関係性から独立できるか、しているか。目の前に現れるものは自分と関係あるものしかない現れない。それもデフォルメされて誇張されて現れる。困ったものである。ほんとうの姿を見たいのに、いつまでたっても見ることができない。ちょっと自分の見方を変えてみる。大事なのは関係性が全てではないと考えることかもしれない。
独立
建築の真の姿
そこに建築があることは、そこにいる人に依存しているように思えるが、そこにいる人が抱いているその建築へのイメージより越えたモノ、それがその建築の真の姿、にするには、その建築がそこにいる人に依存しないで独立している必要がある。さらに言えば、建築が自律しているとはまさにこういうことである。
ただ、そこにある建築がどういう存在であるかは、そこにいる人自身の中にしかない。それはどういうことかというと、そこにある建築が自分の中に存在している人にしかその建築を見ている意識がないからである。
だから、そこにある建築はそこいる人の中にしか存在していないが、その建築自体はそこにいる人に依存しない方がいいとおもう。
蜃気楼
建築をしていると全体を構築するので、構築された全体からどのような影響をあたえることができるのかを考えはじめてしまうが、そうした実在的な全体から影響をうけることがほんとうにあるだろうかなどとも考えてしまう。
つくる方は構築していく上で全体から細部へと考えが流れていき、それを実在的なこととして考えるのは仕方がないが、受けとる方は全体的な視点をもてるとは限らず、実在的な細部ばかりに目がいくことも多い。そして、その細部の実在的なモノに触発されて、全体を感覚的に捉えようとするのではないだろうか。
目の前の手の届くモノは、その場で見ることもできるので、ほんとうに存在しているとなるが、全体は目の前のモノの性質から類推し感じているに過ぎないのではないか。ならば、つくる方が向き合うのは全体ではなく細部の性質であり、全体は細部の彼方に見える蜃気楼でしかない。