枠外へ

何かを思いつきたいとき、ストレートな問いかけでは、当たり前のこと、今までの延長線の答えしかでてこない。ストレートな問いかけでは決められている枠からはみ出ることができない。きっとその枠のことをいわゆる〈バカの壁〉と呼ぶのだろう。

その枠の外側へ行きたい。枠は強固だが、枠の中にいると意識できれば、枠の外へは行けるだろう。一番困るのは、枠の中にいるということに気がつかないときにどうするか。案外かんたんに枠を忘れてしまう。

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モノ間のつながりは多量

たくさんのモノを寄せ集めてきたら、それを分類するなり、共通点を見つけるなどして、その集まった状態をデザインしようとするだろう。何らかの関係性を見つけて、つながるように配置しようと考えるのも同じである。ただ、そのように全体を俯瞰してデザインすることは、大多数の人が考えることでもあるだろう。

個々のモノ間のつながりだけを考えてみる。全体を俯瞰する場合より、つながりは多量になる。この量の多さがつながりだけを抜き出して扱うことを担保してくれて、モノと同等に扱うことを許す。

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軽い球

玉突きのように、ひとつ見えると、また次のものが見えるようになる。何かを習得することは、そういうことの繰り返しなのだろう。案外、最初は軽い球を使った方が突きやすいから回数がこなせる。回数をこなせれば、次々見えてくるから、悪いところも当然たくさん見えるが、回数をこなして克服もできる。

重い球は威力があるが、扱いづらく回数がこなせない。だから、上達してから使う方がいい。球を他のものに例えれば、何にでも応用が効く。

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枠の中にいる

決められた枠の中だけでかんがえていると、その枠の中がすべてだとおもってしまう。そういうときは枠自体を意識できていないので、必ず何かしらの枠の中にはいるとおもえれば、枠の外に目を向けることができる。

枠の外には、今まで実行できていないことが広がっているかもしれない。そうかんがえれば、枠を設定したら窮屈かもしれないと躊躇しなくなるだろう。

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イメージか言葉か

イメージと言葉が別々に出てくる。イメージは今まで見聞きしたものの延長でしか出てこないと思う。一方、言葉も単体では今まで見聞きしたものの延長でしか出てこないかもしれないが、いろいろ組み合わせたり、組み合わせた言葉をヒントに他の言葉をまた生み出すことができるように思う。

では、イメージも組み合わせやヒントにして、他のイメージを生み出せるのか。こうして文章にすると、生み出せそうな気がするが、実際は言葉より難しいような気がする。それだけイメージが持つ力が言葉より強いのかもしれない。やはり、最終的にはどのようなイメージを築けるかが重要になるのだろう。

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偶然とつながりの枠の外

いくつか同時にモノがあるときに、どうしてそこにあるのかを考えてみることに興味が湧く。偶然といえば、そうなので、今度は偶然性に興味が湧く。九鬼周造の『偶然性の問題』をポチッとしてみた。

あと、同時にいくつかあるということは、ひとつひとつが周りから独立している。独立していることは、別の見方をすれば、つながりが切断している、ともいえる。やはり、オブジェクト指向存在論が頭に思い浮かぶ。

偶然性と切断、この2つをつなげる何かを考えたら、面白そうな展開がありそうで、ただ、誰かがすでに考えているだろうから、もう少し枠を狭めて、限定した中で考えてみる。そうすると、その枠から外れたモノも取り込めるようなコトをしてみたくなる。

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不公平なくらいに

すべてのモノを等価に扱うことで、全体像を余すところなく浮かび上らせようとすることは、とても平等で、誰にでもわかりやすく、誰にでも受け入れやすいモノがつくれるような気がした。モノを受けとる側にもいろいろな感じ方や知性があるので、何かを重用すると、受け取れない人が出てくるかもしれない。

ただ、それとつくらたモノの良し悪しは別のような気がする。すべてのモノを等価に扱っていては、ちがいはモノの差異だけになり、扱うモノそのものを取捨選択する必要がなくなり、モノ全体のクオリティが下がるとおもう。むしろ、扱うモノは不公平なくらいに厳選し、それでもどれだけ多くの人が受け取れるかを考えた方がおもしろいそうだ。

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塊でバラバラ

ひとつの塊であり、かつ、バラバラでもある。そのようなことがあり得るとしたら、理想的な関係かもしれない。例えば、社会として全体性がありながら、個人がバラバラに存在しイキイキとしているようなことになる。

ひとつの塊は、形としての塊もあるが、関係性としての塊もある。どちらかというと、関係性としての塊が構築できれば、バラバラも同時に成り立つことは可能のような気がする。

関係性としてひとつになるには、お互いに越境しうるような部分を持ちながら、ただ、バラバラでもいられるには、絶対に交わらない部分も必要になる。バラバラであることは、この絶対に交わらない部分のつくり方しだいで決まるとおもう。

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小さな集まり方から

大きな塊を小さなものに分割することと、小さなものを集めて大きな塊にすることは、両方とも、大きな塊が存在するが、その様はきっと同じにはならないだろう。

大きな塊を分割する場合は、全体的なルールが必要になる。最初に総量が決まっているから、ちょうど良く分割できるようにルールをつくるだろう。

一方、小さなものははじめから存在しているので、ちょうど良く集めて塊にするために、小さなもの同士の集まり方にルールをつくるだろう。

前者は建築ではよくあるパターンで、後者は建築ではなかなか採用しない。建築では大きな塊から小さい物へいく流れで設計される。小さなもの同士の集まり方から設計しても面白いかもしれない。

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つながりが生む

つながり自体が新たなに生まれるには3通りある。つながり自体をつくる、つながり自体を選ぶ、そして、元々あるつながりを変える。この中で、一番容易そうなものから手をつけてみる。それは、元々あるつながりを変える、だろう。

一番容易そうなものから手をつけるのは、容易だから短時間で量をこなすことができ、量をこなせば、つながり自体をつくる、選ぶ場合の結果も必然的に含むことになるだろうから、と考えた。

元々あるつながりをその場に合わせて変えていく。その過程で新たなつながりが生まれる。生まれたつながりは新旧のハイブリッドで、他では生まれないものになる可能性は高い。

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失敗をつくる

意図的にやると、やり過ぎて失敗するときがある。そういうときは、そもそも意図的にやるのが失敗のもとだったりする。ではと、そのときに学び、意図的さを排除するためにはどうするかと次に考える、普通は。

もしかしたら、失敗することを避けること自体が失敗のもとだったりしないだろうか。禅問答のようだが、やり過ぎて失敗した様は、そこだけ見れば、もとの意図をすでに反映していない。失敗した後のものには意図的さが消え、違うものに見えていないだろうか。その違うものは最初に目指したものではないが、最初の意図の別バージョンではないだろうか。ならば、失敗は新しいものを生成する要素として、避けるのではなく、つくるものではないだろうか。

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失敗の山

自然な様はつくり出すことができるだろうか、という問いには何と答えるか。自然の様は自然そのものではないから、意図的に人工的につくり出すことはできるだろう、と言葉上はそういう回答になるかもしれない。

ただし、実際に意図的に人工的につくり出したものが自然の様に見えるかどうかはわからない。どこかでやはり意図的で人工的だと思ってしまったら、自然の様ではない。結局、自然な様も何もしないで放ったらかしにすることでしか、つくり出すことができないのかもしれない。ならば、自然そのものと同じではないか、となる。

だから、自然そのものの生成過程を真似て、その生成過程を意図的に人工的につくり出し、あとは何もしないで放ったらかしにする。そうしたら、やがて自然の様になる。

時はかかるものである。でも、時はかけれないから失敗する。そして、同じ失敗をたくさん繰り返す。その失敗の山はもしかしたら、自然の山に近い見え方を一瞬するかもしれない。

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誰も注目しないところ

同じ場所、土地でもどこに注目するかは人によるが、大体似たようなところを見ている。やはり、ハレの部分というか、設計で扱いやすい部分を自然に選んでいる。そこを扱えば大多数の人を説得しやすいし、納得させやすい。事業上、仕事にして最終の形にしたいので必然的にそうなるのだろう。

だから、可能性を求めるならば、誰も注目しないところに目を向けてみる。圧倒的にそちらの方が量は多い。たしかに、大部分はすぐには設計の中で扱えないものばかりである。しかし、そこで建築として扱えるように見出すことが、設計すること、だといえなくもない。

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未来に過去を重ねる

設計はふつう、過去のものを顧みて、現在から未来に対して考えるが、このときに過去をどのように扱うかによって、過去とのつながりができたりできなかったりする。

ちょっと順序を変えて、まずはじめに過去のものを顧みるのを止めて、ひたすら現在から未来に対してのみ考える。そのあとに、そこへ重ねるように過去のものを被せてみる。最後が過去との関わりになるので、過去とのつながりが切れることはない。

現在から未来に対しての提案に過去のものを重ねることにより、時が途切れることなく、さらには複雑性と多様性が得られるのではないかと考えた。

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アウトラインだけ

引けるだけ引いて、最小限まで引いて、もうこれ以上引くことができないところでかんがえてみると、どうなるか。最小限の引けるところは、アウトラインだけの状態かもしれない。そこからは、何かを手がかりに、足すか掛けるかしていく、とする。

そうすると、アウトラインの状態で何が可能かを見極めてみたい。単線のアウトラインは、思いのほか窮屈に感じる。単線であるがゆえに、線にバリエーションがないため、単線の純粋な軌跡でしか表現の手段がない。無数に軌跡は描けるが、意図に大差がないと、軌跡のバリエーションも収束に向かう。アウトラインだけのスタディは誤魔化しがきかない。

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意図的なニコイチ

2つあって、はじめて一人前のような関係性は、どちらも単独では弱いので、チカラを合わせましょうということかもしれないが、それで上手くいくには、チカラの合わせ方をどうするか、という問題もある。

2つの良いところがそのまま失われずに共存できればいいが、打ち消しあっては元も子もない。せめて打ち消しあうのが悪いところならば、良いところが共存できなくても、チカラを合わせる意味はある。

理想は合わさることで、良いところは相乗効果でより良く、悪いところは打ち消し合いなくなることか。ニコイチはきっとこの理想に近いことかもしれない。

もしかしたら、意図的にニコイチを形成することで、単独行為の結果を意図して超えることができるかもしれない。きっとその時には、意図しない複雑性を身につけているだろう。

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塊かバラバラか

大きなものを、塊のままにするか、バラバラにするか、結構まよう。例えば、大きな肉の塊があったら、なるべく大きなまま調理して食べたいし、どんな肉でも塊であれば、ひき肉にしてハンバーグにするのはもったいない、とおもう。

やはり、一度バラバラにしてしまったら、元にはもどせないし、バラバラにするのはいつでもできるから、まずは塊のままでどうにかかんがえたい。ただ、塊のままだと、扱いづらく、お持て余しそうだし、使い道も限定されるような気がする。だから、バラバラにしたい誘惑にかられる。

塊のよさってなんだろう。中間をとって、所々をバラす、という手もあるが、扱いづらく持て余しそうということは、それだけポテンシャルを秘めているとも解釈できる。扱いづらいのは魅力的だ。

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ニコイチ

その昔、フィルムカメラで撮影するおもしろさから、同じフィルムカメラを中古で複数買いし、人にお願いして、部品取りし一台の完動するフィルムカメラをつくったりした。それをニコイチ、サンコイチ、ヨンコイチなどと呼んでいた。だいたいは完動品にしたいカメラがあり、そのための部分取り用として動かないジャンク品の中から探してくる。そのジャンク品探しもまたおもしろい。

ニコイチ、サンコイチされたことは、カメラの外観からはわからない。ほとんどが分解しないとわからない見えない所に部品が使われる。全体として変化はないが、その部材がないと機能しない。ただし、その部材は他から来ている。

ひとつのものとして独立して存在していながら、他との強い関わりが内在されている。きっと、そこにおもしろさを感じ、ニコイチ、サンコイチして遊んでいたんだとおもう。

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何もしない

コラージュという技法が昔から好きで、ただいつもおもうのは、全体的なルールをつくってしまったらコラージュにはならない、ということで、知らず知らずのうちにおちいる。たぶんこれは、全体的なルールをつくることからはじめることに馴らされてしまったせいだろう。

全体的なルールに陥らないために、重なる部分に注目してみた。全体的なルールは整列する方向に向かう。それを避けるためには、整えない、よく見せようと意図しないなど、作為しないことだ。その作為があらわれるのが重なる部分だとおもった。ちょうどよく、綺麗に見えるように、無意識に重ねる。だから、重なりに、むしろ違和感があるくらいに、何もしない。これは、何もしない、という意図ではなくて、本当に何もしない。

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層をスタッキングさせズラす

スタッキングチェアがある。重ねることができると部屋を広く使いたいときには助かる。ただ、スタッキングできるチェアの場合、背もたれがあるので、ちょっとずつ前のめりにズレていくから、何脚もスタッキングできない場合があるし、その分場所もとる。その点、スツール は背もたれがない分、ズレずに真上にスタッキングできるから、何脚も天井につくまで重ねることができるし、省スペースにもなる。

身近にある重ねることができるものを探したら、スタッキングチェアが目についた。打合せスペースには大人数に対応できるように、スツール がスタッキングされている。スタッキングされたスツール は、高層ビルのように、真上に向かって層を成している。その層、すなわち、スツール は入れ替え可能だ、まるでメタボリズム的。

ただ、面白いのはチェアの方で、スタッキングされていくと、だんだんと偏心されて、背もたれ分前にズレていく。だから、背もたれがスタッキングの鍵をにぎる。背もたれのデザインがスタッキングチェアの生命線だとふんだ。

建築での層の重なりに背もたれ的なものは存在しない。ならばあえて、背もたれ的なものを用意し、スタッキングさせ、偏心させることをかんがえてみても面白いかもしれない。ほとんどの建築は層を成しているのだから。

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変わるからつながる

その土地には過去、現在、未来とその時々で必要なものが現れる。土地自体は不動だが、その時々で必要なものは時間的に過去、現在、未来とつながりをつくらない場合が多い。もしスタッキングチェアのごとく、過去、現在、未来とつながりを重ねつつ、その時々で必要なものがあったら、どうなるだろうか。

日本のようにスクラップアンドビルドではなく、ヨーロッパのように何百年もリフォームしながら使う石の建築でも中を変えるので過去、現在、未来のつながりは断たれる。ただ、都市的には風景は変わらないので過去、現在、未来のつながりは保たれる。そこがヨーロッパの都市の良さなのだろう。

変わらないという価値は素晴らしいが、否応なしに変える必要があったときには困る。変わらないという方法でつながりを保つのではなく、変わるからつながりが生まれる方法をかんがえてみる。

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何を選ぶか

選択の自由があったときに何を選ぶか。自由につくれることと自由に選べることは、やはりちがう。どちらかというと、選ぶ時点で多少の不自由がともなうから、自由につくれる方を選びたい。ただ、選ぶ方がつくることより容易にできるかもしれず、とりあえず選び、その先に話を進めることにより状況を変えていく方が良い、というかんがえ方もできる。

だから、もしかして一番良いのは、後で自由に手を加えることができるものを選ぶことかもしれない。そうすれば、選ぶこととつくることの両方の良いところを享受できる可能性がある。

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自動運転

成り立ちがわからないものほど、魅力的なものはない。目の前に、複雑で、何でそうなるかがわからないものがあったら、とりあえず、興味をひかれる。

ただ、それをもっと知りたくなったとき、わからないだけにのめり込む。そのときののめり込み方は盲目的になる。なぜとか、どうしてとか、をかんがえることなしに、自動運転のごとくのめり込む。

それが良いとか悪いとかは、側から見ている人の勘違いである。自動運転をしているから面白くて、さらに興味をひかれ、それが魅力的なものになる。これは都市に対しての話である。

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誰かが他で

まったく真っ新な状態ではじめることなどはあり得ず、何ごとも、そのまえには何かしらのモノなりコトなりがあったはずなのに、真っ新にして、一度リセットしてはじめようとする、建築も。

もし、まえにあったはずのコトやモノとつながる方法があれば、躊躇なく、それを選択するはずなのに。それはけっして珍しいことでもなく、あたりまえのように、つながることはあると、成功例をさがして、アナロジーすればいい。誰かしらがかんがえている、他のところで。

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答えより展開の仕方

答えからかんがえて問題をつくることはよくある。自作自演のようだが、唯一の正解を導く問題のつくり方としては正しいような気がする。あと、問題から答えへの展開に無駄がなく妥当性があるように見せることもできる。

ちょっと引いてみてみると、何事も答えに着目するというよりは、問題から答えを導きだす展開の仕方に着目するような気がする。その展開が鮮やかなほどクリエイティブにみえる。着目するところは答えではないということだ。

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秩序がないさま

ラジオから流れてきた旅の話、返還前の香港を思い出した。まだ九龍城砦があった頃、遠目でながめて、カオスという言葉の代名詞のような所というイメージがあった。

全体的に無秩序のように見えたが、よく見ると部分部分にはそこだけの秩序があり、それらの部分が全体を成す時には秩序がないように見えた。

秩序がないさまは魅力的だが、本当に無秩序はちょっと困るような気もする。部分部分には秩序があり、ただ、全体的にはとくに秩序を必要としないような計画があらかじめできたら、それが一番いいのかもしれない。

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モノの扱いのちがい

生まれ育った家は、たぶん、築70年以上だろう。増改築を何度も繰り返して、一番最初の外観はどこにもない。もちろん、一番最初の建物を見たことはないが、生前の父親から聞いて当時の平面図はおこしてあり、現在の平面図と比べることはできる。

昔の家は和室が連なったプランであり、壁が極端に少ない。襖や障子の開閉により、部屋の大きさを可変することができ、同じ部屋にいくつかの用途が、例えば、寝室とダイニングのように、重ねられており、家具や寝具も固定ではなくて、収納や移動が可能だった。

あきらかに、今と昔では、空間のあり方や秩序がちがう。それの一番の原因は、生活様式の変化だろう。座敷から椅子になり、寝室とダイニングは分離された。

だから、そこでモノの扱いも変わった。そのモノの扱いのちがいが空間のあり方や秩序に事後的に影響する。それをいまの建築の中に移植することで、前の建築からのつながりは保たれる。主題にすべきは移植の仕方だろう。

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差を見る

差分というか、どれ位ちがうか、その差がメインになる方が面白いことになるかもしれない。どうしても、いくつかモノがあると比べて、ちがいを判断材料にして、どれかを選ぶ。

どれかを選ぶより、ちがい自体に目を向けて、その差によりスポットをあて、ちがいを主題にすれば、そこにある全てのモノに差のちがいという固有性が生まれ、全てのモノが活きる。

そうすると今度は、どのような差を見てとれるか、ということに注力することになる。そこに今までとはちがう見方が必要になる。

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