らしさを形にすることは独創

らしさを形にする時、どこにでもあるような、特徴のない形になってしまうことは避けたい。たぶん、らしさを形にする時、そこが一番抵抗を感じるところだと思います。誰も見たことが無いものをつくりたい、新しいものをつくりたいと考える。その考え自体は良いと思います、そうでないと新しいものは生まれないから。

ただしかし、新しいかどうか、誰も見たことが無いかどうかは誰が判断して、誰のためになるのでしょうか。新しくて、誰も見たことが無いものをつくるのは案外簡単なのです。人に受け入れられることを考えなくても良ければ、誰でもできる。

らしさを形にする最大の目的は、人に受け入れられやすくするためです。独創とは、人の上に成り立ち、尚且つ、滅私したところに存在すると思うのです。滅私、すなわち、それはらしさを纏うこと、その上で、誰にもできないものをつくり出す、精度を高めて、外しズラして。

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だから、外すズラし方の指南は「人に受け入れやすくするために行う」です。それだけでイメージが湧いてくるはず、難解に見せる、面白く見せるためでは無くて、外しズラした方がより人が良いと思い受け入れる、そして、それが独創になる。この場合の人は、特定の個人、クライアントでもいいですし、不特定多数の人、社会に生きる全ての人でもいい、用途により、それは違うでしょう。

らしさを形にすることが、実は独創につながる、これを理解できている人は案外少ないかもしれないです。

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らしさを形にする手法

らしさを形にする時、どこにでもあるような、特徴のない形になってしまう可能性があり、だから、同時にその形が特徴にもなることを考えなくてはならない。

これは建築だけのことではなくて、デザイン全般、あるいは、ものづくり全般に、料理にもいえることだと思います。

そのための手法は2つあると考えていて、ひとつは外すズラす、もうひとつは精度を上げる。

外すズラすは、そこにほんの少しの違和感を挿入することです。「らしさ」はそのものではなく、どこにでもあるような特徴のない形はそのものか、そのものを真似た形であり、そこに僅かな、本当に少しの変化や、異物や、異形などを施すことにより、らしいもの、「らしさ」を纏ったものにする。

もっと付け加えますと、その外しズラした部分が見る者の意識に引っ掛かりを与え、見る者の想像力を掻き立てるので、より印象に残りやすい。

もうひとつの精度を上げるは、簡単にいうとクオリティを上げることです。形は同じでも、精度が高いだけで特徴になります。「らしさ」を追求した結果、どこにでもあるような特徴のない形になったとしても、そこから細部にわたって形のつくりの精度を上げていけば、その形の完成度が高くなり、結果的にそれが特徴になります。

ただ、精度を上げるためには、高い意識と高度な技術が必要になり、それだけに誰にでもできることではなくて、だから、特徴になります。

反対に、外すズラすは、高度な技術が無くてもできます。なぜならば、外すズラすは、精度を落とす行為と同じことをするからで、それだけに誰にでもできることですが、今度は外し方、ズラし方が重要になってきて、そこが直接特徴になる訳ですから、外すズラすための高い能力が要求されます。

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どちらの手法でも特徴ある「らしさ」を形にしたものをつくることはできるので、あとはどちらを選択するかですが、できれば、精度高く外しズラした形をつくりたいと考えています。

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らしさを形にする時は注意

らしさを形で出そうと考えています。素材もあると思いますが、瞬時の印象で一番残るのは形だろうと思います。

本当に小さな建築になる、だから、外形を一目で把握できてしまう。その形に好き嫌いの感情が伴うこともあるでしょう。全く好き嫌いの感情を外して成り立つことは考えにくいので、好き嫌いを超えた形をつくりたいと考えています。

好き嫌いを超越するには、やはり「らしさ」が必要になるのではないでしょうか。誰もが連想できる形、それが「らしさ」だとしたら、「らしさ」があれば、好き嫌いの感情がそもそも起きにくいのではないかと思います。

「らしさ」を別の言い方をすれば「馴染みやすさ」になるかもしれません。それが安心感を呼び、その安心感がその形を受け入れやすくする。ただそうなると、案外、どこにでもあるような、特徴のない形になってしまう可能性もあります。それが「らしさ」を形にする時に注意をしなくてはいけないところでしょう。

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だから、「らしさ」を形にしながら、それが特徴にもなることを同時に考えなくてはなりません。

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らしさを纏う建築

線路際、よく見える場所、線路に沿って細長い変形地、そこで平屋、飲食兼料理教室を行う小さな建築を考えている。

お話をいただいて、実際に行うかどうかもまだわからない、影も形もない現状で、現地を見て、これは面白そうな仕事になる予感がして「是非」と思い、それから「らしさ」をずっと考えていた。

敷地の形や大きさと、平屋との希望から、本当に小さな建築になる予定で、そうなると、必然的に建築全体を一目で判断することとなり、それで建築としての印象が、イメージが決まってしまう。要するに、建築のデザインが印象と直結するのである。

だから「らしさ」が必要かというところから考えて、使い古された言葉だが、アイコンのような、その建築を見ただけで、飲食店のような、料理教室のような「らしさ」を醸し出している方がよいのかどうなのか。

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むしろ「らしさ」を外すのは簡単なので、何々に見えないようにするのは案外簡単なので、「らしさ」を醸し出すデザインを、それも建築のデザインとして成り立つものを、そちらの方が遥かに難しいので、「らしさ」を醸し出し纏う建築を考えている。

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拾い集めるだけても

あとここが良くなればいいのに、あとここがこうなっていれば手に入れようと思うのに、ということがよくある。そういう時は大抵、自分の中でははっきりとはしていないが、なんとなくこういう物が欲しいことはわかっていて、でも具体的なイメージをまだ考えていない。

違和感を感じている状態ともいえるが、そこからよく考えると、あとここがという部分になかなか答えが見つからない、それはわかっていないからか、知識がないからか、技術がないから。

それと、その違和感は同時に、普通すぎて、よく見かけるし、ありきたりで、つまらないから、何とかした方がもっと良くなるという想いも伴う。

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だから、あとここが良くなればいいのに、あとここがこうなっていれば、という想いをたくさん拾い集めるだけでも、コロナで家にいてはできない体験だなと思っていた。

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らしさと精度

人は「らしさ」を無意識のうちに求めている。

家らしさ、建築家らしさ、飲食店らしさ、などなど、究極は人間らしさか、「らしさ」を求めているというよりは、「らしさ」があるとわかりやすいから、人はわかりやすいものに惹かれるのだろう。

「らしさ」は厄介だなと思う。無視はできないし、でも無視したいし、らしいものをつくるより、らしくないものをつくりたくなる。誰も見たことがないものをつくりたくなる。

世の中で一番多いのは、斬新だけど売れないものらしい。だから、売れないと困るから「らしさ」が気になる。

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精度高く、クオリティ高く、「らしく」なく、誰も見たことがないものをつくったら、どうなるのだろうか。それが斬新だけど売れないものなのだろうか。精度が高ければ、売れると思うのだが、精度が高いものは誰でもつくれるものではないから。

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らしさは必然か

らしさは建築には必要なのか、物全般にいえることかもしれないが、「らしさ」がないと人はどうしていいのかがわからないのかもしれない。

建築以外だと「らしさ」から人は使い方を推測するので、「らしさ」は残しつつ、余計な物は削ぎ落として、シンプルに機能性重視のデザインでつくるか、もしくは「らしさ」にデコレーションして、「らしさ」に付加価値をつけるか。

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付加価値をつける場合は気をつけないと、やり過ぎると「らしさ」が消えて何だかわからなくなる。それがアート作品であれば、それはそれでいいのだが、使い道や用途があるならば、道具としての、物としての「らしさ」が無くなると価値も無くなる。そのことがわからずに、よく勘違いしている物を見かける。

使い道や用途がはっきりしているならば、やはり「らしさ」は必要なのかもしれない。ならば、建築にも当然「らしさ」は必要になるはずだが、なぜか同意しつつ違和感がある。

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らしさはデザインか

「らしさ」はデザインの範疇なのかと考えた。家らしさ、飲食店らしさ、工場らしさ、遠くから見て、その外形や外観でその建築が何の用途なのかがわかることは大事なのかとも考えた。

「形態は機能に従う」ではないが、その建築が何のためにそこに存在しているのかを外観が一目で教えてくれることはよくあるし、そういう外観の判断を実際の手掛かりによくする。

駅らしさ、交番らしくさ、病院らしさ、学校らしさ、こうやって「らしさ」を並べていくと、言葉では上手く言い表せなくても、何となく「らしさ」の違いを感じることはできるだろう。そういう感じの違いを頼りに目的地を探し当てたりしている。

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設計する時に意識して「らしさ」を演出することは、そうはないとは思うが、結果的に「らしさ」の範疇に落ち着くことが多いのは、建築計画学における建築の用途の違いが結果的に「らしさ」の演出になっているからだろう。だから、「らしさ」を意識しなくても、自然と「らしさ」の範疇におさまることになる。

建築以外のデザインの世界では「らしさ」やシズル感が重要視されているが、デジタル化に伴い、その「らしさ」やシズル感の演出に苦労している。それはデジタル化によって「形態は機能に従う」ではなくなってきたからで、形態は単なる「装飾」として存在するだけで、機能は形態を必要としなくなったから。

そして、「装飾としての形態」はユーザーとの関係構築のためだけにつくられる。要するに、「らしさ」という装飾で物と人をつなげるだけが形態の役目で、はじめの第一印象を決める役目を形態が担う。ということは、やはり「らしさ」はデザインの範疇になるのだろう。

では、建築にとって「らしさ」は大事なのか、そもそも必要なのか、それはまた次回、ここに書きます。あと、「らしさ」には使用との関連もあります。

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自分でつくるとは精度による

自分でつくる、といっても、自分でつくるわけではなくて、人につくってもらう。自分で構想して、人につくってもらっても、自分でつくるという。つくる、ということに対して、自分の手を実際に動かすかどうかはあまり関係がないと思っている。

だから、自作といっても、構想はするけれど、実際に手を動かしてつくるのは専門の職人かプロに任せる。趣味程度でよければ、自分の手を実際に動かしてつくるが、それでは、出来上がったものに、その精度に満足できないのがわかっているから、自分では手を出さないし、そもそも趣味程度のものをつくるために構想はしない。

今までに建築において、実際に自分の手を動かして自作したことは何度かある。その時は予算が無かったのと、ちょっとやってみようかなという気持ちになったからで、ただ、精度を求めてつくり方を考えたが、やはり、その道の専門の職人では無いので、引き出しが無いというか、自分ができる範疇でしか考えられないので、出来上がったものは、それはそれで良いのだが、何かもの足りなかった。

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ただ、精度を求めなければ、つくること自体は楽しいので、上手に楽しさと精度のバランスが取れるならば、自分の手を実際に動かしてつくりたい。しかし、常に出来上がりの精度が気になるし、その精度も求めているデザインの範疇だから、高い精度でないと満足できない。

自分の手を実際に動かしてつくることは、精度の曖昧さがデザインの特徴になる場合でしか成り立たないのかもしれない。

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木目を装飾として扱う

木の仕上げが施された空間にいると、他の仕上げ、例えば、コンクリート打放しの空間にいるより、癒されたり、落ち着いたりするのだろうか。

よく木をたくさん室内の仕上げに使うことを特徴とする住宅や商品化住宅がある。木をたくさん使う目的は、癒しであったり、木が自然を象徴し、自然を取り入れているというイメージの良さがあったり、また、それを望んでいる人も多いからだろう。

ただ、別の見方をして、木の表面の木目だけを取り出して考えてみることもできる。木目という装飾であり、木目という記号であり、無垢の木とは別もので、表面の木目だけを独立して考えてみる見方である。そうなれば、木もクロスやペンキや金属などの表面の仕上げの種類のひとつでしかなく、木の仕上げに特別な意味がなくなる。

装飾とは外の世界との調整をはかるためのものであり、装飾をして、自分の立ち位置を明確にするというお約束がある一種の記号のようなものでもある。

だから、クロスでもない、ペンキでもない、金属でもない、木目という装飾を施すことを選択する時点で、外の世界との調整がはじまり、立ち位置がはっきりしてくる。その調整や立ち位置の取り方を別の言い方で表現すればデザインになる。

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その木目のデザインの範疇には、当然、癒しや落ち着きなどの感情も含まれるだろうが、そこで止まってしまっては木目の持つデザインの可能性を活かし切れていないと考えており、木目を装飾として意識して、何かとそれを取り巻く世界や環境との折り合いをつけるために、選択肢のひとつとして木目を利用する。そうしてはじめて、木が癒しや落ち着きなどの感情を与えるだけのものから離れて、素材として、もっと自由に、もっと創造性豊かに扱えるようになる。

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光の造形で自然を感じる

建築ならば、建築で自然の中にいる心地よさや気持ちよさを表現する、それは決して自然を再現することではなくて、建築のデザインとして表現する。

フィンランドの建築家、20世紀の巨匠、アアルトの話を出した。造形、素材、光でフィンランドの自然を建築として表現し、心地よさや気持ちよさを体験させてくれる。

ここまで、素材と造形について書いた。それは素材や造形を通して建築と自然の関係性をまず書いた方がわかりやすいと考えたからで、光はそのものが自然であり、太陽の光は一様にどこにでも降り注ぐから、フィンランドの自然という地域性を出すことはできないと考えてしまう。

ところが、アアルトの自然を表現するデザイン要素として光を出した。アアルトは光も造形の一種、目に見える形を光に与えていた。だから、光は造形の下位属性になるかもしれないが、その造形としての光の扱い方がアアルトの建築の特徴だったので、造形と同等にした。

光を造形として扱う具体的な手法は、窓と呼ぶ開口部に造形を与えることだった。開口部は光の取り入れ口だから、そこが造形的になれば光を造形として表現できる、唯一光に形を与えることができる建築の部位は窓と呼ばれる開口部だけかもしれない。

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冬のフィンランドは雪に閉ざされ、太陽が見えない日が続き、直接光が室内に差し込まない状況では光を感じることもできない。そこで、きっとアアルトは光を造形的に扱い、光に形を与えることにより、冬のフィンランドで光という自然を象徴的に表現したのだろう。

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際立つ造形が自然を想起させる

建築ならば、建築で自然の中にいる心地よさや気持ちよさを表現する、それは決して自然を再現することではなくて、建築のデザインとして表現する。

アアルトの造形は決して自然の形ではないが、自然を想起させる形をしている。結局、人は目から入る自然の景色を自分が判断できるものに還元して認識している。

なので、自然そのものの形もそこに規則性を探し出して見ようとし、アアルトはその規則性を抽出して造形しているような気がする、だから、自然を想起させるのだろう。

アアルトの建築をスケッチすると、アアルトの建築に使われている丸味は結構きつい、丸味が強く、自然の丸味を誇張しているような気がする。それはデザインをする上で意図的に丸味を強調しているのかと考えることもできるが、そうではなくて、より強い丸味は余韻みたいなものを残し、それが伝播していき、自然を想起させることになる。

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それは丸味だけでなく、アアルトの建築に関する造形の全てにいえることで、自然を想起させるために、より人工的に形を際立たせることをしている。

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素材で自然を表現する

建築ならば、建築で自然の中にいる心地よさや気持ちよさを表現する、それは決して自然を再現することではなくて、建築のデザインとして表現する。

フィンランドの建築家、20世紀の巨匠、アアルトの話を出した。造形、素材、光でフィンランドの自然を建築として表現し、心地よさや気持ちよさを体験させてくれる、ただ、それはフィンランドでの自然であり、フィンランドでの心地よさや気持ちよさだと思い、そこから学び、日本では日本なりの自然を建築に取り込み、心地よさや気持ちよさを表現する仕方があると考えている。

やはり、建築のデザインには地方性を取り込みたい、その地方性が日本で建築をつくることの意味につながる。

アアルトの素材は、フィンランドで手に入る自然素材を使うのが前提だった。それは時代背景もあり、第二次大戦後、フィンランドはソビエトに賠償をする立場にあり、国として貧困になり、産業らしい産業もなく、使える素材は粗悪な木材しかなく、ならばそれをデザインで生かすことをやりはじめた。

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だから、その素材をデザインに利用した建築や家具などは、それを使うだけでフィンランドの森や湖をイメージできたし、それが心地よさや気持ちよさのデザインの源になった。

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人工の建築で自然の中にいるような

この季節、梅雨の晴れ間の適度な湿気がある風が心地よくて、緑の中を散歩したくなります。現場からの帰りに井の頭公園の水辺を歩くと、ほんとうに気持ちがいい。誰もがベンチでくつろぎ、思い思いに過ごしている。

こういう心地よさや気持ちよさを建築でどうやって表現するか、実現するか、そのままの緑や水辺をつくることができれば一番よいのかもしれないですが、敷地が狭かったり、そもそも庭がつくれないとどうしようもない。

建築家のアアルトはフィンランドの豊かな自然を造形、素材、光で建築の中に表現した。自然の中にいるような心地よさや気持ちよさを人工の建築で実現しようとすれば、自然をそのまま再現しても、それはどこまでいってもギミックであり、人の深層心理である心地よさや気持ちよさはそのような作為を見抜き拒絶反応を起こす。

ならば、人工である建築で自然の中いるような心地よさや気持ちよさを実現するには、それにふさわしいデザインが必要になる。そのデザイン要素がアアルトの場合、造形、素材、光だった。

では、造形、素材、光とは何なのか、それはまた次回、心地よさや気持ちよさを表現する建築デザインの話として、ここに書きます。

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住めば都は違和感を感じない

何かの問題や課題があり、それに対して建築のデザインで回答していく、これが建築の設計の本質だと考えています。もちろん、無理矢理に問題や課題をつくり出す必要はないですが、必ずといっていい程、問題や課題が存在するものです。

そして、家であれば、その問題や課題は、そこに住む人特有の問題や課題である場合が多い。だから、その問題や課題を建築のデザインで解決していけば、自然とそこに住む人にとって最適な建築のデザインが生まれ、住んでいて気持ちいい家になる。

だから、家に無理矢理、自分を合わせなくてもよくなる。案外、自分を合わせて住んでいて、それは慣れてくると違和感を感じなくなり、「住めば都」となるかもしれないけれど、スーツで例えたら、オーダーメイドのスーツの着心地の良さにはかなわないでしょう。

それに「住めば都」状態におちいると違和感を感じないから、課題や問題にも自分では気づかなくなる。設計のプロセスで問題や課題を意識してみるだけでも、今後の日常や暮らしを考える上で価値のあることだと思います。

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お互いに気になる気にならない

何かの問題や課題があり、それに対して建築のデザインで回答していく、これが建築の設計の本質だと考えています。もちろん、無理矢理に問題や課題をつくり出す必要はないですが、必ずといっていい程、問題や課題が存在するものです。

まず周辺環境に対する問題や課題が出てくることが多いです。どのような場所に建てようとしているのか、例えば、住宅街の中に家を建てようするとプライバシーの確保が課題になることもあります。

プライバシーの確保は他人の視線が気になるもので、ところが、他人が自分とは違う状態や行動をしていたら、案外間近にいても気にならないものです。そのいい例が通りに面したオープンカフェ。カフェでお茶をしている姿は通りから丸見えでも、通りを歩いている人とカフェでお茶をしている人は全く違う行動をしているので、お互いに気にならない。

ところが、住宅街ではお隣り同士が私生活をその場で行っているので、お互いに違う生活パターンで日常を送っていたとしても、私生活を送るという状態は同じなので、お互いが気になる時が出てくる。

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そうすると、後から家を建てる方が隣りの家の窓の位置を気にして配慮をする必要が出てきます。案外これが設計のプロセスにおいて重要なことになる時があります。

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つながりに着目してみる

「つながり」を意識することが設計プロセスでは多いかもしれない。

窓がつながりを表現しているものならば(『窓はつなぐもの』を参照)、他にも見えるもの、見えないもの、建築には実にたくさんの「つながり」が表現されている。

人の動きでいえば、家事動線もつながりだが(『つながりで家事も考える』を参照)、人が動き回ることをイメージし、その時の視線の動き、それによって見える風景が連続的に変化する様を「つながり」と捉えて、変化する様をデザインのテーマにし、空間を連続的に配置して考えていく設計もあり、また逆に、空間の連続的な配置から「つながり」を設計し、人の動きをデザインするやり方もある。

「つながり」に着目すると、まだまだ様々な事柄が設計プロセスに関係してくる。

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つながりで家事も考える

「つながり」を意識することが設計プロセスでは多いかもしれない。

窓がつながりを表現しているものならば(『窓はつなぐもの』を参照)、他にも見えるもの、見えないもの、建築には実にたくさんの「つながり」が表現されている。

例えば、「家事動線」という言葉がある。家事がしやすいように、家事をする場所や器機がどのように配置されているかを実際の人の動きを想定して線で結び、その線が短ければ短い程、家事が効率的に行え、時間もかからずに、疲れにくいという指標で、これも家事をする際の人の動作のつながりを表現したものである。

ただ、この場合の「つながり」は、お手伝いさんや将来家事ロボットなるものが存在したら、ありがたいことかもしれないが、家事を面倒なもの、効率的にさっさと終わらせて、他に楽しいことをしようよ、という裏の意味が込められているので、どうにも「家事動線」という言葉を設計プロセスで使いたくない。

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家事も日常の一部であり、仕事と同じで1日のうちでかなりの時間を使うことだから、家事を家づくりに巻き込むならば、家事が楽しくなる、したくなるようにするのが本来の設計プロセスではないかと思い、その場合の「つながり」は家事だけでは完結せずに、例えば、外部空間の庭やテラス、人がくつろぐ時の気分や感情までもつなげて、その場所でしかつくることができない「つながり」を創作することになるだろう。

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窓はつなぐもの

何とかの窓や何とかの窓口のように「窓」という言葉は外界とのつながりを含意する。建築においては「窓」というと、光や風や熱を取り入れるためにあるものとされるが、設計時にはやはり「つながり」を強く意識する。

窓はどこにあり、それがどのぐらいの大きさかによって、「つながり」を自由にコントロールしている。

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例えば、リビングでテラスに面して窓を設けようとした時、その窓の幅が大きくて、高さも床から天井近くまであれば、窓を開け放して、リビングとテラスを、室内と屋外を1つのつながりとして考えようとする設計の意図が見られるし、大きさが小さい窓をいくつも並べていたら、プライバシーに配慮して、室内と屋外のつながりを制限しているのか、あるいは、外の景色を額縁のある絵のように室内で見せようとしているのかなとも、それもひとつのつながり方になる。

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窓をつながりとしてみていくと、空間と空間のつながり、そのつながりの基点は人で、そうすると、窓は人と人をつなげるために存在しているものだとわかる。

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精度が上がること

窓は面白い存在だなといつも思う。建築の仕事の場では窓とはいわずに「開口部」という。窓を開口部というとプロっぽい。「開口部」だから、開いている部分ということになり、建築の設計においては窓の機能以上のことを負わせる。

光を入れる、風の出し入れは窓の機能ですぐに思い付くことで、それ以外にも熱の交換、光も入れるだけでなく、光の演出も、これは結構重要だと思っており、設計を志したキッカケでもあり、その他にも開口部をどのようにつくるかによって、窓とは感じさせない、壁の一部として取り扱うこともできるし、その開口部の納まりも枠なしに、ガラスだけとか、そうすると、ガラスが無いように見せることができたり、開口部を見るとその設計者の技量がわかる。

今、窓は、開口部は、専門的にいうと、都内だと防火設備の規定があり、防火設備とは隣家に近いと火に強くしないといくけないという法律で決まっており、鉄製だと自作ができるが、アルミ製だと簡単にいうと自作ができない、でも世の中、アルミ製がほとんどであり、それはメーカーが既製品として安価につくりやすいから、ただ、設計者として設計と共につくりたい開口部があるのに、アルミ製では少数ロットではつくれないし、防火設備として認定するのは難しいし、鉄製のサッシでは高価だし。

建築を実務ではじめた頃、不思議だった、建築基準法ではアルミは鉄ではない、世の中の窓はほとんどがアルミ製なのに、無理矢理、建築基準法に合わせるためにアルミ製のために許認可を求めている、ならば、いっそのことアルミを鉄と同等に扱えばいいのに、利権が絡むのだろう。

そのようなことはどうでも良いが、設計者としては窓の、開口部の、創作を自由にしたい、設計者に全責任を負わせてもいいから、開口部を自由に自作したい。

ここにきて、面白いもので、鉄製で自由にサッシを自作できる機会を得ている。もし上手くいけば、今後つくる建築の精度が上がる、今一番ワクワクすることは、つくることの精度が上がること。

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設計のプロセスをもう少し大事に

人は普段、実際の空間と意識の中にある空間の2つを同時に重ね合わせて、目の前に広がる空間を感じでいる。意識の中にある空間とは、過去にどこかで経験している記憶の中の空間で、それを実際に見ている空間に重ね合わせ、自分用に空間を合成をして感じている。

だから、人は自分に都合よく空間を感じ取り、好き嫌いも合わせて、意識の中にある空間に先導される。昔、気持ちがいい体験をした場所と似ていたら自然と気持ちがほぐれて、嫌な体験をした所に似ていたら、その時の嫌な気持ちが蘇ってくる。

理性的に空間を感じるより先に、感情的に空間を判断してしまう。

でも、ならば簡単だろう、自分にとって居心地が良い空間をつくるのは。自分が自然と気持ちいいと思える空間を寄せ集めれば良い、それで少なくともハズレはない。

ところが、面白いもので、普通の人には、自分が自然と気持ちいいと思える空間がわからない、普段、そのように空間を感じようとすることが無いから。そうすると、何をするか、他人が気持ちいいと思う空間をネットや雑誌で拾い集めだす、あるいは、展示場やショールームへ行く、自分ではわからないから、気持ちいい空間の正解を求めて、挙げ句の果てに、他人の気持ち良さを自分の気持ち良さと錯覚しはじめる。それでは勘違いしたまま、自分が気持ちいい空間を知らぬまま、完成してしまう、こんなものかなと。

設計のプロセスをもう少し大事にするだけでいいのにとつい思ってしまう。

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サポートが設計者の役目

人は普段、実際の空間と意識の中にある空間の2つを同時に重ね合わせて、目の前に広がる空間を感じでいる。意識の中にある空間とは、過去にどこかで経験している記憶の中の空間で、それを実際に見ている空間に重ね合わせ、自分用に空間を合成をして感じている。

だから、同じ空間でも人によって感じ方が違う。どのように感じるかは自由なのだが、先入観や知識に感じ方を歪められてしまうこともある。他の人が良いというと、良く感じられるように、影響されてしまい、空間の感じ方など簡単に変わってしまう。

だから、知識や人の意見から入らないこと、簡単にお手軽にネットや雑誌で調べないこと、空間などそこら中に、それこそ今いる場所も空間なのだから、感じることぐらい簡単にできる。感じ方に良し悪しは無く、感じ方に正解は無い。ただし、その人特有の感じ方はあり、それは誰にでもあり、それに影響を与えるのが意識の中にある空間のみである。

意識の中にある空間は、ネットや雑誌で調べてもわからない、それをわかるためには、自分で断片を拾い集めるがごとく、空間を意識の中から引っ張り出してこなくてはならない、そのサポートをするのが設計者の役目である。

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辿り着けない居心地良い空間

人は普段、実際の空間と意識の中にある空間の2つを同時に重ね合わせて、目の前に広がる空間を感じでいる。意識の中にある空間とは、過去にどこかで経験している記憶の中の空間で、それを実際に見ている空間に重ね合わせ、自分用に空間を合成をして感じている。

だから、意識の中にある空間がわからないと、自分が欲している、気持ち良いと思う、居心地が良い空間に辿り着けない。

しかし、普通の人に、その意識の中にある空間がわかる人はいない。そもそも、そういうことを考えたことが無いから。

はじめて家を建てる人で熱心な人は情報収集をする。しかし、これらの情報は、その意識の中にある空間には触れてこない。当たり前である、情報というのは意識の外にある事柄で、誰でも扱えるものでないと価値が無いからで、だから、いくら情報を収集をして知識を得ても、例えば、高気密高断熱、何とかソーラー、エコなんとか、無垢の木の家、これからだと、抗菌、抗ウイルスの材料などを知ったところで、自分にとって居心地が良い空間を求めているならば、そもそも辿り着けない。

その意識の中にある空間をわかるには、そういうものが存在していて、それを設計のプロセスに活かさないと、自分にとっての居心地が良い空間にはならないと知っている人が必要なのだが、プロでも情報収集で得られる知識が全てだと考えている人がほとんどだから、自分にとって居心地が良い空間に辿り着ける人はほんの一握りとなる。

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人とつなぐ精神

人は普段、実際の空間と意識の中にある空間の2つを同時に重ね合わせて、目の前に広がる空間を感じでいる。

意識の中にある空間とは、過去にどこかで経験している記憶の中の空間で、例えば、子どもの頃に住んでいた家の部屋であったり、たまたま訪れた旅行先の宿であったり、日常的に利用する商業施設であったりなどするが、原風景と呼ばれるような強く意識に刻まれている記憶も含まれる。

子供の頃に遊んでいた公園を訪れたとしたら、実際に目の前に広がる公園に、子供の頃の記憶に残る公園を重ね合わせて見ている。それを意識せずに無意識にやっており、子供の頃の記憶だから人によって皆違うので、同じ公園を隣り同士で見ていたとしても、隣りの人とは違う公園空間を感じ取っていることになる。

このような、実際のものと意識の中にあるものの2つを同時に重ね合わせて感じ取ることは、空間だけでなく、全てのものについてもいえるかもしれない。

だから、意識の中にある空間であったり、ものであったり、それに付随する言葉も含めて、そこまで対象としてつくろうとする精神が人と空間、人とものをつなぐことになると思う。

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空間を感じる時

空間を感じる瞬間というのがあると思うのです。それは壁や天井で囲まれていればいいという訳ではなくて、それでは単に室内にいるという感じだから、空間を感じさせる何かに出会うといった方がわかりやすいかもしれない。

空間を感じさせる何か、それはいろいろあるかもしれない、もしかしたら、人によっても違うかもしれない。

そこに人がいれば、あるいは、椅子のような物が置いてあれば、その比較によって空間を感じるかもしれない。ただ、それは空間の大きさを感じるのであって、空間そのものを感じている訳ではない。

そう考えていくと、私が今思いつくのは光しかない。

光は太陽からの自然光と照明による人工光に分けられるが、どちらの光でも、光が当たっているから空間を認識して、空間そのものを感じることができる。真っ暗ならば空間を感じるだろうか。

ただ、ふと思った、真っ暗でも、もしかしたら空間を感じるかもしれない。そうすると、空間を感じることには2通りあるかもしれない。

実際の空間を感じることと、人の意識の中にある空間、それは過去にどこかで経験している記憶の中の空間ともいえるが、真っ暗になった時に人の意識の中にある空間を感じるようになるかもしれない。

ということは、普段、空間を感じている時、人は実際の空間と意識の中にある空間の2つを同時に重ね合わせているのかもしれないと思った。

そして、それは建築を建て替える時に、その時、その場所、その人特有の空間の感じ方をつくることができると思えた。

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家をつくること

真っ新な土地にして、まず基礎工事からはじめるのが実際の住宅の工事手順ですが、その前にどのような家にするのか、どのような家にしたいのかを工事ができるように具体的なものにするのが設計です。

その設計をまず最初から家の性能や指標や数値で考えていくやり方があります。例えば、高気密高断熱の家などのように、年間を通して快適な室内温度を保つことを目的に、具体的な計算式を使い、間取りから材料の選定や設備機器までを決めていく。

他に材料にこだわり、家づくりを進めていくやり方もあります。例えば、木の家であることを強調し、無垢の木を室内にたくさん使うことを大事にするなど。

最初にどのような家にしたいかのイメージが無い場合やどのような家にしたいかがわからない場合は、性能や指標や数値で考えたり、材料にこだわりを持つところから家づくりに入る方がわかりやすいかもしれませんが、流行りすたりがあります。

材料や設備などはどんどん進化しますが、家は一度建てたら、簡単に材料や設備を更新できません。だから、材料や設備などは年月が経ても価値が変わらない定番をおさえれば良いと考えています。

家の性能や指標や数値は計算式を知っていれば、誰でも年間を通して快適な室内温度を保つ設計はできます。

ただ、本来どのような家が良いかは住人によって一人一人ちがいます。材料や設備だけでは決まりません。その一人一人のちがいを考え、イメージし、合わせていき、家として具体的な形にして、工事ができるようにするのが本来の設計で、一人一人がイメージしやすいように手助けするのが設計者だと思います。

設計も工事も実際の家が完成するためのプロセスですが、工事は設計したものを実際の家にすることですから、その前の設計段階でどのような家かが決まります。

その設計を何度も経験する住人はいないでしょう。ならば、わからないことが多いけれど、その設計というプロセスを楽しみながら、今一度、一生に一度かもしれませんが、自分はどういう家に住みたいのかを想ってみるのもいいかもしれません。設計というプロセスは楽しいですよ。

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光を通す階段

よくやるのが階段で光を取り入れること、階段を吹抜けだと考えれば、窓の位置しだいで、光の量を自由に調整できる。

光の量を最大限にしたければ、階段の真上にトップライトを設ける、そもそもトップライトは壁にある窓より3倍の光の量が入ってくる。そして、階段の段板をメッシュやガラスにして、トップライトからの光を下まで落とせば、住宅密集地の1階でも明るくなる。

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特に、らせん階段を利用すると、最小の階段面積で、最大限の効果が得られる。

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窓明かりが見えた

東京アラートが発令されて、都庁とレインボーブリッジのライトアップが赤色に変化しましたが、色や照明で何かを抽象的に伝えるという手法は、言葉で直接わかるように伝えようと試みるより、深く印象的に伝わるように思います。

言葉だと字義通りの解釈しかできず、言葉使いや言い方、表現の仕方によっても、受け手の印象が変わり、場合によっては拒否反応が起こる可能性がありますが、色や照明のような抽象的な表現だと、それを見る人が自分の都合のいいように読み取り解釈することになるので、拒否反応が起こりにくく、読み取った解釈がより深く意識に入り込むのだと思います。

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よく、窓明かりがもれるように、それが道路から見えるようにします。外灯ではなく、窓の明かりだと、その家の住人ならば、直感的に誰かいる、もっというと、誰がいるかまでわかるはずです。

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それは夜帰ってきた時の喜びや嬉しさや安心感につながるような、それは人それぞれ解釈の仕方は違うかもしれませんが、少なくともわるくはない、ちょっとホッとするようなことかなと思いまして。

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外観の特徴は新たな人のため

外観に色を散りばめることをよくやります。それを外観の特徴としたいから、なぜ特徴にしたいか、それは建主自身がその家で自分に合った新しい生活をはじめるから、その家は建主にしか住みこなせない家だから。

完成するまで家と人は別々で接点がありません。そして、住みはじめることによって接点ができ、そこで家と人の関係性ができて、新たな人が誕生すると考えています。

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そして、その新たな人がさらに新たな家をつくり上げていく。その様を外観に特徴として表現する。その特徴はきっと今までに建主が目にしたことが無いものにすることによって、そこに新たな自分を感じ取って欲しいから。

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三角屋根の家の形

子供に家の形を描かせたら、たぶん、三角屋根を最初に描くだろう。それは大人も同じで、家=三角屋根が一般的な家のイメージ、アイコンのように、そういえば、サイトのホームへ戻るボタン、トップページへ戻るボタンも三角屋根の家のアイコンだったりする。

仕事場からいつも車で帰ってくるクライアントに、何か我が家に帰って来た感をプレゼントしたくて、それを外観で表現して、窓を設けずに、三角屋根の家の形を宙に浮かせて見せた。

宙に浮かせたのは車で帰って来た時に遠くからでも見えるにようにと、三角屋根の家の形が強く印象的に出るようにと、それが誰にでもわかる特徴となるようにと思って。

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