モノに強弱

建築がメインで外構はサブのように主従や強弱をモノ同士につけることで構成を考えるのが普通であったりする。では何に対して主従や強弱をつけるのか。それはモノ同士の関係性に対してではなくて、モノ自体に対してであり、モノ自体に主従や強弱をつけることができる部分がある。

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感覚の中にモノ

空間をアクティビティで捉えようとする試みは昔からある。身体感覚で空間を捉え、その身体感覚の中に建築というモノを見いだす。感覚に中にモノがあることが分かりづらいかもしれないが、モノはどこかで現物以外の側面を持っており、それがモノにさまざまな解釈を生む要因になる。解釈はデザインに通じる。

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空間をモノ

空間をモノにようにあつかうと、モノがもつ現れ方で表現できる。モノは目の前にある状態だけが全てとする考え方と、目の前からは隠れた状態も合わせ持つとする考え方がある。どちらでいくかを決めて取り掛かるのが普通だが、都合よく混在させる方が面白い建築になると考えている。

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時間はモノ

建築はモノに時間が宿ると考える。そのときの時間は非常に感覚的だとおもう。実際には何でも時間の影響をうける。モノ以外でもヒトも時間の影響をうける。

だから、時間と関係があることは当たり前のことだが、モノに時間が宿ると考えるときは、時間がモノが成り立つ上での感覚的な諸条件のひとつになっている。

要するに時間はモノの一部、すなわち、時間もモノになっている。建築は何でもモノにしてしまう。

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分解

建築は表層的な部分がまず見えてしまう。そのとき、その表層がその建築自体を表すとふつうは考えてしまう。しかし、その表層はあくまでも建築の一部であり、もっと奥深い何かが隠されていると思うこともできる。

その場合、建築は分解され理解されることになる。案外、この分解はよく起こる。特に都合の良い解釈をしたいときに分解し、勝手に再構成してしまうし、奥深い何かを匂わせたいときには便利だ。

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内面に向かうモノ

モノ同士の関係性が重要だと考えてしまうが、それはモノ同士が相互に関係し合っていることが前提でモノが成り立っていると考えているからで、モノが自立していることが前提ならば、話は変わる。

ただ、やはりモノ同士には何かしらのつながりはあるだろう。それを今までのような関係性という外面的なつながりで解くのではなく、モノの内面的に何かつながる要素がある、としたならば、自立して内面に向かうモノのあり方が新たなに考えられるだろう。

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