部材の時

部材には時が宿っている。よく解体された古民家の柱や梁などを持ってきて内装の部材で使ったお店などをみる。確かに部材自体は太かったりして立派だが、部材自体は元の古民家があった地域で一般的に誰でも手に入れることができるものだから、特別に良いものでもない。

そこの風土に合った生活と共に長年存在していた古民家の価値が部材には宿っており、それは長い時を経たからであり、昨日今日つくった建築には絶対にないものである。

部材に宿る時は、部材が新たに使われた場所で解き放たれる。そのような時は他の方法では得ることができない。それは現代建築にはじめから欠けているものでもある。

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部材使い

部材の使い方ってむずかしいし、ひと真似できてしまうから、考えないのかな、という場面に出会うと、もったいないな、面白いのに、と思う。

そこにはそこだけの可能性がある。建築のタイプというか、目指している方向が違えば、確かに部材の使い方はワンパターンでもいい、そこに注力する必要がないときもある。

ただ、部材の使い方に時間を閉じ込めることもできるし、人とコミュニケーションする道具にもなる。部材の使い方は奥が深いといつも思う。

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朽ちさせる

部材はもつ、といつもおもう。建築はスクラップアンドビルドが基本、最近はそうでもないが、真っさらにしてハイ次どうするか。

それについての良し悪しには興味はないが、物の行方には興味がある。生産され、加工され、形を与えられ、そして朽ちていく。スクラップアンドビルトは形を与えられて終わってしまう。形あるものいつかは朽ちるのに、朽ちることをさせない。みな、省エネもはじめの生産ばかりに注力してる。身近で誰でもできることは朽ちさせることではないかといつもおもう。

建築がスクラップになるとき、すべてが必要なくなるわけではないの真っさらにしてしまう。部材はつかえる。部材に新たなに形を与えればいい。そうしたら、また朽ちさせることができる。

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地に注力

地と図にわけて考えてみると、図は感覚的な対象としてとらえることができるが、地は埋没していてすぐにはとれえ所がないかもしれない。別のいい方をすれば、図は直接あつかうことができるが、地は直接にはあつかえない。だから、一所懸命、図についてあれこれと考えるのだが、図は地があって浮かび上がるものと考えれば、地についても同じかそれ以上の注力が必要だろう。

地の中で一般的なもののひとつに環境がある。建築の場合、環境はどうにも動かせないもの、どうにも触れられないものとして与えられることが多い。ただ、すべては無理だとしても、ある特定の状況を設定するなどすれば、限定的だが環境について触ることもできるかもしれない。その状況の設定は建築をつくる側でできる。ある特定の状況設定には良し悪しがありそうだが、そこで社会に対しても貢献できる可能性を秘めている。

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シンボルが指標

シンボルツリーの周りに空間をつくるとき、シンボルツリーの見え方のちがい、見せ方のちがいで空間にバリエーションを持たせようと考えてみた。空間を選ぶ基準にもなる。

いくつか空間があるとき、ちがいはどのようにつくられるのだろうか。少なくとも各々の場所はちがう。場所がちがえば環境も変わる。環境のちがいを表すには何か指標が必要である。

シンボルツリーに対する見え方のちがい、見せ方のちがいが環境のちがいを表すための指標になると考えてみた。

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シンボルの配置

シンボルツリーという言葉があり、象徴的なものとして外構の目立つところに木を配置し、それを中心的にまつりあげて展開するやり方がある。意外とどこでも見かける。ここでいつも面白いと思うのは、シンボルツリーの存在というより、そのシンボルツリーがどこからどのように見えるか、ということ。シンボルであるのは見られるからであり、ならば、どこからどのように見えるかに関心をもつとシンボルツリーがまた違って見える。

どこから見えるか、どのように見えるかがシンボルツリーそのものの存在に何か影響を与えるだろうか。先にどこから見えるか、どのように見えるかを決めてしまってからシンボルツリーを配置しようとしたら、先にシンボルツリーがある場合と比べて何かが変わるだろうか。関心は広がる。

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使い方を変える

新しい道具は新しい着想を生むだろうか。日常的に使う道具を新しくしてみた。正確にいうと、前に使ってはいたが、訳あって使うのをやめたもののバージョンアップ版に変えてみた。だから、完全に新しいわけではないが、今まで使っていたものとは操作感が全くちがう。

昔慣れ親しんだものを、バージョンアップ版とはいえ、また手にすると感覚がよみがえる。だから、変な違和感がなく、すんなりと移行できた。ただ、これは良いことなのだろうか。もしかしたら、新しいものに対する違和感のような変な感覚が新しいものを生みだす原動力になるのではないだろうか。

だから、今度は以前とは使い方を変えようと考えている。使い方を変えることで、全く新しい道具を使いだす時と同じような違和感をつくりだし、新しい着想の手助けになればとおもう。

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