オブジェクト指向で物を考えると、物同士の関係性が全体をつくるが、あくまでも焦点は物にあたっているので、物がどうであるかが大事で、物を起点に全体を考えることができるので、重箱の隅をつつくような、物それ自体に固執するような行為が許されて面白い。
結局は物づくりをしているので、理屈を超えた一見どうでもいいようなことに、それがまわりから理解されなくても、そこに突き進むような行為がしたくて仕方がない衝動がおきる。変な話だが、それがある程度許されるような理屈がほしいときに重宝する。
ルールははじめから決められていると窮屈なときもある。たぶんそれは現状とあっていないから違和感を感じているのだろう。ただ、ルール自体はほしい。ないと困る。厄介である。もしかしたら、ルールの内容が問題なのではなく、ルールを決めるタイミングが悪いのかもしれない。
はじめに決めるとモレもでるだろう。モレが違和感の原因かもしれない。想定外のことも起きるだろう。普段ならば想定外のことがあっても、それはそれでおもしろいがルール上は困る。ならば、あとからルール自体を修正や編集ができるようにすればいいのだが、修正や編集ができないこともあるかもしれない。
あとからルールを決めてみる。最初にはルールがない。思いつきの連続である。はじめから、辻褄があわない、おかしい、きちんとしないかもしれない。ただ、ルールがないから、辻褄があわないのか、おかしいのか、きちんとしていないのかがわからない。あとで、最後にすべてを包括するようにルールを決めてやれば、辻褄があっていて、おかしくなく、きちんとしていたことになる。それに、はじめの思いつきの連続がたのしそう。
外にいるのか内にいるのかを迷うのは意識の中でズレがあるからで、建築の見え方が意識とズレている証拠である。本来は意識のズレを修正するべきなのだろうが、そのズレをマイナスととらえずに、そのズレをプラスに利用してみようとおもう。
外か内かの意識のズレはふつうにおこることである。たとえば、大きな建築のなかで連続して空間移動しているときなど、知らないうちに外へ出ていたり、内なのにあまりにも天井が高くて外だと感じたりして、意識にズレが生じる。
そのズレは意識の混乱を招くかもしれないが、同時に意識に引っかかりをつくることにもなる。建築を構想する側はこの引っかかりこそ一番求めていることである。それは言葉が先に思い浮かぶ建築ではムリなことかもしれない。
外から帰ってきてとホッとするのは自分の家だから。この当たりまえのことの中に「内」のおもしろさがあるとおもう。建築の外か内かのちがいに人の意識が対応している。たぶん、人の意識の中では、外と内の建築にちがいを感じている。ただし、その建築のちがいは、建築自体のちがいでは無いとおもう。たとえ、建築自体が外も内も全く同じ仕上げで同じように見えたとしても、人の意識は外と内を区別し、建築にちがいを感じるだろう。
この場合、外よりも「内」に可能性を感じる。内に対する人の意識が2つ同時に存在し、そこに暮らしが重なる。現代建築が苦手とする生活感が人の2つの意識を通して建築と絡む。2つの意識は建築でありきで存在するからデザインで影響を与えることもできるだろう。生活感とのちょうどいい距離がとれそうな気がする。