感じることはコントロールできない

感覚だけで捉えてみるとおもしろいかもしれない。たとえば、そこは広いのか狭いのか、実際の広さは関係なく、広く感じるのか、狭く感じるのか。感覚が実際とちがっていてもいい。むしろ感覚が実際と違うようにできたらおもしろい。

考えることはコントロールできるかもしれないが、感じることはコントロールできない。勝手に考えないようにすることはできるが、勝手に感じないようにすることは不可能である。それだけ自身で感じることの全てをコントロールすることはできないから、そこにデザインで関わることができる余地がある。

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矛盾するイメージ

言葉とイメージはどちらが先かと時々考えることがある。結果的にはいつも、どちらが先でも構わない、となる。実際には曖昧だとおもう。説明するのに言葉を使うからイメージと分けてしまうが頭のなかでは区別がないだろう。だから、言葉では矛盾するようなイメージができるのだとおもう。

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宝さがし

よいイメージを連続して見ていくと残像が重なり合い、共通点だけが鮮明に浮かび上がり、その他の部分は曖昧な靄のなかに埋却していく。普通はそこで鮮明な部分だけに注目していくのだろうが、埋却していくものをすくい上げることに興味がある。

もし埋却したものの中にしか現れないものがあるとしたら、それこそ次につながる可能性の種ではないかと思う。そのようなものを見つけようとする行為は宝さがしのようでおもしろい。

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雑多のなかでイメージ

日常に埋もれたままではいいイメージはできない、などとどこかで思っていたりするかもしれない。雑多のなかでは、イメージ創出に専念できないと思うからである。

たしかにそうかもしれないが、雑多のなかでしかできないイメージもあるかもしれない。どちらがいいわけではないだろう。ある程度、気が散らないといろいろな所に意識がいかないので、イメージするときは集中するより気が散っている方がいいともいわれる。

雑多でしかできないイメージ、ってどんな感じか興味がある。

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イメージする楽しさ

たくさんのイメージの中からどれを選択するか。基本的にイメージは自分だけのものであり、コントロールできる場合もあるし、無意識に浮かびコントロールできない場合もある。

コントロールしたら恣意的になり過ぎることもあるかもしれないが、恣意的なイメージほど本人は楽しい。この楽しさを誰かに伝えたいと思うことがでデザインすることのモチベーションにもなる。

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原風景がヒント

原風景がイメージのヒントになることはよくきく。原風景はもっとも強い記憶かもしれない。他の人にとっては何でもない風景かもしれないが、そこに紐付けられたものすべてがその人にとって貴重なものになる。きっとそれがイメージのヒントになるのだろう。

では原風景はその人のものだけだろうか。人の潜在意識は深いところで繋がっているともいわれている。原風景も潜在意識に根ざしていると考えられるので、原風景にも繋がりを見いだすことができるだろう。だから、自らの原風景をイメージのヒントにしても、そのイメージに対して共感をえることができる。

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