意識してしまう建築、それは精度

毎日毎日、建築ばかり見ている、それは誰でも同じで、街を歩けば誰でも建築を見ます、どこにでも、そこらじゅうに建築は建っているから、でも後で振り返った時に、例えば、1日を振り返ってみて、覚えている建築はいくつあるだろうか、いや、いくつどころじゃなくて、ほとんど覚えていないだろう。建築をやっている私でさえ、ほとんど覚えていない、覚えているのは利用した建築ぐらいで、見てはいるけれど覚えていない。

ほとんどの人が目の前を通り過ぎる建築を覚えていない、見ていない、それはそこに建築が存在していないのと同じです。その証拠に、今まであった建築がある日突然取り壊されて無くなってはじめて、そこに今まであった建築のことを気にするが、ほとんどの場合、そこにどのような建築が建っていたかを思い出すことができない。それは意識の上でそこに建築が存在していなかったからです。

だけど、いちいち見た建築を全部覚えていたら、頭の記憶容量がパンクしてしまうから、そのくらいでいいのだろうけど、それでも覚えている建築もある訳だから、その差はどこにあるのだろうか、気になるところです。

電車の車内から窓越しに外を見ていると、流れるように風景が通り過ぎていきますが、その中でも、特に意識せずにいても、パッと目に止まる建築があります。他とは何かが違うから目に止まる訳ですが、大概そういう時は建築家の作品である場合が多いです。

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それは私がそういう建築を求めているからというのも当然ありますが、ずーっと同じトーンで流れているのが突然乱れるような、ノイズのような、別の言い方をすれば、引っ掛かりがあり、そのせいで突然意識上に現れてくるようです。

その引っ掛かりが何か、私がいつも考えるのは「精度」であり、明らかに他より精度が高い、それはデザインの精度であり、そして、つくりの精度です。逆に言うと、他が粗く、雑に見えてしまうのです。

だから、建築を意識させるために必要なことのひとつとして「精度」は必ず入ってくると考えています。

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