心的で物質的な空間

空間があっても、その空間は自分にまとわりついているもので、はじめからそこにあり、意識することがない。しかし、空間をつくろうとすると、囲うことをかんがえ、そこではじめて空間を塊として量で意識する。

塊として量で意識しないと、建築化できないから、囲うための壁や床、天井をかんがえる。ここで、空間をつくることと建築化は、同じことのようにおもえるが、ちがう。

空間をつくることは、空間を認識としてとらえることであり、それは空間という無色透明な水みたいな存在を、何か入れものにいれて、わかるようにすることである。また、建築化とは、壁や床、天井といったエレメントを先に構築し、囲われることにより、空間の形を出現させることである。

どちらも結果的に空間があらわれるが、空間をつくることは内向きで心的なことであり、建築化は物質的である。どちらかというと、心的な空間のとらえ方に共感をおぼえるが、心的なとらえ方をしたあとに、物質的な表現に焦点があうので、建築としての空間には両方の要素が必要で、そこのバランスのとり方やズラしかたが主題になるのだろう、とおもった。

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全体性は妄想

多種多様な情報がいきかうなかで、全体性を描くのは、すでに妄想のような気がする。全体性とはすべてを均等にみたすようなイメージであり、ひとつの方向にもっていって整列させるのは無理がある。

もし全体性を描こうとするのならば、どこかであらかじめ切断でき、またあらたな全体性を描くことができる余地が必要だろう。

そもそも反動的にかんがえて、全体性を描かない、という選択もあるが、それよりは全体性を描くことは固定にして、全体性の中身の構成にたいし、部分的に反動的なものを含めていくほうが、いままでみたことがない全体性を生むことができる可能性があり、おもしろいかもしれない。

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優柔不断で中途半端な表現

ひとつひとつが切断し独立しているわけでもなく、かといって、ひとつひとつがつながっているわけでもなく、その中庸的な在りかたはないだろうか、とかんがえてみる。

独立して自律的に建つだけでなく、つながりながら他律的に建つだけでもなく、自律しつつも、他律的につながるところもある。それは、いっけん、どっちつかずで優柔不断で中途半端、なようにもおもえる。

しかし、自律している部分と他律的につながってところとのちがい、を主題にすれば、その優柔不断で中途半端なさま、それを中庸といってもいいかもしれないが、それが表現になる。

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ただ反動的ではなく

新しさやちがいを、反動的に表現しようとするのは、あんがい、かんたんに思いつく。いわゆる「逆に」というやつである。ただ、たんに反動的では、新しくもなく、ちがいもない。ただ反動的であることは、もとのものの範疇であり、亜流でしかない、とおもう。

もうすこし、分解してかんがえ、一部分は変えないで固定し、その他の部分を誇張して反転させる、などしてみる。そうすれば、ただ反動的であるより、たくさんの異なったパターンが生まれる。その中から、予想もできなかった新しさやちがいが生まれるだろう。

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ちがいを生む不自然さ

こうしたい、ああしたいと、こうする必要がある、こうしなければいけないを、まとめてすべて満たした物が最終の成果物になるのが一般的であるが、それでは、だれがやっても、大体、にたような物にしかならない。

だから、すべて満たした物の先にある、別の物をつくり、あたかも、はじめから目指していた物はこれですよね、と示し、満たすべき物もそもそもこれですよね、と逆に定義しなおすのが、現代建築ではよくあることである。ただ、満たすべき物を変えることができる場合はいいが、もしかしたら、それは珍しいことかもしれない。

別のやり方として、満たすべき物をすべて満たした建築に、さらに手をくわえる。それは、満たすべき物を強調するためであり、それによって、手を加える前と後とでは、満たすべき物がより浮かび上がる。より浮かび上がった状態は、もしかしたら不自然かもしれない。その不自然さが、にたようは物にはならずにさせ、ちがいを生む。ただ、そのちがいの素は、満たすべき物であるから、そのちがいは受けいれやすいだろう。

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細くて強い妄想が必要

これがいい、という確かさをえるには、これでいい、という一般的な了解が必要になるけれど、そもそも、その一般的な了解などが妄想、だということをよくきく。だから、その一般的な了解など存在しないから、それを根拠にして、何かをつくったり、かんがえたりすること自体がおかしいと。

その妄想を、たとえば「ブランディング」というべつの言葉にしたら、わかりやすいかもしれない。ブランディングは、新たにつくる一般的な了解であり、そもそもはじめには何もない、まさに妄想である。ただ、そのブランディングによって、これでいい、という一般的な了解が植えつけられ、これがいい、となる。

具体的に何かが生まれるときには、この一般的な了解は、その生まれたものを受けとる側には必要だろう。ただあまりにも、その一般的な了解が前面にでてくると、その生まれたものがまったくのウソにみえる。

ただ、ウソにみえてもいいもの、みえた方がいいものもある。逆に、ウソはダメなものもある。そのちがいは、一般的な了解のだし方で調整することだろう。受けとる側がいて成立するものならば、調整することが、つくることの一部になる。

建築には、細くて目立たないがしなやかで強い、一般的な了解が必要だとかんがえている。弱いと、建築自体がさまざまなつながりの中で消滅してしまい、ただ強いだけど、建築の存在がウソになる。

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