored. Every time the same, just as good and delicious.

Surely, a mold is a sublimated form, and when you reach that point, you will not get tired and will not be able to imitate easily.

土鍋探し

土鍋を探していて、画像にある小さい土鍋は1人用で、以前に散々探して、やっと手に入れたものだが、もっと大きめの、ちょっとモダンな空間に合う土鍋をと思い、それがなかなか無い。

正確に言うとあるのだが、モダンな空間に合わせることを狙った、デザインされた土鍋として売られているものは結構あるのだが、それはもはや土鍋では無くなっている。

冬だから鍋料理を、炊飯用の土鍋は普段から使っているが、それは白米専用にしたくて、他の煮炊きに使うと土鍋に匂いや味が移り、白米を炊飯した時に美味しくできないと思い、鍋料理や混ぜ御飯をつくる時などに使うための土鍋を探していて、ただ、お鍋で熱燗なんて時は、よくある土鍋が雰囲気もあるし、良いかもしれないが、モダンで繊細な空間には、よくある土鍋は合わない。

ただテーブル上のコーディネートしだいで、よくある土鍋でも、モダンで繊細な空間に合うように、どうにでもなるような気はするが、土鍋単体で、土鍋としての和の感じは残しつつ、モダンで繊細な空間に合うようにデザインされた土鍋を手に入れたい。

例え、レベルの高いデザインが施されていても、土鍋としての和の感じが無ければ、それはただのオシャレな鍋に過ぎず、それならば、土鍋以外でいくらでもあるし、わざわざ土鍋と名を打つ必要も無いし、何よりお鍋で熱燗に合わない。

熱燗に合う土鍋としての和の感じは残しつつ、デザインされていて、そのおかげで、モダンで繊細な空間の中でも映えるものが良い。

画像にある土鍋は、小ぶりだから成り立つかもしれないが、手づくりの不均一さも合わさって、形で、土鍋感とでも言うような、土鍋としての和の感じは残しつつ、よくある土鍋の形とは違い、底面の丸味が無く、シルエットが四角に近く、それが形としてモダンな要素を生んでいるようで、モダンで繊細な空間に対しても合い映える。

要するに形なんだと、土鍋の和の感じを形として残し表現しつつ、モダンで繊細な空間の中でも映える形になっているか、これが案外難しいのだろう。

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"Clay pot search"

I'm looking for a clay pot, and the small one in the image is for one person. I searched for it before and finally got it, but I don't think it's a bigger, more modern one that fits a little more modern space.

To be precise, there are quite a few pots that are sold as designed clay pots that aim to fit into a modern space, but they are no longer clay pots.

I use pot dishes for cooking because of winter, but I usually use clay pots for cooking rice, but I want to use it only for white rice, and if I use it for other boiling cooking, the smell and taste will move to the clay pot and I think that it can not be delicious when cooking white rice, I'm looking for an earthen pot to use when cooking or mixing rice, but when it is hot to cook with a pot, the common earthen pot has an atmosphere and it may be good, but in a modern and delicate space, Common clay pots do not fit.

However, depending on the coordination on the table, even a common earthenware pot seems to be in any way to fit into a modern and delicate space, but it is modern and delicate while leaving the feeling of Japanese as a clay pot alone Want to get a clay pot that is designed to fit the natural space.

Even if a high level design is applied, if there is no sense of Japanese as a clay pot, it is just a fashionable pot, so there are many other things than a clay pot, and it is necessary to name it as a clay pot There is nothing, and above all, it does not go well with hot pot.

It is designed while retaining the feeling of Japanese as a hot pot that is suitable for hot sake. Thanks to that, something that shines in a modern and delicate space is good.

The earthen pot in the image may be made because it is small, but the unevenness of handmade is also combined, and the shape of the earthen pot, such as the earthen pot feeling, while leaving the feeling of Japanese as a earthen pot, is a common earthen pot shape The difference is that there is no roundness on the bottom, the silhouette is close to a square, and it seems to be creating a modern element as a shape, and it fits in a modern and delicate space.

In short, if it is a shape, it is surprisingly difficult to express whether it is a shape that shines in a modern and delicate space while retaining and expressing the Japanese feeling of a clay pot.

揺らぎのデザイン

揺らぎがありながら、納まる所はきちんと納まっていると、何か心をくすぐられたような気になる。

カトラリーの話、物の話。

縦横、垂直水平の線と面がきちんと出ていることは、精度の証だから、それがきちんとできる技術は必要で、まず高い技術があっての話だが、それだけでは人の心を打つ物はできない。

ここで2通り考えられる。1つは、縦横、垂直水平の線と面がきちんと通っている幾何学形態のバランスの緊張感で見せる方法と、もう1つは、縦横、垂直水平の線と面の交わる所はしっかりと押さえ、それで幾何学形態のバランスは担保しつつ、交わる所に至るまでに心に響く揺らぎを与える方法である。

もちろん、どちらも難しい、緊張感ある幾何学形態のバランスを生み出すことも、心に響く揺らぎを生み出すことも。緊張感が無く、だらけた幾何学形態になるか、心に何も響かない、何ともだらしが無い揺らぎになるか、どちらもつくり出すには相当な能力が必要になる。

どちらが良いということは無いが、好みの問題か、物によって使い分けしても良いが、今日、食卓で使うスプーンを探していた。

前々から探している形があり、それはある料理屋さんで使われていたスプーンを目にして、いつもならば、その場でお店の人に尋ねるのだが、その時はたぶんと当てがあったので、自分で探せばわかるだろうと、それがなかなか無く、結局思い違いをしていた。

今朝、ふと思い立ち、もしかしたらと探し、たぶんこれだというスプーンを見つけ、それは手づくりの跡がある、ひとつとして同じものが無い、揺らぎがある物、その揺らぎの様を選んで、心に響く物を購入した。

画像のスプーンは代替の物として普段使っているもので、似ているが、揺らぎが無い。手元に届いたら比べてみるつもりだけれども、意図せずに生まれる揺らぎもデザインの範疇だと改めて思うだろう。

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"Fluctuating Design"

If there is a fluctuation and the place where it fits is properly settled, it feels like something has been tickled.

Story of cutlery, story of thing.

The fact that the vertical and horizontal lines and the vertical and horizontal lines and planes are properly exhibited is proof of accuracy, so it is necessary to have a technology that can do it properly.First of all, there is a high technology, but it can not be a thing that strikes the heart of humans alone .

There are two possibilities here. One is to show the tension of the geometrical form that the vertical, horizontal, vertical and horizontal lines and the surface pass properly.The other is to hold the intersection of the vertical, horizontal, vertical and horizontal lines and the surface firmly. This is a way to maintain the balance of the geometrical forms and to give the emotional fluctuations to the intersection.

Of course, both can create a balance of difficult, tense geometrical forms, and create fluctuations that affect the heart. It requires a great deal of ability to create either a loose geometry with no tension, nothing to affect the mind, no sloppy fluctuations.

There's nothing better than that, but it's a matter of taste or things, but today I was looking for a spoon to use at the table.

There's a form I've been looking for before, and when I see a spoon used at a restaurant, I usually ask the shop's people on the spot, but at that time I was probably guessing So, if I could find it by myself, I couldn't find it easily, and ended up making a mistake.

This morning, I suddenly thought, looked for it, and found a spoon that was probably this, there was a trace of handmade, there was no one thing as a thing, there was a fluctuation, I chose something that fluctuates, something that touches my heart Purchased.

The spoon in the image is something I usually use as a substitute, similar but without fluctuations. I'm going to compare it when it arrives, but I think that the unintentional fluctuations are another category of design.

幾何学形態の個別性

幾何学形態を組合せていけばいく程、個別性が高くなり、それはある意味、完全で完璧な形に近づいていくことであり、そうすると、汎用性は無くなり、より洗練された表現になる。

その代わり、そこに何かを付け足すことは不可能になり、そういう意味では自由度が無くなるから、ただその幾何学形態を受け入れるしかないことになる。

たくさんの幾何学形態で組合せられたもの、それを幾何学模様として見ることはあるが、それは完成度が高く、それはひとつの作品として、そのまま受け入れるしかない。

それはそれで素晴らしいことだが、見る側、使う側の自由度は無い。見る側、使う側によって何も変えることができない。見る側、使う側にとっては、幾何学形態に自分を合わせるだけ、それで合わせていて、幾何学形態の持つより高い次元のものを手に入れることはできるかもしれないが、それは自分では無い。

日常の中での幾何学形態の個別性は程々、7:3くらい、がちょうど良いかもしれない。

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"Individuality of geometric forms"

The more geometrical forms are combined, the more individuality is, in a sense, approaching a perfect and perfect shape, which is less versatile and results in a more sophisticated expression.

Instead, it becomes impossible to add anything to it, and in that sense there is no freedom, so you have to just accept the geometric form.

There are many combinations of geometrical forms, which we sometimes see as geometric patterns, but they have a high degree of perfection and can only be accepted as a single work.

That's great, but there is no freedom for the viewer or the user. Nothing can be changed by the viewer or the user. For the observer and the user, it may be possible to get the higher dimensional of the geometric form by just adjusting himself to the geometric form, but that is not myself.

The individuality of geometric forms in everyday life is about 7: 3, which may be just right.

幾何学形態は不完全

立面が三角形や四角形や円に見える立体である幾何学形態は、単純で、それ自体で完成された完璧な形だと考えるのだが、どうしても、いや、まだ、そこに何かを足せるような気がして、不完全なものに思える。

その幾何学形態を組合せた幾何学模様は、その組合せの仕方で、無限とも言えるくらいの模様を生み出すことができるから、そういう意味では、幾何学形態は汎用性が高い。

様々な自由な形態を単純化していく時には、単純な幾何学形態の組合せに分解していくから、世の中にあるほとんどの形は単純な幾何学形態だけでは成り立っていない。だからか、単純な幾何学形態を見ると物足りず、何かを足したくなる、不完全な形に思える。

完成度は高いが不完全だと、モダニズム建築の幾何学形態を見るといつも思う。

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"Geometric forms are imperfect"

I think that a geometric form whose elevation is a solid that looks like a triangle, square or circle is a simple, perfect form that is completed by itself. It feels imperfect.

A geometric pattern obtained by combining the geometric forms can produce an infinite number of patterns in the manner of the combination. In this sense, the geometric forms are highly versatile.

When simplifying various free forms, they are broken down into combinations of simple geometric forms, so most forms in the world cannot be made up of simple geometric forms alone. That's why looking at simple geometric forms seems incomplete, making you want to add something.

When you look at the geometrical forms of modernist architecture, I always think it is perfect but incomplete.

仏像と建築

仏師は何を込めるのでしょうか、建築家のコルビュジエは自然の中に幾何学形態を見つける目を持っていた、一見この結びつかない事柄に接点があるとして考えてみたら、それは何かの答えになるかもしれない。

仏像と建築は、物体と空間として捉えたら違うけれども、空間を形として認識すれば、仏像と建築を比較することは可能であり、仏像のお顔が見る時々によって受ける印象が違う理由がわかれば、それは建築でも、例えば、気分によって見え方が違うように思えることができるのではないかと考えた。

わからないが、観念とは無縁のところに仏師はいて、ただ彫る、これは聴いた話だが、木の塊の中から仏様を探し出すように、それも仏様を彫り出すというよりは、ただ形を彫り出すように、それは仏様をつくるという意識が無いのだろう。

コルビュジエは自然の風景を中から幾何学形態を抽出し、例えば、外観の水平垂直の線は、大海の水平線や林立する岩から発想されていた。コルビュジエは、後に「人間と自然との調和」をはかりはじめたのではなくて、初期から「人間と自然との調和」をめざしていたと考えている。

仏師も木の塊の中から仏様をつくるという意識が無いのならば、木の塊の中に単に幾何学形態を見出しているのかもしれない。

幾何学形態が、それ自体には意味は無く、見る側が勝手に意味づけできるものであるならば、仏像にも建築にも共通点はある。

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"Buddha statue and architecture"

What can a Buddhist clerk do? The architect Corbusier had the eye to find geometric forms in nature. Might be.

Buddha statues and architecture are different if you consider them as objects and space, but if you recognize space as a form, it is possible to compare Buddha statues with architecture, and if you understand why the impression of the face of the Buddha statue is different depending on the time you see it I thought that in architecture, for example, it might seem different depending on the mood.

I do not know, but there is a Buddhist sculptor in a place that is not related to the idea, just carving, this is a story I heard, but like searching for a Buddha from a lump of wood, it is just a form rather than carving a Buddha It seems that there is no consciousness to make a Buddha like carving a sculpture.

Corbusier extracts geometric forms from natural landscapes, for example, where the horizontal and vertical lines of the exterior were inspired by the ocean's horizon and forested rocks. Corbusier believes that he did not begin to pursue "harmony between man and nature" but to aim at "harmony between man and nature" from the beginning.

If a Buddhist priest does not have the consciousness of making a Buddha from a lump of wood, he may simply find a geometric form in the lump of wood.
If the geometrical form has no meaning in itself and can be defined by the viewer, the Buddha statue and the architecture have something in common.

仏像のお顔と幾何学形態

なぜ仏像のお顔が、例えば、大日如来像のお顔が、見る時々によって受ける印象が違うのかを考えている。きっとそれを考えていると、変化はしないけれど、その時々で建築の見え方が違うように思えることができるのではないか、その答えが見つかるかもしれない。

以前に考えた時は、確か、不完全性と汎用性があるからかもしれないと思った。

不完全性は、仏像のお顔はそこに何か見る人が足すことができる余地があり、それはちょうど建築で言うと、床の間のような存在であり、床の間は一見それ自体で完成しているが、そこに掛け軸やお花や器を足すことで、季節感や想いなどを表現でき、その床の間は見る人によって受ける印象が違う。

仏像のお顔に実際に何か物を足すことは無いが、見る人が勝手に想像力を駆使して、お顔の表情に足してしまう。それは、むしろ見る人が足すことによって仏像のお顔が成立するという意味で不完全性を纏っている。

汎用性は、その仏像のお顔がどのようにでも解釈できるということである。想像力を駆使して表情に何か足してしまう時に制限が無い、どのようにでも変化して見える、喜怒哀楽のどのようにでも、また、その境目も無い、笑っているようでも、哀しんでいるようでも、その両方の要素も併せ持つような表情にも見える。

どうして、このような不完全性と汎用性を備えることができるのだろう。例えば、明確な表情を持ったお顔ならば、そうはならない。例えば、明確な視線がある、目の動きがある、口角や眉の角度で何かを表現してしまっているなど、はっきりと何かを主張している訳ではないからか。

ここで、頭を過ぎるのは幾何学形態、一見完成されているように見えるが、その単純な形態の組合せには、何か別の幾何学形態を足すことも可能であるという意味で不完全性があり、その単純な形態の組合せはどのような建築にも対応ができるという意味で汎用性があり、そして、その足す部分は装飾にもなり、例えば、それは縄文式土器のように、その時々の表現が可能でもある。

ならば、仏像のお顔を幾何学形態として捉えて、それはデッサンのはじめのように、構造的に物体を捉えて、幾何学形態に分解して見ていくと、この不完全性と汎用性の正体がわかるのか。

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"Face of Buddha statue and geometric form"

I'm thinking about why the face of a Buddha statue, for example, the face of a Dainichi Nyorai statue, has a different impression depending on when you look at it. If you think about it, it doesn't change, but you may be able to find the answer to how architecture may look different at different times.

When I thought about it earlier, I thought it might be because of incompleteness and versatility.

Imperfection is that the face of the Buddha statue has room for the viewer to add something to it, just as in architecture, between the floors, and between the floors is seemingly completed by itself However, by adding scrolls, flowers, and vessels, you can express the feeling of the season and your feelings.

Nothing is actually added to the face of the Buddha statue, but the viewer uses his or her imagination to add it to the facial expression. It is imperfect in the sense that the face of a Buddha statue is formed by the addition of a viewer.

Versatility means that the face of the Buddha statue can be interpreted in any way. There is no limit when I use my imagination to add something to my expression, it looks like it changes in any way, no way of emotions and sorrows, no boundaries, no laughing, no pity It looks like it has a combination of both elements.

How can such imperfection and versatility be provided? For example, if your face has a clear expression, this is not the case. For example, they do not clearly state something, such as having a clear gaze, eye movement, or expressing something with the angle of the mouth or eyebrow.

Here, beyond the head is a geometric form, which appears to be complete, but the combination of its simple forms is incomplete in the sense that it is possible to add some other geometric form The simple combination of forms is versatile in the sense that it can be adapted to any architecture, and its addition is also a decoration, for example, it is like a Jomon pottery, Sometimes expression is possible.

Then, the face of the Buddha statue is regarded as a geometrical form, and as at the beginning of the drawing, the object is structurally captured and decomposed into a geometrical form. Do you know the identity of?

形の関係性

建築のことを考えていくと、段々と構造や構法から離れていく場合があり、それは建築の幾何学的形態に反発していることに気がつくが、さらには、建築を、輪郭だけの、薄い面だけの、表面上の存在だけで考えていることに気がつくが、そうすると、イメージでは建築を、構造や構法が無い、形だけで考えていて、そこに結びつく、形を決めるための何かをシンプルに考えることができる。

時々、京都の東寺の講堂にある立体曼陀羅の大日如来像のお顔を思い出す。何度その大日如来像のお顔を拝見しても、その都度、受ける印象が違う。当たり前だが、大日如来像のお顔が変化する訳では無い。ただ、温和であったり、厳しくもあったり、怒っていたり、笑顔に見えたり、哀しげにも見える。

きっとそれは見る側の何かと大日如来像のお顔の形を勝手に結びつけて、勝手に都合よく解釈しているに過ぎないかもしれないが、見る人によって受ける印象が違うということは、それは、見る人が主体で、見る人の何かをきちんと大日如来像のお顔が反映していることになる。

そのような関係性が成り立つ建築がつくれないものかとずっと考えている。

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"Relationship between shapes"

When you think about architecture, you may gradually move away from the structure and construction method, and you will notice that it is repelling the geometric form of the architecture. I realize that I only think about the existence of only the surface, the existence on the surface, but then, in the image, I think about architecture, there is no structure or construction, only the form, and there is something to decide the shape that is connected there You can think simple.

Occasionally, I recall the face of the statue of Dainichi Nyorai of the three-dimensional mandala in the auditorium at Toji Temple in Kyoto. No matter how many times you see the face of the statue of Dainichi Nyorai, you will get a different impression each time. Obviously, the face of the statue of Dainichi Nyorai does not change. However, it looks mild, harsh, angry, looks like a smile, and looks sad.

Surely, it may be simply interpreting the image of Dainichi Nyorai's face in a way that is arbitrarily interpreted by the viewer, but the impression received by the viewer is different. The person who sees it is the subject, and the face of the statue is reflected in the face of the statue.

I've always been thinking that I can't make an architecture that has such a relationship.

純粋で不完全

建築のことを考えていくと、建築の構造や構法などの技術的なことは段々と置き去りになり、後付けになってしまうが、実際に見て、良いな、素晴らしいな、綺麗だなと思う建築はよく考えると、構造や構法に惹かれている。

モダニズムの建築は素晴らしくて美しいと、建築をはじめる時から刷り込まれているからかもしれないが、そのせいで構造や構法に惹かれてしまうのかもしれないが、もっと考えを巡らせてみると、モダニズムの幾何学性に惹かれているのかもしれない。

さらにもっと言うと、幾何学的なものの純粋性みたいなものに惹かれるのかもしれない。その純粋性は一見すると、完全に完成された形態に見えるが、その純粋性には、同時に汎用性も伴い、その汎用性は、その後にあらゆるものに変化、転用も可能だと思わせてくれる不完全性をも纏う。

純粋でありながら、不完全である、もしかしたら、これほど魅惑的な形態はないかもしれない、だから惹かれる。

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"Pure and imperfect"

When thinking about architecture, technical things such as architectural structure and construction method are gradually left behind and become a retrofit, but in fact, I think that it is good, wonderful, beautiful When you think about architecture, you are attracted to its structure and construction.

If modern architecture is wonderful and beautiful, it may be because it was imprinted from the beginning of construction, but it may be attracted to structure and construction, but if you think more about it, modernism You may be attracted by the geometry of

Even more so, you might be attracted to things like the purity of geometric things. At first glance, its purity seems to be a completely completed form, but its purity is also accompanied by versatility, and that versatility can be changed and diverted to anything after that. Also wear imperfections.

Being pure, but imperfect, perhaps not so fascinating.

空間の尺度

もし無限大に空間が広ければ、そのようなことは無いが、例えば、海を想像してみると、船で航行するルートはGPSなどを使って、なるべく最短ルートで効率的に無駄なく行けるように考えるだろう、燃料の消費量も違ってくるだろうから。

海と比べれば、建築の範囲など限られているのに、やはり、人の動きなどの効率性が大事になる。空間の中にあれもこれも押し込めようとするからか、そういう意識が無くても、効率性をつい考えてしまう。

効率性以外の尺度で空間を決めていくことができれば、きっとその尺度は人の動きとは関係が無く、人の動きが尺度になると「動線」などの効率性が問題になってくるから、結果的に人の動きが伴うことにはなるが、そうでないもの、日常の中にあることで考えてみる。

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"Scale of space"

If the space is infinite, there is no such thing, but if you imagine the ocean, for example, the route you navigate by boat can be as efficient as possible with the shortest possible route using GPS etc. Because you will think that the fuel consumption will be different.

Compared to the sea, the range of architecture is limited, but efficiency of human movement is still important. Even if you don't have that kind of consciousness because you are trying to push it into the space, you will think about efficiency.

If you can determine the space on a scale other than efficiency, it will surely have nothing to do with human movement, and if human movement becomes a scale, efficiency such as "traffic lines" becomes a problem. As a result, it will be accompanied by human movement, but if it is not, consider it in everyday life.

小さな空間の積み重ね

空間の指向性が無くなれば、効率という尺度から無縁になることができ、より人の営みを反映した空間とすることができる。そのためには、空間の指向性を生む壁と設えをランダムに配置にすればよいが、他にも空間の指向性を無くす方法として、空間の大きさに着目してみたい。

例えば、人が動き回れない位の小さな空間だとしたら、そこに人の動きの効率性は求められないし、「動線」などという考えも必要無い。

ならば、小さな空間の積み重ねで、空間全体を構成してみるという考えもあるが、今度は小さな空間の並びに効率性が求められるので、小さな空間をランダムに配置して指向性を無くす。

そのランダムに配置された小さな空間が設えであり、壁になり、人の営みを反映し、それは、人の営みによって、空間の形の見え方が変わることを目指す。

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"Stacking of small spaces"

If the directionality of the space disappears, it can be made free from the scale of efficiency, and the space can be made more reflective of human activities. To that end, it is only necessary to randomly arrange the walls and installations that give rise to the directivity of the space, but I would like to pay attention to the size of the space as another method of eliminating the directivity of the space.

For example, if it is a small space where people cannot move around, the efficiency of human movement is not required, and the idea of ​​"traffic lines" is not necessary.

Then, there is an idea that the whole space is configured by stacking small spaces, but this time, the efficiency of small spaces is required, so the small spaces are randomly arranged to eliminate directivity.

The randomly placed small space is a setting, becomes a wall, and reflects the human activities, which aims to change the appearance of the space depending on the human activities.

無指向性の空間

空間に指向性が無くなれば、効率性から無縁になれる。

空間における指向性は壁と設えが生むので、無指向性の空間は、その指向性を生む設えと壁がランダムに配置されていれば、人の動きはあるが、そこに指向性は生まれないかもしれない。

要するに、空間に指向性が無くなれば、動線などという考えは無意味になり、故に、人の動きに関する効率性の尺度から無縁になる。

そうなれば、空間を構成する上での自由度が格段に増し、それをどう利用するかもプランニングの範疇、デザインの範疇だが、より人の営みを反映しやすくなる、それはクライアントの日常により添えることになる。

「生活動線」という考えがクライアントの日常を反映しているように、一見思えてしまうが、実際は人の動きを効率性で判断しているだけであり、日常の人の営みに添えているとは前から考えていなかった。

これで少しは日常をより扱えるようになるかと考えている。

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"Non-directional space"

If the directivity in the space is lost, efficiency can be eliminated.

Since directivity in space is created by walls and fixtures, in a non-directional space, if the fixtures and walls that produce the directivity are randomly arranged, there is human movement, but there is no directivity there. It may be.

In short, the idea of ​​a flow line becomes meaningless if the directionality of the space is lost, and therefore it becomes irrelevant from the efficiency measure regarding human movement.

If that happens, the degree of freedom in constructing the space will be greatly increased, and how to use it will be in the category of planning and design, but it will be easier to reflect human activities, which will be added to the daily life of the client. become.

Although it seems like the idea of ​​a "live activity line" reflects the daily life of the client, it actually only judges the movement of the person with efficiency, and is attached to the daily life of the person. I hadn't thought about it before.

I am thinking that this will allow me to handle my daily life a little more.

効率性を扱わない

人は移動するから「動線」という考えが生まれ、少しでも余分な動きが無いようにと、効率性が大事になる。

それは、クロード・パラン『斜めにのびる建築』によれば、斜めの移動でも、暗に効率性の良さを大事にしていて、逆に言えば、効率性の良さを求めた結果、斜めの移動が生まれた。だから、移動する方向を決めることは、そもそも効率性を求めることと同義である。

人の営みもまた、人が移動することで生まれる。でも、イメージとして、人の営みは効率性の良さが大事ということにはならない。もちろん、効率性が悪いよりは良い方がいいかもしれないが、それよりは、人の営みでは、豊かさや満足感といったことの方が大事で、効率性を大事にして、豊かさや満足感を損なうことは避けたい。

たぶん、効率は良くないが、その分、豊かさや満足感が得られますという説明ならば、納得してくれる人は多いだろう。ただ、豊かさや満足感といった言葉は抽象度が高いので、具体的な何かをもって、豊かさや満足感を表現しないといけない、それがデザインの範疇になるのだろうし、建築で言えば、プランニングで示すことだろう。

効率の良さを豊かさや満足感に変換して説明し、納得してもらうことはよくやる手法であり、誰でも行うだろうが、効率は良くないが、という時点で効率性を相手にしまっているから、たぶん、この文脈のままでは無理がある。

だから、そもそも、効率性を扱わない、ということは、移動する方向を決める必要が無いか、移動する方向を決めないことでプランニングを考えてみる。

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"Do not handle efficiency"

Since people move, the idea of ​​a "flow line" is born, and efficiency is important so that there is no extra movement.

According to Claude Palan's "Anti-Landing Architecture", even when moving diagonally, the efficiency of darkness is cherished, and conversely, as a result of seeking efficiency, diagonal movement is was born. Therefore, determining the direction of movement is synonymous with seeking efficiency in the first place.

Human activities are also born from the movement of people. However, as an image, efficiency is not important for human activities. Of course, it may be better to be better than to be less efficient, but it is more important to have richness and satisfaction in human activities. I want to avoid losing.

Probably, the efficiency is not good, but if you explain that you can get richness and satisfaction, there will be many people who agree. However, words such as richness and satisfaction are highly abstract, so we have to express richness and satisfaction with something concrete, and that will be the category of design. Will show.

It is a technique that is often done to explain efficiency by converting efficiency into richness and satisfaction, and anyone will do it, but it is not efficient, but at that point it is not efficient. Maybe it is impossible in this context.

So, in the first place, if you don't deal with efficiency, you need to decide on the direction of movement, or think about planning by not determining the direction of movement.

動線の呪縛

建築において「動線」とは、「家事動線」という言葉をクライアントが使うくらい、一般的な言葉であり、文字通り、人の動きを線として捉えて、様々な比較検討の材料になるものであるが、大体「動線」という言葉を使う時は、人の動きの効率性の良さが求められる。

建築空間に様々な設えを納めようとすると、建築全体の大きさには制限があるから、設えの納め方の効率性の良さが大事になってくる。だから、まさに「家事動線」という言葉は、設えを少しでも効率良くコンパクトにまとめるための判断材料になる。

だから、設計者側も効率性の良さやコンパクトであることが良いとして、それをクライアントへの説明材料にもする。

これは人の動きに関することだが、建築のプランニングには、この「動線」に象徴されるように効率性が重視される傾向があり、効率性が良いプラニングが、イコール良い建築とされる傾向が強い。

もちろん、効率が悪いよりは良い方が良いかもしれないが、建築が人の営みを形にしたものであるならば、それは人の営みに効率性を当てはめることになり、そこには何かと無理が生じ、結果的にうまく当てはめるために人の営みを歪めてしまうような気がするし、「動線」を考える時は常にその効率性の呪縛から逃れられず、自由な発想を阻害するおそれもある。

だから、既存の効率性の良さでは無い効率性の良さはないものかと、呪縛から解き放たれるために、いつも考えていて、それがデザインの発露にもなる。

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"Flow line curse"

In architecture, "traffic flow" is a general term that allows the client to use the word "housework flow line". It literally captures human movement as a line and is used as a material for various comparative studies. However, when using the term "flow line", good efficiency of human movement is required.

When trying to store various setups in an architectural space, the size of the entire building is limited, so the efficiency of how to store the setup is important. Therefore, the word "housework flow line" can be used as a basis for making the installations as compact and efficient as possible.

Therefore, the designers should also be efficient and compact, and use it as explanatory material to clients.

This is related to human movement, but there is a tendency for efficiency to be emphasized in the planning of architecture, as symbolized by this "flow line". Is strong.

Of course, better may be better than inefficient, but if architecture is in the shape of human activity, it will apply efficiency to human activity, and there is something unreasonable. As a result, I feel like distorting people's activities to fit them well, and when thinking about `` flow lines '', I can not always escape from the efficiency's curse, and there is a risk of hindering free thinking is there.

So, I always think about what is better than existing efficiency, so that I can be freed from the curse, and that's also the emergence of the design.

ある朝思ったこと

なんてことを考えていたら朝になった、できないこととできることを整理して、できることをして、できないことはできるように努力して、そんな、言うのは簡単だけどできない、自分の部屋を見ればわかる。

どうして自分が頑張らないと、部屋はいつも同じ、自分の気分に応えてくれないの。

それは当たり前か、部屋は人ではないから、でも、人でも自分の気分になんかに応えてくれるのか。

部屋は誰のものなの、誰のためにあるの、どこでも同じだけど、せめて、今だけは気分に応えて、そうすれば。

ものには頼りたくはないけれど、ものにしか頼れない時もある、それは正しい、健全、だから、そうして欲しいと思うのが本音。

きっと自分でつくれたら、こんなものはつくらない、絶対に。

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"What I thought one morning"

If you were thinking about it, in the morning, you could sort out what you can and cannot do, do what you can, try to do what you can't do, it's easy to say, but you can't say it. Understand.

If I don't do my best, the room is always the same, it doesn't respond to my feelings.

Is it natural, or the room is not a person, but can a person respond to his / her feelings?

Who the room belongs to, for whom it is, everywhere is the same, but at least now, just respond to your mood and do it.

I don't want to rely on things, but sometimes I can only rely on things. That's right and healthy, so I really want you to do it.

If you can make it yourself, you will never make such a thing.

朝の空間

いつもの代わり映えのしない部屋を眺めながら起きる、昨日と今日とで何も変わらないのに、気分はちがう、なのに自分以外は同じ、毎朝、同じ、どうして同じなのだろうか、今日はどんより曇った気分なのに、昨日の晴れやかな気分と同じことをしなくては、どうして自分の部屋なのに、気分に応えてくるないの。

苦手だから、できないのに、そんなにうまくいかないから、でも応えて、そうしたら、今日一日、もしかしたら、うまくごまかせるかも。

なのに、どこでも同じ、いつでも同じ、小綺麗だけど、友達が来たら、皆、羨ましがるけど、その時は気分いいけど、普段はつまらない。

自分でうまくできる人は羨ましいけれど、うまくできない人に救いはないの。

それが、それを、せめてはじめに考えてくれたら、少しはちがうのに。

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"Morning space"

Waking up while looking at a room that doesn't look normal, nothing changes between yesterday and today, but it feels different, but it's the same except for me, every morning, the same, why it's the same, today it's a little cloudy I have to do the same as yesterday's radiant feeling, why isn't my room responding to my mood?

I'm not good at it, so I can't do it, but it doesn't work so well.

However, it is the same everywhere, always the same, beautiful, but when friends come, everyone feels jealous, but at that time it feels good, but it is usually boring.

People who can do it themselves can be envied, but people who can't do it are not saved.

It would be a little different if you thought about it for the first time.

ある時の妄想

きっと今、無性に水が飲みたいのに、手前の壁に手を掛けてしまう、何でだろう、きっと、喉の渇きより癒したいことがそこにあるから、そこに行った時の気分を味わいたいから、そこでの気分に浸りたいから、そこにいると落ち着くから、それはその場所が居心地が良いから、それはその場所だけ、他にはまた別の良さがあるから。

今、無性に眠い、どこかに潜り込んで寝てしまいたい、どこかの穴蔵に入り込むように囲われた場所に、隙間でもいい、そこだけの場所の心地よさ、寝るとはそれを味わうため。

雨音がする、最初はかすかに、段々と強く。背中越しに感じるのは音以外、かすかな雨の匂いだけ。雨の日には大抵ここにいる、振り返りる、開ける、水滴がガラスに、やはり雨だと確かめて、また座る。

そういつも違う場面に遭遇する、同じ空間の中なのに、自分が動くから、自分に合わせて、壁は動かないが、形が変わる、そして、気分も変わる。

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"Delusion of a time"

I'm sure I want to drink water now, but I'll put my hand on the wall in front of me. What's the reason, I'm sure there is something I want to heal from thirst, so I want to taste the feeling when I went there Because I want to immerse myself there, I feel calm when I'm there, because it's a cozy place, it's just that place, and there are other good things.

Now, I sleeplessly, I want to sneak somewhere and sleep, in a place surrounded so as to enter somewhere in the warehouse, a gap is also possible, the comfort of that place, so that I can enjoy it when I sleep.

There is a sound of rain. All I feel over the back is the faint rainy scent except the sound. I usually stay here on a rainy day, look back, open, make sure water drops are still on the glass, and sit down again.

So I always encounter different scenes in the same space, but I move, so the wall doesn't move, but the shape changes and my mood changes.

今夜の妄想

寒い寒い、冷たい雨から逃れ玄関に飛び込む、すぐに手を温めたい、壁づたいに洗面所へ。

途中、階段に腰掛けパンツの裾拭く、気になるから、少し座りたかったから、見上げた窓に水滴、ここは空気が交差、寒いが見渡せる。

お湯の蒸気上がる、鏡曇る、眼鏡も曇った。いつも手洗う、ベンチシートに座る、顔洗う。しばらく動きたくない。

着替えるか、食べるか。着替えるから壁づたいに、眠い、疲れた、動きたくない、その場にくじれ落ち、ふわふわな上のもふもふに顔擦りつけ、壁見つめ、さっきとはちがう壁。

壁の隙間、棚に灯りともる。暖かそうな色が吸い寄せ、壁越え、開けた所にテーブル、手をつき辺りを見渡す、その場にあるのは美味しそうな匂いだけ、ただ、気分が安らぐから、ここにしよう。

振り返る、通った壁はみなちがう。これから通る壁もちがう。

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"Tonight's delusion"

Get out of the cold, cold rain, jump into the entrance, immediately warm your hands, go to the washroom to wall.

On the way, I sat down on the stairs and wiped the bottom of the pants, so I wanted to sit down a little, so water drops on the window I looked up, here the air crossed, overlooking the cold.

Steam of hot water rose, the mirror clouded, and the glasses clouded. Always wash your hands, sit on a bench seat, wash your face. I don't want to move for a while.

Change clothes or eat. I want to change the wall because I change clothes, sleepy, tired, I don't want to move, I get stuck on the spot, rub my face against the fluffy top, stare at the wall, a wall that is different from the previous one.

Lights on walls and shelves. The warm color sucks, crosses the wall, opens the table, looks around and looks around, only the delicious smell is there, but I feel relaxed here.

Looking back, the walls you pass through are different. Different walls will be passed.

今日の妄想

出入り口から入る、そうすると、行き先が分かれる、どこに進もうが構わない、好きな方へ気分で進めば良い。

気分の行き先にはちょうど良いスペースがある。そこで何をしようか、あるいは、そこで何かをするために来た。

そのスペースには設えがある。何かをするために必要なものは全て揃っているはず、揃っていなければ、別のスペースに移動すれば良い、必要な設えがあるスペースに。

途中途中で見渡す。全体を見通すことはできないが、その都度、見える形が変わる。ここまで気分で進んで来た、この後も気分で進む。

所々で外の景色が見えると気分が変わる。気分が変わった所で、また見渡すと、見える形が変わっていることに気がつく。

何かをするためにまた別のスペースに来た。ここには必要な設えが全て揃っていた。またここでも形が変わって見える。

ここにいると気分が安らぐから、ここにしよう。

ここまで、気分で、設えを渡り歩くために、壁づたいに来た。壁にはいろいろな装飾があるが、よく見ると全て違う。まるで気分で装飾を選んでいたら、ここに来たようだ。

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"Today's delusion"

Enter from the doorway, and then you will be divided into destinations, wherever you want to go, or just go ahead and feel like you want.

There is just the right space for feeling. I came here to do what to do there or to do something there.

There is a setting in that space. You should have everything you need to do something. If you don't have it, you can move to another space, where you have the necessary equipment.

Look around on the way. You can't see the whole thing, but the shape you see changes each time. I 've been feeling so far, and I 'll continue to feel better.

Feeling changes when you see the scenery outside. When you change your mood, and look around again, you will notice that the shape you see changes.

I came to another space to do something. It had all the necessary equipment here. Again, the shape appears to change.

I feel at ease here so let's go here.

So far, I've come to the wall to feel like I'm walking across the setting. There are various decorations on the wall, but if you look closely, everything is different. If you were choosing the decorations as if you were feeling, you seem to have come here.

ギャップを利用する

今までずっと当たり前のようにあったことと、自分の意識の中にずっとあったこととの間に、かなりのギャップ、すぐには埋められない溝があるとして、そうすると、その溝を埋めるための手立てを考えて、うまく調整しようと試みるか、自分の意識の中にあることを殺して、当たり前のことをするか、当たり前を無視して、自分の意識の中にあることだけを行うか、3パターンあるとして、どれが良いか悪いかはとりあえず置いておいて、一番面白そうだと思うのは、溝を埋めるための手立てを考えて調整することをもっと発展させたことだと思う。

当たり前のことと自分の意識の中にあることにギャップがあることはよくあることで、それを調整することが上手い人は、世渡り上手であったり、もしかしたら、仕事ができる人かもしれない。

ただ、調整してしまうのは、せっかく自分の意識の中に芽生えた、もしかしたら、それはとても素晴らしい大発見かもしれない可能性を摘むことになるかもしれないから、できることならば、調整しない選択肢も持ちたいと思う。

だから、ギャップをむしろ利用して、ただ、それをそのまま利用しては、自分の意識の中にあるものを生で出すようで、それは受け止める方も戸惑うだろうから、ギャップ自体を何か別のもので置き換えて、それ自体を話の骨子に据えて、物語を展開していくようなイメージで表現すれば、当たり前のことと、自分の意識の中にあることの双方の要素を含んだ何か、それが新たな表現なり、新たなことになると思う。

そして、そのギャップや、そのギャップ自体を置き換えたものは、ほんの些細なことで、特別なことでは無くても、それは日常的によく目にしていて、ただ意識しないと気がつかないことでも良くて、あとは物語の展開のさせ方しだいで、どうにでもなることだろうと予測している。

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"Use the gap"

There is a significant gap between what has been taken for granted and what has been in my consciousness, and there is a gap that cannot be filled immediately. Think about the tricks, try to adjust well, kill what is in your consciousness, do what you take for granted, ignore the obvious and just do what is in your consciousness, Assuming there are three patterns, let's leave which one is good or bad for the time being, and what seems to be the most interesting is that we have further developed to adjust the way to fill the gap.

There is often a gap between what is natural and what is in your consciousness, and those who are good at coordinating it may be world-class or maybe work.

However, the only thing that can be adjusted is that it has sprung up in my consciousness, maybe it can be a very great discovery, so if I can, I have the option of not adjusting it. I want to have it.

So, rather use the gap, but just using it as it is, it seems to produce something in your consciousness, and it will be confusing for those who take it. If you replace it with something and express it as an image that develops the story by setting itself as the gist of the story, what includes both elements that are natural and what is in your consciousness. I think that is a new expression and a new thing.

And the gap, or the one that replaced the gap itself, is a trivial thing, even if it is not special, it is often seen on a daily basis, and it can be noticed only by not being aware, After that, I predict that it will become a matter of course depending on how the story develops.

愛おしいもの

触っていて愛おしくなるもの、そのようなもので囲まれる生活がしたくて、そのようなものが無ければ、見つかるまで待って無いままで生活するか、自分でつくるか。

見つかるまで待つ場合は、別の言い方をすると、偶然の出会いによって、自分では気づいていなかったが、自分が前から愛おしいと感じる可能性があったものに気がつくことかもしれない。

自分でつくる場合は、自分が何を愛おしいと思っているのか、明確では無くても、ぼんやりとでもわかってはいて、でもそれが確実にこの世には存在しないから、自分でつくるしかない時である。

自分で手を掛けたものは何でも愛おしいかもしれないが、ただ、そこに精度を求めてしまう、それは自分が建築を生業としているから、ものづくりをしているから、中途半端なものでは心が動かないから。

だから、趣味でつくることは無く、自分でつくる場合も技術が一流の職人にお願いをする。そのような職人と接している時間もまた貴重で、新たな何か、新たな愛おしさに気づかせていただくことが多々ある。

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"Lovely things"

If you want to live a life surrounded by things that you will love by touching them, if you don't have such things, you can either live without waiting until you find them, or make your own.

If you wait until you find it, another way of saying it is that by chance meeting you might have noticed something that you hadn't noticed before, but that you might have loved before.

When you make it yourself, you know what you love, even if it's not clear or vaguely understood, but it certainly doesn't exist in this world, so you have to make it yourself It is.

You may love anything you have done yourself, but you just want accuracy, because you are building, you are making things, and you are halfway. Because it doesn't move.

That's why I don't make it as a hobby. The time spent in contact with such craftsmen is also valuable, and I often find myself aware of something new and new love.

装飾の価値

装飾というと、柄や色や形など、装飾的というと、それらの程度を表すが、その装飾自体、求められる装飾は時によって、時代によって変わる。だから、装飾の価値は相対的なものであり、絶対的に変わらずに永遠に同じ装飾が良いということは無いだろう。

ただし、そこに骨董的な価値、時代性の違いによる価値、それが古い新しいの価値判断では無いものが存在するならば、全ての装飾に価値があることになる。

時代性は、流行や社会からの要請などから判断されるから、相対的に判断される装飾の価値は、流行や社会が決めているとも言え、装飾を新しく生み出そうとする時は、その時代性が重要になってくるが、それでも突然、全く新しい装飾が出現することは無く、過去の古い装飾からの繋がりで少しずつ変化して、その変化の様は流行や社会と呼応する。それは今までの装飾の歴史を見れば明らかだろう。

だから、全ての装飾に価値があるとする骨董的な見方は、新しく装飾を生み出そうとする時には、とても参考になり、装飾の時代性による変化を予測することができ、また、その新しい装飾の時代や社会での受け入れられ方もコントロールしようと試みることができる。

しかし、現代建築における装飾では、この骨董的な見方が無く、常にその時代における新しい装飾を追い求める。

それは、現代建築の素となる近代建築が、簡単に言えば、装飾を否定するところからはじまっているので、装飾の時代的な連続性を認めずに、骨董的な見方を否定することになるだろうし、また、近現代建築が欧米由来だからであり、日本建築には、そもそも、そうした装飾の骨董的な見方は存在するので、現代建築が自国の建築、日本建築にまで範疇を広げて考察されるならば、また今とは違った装飾の在り様に出会えるかもしれない。

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"The value of decoration"

Ornamental, such as patterns, colors, shapes, and so on, expresses the degree of them, but the decoration itself, the required decoration, varies from time to time. So the value of decoration is relative, and it will never change and the same decoration will never be good.

However, if there is an antique value, a value due to a difference in age, or something that is not an old new value judgment, all decorations are worth it.

Since the period is judged from the fashion and social demands, it can be said that the value of the decoration, which is relatively judged, is determined by the fashion and society. However, suddenly no new decorations appear suddenly, and the connection from the old decorations changes little by little, and the changes correspond to trends and society. It will be clear from the history of decoration so far.

Therefore, the antique view that all decorations are valuable can be very helpful when trying to create new decorations, and can predict changes due to the age of the decorations, and the new era of decorations You can also try to control how it is accepted in society.

However, decorations in modern architecture do not have this antique view and always seek new decorations in that era.

That is, modern architecture, which is the basis of modern architecture, starts with denying decoration, so it rejects an antique view without adhering to the continuity of decoration. And because modern architecture is derived from Europe and the United States, there is an antique view of such decoration in the first place in Japanese architecture, so contemporary architecture expands its category to home and Japanese architecture. If you do, you may encounter a different way of decorating.

へり

空間の形を「人の営み」で直に決めたい、そのための方法論を考えていると「へり」が気になる。「縁」と言い換えてもよいが、「端」とか「先端」とか、そこにまず目がいく。

人が瞬時に認識をしたり、感じ取れる範囲は限られていると考えていて、それは小さなものでも、例えば、器でも、全体を見ることはできても、それで全てを把握できないと考えていて、それは建築ならば尚更で、全体を見通すことができないから、ただ、それは見る人の能力にも依存をすることだけれども、建築ならば、空間に入った瞬間に感じ取れることも大事だが、つくり手としては、ここを見てもらうと、ここを触ってもらうと、ここを感じ取ってもらうと、という所を用意して、少しでも作品の意図や作品に込めた想いなどをくみ取って欲しくて、それが、デザインと同義だったりする。

どれほど大きくても、どれほど小さくても、作品の良し悪しは「へり」で決まる。だから、「厚み」に興味が湧く。

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"Heri"

I want to decide the shape of the space directly with "people's activities". It may be paraphrased as "edge", but "edge" or "tip" is the first thing to see.

I think that the range that people can recognize and feel instantly is limited, even if it is small, for example, a vessel, I can see the whole, but I can not grasp everything, It is much more so if it is architecture, and it is impossible to see the whole thing. However, it depends on the ability of the viewer, but if it is architecture, it is important to feel it as soon as it enters the space. If you have a look here, touch here, get a feel here, prepare a place where you want to capture the intention of the work and the thoughts embedded in the work, Or synonymous with design.

No matter how big or how small, the quality of the work is determined by the "edge". Therefore, I am interested in "thickness".

人の営みで決める

建築は人との関係性の中でしか存在できないものだと考えているから、人の営み以外で空間の形を決めることに抵抗がある。

建築やインテリアなどの空間以外のデザインならば、人の営み自体がデザインのキッカケになるから、それが自然だが、建築もそうなるようにしたい。

建築に用途上の区分があるから、例えば、住宅や事務所、美術館など、その用途が人の営みを表していて、それがデザインのキッカケになるように思われるが、それもあるが、しかし、人の営みでは決まらない。

人の営みで決めていると思いがちだが、そこにはその前に、モジュールと言った構造的制約や、法規や予算と言った制限があり、それにまず従う、それをボリュームチェックと言う。

建築行為は事業である以上、それは仕方が無いが、それでも最終的には「人の営み」で直に決めたい、そのための方法論を考える。

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"Determine by human activities"

I think that architecture can only exist in relation to people, so there is resistance to determining the shape of the space other than human activities.

If it is a design other than a space such as architecture or interior, people's work itself will be a part of the design, so it is natural, but I want to make it so.

Because there is a division in use in architecture, for example, it seems that the use expresses people's activities such as houses, offices, museums, etc., but it seems to be a kick of design, but there are also, , It is not determined by human activities.

People tend to think that it is determined by human activities, but before that, there are structural restrictions such as modules, restrictions such as regulations and budgets, which are followed first, and this is called volume check.

Since building act is a business, it can't be helped, but in the end, we want to decide on a methodology for that purpose, which we want to decide directly on "human activities."

建築とフリーカップ

建築のデザインとフリーカップのデザインを同時に考えていると、明らかに違うことに気がつく。

フリーカップは手の中に納まり、そのデザインの全体性を瞬時に目にすることができ、手の中で自由に動かすことができるし、移動も簡単だから、他のフリーカップに替えることも簡単にできるし、自然と選択の自由がある。

今、輪島塗のフリーカップを制作中で、飲み口の厚みを変化させ、その日の気分で飲み口の位置を変えると、それに応じてフリーカップの形の見え方も変わる。気分がフリーカップの在り方を最終的に、直に、決めるように考えている。

しかし、建築はそうはいかない。建築は中に空隙があり、そこに入り込むから、そのデザインの全体性を瞬時に目にすることができない、建築の規模が大きくなればなるほど、余計無理である。そして、これが一番の違いだが、建築は動かすことができない、動かない。

だから、気分に応じて、そのままでは何も変わらない、変わったように錯覚させることはできるのだが、何かが気分に応じて変化して、見え方が変わる、そして、建築の在り方が変わるようにしたい。

それができてはじめて建築と人との関係性が成り立つと考えていて、建築は人との関係性の中でしか存在できないものだと考えているから。

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"Architecture and Free Cup"

If you think about the design of the architecture and the design of the free cup at the same time, you will notice a difference.

The free cup fits in your hand, you can see the completeness of the design instantly, you can move it freely in your hand, and it's easy to move, so you can easily switch to another free cup And you have the freedom to choose naturally.

Right now, if you are making a free cup of Wajima Lacquer, changing the thickness of the mouth and changing the position of the mouth according to the mood of the day, the appearance of the shape of the free cup will change accordingly. I am thinking that my mood will eventually and directly determine how the free cup should be.

But architecture doesn't. Since there is a void in the building and it gets into it, you cannot see the completeness of the design instantly. The larger the building, the more impossible it is. And this is the biggest difference, but architecture cannot move, it does not move.

So, depending on the mood, nothing will change as it is, you can make the illusion that it has changed, but something changes according to the mood, the appearance changes, and the way of architecture changes I want to.

I think that the relationship between architecture and people can be established only when it is possible, and that architecture can only exist in relationships with people.

物語と空間の形

物語が空間の形を描くことを考えている。

物語とは、日常の中での「人の営み」、あるいは「人の営み」から端を発したその人固有のもの、例えば、気分や感情や想いや習慣など、どちらかというと、形の情報が無く、形にしにくく、複雑で、捉え所が無いもの、人に纏わり付くものから紡ぎ出されたもの。

「暮らし」とは、そもそも、そのような物語が日常的に繰り返され、物語は意図しても、意図しなくても存在する。

その雑多な物語が空間の形を直に決めるようになれば、もう少し自由な「暮らし」ができるのではないか、空間の形に合わせるような「暮らし」は不自由だと考えているから。

ただ、建築は、空間は、形をつくる所からはじまるから、形の情報が無く、形にしにくいものは扱えない。だから、その雑多な物語を受け止める何かものが必要で、そのもので建築を、空間を、形づくれば良い。

そこまでは、頭の中でつながっていて、その受け止める何かは、壁の厚みの中に省スペース化して入れ込まれた設えであり、受け止め方は壁の厚みを選択することで、雑多な物語を受け止めることを簡略化し、空間の形として反映しやすくしているのだが、だから、ここで、あとは手を動かそうと考えるのだが、まだ、物語が空間の形を描き出す上で、物語の捉え方として何かが足りないような気がして、ここから先になかなか進まない。

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"Story and Space Shape"

The story is about drawing the shape of the space.

A story is a person's activities in daily life, or something unique to the person that originated from a person's activities, such as feelings, emotions, feelings, and habits. There is no information, it is difficult to shape, it is complicated, it doesn't have a catch point, and it is spun out of things that cling to people.

In the first place, "living" means that such a story is repeated on a daily basis, and the story exists whether it is intended or not.

If that miscellaneous story comes to determine the shape of the space directly, I think that a more free "living" can be achieved, or that "living" that matches the shape of the space is inconvenient.

However, since architecture begins with the place where the shape is created, there is no information about the shape, and it is difficult to handle things that are difficult to shape. Therefore, we need something to catch that miscellaneous story, and it is only necessary to shape architecture and space by itself.

Up to that point, it is connected in my head, and something that is received is a setup that is inserted into the wall thickness in a space-saving manner. It is easier to capture the story and reflect it as the shape of the space, so I'm thinking of moving my hands here, but the story still has to draw the shape of the space. I feel that something is missing as a way of catching, and I can't really go ahead from here.

空間の形を生み出す

「人の営み」そのもので、直に空間の形を決めていけばよい。

空間には形がある。建築空間は日常生活のアウトラインであり、アウトラインだけを取り出せば、形として認識できる。

日常生活とは「人の営み」がつくり出すもので、「人の営み」が反映されたものだとしたら、「人の営み」の形が空間と言える。

しかし、実際にはそうでは無い。空間の形は、法規や予算や建築の構造などの制限を元に決めており、「人の営み」をその中に入れ込むだけである。

あと、広い意味での数々の建築論も、空間の形を決める要因になるが、そこには「人の営み」は入らない、「人の営み」を別の言い方にすると「暮らし」、「暮らし」は建築論の外にある。

だから、「人の営み」や「暮らし」」とは別の要因で決められた空間の形では、日常生活とはマッチせずに、とても不自由な、引っ掛かりがある状況が生まれる。

ただ、「人の営み」や「暮らし」には直接、空間の形につながる情報、すなわち、形に直接つながる要因が無いから、「人の営み」や「暮らし」と空間の形を結びつける具体的なものが必要になってくる。

それが、「設え」だと考えている、「設え」がきっかけで人の営みが発生するのだから。空間の形を「設え」を備えることで生み出すのである。

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"Create a shape of space"

It is only necessary to determine the shape of the space directly with "human activities".

There is shape in space. Architectural space is an outline of daily life, and if only the outline is taken out, it can be recognized as a shape.

Everyday life is created by "people's activities", and if "people's activities" are reflected, the form of "people's activities" can be said to be a space.

However, this is not the case. The shape of the space is determined based on restrictions such as regulations, budgets, and architectural structures, and only "people's activities" are included in it.

In addition, many architectural theories in a broad sense also determine the shape of the space, but there is no "people's activities", and "people's activities" is another way of saying "living", " "Living" is outside the theory of architecture.

Therefore, in the form of the space determined by factors other than "people's activities" and "living", it does not match with daily life, and a very inconvenient and catching situation arises.

However, since there is no information that directly relates to the shape of space, that is, "people's activities" and "living", that is, there are no factors that directly relate to shapes, so the specifics that link "people's activities" and "living" with the shape of the space. Something is needed.

I think that is "setting", because "setting" triggers human activities. The shape of the space is created by providing "setting".

多様性の獲得

どうしても複雑で多様な状態をつくりたいとなる。

多様性の在り方はつくり手の数だけあるとは考えているけれど、できれば、使い手の数だけ多様性の在り方があるとしたい。この場合「使い手」を「受け手」と読み替えても良いだろう。

つくり手の数だけ多様性の在り方があれば、それは作品には無限のバリエーションが存在することになるかもしれないが、その作品の無限のバリエーションに対して、その作品の使い手のバリエーションが1つであると、それでは作品に多様性があるとは言えないのではないかと考えている。

どのように多様性を表現するかにもよるが、可変性とか、選択性によって、多様性を表現することもできるだろうが、それが使い手側に委ねられて、使い手側のバリエーションが増えてはじめて、作品の多様性が獲得できるように思う。

もちろん、バリエーションを増やすことだけが作品の多様性を獲得する手段ではないが、使い手側にとっては、割とそれがわかりやすい多様性で、わかりやすさは多様性を表現する場合には必須なことだと、そうでないと多様性が伝わらないと考えている。

だから、使い手側に端を発することで、作品の見え方なり、佇まいなりが変わり、それが使い手の数だけバリエーションがあるのがいいなと思う。

日常の中で、常に、使い手側が持つ多様性に端を発している方が良いが、では、使い手側が持つ日常の中の多様性とは何か、感情とか、心のあり様であったり、気分であったりなどか。

ただ、感情とか、心のあり様であったり、気分などは無形で、形につながる直接的な情報も持たないから、感情とか、心のあり様であったり、気分などを反映する多様性を用意しないといけない。

それが、建築の場合は「壁」だと考えている。

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"Acquisition of diversity"

I want to create a complex and diverse state.

I think that there are as many ways of diversity as there are creators, but if possible, I would say that there are as many ways of diversity as there are users. In this case, "user" may be read as "receiver".

If there are as many ways of diversity as there are creators, there may be infinite variations in the work, but there is one variation of the user of the work for the infinite variation of the work. If that is the case, then I think that the work may be diverse.

Depending on how the diversity is expressed, it may be possible to express diversity by variability or selectivity, but it is left to the user side and the variation on the user side increases. For the first time, I think I can acquire a variety of works.

Of course, increasing the number of variations is not the only way to acquire the diversity of the work, but for the user, it is relatively easy to understand, and it is indispensable to express diversity. Otherwise, we believe that diversity cannot be communicated.

So, starting from the user side, the way the work looks and looks changes, and I think there should be as many variations as there are users.

In daily life, it is always better to start with the diversity of the user side, but what is the daily diversity of the user side, emotions, Is it feeling?

However, since emotions, feelings, and moods are intangible and there is no direct information that leads to shapes, it is necessary to create a diversity that reflects feelings, feelings, and moods. I have to prepare.

In the case of architecture, it is considered a "wall".

共通の形

民藝の筆立付水滴と香水瓶の形が似ている不思議さ。

陶器の筆立付水滴は、鳥取民藝美術館に展示してある物で、その形のバランスの良さに一目惚れをしてしまった。その2日後、鳥取の倉吉にあるショップで偶然見つけたガラスの香水瓶、見た瞬間、陶器の筆立付水滴を思い出し、思わず購入してしまった。

ガラスの香水瓶は岡山の現代作家の物なので、民藝の筆立付水滴の形を参考にした可能性も全く無くは無いが、こうして写真で見比べてみると、細部は違うが、外形としての全体の印象は似ており、全体の大きさも同じくらいである。

この全体の大きさが同じくらいというのが良いというか、不思議だ。全体の大きさ、すなわち、スケール感はとても大事で、同じ形でも、全体の大きさが違うだけで全く別物に見える。時には、外形は良いけれど、全体の大きさがあと少し小さかったら良かったのに、あと少し大きかったら良かったのに、がある。

だから、外形が似ているだけでなく、全体の大きさも同じくらいということは、この外形には、この全体の大きさがしっくりくるということが、作者も違うし、素材も違うし、使用用途も違うけれど、共通認識として根底にあるということであり、それは、スケール感を含めた外形だけを取り出して、良し悪しを論ずることができるということで、それは、外形がある物全般に対して言えることである。

すなわち、作者も、素材も、使用用途も超えて、スケール感を含めた外形だけを、形だけを独立して論ずることができるということになる。

そして、その中には建築も含まれるだろう。

建築の場合は、スケール感を含めた形だけを論ずることはよくあることで、ただ、それは従来のお決まりの建築的表現の中ではよくあるということであり、この表現をしておけば、とりあえず、間違いは無いようなことがあるので、そこから少しでも離れるために、建築以外の形から、それもスケール感を含めた建築以外の形から、建築の形を概観してみようと昨今は考えている。

建築以外の形には、ここにあげた例のように、陶磁器やガラスの器なども含まれるが、洋服や小物なども含まれると考えている、それにもスケール感を含んだ外形があるから。

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"Common shape"

The wonder of the water drops with folk brushes and the shape of the perfume bottle are similar.

The water drops with pottery brushes are on display at the Tottori Folk Art Museum, and I fell in love with the balance of the shapes. Two days later, I remembered the glass perfume bottle I found by chance at a shop in Kurayoshi, Tottori, the moment I saw it, and the water drops with ceramic brushes, I bought it unintentionally.

Since the glass perfume bottle belongs to a contemporary artist in Okayama, there is no possibility of referring to the shape of water drops with folk songs. The overall impression of is similar and the overall size is about the same.

It is strange that the size of this whole should be the same. The overall size, that is, the sense of scale, is very important, even if the shape is the same. Sometimes the outer shape is good, but it would have been better if the overall size was a little smaller, but it would have been better if it was a little bigger.

So, not only the external shape is similar, but the overall size is also the same, the fact that this overall size fits perfectly, the author is different, the material is different, and the usage Although it is different, it means that it is fundamental as a common recognition, and that it is possible to take out only the outline including the sense of scale and discuss good or bad, and it can be said for all things with an outline That is.

In other words, it is possible to discuss only the shape, including the scale, independently of the author, the material, and the intended use.

And that would include architecture.

In the case of architecture, it is often the case that only the form including the sense of scale is discussed, but that is often the case in the traditional architectural expression. There are times when there is no mistake, so in order to get away from it as much as possible, I'm thinking about taking an overview of the form of architecture from a form other than architecture, and also from a form other than architecture including a sense of scale. ing.

Shapes other than architecture include ceramics and glassware, as in the example given here, but we think that clothes and accessories are also included. .

空間の形

日常の物語を形づくるのが、建築の設計であり、空間は日常の生活のアウトラインを描き出すと考えている。

空間にはそれだけの影響力があるだろう。

建築は内部に空隙とも呼べる空間があり、そこに人が入り込むことができるから建築となる。入り込んだ時に見える範囲で日常の生活が行われるから、建築の空間の範囲が、日常の生活の行動の範囲、すなわち、アウトラインとなる。

そのようなことは当たり前だが、アウトラインということは、それを形として認識することもできる。

日常の生活とは人の営みであるから、人の営みを形として認識することができ、それは、人の営みを形として表現できることでもある。

すなわち、空間を形として認識することができ、空間を形として表現できることでもある。

今まで空間を形として認識したことは無いかもしれない。形として認識するものは中身が詰まったものか、全体を俯瞰的に見ることができるもの、だから、建築を外から見た場合は、形として、それを審美的に見ることになるが、入り込んだ空隙の中で、その空隙を、その空間を、形として、審美的に見ることは無かったし、そもそも、そのような視点は無かった。

だから、空間を形として意識してみると、そして、その形が人の営みだと考えてみると、床、壁、天井の面としての境界のあり方や存在の仕方が、今までとは違う意味合いで見え、随分と、不自由な形の中に人は押し込められて日常の生活を送っているのではないか、などと考えてしまう。

ただ、それは当たり前のことで、空間の形は、人の営みがまず先にあって、それを元に決めているように見えて、ほとんどの場合は、人の営みとは関係が無い、法規や予算や建築の構造などの制限を元に決めているのである。

そうなると、今まで空間の形を決めてきた要因以外のもので、空間の形を決めていけば、この不自由な形から抜け出すことができる、それも、「人の営み」そのもので、直に空間の形を決めていけばよい。

ただ、「人の営み」ではあまりにも抽象的であり、それをそのまま空間の形の決定要因にすると、それは言葉上のレトリックを使い、これが「人の営み」から直に生まれた空間ですなどと、どうにでも言葉で補完できてしまうものにしかならないから、「人の営み」をもっと建築的に、ただ、従来のお決まりの建築的表現ではないもので、具体的にもっと限定した表現にしていく必要があり、それがつくり手独自の表現にもなる。

なので、ずっと人の「気分」に焦点を当てて、空間の形を考察している。

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"Shape of space"

It is architectural design that forms everyday stories, and space is considered to outline daily life.

Space will have that much influence.

Architecture has a space that can be called a void inside, and people can enter it. Since everyday life is performed in the range that can be seen when entering, the range of the space of the architecture becomes the range of behavior of daily life, that is, the outline.

That's natural, but an outline can be recognized as a shape.

Since everyday life is human activity, we can recognize human activity as a form, and it can also express human activity as a form.

In other words, space can be recognized as a shape, and space can be expressed as a shape.

You may not have ever recognized space as a shape. What is recognized as a shape is something that is packed or can be seen from a bird's-eye view, so if you look at the architecture from the outside, you will see it aesthetically as a shape, but get in However, in the gap, the gap, the space, and the shape were not seen aesthetically, and there was no such viewpoint in the first place.

So, when you think about space as a form, and think that form is a human activity, the way of boundary and presence of floors, walls, and ceilings is different from the past It looks like a meaning, and I think that people are forced into a crippled shape and lead their daily lives.

However, it is natural, and the shape of the space seems to be determined based on human activities first, and in most cases it is not related to human activities. It is determined based on restrictions such as budget and construction structure.

Then, if you decide on the shape of the space with factors other than the factors that have determined the shape of the space so far, you can get out of this inconvenient shape. You just have to decide the shape of the space.

However, it is too abstract in "people's activities", and if it is used as a determinant of the shape of the space as it is, it uses a verbal rhetoric and this is a space that was born directly from "people's activities". Because it can only be supplemented with words, the "people's work" is more architecturally, but it is not a traditional architectural expression, but a more specific expression. It is necessary to go and it becomes the original expression of the creator.

So, I have been focusing on the "feeling" of people and studying the shape of space.

矛盾が成り立つ精度

精度を高めると矛盾したことができるようになる。

厚いけど薄い、太いけど細い、丈夫だけど儚いなど、ものとして実現しようとすると、一見矛盾していて不可能なように思うが、技術があり、意識を高め、ものの精度を上げて高めていくと、実現可能になる。

例えば、「厚いけど薄い」ならば、もの自体の厚みを厚くしても、先端の処理で厚みを絞るように、先端の形状を尖らせるようにすれば、薄く見えるのだが、それだけでも高い技術が必要だが、作者に薄く見せよう、そうすれば、作品全体の形のバランスが良くなるなどの、形に対する意識の高さも問われ、ただ単に厚みを絞り、先端を尖らせれば良いという訳では無い。

「太いけど細い」「丈夫だけど儚い」も同様で、簡単に言うと、先端などの端部の処理をどうするか、端部の形状の精度が重要になる。

仮に端部の形状が良くても、精度が悪いと台無しになってしまう。折角、もの自体の全体の形が良くなる端部の形状ができても、精度が悪いと、形にバラツキが出て、もの自体の全体の形のバランスが崩れ、かえって悪く見える。

わざと精度を落とし、バラツキを見せて、それを作品ですと言う場合もあるが、それは意図してバラツキを出した場合と、精度が悪くてバラツキが出た場合とでは全く異なり、それを行うならば、意図して精度良くバラツキを出さないと、ただ単に下手にしか見えない。これも一見矛盾することだが、精度の高さがあってはじめて、ものとしてバラツキを良く見せることができるのである。

だから、いずれにせよ、精度の高さはものづくりの基本だと考えているのだが、案外、これが一番疎かにしやすいことで、ある程度技術や意識が高いと、小手先で誤魔化す事ができてしまうので、それも精度良く誤魔化すことができてしまうから、気をつけないと、いつの間にか精度が落ちることがあり、それは後から振り返らないと気がつかなかったりするから、余計に、今の精度の高さが大事になる。

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"Accuracy to ensure contradiction"

Increasing accuracy allows you to do contradictions.

If you try to realize it as thick, thin, thick but thin, strong but ugly, it seems contradictory at first glance. Become feasible.

For example, if it is "thick but thin", even if the thickness of the object itself is increased, it looks thin if the shape of the tip is sharpened so that the thickness is reduced by processing the tip, but that alone is a high technology Although it is necessary to show it thin to the author, so that the balance of the shape of the whole work is improved, the height of the consciousness to the shape is also questioned, so it is not necessary to just narrow the thickness and sharpen the tip No.

The same applies to "thick but thin" and "durable but ugly". To put it simply, the accuracy of the shape of the end is important, as to how to treat the end such as the tip.

Even if the shape of the end portion is good, it will be ruined if the accuracy is low. Even if the shape of the end that makes the overall shape of the object itself is improved, if the accuracy is poor, the shape will vary, and the balance of the entire shape of the object will be lost, and it will appear worse.

You may deliberately reduce accuracy, show variation, and say that it is a work, but that is completely different from intentional variation and poor accuracy and variation, if you do it For example, if you do not intentionally produce a precise variation, you can only see it. At first glance, this is a contradiction, but only when there is a high degree of accuracy can it show a good variation.

So, in any case, I think that high accuracy is the basis of manufacturing, but unexpectedly, this is the most easy to neglect, so if you have a certain level of technology and consciousness, you can be deceived by your hands. , It can also be accurately deceived, so if you are not careful, the accuracy may drop without notice, and you will not notice it unless you look back later. It will be important.

精度が手掛かり

省スペース化する時の手掛かりは精度である。

人と建築の関係性をより単純で簡素にし、より密にするために設えを省スペース化し、壁の厚みの中に納めてしまえば、それは飛行機のトイレのように、匿名性が生まれ、設えの差異が壁の厚みだけになり、人は壁の厚みを選べば、それも気分次第で選べば、日常の営みがはじまる。

すなわち、それは「壁の厚み」を通して、人と建築の関係性がより直になり、また、日常の営みとより直結するので、より人と建築の関係性が濃密になる。

ただ、単に設えを小さくし、壁の厚みの中に納めれば良いという訳では無くて、狭いのと省スペースは違う。

飛行機のトイレを思い浮かべると、狭くてもその狭さを感じことは案外少ないが、実際はとても狭く、しかし、その狭さを感じないことが、そこでの営みの快適性につながる。

ではなぜ、その狭さを感じないか、それは限られたスペースの中で、余計なものが存在せず、適切な場所に適切なものが精度よく納められていて、そこでの営みが疎外されずに快適で、特に何も意識しないでも、普段通りの営みを送ることができるから。

だから、精度ほど、日常の営みに直結し、快適性につながるものはない。

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"Accuracy is a clue"

The key to saving space is accuracy.

To make the relationship between people and architecture simpler, simpler, and more dense, save space and fit it in the wall thickness, it becomes anonymity, like an airplane toilet. The difference is only the thickness of the wall, and if a person chooses the thickness of the wall, it also depends on the mood, and everyday activities begin.

In other words, through "thickness of the wall", the relationship between people and architecture becomes more straightforward, and since it is more directly linked to daily activities, the relationship between people and architecture becomes more dense.

However, it does not mean that it is only necessary to reduce the size of the installation and fit it within the wall thickness.

When you think of an airplane toilet, it is surprisingly rare to feel the narrowness of a plane, but in fact it is very narrow, but not feeling the narrowness leads to the comfort of operation there.

So why don't you feel the narrowness of it? There is no extra space in a limited space, and the right things are accurately stored in the right places, and the activities there are not excluded. Because it is comfortable and you can send your daily work without being conscious of anything.

Therefore, there is nothing that is directly related to daily activities and leads to comfort as much as accuracy.

精度が大事

ものを選ぶ時の決めては精度になる。「もの」には食べ物も含まれるし、建築以外のインテリアも、「もの」と付くもの全ての最初の判断基準になる。

精度には2つのことが反映されていると考えている。ひとつは技術の高さ、もうひとつはつくり手の真面目さ。

そもそもの技術が低ければ、精度が落ちるだけでなく、どのように見た目を繕っても、デザインをセンスよく施しても、大したものはつくれない。

そして、こちらの方が大事かもしれないが、どんなに技術が高くても、真面目さがないと、良いものを作り続けていくことができない。

人の能力には差があるが、その能力は点では無くて、ある程度の幅があり、その時の条件や環境によって、1回であれば、1発であれば、能力差を凌駕できる結果を出すことができる。

ただ、本当に良いものは1発では無く、常に良い。

何も無い所から立ち上げる時、実績も何も無いから、自分ができる最大限のことをして、結果を出し続けないと、次が無い、その時はそのようなことを考える余裕が無いかもしれないし、ただ無我夢中なのかもしれないし、計算できないかもしれないが、その後ある程度の余裕ができると、評価されると、自分は何も変えていないつもりで、むしろ向上心は何も変わらないと考えているのに、側から見ると、大事なところを蔑ろにしていると判断される。

案外それは正しかったりするから困る、本人には自覚が無いし、自覚ができないから、余計に困る、ただ、そもそも、技術があり、真面目であれば問題は無いのだが。

最近、ここ何日間で、両極端の経験をした。自分のことも重ね合わせて考えると、とても恐い。

ずっと同じでもダメ、かと言って、変え過ぎてもダメ、それまでの良さを残して、進化する、言葉で言うのは簡単だが、それが難しくて、それができない。

ならば、人がどうなるのか、どう経過していくのかを観察することによってしか、今の自分を的確に判断することができないかもしれないと、そのために2年に一度、鳥取に来て、謙虚になろうとつとめるのだが。

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"Accuracy is important"

Deciding when choosing a thing is precision. "Things" include food, and interiors other than architecture are the first criteria for all things that have "things" attached.

I believe that the accuracy reflects two things. One is high technology, and the other is the seriousness of the manufacturer.

In the first place, if the technology is low, not only will the accuracy be reduced, but even if the appearance is modified and the design is applied with a sense, a great deal cannot be made.

And this may be more important, but no matter how sophisticated it is, you can't continue to make good things without seriousness.

Although there is a difference in human ability, the ability is not a point, but there is a certain range, depending on the conditions and environment at that time, if it is one time, if it is one shot, the result can surpass the ability difference Can be put out.

However, what is really good is not always one, but it is always good.

When starting up from a place where there is nothing, there is no track record, so if you do as much as you can and do not continue to produce results, there is no next, you may not be able to think about such things It may not be, it may just be selfish, it may not be able to calculate, but if it is evaluated that it can afford to some extent after that, I am not going to change anything, rather the improvement will not change anything Even though I am thinking, from the side, it is judged that I am neglecting important points.

Unexpectedly, it is troublesome because it is correct, the person himself has no awareness and cannot be aware of it, so it is troublesome, but there is no problem if the technology is serious and serious.

In recent days, I have experienced both extremes. It's very scary when you think about yourself.

It 's easy to say in words, but it 's difficult, you ca n't do that.

Then, only by observing what the person will be and how it will progress, I may be able to judge myself accurately now, so I come to Tottori once every two years and be humble I will try to become.

日常生活が豊か

設えを省スペース化することにより、匿名性が生まれ、設えの差異が壁の厚みだけになった時、人と建築の関係性がより単純で簡素になるが、より密になる。

壁の厚みの中に設えを全て納めてしまえば良い、そのために省スペース化をして、そうすると、壁の厚みだけが設えの区分を表現するようになり、人は壁の厚みだけで設えを判断するようになる。

そうなると、人と建築の関係性は、壁の厚みのみでつがることになるから、人と建築の関係性がより単純な仕組みになり、より簡素化され、誰でも、万人にわかりやすく、受け入れやすくなりつつ、気分で壁の厚みを選択するようにもなることから、気分というより複雑なことが単純な仕組みの中で、建築として扱えるようになり、気分という複雑で雑多なことが、よりそのまま、複雑なままで、建築を通して、日常生活の中で表現され、それが日常生活の豊かさになる。

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"Enriching everyday life"

By saving space in the setting, anonymity is born, and when the only difference in setting is the wall thickness, the relationship between people and architecture becomes simpler and simpler, but more dense.

It is only necessary to store all the setups in the wall thickness. For this reason, space is saved, and only the thickness of the wall expresses the setup classification. Come to judge.

In that case, the relationship between people and architecture is linked only by the thickness of the wall, so the relationship between people and architecture becomes a simpler mechanism, is simplified, and anyone can understand and accept. Since it becomes easier to select the wall thickness according to the mood, it becomes possible to handle more complicated things like mood as architecture in a simple mechanism, more complicated and miscellaneous things like mood, As it is, it remains complex and is expressed in daily life through architecture, and it becomes the richness of daily life.

暮らしの中の匿名性

壁の厚みの見せ方を考えていて、省スペース化が壁の厚みの中に設えを閉じ込め、余地、余白をつくり、壁の厚みに変化を与えるのではないかと、飛行機に乗りボーッとしながら考えていた。

設えを省スペースにすれば、当然、壁の厚みの中に納まりやすいが、ただ単にスペースを省くだけだと、それが壁の厚みの中である必要が無い。

飛行機でトイレを探す時、とりあえず、近くの壁の出っ張りを目指して進む。大概、そこには何かが仕込まれており、何かの機能がある、ただ、それが何かはなかなかわからない、わからないようになっているように思う、少なくとも日常生活の中でのわかりやすさとは違う。

だから、目安は「壁」で、その壁の大きさ、厚みである、それ以外に手掛かりが無いから、それは壁の見え方の違いであり、そして、同じ機能が分散して壁の厚みの中に仕込まれていたら、飛行機ではトイレは複数あるので、その時の気分で選択することも可能だろう。

省スペース化することにより、何の機能だかわからない匿名性が生まれ、壁の見え方だけが頼りとなり、気分によって壁を選択していくことで「暮らし」が成り立つのも面白いかもしれない。

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"Anonymity in life"

Thinking about how to show the thickness of the wall, thinking that space saving will confine the setting within the thickness of the wall, create room and margins, and change the thickness of the wall while riding on an airplane It was.

If the installation is made space-saving, it will naturally fit within the wall thickness, but if the space is simply omitted, it need not be in the wall thickness.

When searching for a toilet on an airplane, for the time being, aim for a bulge on a nearby wall. Generally, there is something built in and there is a function, but I don't know what it is, I don't know what it is, at least how easy it is to understand in daily life Wrong.

Therefore, the standard is "wall", which is the size and thickness of the wall, and there are no other clues. That is the difference in the appearance of the wall. If you are in charge, there are multiple toilets on an airplane, so you can choose according to your mood.

By saving space, anonymity that does not know what function is born, it depends only on the appearance of the wall, it may be interesting that "living" is realized by selecting the wall according to the mood.

飽きさせない

どんなに美味しいものを食べていても、毎回同じだと飽きる。それが飛び切り上等でも飽きる。だから、つくる側は飽きさせない工夫というか、人の味覚の特性まで熟知してつくるのだろう。

それは単に美味しいものをつくれば良いという訳では無いのだろう、それ自体も難しいのだが、人の味覚の特性まで意識が及ぶかどうかも能力のうち、味のうちという訳か。

それは他のものづくりでも同じ。かっちり、きっちりと決められていて、それはそれで、とてもハイクオリティであり、誰も真似できないが飽きる。

よく良いものをつくれば必ず評価されるというのがあるが、確かにその通りだが、しかし、本当に良いものは飽きられない、風化しない、むしろ、時が経つほど評価が上がる、だから、飽きられる時点で、本当に良いものでは無い。

その差はどこにあるのだろうか。

それは毎回同じでは無いということ、日々変化しているということ、だから、同じように見えても同じでは無く、常に新しいものが目の前にある、だから、飽きられない、ただし、受け取る側は同じに見える。

同じに見えるけれど新しい、この一見矛盾するようなことをやり続けるのがものづくりで、同じと新しいの間にある一致しない、ねじれている、そのおかげで隙間ができる、その隙間と呼べる位の何ともかっちり、きっちりと定まらない部分が飽きさせない部分になる。

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"Do not get bored"

No matter how delicious you eat, you get tired of being the same every time. I get bored even when it jumps up. Therefore, the side of the creation will be a device that will not get bored, or it will be made with familiarity with the characteristics of human taste.

It may not be just to make delicious food, but it is difficult in itself, but whether the consciousness reaches the characteristics of human taste is also a part of the ability.

The same applies to other manufacturing. It is tight and well defined, so it is very high quality and no one can imitate, but you get bored.

It is said that if you make a good one, it will always be evaluated, but that's certainly true, but you can't get tired of it, it won't weather, rather, the evaluation goes up over time, so when you get bored It's not really good.

Where is the difference?

It is not the same every time, it is changing every day, so even if it looks the same, it is not the same, there is always a new thing in front of you, so you can not get bored, but the receiving side is the same Looks like.

It seems to be the same, but it is manufacturing that keeps doing this new and seemingly contradictory thing, it is inconsistent and twisted between the same and new, and thanks to that, there is a gap, it is something that can be called the gap The part which is not fixed exactly becomes the part which does not get tired.

本当に複雑なもの

本当に複雑なものは、それ自体が複雑ではなくて、複雑なことを受け止めて、複雑なままに応答するもので、応答する時に複雑だと認識される。

それ自体が複雑なものは、そういうデザインで、そういうものとしか受け止められず、単にたくさんのものを見せる見本市になってしまう。

だから、本当に複雑なものは、一見して、複雑に見えないかもしれない。

そして、本当に複雑なものは、余地や余白を含んでいる。応答する時にキツキツのみちみちだと、一塊りに見え、複雑さに欠ける。

適度に余地、余白を含んでおり、そのおかげで複雑なものだと認識される。

それは日本人が得意とするところだ。

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"Really complex"

Really complex is not complex in itself, it accepts complex things and responds in a complex manner, and is recognized as complex when responding.

Things that are complex in themselves are such a design and can only be taken as such, and it becomes a trade show that simply shows many things.

So something that is really complex may not seem complicated at first glance.

And really complicated things include room and margins. When you respond, it looks like a lump and lacks in complexity.

It has a moderate amount of room and margins, which makes it perceived as complicated.

That is what Japanese people are good at.

手を動かさず

連続的に変化する壁の厚みの中に全ての設えが入り込む様子をずっと考えている、頭の中で創造して、どういうイメージが可能かを探っている。

手を動かさないのは、手を動かした瞬間からまとめに入るから。そもそも手を動かしてスケッチをする目的は、現状のイメージを留め、それを元に結論に向かって収束させる作業をすることだから、手を動かしはじめたら、手を動かす直前のイメージのクオリティを超えることができない。

要するに、まだまだ手を動かすには不十分だから、いや、今すぐにでもまとめろと言われれば、形にすることはいつでも可能だが、締切りがあるにせよ、そのような中途半端なことをするために設計をしている訳ではないから、まだ考える。

ぼんやりとこんな感じはあるのだが、そこにうまい具合にイメージがはまらない。きっと何かのキッカケで、いつもそうだが、一気に雪崩をうったようにイメージが広がるとは思うのだが、その直前にいるような気がするのだが。

「森」の中に設えがあるイメージが浮かんでいて、それがもっと建築的に具体的なイメージにならないかとも考えながら、他のことも同時に浮かんでは消えて携帯にメモする。

普通に、日常生活の中で、暮らしの中で起こり得る出来事との相関関係が馴染むように感じられたならば、そうイメージできると感じたならば、手を動かそうかと、手を動かしたいとは考えているのだが。

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"Do not move your hands"

I'm always thinking about how all the equipment gets into the continuously changing wall thickness. I'm exploring what I can imagine by creating in my head.

The reason why I don't move my hand is that I'll start from the moment I move my hand. In the first place, the purpose of sketching by moving the hand is to keep the current image and to converge toward the conclusion based on it, so if you start moving your hand, exceed the quality of the image just before moving your hand I can't.

In short, it is still not enough to move your hands, no, if you are told to put it together now, you can always make it into shape, but to do such a halfway thing, even if there is a deadline I'm still thinking because I'm not designing.

There is a feeling like this, but there is no good image. I'm sure it's always like something, but I think the image will spread like an avalanche at a stretch, but I feel like I'm just before that.

While thinking about whether there is an image in the "forest" that could become a more architecturally specific image, other things will also disappear at the same time and take notes on your phone.

Ordinarily, if you feel that the correlation with events that can occur in your daily life is familiar, if you feel that you can imagine that, you want to move your hand Is thinking.

作者により違う

連続的に変化する壁の厚みの中に全ての設えが入り込むとしたら、その壁の厚みの変化の度合い自体が暮らしそのものを反映するようになるし、壁の厚みを連続的に変化させるためには自然発生的に、そこに、余地や余白を生み出す。

設えが密集していれば、壁の厚みの変化は激しく、それは暮らしの営みの密度が濃いことになるし、それはより私的な空間であることを表現している。だから、人はリラックスして余地や余白に気分を投影しやすいし、そうすると、人はそこに独自の物語を紡ぎ出す。

建築と人の関係性を考える時、そこに、誰にも理解されはしないが、その人独自の物語が必ず存在するようになると考えている。

そして、その物語の方向性を意図的に導くようにするのが建築のデザインであり、だから、その建築の作者の表現としてのデザインは人によって違い、そこには合う合わない、好き嫌いが存在するようになる。

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"Varies by author"

If all installations enter into the continuously changing wall thickness, the degree of change in the wall thickness will reflect the living itself, and the wall thickness will change continuously. Spontaneously creates space and margins there.

If the installation is dense, the change in the wall thickness will be drastic, which means that the living activities are denser and it represents a more private space. So people can relax and easily project their mood in the room and margins, and then people spin their own stories there.

When thinking about the relationship between architecture and people, no one understands it, but I believe that there will always be a story unique to that person.

And it is the design of the architecture that deliberately guides the direction of the story, so the design as the expression of the author of the architecture varies from person to person, and there are likes and dislikes that do not fit there It becomes like this.

複雑で簡素

壁の厚みの違いを選択することによって、建築の見え方が変わり、そこに余地、余白が生まれる。設えの違いが壁の厚みの違いを生み、選択は気分によってなされて、余地、余白はその時に物語を生み出すかもしれない。

人が連続した壁を身に纏うように暮らしていると考えている。壁との距離感は心理的作用により、気分を介して決まる。

壁だけで、床と天井、屋根は空間を整える存在となると、スキップフロアなどの段差や、意図的に天井高さを低くするなど必要が無く、壁の連続性だけを考えればよいから、より簡素でシンプルになり、そこに設えによる厚みの要素のみを加えればよい。

建築を形成してまとめて表現する手順を簡素化し、複雑で雑多なものはそのままに、壁の厚みに還元して抽象化することによって、複雑で雑多なことと、簡素でシンプルなことが、一見矛盾するが、同時に存在する状態をつくり出したいと考えている。