何もしない庭つき一戸建て

庭つき一戸建て、なんて言葉があるようには庭と家はセットだった、一昔前までは。今ではマンション暮らしの人も多いし、一戸建てを建てる人も庭などはじめからない場合も多い。マンションだから、敷地が狭いからと理由はあるだろうが、そもそも庭が必要ないのだろう。

前に建てた住宅は1階のリビングと同じ大きさの庭をつくった。その庭にはウッドデッキを全面に敷いて室内のリビングの床と同じ高さにした、リビングの延長として広く見せるためとリビングに光を取り入れるために。だから、はじめから庭に出ることは考えていなかった。それで十分で、それで豊かな生活になるだろうと思った。

その庭はリビングが十分に広くて日当たりが良ければなくてもよく、ただリビングとつながって見えるようにするためにウッドデッキを敷いた。そうしないとその空間が生きないから、生かすためにリビングの暮らしと関連づけて何もしない空間をつくった。

10年後その住宅に訪れるとウッドデッキは多少古びたが完成当時と変わらずに何もしない空間があった、まるでそこの空間だけ時間が止まっているように。きっとそう見えたのも何もしない空間だから、でもそれがよかったのである。何もしなくても庭はあった方が日々の生活が豊かになると、室内を見渡して、ご家族を見て思った。

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空を使う

空って当たり前のようにいつもあるけど、うまく使えていない。窓越しに空は見えるけど景色の一部、天気を気にするくらい。使うという表現がいいかどうかわからないが、空だけがみんなに平等に与えられた自然のような気がするから、うまくいかさないともったいないとつい思ってしまった。

自然には他にも緑、木や水辺の川、海、地形として山や谷などがあるけれど、場所によっては身近にはない。だけど空だけは見上げれば誰の上にもある。

建築で空をいかそうと天井をガラス張りにした家を見たことがある。誰でも一度は考えることだ。ただそうすると、夏は暑過ぎて、冬は凍るように寒く、人が住める場所ではない。

空を使うって案外むずかしい。それに空を使わなくても建築はできてしまう。だから誰も真剣には考えないのだろう。ちょっとは空を使ってみてはどうなの、と秋空が教えてくれたような気がする。

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建築にマヨネーズ

コールスローをつくろうとしたら冷蔵庫にマヨネーズがなかった。普段マヨネーズを使うのはあと玉子サンドをつくる時くらいで、それもあまりつくる訳てはないから大体使い切らずに消費期限を過ぎてしまう。キャベツの千切りを別の食べ方にしようかとも考えたが、

ふとマヨネーズをつくろうかと思った。

ネットで調べたら、材料は全て家にあった。卵、酢、オリーブオイル、塩を混ぜればいい。卵は平飼いのもの、取り入れる油はオーガニックエキストラバージンオリーブオイルかグラスフェッド無塩バターだけと決めている。少し高いが他のものは使わないのでかえって安上がりだ。

10分後、オリーブオイルを使うからちょっと苦めのゆるい出来立てのマヨネーズはそれだけで贅沢なソースに変身した。あと茹でた野菜やパンがあれば、ヨーロッパでは平日の立派なディナーだろう。

結局、もうマヨネーズは買わない。

その分、冷蔵庫のスペースは空くし、余計な出費もなくなり、贅沢な気分にもなる。ちょっとしたことである。

ないから足すのではなくても、自作しても、ものを減らしてミニマリストにしても、あるいは、余分なものを削ぎ落としてレスイズモアなミニマムデザインな建築にしても時につまらないことがある。きっとその原因は結果的に新しい価値を獲得していないからである。マヨネーズで言えば、自作するが市販のマヨネーズの代替品でしかない時である。

そうそう関係ないが一昨日見たリヒターの作品は当たり前のように巨匠の域であったが、

マヨネーズ工場のようにも見えた。

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1本の木が森になるか

森の中で暮らすにはどうするかと考えながら設計をしているのだが、敷地が東京の区部でそれを実現するには広大な土地が必要になり無理だな、とぼんやり赤坂の迎賓館あたりを見下ろしながら考えていた。

森の中にいる感じを木の量で実現しようとすれば広大な土地が必要になる、当たり前である。では量でしか森を感じることはできないのか、探究のはじまりである。

1本の木で森を感じることはできないか。

普通に考えたら、というかそもそもおかしな問いの立て方である。1本の木が森になる、小学生の時に習ったはずである国語の時間に、木が2つあって「林」、木がたくさんあって「森」という漢字になると。まともな捉え方では解決しない。

ちょっと別視点から、その木は誰ものか。

自宅の玄関脇に1本のオリーブの木がある。最初は親指ほどの幹が今では私の太腿より大きい。毎年実をつけ、どんどん成長していくので自分で手入れをしている。また、2階のキッチンの窓からはお隣の木を見下ろすことができる。こちらは何の木だかはわからないが常緑で小鳥もよくやってきて鳴いているので、毎朝窓を開けてコーヒーを飲みながら眺めている。

どちらがより森にいる感じに近いか。

どちらも森にいる感じではないと言われればそうだが、強いて言えば、お隣の木を眺める方ではないかと思った。

そこで所有が鍵にならないかと考えた。

森を感じる時に自分のものであるかどうかは最初から頭にない。当たり前である、森の木と自分との間には何も関係性が無いから。関係性が無いから自分勝手に想いを抱き、そこに癒しを求めることができる。

長屋計画である。各長屋の中庭に1本の木を植える。ただし、その中庭は外部からアクセス可能であり木も共有である。長屋の数だけ木がある。10戸近く長屋があれば木もそれなりに目立つ、ただし、自分の木ではない。この感じは森に近いのではないか、そして、各長屋では木に接近した暮らしが実現できる。

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慣習以外の視点

日本では敷地の中で建築は北側に配置し、南側に庭を取るのが一般的である。その一番の理由は日当たりを確保することで、四季がある日本では季節により太陽高度が違い、その差が室内環境に大きく影響を与えるから、太陽高度の知識が無くても慣習的に建築の北側配置、南側に庭というパターンが昔から定着しているのだろう。ただ当然、人の暮らしや生活は太陽高度だけで決まる訳ではないから、このパターンとは違うことを考え比較する。その時にいつも思うのが建築は北、庭は南というパターンの説得力の強さである。それだけ人の暮らしや生活を慣習以外の視点で捉えることが難しいということである。だが同時にそこにデザインのヒントがあるとも思う。

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"A Perspective Outside of Convention"

In Japan, it is common to place the building on the north side of the site and take the garden on the south side. The main reason for this is to ensure sufficient sunlight. In Japan, which has four seasons, the altitude of the sun varies depending on the season, and this difference greatly affects the indoor environment. The pattern of arranging on the north side and the garden on the south side seems to have been established for a long time. However, of course, people's lives and lifestyles are not determined only by the sun's altitude, so I will compare things that are different from this pattern. At that time, I always think about the strength of the persuasive power of the pattern that the architecture is in the north and the garden is in the south. This means that it is difficult to understand people's lifestyles and lifestyles from a perspective other than customs. But at the same time, I think there are design hints.

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SNSを眺めながら

SNSはすべてのことを時系列で並列にしてしまう。それはSNSを見ているだけで勝手にすべての物事が時系列で相対化されることである。下から上に向かって相対化された物事が勝手に羅列されて積み上がっていく様は考えることを放棄させる。本来物事の相対化が考えることであり、SNSを見ていると何も考えていないのに考えているような錯覚に陥る。それはSNSを使って何かを仕掛ける側にとってはパラダイスなプラットフォームなのだが、享受する側にとっては頭の向きを自身で変えることができないように固定されているようなものだとSNSを眺めながら思った。

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"While looking at SNS"

SNS makes everything chronological and parallel. It is that all things are relativized in chronological order just by looking at SNS. The way things that are relativized from the bottom to the top are arbitrarily listed and piled up make me abandon thinking. Originally, thinking is to relativize things, and when you look at SNS, you fall into the illusion that you are thinking even though you are not thinking about anything. Looking at SNS, I thought that it was a paradise platform for those who used SNS to set things up, but for those who enjoyed it, it was like being fixed so that they could not change the direction of their heads. .

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