埋没させる

物理的な重なり合いではなく、モノの内部にある一部分がつながり合うことは、その一部分がモノの内部に埋没しているためであり、意識してその埋没状態をつくることができれば、つながりが物理的以外でもつくることができかもしれないと思った。

そのためには、つながり合うモノを見極めて埋没させ、なおかつ、モノは独立した状態で林立することが大事だと思う。

やはり、むずかしいのは埋没させることで、埋没状態は形を消すことになるので、それだけつながりを表す手段が制限される。だから、通常のデザインプロセスではないプロセスが必要になる。

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つながり合い

前に重なり合う面白さをよく考えていた。オーバーラップすることで、それまでは交わることが無かったモノ同士が重なり合えば、それだけで様々な可能性が広がる。きっかけをつくることがデザインになれば面白いと思っていた。

重なりはモノ同士が物理的につくるものだが、最近はモノは独立していて、物理的な重なり合いは無いが、モノの内部にある一部分がつながり合うことがあり、そのとき、様々な可能性が生まれれば面白いと考えるようになった。

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分かりづらい相関

最近、為替に目がいく。円安すぎて海外へ遊びに行きづらいな、などと思いながら、あちらこちらで戦争が起こっているのに「有事の円」は一向に円高にならない、とも思う。昔のように単純には相関しなくなっているのだろうか。

相関といえば、モノの相関が最近複雑に思える。何をもって相関か。一見相関しているように見えなくても、中身が相関している場合もある。ただ、それでは相関しているかどうかが分かりづらい。分かりづらさは謎を生む。その謎が相関を複雑にしている。ただ、単純に相関がわかるよりはモノをより深く知ろうとするかもしれない。探求のはじまりになる。

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ズレ解消

やらなくもいいことなのに、それが必要だと思ってしまう。きっと何かがズレている。大事なモノはそのまま中心に据えればいいが、素直にそれをせずに周辺のことばかり整えようとする。だから、準備は万端だが何も進まない。もっと弱めてみると、何が強いのかがわかるから、強いモノをどうするか。強いモノにはとりあえず遠慮してもらうと、残るのは弱いモノばかり。弱いモノで構成しようとしたら工夫が必要になる。きっとその工夫がズレを解消してくれる。

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時間の違い

過去のモノと現在のモノが混在していたら、時間の違いだけで、そこに強弱が生まれる。ただ、そのときに過去だから弱い、現在だから強いではなく、混在の中で時間の違いに新たな価値を見出したモノが強く、何も変わらなければ弱い、ということである。

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弱いモノの影響

強いモノと弱いモノを混ぜてみると、強いモノに影響されるかと思うが、意外と弱いモノの方が影響が大きい。強い考えとか、強い構築物はそれだけで成り立つから、揺るぎがなく、放っておける。しかし、弱い考えや弱い構築物はそれだけでは成り立つことができないので、何か他のモノが必要になり、結果的に他のモノに影響をおよぼすことになる。

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弱いモノ

大事なモノとそうでないモノは意外とわかりやすいが、強いモノと弱いモノは案外わかりづらい。何による強弱かにもよるが、基本的に強いモノを大事しそうになるが、強いモノはそのままでも問題ないので、弱いモノに目を向けるべきだが、弱いモノは目立たないので見つけにくい。下手をすると、強いモノの中の強弱を見てしまう。弱いモノに目を向けることができたとき、モノの全体像が見えてくる。

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モノに強弱

建築がメインで外構はサブのように主従や強弱をモノ同士につけることで構成を考えるのが普通であったりする。では何に対して主従や強弱をつけるのか。それはモノ同士の関係性に対してではなくて、モノ自体に対してであり、モノ自体に主従や強弱をつけることができる部分がある。

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感覚の中にモノ

空間をアクティビティで捉えようとする試みは昔からある。身体感覚で空間を捉え、その身体感覚の中に建築というモノを見いだす。感覚に中にモノがあることが分かりづらいかもしれないが、モノはどこかで現物以外の側面を持っており、それがモノにさまざまな解釈を生む要因になる。解釈はデザインに通じる。

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空間をモノ

空間をモノにようにあつかうと、モノがもつ現れ方で表現できる。モノは目の前にある状態だけが全てとする考え方と、目の前からは隠れた状態も合わせ持つとする考え方がある。どちらでいくかを決めて取り掛かるのが普通だが、都合よく混在させる方が面白い建築になると考えている。

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時間はモノ

建築はモノに時間が宿ると考える。そのときの時間は非常に感覚的だとおもう。実際には何でも時間の影響をうける。モノ以外でもヒトも時間の影響をうける。

だから、時間と関係があることは当たり前のことだが、モノに時間が宿ると考えるときは、時間がモノが成り立つ上での感覚的な諸条件のひとつになっている。

要するに時間はモノの一部、すなわち、時間もモノになっている。建築は何でもモノにしてしまう。

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分解

建築は表層的な部分がまず見えてしまう。そのとき、その表層がその建築自体を表すとふつうは考えてしまう。しかし、その表層はあくまでも建築の一部であり、もっと奥深い何かが隠されていると思うこともできる。

その場合、建築は分解され理解されることになる。案外、この分解はよく起こる。特に都合の良い解釈をしたいときに分解し、勝手に再構成してしまうし、奥深い何かを匂わせたいときには便利だ。

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内面に向かうモノ

モノ同士の関係性が重要だと考えてしまうが、それはモノ同士が相互に関係し合っていることが前提でモノが成り立っていると考えているからで、モノが自立していることが前提ならば、話は変わる。

ただ、やはりモノ同士には何かしらのつながりはあるだろう。それを今までのような関係性という外面的なつながりで解くのではなく、モノの内面的に何かつながる要素がある、としたならば、自立して内面に向かうモノのあり方が新たなに考えられるだろう。

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モノのすべて

何かモノに対して、不変的であったり、絶対的であったりして、それは触れることができないモノで、動かすこともできないモノだと無意識に思うことがある。

なぜそのようにモノを思うのか。たぶん、そのように思うことで、モノを神格化して絶対的な領域にあるものとしておくことで、モノのすべてを知らなくてもいい、としておきたいのだろう。

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関係が生まれるとき

建築でも何でもモノがそこにあれば、それは自立してそこにある。しかし、何かしらそのまわりとモノとの関係も生まれてしまう。そのときに自立することとモノ同士の関係性を対比させて考えることには少し違和感がある。

なぜならば、そのときは関係性がモノの自立があってはじめて現れてくると考えられるからで、そこに違和感があり、はじめから関係性のあるところに自立したモノが置かれるということもあり得ると考えられるから。

ただ、もしそうならば、自立は関係性という地の上に成り立つものであり、自立だけを抜き出して考えることができなくなる。さらには、関係性がモノに先立つことで、自立自体がおかしくなる。

ならば、まわりとの何かしらの関係は、モノ自体の内部から起こると考えれば、全てがうまくいくような気もする。

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内部から

モノはそこに自立してあるが、ただあるだけではないような気がする。そこにモノがあり、その隣にもモノがあれば、何かしらの相互作用は生まれる。そのときに何が何と結びつくのだろうか。自立してあるのだから、相互の関係性はそれぞれのモノがどうであるかを表していないだろう。

もしかしたら、モノ自体の内部にあるものが相互作用しているのかもしれない。もしそうならば、モノは自立もしつつ、関係とはちがう形で、影響をまわりに及ぼすことができる、ということか。

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関係以外

ついつい自分と関係があるモノを優先してしまう。それは自分との関係のなかでしかモノをみていない証拠かもしれない。関係が無くてもモノはそこにあるのだから、モノは単独で自立してそこにあるのだろう。そのときの関係以外のモノを成り立たせているモノやコトに興味がある。

もしかしたら、そのモノやコトがデザインする対象なのかもしれない。もしそうだとしたら、デザイン自体がもっと自律するかもしれない。

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自分とまわり

新しい建築ができると、前にそこに何があったかを思い出せないことがよくある。たぶん、見ているようで見ていないからだろう。でも、なぜか前にあったモノを思い出そうとする。別に関係者でなければ、前にそこに何があったかなどはどうでもいいと思うのだが。

きっと人は自分だけでなく自分のまわりの環境まで含めて自分を成り立たせているのだろう。そうするともはや、自分とまわりの環境とのつながり、などという関係性よりももっと強い何かが存在しているように思える。

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感情アクセス

モノに人がアクセスするとき、考えも感性も両方使うだろう。あとは感情も使う。感性は考えのうちかもしれないが、感情は考えのそとにあるかもしれない。むしろ感情は考えより前に生まれる。感情を説明するために考えがあるようなものかもしれない。感情でモノにアクセスする場合と考えや感性でアクセスする場合は何がちがうのだろうか。感情でしか表現できないモノには考えや感性以外の魅力がありそうだ。

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暗示

話す、話さないという選択以外にも、暗示がある。直接的に対応する話す、話さないより、間接的に対応する暗示の方が知らないうちに深く伝わることがある。デザインも同じかもしれない。直接的なフォルムをしたデザインはわかりやすいし、人目を引くかもしれないが、暗示的なデザインの方が深く人の心にしみるかもしれない。

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感性も考えのうち

最近、感性も考えのうちだとおもうようになった。感性をモノに対して働かせようとしたら、そのモノに対して何かしらのアクセスをしなければならない。アクセスにするときには感性だけでなく考えることも必要になる。むしろ、考えが先頭をいくかもしれなず、感性が考えに従属するかもしれない。

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考えることだけで

人によるアクセスとは、考えることでアクセスすることであり、モノの世界では考えることでアクセスできる部分はごく一部かもしれない。そのごく一部の中でモノに対してデザインをしているのかもしれない。きっと、モノの世界に対して考えることだけでアクセスすることに無理があるのかもしれない。

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モノの世界のうち

建築で利用可能な部分はごく一部でしかない、何が、人がアクセスできるモノとしては。経験によって得られるモノが建築の主要な部分を形成すると考えているが、それは人がアクセスできるモノであり、ただモノの世界で人がアクセスできる部分はごく一部かもしれないとも考えている。

さらには、人がアクセスできるモノのうち、建築で利用可能だと考えられているモノはまたそのごく一部で、さらには、さらには、建築で実際に利用されているモノはまたそのうちのごく一部。だから、まだまだ可能性がモノの世界にはたくさん眠っていると考えている。

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フレームが断つ

いちいち考えたりしないから気楽に楽しみたいのが本音で、空間もそこでの瞬間的な気持ちよさ、居心地のよさが大切、でもそれはつくる方も瞬間を意識するのか。

瞬間の連続が時をつくると考えると、こう見せたいやこうしたいと作者側が考え、その情景やシーンを分解するときに一緒に時も分解して瞬間にしている。そのときには、瞬間は細切れの連続で作者側の意図をくむ。だから、ひとつの瞬間と瞬間の間にはつながりがあるとしているし、それが大前提になっている。

そのつながりを疑ってみることにした。昔、たくさん写真を撮りまくっていたころのファインダー越しの情景を思い出した。フレームが瞬間のつながりを強制的に断ってくれる。そして、並べられた写真は独立した瞬間を見せていた。

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今この瞬間

今この瞬間にあらわれるモノには、今だけでなく過去も含まれており、未来は過去とのつながりであらわされ、過去も未来もモノの多義性をあらわすひとつの要素でしかなく、モノは今この瞬間にある時が全てで、モノをその他のことであらわすことはモノ自体を歪めることになり、今この瞬間のモノと次の瞬間のモノにはつながりが無く、全く別のモノである、という。

モノの捉え方により、モノの見え方は変わるが、もし今この瞬間にしかモノとしてのあり様があらわれないとすれば、捉え方を考えること自体が無意味で、瞬間的にモノをそのまま見るしかない。きっとそれが一番難しそうな気もする。

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身体必要ですか

身体感覚は必要ないのだろうか。AIやChatGTPはほんと助かる。楽に知識が手に入るし、アウトプットまでしてくれる。

ただ、唯一おもうのはフィジカルな感性が伴わない。そもそもフィジカルな感性などどうでもいいと思う人が多いのか、みんな有り難がっている。

何も無い時、ネットも、スマホも無い時、頼りはフィジカルな経験だけだった。もし、今何もかも無くなったら、頼りは生身の身体だけだと思い身体に刻む体験には意味が無いのだろうか。最近、お茶の道がたのしくてしょうがない。

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バラバラな点

流れと捉えることはよくある。流れを読むとか、時の流れとか、空気の流れとか。流体力学なんて響きもなんとなくカッコいい。流れはすなわち、つながりともいえる。つながりがあるから流れになる。バラバラであったものがつながり動きだす、そのときの航跡が流れとしてみえる。だから、流れの前提はつながりがあることである。では、つながりが無ければ、それはただのバラバラな点の集まりである。たくさんの点が同時に存在しているだけのことである。

ちょっとおもう、この現実世界は流れでもあり、バラバラな点の集まりでもあると。つながりを見だせば流れだが、つながりを解く、別のつながりを設定する、新たなつながりをつくれば、今までの流れがバラバラな点の集合でしかなくなる。

要するに、流れとはつながりを保つ行為であり、別にバラバラでもよければ簡単に消滅するし、バラバラな点の状態の方がいろいろな流れを形成する可能性を秘めており、その方が多様で面白そうだ。そんなバラバラな点の状態のようなモノをつくりたい。

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質より使い方

最近チープなデザインが多いような感じがする。理由は仕上げにお金をかけけることができないからだとおもうが、そこには触れないようだ。

どうしてモノ自体にもっと目を向けないのだろうか。チープに見えるのは仕上げ材の質ではなくて、材料の使い方が問題なのに。

使い方ならばそれほどコストには影響しないようにできるし、そこにデザインの余地がある。

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今でも昔でもない

懐かしさや郷愁にもにた感覚をもとめてしまうことがある。こどもの頃に遊んだ場所にいってみたり、子供のころ、毎夏両親の田舎に遊びいった思い出を辿ってみたり。

昔とはすでに何もかもちがうのに、今それを懐かしむことで、昔と今を融合させた何かをつくりたいのか。

ただ、いつもおもうのは、何もかもちがうけれど、今と昔の間の時間差は一瞬で埋まり、そこにはタイムラグはなく、今でも昔でもないもうひとつの時がうまれるような気がして、それは自分だけのものであり、その感覚を求めていたのだと。

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時は流れではなく

時の流れというけれども、たしかに時間はつながっており、時間に切断面は存在しないようにおもえる。

しかし、今この瞬間からみたら過去も未来も流れではなく、ひとつの止まった切断面にしかみえず、しかも、それは現在も同じで、それら3つの切断面が合わさって今この瞬間がつくられているようにおもえる。

そうすると、時は流れではなく、今この瞬間のひとつの要素として過去、現在、未来があり、それらが今この瞬間を多様にしてくれているだけで、次の瞬間にはまた別の過去、現在、未来が存在して多様にしてくれる。時間は流れではなく、今この瞬間を多様にしてくれる単なるアイテムでしかないのかもしれない。

ならば、過去のモノを今この瞬間にいかすことも、ことさら過去という時制には意味がなく、そのモノがどういうモノかということの方が重要なのかもしれない。

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今このとき

今現在から過去や未来を考えることは、実際の過去や未来とはちがう。今という時間にポーンと投げ入れられたとしたならば、そこにはすでに過去や未来はあり、ただその過去や未来は自分が都合よくつくったものであり、だからこそ、歴史は勝者によって捻じ曲がり、未来も方向づけられてしまう。

しかし、そうなると、実際の過去や未来にはいつまでたっても出会えないし、もしかしたら、実際の過去や未来など無くて、あるのは現在がより複雑で多様なだけなのかもしれない。

そう考えると、過去のものを未来に残そうとか、現在が過去から未来への流れの一地点とは思えなくなる。あるのは今この時の現在だけで、過去も未来も今この時のためのパーツでしかない。だから、今が大事ということか。

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今そこにある

ずっと興味があることは、今、見ているモノに刺激を受け感情を揺さぶられることはどうやったら起こるのだろうか、ということ。それを建築で叶えるためには何をどうするか。

最初は知覚の問題かと考えていた。要するに受容側の問題であり、受容の時のしくみをいかせばいいと考えていた。

たしかに、その要因もあるが、もっと根本的にモノ自体がどうあるべきか、モノはどこにどのように存在するのかを考えれば、そこに知覚の問題も含まれるし、建築が関係性から脱しで、今そこにあることができ、それが感情を揺さぶることになると考えた。

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引き継ぐ

建替えに際して、何とか前の建築からのつながりを残したいとの想いから、何かを引き継げないかと考えている。

モノとしての古材や、例えば、建築の配置や高さ、空地の残し方など、今ある事柄からいくつか候補はある。しかし、少しおもうのは、何を選んでも、またそれをどう使おうとも、前の建築とはつながりは生まれないのではないか、ということ。

何かを引き継いで使ったり、そこに妥当性を与えたとしても、今との関係性で構築したものだから、その時点で前の建築とのつながりは絶たれてしまう。もしかしたら、何かを引き継ぐという考えでは無理があるのかもしれない。

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捉えるには

データなどの客観的な指標でモノを判断することは科学的にはよくあることで、それを示されるとそこに妥当性があると感じ納得してしまうが、それが通用するのもそもそもそのモノとの関係性が元々あるのが前提になっているから、別にその指標は客観的でも何でもないのではないかとおもう。

もし、関係性も何もない未知なるモノだったら、共通言語にあたるような客観的だとおもわれるような指標すら存在しないのだから、その未知なるモノを捉えることはできないだろう。

むしろ、目の前にあるモノはありゆる関係性を絶ち独立した存在だとして、それでもそのモノを捉えようとしないとうまく捉えられないような気がする。

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独立

関係性から独立できるか、しているか。目の前に現れるものは自分と関係あるものしかない現れない。それもデフォルメされて誇張されて現れる。困ったものである。ほんとうの姿を見たいのに、いつまでたっても見ることができない。ちょっと自分の見方を変えてみる。大事なのは関係性が全てではないと考えることかもしれない。

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建築の真の姿

そこに建築があることは、そこにいる人に依存しているように思えるが、そこにいる人が抱いているその建築へのイメージより越えたモノ、それがその建築の真の姿、にするには、その建築がそこにいる人に依存しないで独立している必要がある。さらに言えば、建築が自律しているとはまさにこういうことである。

ただ、そこにある建築がどういう存在であるかは、そこにいる人自身の中にしかない。それはどういうことかというと、そこにある建築が自分の中に存在している人にしかその建築を見ている意識がないからである。

だから、そこにある建築はそこいる人の中にしか存在していないが、その建築自体はそこにいる人に依存しない方がいいとおもう。

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蜃気楼

建築をしていると全体を構築するので、構築された全体からどのような影響をあたえることができるのかを考えはじめてしまうが、そうした実在的な全体から影響をうけることがほんとうにあるだろうかなどとも考えてしまう。

つくる方は構築していく上で全体から細部へと考えが流れていき、それを実在的なこととして考えるのは仕方がないが、受けとる方は全体的な視点をもてるとは限らず、実在的な細部ばかりに目がいくことも多い。そして、その細部の実在的なモノに触発されて、全体を感覚的に捉えようとするのではないだろうか。

目の前の手の届くモノは、その場で見ることもできるので、ほんとうに存在しているとなるが、全体は目の前のモノの性質から類推し感じているに過ぎないのではないか。ならば、つくる方が向き合うのは全体ではなく細部の性質であり、全体は細部の彼方に見える蜃気楼でしかない。

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単なる記念品

古材を使おうとしている。理由は愛着があるからで、そこにはただ単に時間の積み重ねがあるだけでなく、何か大切なモノを象徴しているように思えるからである。そこではその古材が自分を構成する一部になって欲しいという願いの現れになっている。

ただ思うのは、その古材はそんなこととは関係なしに存在しているということ。きっとその古材を使うときにはその愛着や時間の積み重ねから自由になっていないと、古材が単なる記念品程度の安い価値しか纏わないような気がする。気をつけようとおもう。

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人もモノ

人が使うモノがそこらじゅうに散乱している。人が使うモノだから、そこには人とモノとの関係が散乱している。ただ、別の見方をすると、モノ同士の関係もそこらじゅうに散乱している。

そういう見方をすると、人もモノとしてモノ同士の関係に組み入れられてしまう。ただ人が入ると関係が複雑になるかもしれないが、それはモノ同士の関係の中での程度の差ぐらいだろう。

人もモノ、モノ同士の関係だけで建築や空間が成り立っていると考えたら、美しさや素晴らしさを感じたり、感動したりといった人の情緒的側面はどのように扱えばいいのか、とても興味がわく。

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時間軸を付加

再生や再利用にはもともと時間が付着している。

時間とは、建築にとっていつまでも変わらない尺度であり、通常の新築であれば時間軸は1つだが、再生や再利用することで、また違った時間軸を付加することができる。

この付加された時間軸をデザインにいかすのが再生や再利用の面白さであり、醍醐味である。

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再生は感じ方

見覚えあるモノがまた別の使われ方をして目の前に現れたら、きっと受けとる感じは今までとはちがってくるだろう。

感じ方はモノの使われ方や現れ方に依存するのかもしれない。そんなことをぼんやり考えていたら、再生や再利用は感じ方をあつかうことだとすることもできるのではと思った。

今まで再生や再利用という言葉には、モノに偏重しすぎて何か歪みをいだいていたが、新たな感じ方をつくると考えると、また新たな思考がまわりはじめた。

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現れない

そこにあるモノが自分と関係があるかないかを決めるのは、そこにあるモノがあることによって自分が成り立つ状況かどうかであり、そうすると自分が成り立つために必要なモノはとても限られるかもしれない。無くも自分が成り立つならば、それは無くてもいい。

そう意識すると、モノの現れ方も変わるかもしれない。そもそも関係がないモノは現れなくなる。

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揺さぶるには

目の前に現れるモノが予測とはちがうとき、当然人は感情を揺さぶられる。予測は過去の経験や知識などからくるが、それは目の前に現れるモノが必ず自分と何か関わり合いがあることが前提になっている。だから、関わり合いがはじめから何も無いと思うモノに感情は揺さぶられない。

ならば、関わり合いの有無が感情の振幅に関係があることになり、モノそのものがどうかより、そのモノとの関係が有るかどうかがまず感情を揺さぶるための第一歩になる。

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現れ方

人の感情を揺さぶるようなモノはどういうモノだろうか。モノそのものとしては案外わかりやすく存在するものかもしれない。モノそのものなら案外容易く人は感情を揺さぶられるかもしれない。ただし、その振幅は人によるかもしれないが。

もう少し別の見方をすると、モノそのものではなくて、モノの現れ方だけでも人の感情を揺さぶるだろう。モノそのものはいろいろな要件が絡んでコントロールがむずかしくなることもあるが、現れ方は相対的に取り扱うことができるから、モノそのものとは関係がないところでコントロールすることもできる。

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隠蔽ではなく

建て替えにあたって、一度解体したモノを再利用しようと考えている。ただ単に古材を使うということばかりではなく、そこに古材が持っている時間の要素をはさみ込み、新たに現れるモノが見た目ですべてを語らないようにしようと考えた。

見た目ですべてを語るようにわかりやすくつくることは大事だが、ときにもっと大事なことを隠蔽してしまうような気がする。隠蔽するのではなく、どのように現すかがデザインだとおもう。

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退隠

目の前にあるものがそのままありのままを表していないとしたら、それは何かが退隠している証拠であり、それをどうするか、そこに可能性があるのではないか、などと考えてしまう。

そもそもデザインや設計は退隠しているものを相手にするものと考えているので、むしろそこに焦点を合わせたい。

ではなぜ退隠しているのだろうか?何が退隠しているかより、なぜ退隠しているかの方が大事かもしれない。なぜがわかれば、何を退隠させて何を表に出すが自由自在にできる。まさにそれがデザインや設計だとおもう。

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根拠

ものの配置はどうやって決まるのだろう。当然そこには明確な根拠があるだろうし、欲しい。その根拠を求めて右往左往する。

根拠がないとダメなのかと稚拙なことをおもってみる。別に根拠が無くてもいくらでもできることは確認できる。ただ根拠が欲しいとはおもう。

ならば後から結果を見ながら根拠をつくればいい。それで何か不都合があるだろうか。

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熱量

熱量のあるものに惹かれることが多いような気がする。巧みで素晴らしいものには当然惹かれるけれども、何か稚拙でもものすごく熱量のあるものの良さは巧みさや素晴らしさを軽々こえてしまうような気がする。

ものの良し悪しにはさまざまな尺度はあるだろうが、そのものがヒトの心に何か作用するときに必要なことはどれだけの熱量がそこにこめられているか。熱量を感じない巧みさは惹かれても印象に残らない。

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状況がつくる

別々のものだと認識するときは、そこにつながりがないからであるが、全くのバラバラでは、そもそも別々だとすら考えないのではとおもう。

だから、別々のものとして単独で存在しているときは、単独が成り立つバラバラという状況がつくられているのではないか。要するに、ものがそもそもどうであるかはこじつけで、その前に決まっているということだろう。

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細部の存在感

上から俯瞰してかんがえると全体がよく見渡せて、細部から見ていくと全体がわからなくなるようなことを、木を見て森を見ず、などといったりするが、建築では、ディテールに神が宿る、などという言葉もある。

細部に全体を超越するようなものがある、というような解釈だと捉えているが、全体が規則正しく整えられていることも大事だが、細部の他を圧倒するような存在感はそれだけで全体の価値を上回るのかもしれない。

そうかんがえると、ひとつひとつの細部はそれだけでひとつの全体を成し別々に存在していて、その間には何もつながりがなくてもいいことになる。なんとく面白い感じがする。

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古くても新鮮

新しさの中に古さを混ぜるとどうなるだろうか。古くても新鮮、という一見矛盾するようなことが起きるのではないかと考えている。

ものの新しさや古さは価値に直結する訳ではなく、その使い方が価値を生み出すのではないかとおもうから、混ぜるという使い方に可能性をみいだす。

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楽しいイメージ

楽しいイメージは持ちたいし、それを具現化したい。たくさん建築空間を見てくると、だんだんと当たり前になってきて、ただ美しい、ただ素晴らしい、ただただ良いだけでは頭が満足しなくなる。

何でもそうかもしれないが、頭がいくら満足していても心が満たされなければ、ただただ虚しいだけ。それなのに、頭で満足しようとしてしまう。

心を満たすために頭を使うのが一番良いのに、心を先にすることを忘れてしまう。そうすると、どうでもいいことで代わりに心を満たそうして余計に虚しくなる。自戒して気をつける。

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見たい欲求

自分が見ている物がその物のすべてでは無く、自分の都合とは関係無いところで、他の物との関係の中でその物が成り立っている部分があり、そこは自分では見ることができない、とハイデガーはいう。

物をつくるとき、たしかに、すべてを見せたいと考えることは無い。むしろ核心は隠したいと考える。そうしないと、建築が使えないような気がするからで、どこか核心の部分、すなわち、その建築の存在理由のようなものが見てわかるようだといやらしい、そう使えと命令しているようで。

建築が使うためにある物で、それが唯一、建築だと見える理由だと考えているならば、使い方をこちらの思い通りにコントロールしたいところだろう。ただ逆に、想定した使い方以外を見てみたいと完成後は考えてしまう。すなわち、それがハイデガーの見ることができない部分であり、見ることができない物を見たい欲求ほど強いものは無い。

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感じることはコントロールできない

感覚だけで捉えてみるとおもしろいかもしれない。たとえば、そこは広いのか狭いのか、実際の広さは関係なく、広く感じるのか、狭く感じるのか。感覚が実際とちがっていてもいい。むしろ感覚が実際と違うようにできたらおもしろい。

考えることはコントロールできるかもしれないが、感じることはコントロールできない。勝手に考えないようにすることはできるが、勝手に感じないようにすることは不可能である。それだけ自身で感じることの全てをコントロールすることはできないから、そこにデザインで関わることができる余地がある。

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矛盾するイメージ

言葉とイメージはどちらが先かと時々考えることがある。結果的にはいつも、どちらが先でも構わない、となる。実際には曖昧だとおもう。説明するのに言葉を使うからイメージと分けてしまうが頭のなかでは区別がないだろう。だから、言葉では矛盾するようなイメージができるのだとおもう。

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宝さがし

よいイメージを連続して見ていくと残像が重なり合い、共通点だけが鮮明に浮かび上がり、その他の部分は曖昧な靄のなかに埋却していく。普通はそこで鮮明な部分だけに注目していくのだろうが、埋却していくものをすくい上げることに興味がある。

もし埋却したものの中にしか現れないものがあるとしたら、それこそ次につながる可能性の種ではないかと思う。そのようなものを見つけようとする行為は宝さがしのようでおもしろい。

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雑多のなかでイメージ

日常に埋もれたままではいいイメージはできない、などとどこかで思っていたりするかもしれない。雑多のなかでは、イメージ創出に専念できないと思うからである。

たしかにそうかもしれないが、雑多のなかでしかできないイメージもあるかもしれない。どちらがいいわけではないだろう。ある程度、気が散らないといろいろな所に意識がいかないので、イメージするときは集中するより気が散っている方がいいともいわれる。

雑多でしかできないイメージ、ってどんな感じか興味がある。

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イメージする楽しさ

たくさんのイメージの中からどれを選択するか。基本的にイメージは自分だけのものであり、コントロールできる場合もあるし、無意識に浮かびコントロールできない場合もある。

コントロールしたら恣意的になり過ぎることもあるかもしれないが、恣意的なイメージほど本人は楽しい。この楽しさを誰かに伝えたいと思うことがでデザインすることのモチベーションにもなる。

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原風景がヒント

原風景がイメージのヒントになることはよくきく。原風景はもっとも強い記憶かもしれない。他の人にとっては何でもない風景かもしれないが、そこに紐付けられたものすべてがその人にとって貴重なものになる。きっとそれがイメージのヒントになるのだろう。

では原風景はその人のものだけだろうか。人の潜在意識は深いところで繋がっているともいわれている。原風景も潜在意識に根ざしていると考えられるので、原風景にも繋がりを見いだすことができるだろう。だから、自らの原風景をイメージのヒントにしても、そのイメージに対して共感をえることができる。

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記憶か

イメージやシーンを描くとき、人は記憶を頼りにしているのだろうか。記憶を頼りにしているとした方がもっともらしいし、安心するかもしれない。記憶すなわち体験がなければイメージやシーンを描けないとした方がいいイメージやシーンを描くための学習の方法が明確になる。

しかしときに、到底体験できないようなイメージやシーンにあたることもある。だから、記憶を頼りにしているだけではないとして、ではなに、と探すこともおもしろいかもしれない。

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イメージやシーンを描く

建築はイメージやシーンの積み重ね、張り合わせ、つなぎ合わせでできていると考えている。どのイメージやシーンを積み重ね、張り合わせ、つなぎ合わせて空間をつくるか考えるのが楽しい。すきにイメージすればいいし、すきにシーンをつくればいい。そこに制限はないから、普段から妄想して遊んでみてもおもしろい。イメージやシーンに人を登場させるとよりおもしろいかもしれない。

きっとそうやってできた建築や空間は馴染みが良いような気がする。建築や空間を体験する方もイメージやシーンを描きながら体験するので、素直に建築や空間を受け入れやすくなる。

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窓はマテリアル

窓とマテリアルに関係性はあるのか。前から頭の片隅にあったのだが、窓も遠目から見たら壁のマテリアルのひとつである。窓を開口部として見るのではなく、マテリアルとして見た場合にどうなるか。

マテリアルとしての窓はつねに不確実な要素であり、自分ではすべてをコントロールできない。もしかしたら、それが窓の最大の魅力かもしれない。不確実な要素の原因のひとつに時間があるだろう。時間によって窓の景色、すなわちマテリアルが変化する。景色をマテリアルと捉えたらデザインの幅も広がるかもしれない。

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人が通る窓が大切

たとえば窓があると、陽をいれる、風をとおす、外をみる、などの窓でできることにそって行動する。窓は行動のきっかけをくれる存在である。だから、窓と何かを紐付けることで行動をコントロールできるかもしれない。建築は人の行動をコントロールするものとしたら、窓は大事なファクターである。

窓は空間を制限する。窓の大きさは空間に特性をあたえる。窓には2種類ある。人が通る窓と人が通らない窓。人が通る窓の方がコントロールできることがたくさん増えるような気がする。ひとつの住宅に人が通ることができる窓は案外少ない。だから、より人が通る窓は大切である。ただ単に出入りするだけではもったいない。そこはデザインしがいのある領域である。

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見え方が手がかり

そこからどう見えるか、ただそれだけを手がかりに空間を構築してみようとおもう。

1本の木を植える。その周り360度それぞれ違う見え方をする。その見え方を最大限いかすように空間をつくってみる。

木との関係性のバリエーションが空間のバリエーションになる。空間を選ぶときには木の見え方が手がかりになる。

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見え方の差異

ひとつのものをあらゆる方向から見てみる。見え方は四方八方に存在する。さらに、それぞれの見え方は全てちがう。それらの見え方は独立して存在し、元のものもまた存在している。

そこが面白い。普通はあるひとつの見え方だけを取り出して見ているが、その他の見え方の方がたくさん存在し、なおかつ、他に元のものも存在しているから、またそこにも見え方がある。

ひとつのものの中にあるたくさんの見え方の差異を拾いあつめるだけで、空間ができるような気がした。

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部材の時

部材には時が宿っている。よく解体された古民家の柱や梁などを持ってきて内装の部材で使ったお店などをみる。確かに部材自体は太かったりして立派だが、部材自体は元の古民家があった地域で一般的に誰でも手に入れることができるものだから、特別に良いものでもない。

そこの風土に合った生活と共に長年存在していた古民家の価値が部材には宿っており、それは長い時を経たからであり、昨日今日つくった建築には絶対にないものである。

部材に宿る時は、部材が新たに使われた場所で解き放たれる。そのような時は他の方法では得ることができない。それは現代建築にはじめから欠けているものでもある。

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部材使い

部材の使い方ってむずかしいし、ひと真似できてしまうから、考えないのかな、という場面に出会うと、もったいないな、面白いのに、と思う。

そこにはそこだけの可能性がある。建築のタイプというか、目指している方向が違えば、確かに部材の使い方はワンパターンでもいい、そこに注力する必要がないときもある。

ただ、部材の使い方に時間を閉じ込めることもできるし、人とコミュニケーションする道具にもなる。部材の使い方は奥が深いといつも思う。

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朽ちさせる

部材はもつ、といつもおもう。建築はスクラップアンドビルドが基本、最近はそうでもないが、真っさらにしてハイ次どうするか。

それについての良し悪しには興味はないが、物の行方には興味がある。生産され、加工され、形を与えられ、そして朽ちていく。スクラップアンドビルトは形を与えられて終わってしまう。形あるものいつかは朽ちるのに、朽ちることをさせない。みな、省エネもはじめの生産ばかりに注力してる。身近で誰でもできることは朽ちさせることではないかといつもおもう。

建築がスクラップになるとき、すべてが必要なくなるわけではないの真っさらにしてしまう。部材はつかえる。部材に新たなに形を与えればいい。そうしたら、また朽ちさせることができる。

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地に注力

地と図にわけて考えてみると、図は感覚的な対象としてとらえることができるが、地は埋没していてすぐにはとれえ所がないかもしれない。別のいい方をすれば、図は直接あつかうことができるが、地は直接にはあつかえない。だから、一所懸命、図についてあれこれと考えるのだが、図は地があって浮かび上がるものと考えれば、地についても同じかそれ以上の注力が必要だろう。

地の中で一般的なもののひとつに環境がある。建築の場合、環境はどうにも動かせないもの、どうにも触れられないものとして与えられることが多い。ただ、すべては無理だとしても、ある特定の状況を設定するなどすれば、限定的だが環境について触ることもできるかもしれない。その状況の設定は建築をつくる側でできる。ある特定の状況設定には良し悪しがありそうだが、そこで社会に対しても貢献できる可能性を秘めている。

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シンボルが指標

シンボルツリーの周りに空間をつくるとき、シンボルツリーの見え方のちがい、見せ方のちがいで空間にバリエーションを持たせようと考えてみた。空間を選ぶ基準にもなる。

いくつか空間があるとき、ちがいはどのようにつくられるのだろうか。少なくとも各々の場所はちがう。場所がちがえば環境も変わる。環境のちがいを表すには何か指標が必要である。

シンボルツリーに対する見え方のちがい、見せ方のちがいが環境のちがいを表すための指標になると考えてみた。

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シンボルの配置

シンボルツリーという言葉があり、象徴的なものとして外構の目立つところに木を配置し、それを中心的にまつりあげて展開するやり方がある。意外とどこでも見かける。ここでいつも面白いと思うのは、シンボルツリーの存在というより、そのシンボルツリーがどこからどのように見えるか、ということ。シンボルであるのは見られるからであり、ならば、どこからどのように見えるかに関心をもつとシンボルツリーがまた違って見える。

どこから見えるか、どのように見えるかがシンボルツリーそのものの存在に何か影響を与えるだろうか。先にどこから見えるか、どのように見えるかを決めてしまってからシンボルツリーを配置しようとしたら、先にシンボルツリーがある場合と比べて何かが変わるだろうか。関心は広がる。

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使い方を変える

新しい道具は新しい着想を生むだろうか。日常的に使う道具を新しくしてみた。正確にいうと、前に使ってはいたが、訳あって使うのをやめたもののバージョンアップ版に変えてみた。だから、完全に新しいわけではないが、今まで使っていたものとは操作感が全くちがう。

昔慣れ親しんだものを、バージョンアップ版とはいえ、また手にすると感覚がよみがえる。だから、変な違和感がなく、すんなりと移行できた。ただ、これは良いことなのだろうか。もしかしたら、新しいものに対する違和感のような変な感覚が新しいものを生みだす原動力になるのではないだろうか。

だから、今度は以前とは使い方を変えようと考えている。使い方を変えることで、全く新しい道具を使いだす時と同じような違和感をつくりだし、新しい着想の手助けになればとおもう。

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越境したい

内から見て連続する空間が別の帰属へと連結されていくと、それだけでまた別の場を生みだす。空間の帰属はプランに表れる。とくにいくつかの異なる空間が寄せ集まって成り立つ建築では帰属が境界になる。

どこかでプランニングのときに境界を越えたいという欲求が生まれる。現実的に越えられないから境界になるのだが、せめて意識の上でだけでも越えたいといつも考えてしまう。

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蓄熱体の土間

昔ながらの旧家にはいると、薄暗いけれど、この暑い時期などは冷んやりしていて気持ちよかったりする。薄暗さは時に不安をあおるが、状況が変われば快適にもなる。

旧家の床下はだいたい土間である。夏の冷んやりさは土間だからという理由もあるし、軒が深いことにより日射を遮り陰をつくることも影響が大きい。土間はそもそも土であり、土はある程度の厚みがあると熱容量が大きいので、外気に直接触れることがなければ外気温の影響をあまり受けないので、冬は暖かく夏は涼しい、とされている。

さらに、熱容量が大きれば蓄熱体として利用できる。昼間に蓄熱体に日射を直接あてて熱をためれば、夜には蓄熱体から熱が放出される。現代の住宅に土の土間をつくることは現実的ではないような気がするので、土のかわりにコンクリートをつかうことが多い。ただ、コンクリートを蓄熱体として利用している例はまだまだ少ないので、その点でいろいろと可能性があるような気がする。

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土間の可能性

人が意識する内外と、建築における内外はちがう。そのズレがつくりだす微妙なちがいが建築空間に影響を与える。そこがおもしろい。

では、どうやってズレをつくりだすか。一番簡単なやり方は、外で使われているアイテムを内に持ち込むこと。例えば、土間。例えば、木。ここ何年かよく見られるのが室内に木を植えること。そこで人の意識と建築との間でズレをつくる。

いまのところ木を植えるつもりはないが、土間を取り入れようかと考えている。土間はすでに内においても一般的なアイテムだが、木を植えるより、まだまだ可能性があると考えている。

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状況をつくりだす

実体より尾ひれにあたる部分に惑わされてしまう。実際は尾ひれがつくりだす状況をみて判断している。正確には実体はどうでもよく、状況が支配している。状況をコントロールすることですべての印象が決まる。

実体には大差がない。なのに実体に目を向けようとばかりしてしまうし、状況によって実体までもより良くみえる。実体に大差がなく、状況ですべての印象が決まるのならば、状況をつくりだすことだけに専念すればいい。

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必要な物

言葉をつくして物について語っても物そのものには届かない。言葉は飾りもので、言葉を使う側がもっている物の輪郭には迫れるかもしれないが、それは物そのものとはちがう。きっと物そのものはまた別にそれだけ存在しているのかもしれない。

そうすると希望がある。大概の人が惑わされるのは、物そのものではなくて、物について語っている言葉だからだ。言葉が物そのものだと勘違いをしている。

物のそのものが別に存在しているならば、いまからでもそれにアクセスすればいい。きっと物について語っている言葉がばかばかしくおもえて、必要な物がわかるだろう。

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意識の外まで

すべてを人の意識のおよぶ範囲だけで考えていたら、観念的にしか物をみることができない。意識のおよばないところにも物は存在していると考えることができたら、物に対する表現の可能性が広がるとおもう。

人の意識のおよぶ範囲だけで考えるのか、意識の外までおよぶのか、どちらが正しいのかの判断はとりあえず保留しても、意識の外までを範囲にした方がいろいろ考えられて楽しいことだけは確かだから、意識の外まで考えてみようとおもう。

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両義的な全体

大きな物を分割して全体を構成するのか、小さな物を連続させて全体を構成するのか、要するにトップダウンかボトムアップかによって構成される全体はちがってくる。

建築の場合、トップダウン、すなわち、全体から細部へ向かう全体性が問われてきた。ただ、細部に注目する流れもある。その中間はないのだろうか。トップダウンでもあり、ボトムアップでもあるような、両義的な全体性は存在しないのだろうか、いまの関心事である。

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物それ自体に固執するとき

オブジェクト指向で物を考えると、物同士の関係性が全体をつくるが、あくまでも焦点は物にあたっているので、物がどうであるかが大事で、物を起点に全体を考えることができるので、重箱の隅をつつくような、物それ自体に固執するような行為が許されて面白い。

結局は物づくりをしているので、理屈を超えた一見どうでもいいようなことに、それがまわりから理解されなくても、そこに突き進むような行為がしたくて仕方がない衝動がおきる。変な話だが、それがある程度許されるような理屈がほしいときに重宝する。

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空間をつむぐ

空間をつむぐように連ねてみると、空間が流動的になるかもしれない。壁で仕切られ連続していく空間だと、壁が接着面であると同時に切断面でもあり、壁があることにより空間が流動的にはならない。

空間をつむぐようにとは、壁で仕切りながら連続していくのではなく、空間を空間で仕切りながら連続させていくことで、特に仕切るための空間を用意するわけではなく、全ての空間が仕切る役目にもなるということで、そこが流動性につながる。

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思いつきの連続

ルールははじめから決められていると窮屈なときもある。たぶんそれは現状とあっていないから違和感を感じているのだろう。ただ、ルール自体はほしい。ないと困る。厄介である。もしかしたら、ルールの内容が問題なのではなく、ルールを決めるタイミングが悪いのかもしれない。

はじめに決めるとモレもでるだろう。モレが違和感の原因かもしれない。想定外のことも起きるだろう。普段ならば想定外のことがあっても、それはそれでおもしろいがルール上は困る。ならば、あとからルール自体を修正や編集ができるようにすればいいのだが、修正や編集ができないこともあるかもしれない。

あとからルールを決めてみる。最初にはルールがない。思いつきの連続である。はじめから、辻褄があわない、おかしい、きちんとしないかもしれない。ただ、ルールがないから、辻褄があわないのか、おかしいのか、きちんとしていないのかがわからない。あとで、最後にすべてを包括するようにルールを決めてやれば、辻褄があっていて、おかしくなく、きちんとしていたことになる。それに、はじめの思いつきの連続がたのしそう。

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あとからルールつくる

並べていくと、最初にルールを決めるのか、あとから並んだところを見てルールを決めるのとでは全然ちがう。

最初にルールを決めることは、全体を俯瞰し細部にわたってルールを徹底できるかもしれない。しかし、上手くいくものだろうか。全体を俯瞰してのルールづくりは上手くいくことが前提である。それに比べて、あとから見て決める方は結果にルールを見つけるので、そのルールの再現性は高く、破綻することなく、現実的である。

どちらがいいということはないと思うが、こうなったことに対して、受け入れつつ、そこで修正でき、展開できることは多くの場面で役に立ちそうな気がする。

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ズレを利用

外にいるのか内にいるのかを迷うのは意識の中でズレがあるからで、建築の見え方が意識とズレている証拠である。本来は意識のズレを修正するべきなのだろうが、そのズレをマイナスととらえずに、そのズレをプラスに利用してみようとおもう。

外か内かの意識のズレはふつうにおこることである。たとえば、大きな建築のなかで連続して空間移動しているときなど、知らないうちに外へ出ていたり、内なのにあまりにも天井が高くて外だと感じたりして、意識にズレが生じる。

そのズレは意識の混乱を招くかもしれないが、同時に意識に引っかかりをつくることにもなる。建築を構想する側はこの引っかかりこそ一番求めていることである。それは言葉が先に思い浮かぶ建築ではムリなことかもしれない。

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2つの内

外から帰ってきてとホッとするのは自分の家だから。この当たりまえのことの中に「内」のおもしろさがあるとおもう。建築の外か内かのちがいに人の意識が対応している。たぶん、人の意識の中では、外と内の建築にちがいを感じている。ただし、その建築のちがいは、建築自体のちがいでは無いとおもう。たとえ、建築自体が外も内も全く同じ仕上げで同じように見えたとしても、人の意識は外と内を区別し、建築にちがいを感じるだろう。

この場合、外よりも「内」に可能性を感じる。内に対する人の意識が2つ同時に存在し、そこに暮らしが重なる。現代建築が苦手とする生活感が人の2つの意識を通して建築と絡む。2つの意識は建築でありきで存在するからデザインで影響を与えることもできるだろう。生活感とのちょうどいい距離がとれそうな気がする。

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感覚は有効

そこに何を置くかは何によって決まるか。理屈、真理、理論か、それとも感覚か。感覚だとしてみよう。感覚だけが唯一すべての人がもっている。理屈、真理、理論はもっていない人の方が多い。だから、理屈、真理、理論で置いても共感できる人がそもそも少ない。

では、感覚はどうだろうか。同じ感覚でないと共感できないだろうか。同じでなくても共鳴をさせることはできるだろう。たぶん、感覚の方がさまざまな解釈が入りこむ余地が生まれるからレンジが広い。感覚という曖昧さが、かえって何かを決めるときには有効なのかもしれない。

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境界線に言葉

図面を上から俯瞰して手を入れたくなるのは境界線であり、その境界線の内と外でのちがいを言葉で入れてみる。言葉はひとり歩きしやすいから、そこから今までとはちがった展開を期待してしまう。

境界線と言葉を入れながら、同時にかんがえているのは人への影響である。人のこころに響くだろうか、何を想うだろうか。建築によって何かがかわると思わないが、ゆさぶることはしてみたい。言葉は直接届けられないが、境界線は目にすることができるので、境界線上で何が表現できるか。

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タネが生みだすちがい

遠くから見たときに、どう見えるか、を考えている。遠くから見るためには、遠くから見えなくてはならない。なるべく遠くから見えるように配置してみる。遠くから見えるためには、なるべく高い方がいいかもしれない。なるべく高くしてみる。遠くから見えるためには、まわりと区別できるようにした方がいいかもしれない。なるべく目立つようにしてみる。

配置する、高くする、目立つ、それぞれは別の要素だが、目的はひとつ。アプローチはいろいろある。アプローチを組み替える、強弱をつける、などして少し変えれば、できあがるものも変わるだろう。何でもないことが今までと違ったものをつくりだすタネになるかもしれない。

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光の形に省エネ

建築は光に形を与えることができる。最近、光の形をつくるような建築を見ない。きっと、そのようなことが求めらていないからだろう。

しかし、近年、省エネのために太陽の光は注目されている。ただ、そこでは光の形など関係ない。もう少し、光の捉え方を変えてみたらどうだろうか。光に形を与えることにより省エネにならないだろうか。

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光のフォルムとマテリアル

窓はひとを感動させる。正確にいうと、窓から入る光がひとの感情をゆさぶる。もし、空間に光が差し込まなかったら、建築で感情をゆさぶる要素は装飾だけかもしれない。だから、光は感情をゆさぶる装飾ともいえる。

建築でひとの感情をゆさぶりたい。だから、光は重要な要素であり、光の扱いが重要なデザインである。光をそのまま導くのか、それとも、何かを媒介させるのか。きっと何かを媒介させることで、光にフォルムやマテリアルを与えることができる。光でひとの感情をゆさぶるには、媒介による装飾としてのフォルムやマテリアルが必要だとかんがえている。

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土間という場所

土間って不思議な魅力がある。こどもの頃住んでいた家には土間があった。そこには井戸があり、風呂を薪で焚きつけるための窯もあった。外でもなく、内でもない場所、土間という場所。

まわりと関連づけることもできるけど、独立してそこだけに存在している場所。中間領域だが、絶対的な領域でもある。まさしく土間という言葉でしか形容できない。そのような空間をつくりたいといつもおもう。

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両極端の間

間に存在するものは両端の特性を持つ可能性がある。空間という言葉にも「間」が入る。それは空間も両極端な何かと何かの特性を同時に持つことができる可能性を秘めている。ではそれはどのような特性だろうか。

もっとも簡単にすぐに思いつくものは、内部と外部という両極端な特性だろう。空間という捉え方をしたら同じだが、内部空間と外部空間に分けて捉えたら特性の差が生まれる。その差に焦点を当てれば、半屋内空間と半屋外空間が生まれる。

では、さらに半屋内空間と半屋外空間の差に注目したらどうなるだろうか。もっとちがった空間の捉え方や展開ができるかもしれない。

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バラバラでもなく固まりでもなく

バラバラと配置するよりも固まりの方が中にさまざまなものを包括できる。バラバラだとそこに関係性が生まれ、その関係性がまたひとつのフォルムを生むかもしれないが、バラバラであることで単体の価値の総和でしかない。固まりであれば、さまざまなものの価値の総和に加え、掛け合わせてひとつにもできる。

ただ、バラバラか固まりかのどちらでも無い状態がつくれたら、両方の良さを合わせ持つこともできるかもしれない。さまざまなものの価値の総和、掛け合わせと関係性による新たな価値やフォルムがちがった見え方を醸しだすかもしれない。

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役割を外していく

担っている役割をひとつずつ外して、そのものが持っている特徴だけに焦点を当てると、意外と別のイメージができたりしないかと考えてみた。

役割を担わせるためにつくられたものもあるけれど、後から役割を担ったものもある。案外、大事でもないのに外すことができない、と思い込んでいるものもありそうな気がする。

建築の部位にも、そのようなものがたくさんありそうであり、窓はそれの最たるものかもしれない。

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窓を解放する

なんとかの窓、というように、しばしば窓はつなぎ役の最前線の役目をする。ただ窓は建築に属する部位だから、つなぎ役以外の役目も担っている。窓の空け方も位置も大きさも、なにかしらの要望や制約による。窓自体が単独で自律することは普通は無い。

だから、窓を自律的に単体で考えてみようとおもう。逆に、全てのことを窓に合わせてもらう。そうすることで、窓がつなぎ役やその他の役目から解放される。解放された窓はきっとそれだけで存在感をだすだろう。

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狭窄した窓とみどり

開口部がないところに木や緑を配しても意味がない。開口部でセットでかんがえてみると、その関係性だけで建築が成り立つかもしれないとおもった。

自律性を高めて建築だけ単体で考える。または、環境に呼応して他律的に建築を考える。いずれも建築を全体的に捉えようとする。もう少し狭窄させて、開口部、すなわち、窓と木や緑の関係性だけで、そこから外へ内へと派生するように建築と環境がじょじょに形づくられていくのも、遊び心があって面白いような気がした。とりあえずためしてみる。

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都市部のみどり

緑がほしい、できれば木を植えたいとおもうと、まず場所を確保するだろう。その場所は緑や木の生育にとっていい場所で、人目に触れる場所を選ぶ。ただ、緑や木が単独で自律的に存在するよりは、人と関わる、建築と関わるようにしたい。

都市部で建築する場合、広い空地を確保することがむずかしく、緑や木と建築や人との距離が近くなる。どうしても緑や木は自然の中にあるものだから、広い空地に緑や木を配したいとおもうし、狭い場所では窮屈だと勝手におもってしまう。

都市部には都市部なりの緑や木の配し方があるのだろう。建築に寄生させるのもおもしろいが、もっと別の方法をかんがえよう。

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窓から進める

建築をみるとき、最初に開口部に目がいく。いわゆる窓があるから建築だとおもう。だから、窓にはその建築の意味や状況などがあらわれる。その建築が何なのか、住宅か、事務所か、マンションか、商業ビルかがわかる。だから、窓から先にかんがえてみたらどうなるか。

窓の位置や大きさが先にあり、その窓の状態に合わせて建築の側や中身がつくられていく。いつもとは逆の進め方になる。でも案外、理にかなっているかもしれない、窓ひとつ開けるにも苦労する都市部では。

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環境をリビルド

環境はもともとそこにあり、その環境に合わせて何かをつくる。ものをつくる場合の順序ははじめに環境がある。自律した何かをつくる場合でも、自律したものをつくることができる環境が必要である。この場合、環境には2通りの意味があり、建築では外部の環境と状況の環境である。

外部には合わせてつくるが、状況は創造できる余地がある。自律は状況の中でつくることができる。外部としての環境に新たな状況としての環境を重ね合わせれば、外部の環境を書き換えることもできるかもしれない。すなわち、環境から導き出されたことをもとにして、また再度環境にたち返り、環境をリビルドしてしまうのである。

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窓から環境をつくる

窓は建築の中につくるフレームで、建築は環境の中につくるフレームだと考えると、窓も環境の中につくるフレームだとすることもできる。窓が無い建築は基本的に人がいる場所とは考えられないので、建築には窓が必要である。

環境によって窓の位置や仕様、性格が決まるといってもいい。では逆に、窓から建築、さらには環境が決まることはあるだろうか。何となく、窓が先にあり、それに合わせて建築をつくることは想像できそうである。窓のフレームが建築のフレームをつくる。

では環境はどうだろうか。窓のフレームが環境に何か影響を及ぼすだろうか。それは窓のフレームが何を意味するのかにも関係するかもしれない。もし窓のフレームがアクティビティを意味するのだとしたら、そのアクティビティが及ぼす影響から環境をつくることもできそうな気がする。

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窓の配置

方位によって建築の配置は変わる。住宅では、日差しをたくさん得るために、建築を南に向け、大きな窓を設けようとする。シンプルにこの一点のみで、住宅は計画されていると言っても過言では無い。

とくに、窓に関しては方位と密接に関係している。窓の役割としては他に眺望や通風もあるが、それも方位による。

ちょっと窓に注目してみて、他に窓の配置を決定づける要因はないかと考えてみる。外観や内観上のデザインから導き出すこともある。あと他には何かないだろうか。

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3つの必然

偶然性を否定する必然性には3つあるらしい。普遍的な判断の中ではその範疇に入るものは全て必然であり、ある仮説を立てた場合にその仮説にあてはまるものだけが必然であり、複数に分けることができた場合その内のどれかを必然にすることができる。

建築は偶然性の産物というよりは全てが必然だから、これら3つの必然を建築に例えるとおもしろい。普遍的な判断や仮説はよく建築でもある手法である。ただ、分ける場合はなかなか無いかもしれない。

分ける側にいて全体を俯瞰できる場合、余分なものをそぎ落とし、必然的につなげてしまうことができる。全体性を持ちえるときの可能性は、このつながりを築けることにある。

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内向き

こころを揺さぶるものは常に自分へ迫ってくる。外へ向かっていくものを捕まえにいくような場合はこころには届かない。

建築は外へ向かおうとする意志が強いときがある。それは、都市へいかに開いていくかが重要で、建築の内側に向くことは自閉すぎて良くないという傾向の表れである。

あと、外向きということであれば、建築のエンジニアの部分に焦点があたっている場合も同様である。建築の物としてのパフォーマンスの良し悪しは重要だが、そこへの偏重がこころに響くことはない。

やはり建築も内向きに、何かが迫ってくるような感覚が必要で、それは常に建築が人との間に何かを築くものであることの表れだとおもう。

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こころに響くもの

人のこころに響くには、などと考えていると、自分がどういうときにこころが揺さぶられるか、などと考えてしまう。直接言葉を使わず、情景をイメージできて、その情景は今見ているものがきっかけで広がる世界で、ありそうで今までなかったものや、きっとこうだったらなどと思っていたものが目の前に現れたときに起こる。

だから、もしかしら、人のこころに響くには、新しさよりも、どこかで過去とのつながりがあるもので、何かこころを埋めてくれるものであったりするのでは、と思ってしまった。

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即興としつこさ

ほんの小さな違いを生む種のようなものを探して埋めていくような作業の繰り返しが初期の計画案づくりかもしれない。

その種は人のこころに響くものを基準に探す。たぶん1回では探しつくせないし、繰り返すことでしか探せないものもある。だから、そもそも1回では終わらない。

そう考えると、計画案づくりは型にはめるのではなくて、その場での即興と、粘着的なしつこさが必要だろう。

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積み重ねながら

小片を積み重なるがごとく集めて、ひとつのものをつくりあげるように考えるのが面白い、と最近思う。はじめに何をつくるかを決めて、そこに向かって集めていくやり方もあり、たぶん世の中の大多数のプロジェクトはそのやり方だろう。ただ、はじめに決めてしまうことで、すでにさまざまな可能性を潰すことになりはしないか、と思う。

とりあえず、少しずつ集めていきながら、それらを積み重ねながら、何にするかを考えても許されると思うし、その方がその都度可能性の見極めができる。やはり、可能性に焦点をあてながら積み重ねた方が面白い。

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琴線に触れるもの

琴線に触れないものをつくっていても意味がないとおもう。なんでもそうだが、惹かれるものがある。ときにそれは素晴らしいとおもっているだけかもしれない。おもっているだけとは、そのようにおもわされているだけなのかもしれない。まるで記号に反応するように、まわりの声や評判、評価、教えなどに左右される。

ただ、琴線に触れるものはそこからは生まれないような気がする。結局、琴線に触れるものは本当に求めていたものなんだなとおもう。琴線に触れなければこころは動かない。

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感動のきっかけ

気分が変わるときは、なんらかのきっかけが必ずある。気分だけがひとり歩きすることがあるかもしれないが、それでも必ず気分が切り替わるときはきて、そのときには何かのきっかけがある。

きっかけは何でもいいが、建築がそのきっかけになることは、つくる側としては嬉しいことである。願わくば、いい方に変わってほしい。そのためにつくりたいと思う。

気分の変化がいい方に極端だと、感動や崇高を抱くのだろう。できれば感動や崇高まで気分が変わるきっかけを建築が担えれば最高である。

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すべてはフレームワーク

あるフレームの中でかんがえればいいのは楽だ。だいたい、習慣というのはフレームワークで、いったん、フレームができてしまえば、中身を入れ替えるだけで何でも習慣にできる。建築も同じで、フレームさえできてしまえば、中身を入れ替えるだけで何でも建築にできる。だから、建築も習慣だとかんがえてもいい。

ならば、フレームをつくるところで汗をかけばいいのか。いや、フレームをつくるときにも、もっと大きな前提的なフレームが作用している。結局はすべてフレームワークなのだ。だから、フレームの外へにも行こうとおもえば行ける。

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過去と現在のズレ

過去の時の流れに現在の時の流れを重ね合わせてみると、当然、ズレがあらわれるはずである。そのズレだけを表現すれば、全てを見せるまでもなく、過去と現在の時の重ね合わせがわかり、時間をデザインに取り入れることができる。

建築でいえば一番わかりやすい場合は、リノベーションの場だろう。過去からの時の流れに現在これから必要とされる時の流れを重ね合わせる作業がリノベーションとも言える。だから、過去の部分と現在の部分をどのように見せるか、またはどこを見せないか、がまず第一に重要になる。

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過去と現在の同居

時間は重なり合うことができるのか、とかんがえてしまう。過去と現在とは時間でつながっているけれど、建築では分断されることが多い。リノベーションなどにより、全てが解体されない場合も増えたけれども、またまだスクラップアンドビルドが多い。

過去の時間を記憶に変換し、新しい建築にいかすことはよくみられる。端的にいえば、記憶をモノにうつし、そのモノをデザインのパーツにしてしまう。それは視覚的にわかりやすく、時間を途切れさすことなくつなげようとする意図もよくわかり、過去と現在が重なり合い同居できる。

ただ、時間という目に見えないモノを見えるようにすることで、様々な解釈ができる多様性をもひとつだけに具体化してしまっているようにもおもえる。もう少し解釈の余地を残した時間の重なり合いを目指したい。

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視覚以外の重なり合い

重なり合うことは見た目だけでない。見た目で重なり合えば、オーバーラップしていることは一目瞭然である。他の部分とのちがいも明確である。視覚情報は優位だが、他の感覚によって重なり合いがわかることもある。

重なり合いは、常に自分たちの生活に影響を与えてくる。スマホひとつとっても、そこにたくさんの情報の重なり合いがあり、それは見ればわかる。スマホというデバイスを通した重なり合いだが、デバイスが無くても情報の重なり合いはわかるだろうか。

きっとそれは炙りだされるように、他の部分での他の感覚がデバイスが示す重なり合いの無さを表現してしまう。あるモノの存在の有無は、他のモノが認識されることにより実感されることもある。

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人と空間の影響し合い

空間という言葉は20世紀の産物であり、それまで空間という概念自体が無かった。今ではかんがえられないが、言葉が無い以上、空間を認識していなかったのだろう。

空間は床壁天井でかこわれた領域を指すとしたならば、ハイデガー的には、人がいてはじめて空間は認識される、となるのだろう。どうしても人間主義に傾いてしまうが、人をかんがえずに空間や建築をイメージできない。

人は何世紀にも渡って生活様式や日常の習慣を変えながら生きてきた。建築もいろいろな様式をとりながら変わってきたが、空間が床壁天井でかこわれた領域であることは変わりがない。

人と空間の関係性はそのような表面的な時代性や建築様式には影響されないもっと違ったところで影響し合っているのだろう。それがどういうことなのかをかんがえるのがまた楽しい。

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視覚を意識

感情がたかぶるのは、何か外からの刺激があるときで、内から湧きあがる場合もきっかけは外からの刺激だろう。感情のたかぶりは、ときに求めたくなる。建築はその求めに応じるもののひとつとみることもできる。

建築が感情をたかぶらせる場面は、たとえば、荘厳な空間が目の前に現れたときや、建築自体が美しいときなどで、視覚をとおして感情が揺さぶられる。やはり、建築において視覚は意識せざるを得ない感覚なのだろう。

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可能性を再考

カン違いにより、勝手に外に追いやっていたことに、もしかしたら、そこに可能性があるかもしれないと気づく。

ちょっと、突然すぎたのか、あまりしないことなのか、評価がイマイチだったので、もう一度再考していたが、結局は元の方向性に戻ってきてしまう。

だから、別角度から元の方向性の可能性を探ってみた。不評だった部分を取り除けば、そこに可能性があるかもしれない。いま一度、元の方向性の発展形をかんがえてみる。

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枠をあぶり出す

つながりに目を向けると、枠がみえてくる。つながりは枠で縁とられたもの同士をくっつける。だから、つながりは枠の存在をはっきりとさせる。意識したいのはつながりよりも枠の存在であり、枠がどこに存在し、何を分けているのかをみたい。ただ、枠の中に入ってしまったら、枠の存在はわからない。だから、枠の外からつながりを頼りに枠の存在をあぶり出す。

枠がどこにあり、何を分けているのがわかれば、枠自体を変えることで、みえる世界を変えることができるのではないかとおもう。枠を建築と読み替えることで、建築が担う領域をズラすこともできる。ほんの少しズラすだけで、かなりみえる世界が変わるとおもう。

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つながるおもわせ

つながりをつくる時、つながり自体をつくるのか、それとも、つながるイメージをつくるのか、でその後の展開が違ってくるとおもう。

つながり自体をつくるとしたら、直接的につながるのか、間接的につながるのか、どちらにしてもそれで全てのつながり自体を網羅できる。

つながるイメージは、実際につながりが無くても良いので、つながりをつくる時により自由である。つながりができるだろう、というおもわせでも良い。このおもわせは多分に建築的処理ができそうである。おもわせという仕掛けはストーリーを構築する建築ではよくあることである。

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人をつなぐ緑

緑は人をつなぐ役目をするとかんがえてみた。緑は本来、相対するもの、眺めるもので、鑑賞物である。だがもし、人と何かをつなぐ物、媒介する物だとしたら、今までの緑の配され方とはちがってくるだろう。

緑を鑑賞することが目的ではなくなるのだから、建築でいえば、緑は構成要素のひとつになる。今まで外回りの要素のひとつとして眺めてきた。しかし、建築と何かをつなぐためにある存在、すなわち、建築がそこにある必要性を緑が担保してくれる。この流れから室内に植栽を配するという発想も生まれたのだろう。ただ、ちょっと虫嫌いにはつらい。

緑がつなぐ物はどこかで、人であって欲しい、とおもってしまう。だから、人と緑が並列に存在し、そのスペースを緑が構成する、そのような建築を構想してみたい。

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つながりを表現

つながりを表現できたら、つながりとそれ以外、という分け方ができる。建築でも何でも、ものをデザインすることは、つながりとそれ以外の部分とを明確にすること、と仮定できるのではないかとおもった。

そして、つながり部分をことさら強調、あるいは誇張してみせることで、つながりがもつ作用や意味が表現できる。つながりは関係性だが、それ自体が表現になれば自律する。

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つながりは自律的

つながりが見えづらくなっている状況は不安を抱くかもしれない。どこでどのように何がつながるのかがわかることによって、自分自身の立ち位置もわかるから安心できる。だから、ものづくりには、つながりをわかるようにすることも、必要だとおもう。

つながりは至るところに存在し、むしろ、全てはつながりの結果で存在しているともおもう。それを他律的というのかもしれないが、それはつながりの関係性に焦点を当てるからで、つながり自体に焦点を当てれば、それは自律的なこととして浮かび上がる。

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複数の自律

ひとつの自律したものをつくりたいという欲求は、ものをつくる人ならば誰でも根源的に持っているだろう。それは建築やデザイナーといった作品をつくる人たちだけでなく、民芸品のような日常に必要な道具をつくる人たちも同じだろう。

ただ同時に、単なる自律したものではもの足りない、ともおもってしまう。単に自律したものは、まわりとの断絶をおこし、孤立する。孤立からくる、その場だけ良い、ようなことはしたくない。だが、孤立を起こさないようにつながりを求めると、自律の良さのひとつである強度が失われていくような気がする。

だから、複数の自律したものを考えてみることにした。複数あれば孤立を避けることができ、かつ自律の強度も担保されるかもしれない。さらに、複数あれば、ひとつの自律が持っている象徴性が分散され和らぎ、複数での象徴性は新たな場面を生むかもしれない。

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勘違い

なかなか進まないときは、何かを勘違いしているのかもしれない、とおもうようにしている。勘違いからの思い込みで、余計なことをしている場合、進みが悪くなるが、大概は勘違いをしていることに気がつかない。そうすると、さらに進まなくなる。

勘違いは根本からちがう方向へ行ってしまうので、修正するにもすぐにはできないが、でも修正しない訳にはいかないので厄介だ。そうやって勘違いを修正しながら進むのは、なんか寄り道をしながら行くようで、考えようによっては楽しい。

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目的は何か

振り返ると、つくることが目的だった。つくったものを並べて改めて見直してみて、もし、つくることを手段としたら、では目的は何だったのだろうか、と考えてみた。

正直、すぐには思いつかない。目的、すなわち、つくることによって何をしたかったのか。ひとつひとつには、その時々の条件や要望といった固有のコンテクストがあり、それに応えてきた。だから、何か共通の目的を意識はしていなかった。もちろん、デザインに関しての通底する考えはあるが、その実現が目的かというと、ちょっとちがう気がした。

いま一度、目的をちょっとだけ深く考えてみようと思う。そうすることで、この先のものづくりに対してよりクリアな態度でのぞめるような気がする。

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具体的に

とかく抽象的になりがちである。何にしても抽象的に捉える方が楽なので、それは細部まで決めなくてよく、それでいて方向性は捉えることができるから。ただ、人に伝えるときは、具体的でないと、イメージできず伝わらない。それに、具体的にすることで今から先の状況がみえる。

思いつきは抽象的に、伝えるときは具体的にすることで、過程での抽象的から具体的への変化がさまざまな効用をもたらす。たぶんその中でアイデアも整理され洗練されていくのだろう。

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未来からながめる

できるならば、一度未来にいき、そこから今をながめてみたい。きっとおかしく見えるかもしれない。あんなことやこんなことをしてる、などと笑うかもしれない。初期の携帯電話を知ってる人は、今、その当時を見れば、あまりにも滑稽で、肩から担いでるよ、などとその大きさに呆れるだろう。

ただ、今、一所懸命に未来を描こうと考えることは、例えば、肩から携帯電話を担ぎながら、この電話をもっと小さく軽く、と考えることではない。それは大きいけれど、この電話を使って何ができるか、だとおもう。なのに、ほとんどの人が、もっと小さく軽く、と考える。

一度未来へ行った気になってみる。もしかしたらスマホは無いだろうから、コミュニケーション用のデバイスがあればいいが、無い場合どうするのだろうかと考えてみる。その時できるのは、今考えることができる手段の範疇でしかないから、それは未来ではなくて、今に役立つことになるかもしれない。

結局、未来は現在の延長でしか考えられないので、描く未来像は今である。だから、そこから脱してみたいので、一度未来にいき、そこから今をながめてみたい。

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矛盾づくり

矛盾は避けたいもので、矛盾は人から指摘される欠点だが、上手く使えば武器になる。真逆のことが存在してるから矛盾だが、矛盾状態をつくることができている時点で有利である。それを利用すればいい。

もし矛盾を一気に解消できるところを見つけることができれば、誰にも真似できないものをつくることができる。だから、最初に矛盾づくりをするのも、ものづくりの第一歩かもしれない。

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妄想がかわる

言い換えることで見方をかえることができる。必要とされていることは、妄想から逃れること。妄想は現実を伴わないから妄想なのであり、言い換えることで現実的な見方にかえれば、妄想が実現可能な未来にかわる。

妄想などしていない、いつも現実的だとおもうときほど、その現実的だとしていることが妄想に取り憑かれる。妄想では何もつくられない。

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枠外へ

何かを思いつきたいとき、ストレートな問いかけでは、当たり前のこと、今までの延長線の答えしかでてこない。ストレートな問いかけでは決められている枠からはみ出ることができない。きっとその枠のことをいわゆる〈バカの壁〉と呼ぶのだろう。

その枠の外側へ行きたい。枠は強固だが、枠の中にいると意識できれば、枠の外へは行けるだろう。一番困るのは、枠の中にいるということに気がつかないときにどうするか。案外かんたんに枠を忘れてしまう。

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モノ間のつながりは多量

たくさんのモノを寄せ集めてきたら、それを分類するなり、共通点を見つけるなどして、その集まった状態をデザインしようとするだろう。何らかの関係性を見つけて、つながるように配置しようと考えるのも同じである。ただ、そのように全体を俯瞰してデザインすることは、大多数の人が考えることでもあるだろう。

個々のモノ間のつながりだけを考えてみる。全体を俯瞰する場合より、つながりは多量になる。この量の多さがつながりだけを抜き出して扱うことを担保してくれて、モノと同等に扱うことを許す。

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軽い球

玉突きのように、ひとつ見えると、また次のものが見えるようになる。何かを習得することは、そういうことの繰り返しなのだろう。案外、最初は軽い球を使った方が突きやすいから回数がこなせる。回数をこなせれば、次々見えてくるから、悪いところも当然たくさん見えるが、回数をこなして克服もできる。

重い球は威力があるが、扱いづらく回数がこなせない。だから、上達してから使う方がいい。球を他のものに例えれば、何にでも応用が効く。

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枠の中にいる

決められた枠の中だけでかんがえていると、その枠の中がすべてだとおもってしまう。そういうときは枠自体を意識できていないので、必ず何かしらの枠の中にはいるとおもえれば、枠の外に目を向けることができる。

枠の外には、今まで実行できていないことが広がっているかもしれない。そうかんがえれば、枠を設定したら窮屈かもしれないと躊躇しなくなるだろう。

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イメージか言葉か

イメージと言葉が別々に出てくる。イメージは今まで見聞きしたものの延長でしか出てこないと思う。一方、言葉も単体では今まで見聞きしたものの延長でしか出てこないかもしれないが、いろいろ組み合わせたり、組み合わせた言葉をヒントに他の言葉をまた生み出すことができるように思う。

では、イメージも組み合わせやヒントにして、他のイメージを生み出せるのか。こうして文章にすると、生み出せそうな気がするが、実際は言葉より難しいような気がする。それだけイメージが持つ力が言葉より強いのかもしれない。やはり、最終的にはどのようなイメージを築けるかが重要になるのだろう。

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偶然とつながりの枠の外

いくつか同時にモノがあるときに、どうしてそこにあるのかを考えてみることに興味が湧く。偶然といえば、そうなので、今度は偶然性に興味が湧く。九鬼周造の『偶然性の問題』をポチッとしてみた。

あと、同時にいくつかあるということは、ひとつひとつが周りから独立している。独立していることは、別の見方をすれば、つながりが切断している、ともいえる。やはり、オブジェクト指向存在論が頭に思い浮かぶ。

偶然性と切断、この2つをつなげる何かを考えたら、面白そうな展開がありそうで、ただ、誰かがすでに考えているだろうから、もう少し枠を狭めて、限定した中で考えてみる。そうすると、その枠から外れたモノも取り込めるようなコトをしてみたくなる。

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不公平なくらいに

すべてのモノを等価に扱うことで、全体像を余すところなく浮かび上らせようとすることは、とても平等で、誰にでもわかりやすく、誰にでも受け入れやすいモノがつくれるような気がした。モノを受けとる側にもいろいろな感じ方や知性があるので、何かを重用すると、受け取れない人が出てくるかもしれない。

ただ、それとつくらたモノの良し悪しは別のような気がする。すべてのモノを等価に扱っていては、ちがいはモノの差異だけになり、扱うモノそのものを取捨選択する必要がなくなり、モノ全体のクオリティが下がるとおもう。むしろ、扱うモノは不公平なくらいに厳選し、それでもどれだけ多くの人が受け取れるかを考えた方がおもしろいそうだ。

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塊でバラバラ

ひとつの塊であり、かつ、バラバラでもある。そのようなことがあり得るとしたら、理想的な関係かもしれない。例えば、社会として全体性がありながら、個人がバラバラに存在しイキイキとしているようなことになる。

ひとつの塊は、形としての塊もあるが、関係性としての塊もある。どちらかというと、関係性としての塊が構築できれば、バラバラも同時に成り立つことは可能のような気がする。

関係性としてひとつになるには、お互いに越境しうるような部分を持ちながら、ただ、バラバラでもいられるには、絶対に交わらない部分も必要になる。バラバラであることは、この絶対に交わらない部分のつくり方しだいで決まるとおもう。

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小さな集まり方から

大きな塊を小さなものに分割することと、小さなものを集めて大きな塊にすることは、両方とも、大きな塊が存在するが、その様はきっと同じにはならないだろう。

大きな塊を分割する場合は、全体的なルールが必要になる。最初に総量が決まっているから、ちょうど良く分割できるようにルールをつくるだろう。

一方、小さなものははじめから存在しているので、ちょうど良く集めて塊にするために、小さなもの同士の集まり方にルールをつくるだろう。

前者は建築ではよくあるパターンで、後者は建築ではなかなか採用しない。建築では大きな塊から小さい物へいく流れで設計される。小さなもの同士の集まり方から設計しても面白いかもしれない。

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つながりが生む

つながり自体が新たなに生まれるには3通りある。つながり自体をつくる、つながり自体を選ぶ、そして、元々あるつながりを変える。この中で、一番容易そうなものから手をつけてみる。それは、元々あるつながりを変える、だろう。

一番容易そうなものから手をつけるのは、容易だから短時間で量をこなすことができ、量をこなせば、つながり自体をつくる、選ぶ場合の結果も必然的に含むことになるだろうから、と考えた。

元々あるつながりをその場に合わせて変えていく。その過程で新たなつながりが生まれる。生まれたつながりは新旧のハイブリッドで、他では生まれないものになる可能性は高い。

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失敗をつくる

意図的にやると、やり過ぎて失敗するときがある。そういうときは、そもそも意図的にやるのが失敗のもとだったりする。ではと、そのときに学び、意図的さを排除するためにはどうするかと次に考える、普通は。

もしかしたら、失敗することを避けること自体が失敗のもとだったりしないだろうか。禅問答のようだが、やり過ぎて失敗した様は、そこだけ見れば、もとの意図をすでに反映していない。失敗した後のものには意図的さが消え、違うものに見えていないだろうか。その違うものは最初に目指したものではないが、最初の意図の別バージョンではないだろうか。ならば、失敗は新しいものを生成する要素として、避けるのではなく、つくるものではないだろうか。

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失敗の山

自然な様はつくり出すことができるだろうか、という問いには何と答えるか。自然の様は自然そのものではないから、意図的に人工的につくり出すことはできるだろう、と言葉上はそういう回答になるかもしれない。

ただし、実際に意図的に人工的につくり出したものが自然の様に見えるかどうかはわからない。どこかでやはり意図的で人工的だと思ってしまったら、自然の様ではない。結局、自然な様も何もしないで放ったらかしにすることでしか、つくり出すことができないのかもしれない。ならば、自然そのものと同じではないか、となる。

だから、自然そのものの生成過程を真似て、その生成過程を意図的に人工的につくり出し、あとは何もしないで放ったらかしにする。そうしたら、やがて自然の様になる。

時はかかるものである。でも、時はかけれないから失敗する。そして、同じ失敗をたくさん繰り返す。その失敗の山はもしかしたら、自然の山に近い見え方を一瞬するかもしれない。

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誰も注目しないところ

同じ場所、土地でもどこに注目するかは人によるが、大体似たようなところを見ている。やはり、ハレの部分というか、設計で扱いやすい部分を自然に選んでいる。そこを扱えば大多数の人を説得しやすいし、納得させやすい。事業上、仕事にして最終の形にしたいので必然的にそうなるのだろう。

だから、可能性を求めるならば、誰も注目しないところに目を向けてみる。圧倒的にそちらの方が量は多い。たしかに、大部分はすぐには設計の中で扱えないものばかりである。しかし、そこで建築として扱えるように見出すことが、設計すること、だといえなくもない。

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未来に過去を重ねる

設計はふつう、過去のものを顧みて、現在から未来に対して考えるが、このときに過去をどのように扱うかによって、過去とのつながりができたりできなかったりする。

ちょっと順序を変えて、まずはじめに過去のものを顧みるのを止めて、ひたすら現在から未来に対してのみ考える。そのあとに、そこへ重ねるように過去のものを被せてみる。最後が過去との関わりになるので、過去とのつながりが切れることはない。

現在から未来に対しての提案に過去のものを重ねることにより、時が途切れることなく、さらには複雑性と多様性が得られるのではないかと考えた。

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アウトラインだけ

引けるだけ引いて、最小限まで引いて、もうこれ以上引くことができないところでかんがえてみると、どうなるか。最小限の引けるところは、アウトラインだけの状態かもしれない。そこからは、何かを手がかりに、足すか掛けるかしていく、とする。

そうすると、アウトラインの状態で何が可能かを見極めてみたい。単線のアウトラインは、思いのほか窮屈に感じる。単線であるがゆえに、線にバリエーションがないため、単線の純粋な軌跡でしか表現の手段がない。無数に軌跡は描けるが、意図に大差がないと、軌跡のバリエーションも収束に向かう。アウトラインだけのスタディは誤魔化しがきかない。

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意図的なニコイチ

2つあって、はじめて一人前のような関係性は、どちらも単独では弱いので、チカラを合わせましょうということかもしれないが、それで上手くいくには、チカラの合わせ方をどうするか、という問題もある。

2つの良いところがそのまま失われずに共存できればいいが、打ち消しあっては元も子もない。せめて打ち消しあうのが悪いところならば、良いところが共存できなくても、チカラを合わせる意味はある。

理想は合わさることで、良いところは相乗効果でより良く、悪いところは打ち消し合いなくなることか。ニコイチはきっとこの理想に近いことかもしれない。

もしかしたら、意図的にニコイチを形成することで、単独行為の結果を意図して超えることができるかもしれない。きっとその時には、意図しない複雑性を身につけているだろう。

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塊かバラバラか

大きなものを、塊のままにするか、バラバラにするか、結構まよう。例えば、大きな肉の塊があったら、なるべく大きなまま調理して食べたいし、どんな肉でも塊であれば、ひき肉にしてハンバーグにするのはもったいない、とおもう。

やはり、一度バラバラにしてしまったら、元にはもどせないし、バラバラにするのはいつでもできるから、まずは塊のままでどうにかかんがえたい。ただ、塊のままだと、扱いづらく、お持て余しそうだし、使い道も限定されるような気がする。だから、バラバラにしたい誘惑にかられる。

塊のよさってなんだろう。中間をとって、所々をバラす、という手もあるが、扱いづらく持て余しそうということは、それだけポテンシャルを秘めているとも解釈できる。扱いづらいのは魅力的だ。

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ニコイチ

その昔、フィルムカメラで撮影するおもしろさから、同じフィルムカメラを中古で複数買いし、人にお願いして、部品取りし一台の完動するフィルムカメラをつくったりした。それをニコイチ、サンコイチ、ヨンコイチなどと呼んでいた。だいたいは完動品にしたいカメラがあり、そのための部分取り用として動かないジャンク品の中から探してくる。そのジャンク品探しもまたおもしろい。

ニコイチ、サンコイチされたことは、カメラの外観からはわからない。ほとんどが分解しないとわからない見えない所に部品が使われる。全体として変化はないが、その部材がないと機能しない。ただし、その部材は他から来ている。

ひとつのものとして独立して存在していながら、他との強い関わりが内在されている。きっと、そこにおもしろさを感じ、ニコイチ、サンコイチして遊んでいたんだとおもう。

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何もしない

コラージュという技法が昔から好きで、ただいつもおもうのは、全体的なルールをつくってしまったらコラージュにはならない、ということで、知らず知らずのうちにおちいる。たぶんこれは、全体的なルールをつくることからはじめることに馴らされてしまったせいだろう。

全体的なルールに陥らないために、重なる部分に注目してみた。全体的なルールは整列する方向に向かう。それを避けるためには、整えない、よく見せようと意図しないなど、作為しないことだ。その作為があらわれるのが重なる部分だとおもった。ちょうどよく、綺麗に見えるように、無意識に重ねる。だから、重なりに、むしろ違和感があるくらいに、何もしない。これは、何もしない、という意図ではなくて、本当に何もしない。

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層をスタッキングさせズラす

スタッキングチェアがある。重ねることができると部屋を広く使いたいときには助かる。ただ、スタッキングできるチェアの場合、背もたれがあるので、ちょっとずつ前のめりにズレていくから、何脚もスタッキングできない場合があるし、その分場所もとる。その点、スツール は背もたれがない分、ズレずに真上にスタッキングできるから、何脚も天井につくまで重ねることができるし、省スペースにもなる。

身近にある重ねることができるものを探したら、スタッキングチェアが目についた。打合せスペースには大人数に対応できるように、スツール がスタッキングされている。スタッキングされたスツール は、高層ビルのように、真上に向かって層を成している。その層、すなわち、スツール は入れ替え可能だ、まるでメタボリズム的。

ただ、面白いのはチェアの方で、スタッキングされていくと、だんだんと偏心されて、背もたれ分前にズレていく。だから、背もたれがスタッキングの鍵をにぎる。背もたれのデザインがスタッキングチェアの生命線だとふんだ。

建築での層の重なりに背もたれ的なものは存在しない。ならばあえて、背もたれ的なものを用意し、スタッキングさせ、偏心させることをかんがえてみても面白いかもしれない。ほとんどの建築は層を成しているのだから。

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変わるからつながる

その土地には過去、現在、未来とその時々で必要なものが現れる。土地自体は不動だが、その時々で必要なものは時間的に過去、現在、未来とつながりをつくらない場合が多い。もしスタッキングチェアのごとく、過去、現在、未来とつながりを重ねつつ、その時々で必要なものがあったら、どうなるだろうか。

日本のようにスクラップアンドビルドではなく、ヨーロッパのように何百年もリフォームしながら使う石の建築でも中を変えるので過去、現在、未来のつながりは断たれる。ただ、都市的には風景は変わらないので過去、現在、未来のつながりは保たれる。そこがヨーロッパの都市の良さなのだろう。

変わらないという価値は素晴らしいが、否応なしに変える必要があったときには困る。変わらないという方法でつながりを保つのではなく、変わるからつながりが生まれる方法をかんがえてみる。

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何を選ぶか

選択の自由があったときに何を選ぶか。自由につくれることと自由に選べることは、やはりちがう。どちらかというと、選ぶ時点で多少の不自由がともなうから、自由につくれる方を選びたい。ただ、選ぶ方がつくることより容易にできるかもしれず、とりあえず選び、その先に話を進めることにより状況を変えていく方が良い、というかんがえ方もできる。

だから、もしかして一番良いのは、後で自由に手を加えることができるものを選ぶことかもしれない。そうすれば、選ぶこととつくることの両方の良いところを享受できる可能性がある。

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自動運転

成り立ちがわからないものほど、魅力的なものはない。目の前に、複雑で、何でそうなるかがわからないものがあったら、とりあえず、興味をひかれる。

ただ、それをもっと知りたくなったとき、わからないだけにのめり込む。そのときののめり込み方は盲目的になる。なぜとか、どうしてとか、をかんがえることなしに、自動運転のごとくのめり込む。

それが良いとか悪いとかは、側から見ている人の勘違いである。自動運転をしているから面白くて、さらに興味をひかれ、それが魅力的なものになる。これは都市に対しての話である。

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誰かが他で

まったく真っ新な状態ではじめることなどはあり得ず、何ごとも、そのまえには何かしらのモノなりコトなりがあったはずなのに、真っ新にして、一度リセットしてはじめようとする、建築も。

もし、まえにあったはずのコトやモノとつながる方法があれば、躊躇なく、それを選択するはずなのに。それはけっして珍しいことでもなく、あたりまえのように、つながることはあると、成功例をさがして、アナロジーすればいい。誰かしらがかんがえている、他のところで。

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答えより展開の仕方

答えからかんがえて問題をつくることはよくある。自作自演のようだが、唯一の正解を導く問題のつくり方としては正しいような気がする。あと、問題から答えへの展開に無駄がなく妥当性があるように見せることもできる。

ちょっと引いてみてみると、何事も答えに着目するというよりは、問題から答えを導きだす展開の仕方に着目するような気がする。その展開が鮮やかなほどクリエイティブにみえる。着目するところは答えではないということだ。

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秩序がないさま

ラジオから流れてきた旅の話、返還前の香港を思い出した。まだ九龍城砦があった頃、遠目でながめて、カオスという言葉の代名詞のような所というイメージがあった。

全体的に無秩序のように見えたが、よく見ると部分部分にはそこだけの秩序があり、それらの部分が全体を成す時には秩序がないように見えた。

秩序がないさまは魅力的だが、本当に無秩序はちょっと困るような気もする。部分部分には秩序があり、ただ、全体的にはとくに秩序を必要としないような計画があらかじめできたら、それが一番いいのかもしれない。

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モノの扱いのちがい

生まれ育った家は、たぶん、築70年以上だろう。増改築を何度も繰り返して、一番最初の外観はどこにもない。もちろん、一番最初の建物を見たことはないが、生前の父親から聞いて当時の平面図はおこしてあり、現在の平面図と比べることはできる。

昔の家は和室が連なったプランであり、壁が極端に少ない。襖や障子の開閉により、部屋の大きさを可変することができ、同じ部屋にいくつかの用途が、例えば、寝室とダイニングのように、重ねられており、家具や寝具も固定ではなくて、収納や移動が可能だった。

あきらかに、今と昔では、空間のあり方や秩序がちがう。それの一番の原因は、生活様式の変化だろう。座敷から椅子になり、寝室とダイニングは分離された。

だから、そこでモノの扱いも変わった。そのモノの扱いのちがいが空間のあり方や秩序に事後的に影響する。それをいまの建築の中に移植することで、前の建築からのつながりは保たれる。主題にすべきは移植の仕方だろう。

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差を見る

差分というか、どれ位ちがうか、その差がメインになる方が面白いことになるかもしれない。どうしても、いくつかモノがあると比べて、ちがいを判断材料にして、どれかを選ぶ。

どれかを選ぶより、ちがい自体に目を向けて、その差によりスポットをあて、ちがいを主題にすれば、そこにある全てのモノに差のちがいという固有性が生まれ、全てのモノが活きる。

そうすると今度は、どのような差を見てとれるか、ということに注力することになる。そこに今までとはちがう見方が必要になる。

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入れ子の秩序

入れ子構造というと、ロシアのマトリョーシカ人形を思いだす。マトリョーシカ人形は大家族を連想させる縁起物らしい。大小でつながり、同じ場所でつながり、同じようにつながる、からだろうか。たぶんに建築的である。

建築でも入れ子構造になっているプランは昔から多い。大事な空間を包むように外の空間があったり、大きな空間の中にいくつもの空間が内包されていたりなどする。そうして見ていくと、入れ子構造は空間に関する秩序的なものであり、マトリョーシカ人形も空間の外形ともいえる。だから、マトリョーシカ人形はモノと空間の両方の特徴を合わせもつ、ともいえる。

ただ、この入れ子構造という秩序には、空間の内容は関係ない。もちろん、建築として構成する場合は、空間の機能や目的といった内容によって、入れ子内の配置やつながりが決まるだろうが、入れ子構造だけでかんがえれば、空間の内容はどうでもよく、秩序だけを扱うことができる。それは面白いとおもった。

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無目的をちりばめる

完結した空間があるならば、それはひとつとして、空間がある目的のためだけにあることかもしれない。その空間の存在理由が明確で、そこで行われるアクティビティも明確で曖昧さが無く、変わることも無い。

一方、不完全な空間ならば、空間が存在する理由に目的が無く、アクティビティも定かでは無く、ただ、その空間はなくてはならないもので、何か足されると、完結した空間に変わるようなものかもしれない。

きっと、完結した空間が圧倒的に多く、不完全な空間は昔と比べて少なくなってきている感じがする。ただ、今さらすべてを不完全な空間にするのには無理があるし、その必要性も感じない。しかし、完結した空間ですべてを覆いつくすのにも息がつまる。

ミックスした状態、例えば、完結した空間にバラバラと不完全な空間が現れるようなものがいいかもしれない。ちりばめられた無目的な感じは気持ちいいとおもう。

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完結か不完全か

空間の中の家具に注目してみた。家具には造り付けのモノと置くモノがある。造り付けのモノは空間と一体化する。だから、造り付けのモノは完結した空間をつくる手助けをする。置くモノは交換が可能だから、空間の中での位置は比較的自由である。だから、空間は置くモノの位置に左右される可能性があるので、不完全な空間になりやすい。

どちらが良いわけではない。完結した空間ならば、何もかんがえる必要はないから、ただそこに居るだけでも良い。不完全な空間ならば、何かをしなければならないが、そこに自由意志が入り込む余地がある。この余地に心地良さを感じる人もいるだろう。どちらかというと、自由さが欲しく、完結さは息苦しく感じるたちである。

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人と関わりないモノ

最近気になるのは、建築の中にありながら、建築の範疇ではないモノは何か、ということ。

家具は建築で制作することもあるので外すが、家電、本、衣類、食器類、料理道具などあげていくと、人に関わるモノばかりである。当たり前といえばそうだが、中に人が入れるから建築であり、当然、中にあるものは人に関わるモノばかりになる。

ここで、もし、人とは関わりないモノを見つけることができたら、それを元に空間との関わりをかんがえてみようとおもう。

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モノと空間の秩序

この建築おもしろないな、を分解してみると、モノと空間の秩序に固有な感じがある。モノと空間の間には秩序があり、無秩序でバラバラで収拾がつかない状態ではない。モノと空間は相変わらず、そこに当たり前のように存在しているが、秩序があって、はじめて建築というまとまりになる、とかんがえることができる。

無秩序でバラバラで収拾がつかない状態は、いわば抽象的な状態であり、そこにはっきりとした枠組みをはめ、具体的にするのが秩序である。だから、秩序だけをとり出してみると、建築に固有性があれば、当然、モノと空間の秩序にも固有性があり、逆に、モノと空間の秩序に固有性があれば、建築にも固有性が生まれる。

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モノと人の反応

空間はモノの中の空洞だとしたら、その空洞に人が入ることで建築になる。人が入ることができなければ家具か。こうして、空間とモノ、人との関わり合いは不変のようにおもう。

ただ、空間という言葉ができたのは20世紀はじめである。当然、その時にはすでに建築はあった。だから、それまで建築は、モノと人の関わり合いの産物だった。

モノと人の関わり合いだけで建築をかんがえるとき、モノの中で人と反応をおこす要素は何があるだろうか、とモレなくかんがえてみる。そこで意外なものがでてきたら、それに焦点をあわせてみる。

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優劣の反転

ものには優劣がある。基本的に見える部分が優先されるし大事になる。見えない部分は見える部分のためにある。他にはつなぐものも、優先するものや大事にするもののためにある。

そのようなものの優劣を反転して表現に変えることはよくある。見えない部分を見せる、つなぐものをメインにするなど。そうした反転は新たな価値を創造するが、最初は違和感からはじまることが多い。

違和感探し、とまではいわないが、違和感を手がかりにするのは有効かもしれない。ただ、単純な反転による違和感は、単なる思いつき、独りよがりの場合も多いから注意が必要だ。

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ものが持つポテンシャル

ものづくりをするにしても、ただ新たにつくるだけでなく、減らすこと、こわすことも、ものづくりの範疇で、それを減築という。減築することで新たなライフスタイルに合わせる。ものを減らす、こわすことは、もの自体を変えることになる。もの自体を変えることが、人の暮らしに直結し、左右するという考えによるもの。

もの自体にはそれだけのチカラがある。もの自体にはそれだけのポテンシャルがある。そのもの自体が持つポテンシャルのなかには、利用されていないものもありそうな気がする。それを見つけて明示することもデザインの範疇だとおもう。

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好奇心はつくりだせない

着想とは結びつきのことかとおもった。無から何かを生みだすよりも、本来は結びつかないもの同士に、何か手をくわえることにより、結びつけること。

本来は結びつかないもの同士に、結びつきの可能性をみるところに創造性があらわれ、その可能性を探るところに好奇心が必要になるとおもう。

けっきょく、AIがどれだけ優秀になっても、好奇心はつくりだせないから、どう使うかしだいだけのように、いまはおもう。

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モレなく

漏れがないように、言葉をつかって、物事を切りきざんでいくと、意外とつなぎ目に足りないものがあることに気がつく。

きっと、当てはめた言葉で足りると思いこんでいるからだろう。つかっている言葉では、まだ荒いのだとおもう。

もっと的確に、あるいは、具体的な言葉をつかっていかないと、物事をすべて捉えることはできないと感じた。いまのチャットGPTも同じ。

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ヒントに出会う

物そのものと、物に付随するものとに分けて考えてみる。そうすれば、物に関することは全て網羅できると考えた。物自体をよくしらないと、物はつくれない。

物のそのものは、外と内に、さらに分ける。分け方はどうでもいいが、漏れなく分けたい。外は形と質感、内はソリッドとヴォイドに分ける。さらに、形は、質感は、ソリッドは、ヴォイドは、と分けていく。

そして、もうこれ以上わけることができない所を目指す。その過程でアイデアを出すためのたくさんのヒントに出会える。

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線ではなくて

プランを考える手が止まる。空間をどうしようか、と考えることが苦痛になるときがある。

20代の頃、フィンランドへアアルトの建築を見にいった。そのときのことを思いかえすと、詳細なエレメントがまず浮かぶ。壁のタイルやレンガ、開口部の形状や光、階段のディテール、手すりの感触など。空間は、そのようなエレメント越しに、意識しないと思いかえせない。すごく近視眼的な把握の仕方だけど、人が建築と対峙するとき、自分と同スケールのエレメントに、まず自然と意識がいくのだとおもう。

なのに、空間から考えている。考えてみれば、はじめからねじれているのかもしれない。アアルトは、空間ではなく、エレメントから着想し、エレメントを浮かび上がらせるために、空間を必要としたのではないかと、その当時も考えたことを思いだした。

建築において20世紀最大の発見が空間だという。空間を表現するためにエレメントは省略されてきた。プランニングを線でおこなうのも、空間を考えるときに都合が良いからだ。でも、苦痛を感じるならば、線ではなくて、他のことで、エレメントを省略せずに、建築を考えてみようとおもった。

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全体だけ、部分だけ

なにかを構成する部分は全体の一部、という関係性は普通に日常にある。このときには、全体というものに対する信頼が前提としてあり、また、全体に従う部分があるという関係性にも信頼をおいている。この場合、全体だけ、部分だけで成り立つとは考えていない。

部分だけで成り立つとは、部分同士の関係性にルールはなく、部分だけで独立していて、部分同士はルール無用である。ルールがある時点で全体が生まれてしまうから、部分そのものに信頼があるのが前提になる。

全体だけで成り立つとは、部分がどうであるかに依存せず、全体だけで独立していて、全体に絶対的な信頼があるのが前提になる。

ならば、全体だけと部分だけがあわされば、ルールの無い独立した部分同士と、部分に依存しない全体が、同時にあることなる。それは、なかなかない組合せかもしれない。それで、建築をつくることができるかもしれない。全体と部分の間にちがうなにかが生まれるかもしれない。

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うっかりミスを少なく

「うっかりミスを少なく」 2023.04.16

ときどきか、たまにか、参ったな、なんて思うときは、案外、あきらめもついて、後にはのこらないが、もしかしたら、うまくいったのにとか、思うときは、なかなか、後をひきづる。頻度は、たぶん、参ったなは少ないが、もしかしたらは、それなりにあるかもしれない。それは、うっかりミス、というやつである。

うっかりミスは大体、わかっていたけど、という言葉がさきにくる。頭のなかにはあったけれど、それがうまく表にだせなかったときで、やっぱり、それは一番くやしいし、落ちこむ。

頭のなかにあったけれど、うまくだせないことは、忘れていたことと同じらしい。だからつねに、思いだす、と意識すればいいそうな。それで、うっかりミスが少なくなるか、ためしてみよう。

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全体と部分

全体を見ずに部分的なところばかりを見ていては、うまくいかない、と考えるのは、全体と部分には整合性があるものであり、整合性がないといけないから、整合させようとするのはいいこと、だという前提があるからだろう。

ならば、前提を逆にすれば、部分的なところばかりを見ることがいい、となる。この場合、全体と部分に整合性がなくてもいいことが前提になるが、場合によってはそれも可能性としてはある。ただ、単に逆にしただけでは、あまりに単純で反動的なので、ちょっとひねりを入れる。

部分はそれぞれ独立してありながら、全体はひとつにまとまっていて、ただ全体と部分には整合性はない、としてみる。この場合も可能性としてはありえるだろう。部分的なところだけを見て、単独で成り立たせることをだけを考えても、そこに何かつながる細い糸を見つけることができれば、それでいいとなるから。

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理性がまさる

ものには何らかの意味が付着している。これが元々どうであったか。モダニズムでは、ものが持っていた意味を否定するところからはじまった。ポストモダニズムでは、その否定した意味に焦点をあて、意味を復活させようとした。ところが、復活したかにみえた意味は、また不要なものとして、より巧妙にものの奥深くにかくしてしまった。

ものに何かしらの意味を持たせたい、という感情は常に存在している、とおもう。だから、定期的に、形を変えて、ものの意味が問われる。いっそ、素直に、感情を認めて、意味自体をあつかえばいいのに、理性がそれを許さないのだろう。なぜか理性がまさる。

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うまくせまく考える

行きづまったら意図的にせまく考えてみようか、とおもった。行きづまりは、現状にうつ手がおもいつかない状態で、現状がすべてだとおもっているからおこる。だから、現状はとてもせまいことである、とおもえれば、その外側へいく意識が生まれるのではないか。

うまくせまく考えることができれば、その外側へいく意識がイノベーションになる、とおもった。けっきょく、時間をつかって考えるならば、何かしらイノベーションを生みたい、とおもう。

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つくるより選ぶ

何かを出現させようとしたとき、まず、つくることを考えるが、選んでいるだけではないか、とおもった。つくるときには、何かしらのベースがあるもので、そこから、いくつも枝わかれした予測が存在する。その予測は無意識に行っている場合もあり、その予測の中から選んでいるだけなのに、つくっていると錯覚をしてしまうかもしれない。

そこで、予測の中から選んでしまっているのならば、いま一度、つくることを意識し直すことで、よい物を出現させようとするのと、どうせ選ぶことになるのならば、選ぶことで済まして、他のことでよい物にしようとするのと、2つの方向性が考えられる。

どちらも有りだとおもうが、イノベーションを起こせるのどちらだろうか。きっと前者だという人が多いだろう。ならば、後者で考えてみる。理由はつくるより選ぶ方が早いからで、スピードがないとイノベーションは起きない、と考えるから。

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他者探し

何かをつくる方法を考えるとき、そのもの自体に関することと、そのもの以外に関することに分けてみる。そこに境界線があり、いつもは大体、そのもの自体だけにしか考えがおよばない。

ぐっと範囲を狭めつつ、範囲の外を意識してみる。そうすると、そのもの自体だけでは成り立たないことに気づく。範囲を狭めたおかげで、意識できる範囲が広がった。

きっと他者探しをしていることになるのだろう。今度は範囲の外にあったものを内側に囲い込むような言葉を探してみる。

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具体的な言葉

言葉で何かを具体的に表せば、その言葉の外側に何があるのかもはっきりとする。そうやって、言葉で境目をつくることにより、意識しないでスルーしてしまうことを防げる。

一番くやしいのは、気づく可能性があったことに対して、明確に気づけなかったときで、そうおもうのは、頭の片隅にあり、具体的に表していなかったから。

なかなか難しいことだが、未知の分野で方向性をかんがえるときには、一番大切なことかもしれない。

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フレームの外へ

フレームのなかにある範囲でかんがえてみたとき、結果がそのフレームの外までおよぼすことはない。ただ、そのことがわかるのは、フレームがあることを知っているときだけである。フレーム自体を知らなければ、結果がフレームの外までおよぶと錯覚してしまうし、そもそも結果がフレームの外までおよぶかどうかもわからない。

だから、フレームの設定をすることで、フレーム自体を意識できることは重要になる。フレームがわかれば、フレームの外にいける。けっきょくは、フレームの外へいきたい、のだとおもった。いくらたくさんフレームを設定し直したところで、フレームの外へいきたい欲求はおさまらない。

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言葉から

言葉からかんがえることで、へだだりがなく、すべてを網羅でき、いわゆる「バカの壁」をつくらない、あるいは「バカの壁」に気づくことができる、ときいた。

言葉はそれほど強く物事を限定する力がある。だから、具体的な言葉づかいをすれば、もれなく広範囲にわたって、およぶことができ、そのなかからイノベーションが生まれる可能性がたかまる。

そのためには、きっと普段からの語彙力のトレーニングが必要なのだろう。時代とともに言葉もかわるから、トレーニングにおわりは無いのかもしれない。きっとエンドレスだ。

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言葉で切りきざむ

言葉は境界をつくる、ときいた。言葉が抽象的ならば、あいまいな境界をつくり、言葉が具体的ならば、はっきりとした境界をつくる。だから、言葉によって、どのようにでも物事を切りきざめ、分離分解できる。

物事を分解するときには、論理的にかんがえる必要があるとおもうけれど、言葉によって分離分解していけばいい、とかんがえると、ちょっとハードルがさがったような気がした。

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壁の窮屈さは貴重

つねに壁にかこまれていると感じたら窮屈だろうな、とおもうのだが、どうなのだろうか。むかしの城郭都市やゲーテッドコミュニティなどは壁に囲まれた街だが、その壁の存在をふだんの暮らしの中で感じることがあるのか興味がある。あんがい、日常的なこととして、壁の存在などは何も感じないようになっているのかもしれない。

実在している物理的な壁だけでなく、意識的な存在の壁というのもあるだろう。「壁がある」などと物事に対する障害をあらわしたり、「バカの壁」というのもある。「バカの壁」の場合は、その壁の存在に気づいていないから「バカの壁」なのだろう。

壁に気づいている場合は、その壁に対処したり、その壁の向こう側に何かあると、わかっているからいい。ただ、壁に気づいていない場合は問題かもしれない。壁の内側だけなのに、それが全てだとおもってしまうことになるから、それではちとかなしい。だから、壁にかこまれている窮屈さは、貴重なサインなのかもしれない。

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残しかた

時間が蓄積された物が壊されて無くなることはよくある。その物の価値には関係無く、全く無にしない、ことを選択したならば、ただそのままでは残せない。残すためにはどうするか。

時間が蓄積されているということは、そこに何らかの意味も付着し、記憶となっている。記憶を喚起する物としてアイテム化し、部分的に残すことはよくある。ただ、それではまるで標本のようである。標本として残す価値がある物はいいが、価値が無ければ、無くなる運命をたどるのは同じである。

むしろ、記憶や意味、時間を剥ぎとり、物そのものを再構成することで、価値に関係なく、残す方法があるのではないか、とおもった。要するに、配置の仕方しだいで、どのような物にも活きる場があるだろう、としてみた。

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過程からかんがえる

できる物ばかりを想像してまうと、脈絡のない妄想ばかりがつづく。時間には制限があるから、この妄想もいったんやめて、まとめようとするのだが、案外、妄想にはバリエーションがなくて簡単にまとまる。はじめから想像できる結果は、どこかで、前に、もしかしたら、妄想したり、チラッと思い浮かんだりしたことだったり、結局は、今までかんがえていた範疇から抜けだすことができないので、妄想にバリエーションが生まれないから、簡単にまとまるのかもしれない。

ただ、この簡単にまとまる、バリエーションのなさ、がつまらなく感じる。だから、結果を生みだす過程をつくることからはじめよう、とおもった。過程をかえれば、たとえ今までかんがえていた範疇から抜けだすことができなくても、結果にバリエーションが生まれ、今までとちがった物になるかもしれないし、過程からつくることで、べつのかんがえ方が生まれるかもしれない。なにより、毎回過程からかんがえることが、面白そうだとおもった。

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近い物同士で集まる

ポツリとポツリと物を置いていく。物同士につながりはなく、だから何でもいい、脈絡はなくてもいい。ただ自然と、近い遠いのちがい、はできる。置かれている物はそれ自体で完結しているが、近くにある物とは何かをつくる。その何かはコントロールする必要はなく、自然に生まれてくる。

実際、建築は囲うことでつくっていく。そのための順序手順が決まっているし、それは建築のはじまりのひとつの説でもある。ただ、建築が物から派生したものならば、囲うことより、無作為にある物が他の物と合わさって建築になることもかんがえられる。

もし、囲うこと以外で、建築ができるならば、きっと、完結した物同士が近いところからより集まって建築の体をなす、こともあり得るだろう。

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距離感でまとめる

物が散乱している情景は、物にもよるが、なんとも様にならないようにおもえる。きっとなにも脈略もなくそこにあるから、様にならないのだろう。ブリコラージュのように、なにかにむかって収束していくのならば、ちょっとは様になるかもしれない。全体的になにかルールをもつことは、まとめるためにはよく、このまとめることが、なにか意図をもつ時には重要だが、それぞれの物がそれぞれのルールで完結してありながら、なおもバラバラにみえれば、それはそれで様になるだろう、ともかんがえた。

全体にひとつのルールでは窮屈におもえる。ひとつのルールで様なるようにしたら、なにか無理矢理におさめようとして、取りこぼすものがでてくるだろう。無理にひとつのルールでまとめようとするのではなく、個々にルールをもち完結すればよく、それでもバラバラにならないためには、近い距離感が必要なのだろう。ただ、近いというだけでまとめる、ルールではなく距離感でまとめる。距離が遠ければ他者ということである。

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空間は必要ない

目に見えないものはアテにならない、としてみる。感じ、雰囲気や気分を直接あつかわない。空間、それ自体は目に見えない。目に見えているのは、空間を囲っている物であり、その物から推測して、そこにどのような空間があるのかを察しているだけだとしてみる。

そうすると、空間を察することは直接できずに、そこには察する側の思惑が、物を通して加味される。だから、思惑が入るので、空間はこれだと、確かにいうことはできないので、空間はアテにならないし、そもそも、そこには空間がある、という一種当たり前のことですら、アテにならなくなる。

では、目に見える物だけをアテにしてみる。確かにそこには物があり、その物をあつかい、その物の中に入る自分がいて、そこで暮らして、生きている。その物に相対しているときだけ、その物から影響を受け、影響を受けることで、物がそこにあることがわかる。この関係の中には空間は必要ない。また、物同士の関係もどうあるかは必要ない。独立して物があり、そこに人がいるだけ。それで建築はできてしまう、となる。

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たいせつなズレ

ズレにたいして、いつも戸惑いや嫌悪感、違和感をかんじる。別に、そのようなことは、当たり前のこととか、よくあることとか、気にすることではない、などとして、偽ったり、誤魔化したり、無いことにすることはできる。普通は、ズレがあると不安だから、なおさらだろう。

案外、ズレはヒントかもしれない、とおもった。ズレには教えてもらえることがある、とおもえれば、そこから何かが発見できそうだ。

ズレの中をのぞけば、いいもの、が見つかるかもしれない。でも、のぞくのはこわい。寝た子をおこすことになるかもしれないから。

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おもいつきは妄想

最初におもいつくアイデアはいつも妄想ではないか、とおもってみた。だいたい、好き勝手なことをおもい巡らす。それは、いつも、現実的ではないかもしれない。その時間はとても楽しいが、それではまとまらないから、現実に合わせる。その合わせ方に焦点をあててみる。

妄想ともおもえる初期のアイデアを分解してみる。複数の要素にわかれるだろう。その要素ごとに独立してかんがえ、現実に合わせるために、要素を入れかえたり、変化させたりする。各要素ひとつだけで全体を表すことはないが、すべての要素があつまれば、全体がみえてくる。

だから、各要素ごとに変えたり、変えなかったり、どのように変えるかで全体をコントロールしていく。そうすることで、妄想のおもしろは残しつつ、実際に立ちあがる建築が生まれる。

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ひとつより複数がいい

強い考えがあって、それにそって、何かを決めていく。きっと、そうしたい、と思い、全てをひとつの強い考えで満たしたい、と思う。それは、芯があって、理想的なことかもしれない。別の言い方をすれば、それは、型、かもしれない。

強い型をもつことは、何にでも有効だろう。それにそうだけでいいから。ただ、そもそも型とは、決まったひとつのことに対応するためのものだから、強くなればなるほど、ちょっとの変化にも対応できなくなる。

最近思うのは、強い型では対応できないことが多いのではないか、ということ。型にはまればいいが、そんな、ひとつのことで済む、ような場面はなかなか無い。

だから、ひとつに対応するための型よりは、強くなくてもいいから、複数に柔軟に対応できる方がいい。それはもはや、型、と言えるような全体性は有しないかもしれない。もっと、個別の、その中では完結しているけれど、決してそれは全体を表すことでは無いような、そして、それが複数あることによってはじめて、全体がわるような、そのようなものがあれば、その方がいいような気がする。

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妄想から現実へ

ひとつの世界観で表現できるような、きらびやかな世界がユートピアであり、それは憧れであり、よく見聞きした建築は、みな、そのようなユートピアだった。だから、ユートピア的な建築をつくりたい、とおもう気持ちはいつもどこかにある。しかし、それは妄想だろう、という気持ちもいつもどこかにある。

ひとつの世界観でスパッときれるほど、この世界は単純ではない。やはり妄想でしかない建築のイメージをどうしたら現実の世界にフィットさせることができるのか。

フィットさせるためには、どこかで妄想を切り離し、別のものとつなげる必要がある。その別のものはひとつではなく、複数かもしれない。複数のものがそれぞれ別の世界観をもち、かつ同時に共存するような状況が、妄想ではなくなる瞬間かもしれない。

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第三の目

見慣れた風景だと、あたまの中には自然とイメージがうかぶが、そのイメージは、見慣れたものであるがゆえに、他の要素が入りこむ余地がない。だから、他の視点で見直すことがむずかしい。

いまおこなっているプロジェクトは、まさにそうで、だから、はじめから第三者の視点が持てるように、意見をその都度きける人をお願いしている。

そうすると、やはり、見ている視点が微妙にちがう。ただ、それは言われないと気づかないことかもしれない。慣れていることほど、第三の目は必要かもしれない。

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見通しのなかのおもしろさ

いつものことで、こうすればいい、と見通しがたっていても、それではつまらない、とおもうと、なかなか、行動できない。つまらない、とおもうならば、おもしろくなる、ようにすればいいのだが、見通しの良さ、に引っ張られる。

ならば、その見通しの良さはそのままに、おもしろくなる要素をつけ加えれば良いのだが、何か後づけのような気がして、すすまない。

いま一度、最初にもどって、何がしたかったか、をかんがえる。そうすると、その見通しのなかに、おもしろくなる可能性をみい出せるかな。

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壊すより利用

スクラップ、アンド、ビルトにより成り立つ建設業界なので、街を歩けば、結構な頻度で、建物を解体をしているところに出会う。そのたびに、建築はモノだな、壊すのは簡単だな、とかおもい、解体しているときにしか見ることができない建築の姿をながめる。

伊勢神宮の式年遷宮のように、解体しても、またその部材を他で再利用するならば、解体することに対する罪悪感みたいなものは生まれないのかもしれないが、解体は、それまでの記憶や、積み重ねた時間や、見慣れた風景を切断して、膨大な廃棄物に変えるだけである。

ただ、見ようによっては、解体される建築には、さまざまな記憶や時間、風景がつまっていることになるので、それは貴重な財産である。活かしかたがわかれば、解体するより利用することを皆えらぶだろう。

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空間の捉えかた

空間、とひとくちにいっても、ひとことでは済まない。さまざまな角度から捉えることができるものである。

概念的に説明するもの、経験することによりわかるもの、客観的に距離や大きさなどの数値であらわすもの、身体をとおしてわかるもの、心的で人の内面にうかぶもの、など。

空間をどのように捉えるか、によって表現されるものがまったくちがってくる。だから、表現することよりも、どのように捉えるか、のほうが重要である。

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体験が切断とつながりをつくる

体験によってすべてをとらえようとするのは、経験主義かもしれないが、あらゆる要素を、体験をとおすことで、ひとつの土俵の上にのせることができる、のは面白いかもしれない。

体験でわかることは、けっこう、たくさんある。例えば、赤い花、があれば、「花」という物も、「赤い」という色も、また、赤い花を見ている「自分」も、体験という土俵の上にのせることができる。

あとは、その土俵をどうするのか。はじめから、どういう土俵かを設定するのか、あとから設定するのか、そもそも「土俵」自体を物としてみて、「花」や「赤い」や「自分」と同じようにあつかうのか。

体験をとおすことで、あらゆる物のつながりを切断することができ、さらに、新たなつながりをつくることができる。そこも面白いところかもしれない。

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妄想はいかすもの

なにかプランをつくるときに、さいしょ、いろいろと妄想をしてしまうが、それを現実に当てはめようとすると、とうぜん、うまくはいかない。

だから、現実に当てはめて、実現できるように、アジャストする。アジャストするときに、どこを変えるのか。もっというと、どこの部分を、どのように、変えると、まえとのつながりを保ちつつ、まったく別のものがあらわれてくるのか、とかんがえてみる。

たんに実現できるだけのアジャストが多いなか、それでは、さいしょ、の妄想がなんの意味をもたなくなる。妄想にこそ、作品性があらわれる。妄想があるから、新しいものに出会える。

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自然の中にいきたいを解く

都市部に暮らしていると、たまに自然の中にいきたくなる。都市の中にも自然はあるから、そこへいけば、気がすむかといえば、そうでもない。自然の中にいくことと、自然があることは、一緒のようで、ちがうということかもしれない。

建築をつくっていると、自然がある、という物質的なことをかんがえる。どこに木を植えるのか、どこに緑をもってくるのか、建築と自然をどのように融合させるのか、親和的にするのか、などをかんがえる。そこをかんがえれば、とりあえず、緑を取り入れ、建築と自然をとりまく諸問題を解決できた、となる。

ただ、さきほどの、自然の中にいきたくなることを、直接解決することになるのだろうか。やはり、自然があることとは別のこととして、かんがえるべきなのだろう。

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心的で物質的な空間

空間があっても、その空間は自分にまとわりついているもので、はじめからそこにあり、意識することがない。しかし、空間をつくろうとすると、囲うことをかんがえ、そこではじめて空間を塊として量で意識する。

塊として量で意識しないと、建築化できないから、囲うための壁や床、天井をかんがえる。ここで、空間をつくることと建築化は、同じことのようにおもえるが、ちがう。

空間をつくることは、空間を認識としてとらえることであり、それは空間という無色透明な水みたいな存在を、何か入れものにいれて、わかるようにすることである。また、建築化とは、壁や床、天井といったエレメントを先に構築し、囲われることにより、空間の形を出現させることである。

どちらも結果的に空間があらわれるが、空間をつくることは内向きで心的なことであり、建築化は物質的である。どちらかというと、心的な空間のとらえ方に共感をおぼえるが、心的なとらえ方をしたあとに、物質的な表現に焦点があうので、建築としての空間には両方の要素が必要で、そこのバランスのとり方やズラしかたが主題になるのだろう、とおもった。

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全体性は妄想

多種多様な情報がいきかうなかで、全体性を描くのは、すでに妄想のような気がする。全体性とはすべてを均等にみたすようなイメージであり、ひとつの方向にもっていって整列させるのは無理がある。

もし全体性を描こうとするのならば、どこかであらかじめ切断でき、またあらたな全体性を描くことができる余地が必要だろう。

そもそも反動的にかんがえて、全体性を描かない、という選択もあるが、それよりは全体性を描くことは固定にして、全体性の中身の構成にたいし、部分的に反動的なものを含めていくほうが、いままでみたことがない全体性を生むことができる可能性があり、おもしろいかもしれない。

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優柔不断で中途半端な表現

ひとつひとつが切断し独立しているわけでもなく、かといって、ひとつひとつがつながっているわけでもなく、その中庸的な在りかたはないだろうか、とかんがえてみる。

独立して自律的に建つだけでなく、つながりながら他律的に建つだけでもなく、自律しつつも、他律的につながるところもある。それは、いっけん、どっちつかずで優柔不断で中途半端、なようにもおもえる。

しかし、自律している部分と他律的につながってところとのちがい、を主題にすれば、その優柔不断で中途半端なさま、それを中庸といってもいいかもしれないが、それが表現になる。

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ただ反動的ではなく

新しさやちがいを、反動的に表現しようとするのは、あんがい、かんたんに思いつく。いわゆる「逆に」というやつである。ただ、たんに反動的では、新しくもなく、ちがいもない。ただ反動的であることは、もとのものの範疇であり、亜流でしかない、とおもう。

もうすこし、分解してかんがえ、一部分は変えないで固定し、その他の部分を誇張して反転させる、などしてみる。そうすれば、ただ反動的であるより、たくさんの異なったパターンが生まれる。その中から、予想もできなかった新しさやちがいが生まれるだろう。

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ちがいを生む不自然さ

こうしたい、ああしたいと、こうする必要がある、こうしなければいけないを、まとめてすべて満たした物が最終の成果物になるのが一般的であるが、それでは、だれがやっても、大体、にたような物にしかならない。

だから、すべて満たした物の先にある、別の物をつくり、あたかも、はじめから目指していた物はこれですよね、と示し、満たすべき物もそもそもこれですよね、と逆に定義しなおすのが、現代建築ではよくあることである。ただ、満たすべき物を変えることができる場合はいいが、もしかしたら、それは珍しいことかもしれない。

別のやり方として、満たすべき物をすべて満たした建築に、さらに手をくわえる。それは、満たすべき物を強調するためであり、それによって、手を加える前と後とでは、満たすべき物がより浮かび上がる。より浮かび上がった状態は、もしかしたら不自然かもしれない。その不自然さが、にたようは物にはならずにさせ、ちがいを生む。ただ、そのちがいの素は、満たすべき物であるから、そのちがいは受けいれやすいだろう。

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細くて強い妄想が必要

これがいい、という確かさをえるには、これでいい、という一般的な了解が必要になるけれど、そもそも、その一般的な了解などが妄想、だということをよくきく。だから、その一般的な了解など存在しないから、それを根拠にして、何かをつくったり、かんがえたりすること自体がおかしいと。

その妄想を、たとえば「ブランディング」というべつの言葉にしたら、わかりやすいかもしれない。ブランディングは、新たにつくる一般的な了解であり、そもそもはじめには何もない、まさに妄想である。ただ、そのブランディングによって、これでいい、という一般的な了解が植えつけられ、これがいい、となる。

具体的に何かが生まれるときには、この一般的な了解は、その生まれたものを受けとる側には必要だろう。ただあまりにも、その一般的な了解が前面にでてくると、その生まれたものがまったくのウソにみえる。

ただ、ウソにみえてもいいもの、みえた方がいいものもある。逆に、ウソはダメなものもある。そのちがいは、一般的な了解のだし方で調整することだろう。受けとる側がいて成立するものならば、調整することが、つくることの一部になる。

建築には、細くて目立たないがしなやかで強い、一般的な了解が必要だとかんがえている。弱いと、建築自体がさまざまなつながりの中で消滅してしまい、ただ強いだけど、建築の存在がウソになる。

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侵食しあう

日常か非日常か、という二項対立では割り切れないところに面白さがあり、もっと日常か非日常かを細分化してながめてみると、観念的で詩的な非日常、現実的な日常とにわかれる、とおもった。きっと割り切れなさは、お互い侵食しあっていて、すっきりとわけられないからだろう。そこに面白さを感じる。

侵食しあえば、観念的で詩的な日常、現実的な非日常とにわかれる。現実的な非日常も、妄想から抜けだした展開がありそうだが、観念的で詩的な日常の方がよりリアルに日常の中に新たな展開がつくれそうな気がした。

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日常的な妄想の世界

かんがえたり、イメージしたりするなかで、妄想はよくしてしまうし、妄想がなにかのヒントになることはよくあるが、妄想の世界をつくり出すことには、まったく面白さを感じない。

妄想の世界は、極端にいえば、何でもありである。この何でもありが、妄想の世界の良し悪しでもあるが、何でもありだから、自由にしていい、何をつくっても、それは妄想だから許される、となってしまうことがつまらない。ようするに、現実的な裏付けがない妄想の世界には興味がわかない、のである。

妄想を別のことばにしたら、非日常的、詩的、観念的などになるかもしれない。非日常的で、詩的で、観念的で、それだけのものならば、興味はわからない。ただ、もし詩的で、観念的でも、日常的であれば、それは現実的な裏付けがある妄想の世界になり、グーッと興味がわいてくる。

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部分の寄せ集めがいい

ここでしか成り立たないこと、にはあまり意味がなく、もう少し引いて、全体を俯瞰して、何か抽象的な全体像や仕組み、イメージをもち、それへ向かって整列するように、ものごとを決めていくことが大事だとおもっていた。

ただちょっと振りかえると、そのような全体像や仕組みやイメージは、妄想にすぎないのではないか、観念的に、詩的に、そういう全体像などをつくり出して、それに酔っているだけではないか、とおもうようになった。

俯瞰せずに、地に足をつけて、平行目線で、間近なものを、周辺をボカシながら、中心にくるものだけをしっかり捉えてみる。そうすると、あまりにも限定的な部分しか相手にできないが、それらは妄想ではなく、それらが複数集まれば、相当の規模にはなるし、ただ、限定的な部分の寄せ集めなので、決して完璧な全体像は表現できないが、それが現実的でいい、とおもった。

部分の寄せ集めと、全体像はちがう。部分の寄せ集めによってできる全体は、俯瞰してわかる全体ともちがう。どちらかというと、部分の寄せ集めによってできる全体は、ここでしかできないことに近いかもしれない。ここでしかできないこと、の方に、ちょっと可能性がみえてきた。

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メインは秘密の暗部

白くて明るい空間がすきだが、一番すきな空間は、人目につかない暗い場所になる。白いのは壁や天井であり、明るさは大きな開口部が満たしてくれる。この白い空間は全てのものに光があたるから、影などなく、全てが見わたせる。この清いくらいの白さと明るさが、生活の中には必要である。

ただ、同じくらいか、それ以上に、人目につかない暗い場所も必要になる。全てが見わたせる白くて明るい空間では、こぼれ落ちてしまうもの、のために人目につかない暗い場所がいる。

いままで、メインは白さと明るさであり、サブとして秘密の暗部で人目につかなさがあった。この関係性を逆転するのもいいかもしれない。秘密の暗部をメインにするのは、あまりにも外の世界が開かれすぎていると感じるからで、逆にそれを感じられなくなるのがこわいので、自分が日ごろ引きこもる場所は、秘密の暗部がいいとおもってしまう。

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四角い丸

つながりはつくりたい、けど、個としていたい、という、いっけん矛盾したこと、は言葉ではいえても、形にはできない、とかんがえてしまう。形にはすぐにむすびつかないけれど、いえてしまうのが言葉のおもしろさ、だとおもう、四角い丸、のような。

ただ、じっさい、四角い丸、をつくれるかもしれない。円柱を横からみればよい。きっと、そのようなことは、誰でもおもいつくが、最初に、言葉があるから、かんがえはじめる。どうでもいいことでも、いっけん有りそうもないこと、をかんがえてみることには価値があり、その時の言葉にも価値がある。

だから、「つながりはつくりたい、けど、個としていたい」も、たとえば、「つながり」がまわりを切断して「個」をつくり出す状況にすればよい。これも言葉だからいえることかもしれないが、少しは形になりそうな雰囲気にはなってきた。

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愛着をすくいとる

建築は時間がたつと、劣化していくし、25年したら価値がゼロになる。かんせいした瞬間からものとしての価値がさがることになる。ただ、時間がたつことで使用者にとっての価値は上づみされていく。それを愛着といっていいかもしれない。いまのシステムでは、この愛着をすくいとることができない。愛着には価値がないとされる。愛着に価値を見いだすには、愛着に価値があるとかんがえる人がひつようになる。

愛着に価値をみいだし、ただ、それをそのまま表現したのでは誰にもつたわらない。誰にでもわかる形に愛着を変換するか、変換した愛着とのつながり方を調整するひつようがある。

愛着というと、なかなか、実体がないものだから、形にしづらいが、愛着をなにかしらのエレメントに変換するか、あるいは、変換したエレメント同士のつながり方で表現するのが、ひとつの方法だとおもう。

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贅沢な古いもの

古いものをのこすことは、贅沢かもしれない。のこすことに価値があるものは、そもそも贅沢なものである。のこすことに、別だん価値はないが、おもい入れのあるものは、のこしたい、とおもう。ただ、のこすにも、場所がひつようであったり、のこすためのメンテナンスがひつようであったりと、つみ上げていくと贅沢なものになる。だから、スクラップアンドビルドで安価にすまそう、となるのだろう。

しかし、古いものをのこして、そのままではなく、その時のやり方で手をくわえれば、古いものでしかつくれない価値が生まれるだろう。それが贅沢である。かけたコストにも、み合うものになるばずだ。

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蓋だけですが

ボディが壊れて、赤絵の蓋だけ、がのこりました。きれいな蓋、では、また、似せて、ボディだけをつくりますか。いや、全く別のボディをあわせちまいしょう。

なんて、そういうやりとりかどうかは知らないが、鉄の燗鍋に赤絵の蓋がついている、のをみた。燗鍋は懐石でもちいる酒つぎのこと。もとは、燗鍋に、共材の鉄の蓋、がついていたのを、赤絵の蓋、にすえ替えたか、赤絵の蓋だけが先にあり、それにあわせて制作されたのか。どちらにしても、茶人のあそび心はおもしろい。

とくに、赤絵の蓋にあわせて、別のボディをつくるのはおもしろい。使用じょうは、蓋の役目さえすればいいから、燗鍋いがいでも、なんでもいいし、元の赤絵の蓋のボディとは、全くちがうもの、にして、落差があって、元のボディが想像できないくらいのほうが、余計におもしろい。

建築でも、ふるい建物の一部分をのこして、新たにつけくわえ、全く別の用途にかえる、ことはよくある。ただ、ここまで、変化のはば、が大きいものはない、ような気がする。どこまでいっても、空間の範疇、建築の範疇から、ぬけ出ることはできないから。ふるい建物の一部分をのこして、空間以外、建築以外、にするのならば、この燗鍋と同じくらい、におもしろいけれど。

そういえば、むかし『北の国から』というドラマで、自動車のスクラップ部品や、古い電話ボックスなど、をつかって、家をつくっていたシーンがあったけれど、あれなどは、この燗鍋と同じ、ようなつくられ方かもしれない。

もちいられるエレメント同士のつながり方や、そこから生まれる全体としてのオブジェクトが、元のエレメントが属していたオブジェクトやつながり方と、全くちがうことでしか表現できない世界があるな、とおもった。

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第3の場所

サードプレイス、という言葉がある。家でもなく、職場でもない場所。そのサードプレイスの重要性や必要性をよくきいた。たしかに、場所の量でいえば、圧倒的に、家や職場よりも多いし、無限に存在するといっていいかもしれない。しかし、その場所にいる時間は、ふつうに生活していたら、家や職場より、圧倒的に少なくなる。サードプレイスが無い人も多いだろう。

サードプレイスが必要で重要な理由は、有限な時間を、より有意義にするため、ときいた。家や職場での時間だけでは、なにかが損なわれてしまうと、感じるからだろう。サードプレイスがあることで、有意義、を担保している。ただそれでは、なにかが損なわれること自体が、かわることはないともおもう。なにも損なわれず、有意義でいること、はできないか。

サードプレイスをつくるにしても、家や職場と並ぶような、別々の扱いもいいけれど、サードプレイスの特色はそのままにして、家や職場とからめてみたらどうだろうか。そうすると、場所の量は、限定的になり、有限になるが、そこにいる時間の量が圧倒的に増える可能性がある。サードプレイスのつくり方によっては、なにも損なわれなくなる可能性すらあるかもしれない。

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メインは外したもの

ふつうに、反動的に、逆張りをするのはおもしろいけれど、ちょっと、たんじゅんすぎて、それでは何もうまれない、とおもった。

なにか、つくろうとしたときに、できれば、よく見るものとか、よくあるもの以外のものを、つくりたいとおもう。そのとき、たんなる逆張りをすると、まったくちがったもの、に見えるけれど、それはたんに裏表の関係にすぎず、けっきょくは亜流でしかない。

いちど切断するひつようがある。よく見るもの、よくあるものが外してしまっていることを見つけ、それをメインにすえる。それは、一見、逆張りのようにおもえるが、同じようなことで近くにあっても、外していることもあり、結果的に、すごくわすがな差にしか見えが、よくあるものではなくなる場合もある。

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特殊から普通へ

まわりからめいかくに区分けされている状況は、それだけが特殊であるが、それが、特殊ではなく普通で通常である、ということがありえるのか、とかんがえてみた。

かんがえるきっかけは、まわりとの違いがめいかくにあらわれている建築を、普通で通常なものとして、つくりたいからである。特殊なものをつくることは、あんがい簡単、なのであり、それはのぞまれないことが多い。

きっとありえるとしたら、一見普通のかっこうをして、まわりとはいっさい関係をもたない、ようにすればよい。一見普通、というのは、よくみれば普通ではないときがあり、つねに普通ではない、普通でいる時間が限られていることで、普通ではないときには、まわりとの関係が切断している。断続的に関係の切断がおこるならば、めいかくにまわりから区分けされる。

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つながりで切断

ただの線だとおもっていたものに、太さをかんじると、それはただの線ではなくなり、太さの中に、さらに別のものをみることができる。

壁をえがいた単線に、太さをかんじると、もっと太く、もっと幅をひろげて、その中になにか入れたくなる。そうすると、線は複数になり、そこに間ができる。そしてまた、線に太さをかんじると、そのくり返しで、間ができていく。そうしてうまれた、いくつかの間は、分割してできた間とちがい、もとは単線だから、つらなり、である。

そのつらなりは同時に、もとは単線だから、なにかを分割することにもなる。それは、つながりが切断した状態をつくりだす、ことである。なんとも、みりょく的なこと、だとおもった。

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つなぐ壁

そこに境目があることで、別々であり、別のものだということがわかる。しかし、境目は便宜上ひつようで、そのようにみえてるだけで、実はつながりがあり、重なっていたとしたら、むしろ、境目はつながりを形成しているものになる。

たとえば、壁は部屋と部屋を切断して、別々なものにわける。ところが、別のみ方をすれば、部屋と部屋をつなげている存在とみることもできる。あたり前だが、壁がなければ、2つの部屋は存在しない。しかし、壁が2つの部屋をつないでいる、とみることもできる。そのつないでいるときの壁は、またちがった性質をみせはじめるような気がする。

ちょっと壁についてみ方を変えてかんがえてみる。きっと、つなぐ役目の壁は切断しておわりの壁とはちがうはずだ。

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境をこえる

境をこえることは、建築ではなかなかできない。いろいろな境があるけれど、土地の境も、隣りとの境としての壁、床、天井も、あたり前だけど、こえられない。ただ、それでおわり、ではなくて、なにかないか、なにか方法はないか、とかんがえてみる。

かんたんにいえば、建築は決められた境の中でしかつくれない。しかも、境は条件として、はじめに与えられるものだから、選べないし、あとから変えられない。もし、境をこえることができれば、なにかちがう表現が可能になるはずだ。

現実的には、境をこえることはできないが、境をこえたような意識や気分、にはさせることができるかもしれない、とおもった。それをかんがえるきっかけになった、因州中井窯のお皿からアナロジーをえよう、とずっとながめていた。

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記号をつかって

お約束ごとがわかると、いちいち説明がなくても、理解できたり、行動できたりする。そのお約束ごとのひとつが記号かもしれない。記号はそれだけでシンプルな意味をまとうから、つかう方も受けとる方も、よけいな物事をはぶくことができ、わかりやすくなる。もしかしたら、記号だけで、かなりのことが表現できるかもしれない。

先日、お能の舞台をみていて、音で展開がなんとなくわかった。この音がした時はこうなる、こうなる前にはこの音がする、など音が記号の役割をして、展開が約束されていた。

建築でもデザイン手法として記号があつかわれていた時期があった。意味をまとう記号をデザインの主題にしていた。ただその後、記号をあつかうことがすたれたのは、記号がまとう意味のつたえ方まで意識されておらず、意味にともなう行動までをデザインの範疇にできていなかったから、と記憶している。お能をみていて、そのことをおもい出した。

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省いて、はぶいて

できるだけ省き、最小限の動き、音、言葉で、意味をつたえるのが、お能、だという。毎回、お能を鑑賞するたびに、気づくことがあり、ちょっとずつ、うすくだけど、かさね塗りするように、自分なりに、お能の理解がすすむ。

省くことで意味をつたえる、というのがおもしろい、とおもう。建築からの視点でかんがえると、モダニズム建築も省くことをおこなった。ただし、それは、それまでの建築が装飾をまとうことで、意味をつたえていたから、建築は意味をつたえるものではない、として装飾を省いた。だから、省くことで意味をつたえるお能はおもしろいと、とくに欧米のひとは、そうおもうかもしれない。

ただ、日本人にとっては、省くことで意味をつたえることは、なんとく感じでも、理解しやすいかもしれない。茶道にしても、花道にしても、道がつく世界では、省いて最小限にして表現することは良い、とされているようにおもうから。

ただ、いつから、省いて最小限にして表現することは良い、となったのだろうか。少なくとも、縄文式土器をみると、装飾することで意味をつたえていた、ようにおもう。その反動からか、弥生式土器には装飾がなくなったが、最小限の良さ、を表現しているのだろうか。たしか、岡本太郎や磯崎新が、縄文式土器と伊勢神宮、弥生式土器と桂離宮を関連づけていた。帰ってからしらべてみよう、っと。

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でるくい

ひとつより二つ、二つより三つ、と増えることの良さは、たんに数や量が増えるだけでなく、ひとまとまりで増えるより、ひとつひとつの間に関係性が生まれること、だとおもう。

この関係性には、ひとつひとつ、が独立して単独であることがひつようであり、まわりと切断しているほうがいい。切断しているから、なににもとらわれずに関係性をきずける。切断は、でるくい、だからできることで、でるくい同士、で関係性をつくれば良い。

それによってできた関係性は、またひとつの、でるくい、になるかもしれない。そうしたら、でるくいだらけで、そんなことはどうでもよくなるだろう。

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無形の財産

それぞれが中心になれるような人たちが、たくさん寄せあつまると、うまくいくのだろうか。ふつうにかんがえると、それぞれが自己主張をして、バラバラ、になり、うまくいかないようにおもってしまう。だから、バラバラにならないようにするか、そもそも、中心になれるような人だけでなく、脇役や、うまくまとめるような人もまぜる。

ただもし、バラバラでも、うまくいく方法があるとしたら、なんだろうか。バラバラにも利点がある、とおもう。ひとりひとりが中心になれるくらいの能力があるのならば、まとまったひとつの集団より、バラバラであるがゆえに、迅速に細かくうごけるから、より広範囲に、よりふかく、ものごとに対処できる、のではないだろうか。

そして、それによってできる、バラバラな人たち同士の関係性が、無形の財産、として価値があるものになるような気がする。きっと、これは、建築でも同じで、そこに関係性に価値がある所以があるのだろう。

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つながりの連鎖

見通しがわるい、ところは不安だから、見通しよくしようとしても、そもそも、どこを見ればいいのか、わからない時って、あるような気がする。見通しをたてる前に、見る方向をさだめたい。

あんがい、見る方向をさだめるほうがむずかしい、とおもう。勘ちがいしたり、まちがったりしてしまう。見通しがわるいのは、見る方向がまちがっている、からかもしれない。

見る方向をさだめるには、さいきんは、つながりを意識している。見る方向をさだめることは、他と切断することになるが、切断したあとは、ちがうつながりができていく。このちがうつながりが、連鎖して生まれるかどうか、が手がかりになる、とおもう。

住宅も同じ、新しく建てることは切断を生む。しかしそのあと、ちがうつながりが連鎖して生まれる、ようにすることで、住宅として成り立つ。そんな連鎖をたくさん起こしたくてはじまったプロジェクトは、切断のあとのつながりが、いたについてきた。

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つきるから

いつも期待は無限にあるように感じてしまう。どこまでもつづくとか、かならずあるとか、ずっととおくまでを範囲に感じる。でも、あたり前だが、無限などありえず、なんでも有限である。

無限だと感じるからできること、を有限だと切りかえたら、でもそこで、今まで、そこまで意識していなかったことに、気づくかもしれない。

なんでも有限、限りがある、としたら、かならず、つきる時がくる。今まで、つきること、を意識してなかったから、そのものの成り立ちなど、どうでもよかったが、つきてしまう、限りがある、有限だとわかったら、とたんに、そのもの自体のこと、が気になりだす。

けっこう、なんでも、有限だとおもうと、なにもしなくても、自然と、いろいろなことに気づいたり、そのものに集中できたり、するのかもしれない。

建築のようなオブジェクトも、有限だとわかっていながら、無限にあるもの、だとおもってしまう。有限をもっと意識したら、関係性などのような、どこまでも無限につづく幻想が、気にならなくなるかもしれない。そもそも、人がつくることができるオブジェクト、は有限だから。

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他のばしょ

日頃から、ひとつのことだけで無く、他のばしょを持つこと、が面白さにつながる、とおもっている。ひとつのことだけをコツコツやる、ことは大事だが、それが2つ以上、たくさんあれば、それ同士の相乗効果も生まれ、ひとつだけでは出せいこと、に遭遇できる。

ひとつひとつには、そのままでは、その内側に、見ることができない部分、があるとおもう。その見ることができない部分は、その内側にいるから、見ることができないのであり、外側に出れば、見ることができる。

だから、他のばしょ、が必要なのであり、その見ることができない部分が、ほんとうは、じぶんがいちばん必要なこと、だったりする。ただ、その場合、他のばしょ、にも同じくらいの比重が必要で、きっと他中心的になるのだろう。

この住宅には、たくさんの、他のばしょ、をつくり、中心をたくさんつくれる、ようにしてみた。そうしたら、暮らしがアクティブになった、とよろこんでる。

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どちらを先にするか

ただ、ただ、形をいじりながら、形のみが、うまくいくように、うまくおさまる、ように置いてみる。その時点で、形は安定して、そこにある。こんどは、そこから、それが置かれるまでに、何をしたか、をかんがえてみる。これを何回かくり返すと、共通のプロセスがうかぶ。

まったくの思いつきで、プロセスをはじめにきめてみる。置かれるものは、同じプロセスならば、まったく同じ形、なるばずである。もし、ちがう形、になるならば、プロセスを調整する。

この2つ、前者は、実践から理論をつくるこころみで、後者は、理論から実践をつくるこころみである。どちらも創造にはなるが、どちらが良いかはなく、創造されるものが実践か理論のちがいである。

今までをかんがえると、実践が先にくるから、創造されるものは、実践してつくられたもの、になるだろう。やはり、実践が先のほうがしっくるくるし、後からの理論づくりは、自分にたいする、気づきにもなる。

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突出したもの

まったく周りから切り離された、そこだけにしかない、建築、はあるだろうか、とかんがえてみた。まわりの環境、となじむことが、良し、とされるから、なかなか、周りから切り離された建築、をイメージできないし、見あたらない。

ただ、森のなかにぽつんとある建築とか、周りが自然だと、あり得るかもしれない。周りが建築と相対するものであれば、可能性はある。

あとは、建築自体が、周りから突出して存在している場合、もかんがえられる。その場合は、都市部のなかでもありえるが、シンボリックで単体、の建築がすぐにイメージできる。

面白そうなのは、都市部のなかで、シンボリックではなく、なおかつ、単体ではなく、周りから切り離されて突出している建築であり、単体ではないとしたら、それは多中心的なものか。いずれにしろ、ちょっと、横にスライドして、かんがえてみる。

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ありがたいひと

前から気になっていたこと、は他のひとからみたら、簡単に、わかるものらしい。ながい間、気にはしていたけど、なにも手をつけなかったこと、をズバリといわれる。やっぱりな、とおもう反面、気にしたこと、はせいかい、だったとわかる。あとは、そこに、手をつければいい。

こういうときは、大概、うまくいくとき、のまえぶれの場合がおおい。気にしてるところは細部で、指摘するほうも、それがわかっている。大枠はいい方向にすすんでいるから、細部をいう。だから、素直にきける。

そのような、ありがたい関係性の人、はだいじであり、いつもこころ強い。じふんもクライアントに対して、そうありたい、とおもう。

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勝手きまま

時間がつながっている、ことと、空間が途ぎれていること、この2つが重要だとおもう。

建築では、とくに、建替えでは、過去そこにあったもの、とは断絶したものができあがり、ただ、そのときの周辺環境、とはつながっている。だから、前とはまったくちがった風景がとつぜん出現する。前そこに、何があったかが思いだせない。

ずっと同じではこまるが、定期的にまったくちがった風景がとつぜん出現するのもこまる。それに、これをくりかえしていくと、どこをみても同じ、というような風景に収束していく。

だから、時間的なつながりは残し、さらに空間が周辺環境とは関係ないところできまるならば、時間は過去現在未来とつながりながら、多様な風景がくりかえし生成されていく。

たのしい街は、あんがい、勝手きままな建築、だらけだ。

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調和は幻想

目のまえにある木と、そこに何かをつくろうとしている人が、関係することで、何かが生まれる、とすると、生まれたものは、木と人の関係性の産物だが、生まれたもの自体は、それはそれで、その関係性とは別のところにいる。

ちがう言い方をすれば、つくるプロセスでは、木と人の関係が必要だが、できて出現してしまえば、関係性が無くても、そこにいることができる。

これが建築の場合、エコロジーの観点からすると、問題になる。できてしまえば、木という自然が無視できるから、建築が調和をくずす要因になりえる。

ただ、そこでおもうのは、そもそもそこに調和があるのか、ということと、建築がそこで関係性を無視してあった方が良いのではないか、ということ。

木と人の関係性は反映されているわけだから、木と人以外の別のものが出現することで、何か新しいものを捉える可能性が生まれるし、それには、調和の無さ、あるいは、緩さが必要だから、そもそも調和など幻想だったのではないか。

もう少し、建築を関係性ではなく、建築自体が持つ新しいものを捉える可能性というポテンシャルの面をみると、よりエコフレンドリーになるのでは、とおもう。

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境界をこえる建築

1本の木がありました。その木をどこから見るのか、を問題にしてみた、その木をどこに置く、ではなくて。とうぜん、見る位置によって、ちがう印象、があらわれる。見る位置がかわれば、印象だけでいえば、ちがう木、となる。

見る位置をかえることは、境界をこえるか、境界自体が無くなる、ことにもつながる。見る位置をかえることを建築化すれば、それは、境界をこえる建築、になるかもしれない。

見ることと境界を関連づけることで、建築にあらたな、つながり、がうまれる。しかもそれは、プランにはんえいできる。

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境界をこえるか

となりが気になる、ことをそのまま、素直、にみてみる。なんか気になる、ことを、うまく取りいれると、境界をこえられる、ような気がした。

なにかを所有していると、そこに境界がうまれる。となりが気になるのも、所有しているものかどうか、でかんがえれば、境界がどうしてうまれるのか、がちょっとわかる。

となりに、ちょっと気になるものを置く。それは、となりにあっても、自分にしか見えない、としたら、どうだろうか。これで、境界をこえてないだろうか。

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そばの自然

常にかわるかもしれない、とおもうと、おちおち安心もしてられない。できれば、かわらない方がいい、とおもう人も、多いかもしれない。ただ、自然をみてると、かわらないもの、などない。常に一定の均衡状況を保つことなど無い、ようにおもう。かわることが日常、のようにみえる。たがら、自然をとり入れたい、とおもうことの、本音は、かわりたい、かもしれない。

人も自然のいちぶ、という話には、はんぶん賛成、はんぶん反対。自然のなかに人をくみ入れることで、自然は守るべきもの、になるが、自然と人をおなじようにあつかうと、自然は人によってどうにでもできるもの、にもつながる。

自然のかわりようをみながら、人は人でかわるのがいいのでは。自然はとり入れるもの、ではなくて、そばにあって、いろいろなかわり方、をみせてくれるものでいい。

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時がたつのがおそい場所

時がたつのがはやい、あっという間、というけれど、おもいかえすと、はやい時と、おそい時が、あるようにおもう。

はやい時は、なにをしていたか、ぜんぜん、おもい出せない。ただ、その当時、どんな状況だったかと、俯瞰して、かんがえると、なにも自分からすすんでしてなかった、ようにおもう。やらされていた訳ではないが、かといって、自分がほんとうに望んでいたこと、ともちがう状況だった、ような気がする。

おそい時は、逆に、したことを、たくさん、おもい出せる。あれもやった、これもやった、と。上手くいかないことも、よくやったことも、両方あるけれど、とにかく、たくさん、おもい出せる。こうおもい出しているだけでも、時間がかかり、おそく感じる。ちがいは、自分から状況をつくっていたからか。

そうだとしかたら、時間の量はみな同じ、でも、時間の感じかたはみな違う。だから、感じかた、ようするに、状況を自分からつくり出せば、時間をコントロールできる。でも、なかなか難しい。ただ、自分の家の中ならば、だれでもできる。だから、家づくりはおもしろい。

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切断をおこしてもらう

つながり、は大事だと、知らず知らずのうちに、すりこまれている。たしかに、大事だとおもう。ただ、どこかで、切断、もおこさないと、つながり、がにごる、とおもう。

切断、には勇気がいるけど、切断したい願望、はきっと、せんざい的にはある。切断、によって、いまのなにかを変化させたい、という気持ちだろうか。

ただ、じふんでは、切断、をおこすのは難しい。だから、だれか他の人に、切断、をしてほしい、と願ってしまうのは、しごくとうぜんかもしれない。

切断、をテーマに、この住宅をみると、切断面がいたるところに現れる。切断したおかげで、このクライアントは、新たな生活を手に入れた。それは、今までの日常の延長でも、切断という行為で、前の住宅と今の住宅のちがいを、感じとりながら、ちがう気持ちで暮らしてる。

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自律とつながり

外にながれでるように、外へむかって、つながり、をつくろうとしたら、自身はどんどん、希薄なもの、になりやしないか。自身というものが、つねに、外とのつながりで、決まるから、自身単体では、成立、しない。その成立のしなさは、あいまいなものへ、そして、希薄なものへ、かえていく、とおもう。

外へながれでる、のを止めて、その場で自律、してみるのはどうだろうか。その自律する部分が複数あったら、その自律する部分同士で、ながれでるような、つながりをつくれば、自律したまま、外へのつながりも、つくれないだろうか。

これは、人にも当てはまるし、建築にも当てはまる、とおもう。複数の自律、きっとこれは、今進行中のプロジェクトに当てはめて、かんがるとおもしろいかもしれない、とおもった。

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コスパのかわりにゆるさを

なにか、ムダ、をつくりたくて、きっと、じかには役には立たないけれど、そのおかげで、豊かなきもち、になれるような状況をつくりだしたい。余分なもの、というか、余計なもの、といか、とかく、コスパや効率、ばかりが聞こえてくるので、豊かなきもちになれない。コスパや効率とは、対峙するもの、でも、それがあるおかげで、豊かさが成立するようなものをつくりたい。

きっとそのムダは、感覚的で、わかりづらい。だから、コスパや効率のそとにある。しかし、感覚的で、わかりづらいから、とくに、なにかを、はっきりとさせる必要もなく、あいまいで、ゆるい。この、ゆるさ、が今ひつようだと感じる。

そんな、ゆるさ、を肯定できるには、何があればいいのか、どうなればいいのか。かんがえるに値することだとおもう。

この住宅がきっかけで、ゆるさ、を意識しはじめた。クライアントの人柄が、そうさせたのかもしれない。

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直感にしたがう

意味がある、とか、意味がない、とか、とかく意味という言葉は、価値あるもの、のたとえになる。だけれども、何ごとにも、意味を見いだしていたら、つかれて、しょうがない。意味がつきまとうときは、直感をはたらかせる、ことができない。

建築に意味を見いだしたら、キリがない、ようにおもえる。かんがえてみれば、建築は、意味のかたまり、にもみえる。建築に意味をもとめることが、それこそ、意味がないときもあったし、建築に意味をもとめようとして、おかしな建築ばかり、がでてきたときもあった。意味のかたまり、とは建築を部材に、還元していけば、それぞれの部材は、なにかしらの意味をもち、設計する側は、その意味から、部材の集積をかんがえる。

でも、あんがい、さいごの部分は、直感だったりするから、意味が不明確だったり、それがおもしろい。この建築も直感にしたがった。

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未知のもの

時はながれる、あたりまえだけど、10年前をおもうと、この10年で30年分は生きたような気がする。いろいろとみつかるものだ。たぶん、10年前には想像もしてなかったことを、たくさんみつけた。この10年で、みつけ方もたくさん試したので、またまだ、これから、未知のものが、たくさん、みつかるだろう。

日々のなかで、暮らしと直結するもののひとつが、建築、だとおもっている。だから、どうしても、どう考えても、人をとおして建築を考えてしまう。建築が人に与える影響から考えてしまう。これからもそうだろう。

これらの住宅も、発端はすべて、人にどのような影響を与えるか、だった。この、どのような、の部分がこれからさらに、掘りさげていくところで、またまだ、未知のものが、たくさん、ありそうな気がしている。

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ボーダーラインをこえる

いかにして、ボーダーラインをこえるか、をつねにかんがえているような気がする。建築の場合は、つねに、なにかしらのボーダーライン、がつきまとう。それが、目にみえる、場合もあるし、目にみえない、場合もある。予算や、敷地境界線や、絶対にこえられないもの、もある。

なかには、ボーダーラインをこえあう関係性、もあるかもしれない。片方がこえても、もう片方もこえれば、バランスがとれて、問題にはならない、ような。そのようなボーダーラインは、意識すること、でみえてくる場合もある。その場合、ボーダーラインをこえてること、に気づかないこともある。

なにかで、ボーダーラインをこえてる、ことを気づかせることができたら、お互いにボーダーラインをこえあうこと、に抵抗もなくなるだろう。きっと気づかせるきっけに建築は役立つとおもう。この住宅は、そんなボーダーラインに気づかせてくれる。

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好きなようにやるための何か

スクラップブックのように、いろいろと貼りつけて、そこには、ルールもなく、好きなようにできる空間、ってあるとしたら、どんなだろう、とそうぞうしてみた。

そのときに、その空間をつくる側か、みる側か、でちがうかもしれない。つくる側は、どうやってつくるか、をかんがえるし、みる側は、どうやってみるか、をかんがえる。ひとによって、ちがうだろうが、じぶんは、つくる側でかんがえてしまう。

現実的に、スクラップブックのような空間みたいな、ありえそうもないことを、簡単にできるようにかんがえる。そうすることで、いろいろなひとを、巻きこみやすいし、みる側のひとたちも、現実感をもちやすくなる。みる側のひとたちは、クライアントだ。

この住宅は、好きなように部屋の範囲をかえることができる。ルールはない。あるとしたら、スクラップブックで紙の大きさがきまってる、ように広さに制限があること。

あんがい、スクラップブックのように、はじめにルールはなく、あとから自分しだいで、好きなようにやるための何かを持ちこみたい、と他でもおもう。それが、つくる側のおもしろさ、であり、みる側ではできないこと。好きなようにやるための何か、はみる側をもハッピーにする。

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たいせつな、みえない体験

ちょっとでも、日常とはちがう体験、が日常の中にあれば、そこから、さまざまな連鎖がおこる、とおもう。たとえば、その連鎖は、ふだん行かないような所、に行こうとか、なかなか会えない人、に会おうとか、またちがう体験をよぶ。体験すること、でしか、人はまんぞくできない、とどこかでおもってるから、日常の中のちがう体験はたいせつにしたい。

その、日常とはちがう体験、は非日常なことではない。たぶん、日常的にしている体験のみえない部分、だろう。それは、あえてみようとしないと、みえない部分だとおもう。そのためには、ちょっとした技術、も必要かもしれない。

きっと建築はその、日常とはちがう体験、をつくり出せるもの、だとおもう。そのためには、やはり、ちょっとした技術、が必要だろう。ただ、建築で、それをやる価値は、またちがう体験をよぶ、のならば十二分にある、とおもう。

この住宅では、密集地という立地から、空にちかづくこと、で地上の生活に、変化をつけた。人は、地面ではなく、空とむきあう。地面に接地していては、みえない部分、がそこにはあった。

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引っかかりをつくる

ズレていると、気になるし、引っかかりができてしまう。これは、ぶつり的なものにでもおこるし、言葉のような、目にみえないもの、に対してもおこる。この引っかかりが、良いものならば、引っかかったら、たのしいし、悪いものならば、気になるだけで、やっかいだ。

ものをつくることを、別のみかた、をすると、この引っかかりをつくること、といえるかもしれない。引っかかりは、意図して、つくることができ、先にふれたように、人の意識に作用し、たのしい気分にさせることもできる。

たのしい気分になって、といわれても、なかなか、たのしい気分にもなれるものでもないし、そこには、なり方はひとまかせ、のような感じもする。それよりは、たのしい引っかかりを、たくさんつくってあげることで、いわなくても、自然とたのしくなる。それが理想だと、いつも、おもう。

この住宅は、そんなことをかんがえながら、そうしたら、こどもも、おとなも、いろいろなところに引っかかりながら、たのしそうだったし、いろいろと、どのように引っかかるのか、発見があった。

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次を召喚するチカラ

つながりや、関係性でかんがえる建築が、いちじ、はやったような気がしてた。たぶん、いまは、それは、当たり前のこと、になり、そして、関心は、モノじたい、にうつって、久しいのだろう。

こう、モノのねだん、が上がると、おもうように、使いたいモノ、がつかえない。だからか、はがしたまま、あらわしのまま、なんて、途中のすがた、が仕上りになってるのを、多くみる。

ただ、いまはいいけど、それを良しとして、放置しておくと、つくり手のイメージに、あらたな本質的なモノを召喚するチカラ、がなくなっていくような気がする。

その時代のかたまりつつある状況から、一歩ふみこむ、ことが、次をつくりだす。途中でよしが通用するのは、最初だけ、だとおもう。

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少しだけの関係

なにがいいのだろう、なにが正解なの、手さぐりのときの気持ち。きっと、これって、そうそうこれこれ、とおもいたいし、どこかで、損したくない、得したいと、無意識にでも、おもってる。あんがい、たくさん、あって選べない。こんなとき、どうするかな、と最近、かんがえることが多い。

ネットには、たくさん、ある。ただ、たくさん、ありすぎるのも、こまる。だから、これが、いいじゃないの、などと、交通整理、してくれる人が、あらわれる。その人もまた、ネットには、たくさん、いる。もう、よけい、わからなくなる。さいごは、直感、にでもたよるしかないのかな。

けっきょくは、なにかに、だれかに、決めることになるのだが、それで納得してしまう理由、をさがしてる。なかなか、その理由を、うまく、しめせてる人は少ない、ような気がする。納得する理由って、あんがい、理屈じゃなくて、ささいなこと、たとえば、それ前からしってたとか、いちどは試そうとしたとか、なんか、じぶんと少しだけの関係があること。この、少しだけがミソ、かなと最近、おもってる。この住宅のクライアントも、そんなワタシとの少しだけの関係を、たぐりよせた、らしい。少しだけだから、気楽だった、と。

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建築は中間にいる

何か意味がありそうなもの、が目のまえにあったら、何だろう、とおもうだろう。そのとき、触れられるならば、触れたいし、あつかえるならば、あつかいたい。ようは、何かつながり、をつくりたい。

それは、その場が、どうであれ、いつも可能なこと、だろうか、いや、それを、いつも可能なことにする、場が必要だろう、とかんがえた。その場のひとつが、建築、になり得る。

いわば、建築が、媒介するもの、となる。媒介するものは、いつでも、中間にある。中間にあるから、何にでもつながる、ことができる。だから、媒介するものが、実際にあれば、あとは、そこに、つながりをきずきたいもの、を放りこめばよいだけである。

そのときの、媒介するものは、たしかな、存在、をそこで得ることができる。建築としては、いい、あり方のような気がした。この住宅も、はじまりは、そのような、中間にいる建築をめざした。

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感じる自然

めのまえに、木はあるが、それが自分のしらないところで、変化をしていく、自然の感じ、をとても簡単にいえば、そうなるとおもった。そうすると、めのまえで、その時間に、自分のしらないことは、全て自然のできごと、といえるかもしれない。かんがえてみれば、自然という言葉を、木や緑などの自然と、自分が関知しないことの、2通りのつかいかた、をするが、もとをたどれば、同じなのかもしれない。

自然を感じたい、とおもうと、森や海に、いこうとする。つねに、まわりに、森や海があればいいが、都市部だと、そうもいかない。海はムリだとしても、都市部で、少ない木で、森を感じるには、どうしたらいいのか、をかんがえている。

まずはきっと、先にした、木はあるが、それが自分のしらないところで、変化をしていく、ような状況をつくりだせばよい、とおもった。その状況を、今度は、建築が媒介となり、そこにいる人につたえる。つたわった人は、そこに自然をみる、だろう。こんなことをかんがえた。

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建築=メディア

デザイン、には注意がむけられるが、そのデザインを伝えること、には注意がむけられていない、とかんじた。大事なことは、伝えること、である。伝えることは、コミニケーションの際の伝達手段であり、それ自体がデザインの核心である、とかんがえた。

伝達手段は、コミニケーションの両端のつなぎ、の部分になる。つなぎ方によって、デザインの意味も、役割もかわる。だから、伝達手段も含めてデザインである、と同時に、伝達手段がデザインの核心になる。

建築には伝達手段も含まれる。いや、もしかしたら、建築とは伝達手段そのもので、伝達手段がカタチになったもの、かもしれない。そうすると、建築=メディア、ともいえる。

この住宅では、たくさんの意味をつめこんだ。その意味をつかみやすくするために、建築がそんざいしている、とかんがえた。

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たくさんできるコト

そんなもの、存在しないよ、とどこかで、おもいながらも、期待していること、って意外とありませんか。それは、だいだいが、カタチがないものであったり、目にみえないものであったりする。ちょっと、べつ角度から、カタチがあって、目にみえてるものが、全てかという、てつがく的なことにもつながるかな。ただ、そんなむすがしいことではなくて、何か、期待をもちたい、だけだとおもう。それが、全てのはじまり、全てのきっかけ、のような気がする。

建築の設計って、目にみえるモノをあつかいながら、目にみえないコトをかんがえる、ことかもしれない。だから、いつも、期待すること、でいっぱいになる、どこかで、そんなもの、存在しないよ、とおもいながら。ただ、設計者しだいで、存在させること、ができるコトはふえる。

この住宅には、居場所をみつけて、と想いをこめた。ただのイエでなく、特別な場所、としてのイエ。べつの言い方で、イエらしいイエ。イエがじぶんたちのものならば、それをもっとふかいところで、想ってほしかった。そのためのコトは、設計者しだいで、たくさんできる。

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閉じるの、開くの

こもる、ことに対して、建築は、とかく、ひはん的なような気がする。うちにこもる、すなわち、閉じた箱的な建築、はこのまれない。都市部では、眺望などに、きたいできないから、閉じて、こもり、必要な光をとりいれるだけ、とかんがえることは、ひとつの方法として、あってもよいはずである。

問題は、こもることで、社会とのつながり、がおろそかになる、のではという、建築だでなく、人にも当てはまること。ただ、オープンであればいいのか、閉じたなかでの、社会とのつながり、を建築として、つくり出すことに、可能性をみいだせば、よいだけだと、それはむずかしいことだが、おもう。ちょっと、それは、建築として、いま的なこととして、かんがえる価値はある。もしかしたら、閉じると開くの中間あたり、に落ちつくことも、ありえる。

これら2棟の住宅は、2つでひとつ、とかんがえ、互いにたいしては開き、外に対しては閉じた。きっと、このように、開くと閉じるが同時に存在し、その割合のちがいが、建築の存在のちがい、になることも、ありえる。

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実利と犯罪

実利、なんて言葉を、ことさらかんがえる。コスパとか、損得とか、にたような言葉があり、コスパより損得には、なんか、ちょっと、計算たかさ、がつきまとう感じがする。コスパも、損得も、その言葉じたい、きらいな人もいるだろうし、べつに、ビジネスや生活の中では、当たり前のこと、だよねとうけとめる人もいるだろう。私は、コスパも、損得も、どちらにも、かんしんがない。

ただ、実利はかんがえる。コスパも、損得も、比較するときにつかう言葉だから、比較にはきょうみがないので、かんしんがない。実利は、比較ではなく、利そのものだから、何がえられるのか、とか、何がかわるのか、とかには、かんしんがある。

だから、実利から、デザインをかんがえる、こともある。ちょうど、いまよんでる本に、1世紀まえの建築家ロースの、空間構成をかんがえるきっかけが実利だった、との記載があった。実利からデザインをかんがえることが、犯罪ではない、としり、ちょっとよかった、この住宅は実利だらけだから。

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クライアント登場

かんがえを、まとめようとして、手がとまる。クライアントからヒアリングしたこと、にはいつもヒントが、かくされている。かくされているとは、直接語っていないからで、語った言葉のうらの、その言葉を語らせる何かに、気がつこうとする。たいがいは、何かは、言葉でつかみとるが、最初は、イメージや場面で、でてくる。

そのイメージや場面には、人が登場するばあいと、人が登場しないばあいがある。手がとまるときは、人が登場しない。だから、人が登場するまで、待つ。人もクライアントのばあいだけでなく、だれだが特定できないばあいや、クライアント以外の特定の人のばあいもある。これも、クライアントが登場するまで、待つ。

この住宅は、いちばん最初から、イメージや場面に、クライアントが登場した。そのようなことは珍しい。とうぜんのように、ファーストプランで、はなしはきまった。

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きゅうくつな自由

きまった形式、から自由になりたいとしたら、また新たな自由になれる形式、をつくるのだろうか。それとも、形式から離れること、で自由になるのだろうか。

こうして、言葉にしてみると、形式から離れない、と自由になれないような気がするが、あんがい、自由になれる新たな形式、をつくろうというかんがえに、いたることが、おおいような気がする。

きっとその方が、都合の良い自由、がつくれると無意識に、おもっているのだろう。自由といっても、無秩序ではこまる。自由でいながら、ある程度の秩序、大外しはしないルール、はあってほしい、とおもうのだろう。でもそれは、形式をつくること、だろうか。かえって、きゅうくつな自由、になりそう。それは、自由とはいえない、気がする。

そんなことを、ずっと、かんがえながら、この住宅をつくったこと、おもい出した。

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しつこく、へんか

まとまりの良さが、みた目で、パッと、すぐわかることは、いいことなのか。ふかんして、プランをみてると、まとまりが良くなる、しゅんかんがある。それまで、あまり、しっくりと、こなかったモノが、急に、何かをきっかけに、へんかする。

まとまり良く、へんかしたのだから、それで良し、終了で、とりあえず、いいだろう。一旦、ここでまとめる。でも、こころうちでは、どうじに、もっと他のことがないか、とさぐっている。

そうやって、しつこく、やるのが、おもしろいし、すきだ。この住宅は、そんなことのくり返しで、だんたんと、へんかしていった。

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垂直てんかい

ふしぎと、今まで、当たり前にしてきたこと、にたいして、違和感があるようになった。階ごとで、かんがえること。もちろん、半階ずらすなどは、よくある。しかしそれも、階ごとでかんがえる、範疇になる。

そもそも、建築の構造が、階ごとで、かんがえるのが基本。だから、おのずと、計画だんかいから、階ごと、になる。階ごとは、水平しこう、である。もうすこし、水平しこうではなくて、垂直しこうへ、もっていきたい。

高さのちがいが、連続するような場所を、自然のなかで、想像してみる。その場合、高さがちがう、合わないことにたいして、不自然さは無く、段差をつくるという意識にはならない、気がする。

階段が、階段として、みえてしまうと、たんに、段差があるだけの場所、になるだけかもしれない。階段としては存在せずに、垂直方向に展開するような場所、がりそうとして、ありえる。

この住宅では、階段が、階段として、みえる。この階段がなくなれば、いいのかもしれない。

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モノは気分しだい

なにかを感じるとき、そのモノの、審美てきなぶぶん、にアプローチができている。そして、そのときの、感じるきっかけは、気分による感情、に左右される。気分がよければ、よくみえ、気分がわるければ、わるくみえる。モノと気分は直接、関係しながら、モノはある。

そうなると、モノ自体がどうか、はあまり関係がなくなる。そしてそれは、気分がかわれば、モノの審美てきなぶぶん、にたいするアプローチ、もかわることもいみする。モノの美しさは気分しだい、たんてきにはそうなり、モノ自体を、はっきりと、なにかこうである、とつかめない。

建築で、かんがえれば、気分によって、みえ方がかわる、ということでもある。ならば、気分にうったえるようなもの、をたくさんはいすると、みえ方をコントロール、できるかもしれない。さらには、そうすることで、モノ自体がどうか、というところに、たちかえること、ができる。

この住宅では、動きと連動する建築のぶぶん、に気分による感情を、ゆさぶるデザインを、ちりばめた。気分のよしあしが、建築のみえ方だけでなく、動き、にもえいきょうする。気分が身体を感じる、きっかけになる、こともあわせた。

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ひっかかり、からイメージ

ひっかかるもの、があると、きっと、印象にのこる。よく建築をみてまわっていたころは、さいしょに、ひっかかるもの、をさがした。作者の意図、と合う合わない、は関係なしに、そのひっかかるものが、最初のいとぐちで、なぜひっかかるのか、をかんがえる、ところから、スタートした。もし、ひっかかるもの、が無ければ、その場でしゅうりょう。

たいがいは、ひっかかるもの、があるので、そこから先は、建築とのたいわの時間。つくる方と、しようする方を、いったり、きたりしてから、いっぽひいて、みる。いっぽひくのは、建築を、もの自体、として、世界のがわからみるため。

この建築では、意図して、ひっかかるもの、をたくさん、ちりばめた。ひっかかるものが、たくさんあることによって、かえって気をちらし、べつのもの、をイメージさせたかった。それは、いぜんにみた建築、からの学びだった。

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そんなこと、しますか

じふんから、出てきたものは、いとおしい、とおもう。きっと、じぶんの分身、とかと、無意識のうちに、おもっているのだろう。

使用するひとに、そうおもって、ほしい。建築をつくるほうが、できるのは、途中まで。すべて、ではない。願わくば、建築に、触発されて、じぶんらしいアウトプット、をしてほしい。また、そのアウトプットを、あとからみるのが、楽しみ、でしょうがない。

この住宅は、そんなことを、意識した。あとのアウトプットは、撮影できないが、そういうことしますか、とのけぞった。おもいもよらない、アウトプット、こそが、そのひとなりの暮らし、だとおもうし、住空間をもとめる意義、だと、あらためて、おもった。

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感じかたをちりばめる

ものから、感じることは、人によって、ちがう。それが、当たり前だと、おもうけれど、案外、おなじだと、みんな、かんがえている。だから、感じたうえでの、最終的な、ものや、かたちを、提示してくるし、つくろうとする。

ちょっと、その前で、とどめてみようかな、とおもう。最終的な、もののかたちや、イメージを、感じる人に、ゆだねる。いろいろな、感じかたができるもの、があり、その時々で、そのなかから、感じる人の、つごうにあわせて、感じとる。感じとりかた、がちがえば、最終的に、見えるもののかたちも、イメージも、ちがうはずだ。

その当時は、そこまではかんがえていなかったが、この住宅では、いろいろな、感じかた、ができるもの、をちりばめた。どこを、感じるかによって、ちがうものが、現れただろう。

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つくり出すのがキモ

せつだんと、せつぞくの繰り返し。集合住宅にたいして、ちがう見方をしたら、そうなるかと、おもった。各住戸が壁で、せつだんされながら、せつぞくされている。さらに、各住戸が、外にたいしても、内にたいしても、せつだんされながら、せつぞくされ、つながる。

集合住宅のれきしは、このせつだんと、せつぞくのれきし、だとおもう。どのように、せつだん、すなわち、分割し、どのように、せつぞく、すなわち、つなげるか。

分割は、はじめから、部分があるのではなく、全体計画のなかから、ちがい、をつくり出すことで、わかれていく。そのわかれた部分が、また、つながることで、全体が形成される。しかし、全体は、部分の、総和には、ならない。その差を、どのように、つくり出すかが、集合住宅のデザインのキモ、だとおもった。

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中断、OK

れんぞく的に、流れるように、すすめたいが、なかなか、おもうようには、いかないことが多い。ときどき、よそ見、をしたくなり、立ちどまる、気になるから。気になることは、わるいことではない。だから、立ちどまる前後が、うまくつながれば、いいとおもう。

かんがえてみると、案外、すなおには、ながれていかないものだと。これは、空間のはなし。あちこちに、注意をひくもの、がたくさんあるから。それらを、全部、なくすわけにも、いかないし、なくせない。だから、注意をひかれてもいいもの、ばかりにすれば、立ちどまってもいい、ことになり、立ちどまる前後に、いい影響しかあたえない。

注意をひかれてもいいもの、ばかりにするには、それらを、きちんと、おさめる場所がひつよう。この住宅では、通路をかねるスペースに、注意をひかれてもいいものを、おけるようにし、そこで、じゅうぶんに、ひたって、もらう。ここはワーク&スタディスペース。

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インテリアとしてのがわ

がわと、中身を、ぶんりして、かんがえると、中身のあり方、がいつもと、違って、おもえる。建築のがわは外壁で、中身はインテリア。中身だけで、成立させることができるので、外壁がうけもつことから、解放されて、インテリアを、かんがえることができる。さらには、インテリアとして、がわ、もあつかうこと、ができる。

この場合、いわゆる、入れ子、のじょうたいに、にているが、入れ子の場合は、相似の関係、であるから、入れ子、ではない。

もしかしたら、ふつうの、階層のつみかさね、にならされている、のではないか、とおもった。層があることに、もっと、かのう性をみいだしたい。そのために、がわと中身をぶんりをした。

以前につくった住宅でも、がわと中身のぶんり、のいしきはあった。ただ、今回は、より中身で、かんけつする、ようにかんがえている。

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つながりのちがいだけ

何かを、かんじることで、建築が、うかび上がる。そのことは、とても、大切だと、おもっている。そのことが、今度は、まわりと、どのようにつがるのか。そこで、つながりが無ければ、単なる、ひとりよがりの建築、でおわる。

まず、建築とかかわる人が、かんじることで、建築として、形になり、うかび上がる。形になるとは、もともと、そこに建築は、あるけれど、何もかんじ無ければ、無いのと、同じだから。形となり、うかび上がった建築が、今度は、まわりとのつながり、を持ちはじめる。

このように、しゅつげんした、建築が、どんどん、まわりと、つながるイメージ、をしていた。ただ、さいきん、これは逆では、とおもいはじめている。

たしかに、何かを、かんじることで、建築が、うかび上がるのは、それはそうだとおもう。だが、はじめにあるのは、まわりとのつながり、の方であり、まわりとのつながり方、のちがいが、生みだされることで、個々の建築を、かんじること、ができるようになるのではないか。建築のちがいは、単に、まわりとの、つながりのちがいだけ、ではないか。

この住宅は、まわりとのつながり方を、かえてみた。建物の四周に、ウッドデッキをしいた。たった、それだけのことで、たしかに、建築が、うかび上がった。

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存在感も、ひつようでしょう

ひかくてき、安定してるモノを、いつも見るから、そこにある、とおもう。これが、ときどきにしか、見なかったら、無いも同じかもしれない。存在感のはなしで、内容もだいじだが、頻度がだいじ、だとしたら、どうなるか。

存在感は、なんにでも、つきまとうが、建築での存在感は、よりじゅうような気がする。建築は、いつも、安定して、そこにあり、いつも、見るから、存在感があるはずである。しかし、存在感がない、建築もおおい、ような気がする。そのちがいは、どこから、くるのだろうか。

同じ、だからではないだろうか、差異、がない。いつも、そこにあるのに、存在感がないのは、ひかくするものと、同じ、だから。この場合、ひかくするものは、まわりの風景、まわりの建築。まわりと、ひかくして、同じならば、存在感がない、のも当たり前。この場合、存在感をだすには、まわりとの差異、がひつよう。この住宅は、外観のみで差異をつくり、存在感をだした。

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感じるから、モノがわかる

じっくりと、モノをみることを、最近、してない、とおもった。スマホやタブレット、パソコン、本もモノだが、これらは、モノというより、情報を、みてるだけ。だから、モノを、対象として、じっくりと、みることがほとんどない。ただたんに、モノを、感じてるだけ、のほうがおおい、かもしれない。あんがい、みんなそうではないか。

もちろん、しごとで、モノをじっくりと、みることはある。だが、それは、しごとをしてるだけ。自ら、すすんで、すきで、モノをみてるわけではない。だから、話はべつ。

モノって、みるより、感じてる、ほうがおおい、かもしれない。そのことを、もうちょっと、意識してみよかな、とおもった。感じることで、モノがどういうものか、浮かびあがってくる。そうだとしたら、モノのつくりかたもかわる。

この住宅は、そもそも、ほぼ同素材で、空間をつくることにより、どこか、特定の部分に、焦点があたらないようにした。そのことで、じっくりとみるより、全体的に、ふかん的に、空間を感じてほしい。感じるから、モノがわかる。

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感性がつなぐ回路をつくる

いい天気だな、あおぞら、は気持ちいい。このかんじを、いつも、持ちこみたい。くもりぞら、が多いちいきには、住めない、だから、気持ちいい、ものにしたい、となれば、このあおぞらを持ちこむ、つまり、みえるようにすればいい。

ただ、あおぞらが、単に、みえるだけでは、気持ちよくは、ならないとおもう。あおぞらなんて、みようとおもえば、どこからでも、みえるから、あおぞらと自分をつなぐ、回路のようなものを、つくるひつようがある。

その回路が感性だと、かんがえるが、ただの感性ではなく、汎用性がたかい感性。それは、たとえば、あおぞら、のぶるーを、いろいろなものと、むすびつけてしまう。きっと、その汎用性のたかさは、あおぞらの、みせ方によるのだろう。

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感性があつまって、わかる

空間は、けいそくするから、おおきさを意識してしまうが、そもそも、空間を、どのようにとらえるかは、あくまでも、感性てきなこと、だとおもう。ひろさも感性であり、あかるさも、心地よさも、天井のたかさも、感性である。感性てきなことが、あつまって、そこに、そのような空間があることが、わかる。なにも、感性てきなことが、なければ、そこには、なにもない。

このように、かんがえれば、モノに左右されない。モノがいいかわるいか、たかいか安いか、は関係なくなる。そうすれば、そこに、たくさんデザインできるよちが生まれ、感性てきなことを、生むために、よりデザインが、じゅうようになる。

この住宅は、せまいけれど、そのせまさをかんじさせないように、感性てきなことを生む、デザインをちりばめた。あつさ、さむさも、空間をとらえるための、感性である。だから、モノだけでは、解決しない。

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分けたら、たのしい、よかん

あれはこれ、これはあれ、と何かと、分けたがるひとがいる。分けるには、ちしき、が必要。だから、分けることによって、ちしきをみせているのだろう。ただ、分けることと、それをりかいすることは、違う、とおもう。分けることなど、実際には、りかいする上では、どうでもよいこと。むしろ、分けがたいことが、たくさん、浮かぶくらいでないと、りかいしている、とは言えない、とおもう。

さいきん、気になるのは、部分に分けたものを、たんじゅんに、ぜんぶ足しても、もとの全体には、ならないだろう、ということ。どちらかというと、いったん、分けたものを、またぜんぶ足すと、もとより増えるか、大きくなる、とおもう。

それは、分けることで、何かよけいなものを、纏うからだろう。そういういみでいうと、りかいを、わざと、困難にするために、分ける、というのはありで、おもしろいかもしれない。

なかなか、素直にはわからない、ちょっと違ったかんじがする、ような空間を、つくりたければ、さまざまな分けかた、をするのもいい。分けかたは、デザインだから、さまざまなデザインができる。ちょっと素直にはわからない空間って、日常には必要かもしれない、とおもう。そのほうが、たのしい毎日になる、よかんがする。

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寄せあつめが、おもしろい

としが明けた、てんきもいい、はれやかな気分、ぼんやりした時間がつづく。ぼーっと積読ほんをながめる。なんで、そのほんを買ったかは、いまはもう、おぼえてない。かさなったタイトルで、れんそうゲームなどしてみる。そういえばと、他のほんを、さがしにいく。読みたいときに、かぎって、そのほんだけない。ふだんの、不せいりのたまものを、正月そうそう、なげいても仕方ない。とにかく、一冊のほんに手をのばす。

そのうち、そういえばと、また他のほんを、さがす。そしてまた、そういえば、となり、そしてまた、そういえば、となる。まるで、グラスホッパーか、はしご酒か。けっきょく、読みちらかした、残がいをながめて、おわったいち日。

その寄せあつめの、残がいを、よく日もながめる。あたまの中には、何ものこってない。ただ、タイトルれいそうゲームには、ちょうどいい。そうか、なるほど、などと、思いつくこともある。なかには『無根拠からの〜』など、というタイトルのほんもある。寄せあつめからおもうことと、それぞれのほんのタイトルからおもうことは、ちがう。

見つからなかった、ほんのおかげで、寄せあつめの山ができた。でも、それは、そのときどきの、読みたい気分、を足したもの、とはちがう山になった。どちらかというと、この、無根拠な、寄せあつめの、山のほうが、すきだ。無根拠でも、あつまれば、根拠ができる。それには、偶然のおもしろさ、がある。そういえば、いつも、このような、つくり方を、してきたかもしれない、住宅にたいして。

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