感性も考えのうち

最近、感性も考えのうちだとおもうようになった。感性をモノに対して働かせようとしたら、そのモノに対して何かしらのアクセスをしなければならない。アクセスにするときには感性だけでなく考えることも必要になる。むしろ、考えが先頭をいくかもしれなず、感性が考えに従属するかもしれない。

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考えることだけで

人によるアクセスとは、考えることでアクセスすることであり、モノの世界では考えることでアクセスできる部分はごく一部かもしれない。そのごく一部の中でモノに対してデザインをしているのかもしれない。きっと、モノの世界に対して考えることだけでアクセスすることに無理があるのかもしれない。

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モノの世界のうち

建築で利用可能な部分はごく一部でしかない、何が、人がアクセスできるモノとしては。経験によって得られるモノが建築の主要な部分を形成すると考えているが、それは人がアクセスできるモノであり、ただモノの世界で人がアクセスできる部分はごく一部かもしれないとも考えている。

さらには、人がアクセスできるモノのうち、建築で利用可能だと考えられているモノはまたそのごく一部で、さらには、さらには、建築で実際に利用されているモノはまたそのうちのごく一部。だから、まだまだ可能性がモノの世界にはたくさん眠っていると考えている。

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フレームが断つ

いちいち考えたりしないから気楽に楽しみたいのが本音で、空間もそこでの瞬間的な気持ちよさ、居心地のよさが大切、でもそれはつくる方も瞬間を意識するのか。

瞬間の連続が時をつくると考えると、こう見せたいやこうしたいと作者側が考え、その情景やシーンを分解するときに一緒に時も分解して瞬間にしている。そのときには、瞬間は細切れの連続で作者側の意図をくむ。だから、ひとつの瞬間と瞬間の間にはつながりがあるとしているし、それが大前提になっている。

そのつながりを疑ってみることにした。昔、たくさん写真を撮りまくっていたころのファインダー越しの情景を思い出した。フレームが瞬間のつながりを強制的に断ってくれる。そして、並べられた写真は独立した瞬間を見せていた。

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今この瞬間

今この瞬間にあらわれるモノには、今だけでなく過去も含まれており、未来は過去とのつながりであらわされ、過去も未来もモノの多義性をあらわすひとつの要素でしかなく、モノは今この瞬間にある時が全てで、モノをその他のことであらわすことはモノ自体を歪めることになり、今この瞬間のモノと次の瞬間のモノにはつながりが無く、全く別のモノである、という。

モノの捉え方により、モノの見え方は変わるが、もし今この瞬間にしかモノとしてのあり様があらわれないとすれば、捉え方を考えること自体が無意味で、瞬間的にモノをそのまま見るしかない。きっとそれが一番難しそうな気もする。

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身体必要ですか

身体感覚は必要ないのだろうか。AIやChatGTPはほんと助かる。楽に知識が手に入るし、アウトプットまでしてくれる。

ただ、唯一おもうのはフィジカルな感性が伴わない。そもそもフィジカルな感性などどうでもいいと思う人が多いのか、みんな有り難がっている。

何も無い時、ネットも、スマホも無い時、頼りはフィジカルな経験だけだった。もし、今何もかも無くなったら、頼りは生身の身体だけだと思い身体に刻む体験には意味が無いのだろうか。最近、お茶の道がたのしくてしょうがない。

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