捉えるには

データなどの客観的な指標でモノを判断することは科学的にはよくあることで、それを示されるとそこに妥当性があると感じ納得してしまうが、それが通用するのもそもそもそのモノとの関係性が元々あるのが前提になっているから、別にその指標は客観的でも何でもないのではないかとおもう。

もし、関係性も何もない未知なるモノだったら、共通言語にあたるような客観的だとおもわれるような指標すら存在しないのだから、その未知なるモノを捉えることはできないだろう。

むしろ、目の前にあるモノはありゆる関係性を絶ち独立した存在だとして、それでもそのモノを捉えようとしないとうまく捉えられないような気がする。

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独立

関係性から独立できるか、しているか。目の前に現れるものは自分と関係あるものしかない現れない。それもデフォルメされて誇張されて現れる。困ったものである。ほんとうの姿を見たいのに、いつまでたっても見ることができない。ちょっと自分の見方を変えてみる。大事なのは関係性が全てではないと考えることかもしれない。

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建築の真の姿

そこに建築があることは、そこにいる人に依存しているように思えるが、そこにいる人が抱いているその建築へのイメージより越えたモノ、それがその建築の真の姿、にするには、その建築がそこにいる人に依存しないで独立している必要がある。さらに言えば、建築が自律しているとはまさにこういうことである。

ただ、そこにある建築がどういう存在であるかは、そこにいる人自身の中にしかない。それはどういうことかというと、そこにある建築が自分の中に存在している人にしかその建築を見ている意識がないからである。

だから、そこにある建築はそこいる人の中にしか存在していないが、その建築自体はそこにいる人に依存しない方がいいとおもう。

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蜃気楼

建築をしていると全体を構築するので、構築された全体からどのような影響をあたえることができるのかを考えはじめてしまうが、そうした実在的な全体から影響をうけることがほんとうにあるだろうかなどとも考えてしまう。

つくる方は構築していく上で全体から細部へと考えが流れていき、それを実在的なこととして考えるのは仕方がないが、受けとる方は全体的な視点をもてるとは限らず、実在的な細部ばかりに目がいくことも多い。そして、その細部の実在的なモノに触発されて、全体を感覚的に捉えようとするのではないだろうか。

目の前の手の届くモノは、その場で見ることもできるので、ほんとうに存在しているとなるが、全体は目の前のモノの性質から類推し感じているに過ぎないのではないか。ならば、つくる方が向き合うのは全体ではなく細部の性質であり、全体は細部の彼方に見える蜃気楼でしかない。

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単なる記念品

古材を使おうとしている。理由は愛着があるからで、そこにはただ単に時間の積み重ねがあるだけでなく、何か大切なモノを象徴しているように思えるからである。そこではその古材が自分を構成する一部になって欲しいという願いの現れになっている。

ただ思うのは、その古材はそんなこととは関係なしに存在しているということ。きっとその古材を使うときにはその愛着や時間の積み重ねから自由になっていないと、古材が単なる記念品程度の安い価値しか纏わないような気がする。気をつけようとおもう。

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人もモノ

人が使うモノがそこらじゅうに散乱している。人が使うモノだから、そこには人とモノとの関係が散乱している。ただ、別の見方をすると、モノ同士の関係もそこらじゅうに散乱している。

そういう見方をすると、人もモノとしてモノ同士の関係に組み入れられてしまう。ただ人が入ると関係が複雑になるかもしれないが、それはモノ同士の関係の中での程度の差ぐらいだろう。

人もモノ、モノ同士の関係だけで建築や空間が成り立っていると考えたら、美しさや素晴らしさを感じたり、感動したりといった人の情緒的側面はどのように扱えばいいのか、とても興味がわく。

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