厚みがあるなし

何でもかんでも平面的に捉えてしまう。昔、村上隆がスーパーフラットということをいっていたけれど、東山魁夷の絵が好きで、一番最初に絵を見て感化されたのはウォーホールのキャンベルスープなので、陰影がなく、空気遠近法でもなく、画面という二次元に三次元を描くためになるべく平面的にしようという、変化球を投げようとしたら、結局直球になり、ただ、その直球が何ともいえないシンプルな味があるような、ややこしい捻くれ者の表現が心にささる。

だから、建築という三次元の代表のような存在を表現する時にも、平面的に、フラットに、イメージでは陰影がなく、その場面場面は建築をスライスした断面という二次元を見ているような感じです。

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だから、そこにいる人も厚みがなくペラペラでひらひらした存在、人間とはそういうもので、人間は社会の中で存在する人なので、その社会の在り方によって人はどのようにも人間として変わるし、変われる、人間には厚みは必要ではないかもしれない。

そのような見方だから、柔軟に人間としてウィズコロナに合わせ、ひらひらと変わればいいし、後で振り返ったら、今のこのややこしい時があったから、人として厚みが増したと思いたい。

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