根拠

ものの配置はどうやって決まるのだろう。当然そこには明確な根拠があるだろうし、欲しい。その根拠を求めて右往左往する。

根拠がないとダメなのかと稚拙なことをおもってみる。別に根拠が無くてもいくらでもできることは確認できる。ただ根拠が欲しいとはおもう。

ならば後から結果を見ながら根拠をつくればいい。それで何か不都合があるだろうか。

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熱量

熱量のあるものに惹かれることが多いような気がする。巧みで素晴らしいものには当然惹かれるけれども、何か稚拙でもものすごく熱量のあるものの良さは巧みさや素晴らしさを軽々こえてしまうような気がする。

ものの良し悪しにはさまざまな尺度はあるだろうが、そのものがヒトの心に何か作用するときに必要なことはどれだけの熱量がそこにこめられているか。熱量を感じない巧みさは惹かれても印象に残らない。

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状況がつくる

別々のものだと認識するときは、そこにつながりがないからであるが、全くのバラバラでは、そもそも別々だとすら考えないのではとおもう。

だから、別々のものとして単独で存在しているときは、単独が成り立つバラバラという状況がつくられているのではないか。要するに、ものがそもそもどうであるかはこじつけで、その前に決まっているということだろう。

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細部の存在感

上から俯瞰してかんがえると全体がよく見渡せて、細部から見ていくと全体がわからなくなるようなことを、木を見て森を見ず、などといったりするが、建築では、ディテールに神が宿る、などという言葉もある。

細部に全体を超越するようなものがある、というような解釈だと捉えているが、全体が規則正しく整えられていることも大事だが、細部の他を圧倒するような存在感はそれだけで全体の価値を上回るのかもしれない。

そうかんがえると、ひとつひとつの細部はそれだけでひとつの全体を成し別々に存在していて、その間には何もつながりがなくてもいいことになる。なんとく面白い感じがする。

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古くても新鮮

新しさの中に古さを混ぜるとどうなるだろうか。古くても新鮮、という一見矛盾するようなことが起きるのではないかと考えている。

ものの新しさや古さは価値に直結する訳ではなく、その使い方が価値を生み出すのではないかとおもうから、混ぜるという使い方に可能性をみいだす。

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楽しいイメージ

楽しいイメージは持ちたいし、それを具現化したい。たくさん建築空間を見てくると、だんだんと当たり前になってきて、ただ美しい、ただ素晴らしい、ただただ良いだけでは頭が満足しなくなる。

何でもそうかもしれないが、頭がいくら満足していても心が満たされなければ、ただただ虚しいだけ。それなのに、頭で満足しようとしてしまう。

心を満たすために頭を使うのが一番良いのに、心を先にすることを忘れてしまう。そうすると、どうでもいいことで代わりに心を満たそうして余計に虚しくなる。自戒して気をつける。

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見たい欲求

自分が見ている物がその物のすべてでは無く、自分の都合とは関係無いところで、他の物との関係の中でその物が成り立っている部分があり、そこは自分では見ることができない、とハイデガーはいう。

物をつくるとき、たしかに、すべてを見せたいと考えることは無い。むしろ核心は隠したいと考える。そうしないと、建築が使えないような気がするからで、どこか核心の部分、すなわち、その建築の存在理由のようなものが見てわかるようだといやらしい、そう使えと命令しているようで。

建築が使うためにある物で、それが唯一、建築だと見える理由だと考えているならば、使い方をこちらの思い通りにコントロールしたいところだろう。ただ逆に、想定した使い方以外を見てみたいと完成後は考えてしまう。すなわち、それがハイデガーの見ることができない部分であり、見ることができない物を見たい欲求ほど強いものは無い。

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