ものが持つポテンシャル

ものづくりをするにしても、ただ新たにつくるだけでなく、減らすこと、こわすことも、ものづくりの範疇で、それを減築という。減築することで新たなライフスタイルに合わせる。ものを減らす、こわすことは、もの自体を変えることになる。もの自体を変えることが、人の暮らしに直結し、左右するという考えによるもの。

もの自体にはそれだけのチカラがある。もの自体にはそれだけのポテンシャルがある。そのもの自体が持つポテンシャルのなかには、利用されていないものもありそうな気がする。それを見つけて明示することもデザインの範疇だとおもう。

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好奇心はつくりだせない

着想とは結びつきのことかとおもった。無から何かを生みだすよりも、本来は結びつかないもの同士に、何か手をくわえることにより、結びつけること。

本来は結びつかないもの同士に、結びつきの可能性をみるところに創造性があらわれ、その可能性を探るところに好奇心が必要になるとおもう。

けっきょく、AIがどれだけ優秀になっても、好奇心はつくりだせないから、どう使うかしだいだけのように、いまはおもう。

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モレなく

漏れがないように、言葉をつかって、物事を切りきざんでいくと、意外とつなぎ目に足りないものがあることに気がつく。

きっと、当てはめた言葉で足りると思いこんでいるからだろう。つかっている言葉では、まだ荒いのだとおもう。

もっと的確に、あるいは、具体的な言葉をつかっていかないと、物事をすべて捉えることはできないと感じた。いまのチャットGPTも同じ。

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ヒントに出会う

物そのものと、物に付随するものとに分けて考えてみる。そうすれば、物に関することは全て網羅できると考えた。物自体をよくしらないと、物はつくれない。

物のそのものは、外と内に、さらに分ける。分け方はどうでもいいが、漏れなく分けたい。外は形と質感、内はソリッドとヴォイドに分ける。さらに、形は、質感は、ソリッドは、ヴォイドは、と分けていく。

そして、もうこれ以上わけることができない所を目指す。その過程でアイデアを出すためのたくさんのヒントに出会える。

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線ではなくて

プランを考える手が止まる。空間をどうしようか、と考えることが苦痛になるときがある。

20代の頃、フィンランドへアアルトの建築を見にいった。そのときのことを思いかえすと、詳細なエレメントがまず浮かぶ。壁のタイルやレンガ、開口部の形状や光、階段のディテール、手すりの感触など。空間は、そのようなエレメント越しに、意識しないと思いかえせない。すごく近視眼的な把握の仕方だけど、人が建築と対峙するとき、自分と同スケールのエレメントに、まず自然と意識がいくのだとおもう。

なのに、空間から考えている。考えてみれば、はじめからねじれているのかもしれない。アアルトは、空間ではなく、エレメントから着想し、エレメントを浮かび上がらせるために、空間を必要としたのではないかと、その当時も考えたことを思いだした。

建築において20世紀最大の発見が空間だという。空間を表現するためにエレメントは省略されてきた。プランニングを線でおこなうのも、空間を考えるときに都合が良いからだ。でも、苦痛を感じるならば、線ではなくて、他のことで、エレメントを省略せずに、建築を考えてみようとおもった。

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全体だけ、部分だけ

なにかを構成する部分は全体の一部、という関係性は普通に日常にある。このときには、全体というものに対する信頼が前提としてあり、また、全体に従う部分があるという関係性にも信頼をおいている。この場合、全体だけ、部分だけで成り立つとは考えていない。

部分だけで成り立つとは、部分同士の関係性にルールはなく、部分だけで独立していて、部分同士はルール無用である。ルールがある時点で全体が生まれてしまうから、部分そのものに信頼があるのが前提になる。

全体だけで成り立つとは、部分がどうであるかに依存せず、全体だけで独立していて、全体に絶対的な信頼があるのが前提になる。

ならば、全体だけと部分だけがあわされば、ルールの無い独立した部分同士と、部分に依存しない全体が、同時にあることなる。それは、なかなかない組合せかもしれない。それで、建築をつくることができるかもしれない。全体と部分の間にちがうなにかが生まれるかもしれない。

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うっかりミスを少なく

「うっかりミスを少なく」 2023.04.16

ときどきか、たまにか、参ったな、なんて思うときは、案外、あきらめもついて、後にはのこらないが、もしかしたら、うまくいったのにとか、思うときは、なかなか、後をひきづる。頻度は、たぶん、参ったなは少ないが、もしかしたらは、それなりにあるかもしれない。それは、うっかりミス、というやつである。

うっかりミスは大体、わかっていたけど、という言葉がさきにくる。頭のなかにはあったけれど、それがうまく表にだせなかったときで、やっぱり、それは一番くやしいし、落ちこむ。

頭のなかにあったけれど、うまくだせないことは、忘れていたことと同じらしい。だからつねに、思いだす、と意識すればいいそうな。それで、うっかりミスが少なくなるか、ためしてみよう。

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