入れ子の秩序

入れ子構造というと、ロシアのマトリョーシカ人形を思いだす。マトリョーシカ人形は大家族を連想させる縁起物らしい。大小でつながり、同じ場所でつながり、同じようにつながる、からだろうか。たぶんに建築的である。

建築でも入れ子構造になっているプランは昔から多い。大事な空間を包むように外の空間があったり、大きな空間の中にいくつもの空間が内包されていたりなどする。そうして見ていくと、入れ子構造は空間に関する秩序的なものであり、マトリョーシカ人形も空間の外形ともいえる。だから、マトリョーシカ人形はモノと空間の両方の特徴を合わせもつ、ともいえる。

ただ、この入れ子構造という秩序には、空間の内容は関係ない。もちろん、建築として構成する場合は、空間の機能や目的といった内容によって、入れ子内の配置やつながりが決まるだろうが、入れ子構造だけでかんがえれば、空間の内容はどうでもよく、秩序だけを扱うことができる。それは面白いとおもった。

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無目的をちりばめる

完結した空間があるならば、それはひとつとして、空間がある目的のためだけにあることかもしれない。その空間の存在理由が明確で、そこで行われるアクティビティも明確で曖昧さが無く、変わることも無い。

一方、不完全な空間ならば、空間が存在する理由に目的が無く、アクティビティも定かでは無く、ただ、その空間はなくてはならないもので、何か足されると、完結した空間に変わるようなものかもしれない。

きっと、完結した空間が圧倒的に多く、不完全な空間は昔と比べて少なくなってきている感じがする。ただ、今さらすべてを不完全な空間にするのには無理があるし、その必要性も感じない。しかし、完結した空間ですべてを覆いつくすのにも息がつまる。

ミックスした状態、例えば、完結した空間にバラバラと不完全な空間が現れるようなものがいいかもしれない。ちりばめられた無目的な感じは気持ちいいとおもう。

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完結か不完全か

空間の中の家具に注目してみた。家具には造り付けのモノと置くモノがある。造り付けのモノは空間と一体化する。だから、造り付けのモノは完結した空間をつくる手助けをする。置くモノは交換が可能だから、空間の中での位置は比較的自由である。だから、空間は置くモノの位置に左右される可能性があるので、不完全な空間になりやすい。

どちらが良いわけではない。完結した空間ならば、何もかんがえる必要はないから、ただそこに居るだけでも良い。不完全な空間ならば、何かをしなければならないが、そこに自由意志が入り込む余地がある。この余地に心地良さを感じる人もいるだろう。どちらかというと、自由さが欲しく、完結さは息苦しく感じるたちである。

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人と関わりないモノ

最近気になるのは、建築の中にありながら、建築の範疇ではないモノは何か、ということ。

家具は建築で制作することもあるので外すが、家電、本、衣類、食器類、料理道具などあげていくと、人に関わるモノばかりである。当たり前といえばそうだが、中に人が入れるから建築であり、当然、中にあるものは人に関わるモノばかりになる。

ここで、もし、人とは関わりないモノを見つけることができたら、それを元に空間との関わりをかんがえてみようとおもう。

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モノと空間の秩序

この建築おもしろないな、を分解してみると、モノと空間の秩序に固有な感じがある。モノと空間の間には秩序があり、無秩序でバラバラで収拾がつかない状態ではない。モノと空間は相変わらず、そこに当たり前のように存在しているが、秩序があって、はじめて建築というまとまりになる、とかんがえることができる。

無秩序でバラバラで収拾がつかない状態は、いわば抽象的な状態であり、そこにはっきりとした枠組みをはめ、具体的にするのが秩序である。だから、秩序だけをとり出してみると、建築に固有性があれば、当然、モノと空間の秩序にも固有性があり、逆に、モノと空間の秩序に固有性があれば、建築にも固有性が生まれる。

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モノと人の反応

空間はモノの中の空洞だとしたら、その空洞に人が入ることで建築になる。人が入ることができなければ家具か。こうして、空間とモノ、人との関わり合いは不変のようにおもう。

ただ、空間という言葉ができたのは20世紀はじめである。当然、その時にはすでに建築はあった。だから、それまで建築は、モノと人の関わり合いの産物だった。

モノと人の関わり合いだけで建築をかんがえるとき、モノの中で人と反応をおこす要素は何があるだろうか、とモレなくかんがえてみる。そこで意外なものがでてきたら、それに焦点をあわせてみる。

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優劣の反転

ものには優劣がある。基本的に見える部分が優先されるし大事になる。見えない部分は見える部分のためにある。他にはつなぐものも、優先するものや大事にするもののためにある。

そのようなものの優劣を反転して表現に変えることはよくある。見えない部分を見せる、つなぐものをメインにするなど。そうした反転は新たな価値を創造するが、最初は違和感からはじまることが多い。

違和感探し、とまではいわないが、違和感を手がかりにするのは有効かもしれない。ただ、単純な反転による違和感は、単なる思いつき、独りよがりの場合も多いから注意が必要だ。

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ものが持つポテンシャル

ものづくりをするにしても、ただ新たにつくるだけでなく、減らすこと、こわすことも、ものづくりの範疇で、それを減築という。減築することで新たなライフスタイルに合わせる。ものを減らす、こわすことは、もの自体を変えることになる。もの自体を変えることが、人の暮らしに直結し、左右するという考えによるもの。

もの自体にはそれだけのチカラがある。もの自体にはそれだけのポテンシャルがある。そのもの自体が持つポテンシャルのなかには、利用されていないものもありそうな気がする。それを見つけて明示することもデザインの範疇だとおもう。

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好奇心はつくりだせない

着想とは結びつきのことかとおもった。無から何かを生みだすよりも、本来は結びつかないもの同士に、何か手をくわえることにより、結びつけること。

本来は結びつかないもの同士に、結びつきの可能性をみるところに創造性があらわれ、その可能性を探るところに好奇心が必要になるとおもう。

けっきょく、AIがどれだけ優秀になっても、好奇心はつくりだせないから、どう使うかしだいだけのように、いまはおもう。

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モレなく

漏れがないように、言葉をつかって、物事を切りきざんでいくと、意外とつなぎ目に足りないものがあることに気がつく。

きっと、当てはめた言葉で足りると思いこんでいるからだろう。つかっている言葉では、まだ荒いのだとおもう。

もっと的確に、あるいは、具体的な言葉をつかっていかないと、物事をすべて捉えることはできないと感じた。いまのチャットGPTも同じ。

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ヒントに出会う

物そのものと、物に付随するものとに分けて考えてみる。そうすれば、物に関することは全て網羅できると考えた。物自体をよくしらないと、物はつくれない。

物のそのものは、外と内に、さらに分ける。分け方はどうでもいいが、漏れなく分けたい。外は形と質感、内はソリッドとヴォイドに分ける。さらに、形は、質感は、ソリッドは、ヴォイドは、と分けていく。

そして、もうこれ以上わけることができない所を目指す。その過程でアイデアを出すためのたくさんのヒントに出会える。

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線ではなくて

プランを考える手が止まる。空間をどうしようか、と考えることが苦痛になるときがある。

20代の頃、フィンランドへアアルトの建築を見にいった。そのときのことを思いかえすと、詳細なエレメントがまず浮かぶ。壁のタイルやレンガ、開口部の形状や光、階段のディテール、手すりの感触など。空間は、そのようなエレメント越しに、意識しないと思いかえせない。すごく近視眼的な把握の仕方だけど、人が建築と対峙するとき、自分と同スケールのエレメントに、まず自然と意識がいくのだとおもう。

なのに、空間から考えている。考えてみれば、はじめからねじれているのかもしれない。アアルトは、空間ではなく、エレメントから着想し、エレメントを浮かび上がらせるために、空間を必要としたのではないかと、その当時も考えたことを思いだした。

建築において20世紀最大の発見が空間だという。空間を表現するためにエレメントは省略されてきた。プランニングを線でおこなうのも、空間を考えるときに都合が良いからだ。でも、苦痛を感じるならば、線ではなくて、他のことで、エレメントを省略せずに、建築を考えてみようとおもった。

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全体だけ、部分だけ

なにかを構成する部分は全体の一部、という関係性は普通に日常にある。このときには、全体というものに対する信頼が前提としてあり、また、全体に従う部分があるという関係性にも信頼をおいている。この場合、全体だけ、部分だけで成り立つとは考えていない。

部分だけで成り立つとは、部分同士の関係性にルールはなく、部分だけで独立していて、部分同士はルール無用である。ルールがある時点で全体が生まれてしまうから、部分そのものに信頼があるのが前提になる。

全体だけで成り立つとは、部分がどうであるかに依存せず、全体だけで独立していて、全体に絶対的な信頼があるのが前提になる。

ならば、全体だけと部分だけがあわされば、ルールの無い独立した部分同士と、部分に依存しない全体が、同時にあることなる。それは、なかなかない組合せかもしれない。それで、建築をつくることができるかもしれない。全体と部分の間にちがうなにかが生まれるかもしれない。

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うっかりミスを少なく

「うっかりミスを少なく」 2023.04.16

ときどきか、たまにか、参ったな、なんて思うときは、案外、あきらめもついて、後にはのこらないが、もしかしたら、うまくいったのにとか、思うときは、なかなか、後をひきづる。頻度は、たぶん、参ったなは少ないが、もしかしたらは、それなりにあるかもしれない。それは、うっかりミス、というやつである。

うっかりミスは大体、わかっていたけど、という言葉がさきにくる。頭のなかにはあったけれど、それがうまく表にだせなかったときで、やっぱり、それは一番くやしいし、落ちこむ。

頭のなかにあったけれど、うまくだせないことは、忘れていたことと同じらしい。だからつねに、思いだす、と意識すればいいそうな。それで、うっかりミスが少なくなるか、ためしてみよう。

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全体と部分

全体を見ずに部分的なところばかりを見ていては、うまくいかない、と考えるのは、全体と部分には整合性があるものであり、整合性がないといけないから、整合させようとするのはいいこと、だという前提があるからだろう。

ならば、前提を逆にすれば、部分的なところばかりを見ることがいい、となる。この場合、全体と部分に整合性がなくてもいいことが前提になるが、場合によってはそれも可能性としてはある。ただ、単に逆にしただけでは、あまりに単純で反動的なので、ちょっとひねりを入れる。

部分はそれぞれ独立してありながら、全体はひとつにまとまっていて、ただ全体と部分には整合性はない、としてみる。この場合も可能性としてはありえるだろう。部分的なところだけを見て、単独で成り立たせることをだけを考えても、そこに何かつながる細い糸を見つけることができれば、それでいいとなるから。

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理性がまさる

ものには何らかの意味が付着している。これが元々どうであったか。モダニズムでは、ものが持っていた意味を否定するところからはじまった。ポストモダニズムでは、その否定した意味に焦点をあて、意味を復活させようとした。ところが、復活したかにみえた意味は、また不要なものとして、より巧妙にものの奥深くにかくしてしまった。

ものに何かしらの意味を持たせたい、という感情は常に存在している、とおもう。だから、定期的に、形を変えて、ものの意味が問われる。いっそ、素直に、感情を認めて、意味自体をあつかえばいいのに、理性がそれを許さないのだろう。なぜか理性がまさる。

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うまくせまく考える

行きづまったら意図的にせまく考えてみようか、とおもった。行きづまりは、現状にうつ手がおもいつかない状態で、現状がすべてだとおもっているからおこる。だから、現状はとてもせまいことである、とおもえれば、その外側へいく意識が生まれるのではないか。

うまくせまく考えることができれば、その外側へいく意識がイノベーションになる、とおもった。けっきょく、時間をつかって考えるならば、何かしらイノベーションを生みたい、とおもう。

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つくるより選ぶ

何かを出現させようとしたとき、まず、つくることを考えるが、選んでいるだけではないか、とおもった。つくるときには、何かしらのベースがあるもので、そこから、いくつも枝わかれした予測が存在する。その予測は無意識に行っている場合もあり、その予測の中から選んでいるだけなのに、つくっていると錯覚をしてしまうかもしれない。

そこで、予測の中から選んでしまっているのならば、いま一度、つくることを意識し直すことで、よい物を出現させようとするのと、どうせ選ぶことになるのならば、選ぶことで済まして、他のことでよい物にしようとするのと、2つの方向性が考えられる。

どちらも有りだとおもうが、イノベーションを起こせるのどちらだろうか。きっと前者だという人が多いだろう。ならば、後者で考えてみる。理由はつくるより選ぶ方が早いからで、スピードがないとイノベーションは起きない、と考えるから。

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他者探し

何かをつくる方法を考えるとき、そのもの自体に関することと、そのもの以外に関することに分けてみる。そこに境界線があり、いつもは大体、そのもの自体だけにしか考えがおよばない。

ぐっと範囲を狭めつつ、範囲の外を意識してみる。そうすると、そのもの自体だけでは成り立たないことに気づく。範囲を狭めたおかげで、意識できる範囲が広がった。

きっと他者探しをしていることになるのだろう。今度は範囲の外にあったものを内側に囲い込むような言葉を探してみる。

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具体的な言葉

言葉で何かを具体的に表せば、その言葉の外側に何があるのかもはっきりとする。そうやって、言葉で境目をつくることにより、意識しないでスルーしてしまうことを防げる。

一番くやしいのは、気づく可能性があったことに対して、明確に気づけなかったときで、そうおもうのは、頭の片隅にあり、具体的に表していなかったから。

なかなか難しいことだが、未知の分野で方向性をかんがえるときには、一番大切なことかもしれない。

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フレームの外へ

フレームのなかにある範囲でかんがえてみたとき、結果がそのフレームの外までおよぼすことはない。ただ、そのことがわかるのは、フレームがあることを知っているときだけである。フレーム自体を知らなければ、結果がフレームの外までおよぶと錯覚してしまうし、そもそも結果がフレームの外までおよぶかどうかもわからない。

だから、フレームの設定をすることで、フレーム自体を意識できることは重要になる。フレームがわかれば、フレームの外にいける。けっきょくは、フレームの外へいきたい、のだとおもった。いくらたくさんフレームを設定し直したところで、フレームの外へいきたい欲求はおさまらない。

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言葉から

言葉からかんがえることで、へだだりがなく、すべてを網羅でき、いわゆる「バカの壁」をつくらない、あるいは「バカの壁」に気づくことができる、ときいた。

言葉はそれほど強く物事を限定する力がある。だから、具体的な言葉づかいをすれば、もれなく広範囲にわたって、およぶことができ、そのなかからイノベーションが生まれる可能性がたかまる。

そのためには、きっと普段からの語彙力のトレーニングが必要なのだろう。時代とともに言葉もかわるから、トレーニングにおわりは無いのかもしれない。きっとエンドレスだ。

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言葉で切りきざむ

言葉は境界をつくる、ときいた。言葉が抽象的ならば、あいまいな境界をつくり、言葉が具体的ならば、はっきりとした境界をつくる。だから、言葉によって、どのようにでも物事を切りきざめ、分離分解できる。

物事を分解するときには、論理的にかんがえる必要があるとおもうけれど、言葉によって分離分解していけばいい、とかんがえると、ちょっとハードルがさがったような気がした。

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壁の窮屈さは貴重

つねに壁にかこまれていると感じたら窮屈だろうな、とおもうのだが、どうなのだろうか。むかしの城郭都市やゲーテッドコミュニティなどは壁に囲まれた街だが、その壁の存在をふだんの暮らしの中で感じることがあるのか興味がある。あんがい、日常的なこととして、壁の存在などは何も感じないようになっているのかもしれない。

実在している物理的な壁だけでなく、意識的な存在の壁というのもあるだろう。「壁がある」などと物事に対する障害をあらわしたり、「バカの壁」というのもある。「バカの壁」の場合は、その壁の存在に気づいていないから「バカの壁」なのだろう。

壁に気づいている場合は、その壁に対処したり、その壁の向こう側に何かあると、わかっているからいい。ただ、壁に気づいていない場合は問題かもしれない。壁の内側だけなのに、それが全てだとおもってしまうことになるから、それではちとかなしい。だから、壁にかこまれている窮屈さは、貴重なサインなのかもしれない。

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残しかた

時間が蓄積された物が壊されて無くなることはよくある。その物の価値には関係無く、全く無にしない、ことを選択したならば、ただそのままでは残せない。残すためにはどうするか。

時間が蓄積されているということは、そこに何らかの意味も付着し、記憶となっている。記憶を喚起する物としてアイテム化し、部分的に残すことはよくある。ただ、それではまるで標本のようである。標本として残す価値がある物はいいが、価値が無ければ、無くなる運命をたどるのは同じである。

むしろ、記憶や意味、時間を剥ぎとり、物そのものを再構成することで、価値に関係なく、残す方法があるのではないか、とおもった。要するに、配置の仕方しだいで、どのような物にも活きる場があるだろう、としてみた。

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過程からかんがえる

できる物ばかりを想像してまうと、脈絡のない妄想ばかりがつづく。時間には制限があるから、この妄想もいったんやめて、まとめようとするのだが、案外、妄想にはバリエーションがなくて簡単にまとまる。はじめから想像できる結果は、どこかで、前に、もしかしたら、妄想したり、チラッと思い浮かんだりしたことだったり、結局は、今までかんがえていた範疇から抜けだすことができないので、妄想にバリエーションが生まれないから、簡単にまとまるのかもしれない。

ただ、この簡単にまとまる、バリエーションのなさ、がつまらなく感じる。だから、結果を生みだす過程をつくることからはじめよう、とおもった。過程をかえれば、たとえ今までかんがえていた範疇から抜けだすことができなくても、結果にバリエーションが生まれ、今までとちがった物になるかもしれないし、過程からつくることで、べつのかんがえ方が生まれるかもしれない。なにより、毎回過程からかんがえることが、面白そうだとおもった。

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近い物同士で集まる

ポツリとポツリと物を置いていく。物同士につながりはなく、だから何でもいい、脈絡はなくてもいい。ただ自然と、近い遠いのちがい、はできる。置かれている物はそれ自体で完結しているが、近くにある物とは何かをつくる。その何かはコントロールする必要はなく、自然に生まれてくる。

実際、建築は囲うことでつくっていく。そのための順序手順が決まっているし、それは建築のはじまりのひとつの説でもある。ただ、建築が物から派生したものならば、囲うことより、無作為にある物が他の物と合わさって建築になることもかんがえられる。

もし、囲うこと以外で、建築ができるならば、きっと、完結した物同士が近いところからより集まって建築の体をなす、こともあり得るだろう。

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距離感でまとめる

物が散乱している情景は、物にもよるが、なんとも様にならないようにおもえる。きっとなにも脈略もなくそこにあるから、様にならないのだろう。ブリコラージュのように、なにかにむかって収束していくのならば、ちょっとは様になるかもしれない。全体的になにかルールをもつことは、まとめるためにはよく、このまとめることが、なにか意図をもつ時には重要だが、それぞれの物がそれぞれのルールで完結してありながら、なおもバラバラにみえれば、それはそれで様になるだろう、ともかんがえた。

全体にひとつのルールでは窮屈におもえる。ひとつのルールで様なるようにしたら、なにか無理矢理におさめようとして、取りこぼすものがでてくるだろう。無理にひとつのルールでまとめようとするのではなく、個々にルールをもち完結すればよく、それでもバラバラにならないためには、近い距離感が必要なのだろう。ただ、近いというだけでまとめる、ルールではなく距離感でまとめる。距離が遠ければ他者ということである。

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