つながりで家事も考える

「つながり」を意識することが設計プロセスでは多いかもしれない。

窓がつながりを表現しているものならば(『窓はつなぐもの』を参照)、他にも見えるもの、見えないもの、建築には実にたくさんの「つながり」が表現されている。

例えば、「家事動線」という言葉がある。家事がしやすいように、家事をする場所や器機がどのように配置されているかを実際の人の動きを想定して線で結び、その線が短ければ短い程、家事が効率的に行え、時間もかからずに、疲れにくいという指標で、これも家事をする際の人の動作のつながりを表現したものである。

ただ、この場合の「つながり」は、お手伝いさんや将来家事ロボットなるものが存在したら、ありがたいことかもしれないが、家事を面倒なもの、効率的にさっさと終わらせて、他に楽しいことをしようよ、という裏の意味が込められているので、どうにも「家事動線」という言葉を設計プロセスで使いたくない。

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家事も日常の一部であり、仕事と同じで1日のうちでかなりの時間を使うことだから、家事を家づくりに巻き込むならば、家事が楽しくなる、したくなるようにするのが本来の設計プロセスではないかと思い、その場合の「つながり」は家事だけでは完結せずに、例えば、外部空間の庭やテラス、人がくつろぐ時の気分や感情までもつなげて、その場所でしかつくることができない「つながり」を創作することになるだろう。

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窓はつなぐもの

何とかの窓や何とかの窓口のように「窓」という言葉は外界とのつながりを含意する。建築においては「窓」というと、光や風や熱を取り入れるためにあるものとされるが、設計時にはやはり「つながり」を強く意識する。

窓はどこにあり、それがどのぐらいの大きさかによって、「つながり」を自由にコントロールしている。

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例えば、リビングでテラスに面して窓を設けようとした時、その窓の幅が大きくて、高さも床から天井近くまであれば、窓を開け放して、リビングとテラスを、室内と屋外を1つのつながりとして考えようとする設計の意図が見られるし、大きさが小さい窓をいくつも並べていたら、プライバシーに配慮して、室内と屋外のつながりを制限しているのか、あるいは、外の景色を額縁のある絵のように室内で見せようとしているのかなとも、それもひとつのつながり方になる。

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窓をつながりとしてみていくと、空間と空間のつながり、そのつながりの基点は人で、そうすると、窓は人と人をつなげるために存在しているものだとわかる。

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精度が上がること

窓は面白い存在だなといつも思う。建築の仕事の場では窓とはいわずに「開口部」という。窓を開口部というとプロっぽい。「開口部」だから、開いている部分ということになり、建築の設計においては窓の機能以上のことを負わせる。

光を入れる、風の出し入れは窓の機能ですぐに思い付くことで、それ以外にも熱の交換、光も入れるだけでなく、光の演出も、これは結構重要だと思っており、設計を志したキッカケでもあり、その他にも開口部をどのようにつくるかによって、窓とは感じさせない、壁の一部として取り扱うこともできるし、その開口部の納まりも枠なしに、ガラスだけとか、そうすると、ガラスが無いように見せることができたり、開口部を見るとその設計者の技量がわかる。

今、窓は、開口部は、専門的にいうと、都内だと防火設備の規定があり、防火設備とは隣家に近いと火に強くしないといくけないという法律で決まっており、鉄製だと自作ができるが、アルミ製だと簡単にいうと自作ができない、でも世の中、アルミ製がほとんどであり、それはメーカーが既製品として安価につくりやすいから、ただ、設計者として設計と共につくりたい開口部があるのに、アルミ製では少数ロットではつくれないし、防火設備として認定するのは難しいし、鉄製のサッシでは高価だし。

建築を実務ではじめた頃、不思議だった、建築基準法ではアルミは鉄ではない、世の中の窓はほとんどがアルミ製なのに、無理矢理、建築基準法に合わせるためにアルミ製のために許認可を求めている、ならば、いっそのことアルミを鉄と同等に扱えばいいのに、利権が絡むのだろう。

そのようなことはどうでも良いが、設計者としては窓の、開口部の、創作を自由にしたい、設計者に全責任を負わせてもいいから、開口部を自由に自作したい。

ここにきて、面白いもので、鉄製で自由にサッシを自作できる機会を得ている。もし上手くいけば、今後つくる建築の精度が上がる、今一番ワクワクすることは、つくることの精度が上がること。

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設計のプロセスをもう少し大事に

人は普段、実際の空間と意識の中にある空間の2つを同時に重ね合わせて、目の前に広がる空間を感じでいる。意識の中にある空間とは、過去にどこかで経験している記憶の中の空間で、それを実際に見ている空間に重ね合わせ、自分用に空間を合成をして感じている。

だから、人は自分に都合よく空間を感じ取り、好き嫌いも合わせて、意識の中にある空間に先導される。昔、気持ちがいい体験をした場所と似ていたら自然と気持ちがほぐれて、嫌な体験をした所に似ていたら、その時の嫌な気持ちが蘇ってくる。

理性的に空間を感じるより先に、感情的に空間を判断してしまう。

でも、ならば簡単だろう、自分にとって居心地が良い空間をつくるのは。自分が自然と気持ちいいと思える空間を寄せ集めれば良い、それで少なくともハズレはない。

ところが、面白いもので、普通の人には、自分が自然と気持ちいいと思える空間がわからない、普段、そのように空間を感じようとすることが無いから。そうすると、何をするか、他人が気持ちいいと思う空間をネットや雑誌で拾い集めだす、あるいは、展示場やショールームへ行く、自分ではわからないから、気持ちいい空間の正解を求めて、挙げ句の果てに、他人の気持ち良さを自分の気持ち良さと錯覚しはじめる。それでは勘違いしたまま、自分が気持ちいい空間を知らぬまま、完成してしまう、こんなものかなと。

設計のプロセスをもう少し大事にするだけでいいのにとつい思ってしまう。

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サポートが設計者の役目

人は普段、実際の空間と意識の中にある空間の2つを同時に重ね合わせて、目の前に広がる空間を感じでいる。意識の中にある空間とは、過去にどこかで経験している記憶の中の空間で、それを実際に見ている空間に重ね合わせ、自分用に空間を合成をして感じている。

だから、同じ空間でも人によって感じ方が違う。どのように感じるかは自由なのだが、先入観や知識に感じ方を歪められてしまうこともある。他の人が良いというと、良く感じられるように、影響されてしまい、空間の感じ方など簡単に変わってしまう。

だから、知識や人の意見から入らないこと、簡単にお手軽にネットや雑誌で調べないこと、空間などそこら中に、それこそ今いる場所も空間なのだから、感じることぐらい簡単にできる。感じ方に良し悪しは無く、感じ方に正解は無い。ただし、その人特有の感じ方はあり、それは誰にでもあり、それに影響を与えるのが意識の中にある空間のみである。

意識の中にある空間は、ネットや雑誌で調べてもわからない、それをわかるためには、自分で断片を拾い集めるがごとく、空間を意識の中から引っ張り出してこなくてはならない、そのサポートをするのが設計者の役目である。

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辿り着けない居心地良い空間

人は普段、実際の空間と意識の中にある空間の2つを同時に重ね合わせて、目の前に広がる空間を感じでいる。意識の中にある空間とは、過去にどこかで経験している記憶の中の空間で、それを実際に見ている空間に重ね合わせ、自分用に空間を合成をして感じている。

だから、意識の中にある空間がわからないと、自分が欲している、気持ち良いと思う、居心地が良い空間に辿り着けない。

しかし、普通の人に、その意識の中にある空間がわかる人はいない。そもそも、そういうことを考えたことが無いから。

はじめて家を建てる人で熱心な人は情報収集をする。しかし、これらの情報は、その意識の中にある空間には触れてこない。当たり前である、情報というのは意識の外にある事柄で、誰でも扱えるものでないと価値が無いからで、だから、いくら情報を収集をして知識を得ても、例えば、高気密高断熱、何とかソーラー、エコなんとか、無垢の木の家、これからだと、抗菌、抗ウイルスの材料などを知ったところで、自分にとって居心地が良い空間を求めているならば、そもそも辿り着けない。

その意識の中にある空間をわかるには、そういうものが存在していて、それを設計のプロセスに活かさないと、自分にとっての居心地が良い空間にはならないと知っている人が必要なのだが、プロでも情報収集で得られる知識が全てだと考えている人がほとんどだから、自分にとって居心地が良い空間に辿り着ける人はほんの一握りとなる。

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人とつなぐ精神

人は普段、実際の空間と意識の中にある空間の2つを同時に重ね合わせて、目の前に広がる空間を感じでいる。

意識の中にある空間とは、過去にどこかで経験している記憶の中の空間で、例えば、子どもの頃に住んでいた家の部屋であったり、たまたま訪れた旅行先の宿であったり、日常的に利用する商業施設であったりなどするが、原風景と呼ばれるような強く意識に刻まれている記憶も含まれる。

子供の頃に遊んでいた公園を訪れたとしたら、実際に目の前に広がる公園に、子供の頃の記憶に残る公園を重ね合わせて見ている。それを意識せずに無意識にやっており、子供の頃の記憶だから人によって皆違うので、同じ公園を隣り同士で見ていたとしても、隣りの人とは違う公園空間を感じ取っていることになる。

このような、実際のものと意識の中にあるものの2つを同時に重ね合わせて感じ取ることは、空間だけでなく、全てのものについてもいえるかもしれない。

だから、意識の中にある空間であったり、ものであったり、それに付随する言葉も含めて、そこまで対象としてつくろうとする精神が人と空間、人とものをつなぐことになると思う。

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