視覚以外の重なり合い

重なり合うことは見た目だけでない。見た目で重なり合えば、オーバーラップしていることは一目瞭然である。他の部分とのちがいも明確である。視覚情報は優位だが、他の感覚によって重なり合いがわかることもある。

重なり合いは、常に自分たちの生活に影響を与えてくる。スマホひとつとっても、そこにたくさんの情報の重なり合いがあり、それは見ればわかる。スマホというデバイスを通した重なり合いだが、デバイスが無くても情報の重なり合いはわかるだろうか。

きっとそれは炙りだされるように、他の部分での他の感覚がデバイスが示す重なり合いの無さを表現してしまう。あるモノの存在の有無は、他のモノが認識されることにより実感されることもある。

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人と空間の影響し合い

空間という言葉は20世紀の産物であり、それまで空間という概念自体が無かった。今ではかんがえられないが、言葉が無い以上、空間を認識していなかったのだろう。

空間は床壁天井でかこわれた領域を指すとしたならば、ハイデガー的には、人がいてはじめて空間は認識される、となるのだろう。どうしても人間主義に傾いてしまうが、人をかんがえずに空間や建築をイメージできない。

人は何世紀にも渡って生活様式や日常の習慣を変えながら生きてきた。建築もいろいろな様式をとりながら変わってきたが、空間が床壁天井でかこわれた領域であることは変わりがない。

人と空間の関係性はそのような表面的な時代性や建築様式には影響されないもっと違ったところで影響し合っているのだろう。それがどういうことなのかをかんがえるのがまた楽しい。

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視覚を意識

感情がたかぶるのは、何か外からの刺激があるときで、内から湧きあがる場合もきっかけは外からの刺激だろう。感情のたかぶりは、ときに求めたくなる。建築はその求めに応じるもののひとつとみることもできる。

建築が感情をたかぶらせる場面は、たとえば、荘厳な空間が目の前に現れたときや、建築自体が美しいときなどで、視覚をとおして感情が揺さぶられる。やはり、建築において視覚は意識せざるを得ない感覚なのだろう。

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可能性を再考

カン違いにより、勝手に外に追いやっていたことに、もしかしたら、そこに可能性があるかもしれないと気づく。

ちょっと、突然すぎたのか、あまりしないことなのか、評価がイマイチだったので、もう一度再考していたが、結局は元の方向性に戻ってきてしまう。

だから、別角度から元の方向性の可能性を探ってみた。不評だった部分を取り除けば、そこに可能性があるかもしれない。いま一度、元の方向性の発展形をかんがえてみる。

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枠をあぶり出す

つながりに目を向けると、枠がみえてくる。つながりは枠で縁とられたもの同士をくっつける。だから、つながりは枠の存在をはっきりとさせる。意識したいのはつながりよりも枠の存在であり、枠がどこに存在し、何を分けているのかをみたい。ただ、枠の中に入ってしまったら、枠の存在はわからない。だから、枠の外からつながりを頼りに枠の存在をあぶり出す。

枠がどこにあり、何を分けているのがわかれば、枠自体を変えることで、みえる世界を変えることができるのではないかとおもう。枠を建築と読み替えることで、建築が担う領域をズラすこともできる。ほんの少しズラすだけで、かなりみえる世界が変わるとおもう。

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つながるおもわせ

つながりをつくる時、つながり自体をつくるのか、それとも、つながるイメージをつくるのか、でその後の展開が違ってくるとおもう。

つながり自体をつくるとしたら、直接的につながるのか、間接的につながるのか、どちらにしてもそれで全てのつながり自体を網羅できる。

つながるイメージは、実際につながりが無くても良いので、つながりをつくる時により自由である。つながりができるだろう、というおもわせでも良い。このおもわせは多分に建築的処理ができそうである。おもわせという仕掛けはストーリーを構築する建築ではよくあることである。

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