動機は置き換えたい、埋めたい

そう、何かに置き換えたいと思っていたのだろう。

鉄道高架の立ち退きによってできた変形地、これから街が変わる、風景が変わる、その変わり方の全てに関わることはできないし、最終的に鉄道高架ができて、どのように変わるかまで想像できないが、今見えている空き地をその場所がもっと良くなるように、何かに置き換えたい、何かで埋めたかった。

92CC52F1-5898-4312-BE61-CC8C378A5D64.jpeg

結局こうやって1つ1つのマスを埋めていくように風景が変わっていく。その時に風景がどう変わろうとも、周辺環境とその場所のつなぎ役を演じるような建築や空間やアイテムで置き換えたい、埋めたい、動機はそれしかなかった。

リンク

とある計画の次

周辺環境と今いるところが重なり合い、境界線が混じり合って曖昧な領域が生まれ、そこが人の集まる場所になれば、周辺環境とのつながりができ、そこでしか実現できない空間が生まれる。

これは環境を生かし、その環境に建築を溶け込まして、その場所特有の建築や空間をつくるためのよくあるひとつの手法だが、今回はそれを少し応用して、人の集まる場所をもっと詳細なアイテム、今回は大きなひとつながりのカウンター、として目で見てわかりやすく表し、また、そのカウンターが建築の特徴となるように計画している。

5E5A8579-9901-46BF-B9E9-576E773AC8ED.jpeg

人が集まることがなかなかできない時だから、離れていてもつながりを感じることができることと、またいつでも集まることができることを大きなひとつながりのカウンターとして表すことを意図している。

リンク

外と内と滲み

半屋外空間のような、半屋内空間のような、外と内の重なり合う空間、外でもあり内でもあり、どっちつかずで曖昧な空間に惹かれる。

外と内をキッチリと分ける必要がある空間も勿論存在するが、そもそも外でも内でもどちらでもいい、外か内かということ自体意味が無い空間も存在する。

そのような外と内の境界線が混じり合って、滲み、それがまた別の形なり空間をつくり出し、外や内と同等の価値が与えられる状況に何か可能性を感じる、このお皿の魅力のように。

F5D4CE75-9FB5-4F42-A95F-8B2CB4FDDDE0.jpeg

リンク

外皮のらしい形

中身を表す外皮と考えてみたら、その外皮の形が最初に思い浮かぶ。形が中身を表すことがあるだろう、らしい形をしているかどうか。

目的の建築を探す時も、頭の中でそれらしい形をした建築を想像しており、それの頭の中のらしい形と現実に見える形を見比べて判断している。

8EFC3E1D-8B84-41F9-9D43-C3E87E34A263.jpeg

だから、建築の用途が決まれば、例えば、病院や学校など、それに見合ったらしい形が存在するから、その形を外皮とすれば、中身を表していると伝えることができる。

リンク

別の意味合いの外皮と中身

建築を考える時に外皮と中身を別々に考えてしまう。建築は重力に逆らって下から積み上げていくので、一部違うつくり方もありますが、基本的には、建築の構造と呼ばれる骨組みの部分は外皮も中身も同時に組み上がる。

だから、外皮と中身はつながっており、別々に考える方が不自然なのだが、仕上げ材の求められる性能が違うからか、別々なものと捉えてしまう。

仮に、東京ドームのような天候に左右されない広い空間の中に家を建てるとしたら、外皮と中身を分ける必要があるだろうか。天候に左右されない空間だから外皮としての性能が必要無く、そうすると外皮と中身を分ける必要も無く、そもそも外皮と中身などという考え自体をしないだろう。

F64446E6-FDD7-4CEC-966A-5854FD3C46D5.jpeg

そうすると、温熱環境や環境負荷を考慮する存在としての外皮とその中身以外に、外皮と中身について別の意味合いがあるとしたら、そこが面白いし、そこに興味が湧くし、建築のデザインとしての本質的部分がそこにあるだろう、いくつか思い浮かぶ。

リンク

外皮と中身

何からの影響かはわからないけれども、開放的な外皮の中に、不自由で動かせないもの、それは密実で塊で本質的なもの、を内包するイメージが常にある。

建築は基本的には動かないもの、動かせないもので、自由にできそうで、実は不自由なことが多く、制約が多く、その中でどうするかが問われているようにいつも感じていて、それをそのまま表現することもあるけれども、それに一旦開放的な外皮を纏わせることで、それが対象化され、より建築の本質のようなものが露わになるようなことを考えてしまう。

その開放的な外皮は存在として実体として目の前に無くてもよく、むしら感じられる、目には見えないけれど認識できるようなことの方がより内包するものを際立たせるだろう。

DA23F93D-5EA8-400C-AF1D-3FE69C8FB876.jpeg

だから、建築を取り巻くものに、建築以上に興味が湧く。そして、それは日本的空間の得意とするところだろう。

リンク

人の居場所が流動的になる

人と人がランダムに距離を空けて居場所を確保しようとすると、その軌跡は段々と流動的になる。広場にいる人に向かって上から呼びかけたら、整然と前後左右にまっすぐに並ぶことはないだろう、人によって距離感が違うし、目線の高さも違うし、身体の大きさも違うから、何か目印や目安がないと整然とはいかない。

そして、曲がりはじめる、蛇行しはじめる。身体の向きが揃わない限り、まっすぐにはいかないもので、その身体の向きも微妙にズレるから。

むしろ、曲がったり、蛇行したりする方が自然なのかもしろない、川の流れのように。川の水は流れやすいところを流れるから、まっすぐにはいかず、曲がり蛇行する。それが極端になると三日月湖となり、また川の水が流れやすいところを流れる。

73ADE883-A27E-420B-8F5A-93EFDF8E7490.jpeg

人同士が多数の中で自分の居場所を確保しようとする時も同じではないかと考え、曲がり、蛇行する軌跡をカウンターとして考えてみた。

リンク