となりに緑がほしい

緑に包まれたい、ただ見るだけでなく緑に抱かれるような感じで過ごしたい。緑の多い場所、山や森や林に行きたい時はきっとそう思うのでは、私はそう思う。ただ見るだけならば、ちょっと緑の多い場所、都市のちょっと大きな公園などでも、それではもの足りないから自分のとなりに緑があるくらいの近さがほしい。そうすると、自分と緑との間にどのくらいの空間があるといいのかなどと思ってしまう。

自分は建築の中にいるとしたら、建築と緑との間にどのくらいの空間があるのがいいのか。建築の中に緑があったとしても自分との間に空間はできる。ようするに緑との接近度、親密度を間にある空間の大きさ具合ではかろうということ。

緑は自然、建築は人工、自然と人工の対立は昔からある話で、くっきり分けるのではなく自然と人工を混ぜたような状態も考えられるが、いずれにせよそこには人がいて、人は本来自然の方のはずだが、人と自然という対立になる。そうするとややこしくなるので、間にある空間を扱って人と自然をどのようにつなげるかをめぐらしてみると、案外単純な話にならないかな。

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じゃまなら合わせるのは

家を建てると皆んな緑を置きたくなる。プランターを外に置く人、家の中に置く人、大小いろいろだけど何かしら緑を増やす。それを勝手に自然の中で暮らしていた名残りではないだろうかと思ってる。

人間は大昔自然の中にいて最小限の自分を囲う小屋や巣のような場所で暮らしていた。それは身を守るため、ほかの大部分は自然だった。それがいまでは逆転し大部分が自然ではない人工のものになった。それで大昔のような危険はなくなり身を守る必要はなくなったが、今度はあまりにも自然がなくなりすぎて、それでは身が休まらないと本能的に感じているのかもしれない。人工のもの、すなわち建築がわるいという訳ではないが、人間という生物が生きて行くには自然と人工のバランスがあり、都市部ではバランスがわるいということだろう。

敷地の中に10本の木を植えようと計画している。なぜ10本かは10家族が暮らす予定だから、ひと家族1本、それによって暮らしにいつも木をまとわせる。だから、建築もはじめから木をまとうので、木のまとわせ方が建築を決めていく。それは木の方から建築をみることになるので、建築がじゃまならば建築が木に合わせることになる。

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ひとりになれたね

なんか大変そうだな、はじめての打合せで感じたことを貴重なヒントだと思って気にとめてみた。これから建物をつくろう、住宅を建てようとする人はどこかいつも勇ましくみえる。新しいことをするとき、思い切るとき、ちがったことをするとき不安をかき消すためにちょっと背伸びしたくなる、そのぶん見栄えがよくなるのかな。

ときに住宅だと家族のつながり具合がプランに影響を与えるときがある。余程ちがいを感じないかぎりはそのようなことはしないが、できれば感じたことをうまく建築的な要素として取り込み、ちょっと他にはないものを提案したい。

先ほどの「なんか大変そうだな」は以前につくった住宅のご主人、こちらまで息がつまりそうな気になった。プレッシャーを抱え込む感じ、それだけ家族を大事にしようと。初回の提案からひとつの住宅の中に離れをつくった。簡単に言えば外部であるバルコニーを通ってしか行けない部屋。ただし、その部屋は内向きに窓があり開けるとリビングからもお互いの存在がわかる。ご主人がひとりになれて好きなときに家族とつながることができる、ご主人しだいのご主人だけの場所。

昔から部屋の並びには序列があり、一番奥の部屋ほどプライベートで閉鎖的につくられていて重要な場所だとされてきた。その序列はときに有効だが、ときに住宅の規模くらいの建築だと序列を誘導し助長してしまう。ワンルームにして序列を全くなくしてしまうこともできるが、奥の場所と手前の場所につながりをつくり出すことができれば、部屋の並びは残しつつ序列は排除できる。この方がより建築としては望ましい方へ行けるだろう。

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たまたま屋上だった

高所恐怖症なのに高いところが好き、高層ビルでも屋内ならどれだけ高くても平気、むしろ行きたくなるのに、生身の身体がさらされているところは2階くらいの高さでも怖いから足場の上にはできるだけ行きたくないのに。ただ不思議なことにいまはないWTCの屋上は外に出れたが怖くなかった。あそこまで高いと地上から離れすぎているからかな。

2階くらいの高さでも屋上は貴重な外とつながる場所だと思い計画することがある。建設中何度も見に行くので慣れれば怖くない、むしろ地上とはちがう楽しみを発見する。見渡すと案外上空をうまく使っていない家ばかりなので、地上の庭よりプライバシーが守られて広大な空に近いから解放感があり快適な場所になる。

ただ、だんだんと使わなくなるときく。たぶんそれは屋上というスペースをとってあるだけだから、とくに使わなくてもいいから。強制的に使わせようとしてもダメだが、ないと困るというか、あるから良いとなるような工夫が必要。

前につくった家では屋上で遊ぶ姿が直下のリビングから見えるようにした。人が集まることができる場所、戯れる場所を分散することで家中いたるところがリビングのようになる。たまたま屋上が外のリビングになればいい。きっとこの「たまたま」な感覚が大事で強制はされないがあれば楽しめる場所になる。

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上を見上げてごらん

曇り空がきらい、雨の日は雨音が癒やしてくれるのでまだいいけれど、朝起きて晴れているだけで一日中気分がよく、特にいまの季節の秋晴れは気候もいいので窓を開け放して過ごしたくなってしまう。

いま住んでいる家は築50年、10年前くらいにある住宅メーカーが建てた家を購入し手を入れた。道路から奥まりまわりは建物に囲まれて1階にあったキッチンとリビングは日当たりが悪かったので、1階と2階の部屋を逆転して、キッチンとリビングを2階にした。おかげで晴れの日は一日中陽が適度にあたるのでずっと快適に過ごしていられる。

まわりを建物に囲まれることは住宅地以外でも、例えば商店街などは道路側以外はとなりの建物が接近している。そういう場合でも上階にはオーナーが住む場合があり、時には住宅地よりも日当たりが悪い。

日当たりが悪いことを別の言い方で「眺望が悪い」「閉鎖的」とも言えると思う。南側に窓がなくても他の方位に窓があればあまり日当たりが悪いとは思わないだろう。だから一番避けたいことは眺望がなく閉鎖的であること。

空は地上の事情とは関係なしに平等な存在。そんな空とつなげることが眺望を得て開放的になれ、そして、いまいる地上の状況を相対的に良くしてくれる。上を見上げれば良こともある。

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小さいから魅力的

小さいものが時に魅力的で、その魅力はどこからくるのだろうか。1995年に新車で購入したミニクーパーにまだ乗っている。その小ささが特徴的ではじめて生産された時の技術は素晴らしいものだったらしい。

今でも変わらず新鮮なままの体験が運転している時の感覚で、この感覚が実に楽しい。きっとそれは小ささに由来しているのではないか。小さい車体にエンジンやギアボックスなどを収めるために様々な工夫をし無駄な物を排除しているから、実に運転感覚がシンプルでアナログ。なかなかアナログな道具が減ってきている時に私にとっては貴重なストレス解消アイテムだ。

小さい住宅はいくつかつくった。あまり大小にこだわりはないが、小さい住宅の方が工夫しがいがあるから結果的に楽しい設計になる。室内では何かの存在自体を根本から見直ししないと入り切らないから、新しいことを考えるきっかけにもなる。

それは屋外でも同じで、小さい住宅というのはそもそも敷地も小さいので、余すところなく土地を使い切りたい。以前つくった住宅では敷地境界線までの距離を少し余計にとり、建物の周り四周に敷地境界線までウッドデッキを敷いた。普通に建てると敷地境界線と建物との間に普段使われることがない場所ができてしまう。その場所を室内と連続させることにより、小さい住宅の室内を少しでも広く感じさせることができた。

結果的に小さい住宅の方が敷地全体を余すところなく使い切ることになった。それは小ささに由来している。小さいということを積極的に捉えると大きいものでは獲得できない魅力に出会える。

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木が木に見えないよ

木は土の地面から生えている、だから何も見ないで木の絵を描いたら普通に地面には土を描くだろう。地面が土ではなかったらとは誰もイメージしない。だから、木と土の地面はセットであり、土の地面がないと木もないと思う。

突然木が目の前に現れた感じがした。そこは地面が砂利敷き、駐車場から続いた場所だった。砂利から木の幹だけが生えている、もっと言うと、どこかで伐採した丸太を持って来て、そこに立てて並べているようにしか見えなかった。

地面に土ではなく砂利を敷いたことで、地面と木がつながらなくなった、まるで別のもの同士、全く関係ないもの同士の組み合わせに見え、そうすると、木自体も木に見えなくなった。

今までの木とはこういうものという既成概念から抜け出た。そこで改めて木について考えると、例えば枝同士に渡して屋根をつくれば木は柱にしか見えなくなるなど、木が多様に変化しはじめるような気がした。

木が木に見えない、ならば木がある場が必ずしも屋外である必要がなくなる、あるいは、木がある場を屋内的な使い方をしても違和感がなくなる。既成概念を抜け出せれば、思いのままに木がある場を新たな空間にできる。

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庭があることで

先日の何もしない庭をつくった話のつづき、今は何かする庭をつくろうとしている。そこには1本の木を植えたい。むしろ木を植えたいから庭をつくろうとしている、と書いてふと思った、室内に木を植えたらどうなるだろうか、いややめよう、それも面白いが今は収拾がつかなくなる。

ただ1本の木を植えるだけでは庭にならない。その木があるからどうなの、ないとどうなの、庭の形は、庭のとなりに何がくるのなど、木を植える庭があると暮らしの中で何が変わるの?

以前に1本の木を植えた庭つきの住宅をつくった。その木はクライアントのお父さんが亡くなった頃から自然に敷地内に生えてきたらしく、残したいということで移設して庭の真ん中に持ってきた。その木はキッチンからもリビングからも眺めることができる、それが要望だった。

木が見えるということが家族のつながりを無意識に象徴することになった。庭は木のためだけにあるようなものだが、その庭がないとプランは完結しない。何もしない庭も同じだが、庭はあることでつながりをつくり出す、つながりがなければ庭はいらない。

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集まれその木に

たくさんの小鳥が木にとまり茂った葉の中で鳴いているのを何度か見た。ちょっと怖い風景でもあり、どうしてその木にと思う。小鳥に好かれている木は他と何がちがうのかと観察してみてもよくわからない。たまたまその木だったのか?

人にも好かれる木と好かれない木があるのだろうか。都市部にいると木が少ないからそもそも木の好き嫌いを思うことがなく、樹種にかかわらず大括弧で木としか思わない。でも、たくさんの木がある場所に行ったら自然と人が集まってくる木はありそうな気がする。

たくさんある木のうち、ちょっと根元に腰掛けやすそうだな、寄りかかりやすそうだな、張り出した枝の下は木陰になっていて涼しそうだなとか、人とのつながり方がイメージできそうだと自然と集まりそう。そうすると、小鳥には小鳥なりの人間にはわからないつながり方をしているということか。

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ここは空に近いよ

悩ましいのはいつも屋根のかたち、意外と屋根は目立つ。近くで見上げるとあまり見えないが、ちょっと離れると屋根がよく見える。なぜ目立つのか、たぶんそれは一番空に近いから、屋根の形がそのまま反転して空のかたちになるから。

2階の部屋は屋根のすぐ下にあるから、空に一番近い部屋となる。だから、それを表すために天井は屋根の裏の形をそのまま見せることが多い。無意識にここは空に一番近い場所だと、地面からは離れた場所だとわかってもらうために。

時たま天井をフラットにして空を意識させないようにする。そういう場合は2階にいながら地面を意識させたい時でだいたい広い庭か中庭がある。だから、狭小住宅の場合は必ずと言っていいほど2階の天井は屋根の裏を見せて、上へ空へ意識が抜けて少しでも広さを感じるようにする。

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階段ラバー

階段が好き、そう言うと階段に好き嫌いがあるのかと思われるかもしれないが、過去に1人だけ出会った階段好きに。妙に話が合い、その人はローマのスイペン階段が一番すきだと言っていた。私より若く学生だった彼の口から「スペイン階段」という言葉が出てきたのがちょっと意外で、でも納得してしまった。

よく階段に座りたくなる。2段分にかけて腰掛けるとちょうど椅子の高さと同じくらいになるから、階段を見ると休憩場所だと思うクセがある。スペイン階段もまさに腰掛けだ。

階段はいろいろなバリエーションをつくってきた。階段好きもあるが、階段はひとつの見せ場だといつも思う。階段を上がることは舞台に上がるようなもので、別の世界に運んでくれる。だから、上がった先には何かを用意したいし、上がっている途中も何かを感じさせたい。

別の場所へ行くために、時には休み、時には何かを感じ考え、時には下り、時には上がる。階段はいろいろと例えることができる。それはまるで何かのようでもあり、だから好きなのかな。

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壁なくてもいいよ

まず外と内というような分け方をします、家の話なのですが、案外他のことにも当てはまるかもです。領域というかテリトリーというか、自分たちの安全地帯をつくるように壁を建てて室内をつくります。

その室内に一緒にいる人たちは家族や仲間だから安心、でもお互いに隠したいことはあるからまた壁を建てて囲います。そうやって家はできます、古来より簡単なんです、家づくりは。

ただ、壁のバリエーションはいろいろです。それは人とのつながり方と同じです。何度も会い本当に親しい人から一度きりの人までいて、人によって会った時の感じがちがうようにです。

前に建てた住宅で壁が必要ありませんでした。1階は家族が集まるスペース、2階は各自のスペース、その2階に壁がありません。正確に言うと、引戸があるだけ、必要に応じて仕切るだけ、でもそれは壁ではないです。ご夫婦とお嬢さん2人のご家族、壁がなくてもいい暮らしができることをうらやましく思いながら設計してたな。

壁が必要だと、壁で囲うのが当たり前だと思うことで人のつながり方まで決めつけていたようです、壁はなくなった方が面白い空間ができるのに。

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何もしない庭つき一戸建て

庭つき一戸建て、なんて言葉があるようには庭と家はセットだった、一昔前までは。今ではマンション暮らしの人も多いし、一戸建てを建てる人も庭などはじめからない場合も多い。マンションだから、敷地が狭いからと理由はあるだろうが、そもそも庭が必要ないのだろう。

前に建てた住宅は1階のリビングと同じ大きさの庭をつくった。その庭にはウッドデッキを全面に敷いて室内のリビングの床と同じ高さにした、リビングの延長として広く見せるためとリビングに光を取り入れるために。だから、はじめから庭に出ることは考えていなかった。それで十分で、それで豊かな生活になるだろうと思った。

その庭はリビングが十分に広くて日当たりが良ければなくてもよく、ただリビングとつながって見えるようにするためにウッドデッキを敷いた。そうしないとその空間が生きないから、生かすためにリビングの暮らしと関連づけて何もしない空間をつくった。

10年後その住宅に訪れるとウッドデッキは多少古びたが完成当時と変わらずに何もしない空間があった、まるでそこの空間だけ時間が止まっているように。きっとそう見えたのも何もしない空間だから、でもそれがよかったのである。何もしなくても庭はあった方が日々の生活が豊かになると、室内を見渡して、ご家族を見て思った。

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空を使う

空って当たり前のようにいつもあるけど、うまく使えていない。窓越しに空は見えるけど景色の一部、天気を気にするくらい。使うという表現がいいかどうかわからないが、空だけがみんなに平等に与えられた自然のような気がするから、うまくいかさないともったいないとつい思ってしまった。

自然には他にも緑、木や水辺の川、海、地形として山や谷などがあるけれど、場所によっては身近にはない。だけど空だけは見上げれば誰の上にもある。

建築で空をいかそうと天井をガラス張りにした家を見たことがある。誰でも一度は考えることだ。ただそうすると、夏は暑過ぎて、冬は凍るように寒く、人が住める場所ではない。

空を使うって案外むずかしい。それに空を使わなくても建築はできてしまう。だから誰も真剣には考えないのだろう。ちょっとは空を使ってみてはどうなの、と秋空が教えてくれたような気がする。

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建築にマヨネーズ

コールスローをつくろうとしたら冷蔵庫にマヨネーズがなかった。普段マヨネーズを使うのはあと玉子サンドをつくる時くらいで、それもあまりつくる訳てはないから大体使い切らずに消費期限を過ぎてしまう。キャベツの千切りを別の食べ方にしようかとも考えたが、

ふとマヨネーズをつくろうかと思った。

ネットで調べたら、材料は全て家にあった。卵、酢、オリーブオイル、塩を混ぜればいい。卵は平飼いのもの、取り入れる油はオーガニックエキストラバージンオリーブオイルかグラスフェッド無塩バターだけと決めている。少し高いが他のものは使わないのでかえって安上がりだ。

10分後、オリーブオイルを使うからちょっと苦めのゆるい出来立てのマヨネーズはそれだけで贅沢なソースに変身した。あと茹でた野菜やパンがあれば、ヨーロッパでは平日の立派なディナーだろう。

結局、もうマヨネーズは買わない。

その分、冷蔵庫のスペースは空くし、余計な出費もなくなり、贅沢な気分にもなる。ちょっとしたことである。

ないから足すのではなくても、自作しても、ものを減らしてミニマリストにしても、あるいは、余分なものを削ぎ落としてレスイズモアなミニマムデザインな建築にしても時につまらないことがある。きっとその原因は結果的に新しい価値を獲得していないからである。マヨネーズで言えば、自作するが市販のマヨネーズの代替品でしかない時である。

そうそう関係ないが一昨日見たリヒターの作品は当たり前のように巨匠の域であったが、

マヨネーズ工場のようにも見えた。

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1本の木が森になるか

森の中で暮らすにはどうするかと考えながら設計をしているのだが、敷地が東京の区部でそれを実現するには広大な土地が必要になり無理だな、とぼんやり赤坂の迎賓館あたりを見下ろしながら考えていた。

森の中にいる感じを木の量で実現しようとすれば広大な土地が必要になる、当たり前である。では量でしか森を感じることはできないのか、探究のはじまりである。

1本の木で森を感じることはできないか。

普通に考えたら、というかそもそもおかしな問いの立て方である。1本の木が森になる、小学生の時に習ったはずである国語の時間に、木が2つあって「林」、木がたくさんあって「森」という漢字になると。まともな捉え方では解決しない。

ちょっと別視点から、その木は誰ものか。

自宅の玄関脇に1本のオリーブの木がある。最初は親指ほどの幹が今では私の太腿より大きい。毎年実をつけ、どんどん成長していくので自分で手入れをしている。また、2階のキッチンの窓からはお隣の木を見下ろすことができる。こちらは何の木だかはわからないが常緑で小鳥もよくやってきて鳴いているので、毎朝窓を開けてコーヒーを飲みながら眺めている。

どちらがより森にいる感じに近いか。

どちらも森にいる感じではないと言われればそうだが、強いて言えば、お隣の木を眺める方ではないかと思った。

そこで所有が鍵にならないかと考えた。

森を感じる時に自分のものであるかどうかは最初から頭にない。当たり前である、森の木と自分との間には何も関係性が無いから。関係性が無いから自分勝手に想いを抱き、そこに癒しを求めることができる。

長屋計画である。各長屋の中庭に1本の木を植える。ただし、その中庭は外部からアクセス可能であり木も共有である。長屋の数だけ木がある。10戸近く長屋があれば木もそれなりに目立つ、ただし、自分の木ではない。この感じは森に近いのではないか、そして、各長屋では木に接近した暮らしが実現できる。

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慣習以外の視点

日本では敷地の中で建築は北側に配置し、南側に庭を取るのが一般的である。その一番の理由は日当たりを確保することで、四季がある日本では季節により太陽高度が違い、その差が室内環境に大きく影響を与えるから、太陽高度の知識が無くても慣習的に建築の北側配置、南側に庭というパターンが昔から定着しているのだろう。ただ当然、人の暮らしや生活は太陽高度だけで決まる訳ではないから、このパターンとは違うことを考え比較する。その時にいつも思うのが建築は北、庭は南というパターンの説得力の強さである。それだけ人の暮らしや生活を慣習以外の視点で捉えることが難しいということである。だが同時にそこにデザインのヒントがあるとも思う。

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"A Perspective Outside of Convention"

In Japan, it is common to place the building on the north side of the site and take the garden on the south side. The main reason for this is to ensure sufficient sunlight. In Japan, which has four seasons, the altitude of the sun varies depending on the season, and this difference greatly affects the indoor environment. The pattern of arranging on the north side and the garden on the south side seems to have been established for a long time. However, of course, people's lives and lifestyles are not determined only by the sun's altitude, so I will compare things that are different from this pattern. At that time, I always think about the strength of the persuasive power of the pattern that the architecture is in the north and the garden is in the south. This means that it is difficult to understand people's lifestyles and lifestyles from a perspective other than customs. But at the same time, I think there are design hints.

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SNSを眺めながら

SNSはすべてのことを時系列で並列にしてしまう。それはSNSを見ているだけで勝手にすべての物事が時系列で相対化されることである。下から上に向かって相対化された物事が勝手に羅列されて積み上がっていく様は考えることを放棄させる。本来物事の相対化が考えることであり、SNSを見ていると何も考えていないのに考えているような錯覚に陥る。それはSNSを使って何かを仕掛ける側にとってはパラダイスなプラットフォームなのだが、享受する側にとっては頭の向きを自身で変えることができないように固定されているようなものだとSNSを眺めながら思った。

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"While looking at SNS"

SNS makes everything chronological and parallel. It is that all things are relativized in chronological order just by looking at SNS. The way things that are relativized from the bottom to the top are arbitrarily listed and piled up make me abandon thinking. Originally, thinking is to relativize things, and when you look at SNS, you fall into the illusion that you are thinking even though you are not thinking about anything. Looking at SNS, I thought that it was a paradise platform for those who used SNS to set things up, but for those who enjoyed it, it was like being fixed so that they could not change the direction of their heads. .

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奥はプライベートなスペース

住宅街の中で大きな敷地があると分割されるケースが多いが、分割せずに一塊の建築にしようとすると必ず奥の部分ができる。奥の部分とは道路から一番遠い場所である。一般的に建築の場合、道路側から順に奥へ向かってパブリックなスペースからプライベートなスペースへと変わっていく。だから、プライベートなスペースをつくりたい場合、奥にあるということだけでプライベートなスペースだと認識されてしまうので、建築としては特に何もする必要が無くなる。これは人の認識を利用する訳だが、大きな敷地の場合、それだけ建築の配置計画が重要であることを示している。

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"Private space in the back"

In many cases, when there is a large site in a residential area, it is divided, but if you try to build a single building without dividing it, there will always be a back part. The back part is the farthest part from the road. Generally speaking, in the case of architecture, from the road side to the back, the public space changes to the private space. Therefore, if you want to create a private space, it will be recognized as a private space just because it is in the back, so there is no need to do anything in terms of architecture. This is based on human recognition, but in the case of a large site, it shows that the architectural layout plan is that much more important.

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形を構成して風景をつくる

雑多な要素が日常には溢れる。それを入れる器として住宅を考えるならば、雑多な要素を物理的に見えなくしてしまうか、見えている要素を意識させなくするか、あるいは雑多な要素を美しいものに変換させるかが必要だろう。それらを端的に言うと、見えなくするには収納を多くする、意識させなくするにはより強い強度のもので雑多な要素を覆う、例えば、大屋根や高い天井で覆う、そして美しいものに変換するには雑多な要素を主役にして室内風景の一部あるいは室内風景を構成する一要素としてしまうことである。

このうち美しいものに変換することに興味があり、雑多な要素を主役にすることは外部における見え方である景観にも使える。雑多な要素を風景の一構成要素にする場合、雑多な要素の中での共通事項を取り出して構成するのが良く、その共通要素は形だと考えている。

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"Composing shapes to create landscapes"

Miscellaneous elements overflow in everyday life. If we think of a house as a container for it, we must either make the miscellaneous elements physically invisible, make the visible elements invisible, or transform the miscellaneous elements into something beautiful. . To put it simply, to make it invisible, we need more storage, to make it invisible, we cover miscellaneous elements with something stronger and stronger, for example, cover it with a large roof or high ceiling, and transform it into something beautiful. To do so, it is necessary to make miscellaneous elements the leading role and make them a part of the interior scenery or an element that composes the interior scenery.

Of these, I am interested in transforming them into something beautiful, and making the miscellaneous elements the main characters can also be used for the landscape, which is how it looks on the outside. When using miscellaneous elements as a constituent element of a landscape, it is better to take out common items among the miscellaneous elements and compose them, and I think that the common element is the shape.

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ただ空間があるだけ

中庭を持つコートハウスを設計しようとすると、自然と中庭に何か意味を持たせてしまう。特に意味を持たせないでただ空間があるだけ、誰も利用できない、ただ眺めるだけで、空白地帯のように扱ってもいいのに空間を隅々まで無駄なく使おうとしてしまう。それはもしかすると空間の可能性に気づけなくする行為かもしれない。ただ空間があるだけ、それをどう使おうかと考えることも暮らしなのではないか。それこそその方が自分にとっての暮らしとは何なのかと考えるキッカケになり、自分の暮らしの可能性を広げることにもなるのではないかと考えるクライアントでありたい。

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"There's just space"

When you try to design a courthouse with a courtyard, you naturally give the courtyard some meaning. It's just a space without any particular meaning, no one can use it, you can just look at it and treat it like a blank area, but you try to use every corner of the space without waste. It may be an act that makes us unaware of the possibilities of space. Just because there is space, isn't it part of life to think about how to use it? I would like to be a client who thinks that it will be an opportunity to think about what life is for him and that it will also expand the possibilities of his life.

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楽しい暮らしは想定しない

建築空間を生み出す時に予め楽しいだろう暮らしを想定しないことで新たな建築の価値が生まれるだろうと考えた。あらゆる種類の建築空間を実際に見聞きしてくると、空間とその空間を使うことでの楽しさがリニアにつながり、それが建築全体の枠組みと化してしまう。この建築全体での枠組みが建築を見慣れたものにしてしまう。いわゆる既視感である。既視感には安心感はあるかもしれないが、新たな建築の価値は生まない。

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"I don't expect a happy life"

I thought that a new architectural value would be created by not assuming an enjoyable life in advance when creating an architectural space. When you actually see and hear all kinds of architectural spaces, the space and the enjoyment of using that space are connected linearly, and it becomes the framework of the whole architecture. This framework of architecture as a whole makes the architecture familiar. This is the so-called déjà vu. A sense of déjà vu may provide a sense of security, but it does not create new architectural value.

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木を利用する

外の空間の話。水平方向の連続した壁があり、それは木造であったりRC造であったりして、その壁同士の間に木がある、あるいは木と木の間に壁がある。そこには何も関係性は無く、あるのは壁の連続性と木の点在である。はじめから何かそこに意味付けをしたくなく、不規則に変化する木を利用し、木が成長していけば壁との関係が、さらには建築まで含めた関係性がその都度変わり、そこに住人のアクティビティも加わり、当初の思惑とは違うことになるだろう。コントロールすることでできる関係性がつくる空間は予想に反した驚きが生まれない。また、その壁が室内にも対となり現れる。室内から外へではなく、外から室内へとつなげることにより住空間にも木を利用した予想外のことが生まれる可能性がある。それは建築の存在に木が深く関わることを意味する。

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"use wood"

Talk about the outside space. There are continuous horizontal walls, which may be wooden or reinforced concrete, with trees between them, or walls between trees. There is no relationship there, just the continuity of the walls and the scattering of trees. I didn't want to attach any meaning to it from the beginning, so I used a tree that changes irregularly. Residents' activities will also be added to this, and it will be different from the initial speculation. A space created by a relationship that can be controlled does not create unexpected surprises. The walls also appear in pairs in the room. By connecting the outside to the inside instead of the inside to the outside, there is a possibility that unexpected things will be born using wood in the living space. It means that trees are deeply involved in the existence of architecture.

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水平方向のレイヤード

外が連続して室内に至る、また逆に室内が連続して外に至る。外と室内の関係性をきっちりと分け隔てるのでななく混在させようとしたら、連続的にレイヤードさせようと考えるだろう。レイヤーというと垂直方向の層の積み重ねをイメージするが、水平方向にも適用できる。垂直方向ならば床をレイヤーとするが、水平方向ならばレイヤーは壁になる。壁が連続的に配されていく様である。水平方向のレイヤードは人をプライベート空間からパブリック空間までシームレスにかつ不連続につなげることを可能にする。さらに壁には様々な機能を組込むことが可能であり、エコや環境に配慮するために外と室内を分断することに対して外と室内の連続性を担保しつつエコや環境に配慮することができる。

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"Horizontal Layered"

The outside reaches the interior continuously, and conversely, the interior reaches the exterior continuously. If you try to mix the relationship between the outside and the inside instead of separating them, you will probably think of layering them continuously. When we think of layers, we imagine stacking layers vertically, but they can also be applied horizontally. If it is vertical, the floor is the layer, but if it is horizontal, the layer is the wall. It seems that the walls are arranged continuously. Horizontal layering makes it possible to seamlessly and discontinuously connect people from private spaces to public spaces. In addition, it is possible to incorporate various functions into the wall, and in consideration of ecology and the environment, it is possible to separate the outside and the interior, while ensuring the continuity between the exterior and the interior while considering ecology and the environment. can be done.

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外装の批評性

外装だけを抜き出して考えてしまう。外装は外部環境と内部空間の間に一皮一枚だけ存在し、建築に一枚の布を被せるようなイメージである。その布はその時々で変化する。それはまるでTPOに合わせて変える服のようである。今回はどのような服を纏わせるかと考える。その服は装飾的で目立たせる場合もあるし、周辺環境に馴染ませようとする場合もあるし、馴染ませつつ違った形で映えようとする場合もある。いずれにせよ判断基準はその場所での相対的な立ち位置をどこにするかであり、その外装の存在が周囲に対して批評性を帯び、それがクライアントの所有欲を満たすことにつながることを目指し、引いてはそれがよくある住宅への批評性を帯びると考えている。

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"Criticality of Exterior"

I pull out only the exterior and think about it. Exteriors exist as a single layer between the external environment and the internal space, giving the impression of covering a building with a single sheet of cloth. The cloth changes from time to time. It's like clothes that change according to TPO. Think about what kind of clothes to wear this time. Sometimes the clothes are decorative and stand out, sometimes they try to blend in with their surroundings, and sometimes they try to blend in and look different. In any case, the criterion for judging is where the relative standing position in the place is, and the existence of the exterior is critical of the surroundings, aiming to satisfy the client's desire to own. , and by extension I think it takes on a critique of ordinary housing.

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中庭は空白の場所

コートハウスの中庭は室内と一体的に使おうと考える場合が多いかもしれない。屋外の緑、光や風といった自然を取り込むことを目的として積極的に活用しようとする。今までもいくつかコートハウスを手がけてきた。その際にクライアントからの要望もあったがどちらかというとこちら側からの提案でコートハウスにする場合が多かった。その場合、中庭は積極的に空白、無の場所にしようとした。大概ウッドデッキを室内と同じ床高さで中庭全面に敷いた。室内と同じように続く空間として表現し、しかし、何も目的を与えなかった。何も目的を与えないことでただ室内から眺めるだけの空間になる。同じ床高さであるだけに積極的な空白、無の場所となり、室内の煩雑になりがちな暮らしの対比として中和してくれる。住宅ではそのような場所が必要だと思う。

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"The courtyard is a blank place"

In many cases, it may be thought that the courtyard of the courthouse should be used integrally with the interior. We try to actively use it for the purpose of incorporating nature such as outdoor greenery, light and wind. I have worked on several courthouses. At that time, there were requests from the client, but in many cases it was a proposal from our side to make it a court house. In that case, I actively tried to make the courtyard a blank, empty place. A wooden deck was generally laid on the entire courtyard at the same floor height as the room. It was expressed as a continuous space like the interior, but without giving it any purpose. By giving no purpose, it becomes a space that can only be viewed from inside the room. As the floor height is the same, it becomes a place of positive blankness and nothingness, and neutralizes it as a contrast to the life that tends to be complicated indoors. I think you need a place like that in your home.

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中庭は何か

コートハウスの中庭は外なのか中なのか。どちらにでもなり得る。関連付けをどうするかの問題である。では選択肢は外と中だけだろうか、と考えたくなる。

コートハウスは世界中で環境や地域を問わずに見られる形式であり、それだけコートハウスという形式には普遍性があるのだろう。しかし、皆同じという訳では無い。中庭の役割が環境や地域によって違う。中庭に何を求めるか、何を関連付けるかに依る。何を求め、何を関連付けか次第で外でも中でも無い、あるいは外でも中でもある、そのような二面性、両義性、あるいは渾然一体となった中庸な場所ができると考えてみた。

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"What is the courtyard?"

Is the Courthouse courtyard outside or inside? It can be either. The problem is how to make the association. Then I want to wonder if the only options are outside and inside.

The courthouse is a form that can be seen all over the world regardless of the environment or region, and that is why the form of the courthouse has universality. However, they are not all the same. The role of the courtyard differs depending on the environment and region. Depends on what you want and what you associate with the courtyard. Depending on what you are looking for and what you associate with it, I thought that you could create a moderate place where there is such a duality, ambiguity, or a harmonious unity between outside and inside, or outside and inside.

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抽象度高く生活空間をつくる

2階建てや平屋でも屋根直下の部屋の天井は、屋根形状なりに仕上げることが多かった。それは天井の上はすぐ屋根で空があることを表現したかったのかもしれない。あるいは、その部屋が空に近い、空と隣り合わせということを暗示したかったのかもしれない。そうすることで空間に変化をつけ暮らしに影響を与えようという意図がわかる。

別の見方をすると、天井を屋根形状なりに仕上げることでその部屋が存在するための具体的な証拠を得ようとしたのかもしれない。生活空間と考えれば具体的な何かが欲しくなる。ならば、生活空間と考えなければ具体性は必要なくなり、抽象度を高めるために天井を屋根形状とは関係なくつくることことになるかもしれない。どちらにせよ用途が住宅ならば生活空間にはなる訳だから、天井を屋根形状とは関係なくつくり、抽象度を高めた生活空間を試みる方が面白そうだ。

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"Creating a living space with a high degree of abstraction"

Even in two-story or one-story houses, the ceiling of the room directly under the roof was often finished according to the shape of the roof. It may be that he wanted to express that there is a roof right above the ceiling and there is a sky. Or maybe he wanted to imply that the room was close to the sky, next to it. By doing so, you can understand the intention to change the space and influence the living.

From another point of view, the ceiling may have been finished in the shape of a roof in an attempt to obtain concrete evidence for the existence of the room. If you think of it as a living space, you want something concrete. If so, if we don't think of it as a living space, there is no need for concreteness, and in order to raise the degree of abstraction, we may end up making the ceiling regardless of the shape of the roof. In any case, if the purpose is a residence, it will be a living space, so it seems more interesting to create a living space with a higher degree of abstraction by making the ceiling independent of the shape of the roof.

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