距離を取ることと空間を形成すること

直線的に近づいたり離れたりしていると閉じないから絵にはならないけれど、それが回転していたり、湾曲していたりして、最初と終わりが合い閉じれば、何かしらの形を成し、ソーシャルディスタンスが絵になるような何か、カウンターか何かをイメージして一日中スケッチをしているが、どうもしっくりとこない。

距離を取ることと空間を形成することは相性がいいはずで、間を空けることは距離を取ることだから、ソーシャルディスタンスを空間形成の発露にするのは妥当性があると思うのですが、どうもうまくまとまらない。

やはり、ソーシャルディスタンスという言葉自体がネガティブな響きになっているからか、たがら、いいイメージにつながらないのか。

素直に距離をデザインすると考えれば、もっと様々なバリエーションが存在するはずだから、少しは方向性が見えてくるかもしれない。

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天井の高さが関係性をつくり出す

わざと天井を低くくすることもある。どうも天井は高い方が良いと思われているようで、世間一般的には、天井が低いことは狭くて、よくマンションは天井が低いから、という会話を聴いたことがある。確かに、マンションは少しでも階高を低くして、それで少しでも多く戸数が稼ごうとするが、天井が低いということは悪いことではない。

空間の大きさの決め方には違いがあり、物を置く空間などはその物の大きさによって、その物が収納できる大きさで決まるが、人がいる空間は人の大きさが基準になる。例えば、物を置く空間としては美術館や博物館などがあり、展示する美術品の大きさにより展示室の大きさが決まる。人がいる空間の住宅やマンションなどでは、人の大きさが基準になるので、人の大きさに近ければ、それはヒューマンスケールと呼ばれ、人にとって親和性があり、適切な大きさということになる。

だから、天井の低さもヒューマンスケールと捉えれば、人にとって心地よい高さとなるかもしれないし、吹き抜けのような天井の高い空間はヒューマンスケールを逸脱しているので、人によっては落ち着きのない、居心地が悪い空間となるかもしれない。

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このように、天井の高さの違いより、人に与える影響にも違いが出るので、天井の高さをデザイン要素として扱うことで、人と建築の関係性をつくり出すことができる。
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つながりを形にする

人と人とが近づいたり離れたりする軌跡を回転させて、それを上から眺めたら「花」の形に見えるはずだと、いつもイメージしていた。

だから、その花形のカウンターをつくれば、人と人との距離感を適切に選択しつつ、カウンターが媒介となり、人と人を繋げてくれると思う。そして、何かをはじめる位置によって、人と人の距離感も変わり、その場所固有の領域がその都度出現するだろう。

物から誘発されるつながりや関係性をつくることは、建築が目指すべきひとつの方向性だといつも考えており、それをデザインして形にするという面白さが常にある。

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距離感をデザインで保つことが課題

人が距離感を保ちながら繋がるにはどうしたらいいのだろうかと考えることが、このウィズコロナの中で計画案を考える時に、その建築のパブリック性が増せば増すほど、必要なことになってきた。

簡単に言えば、住宅のパブリック性は0で、プライベート性が100%だから、住宅ではその必要性は無いが、飲食店や店舗、次いで、学校や病院、美術館、博物館などの順にパブリック性が増していくと、何らかの対応が必要になり、既存の美術館などは事前予約制にし、入館日時を指定してチケットを購入することで入館人数や密度をコントロールしている。

また、既存の飲食店は人と人の距離感を取るために、客席を1つ飛ばしにしたり、テーブルの数を減らしたりして、やはり人数と密度をコントロールしている。既存の施設で、人数や密度をコントロールするにはその方法しかないのかもしれないが、それは売上にも影響する。

だから、それがわかっていて、これから計画する飲食店や店舗で今までと同じようなことはできないと考えている。ならばどうするか、人と人が適切な距離感が保ちながらも、人と人が繋がることを建築の課題としてあげ、それをデザインで解決していくことが求められている。

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とある計画

予算からすると10坪が限界のようだ。どのようなお店でも10坪以上あれば何とかなるだろう、10坪未満のお店だってたくさんある。飲食店兼料理教室で10坪平屋の建築、家ならば10坪は狭いが、お店ならば、ただ厨房の割合が大きくなる。

10坪の中で厨房とホールをキッチリと分けたら、例え、オープンキッチンでもどうだろうか、せせこましくなるのではないだろうか。それに中途半端な、厨房も、ホールも、広さになりそう。ホールも狭かったり、席数がとれなけば、カウンターだけにするが、ラーメン屋さんのように、何かもったいない、せっかくの10坪をテナントとして入るのではなくて、平屋で建てるのだから、他にやりようがある気がした。

例えば、10坪全てが厨房というのはどうだろうか。お店として考えたら10坪は中途半端な広さ、特色もないように思えるが、厨房として考えたら10坪は広い、料理教室も兼ねるならば、厨房は広い方がいい。

厨房の中にお客さんがいて、厨房の中で料理教室をして、全てがシェフズテーブルになる。

ただ、保健所で問題になりそうな気がするが、厨房とホールは明確に分かれていないといけないから、小まめに分けて、何とか方法はありそうな気がするが、手洗いだらけになったり、このご時世それでも構わない気もする。

そして、厨房の中には大きなひとつながりのカウンターをつくり、その中に厨房機器、設備を仕込む。カウンター上で料理がつくられ、お客さんに供され、料理教室が開かれる。

屋根はそのカウンターを雨露からしのぐためにつくられる。

その大きなカウンターが人と人、人と料理、料理と料理をつなぐ。

気分でどこで食べてもいい、どこで料理をしてもいい、そのカウンターは外まではみ出してつながっていて、外の人や街の風景もつなぐ、鉄道高架の立ち退きによってできた変形地、これから街が変わる、風景が変わる、その時に何かつなぐ役目が飲食店のカウンターというのも悪くないし、結構、食べ物につられて、だから、カウンターは変形している、変形していれば周長が長くなり、人がより集えるし、直線だらけの風景に味が出る。

こういう計画もまたよしだと思った。

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知覚されない単なる物体の建築

考えてもみたら自然界の中で人間が知覚できることは結構限られていて、光にしても全てが見えている訳ではないし、音にしても全てが聴こえている訳ではないし、見えない色もあるし、目にはそのように見えないが、写真ならば見える象もある。

人間が知覚できる範囲が基準で表現をしているから、それが一部だということに気がつかない。そして、それが全てで、それは良いことだと思い込まされているかもしれない。

建築はどんなにデジタル化されても、つくり方はある意味ローテクで、人間が知覚できる範囲しか扱うことができないから、知覚できないことが存在していようと関係がないかもしれないが、それは人間主体で建築を考えた場合で、あくまでも人間の知覚を基準にしているからで、例えば、単なる物体が先にあって、その単なる物体から触発されて人間が使いはじめ、その物体が人間を内包できたならば、そこに空間が存在し、それは建築であり、ただ、最初は建築には見えない単なる物体だから、人間が建築として知覚していることをその単なる物体は持っていないことになる、なのに建築である。

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そのような建築として知覚されない単なる物体の建築をつくりたいとふと思った。

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住む住まないにより違う

人の住む場所と人の住まない場所で、建築として何が違ってくるのだろうかと考えてみた。

困った時は事務所として申請すれば良いと聞いたことがあるが、人が住まない場所としてまず思い浮かぶのが事務所であり、設備のことをいえば、便所と簡単な流し以外は無い、例えば、浴室があると事務所としては用途上認められないだろう。

ただそれは、人が住む住まないを機能的なハード面から見ただけであり、ここで取り上げたいのは、人との関係においての違いであり、人と建築との関係において住む住まないができあがる建築にどのような影響を与えるかということ。

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人が住む場所であれば、人と建築との関係は1対1の対応になり、より人に合わせた濃密な関係性になるだろうし、人が住まない場所であれば、人と建築との関係はより希薄になるというか、建築はむしろ環境や外部空間といった人を包み込む部分との関係性がより強くなると思う。

そうすると明らかに、人が住む住まないによって、求められる建築が違ってきて、そこでできることもかなり違ってくる。

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