窮屈ではないものに

感情や気分をそのまま受け止めるような建築を考えようとしている。やはり、建築は人を包み込むようにできているもので、もしそうでなければ、工作物、土木構築物だから、それでは建築ではないから、ならば、人と建築の関わりの中で考えると、主体は人になり、それに合わせて建築が変化する方が自然のような気がする。

そうすると、人は日々の生活の中で何に一番左右されるのか、良くも悪くも感情や気分だと思う。少なくとも、感情や気分の変化無しに1日を過ごすことはないだろう。

だから、建築を計画する上で、人の感情や気分を扱うことには妥当性がある。程度の差こそあれ、感情や気分に左右される人を包み込む建築はどうあるべきかは重要な問いだと思う。

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一方で、そのような言葉による問いから導き出された建築は本当に妥当性があるのだろうかとも考えてしまう。ちょっと窮屈な思いもある。

何もしなくても湧き上がってくる感情や気分があり、それが意図せずとも見方に影響を与え、その影響が何も介することなしに建築化されたようなものにしたく、それは何か固定化されたイメージの建築ではないことだけは確かなので、つくりながら、後追いでできあがったものに言葉をつけてみようと思う。それが例え的外れだとしても、できあがったものにはその時の感情や気分がダイレクトに反映されるだろうし、少なくとも窮屈な思いはない。

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変わる気分で選択すれば

感情や気分が何かをきっかけに湧き上がり、それがさまざまな見方に影響を与え、その都度違う状況をつくり出す。その状況は言葉で表現するには複雑でまどろっこしく、イメージで表現するには単純すぎてつまらない。

何かを表現するというプロセスを介すると、そこで表現手段に合わせて変換しなくてはならないから、必ず抜け落ちる部分があり、それを踏まえて伝えなければならないのだが、伝えるという動作をひとつ入れないでわかるようになれば、できあがるものも違ってくるだろうと思う。

よくあるように記号化してしまえば、伝える動作を入れないで、表現というプロセスを介さないで、瞬時にわかってもらえるが、それで感情や気分によって変わる見方までわかるのだろうか、それこそ、もっとわからなくなるような気がする。

たくさんの記号が散りばめられていて、その中から選ぶようにすれば、その選ぶ基準が感情や気分であればいいのかもしれない。建築が記号の集合体になればいいのかもしれない。

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と考えたところで、すでによくある「木の家」は記号化された建築だと思い、だから、「温もり」や「優しさ」などという固定された良いイメージがある一方で、感情や気分の入り込む余地がないくらい変わらないイメージになっており、それに息苦しさを感じる。

どこかでコロコロ変わる感情や気分を受け止める部分がないと人を包み込む建築で日常を送るのは辛いかもしれない。

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見ている違いからの影響

ものの見方を改めて考えています。見方というより、存在の仕方の方がいいかもしれません。

きっかけは本当に小さな木造平屋の飲食兼料理教室の建築計画です。本当に小さいからひと目で全体を見ることができ把握できてしまう。

その時に、そこに現に存在している建築と、私が見ている建築と、他人が見ている建築が、その建築を見ている時の感情や気分も含めて、同じではないだろうと、まずそこに興味があり、違うならば、それが建築デザインにどのような影響を与えるのだろうかと考えています。

そして、その影響から建築デザインのはじまりを導き出すことはあるのだろうかと、あるならば、何をどうするのかと考えています。

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上手く調整するより

何かをつくろうとした時に、つくろうと想定されているものがあり、自分が考えているものがあり、他人が考えているものがあり、それらが一致して同じということはほとんどない。

ということは、ひとつのものに対して、同じものなのに、さまざまなものがあるということ。

普通はこれを上手く調整して、誰もが納得するひとつのものにするのだろうけれど、せっかくだから、このさまざまなものをそのままに合体して仕上げてみるとどうなるのだろうか。納得するひとつのものと、さまざまなものをそのままに合体したものと何が違ってくるのだろうか。

さまざまなものをそのままに合体しても全ての考えや想定は盛り込まれているのだから、納得されるはずだから、上手く調整するよりも面白いものになりそうな気がするのです。

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厚みがあるなし

何でもかんでも平面的に捉えてしまう。昔、村上隆がスーパーフラットということをいっていたけれど、東山魁夷の絵が好きで、一番最初に絵を見て感化されたのはウォーホールのキャンベルスープなので、陰影がなく、空気遠近法でもなく、画面という二次元に三次元を描くためになるべく平面的にしようという、変化球を投げようとしたら、結局直球になり、ただ、その直球が何ともいえないシンプルな味があるような、ややこしい捻くれ者の表現が心にささる。

だから、建築という三次元の代表のような存在を表現する時にも、平面的に、フラットに、イメージでは陰影がなく、その場面場面は建築をスライスした断面という二次元を見ているような感じです。

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だから、そこにいる人も厚みがなくペラペラでひらひらした存在、人間とはそういうもので、人間は社会の中で存在する人なので、その社会の在り方によって人はどのようにも人間として変わるし、変われる、人間には厚みは必要ではないかもしれない。

そのような見方だから、柔軟に人間としてウィズコロナに合わせ、ひらひらと変わればいいし、後で振り返ったら、今のこのややこしい時があったから、人として厚みが増したと思いたい。

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物中心より人間中心

設計とは、何でもありな多様性に枠をはめて限定的な多様性にする行為だとしたが、その枠のはめ方を人間中心に考えたいと思います。

人間中心以外では、素材や形といった物中心に考えたり、暑い寒いなどの温熱環境から派生して、また別の物中心の考えがあったりなどしますが、人間が使い、人間との関係性があるから建築として成立しているのであり、人間とは関係が無いところで成立していれば、それは単なる工作物であり、建築とは明確に違います。

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だから、設計として建築を取り扱う以上、人間中心に考えるのが自然であり、そうすると、予算も物中心の範疇に入りますので、物の良し悪しとは関係が無いところで、建築の良し悪しを考えることができるようになります。

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何でもありに枠をはめる

全体としてのひとつの意味づけではなくて、たくさんの意味づけが存在しており、そのどこを取り入れるかは人によって違い、その取り入れ方によってその都度意味が変わり、見え方も変わる、そのような建築をつくりたいといつも思う。

ひとつの意味で成り立つものはどこかで無理矢理その意味に合わせていて、そうすることにより存在意義を見出しているのかもしれないが、それは何とも不自然であり、別の見方や別の人が見れば、いろいろな意味がつけられる。それを簡単に言えば、多様性があるということだけれど、単なる多様性では何でもありであり、それは何でもありの建築になり、何でもありならば、あえて設計者はいらなくなる。

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設計とは、何でもありな多様性に枠をはめて限定的な多様性にする行為であり、その枠のはめ方がデザインであり、デザイナーの姿勢が表れるところだろう。

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