第三の目

見慣れた風景だと、あたまの中には自然とイメージがうかぶが、そのイメージは、見慣れたものであるがゆえに、他の要素が入りこむ余地がない。だから、他の視点で見直すことがむずかしい。

いまおこなっているプロジェクトは、まさにそうで、だから、はじめから第三者の視点が持てるように、意見をその都度きける人をお願いしている。

そうすると、やはり、見ている視点が微妙にちがう。ただ、それは言われないと気づかないことかもしれない。慣れていることほど、第三の目は必要かもしれない。

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見通しのなかのおもしろさ

いつものことで、こうすればいい、と見通しがたっていても、それではつまらない、とおもうと、なかなか、行動できない。つまらない、とおもうならば、おもしろくなる、ようにすればいいのだが、見通しの良さ、に引っ張られる。

ならば、その見通しの良さはそのままに、おもしろくなる要素をつけ加えれば良いのだが、何か後づけのような気がして、すすまない。

いま一度、最初にもどって、何がしたかったか、をかんがえる。そうすると、その見通しのなかに、おもしろくなる可能性をみい出せるかな。

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壊すより利用

スクラップ、アンド、ビルトにより成り立つ建設業界なので、街を歩けば、結構な頻度で、建物を解体をしているところに出会う。そのたびに、建築はモノだな、壊すのは簡単だな、とかおもい、解体しているときにしか見ることができない建築の姿をながめる。

伊勢神宮の式年遷宮のように、解体しても、またその部材を他で再利用するならば、解体することに対する罪悪感みたいなものは生まれないのかもしれないが、解体は、それまでの記憶や、積み重ねた時間や、見慣れた風景を切断して、膨大な廃棄物に変えるだけである。

ただ、見ようによっては、解体される建築には、さまざまな記憶や時間、風景がつまっていることになるので、それは貴重な財産である。活かしかたがわかれば、解体するより利用することを皆えらぶだろう。

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空間の捉えかた

空間、とひとくちにいっても、ひとことでは済まない。さまざまな角度から捉えることができるものである。

概念的に説明するもの、経験することによりわかるもの、客観的に距離や大きさなどの数値であらわすもの、身体をとおしてわかるもの、心的で人の内面にうかぶもの、など。

空間をどのように捉えるか、によって表現されるものがまったくちがってくる。だから、表現することよりも、どのように捉えるか、のほうが重要である。

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体験が切断とつながりをつくる

体験によってすべてをとらえようとするのは、経験主義かもしれないが、あらゆる要素を、体験をとおすことで、ひとつの土俵の上にのせることができる、のは面白いかもしれない。

体験でわかることは、けっこう、たくさんある。例えば、赤い花、があれば、「花」という物も、「赤い」という色も、また、赤い花を見ている「自分」も、体験という土俵の上にのせることができる。

あとは、その土俵をどうするのか。はじめから、どういう土俵かを設定するのか、あとから設定するのか、そもそも「土俵」自体を物としてみて、「花」や「赤い」や「自分」と同じようにあつかうのか。

体験をとおすことで、あらゆる物のつながりを切断することができ、さらに、新たなつながりをつくることができる。そこも面白いところかもしれない。

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妄想はいかすもの

なにかプランをつくるときに、さいしょ、いろいろと妄想をしてしまうが、それを現実に当てはめようとすると、とうぜん、うまくはいかない。

だから、現実に当てはめて、実現できるように、アジャストする。アジャストするときに、どこを変えるのか。もっというと、どこの部分を、どのように、変えると、まえとのつながりを保ちつつ、まったく別のものがあらわれてくるのか、とかんがえてみる。

たんに実現できるだけのアジャストが多いなか、それでは、さいしょ、の妄想がなんの意味をもたなくなる。妄想にこそ、作品性があらわれる。妄想があるから、新しいものに出会える。

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自然の中にいきたいを解く

都市部に暮らしていると、たまに自然の中にいきたくなる。都市の中にも自然はあるから、そこへいけば、気がすむかといえば、そうでもない。自然の中にいくことと、自然があることは、一緒のようで、ちがうということかもしれない。

建築をつくっていると、自然がある、という物質的なことをかんがえる。どこに木を植えるのか、どこに緑をもってくるのか、建築と自然をどのように融合させるのか、親和的にするのか、などをかんがえる。そこをかんがえれば、とりあえず、緑を取り入れ、建築と自然をとりまく諸問題を解決できた、となる。

ただ、さきほどの、自然の中にいきたくなることを、直接解決することになるのだろうか。やはり、自然があることとは別のこととして、かんがえるべきなのだろう。

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